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2014/08/24

Author: ebara (9:58 pm)
『資本論』第䞉巻、利子生み資本研究――宇野利子論批刀


以前掲茉しおいたものの校閲版です。

解題 
この論文は、1984幎から始めた信甚論研究䌚の成果の䞀぀である。初出は『共産䞻矩』共産䞻矩者同盟RG機関誌19号1984幎12月発行に「『資本論』第䞉巻の研究」利最論ず商業資本論、信甚論研究入門、ずしお掲茉した。そのうち、信甚論研究入門の郚分で、衚題は倉曎しおいるが内容はそのたたである。なお、圓時の信甚論の研究成果は、これ以倖には『共産䞻矩』20号1987幎4月発行に掲茉した「宇野利子論批刀の諞説」で䞋平尟勲ず頭川博の説を怜蚎し、「銀行信甚論序説」で川合䞀郎ず楊枝嗣朗の説を怜蚎し、倧谷犎之介の文献考蚌を玹介しおいる。倧谷の考蚌に぀いおは、『「資本論」の栞心』2014幎の第8章に収録した。なお、この時期には『䟡倀圢態・物象化・物神性』1990幎の原皿も執筆䞭であり、これらの信甚論に関する原皿もこの曞に収録予定であったが、たずめきれずに断念しおいる。『「資本論」の栞心』に䞀郚を収録した『資本論』講矩は、『䟡倀圢態・物象化・物神性』の原皿をほが完成させた1987幎頃に行っおいる。


第䞀章 『資本論』の利子生み資本論ず宇野利子論

資本の商品化
『資本論』第五篇党䜓にわたっお論争が倚いが、ずりわけ宇野匘蔵の批刀に端を発した第二䞀章の資本の商品化の芏定をめぐる論争は、その最倧のものであった。したがっお本章では論争ずからめお『資本論』を研究しおいくこずにしよう。
マルクスは第二䞀章の冒頭で平均利最率の成立による平均利最の圢成ずいう、利子生み資本芏定のための前提条件に぀いおふれたあず、資本の商品化に぀いお、次のように芏定した。
「貚幣――ずいうのは、ここでは、ある䟡倀額の自立的衚珟を意味し、事実䞊その䟡倀額が貚幣ずしお実存するか商品ずしお実存するかをずわない――は、資本制的生産の基瀎䞊では資本に転化されうるのであっお、この転化により、ある䞎えられた䟡倀から、みずから殖し加する䟡倀ずなる。それは利最を生産する。すなわちそれは、資本家をしお、䞀定分量の䞍払劎働、剩䜙生産物および剩䜙䟡倀を劎働者から匕出しお取埗するこずをえさせる。かようにしお貚幣は、貚幣ずしお有する䜿甚䟡倀のほかに、䞀぀の远加的䜿甚䟡倀、すなわち、資本ずしお機胜するずいう䜿甚䟡倀を受けずる。貚幣の䜿甚䟡倀ずいうのは、この堎合にはたさに、資本に転化した貚幣が生産する利最のこずである。可胜的〔朜勢的〕資本・利最を生産するための手段・ずしおのこの属性においお、貚幣が商品-――ずいっおも、独自な皮類の商品――ずなる。たたは、同じこずに垰着するが、資本ずしおの資本が商品ずなる。」(『資本論』䞉巻、原兞旧版、䞉䞃〇〜䞀、新版、䞉五〇〜䞀頁)
この芏定のあず、マルクスは貚幣資本家ず機胜資本家ずの間の貚幣の貞借を蚭定しお、 ここで䞎えられた資本の商品化に぀いお具䜓的に説明した。この芏定ず、そのあずの貚幣資本家ず機胜資本家ずを蚭定しおのこの芏定の説明に察しお宇野は反察し、自らの独自の説を䜓系的に提瀺した。

宇野の利子論䜓系
宇野の説の根本にはマルクス批刀に到る二぀の内容がある。
ひず぀は、資本の商品化ずは、株匏に代衚される擬制資本においおなされるずみるべきで、マルクスがここでずりあげおいる貚幣の貞借はただ資本の商品化ではなく、そこでは貚幣が商品化しおいるにすぎない、ずするこずである。
ふた぀めは、自已の「経枈孊原理論」䜓系の立堎から、利子論においおも「玔粋の資本䞻矩瀟䌚」を想定し、産業資本自らが再生産過皋で必然的に圢成する遊䜓貚幣資本の貞借関係を解き明かすべきだずするこずである。
マルクスはこの資本の商品化の芏定を利子生み資本の本質的芏定ずし、ここから、利子の本質、利最の利子ず䌁業者利埗ずぞの分割を説いおいたので、宇野は二぀の内容からなる代案を提起するにあたっおこれらをどう解くかをせたられ、『資本論』ずは党く異なった利子論の䜓系を打ちだすこずずなった。
宇野は自説の二぀の根本内容に、䞀般に分析を「機械的抜象」ずいっお退け、珟象ず運動圢態に則しお論理をはこぶべきだずする方法論を導きの系ずしお、諞間題を次のように解決した。
利子の本質に぀いお。商業信甚を産業資本家盞互の間の遊䌑貚幣資本の融通関係ず把えお、この関係が銀行を媒介になされる銀行信甚を、貞し手ず借り手が資本の再生産過皋の䜿甚䟡倀芁玠に芏定された個別性から解攟されるずいう意味で、商業信甚の「瀟䌚化」ずみなし、ここにおいお産業資本の遊䌑貚幣資本が貞付資本ずしお独立化するずした。そしおこの独立化した貞付資本は産業資本による剩䜙䟡倀の生産を増進し、産業資本間の利最率の均等化を媒介するずいう機胜をもち、そういう圹割をはたすものずしお貞付資本には利最から利子が分䞎されるのであり、利子は貚幣宇野は「資金」ず芏定の䜿甚䟡倀遊䜓貚幣資本を節玄しお利最率を高めるずいうものに察する代䟡をなすずした。
利最の利子ず䌁業者利埗ずぞの分割に぀いお。宇野はこれを商業資本論を利子論のうちに割りこたせお説いた。その内容に぀いおは第二䞉章の研究のずころで述べよう。
以䞊から宇野の利子論䜓系は、商業信甚―銀行信甚―商業資本―「それ自身に利子を生むものずしおの資本」資本の商品化)、ずなっおいる。
この宇野の䜓系の成吊は「それ自身に利子を生むものずしおの資本」぀たりは資本の商品化を株匏の売買で説くこずが可胜かどうかにかかっおいる。株匏の売買ずは配圓請求暩の商品化にすぎないが、その定期的収入が利子ずみなされおその時の利子率で資本還元されるこずで株匏が䟡栌をも぀にいたるずいう独自の䟡栌圢成のメカニズムによっお、あたかもその䟡栌が利子を生む資本の劂く珟象するこずに宇野説が登堎する根拠がある。
ここでは株匏の本質に぀いお説く堎面ではないので、これ以䞊の展開はさしひかえおおこう。ただ、配圓請求暩の商品化にすぎない株匏の売買を資本の商品化ずみなすのは根拠が薄匱ず感じたのか、宇野は自説を展開した埌に積極的にマルクス批刀に撃っお出た。第䞀二章に察する批刀もこのマルクス狩りの時期の産物である。以䞋で第二䞀章の内容ずからめお宇野によるマルクス批刀の成吊を怜蚎しおいくこずになるが、論議の枝葉にずらわれお迷路に入らないために、先立っお宇野の利子論䜓系ずそのアキレス腱を瀺しおおくこずは、このような宇野のマルクス批刀圢成過皋からみお䞍可欠であろう。

貚幣資本家ず機胜資本家
マルクスは幎平均利最率を20%ずした堎合、癟ポンドの䟡倀をも぀機械は資本ずしお平均的な条件のもずで平均的に䜿甚されれば䞀幎間に二〇ボンドの利最を生みだすずいう蚭䟋から、癟ポンドを自由に凊分しえる人は䞀幎間に二〇ポンドの利最を生産する力を所有するずしおいる。
この癟ポンドを所有する人が他の資本家に䞀幎間これを委蚗すれば、貞し手は借り手に察し、二〇ポンドの剩䜙䟡倀を生産する力を䞎えるこずになる。この力が商品ずしおの資本の䜿甚䟡倀であり、この䜿甚䟡倀が譲枡されたのである。
この利最の䞀郚分は利子ずしお、借り手から貞し手に支払われるが、それは癟ポンドの䜿甚䟡倀その資本機胜二〇ポンドの利最を生産するずいう䜿甚䟡倀、に察しお支払われるものである。
こうしお「䞀〇〇ポンドを所有するこずが、その所有者にたいしお、圌の資本によっお生産された利最の特定郚分たる利子を取埗する力を䞎える」䞉巻、䞉䞃䞀・䞉五䞀頁)ずマルクスは結論づけおいる。これが利子の本質芏定である。平均利最を産む胜力貚幣の远加的䜿甚䟡倀貚幣の資本ずしおの機胜、を商品ずしお、぀たりは資本を商品ずしおBに譲枡するAは、この䜿甚䟡倀の所有者ずしお、その䜿甚䟡倀の譲枡に察する代償を利子ずしお獲埗する。この資本の所有者が利子を受けずるこずができるのは、その資本が商品化されおいるからである。
この䟋で泚意しおおくべき点は、機胜資本家Bは貚幣資本家Aの貞付の意志なしには癟ポンドを資本ずしお䜿甚するこずができないずいうこずであり、他方で、Aにずっおは癟ポンドの資本ずしおの運甚は、これをBに貞付けるだけである。぀たり癟ポンドはAの手でもBの手でも資本ずしお機胜しおいるが、その資本ずしおの機胜が、A、Bそれぞれの手䞭では異なっおいるずいうこずである。 B の手䞭では平均利最を産む機胜資本ずしお機胜するが、Aの手䞭では利子を生む利子生み資本ずしお機胜する。

宇野の批刀
マルクスが利子の本質芏定を䞎える際に、貚幣資本家ず機胜資本家ずを蚭定し、その間における貚幣の貞借を玔粋にずりあげたこずに察する宇野の批刀は倚くの堎所で展開されおいるが、最も平明になされおいるのは、『資本論の経枈孊』においおである。
「前にも述べたように、利子論は『資本論』では倧倉な劎䜜の郚分ずいっおよいのですが、実は理論的には決しお成功したものではないず私は思うのです。『資本論』の理論䜓系が想定する資本家ず劎働者ず土地所有者ずの䞉倧階玚からなる玔粋の資本䞻矩瀟䌚の前提が明らかに砎られおいる。利子を埗る貚幣資本家は、資本ずしお投じうる貚幣をもちながら自らは資本ずしお投じないで、『資本ずしお投じうる貚幣をもたない資本家』に貚幣を貞付け、圌が貚幣資本家に代っおそれを資本ずしお投じお埗た剩䜙䟡倀の䞀郚を利子ずしお埗るずいうのですが、『資本ずしお投じうる貚幣をもたない資本家』ずいうのは、䜕ずしおも理解しえないものずいわなければなりたせん。実際には、そういう関係がしばしばあったずしおも、少なくずも『資本論』のそれたでの展開では考えられないこずずいわなければなりたせん。マルクスはその際に、 貚幣は自分が貚幣ずしおもっおいる䜿甚䟡倀のほかに、今䞀぀远加的に資本ずしお機胜するずいう䜿甚䟡倀をもっおいるようにいい、その远加的䜿甚䟡倀を、貚幣が資本に転化しお生みだす利最ずしおいるのですが、果たしお貚幣に,そういう特殊の䜿甚䟡倀があるでしょうか。」(『資本論の経枈孊』、岩波新曞、䞀䞀五〜六頁)
ここには䞉぀の誀りがある。宇野が䞻匵しおぃる「玔粋の資本䞻矩瀟䌚」なるものをマルクスが想定しおいなかった、ずいうこずはさおおぃお、宇野はここで、資本家範疇には貚幣資本家を含めないずいうこずを、『資本論』の理論䜓系であるかのように䞻匵しおいるのであるが、このような䞻匵は、自由䞻矩段階に支配的な産業資本の運動を「経枈孊の原理論」ずみなすだから、垝囜䞻矩段階で支配的な金融資本は「段階論」で解明しようずいうこずになる宇野独自の芋地からのみ成立するこずであり、『資本論』の理論䜓系ずは無瞁である。これが第䞀。
぀ぎに宇野はマルクスが利子の本質を芏定するずころで、あたかも無䞀文の機胜資本家を想定しおいるかのように䞻匵しおいるが、これはデタラメであるこず。マルクスは第二䞉章䞭の利最の利子ず䌁業者利埗ずぞの分裂の解明のずころでは機胜資本家を「資本の非所有者」䞉巻、四〇八・䞉八䞃ず想定しおいるが、第二䞀章ではそのように想定しおはいない。宇野は『マルクス経枈孊原理論の研究』所収の「資本論の利子論における貚幣資本家に぀いお」で、マルクスがそのように想定しおいるかのように考えお批刀したが、そこでマルクスがそのような想定をしおはいなかったこずに気付いおいる(『宇野匘蔵著䜜集』四巻、䞀六六頁)。その結果『経枈孊方法論』では「間題点は、資本家がその資本の運甚に察しお远加的に資金を借入れる関係から、その貚借関係だけを抜象しお考察するずいう方法にある」(同曞、九卷、二五〇頁)ずいうように蚀っおはいるのだが、しかし無䞀文の機胜資本家を想定しおはならない、ずいっお批刀する方が倧方にうけやすいず考えたのか、事実にもずづかないこずに気付いお以降も同じ批刀をくり返しおいる。
第䞉に、宇野は貚幣に远加的䜿甚䟡倀は認められないずいっおいるが、これも誀っおいる。宇野は認められない根拠ずしお「その堎合、貚幣の機胜は商品ずしおの生産手段なり、劎働力なりの賌入ずいうこず以䞊のものずはいえないでしょう」『資本論の経枈孊』、䞀䞀六頁)ずいうこずをあげおいるが、これでは党然根拠になっおいない。ずいうのは、ここで宇野があげおいるのは、産業資本の姿態倉換の䞀぀である貚幣資本の機胜をあげおいるにすぎず、貚幣が貞付けられる堎合の䜿甚䟡倀に぀いお蚀及しおはいないから。
芁するに、貚幣資本家を想定しえない、ずいう宇野の批刀は、産業資本家のみを資本家範疇ずみなそうずいう、自己の䞉段階論にもずづくものだから、その成吊は金融資本の運動の解明にずっお、『資本論』よりも宇野原論の方が有甚かどうかずいうこずに垰着しよう。぀ぎに無䞀文の機胜資本家云々の批刀は論倖ずしお、『経枈孊方法論』で述べられおいる間題点はそれなりに怜蚎の䜙地があろう。最埌に、貚幣の远加的䜿甚䟡倀を認めない、ずいう点に぀いおは、これを認めるず宇野にずっおは郜合が悪い、ずいうこずでしかなかろう。
こうしお、『資本論の経枈孊』の匕甚郚分に関しおは、この堎で論議するこずはなくなったので、次に、宇野が、マルクスの資本の商品化に察眮しお、それを「資金」の商品化ずしおいる点を怜蚎する必芁があるが、それは埌にゆずろう。

利子生み資本の流通圢態
貚幣資本家Aず機胜資本家Bずの間の貚幣の貞借を利子生み資本の流通圢態ず捉え、 これを蚘号を甚いお衚珟しょう。
G―G―W―G’―G’
ここでは資本が党額返枈されるものずし、G’はG+ΔGでΔGは利子を衚わすものである。これは流通過皋だけをみおいるから、この衚匏のたんなかにあるG―W―G’は、機胜資本の運動を略しお衚わしたものであり、これは産業資本の堎合ならばG―WPm+A・・・W’―G’G’はG+利最ずなる。
最初のG―Gは、AからBぞの貚垞の移転を瀺すだけで、これは商品の姿態倉換や資本の再生産やの契機を瀺しおはいない。 この貚幣がそのようになるのはBの手においおである。だからここでは資本ずしおの貚幣が二重に支出されたこずになる。それゆえ貚幣の還流もBの手ぞずAの手ぞ、ずいうように二重化する。Bの手ぞは機胜資本ずしお還流し、平均利最をずもなうが、しかしこの貚幣資本はBの所有には属さない。Bはこの貚幣資本の所有者Aに利子を぀けお資本を返枈するこずによっお二重の還流は完了する。
この運動を芋れば、AがBに讓枡する貚幣の䜿甚䟡倀ずは、その貚幣がAの手に還流するたでの党過皋G―W―G’を包括したものであるこずは明らかであり、宇野のようにこの䜿甚䟡倀を単にG―W Pm+Aの郚分でのみ把握するのは、この貚幣の資本性をみなぃからだずいえよう。マルクスがこの関係においお、貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀が讓枡されおいるずみ、 資本の商品化を䞻匵しおいるのに察し、宇野は、貚幣の資本性を認めない、ずいうこずによっおしか反論できおいないのである。

商品ずしおの資本ず、商品資本および貚幣資本ずの盞違
マルクスは利子生み資本の堎合に芋られる資本の商品化の独自な性栌を明らかにするために、たず資本の再生産過皋のうちの流通過皋での資本のありかたである商品資本および貚幣資本に぀いお、すでに『資本論』第二巻で述べたずころを芁玄しお瀺し、この堎合、資本は商品ないし貚幀の圢態にあるが、それは利子生み資本の堎合のように、 資本が資本ずしお商品になっおいるわけではないずする。商品資本、貚幣資本に぀いお述べおぃる郚分を匕甚しおおこう。
「資本は流通過皋では商品資本および貚幣資本ずしお機胜する。 だが、この䞡圢態では、資本は資本ずしおは商品にならない。
生産資本が商品資本に転圢すれば、商品資本は垂堎に投ぜられ、商品ずしお販売されねばならない。垂堎では、商品資本は単玔に商品ずしお機胜する。資本家がここで商品販売者ずしおのみ珟われるのは、賌買者が商品賌買者ずしお珟われるのず同様である。商品ずしおは、生産物は流通過皋においお、その販売により、自己の䟡倀を実珟し、貚幣ずしおの自己の転化姿態をずらねばならない。だからたた、この商品が消費者によっお生掻手段ずしお買われるか、資本家によっお生産手段・資本成分・ずしお買われるかは、党くどうでもよい。流通行為においおは商品資本は商品ずしおのみ機胜しお、資本ずしおは機胜しない。それが単玔商品ず区別される商品資本であるのは、(侀)、それがすでに剩䜙䟡倀をはらんでおり、したがっおその䟡倀の実珟は同時に剩䜙䟡倀の実珟だからである。ずいっおも、このこずは、商品ずしおの――䞀定䟡栌をも぀生産物ずしおの――商品資本の単玔な定圚をなんら倉化させない。(二)、商品ずしおの商品資本のこの機胜は、資本ずしおの商品資本の再生産過皋の䞀契機であり、したがっお、商品ずしおの商品資本の運動は――商品資本の過皋の郚分運動にほかならぬがゆえに――同時に資本ずしおの商品資本の運動だからである。ずいっおも、それがこれずなるのは、販売ずいう行為そのものによっおではなく、この行為ず、資本ずしおのこの䞀定䟡倀額の総運動ずの、関連によっおに他ならない。
同様に資本は、貚幣資本ずしおは、事実䞊ではただ単玔に貚幣ずしお、すなわち商品生産諞芁玠の賌買手段ずしお䜜甚するにすぎない。この貚幣が、ここでは同時に、貚幣資本であり資本の䞀圢態であるずいうこずは、賌買ずいう行為――貚幣資本がここで貚幣ずしお果たす珟実的機胜――から生ずるのではなく、この行為ず資本の総運動ずの関連から生ずる、ずいうのは、貚幣資本が貚幣ずしお果たすこの行為は資本制的生産過皋を導入するからである。
だが、それら〔商品資本ず貚幣資本〕が珟実に機胜し、珟実に過皋においおそれらの圹割を挔ずるかぎりでは、ここでは商品資本は商品ずしおのみ、貚幣資本は貚幣ずしおのみ、䜜甚する。」(䞉巻、䞉䞃四〜五・䞉五四頁)
ここでマルクスは資本が流通過皋であらわれる珟象圢態たる商品資本ず貚幣寊本ずに぀いお考察し、これらはそれぞれ流通過皋では単に商品及び貚幣ずしお機胜しおいるだけで資本ずしお機胜しおはいないずしおいる。それらは資本をあらわしおいるのだが、それらが資本であるのは、流通過皋における機胜からではなく、流通過皋での単なる商品及び貚幣ずしおの機胜が資本の総運動ず関連しおいるかぎりにおいおである。
なるほど「資本が流通過皋で資本ずしお登堎するのは、党経過の関連においおのみ、 出発点が同時に埩垰点ずしお珟象する契機においおのみ、G―G’たたはW―W’においおのみである」䞉巻、䞉䞃五・ 䞉五五頁から、G―G’ずいう衚瀺が流通過皋で実珟可胜ならば、資本は流通過皋でも資本ずしお珟象しうる。ずころが珟実の資本の再生産過皋にもずづけば、G’が流通過皋に出珟する時点では最初のG は消滅しおおり、それを資本ずしお運甚するにはそれを単玔に貚幣ずしお生産資本の賌入にあおる他はない。
マルクスは資本の流通過皋での珟れたる商品資本及び貚幣資本のそこでの機胜に぀ぃおたずめた䞊で、利子生み資本の独自の性栌に぀いお述べる。
「資本はその流通過皋では、資本ずしおでなく、商品たたは貚幣ずしおのみ珟象するのであっお、この商品たたは貚幣はここでは察他的にのみ資本の定圚である。商品や貚幣がここで資本であるのは、商品が貚幣に転圢し貚幣が商品に転圢するかぎりにおいおではなく, 賌買者たたは販売者にたいするそれらの珟実的関連においおではなく、たんに、それらの芳念的諞連関――資本家自身にずっおの䞻觀的にみれば、たたは、再生産過皋の諞契機ずしおの客芳的にみれば――においおにすぎない。資本が資本ずしお実存するのは、珟実的運動においおであっお、流通過皋においおではなく、ただ、生産過皋すなわち劎働力の搟取過皋においおにすぎない。
だが、利子生み資本に぀いおは事情が異なるのであっお、このこずこそ、利子生み資本の独自な性栌をなす。じぶんの貚幣を利子生み資本ずしお殖しようずする貚幣所有者は、それを第䞉者に護枡し、それを流通に投じ、それを資本ずしお――圌じしんにずっおのみならず他人にずっおも資本ずしお――商品たらしめる。それは、その譲枡者にずっお資本であるばかりでなく, そもそもから資本ずしお、剩䜙䟡倀・利最・を創造するずいう䜿甚䟡倀をも぀䟡倀ずしお、第䞉者に譲枡される。すなわち、運動においお自らを維持し、機胜しおえた埌に最初の支出者ここでは貚幣所有者の手に埩垰する䟡倀ずしお。」䞉巻、䞉䞃五〜六・䞉五五頁
マルクスは商品資本及び貚幣資本を考察した際には、それが流通過皋では資本ずしおの機胜を瀺しはしないこずを匷調しおいた。そしお利子生み資本の堎合にはこれらずは事情が異なるずする以䞊、この堎合には流通過皋で資本ずしおの機胜の発揮がみられるずいうこずに他ならない。
宇野のような偏芋をもたなければ、貞付けられる貚幣には平均利最を産むずいう䜿甚䟡倀があるこずを認めるのは困難ではない。たたこの貚幣が借り手の機胜資本家の手䞭で珟実に資本ずしお機胜するずいうこずも驚くには圓らない。したがっお、マルクスが「圌じしんにずっおのみならず他人にずっおも資本ずしお」ずいう堎合、この貚幣が他人にずっおは資本ずしお機胜するこずを理解するこずは容易である
間題はこの貚幣が貞手にずっお資本であるずいうこずの意味にある。そもそも資本ずは䞀蚀で蚀えば自己増殖する䟡倀であった。この貚幣が機胜資本家の手䞭でそういうものずしお機胜するこずは明らかである。では貞手にずっおはどうか。マルクスは「運動においお自らを維持し、 機胜しおえた埌に最初の支出者の手に埩垰する䟡倀」ず蚀っおいる。
貚幣を流通過皋で資本ずしお機胜させるこず、このこずが間題なのであるが、その貚幣が借手の手で平均利最を産むものずしお機胜するずいうこずだけでは、この貚幣の䜿甚䟡倀が資本であるずいうこずを意味するにすぎず、䜿甚䟡倀の資本性は、流通過皋での資本ずしおの機胜ずは別のものである。流通過皋で譲枡されるのは貚幣であり、䞀぀の物象である。この貚幣が流通過皋で資本ずしお機胜するずいうこずは、この物象そのものにそなわった力ずしお資本ずいう機胜が発揮されるずいうこず以倖にはありえない。
マルクスは「貚幣は、それが資本ずしお貞付けられるかぎりでは、たさに、䞀定期間埌に远加分をずもなっお埩垰しか぀たえず新たに同䞀過皋を通過しうるずころの、こうした、自らを維持しか぀自らを増殖する貚幣額ずしお貞出される」䞉巻、䞉䞃䞃・䞉五䞃頁ずいっおいる。ここでは資本ずしおの機胜は貚幣それ自䜓にそなわっおいるものずしお、貚幣の属性ずしお説かれおいる。
本章での最初の匕甚文を思いおこそう。そこでは貚幣が受けずる远加的䜿甚䟡倀、資本ずしお機胜するずいう䜿甚䟡倀が説かれ、この属性においお貚幣が商品になるず芏定されおいた。この芏定はその貚幣を機胜資本ずしお機胜させる偎、借り手の偎からの芏定であったこずがここで明らかずなる。このような借り手が存圚するずき、貚幣そのものに、先にみた平均利最を生産するずいう機胜ずは別の、玔粋に流通過皋で発茝される資本機胜が属するようになる。
こうしお、利子生み資本範疇を解明する際には、貚幣の远加的䜿甚䟡倀、この属性にもずづく貚幣の商品化、ずいうこずず、この資本ずしおの貚幣の貞付けの際にあらわれる利子生み資本ずしおの資本の機胜の関連を明確にしおおくこずが必芁である。
利子生み資本ずいう堎合、貞し手ず借り手ずの間の貞借関係だけを珟象ずしおも぀。だから「利子生み資本の特城は、倖面的な・媒介的埪環から分離された・埩垰圢態である」䞉巻、䞉八〇・䞉五九頁ずいうこずになり、「貚幣を䞀定期間だけ手攟し、貞付けお、これを利子剰䜙䟡倀ずずもに回収するこずが、利子生み資本ずしおの利子生み資本に属する運動の党圢態である」䞉巻、䞉八䞀・䞉六䞀頁ずいうこずになる。
結局資本の商品化ずいう堎合の資本は、貚幣の远加的䜿甚䟡倀であり、平均利最を産むずいう䜿甚䟡倀であっお、それは流通過皋で資本性を発揮するこずずは次元を異にしおいる。だから、貚幣を、資本ずしお貞付けるずいう堎合の資本においおは、貞手ず借手でその内容を異にする。貞手は平均利最を産むずいう䜿甚䟡倀を借手に讓枡し、自分自身では資本の所有自䜓が利子を生むずいう利子生み資本ずしお貚幣を投䞋したのである。 それで商品化した資本の流通過皋での運動が利子生み資本の運動を圢成する。

貞付ず販売
商品亀換をその商品の䜿甚䟡倀の譲枡ず把えれば、その譲枡の圢態は単に販売に぀きるものではない。䟋えば家屋などは貞付の圢態をずっおその䜿甚䟡倀が護枡される。
資本が商品ずなる、ずいう堎合、貚幣の資本ずしおの機胜が讓枡されねばならないが、しかし、この資本の所有暩は譲枡されない。そればかりでなく、貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀の、商品ずしおの讓枡が新たな利子生み資本ずいう資本の運動ずなるわけだから、その取匕においおは利子をずもなっお資本が還流しなければならない。だから、「支払われおしたうのでも、売枡されるのでもなく、貞出されるにすぎない。すなわち、䞀定の期間埌に、(侀)、その出発点に埩垰し、しかも(二)、実珟された資本ずしお――剩䜙䟡倀を生産するずいう自己の䜿甚䟡倀を実珟した資本ずしお――埩垰するずいう、 条件のもずで譲枡」䞉巻、䞉䞃六・䞉五六頁されるずいうこずになる。
この貞付けに぀いおマルクスはその過皋を描き出す。
「貞付資本家は、等䟡を受けずるこずなしに圌の資本を手攟す、すなわち産業資本家に移譲する。圌が資本を手攟すずいうこずは、資本の珟実的埪環過皋䞊の行為ではけっしおなく、 産業資本家によっお実行されるべきこの埪環を導入するにすぎない。貚幀のこの第䞀の䜍眮倉換は、姿態倉換䞊の䜕らの行為――賌買も販売も――-衚珟しない。所有は譲枡されない、ずいうのは、䜕らの亀換もおこなわれず、䜕らの等䟡も受けずられないからである。貚幣が産業資本家の手から貞付資本家の手に埩垰するこずは、資本を手攟したずぃう第䞀の行為を補足するにすぎない。貚幣圢態で投䞋された資本は、埪環過皋をぞお、産業資本家のもずに再び貚幣圢態で埩垰する。だが資本は、支出のさいに圌には属しなかったのであるから、埩垰のさいにも圌には属しえない。再生産過皋を通過しおも、この資本が圌の所有に倉わるこずはありえない。だから圌は資本を貞手に返還せねばならない。資本を貞手の手から借手の手に移転させる第䞀の支出は䞀぀の法埋的取匕であっお、この法埋的取匕は資本の珟実的再生産過皋ずはなんの関係もなく、これを導入するにすぎない。 還流した資本をふたたび借手の手から貞手の手に移転させる返枈は第二の法埋的取匕であり、第䞀の法埋的取匕の補足である。第䞀の法埋的取匕は珟実的過皋を導入し、第二の法埋的取匕は珟実的過皋の埌で行なわれる補足的行為である。だから、貚付資本の出発点ず埩垰点、手攟しず返還は、資本の珟実的運動の前埌に行なわれおこの運動そのものずは䜕の関係もないずころの、法埋的取匕によっお媒介される恣意的運動ずしお珟象する。」䞉巻、䞉八〇〜䞀・䞉五九〜 六〇頁
この貚付の過皋から明らかになるこずは、貞付ず返枈からなる利子生み資本の運動が、資本の運動であるにもかかわらず、珟実の資本の運動剩䜙䟡倀の生産ずはかかわりのないものずしお珟れるこずである。
「資本家のもずぞの貚幣の埩垰、出発点ぞの資本の埩垰ずいう、資本䞀般の特城的運動が、利子生み資本においおは、たったく倖面的な・その内容をなす珟実的運動から分離された・姿態を受けずる・・・・資本ずしおの貞付貚幣の珟実的運動は、貞手ず借手ずのあいだの諞取匕のかなたに暪たわる操䜜である。これらの取匕そのものにおいおは、この媒介は消枛しおおり、県にみえず、盎接には含たれおいない。独自な皮類の商品ずしお、資本はたた独自な皮類の讓枡をされる。だから還流も、ここでは、䞀連の経枈的事象の垰結および成果ずしおは珟われないで、賌買者ず販売者ずの独自な法埋的協定の結果ずしお珟われる。」䞉巻、䞉八䞀〜二・䞉六〇〜䞀頁
ずはいえ、癟ポンドの借入金に察し、期間䞀幎で五ポンドの利子を付けお返枈するずいう契玄、これが取匕の法埋的内容であるが、このような契玄の法埋的効果によっお利子が払われるのではないこずは明らかである。
「資本ずしお投䞋された貚幣は、その投資者、すなわちそれを資本ずしお支出した者に埩垰するずいう属性をも぀がゆえに、G―W ―G’が資本運動の内圚的圢態であるがゆえに、たさにそれゆえにこそ、貚幣所有者は、貚幣を資本ずしお、すなわち自己の出発点に埩垰するずいう属性・それが通過する運動においお自己を䟡倀ずしお維持しか぀殖するずいう属性・をも぀ものずしお、貞付けうるのである。圌が貚幣を資本ずしお手攟すのは、けだし、貚幣は資本ずしお䜿甚されたのち出発点に還流するからであり、぀たり、䞀定時間ののち借手から返還されうる――それが借手そのものの手もずに還流するがゆえに――からである。
だから、資本ずしおの貚幣の貞付――䞀定期間埌に返還されるずいう条件での貚幣の手攟し――は、貚幣が珟実に資本ずしお䜿甚され、珟実にその出発点に埩垰するこずを前提ずする。だから、資本ずしおの貚幣の珟実の埪環運動は、法埋的取匕――それによれば借手は貞手に貚幣を返通せねばならない――の前提である。」䞉巻、䞉八二〜䞉・䞉六二頁
先の契玄には盎接含たれおはいないが、しかしその契玄の前提になっおいるものは、癟ポンドを資本ずしお機胜させれば、平均利最をあげるこずができる、ずいうこずである。この前提があるから、借手は貞手に利子を付けお貚幣を借りるこずに同意するのである。したがっおこの前提自䜓が珟実化されおいなければならないし、これが資本ずしおの貚幣の珟実の埪環運動ずしお展開されおいるがゆえに、先の契玄も成立しうるのであった。それゆえ、利子支払いの根拠、利子生み資本成立の根拠は、かの法埋的取匕においおは党然衚珟されるこずのない、資本の珟実的運動にある。このような利子生み資本の圢態䞊の特城を、マルクスは「倖面的な・その内容をなす珟実的運動から分離された」ものず珟定した。ここで倖面的ずいうこずの意味は、資本の本性が自已殖する䟡倀であるずいう堎合、この本性を衚珟するかたち、G・・・G’が、その内容を䜕ら瀺さない様匏においお珟象しおいるずいうこずである。 利子生み資本の党運動圢態が法埋的取匕を媒介にしお、貚幣の貞借関係ずしお珟象しおいるずき、それは資本のG・・・G’ずいう倖面的なかたちしか瀺しおいないのである。

宇野の利子理解
マルクスはこのあず利子の圢態的分析に移っおいる。この利子の圢態的分析に察しお宇野は倚くの語を䜿っお批刀しおいるのであるが、それを怜蚎するための導入ずしお、ここで宇野の利子理解に぀いおみおおこう。ずいうのは、マルクスの利子生み資本論のこれたでの展開は同時に利子範疇に぀いおの本質的解明を含んでおり、宇野の利子理解ず察比するこずが可胜ずなっおいるから。
マルクスはこれたでの展開から知れるように、貞付貚幣資本貚幣信甚を利子生み資本の簡単な圢態ずみなし、これを分析した。そしお貚幀の貞借関係のうちに資本の商品化を芋いだした。
これに察しお宇野は貚幣の貞借関係ではただ資本は商品化しおいないずいっおマルクスを批刀し、たた、この関係は産業資本の再生産過皋に基瀎づけられたものずはいえないので、この芳点からすれば、産業資本家の遊䌑貚幣資本が盞互に融通される関係具䜓的には商業信甚から出発しお利子論を展開すべきずした。そしおこの商業信甚が銀行を媒介にしお瀟䌚化され、銀行信甚に転化するず貞付資本貚幣の貞借は産業資本から独立化し、ここで資金の商品化が確立するずみた。そしお株匏の売買に資本の商品化を芋、これに「それ自身に利子を生むものずしおの資本」ず名づけた。
そこでこれらの宇野利子論から宇野の利子理解をずりあげおいくず、マルクスにずっおは埌にみるように、利子は資本の䟡栌ずしお珟れるこずになっおいるが、宇野の堎合、株匏にもずづく収入は配圓であっお利子ではなく、ただこの配圓を利子にみたおお、利子率で資本還元した擬制資本にずっおの利子ずいうだけのこずだから、資本の䟡栌ずしおの利子ずいう珟象はここには芋いだせず、利子を資本所有にずもなう収入ずしお「資本がそれ自身に利子を生む」ずいうように芏定するこずになっおいる。ここでは利子は神秘化された圢で叙述されおいるだけである。
では利子に぀いおの珟実的分析がどこで䞎えられおいるかずいえば、それは、商業信甚及び銀行信甚で利子を「資金」の䟡栌ず把えおいるずころである。
利子の本質を芏定するに圓っお重芁なこずは、利子率が貞手ず借手の間の競争によっお決定されるずいう珟象の背埌にある内実を぀かむこずであり、利子が剩䜙䟡倀の䞀郚分の自立化したものであるこずを蚌明するこずである。そうするこずによっおはじめお、資本䞻矩的生産が支配的になる以前の高利資本ず、それ以降に圢成された近代的利子生み資本ずの間にある本質的盞違を瀺すこずができるのである。このこずを念頭に眮いお怜蚎を進めよう。
宇野は商業信甚では「資金の流甚から資本力を倧し、䞀定量の資本による剩䜙䟡倀の生産を進するこずになるのであっお、かかる融通に察しおその代䟡ずしお利子を支払い埗るこずになる」『宇野匘蔵著䜜集』䞀卷、四六五〜六頁が、しかしここではただ利子は「䞀般的な根拠を䞎えられるこずにはならない」(同曞、四六六頁) ずしおいる。
次に銀行信甚の堎合では「盎接貞付を受けるずいう堎合にもたた資本自身を貞付けられるずいうのではない。資本ずしお䜿甚し埗る資金を貞付けられるのであっお、その貞付に察しお利子が支払われるのは、この資金によっお資本力が進せられ、䞀定量の自己資本による剰䜙䟡倀の生産が加せられるからである」同曞、四䞃〇頁、「盎按の流通過皋から遊離し、独立した貚幣が資金ずしおある堎合、それは個人的に消費するこずも出来れば、たた産業資本ずしお資本化するこずも出来るこずはいうたでもないが、これを貚付けお䞀定期間埌に利子を加えお回収すれば貞付資本ずしお、産業資本ず別個の資本をなすこずになる。資本の瀟䌚的再生産過皋を基瀎にしながら党く別個の資本の運動をなすわけである・・・・資本の瀟䌚的再生産過皋を基瀎にしお遊䌑資金がい぀でも資本ずしお、少なくずも远加資本ずしお機胜し埗るずいうこずから、貞付資本化するのであるが、銀行にずっおは、資金自身がかかるものずしお商品ずなる。利子はいわばその䟡倀をなすわけであるが、しかし勿論䞀般の商品のような䟡倀芏定を受けるわけにはゆかない。資金の資本化によっお生産される剩䜙䟡倀の䞀郚分を分䞎せられるものずしお需芁䟛絊によっお決定されるに過ぎない」同曞、四䞃䞀〜二頁ずしおいる。
ここで泚目しおおくべきこずは、第䞀に機胜資本家ず貚幣資本家を想定しお利子論を説きはじめるべきではない、ずしたこずから、利子の根拠が、貞付資本の平均利最を産むずいう䜿甚䟡倀に求められず、借り手の自己資本にずっおの剩䜙䟡倀の生産の増加に求められおいるこずであり、第二に、ここでの資本の商品化を吊定したこずから、貚付けられる貚幣はもちろん資本ずしおも䜿甚されるがそれに限定しおいないこずである。このように『資本論』ずの盞違を述べながらも、「貞付資本に分䞎せられる利子は、産業資本の剰䜙䟡倀ずしおの利最の䞀郚分をなす」同曞、四八五頁ずいうように、その結論だけは受け入れおいる。
ずころが、宇野のいうように、貞付資本を「資金」の商品化ずしたり、たた、その代䟡たる利子の根拠を、借り手の自己資本の利最率の䞊昇ずいったこずに求めおいたのでは、利子が剩䜙䟡倀の䞀郚分であるずいうこずが党然説明できないのである。
宇野が資本の商品化に察眮しお「資金」の商品化ずいう以䞊、その䜿甚䟡倀は資本機胜に限定されおいないこずになる。そうするずその䟡栌たる利子を芏定するに圓り、それを機胜資本ずしお䜿甚する堎合のみを想定するこずは蚱されないはずである。そこで字野は自己資本云々ず蚀っおいるのだろうが、しかし自己資本にずっおの貞付資本にもずづく利最率の䞊昇ずは、いいかえれば、その貞付資本を機胜資本ずしお運動させたこずの垰結でしかありえない。だから、宇野は「資金」の商品化ずいうような異をたおおいながら、実際には、貞付資本の資本ずしおの䜿甚䟡倀に利子の根換を求めおいるのであり、資本の䟡栌ずしおの利子ずいう芏定を口では吊定しながら実際にはその内容を展開しおいるのである。
商品の䟡栌ずはその䜿甚䟡倀の䟡栌である。貚幣は貚幣ずしおの䜿甚䟡倀においおは貞借されはするが商品ずなりえない。ずいうのはその機胜が他の党おの商品の共同行為によっお䞎えられたものであるから。だから貚幣が商品化する堎合、その商品たる貚幣の䜿甚䟡倀は貚幣ずしおの䜿甚䟡倀ではない。マルクスはこの䜿甚䟡倀を資本機胜ず芋、貚幣の远加的䜿甚䟡倀ず芏定した。そしお貚幣の商品化ずはこの貚幣の資本機胜ずいう䜿甚䟡倀が商品化しおいるずいうこずだから、それを資本の商品化ず芏定したのであった。それはずもかく、宇野のいうように、貚幣の貚幣ずしおの䜿甚䟡倀が商品ずしお譲枡されるずいうのなら、貚幣の匕き枡しの代䟡には同じ貚幣額が必芁ずいうこずになり、取匕ずしお成立しないであろう。こうしお宇野は、利子の根拠の説明のずころでは、資本の商品化のメカニズムにもずづいお利子を説いおいながら、資本の商品化は認めないず公蚀するずいう、党く珍奇なふるたいをしおいるこずになる。
貚幣の貚幣ずしおの䜿甚䟡倀に䟡栌を蚭定するこずは無意味であり、それゆえ「資金」の䟡栌を利子ずするこずは、資本にではなく、貚幣に利子が぀くず䞻匵しおいるこずになるが、これは資本を貚幣ずみる日垞意識の無意識な衚出であるずいうこず以䞊の䜕ものをも意味しおはいない。
そしおそうだずすれば、貞付資本の䜿甚䟡倀にそれを資本ずしお䜿甚する堎合を想定しお利子の根拠を説くずいう、蚀葉ず内実ずの䞍䞀臎も別におかしいこずではなくなる。自分の蚀葉ず実際に展開しおいる内容ずが異なるこずに気付かないずいう宇野の混乱が、 日垞意識ぞの無批刀的のっかかりにあるずいうこずが刀明するからである。
こうしたこずずは別に、事実䞊宇野が資本の商品化論を認めお利子を説いおいるずしおも、利子の根拠を自己資本の利最率の䞊昇から説いたのでは、それが利最から分割されたものであるこずが刀然ずしない、ずいうこずにも泚意しおおく必芁がある。宇野のような想定なら貞付資本が産む利最を超える利子の存圚を吊定するこずができないのである。
そこで、宇野からの匕甚の最埌の郚分をみおみよう。そこには利子を「資金」の䟡栌ず芋なしたうえでその「䟡倀芏定」に぀いお、「資金の資本化によっお生産される剩䜙䟡倀の䞀郚分を分䞎せられるもの」ずある。この芏定によれば、利子を芏定するに圓぀おは、「資金」ずは「資本化」されねばならないものであり、なおか぀、それが資本化されるこずによっお産み出される剩䜙䟡倀が利子を芏定するものであるこずを認めおいる。この芏定は、宇野のそれたでの「資金」の商品化論や、自己資本の利最率増倧論ずは䜕の関速もなく、それはマルクスが貚幣の貞借を資本の商品化ずみなし、機胜資本家ず貚幣資本家ずの貚借関係を蚭定しお分析した利子の本質芏定をその結論だけずっおきたものにすぎない。
このような事態は、宇野独自の利子論が、結局は利子の本質芏定を䞎えられなかったこずを告癜するものに他ならないずいえる。

利子の圢態芏定
利子が利最の䞀郚分であるずいうその本質芏定が明らかになったこずを前提にしお、マルクスは利子がずる資本の䟡栌ずいう圢態の分析に移る。
「貚幣資本家は、事実䞊、䞀぀の䜿甚䟡倀を讓枡するのであり、したがっお、圌が手攟すものは商品ずしお手攟されるのである。そしおそのかぎりでは、商品ずしおの商品ずの類䌌は完党である。第䞀に、䞀方の手から他方の手に移るものは䞀぀の䟡倀である。単玔商品、すなわち商品ずしおの商品にあっおは、同じ䟡倀が、圢態だけを異にしお、買手ず売手ずの手にずどたる。圌らはいずれも、埓来どおり、圌らが譲枡したのず同じ䟡倀を、前者は商品圢態で、埌者は貚幣圢態で所有する。区別は、貞付のばあいには貚幣資本家だけがこの取匕で䟡倀を手攟す、ずいうこずである。だが圌は、将来の返枈によっおこの䟡倀を保有する。貞付のばあいには、䞀方によっおのみ䟡倀が手攟されるがゆえに、䞀方によっおのみ䟡倀が受けずられる。――第二に、䞀方の偎では珟実的䜿甚䟡倀が譲枡され、他方の偎ではこれが受けずられお消費される。だがこの䜿甚䟡倀は、普通の商品ずは異なり、それじしんが䟡倀――すなわち、資本ずしおの貚幣の䜿甚によっお生ずる䟡倀量のうち、その本源的䟡倀量をこえる超過分――である。利最はこの䜿甚䟡倀である。・・・・
普通の商品の賌買者が買うのは、その商品の䜿甚䟡倀であり、圌が支払うのは、その商品の䟡倀である。貚幣の借手が買うのも、貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀ではあるが、しかし圌は䜕を支払うかほかの商品のばあいずは異なり、商品の䟡栌たたは䟡倀でないこずは確かである。貞手ず借手ずのあいだでは、買手ず売手ずのあいだずは異なり、䟡倀が䞀床は貚幣の圢態で実存し、もう䞀床は商品の圢態で実存するずいうような、䟡倀の圢態倉換はおこなわれない。手攟される䟡倀ず回収される䟡倀ずの同䞀性は、ここではたったく別の様匏であらわれる。䟡倀額たる貚幣が等䟡なしに手攟されお、䞀定期間埌に返還される。貞手は、䟡倀が圌の手から借手の手に移ったのちも、䟝然ずしお同じ䟡倀の所有者である。単玔な商品亀換のばあいには貚幣は぀ねに買手の偎にあるが、貞付のばあいには貚幣は売手の偎にある。資本の売り手ずは、貚幀を䞀定期間ちゅう手攟す人であり、資本の買手ずは、資本を商品ずしお受けずる人である。だが、こうしたこずが可胜なのは、貚幣が資本ずしお機胜し、したがっお投䞋されるかぎりでのみである。借手は貚幣を資本ずしお、みずからを増殖する䟡倀ずしお、借りる。だがこれは、あらゆる資本がその出発点・その投䞋の瞬間・においおそうであるのず同じように、やっず資本自䜓〔朜勢的資本〕にすぎない。それは、その䜿甚によっお初めお、みずからを殖し、みずからを資本ずしお実珟する。ずころが借手は、それを実珟された資本ずしお、぀たり、䟡倀プラス剩䜙䟡倀利子ずしお返枈せねばならぬのであっお、この埌者〔利子〕は、圌によっお実珟された利最の䞀郚分たりうるにすぎない。」䞉巻、䞉八五〜六・䞉六四〜五頁
利子がずる䟡栌ずいう圢態を分析するに圓っお、マルクスは、貞手から借手ぞの貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀の譲枡を普通の販売ず比范しおいる。
貞手は貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀を譲枡するのだから、この䜿甚䟡倀を讓枡するずいう点では商品の販売ず共通しおいる。ずころで商品の販売においおは䞀方の手から他方の手に䞀぀の䜿甚䟡倀が、したがっお䟡倀が移されるがそれず同時に他方から同じ䟡倀をも぀別の䜿甚䟡倀が移っおくる。だからここでは商品所有者は䟡倀を讓枡しおいるわけではない。そこではただ䟡倀がその圢態を、぀たりは䜿甚䟡倀を倉えおいるだけである。
ずころが資本の貞付の堎合、最初の取匕においお貞手は䞀方的に䟡倀を手攟す。そこでは䜕らの等䟡を受けずらないが、その代りに将来の返枈においおその䟡倀を回収する。
次に、讓枡される䜿甚䟡倀それ自身に、普通の商品ずは異なる性栌がある。普通の商品の䜿甚䟡倀は買い手の手䞭で消費されおしたうが、資本ずしおの商品は、自己を剩䜙をずもなっお保存するから、その䜿甚䟡倀は利最である。
ではこの取匕においお、借り手は貞し手に䜕を支払うのか。普通の商品販売では賌買者はその商品の䜿甚䟡倀を受けずり、その商品の䟡倀を支払う。資本の貞付の堎合、借手はその資本自䜓が保有しおいる䟡倀を支払うわけではない。
「党取匕は、前提によれば、貚幣資本家ず産業資本家たたは商業資本家ずいう、二皮の資本家のあいだで行なわれる。
けっしお忘れおはならぬこずは、ここでは資本ずしおの資本が商品であるずいうこず、たたは、ここで間題ずなる商品は資本であるずいうこず、である。だから、ここで珟象するいっさいの関係は、単玔商品の立堎からすれば、たたは資本――その再生産過皋で商品資本ずしお機胜するかぎりでの資本――の立堎からしおも䞍合理であろう。売買でなく貞借であるこずは、ここでは、商品――資本――の独自な本性から生ずる区別である。ここで支払われるものが利子であっお商品の䟡栌でないこずも同様である。もし、利子を貚幣資本の䟡栌ず名づけようずするならば、それは䟡栌の䞍合理な圢態であっお、商品の䟡栌ずいう抂念ずたったく矛盟する。䟡栌はこの堎合には、なんずか䜿甚䟡倀ずしお機胜する或るものに支払われる䞀定の貚幣額だずいう、玔粋に抜象的で無内容な圢態に還元されおいるが、䟡栌の抂念にしたがえば、䟡栌は、貚幣で衚珟されたこの䜿甚䟡倀の䟡倀に等しい。」䞉巻、䞉八䞃・䞉六六頁
利子は貞手から借手に讓枡される商品の、資本ずいう䜿甚䟡倀に察しお支払われる代償であるが、これを資本の䟡栌ず芏定するず、ある䜿甚䟡倀の䟡倀を貚幣で衚珟したものであるずいう䟡栌の抂念ず矛后するこずになる。ずぃうのはこの資本ずいう䜿甚䟡倀はそれ自身で䟡倀をもっおいるからである。利子はこの䟡倀を貚幣で衚珟したものではない。
「資本は、その殖によっお自らを資本ずしお衚明する。その増殖の皋床は、資本が資本ずしお自らを実珟する量的皋床を衚珟する。資本によっお生みだされる剰䜙䟡倀たたは利最――その率たたは高さ――は、 投䞋資本の䟡倀ず比范するこずによっおのみ床量されうる。だから利子生み資本の殖の倧小も、利子額、すなわち総利最のうち利子生み資本に垰属する郚分を、投䞋資本の䟡倀ず比范するこずによっおのみ床量されうる。だから、䟡栌が商品の䟡倀を衚珟するずすれば、利子は、貚幣資本の殖を衚珟し、したがっお、貞手にたいしおその貚幣資本に支払われる䟡栌ずしお珟象する」䞉巻、䞉八八・䞉六䞃頁
利子が資本の䟡栌ずしお珟象しおいるにもかかわらず、この珟象が䟡栌の抂念に矛后しおいるずすれば、そもそも利子は真実には䜕を衚珟しおいるのかこの問いにマルクスはそれは貚幣資本の殖だずこたえおいる。貞付の堎合貚幣は貞手にあっおも資本ずしお機胜しなければならないから返枈にあたっお自己の䟡倀を殖しおいなければならない。その殖分が利子だから、利子は貚幣資本の殖分を衚珟しおいるのだが、この取匕においおは利子は増殖分ずしおではなく、貚幣資本の䟡栌ずしお珟象するのである。
では本来䟡栌ではないものが䟡栌ずしお珟象するのはどういった事情によるのか。
「ここで資本そのものが商品ずしお珟象するのは、資本が垂堎に提䟛され、資本ずしおの貚幣の䜿甚䟡倀が珟実に譲枡されるかぎりにおいおである。だが、資本ずしおの貚幣の䜿甚䟡倀は、利最を生みだすずいうこずである。資本ずしおの貚幣たたは商品の䟡倀は、貚幣たたは商品ずしおのそれらの䟡倀によっおは芏定されないで、それらが所有者のために生産する剩䜙䟡倀の分量によっお芏定されおいる。・・・・・
さらに、資本が商品ずしお珟象するのは、利子ず本来的利最ずぞの利最の分割が、商品の垂堎䟡栌ずたったく同じように、需芁䟛絊によっお、 ぀たり競争によっお調敎されるかぎりにおいおである。だが、ここでは、類䌌ず同じように区別も明確にあらわれる。需芁ず䟛絊ずが䞀臎すれば、商品の垂堎䟡栌は生産䟡栌ず䞀臎する。すなわち商品の䟡栌は、そのばあいには、資本制的生産の内圚的諞法則によっお芏制されるもの、競争ずは係わりのないもの、ずしお珟象する。・・・・だが、貚幣資本の利子に぀いおは異なる。このばあいには、競争が法則からの諞背離を芏定するのではなく、競争によっお䞎えられる法則いがいには䜕らの分割法則も実存しない。」䞉巻、䞉八九〜九〇・䞉六䞃〜九頁
利子率に぀いおは次章で詳しく展開されおいる。ここでは資本が垂堎に登堎しお、資本ずしおの貚幣の䜿甚䟡倀が譲枡されおいるこず、そしお、利子率が商品の䟡栌決定ず同様に、貞手、借手によっお行なわれる競争で決定されるこず、が貚幣の貞借に資本の商品化ずいう珟象を䞎えるのであるずいうこずだけを確認しおおこう。
さお、このようにみごずに展開されおいるマルクスの資本の商品化論に察し、宇野がどのような批刀を詊みたかを次にみおみよう。

10宇野による商品化論ぞの批刀
宇野が最初にマルクスの資本の商品化論を批刀したのは 『経枈原論』䞋卷の泚においおであった。
「なお貚付資本は、これもたた埌に明らかにするように資本を貞付けるものずしお資本なのではない。い぀でも資本ずしお機胜し埗る貚幀を貞付けるずいうこずは、それ自身資本を貞付けるわけではない。貚幣を貞付けるこずが、そしおそれによっお利子を埗るこずが、かかる貚幣の所有者にその貚幣を資本たらしめるのである。したがっおその貞付に察しお埗られる利子は『資本の䟡倀』ではなく、貚幣の䞀定期間の䜿甚に察する察䟡に過ぎない。ここでは貚幣自身が商品ずなるのであっお、なお資本が商品ずなるのではない。この点マルクスの説くずころず異なるが、ここでは単にその点を指摘するにずどめおおく。」『宇野匘蔵著䜜集』䞀卷、二五九頁
「マルクスは貚付資本においおすでに資本が商品ずなるように説いおいるが、私はここではなお資本は商品化しおはいないものず理解しおいる。株刞や土地が䞀定の利子を生むものずしお、擬制資本化されるずき始めお資本は商品化されお売買される。その䟡倀は埌に述べるように利子をもっお資本還元されたものではあるが、利子自身ではない。」同曞、四䞃二頁
ここでの宇野の䞻匵をさらに展開したものに「資金論」がある。この芋解は埌に『経枈孊方法論』で撀回されおいるのではあるが、字野の間題意識がどこにあるかがよくわかるので、次にみおおこう。字野は貞手Aず借手Bを蚭定した䞊で述べおぃる。
「Aの手においお貚幣は、G・・・G’の内に䟡倀殖をなし、それ自身資本の運動をなすのであるが、しかしAは、Bに察しおその資本自身を売ったわけではない。AにおけるG・・・・G’の運動ず、BにおけるG―W―G’の運動ずは、前者があっお埌者があり、埌者を基瀎にしお前者があるずいった関係ではあるが、盎接的に連関した資本の運動をなすものずはいえない。資本ずしおはAにあっおはG・・・・G’ずしお、BにおいおはG―W―G’ずしおあり、それぞれ特殊の存圚をなすのであっお、Aの資本がBに委譲されるのではない。A の所有する貚幣を資金ずしおBに貞付けるこずが、Aにずっおはその資金を資本ずしお投ずるこずになる。資本はAからBの手に移るずいうような圢で運動するものではない。」同曞四卷、䞀九〇頁
この「資金論」の内容を補足ずしお、先の泚の郚分を芋るず、宇野がマルクスを批刀した理由がわかる。それは貞手にずっおの資本、利子を生むものずしおの資本が貞付けられるのではなく、貚幣を貞付けるのだから、貞手から借手ぞの資本の移動はなく、こうしお、貚幣の貞借を資本の商品化ずはみなせない、ずいうのである。
だがAの手䞭でのG・・・・G’ずBの手䞭でのG―W―G’ずを、「盎接的に連関した資本の運動」ず芋ないのでは、利子や利子生み資本に぀いお䜕も解明しえないこずになる。たず、Bの手䞭でG―W―G’の運動を展開しおいる資本の所有者は他ならぬAであり、Aが貞付けるこずが出来るのも、資本がBの手䞭でG―W―G’ずいうように自己を殖しお還流するからであった。だからAの資本をBの手䞭での資本の運動ず切りはなしおしたえば、Aの資本が資本たりうる根拠を捚おおしたうこずになる。このような字野の芋解は文字通り、利子生み資本が「倖面的な・媒介的埪環から分離された・埩垰圢態」をも぀こずに目をうばわれおその珟実的運動を芋倱なったものずいえよう。
ずころで『経枈孊方法論』では、この「資金論」での内容を撀回しながらも、マルクスの資本の商品化論に察しおは別の角床からの批刀を展開しおいる。
宇野はそこで、マルクスが蚭定した貚幣の貞借を「利子付資本」ず呌び、぀いで自己の「資金」論の立堎から「産業資本の埪環運動䞭に必ず生ずる遊䌑貚幣資本が、銀行資本の媒介によっお資金ずしお他の産業資本に融通され」(同曞、九巻、二五二頁)るいわゆる銀行信甚の堎合の貚幣の貞借を「利子付資本」ず呌んで䞡者を区別した䞊で、マルクス批刀を展開しおいる。
「利子付資本にあっおは、貞手は、『自分の貚幣を利子付資本ずしお䟡倀殖しようずする貚幣所有者』である。圌自身の手にあっおは、なお、その貚幣は『資本』の運動をなしおいるわけではない。借手の手にあっお始めお『資本』ずしお運動し、その運動に盎接に結合されお、ここで宇野は前説を撀回しおいる――筆者その貚幣は貞手にずっおも『資本』ずせられるのである。・・・・・ここでは貚幣が『資本』ずしお貞手から借手に枡されるものずいっおもよいであろう。しかしその関係は、この貚幣を『資本ずしお商品ずなす』ずいうには適圓ではない。貞手ず借手ずの関係は、商品の売買以䞊のものずいっおよいであろう。ずころがマルクスは、この関係をも特殊の商品の売買関係ずなすのである。」同曞、二五䞉〜四頁
「マルクスは、ここでは貚幣を資本ずしお『商品』ずしながら、実は『資本ずしおの䜿甚䟡倀』を有する貚幣の貞借関係をもっお䞀般商品の売買ず比范しおいるのであっお、むしろ䜕故にこの堎合の貞借関係に、資本を商品ずする売買関係を想定しなければならないか、が問題であるずいっおよい。」同曞、二五五頁
「ここで『資本ずいう商品』ずせられるものは、実は『資本ずしおの貚幣の䜿甚䟡倀』にすぎない。・・・・・・ここでも『資本』ずしお䜿甚せられうる貚幣が盎ちに『資本ずいう商品』にせられおいるのである。そしおその䜿甚䟡倀が『平均利最を産む胜力』ずせられるのであるから、利最の䞀郚分をなすにすぎない利子をその代䟡ずするわけにはゆかなくなる。貞手ず借手の関係は、商品の売買関係ではないのである。」(同曞、二五六〜䞃頁)
このように宇野は今床は貚幣の貞借、「利子付資本」は、貞借関係であっお商品の売買関係ではない、ずいっおマルクスを批刀するこずになった。しかしこの批刀は党然批刀にはなっおいない。ずいうのはマルクスは、貞借関係が売買関係であるずいったこずを䞻匵しおいるのではなく、貞借関係が資本の商品化ずいう珟象をもたらすこず、そしおこの資本の商品化が普通の商品の売買ずどの点で類䌌し、どの点で異なるかを分析しおいるのだから。したがっおこの意味をなさない批刀内容をずりのぞくず、あずには資本ずしお䜿甚せられうる貚幣、資本ずしおの貚幣の䜿甚䟡倀の商品化を、資本ずぃう商品ずはみなせないずいう䞻匵だけが残る。
讓枡される䜿甚䟡倀が商品䜓をなしおいるのだから、資本ずしお䜿甚されるものずしおの貚幣の貞付においお借り手に讓枡されるものは、その貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀であり、それゆえこの䜿甚䟡倀、぀たりは資本がここで商品化しおいる、ずいうこずを認めないこずが結局のずころ宇野には匕くに匕けない最埌の䞀線になったのである。ずころがこのような最埌の䞀線を匕いたこずによっお、字野は奇劙な商品論を展開するはめになった。宇野は「利子付資本」の堎合における貚幣の貞借は、貞借関係ではあるが、そこで貚幣「資金」は商品化しおいるずいっおいる。
「ずころが先にあげた利子付資本にあっおは、 貞手ず借手ずの関係は単なる貞借関係ではない。それは売買関係ずしおあらわれる貞借関係である。貞手は、貚幣を借手に譲枡しお、䞀定期間の埌に返還されるのであっお、その点ではたしかに貞借関係であるが、しかしこの貚幣は䞀定期間は自由に䜿甚されうるものずしおいわゆる資金をなし、その䜿甚䟡倀が䞀定の代䟡をもっお借手に売华されるのである。それは『貚幣』を商品ずしお売買するものずいっおよい。利子はその䟡倀あるいは䟡栌をなすわけである。もちろんここでいう『商品』ずか、『䟡倀』『䟡栌』ずかいうのは、本来の意味でいうのではない。しかしこの貞借関係は、商品売買ず同様にしお行なわれる。その点は、利子付資本の貞借関係ず察比すれば明らかである。たず第䞀に、ここで売買される商品ずしおの貚幣は、利子付資本?におけるように、䞀般的に『資本ずしおの䜿甚䟡倀』――『平均利最を産む胜力』――を有するものずしおではない。貞手にずっおは、遊䌑貚幣資本ずしおあるのであっお、 自らはそれをさらに資本ずしお䜿甚するわけにはゆかない。したがっおたた借手にずっおもそれだけでは資本ずなすこずはできない。自己の資本の運動を補助する貚幣ずしお、資本力を進するこずになるのである。次に、それは商品ずしおは圓然のこずであるが、その䜿甚䟡倀が䞀般に䜕人にも、商品の買入れ、あるいは支払いに、自由に䜿甚しえられる貚幣ずしお商品ずせられるのであっお、買手ずしおの借手の手においお劂䜕ように䜿甚せられるかによっお、䟋えば資本ずしお特定の商品の買入れに充おられるか、あるいは、単なる支払いに充おられるか、によっおその䜿甚䟡倀を決定されるものではない。銀行を通しお倚くの売手ず買手ずの間に自由に売買される商品ずせられるのも、そのためである。実際たた利子付資本のように、その䜿甚䟡倀が『平均利最を産む胜力』であるずいう商品の代䟡が、利最の䞀郚分たる利子であるずいうような䞍合理な関係を有するものではない。」同曞、二五䞃頁 、
末尟のずころで宇野は、資本の商品化ずみなす堎合、平均利最を産む胜力ずいう䜿甚䟡倀の代䟡がその䞀郚分たる利子ずなるのは䞍合理だずいっおいる。このような芋解は䟡倀の倧きさをその䜿甚䟡倀の効甚から説明する芋地に陥いっおいるこずを瀺しおいる。貚幣の䜿甚䟡倀が、この堎合資本機胜の結果たる平均利最ずいう䟡倀額であらわれるために、それず利子ずの間の䞍䞀臎を「䞍合理」ずみるこずになったのであろうが、これは䜿甚䟡倀が䟡倀資本であるこずから、それをこの䜿甚䟡倀がも぀べき䟡栌を芏定するかの劂く錯芚をおかしたのであろう。このような商品論を展開するはめに陥いるほど混乱しおしたっおいるこずこそ、宇野の批刀が的はずれであったこずを瀺しおいるずいえよう。
さらにもっず重芁なこずは、宇野が「利子付資本」に関しおは銀行信甚ず芏定しおおきながら、珟実には商業信甚における機胜資本家盞互間での貞手ず借手の関係をそこに暪すべりさせおいるこずである。
銀行信甚の堎合、貞手は銀行である。銀行に預金をしおいる機胜資本家の遊䌑貚幣資本が珟実には貚付けられるずしおも、この堎合預金者は必ずしも貞手にはならない。なぜなら、その機胜資本家は、銀行に貞付を委蚗しおいるずはかぎらないからである。
マルクスが埌で第二五章述べおいるように、銀行が自由にする貞付可胜資本は二様の仕方で銀行に流れ蟌む。䞀方では機胜資本家の遊䌑貚幣資本が、他方では銀行に貞付を委蚗する貚幣資本家たちの預金が。銀行制床が発達し、銀行が預金に利子を぀けるようになればあらゆる階玚の貯えや䞀時䞍芁な貚幣が預金されるこずになるが、これは本来の貚幣資本家ず借手ずの間を銀行が媒介するずいう機胜ずは区別されたものである。
宇野のように銀行を媒介機関ず考え、預金者を貞手ずしおよいのは、貚幣資本家利子収入で生掻できる皋の貚幣を所有しおいる人々の堎合であっお、機胜資本家が預金者である堎合、䞀般にこれを貞手ずみなすわけにはいかないのである。だから宇野の想定しおいる「利子付資本」なるものは理論的混乱の産物である。
䜕故宇野が銀行信甚それも手圢割匕ではなく、貚幣貞付を蚭定しながら銀行を単なる媒介者ずしお捚象し、機胜資本家どうしの貞借関係に還元しおしたったかずいえば、それは貚幣資本家範疇を「原理論」レベルでは䞍玔な芁玠ずしお排陀し、機胜資本が再生産過皋で必然的に産みだす遊䜓貚幣資本の貚借関係のみを論じるべきずいう方法に立っおいるからであった。
そもそも商業信甚においおも、遊䌑貚幣資本の盞互融通ずいう芏定は誀っおおり、それは商品の姿態倉換を媒介するのだから、その成吊は再生産過皋の還流にかかっおおり、これが円滑であれば、遊䌑貚幣資本は必芁ではない䞋平尟勲『貚幣ず信甚』、䞀六五頁。たたそれが商品圢態にある䟡倀を貞付けるこずからしおも、遊䜓貚幣資本ずは盎接の関係がないこずは明らかである。
だから遊䌑貚幣資本の盞互融通ずいう想定はむしろ宇野にあっおは、この「利子付資本」の劂きものを想定したこずの垰結かも知れないが、銀行信甚をこのような機械的抜象によっお機胜資本家どうしの貞借関係に解消しおしたえば、利子生み資本の䞀源泉ずその借手ずの関係ずいうこずになっおしたっお、肝心の利子生み資本の運動はそこから消去されおしたうこずにならざるをえないのである。
自分の手で利子生み資本の運動を消去しおおいお、そこに資本の商品化がみられない、ず蚀っおいるのがここでの宇野のふるたいなのである。機胜資本家は遊䌑貚幣資本を預金する堎合は預金金利すら期埅しない圓座預金をたず開蚭するが、ここではこの預金が利子生み資本ずしお殖させるためのものではないこずは明らかであるし、資本の貞付を意図する堎合、銀行預金を遞ばない。
それはずもかく、貚幣資本家範疇を排陀したために結局利子生み資本、利子に぀いお芏定しえなかったばかりか、 銀行信甚に関しおも混乱した、珟実ずは䜕の関連もない説を展関するはめに陥ったのである。
宇野の銀行論には商業信甚の瀟䌚化論があるのみで、貚幣取扱業これぬきに圓座預金は理解しえない及び利子生み資本の管理者ずしお貞手ず借手を集䞭し、瀟䌚的資本を代衚するずいう契機は無芖されおいるが、このこずが珍寄な「利子付資本?」を展開させるにいたった違因であろう。 ・
ずはいえその盎接の原因はマルクスの資本の商品化論を、商品の䜿甚䟡倀は売り手にずっおの䜿甚䟡倀であっおはならないずいう芳点から宇野は貞手にずっおの利子を生む資本、ずしおの貚幣の資本ずしおの䜿甚䟡倀ず、それが借手に譲枡される際の平均利最を産む資本ずいう䜿甚䟡倀を、同じ資本ずいう甚語に幻惑されお区別しえず、資本の商品化ずマルクスがいう堎合、この䜿甚䟡倀ずしおの資本は貞手にずっおも䜿甚䟡倀ずなっおいるので商品化ずはみなせない、ずいった芋圓違いの批刀をもっおいる批刀しようずし、「利子付資本?にあっおは、貞出す偎にずっおも『資本』をなすものには盞違ないが、それは貞手の手にある資本の䞀時的圢態ずしお遊䌑貚幣資本をなすものであっお、貞手にずっおは、そのたたでは『剩䜙䟡倀、利最を䜜り出すずいう䜿甚䟡倀を有する』ものではない。それだからこそ貞出されるのである」同曞、二五二頁ずいったこずをどうしおもあげる必芁があり、それゆえ貞手は銀行であっおは困る、ずいうこずにあるずいえよう。
こうしお宇野の批刀は党然成功しおいない。匕甚した郚分には他にも倚くの誀りがあるが、蚀及するのは避けよう。あずに残るものは、株匏擬制資本がはたしお資本の商品化たりうるのかどうか、ずいう問題であるが、この怜蚎は埌の楜しみにずっおおくこずにしよう。

第二章 利最の分割。利子率及び利子ず䌁業者利埗

利最率ず利子率
マルクスは第二二章のテヌマにっいお「利子生み資本の自立的姿態ず、利最にたいする利子の自立化ずを展開するだけにしよう」䞉巻、䞉九䞀・䞉䞃〇頁ず述べおいるが、これらは次章以埌で述べられおおり、この章では利最率ず利子率ずの関係、利子率の決たり方が分析されるにずどたっおいる。
利子は利最から支払われるものだから、その最高限床は利最そのものであり、詳しくは利最から機胜資本家の監督賃をさしひいたものであり、その最䜎限界はぜんぜん芏定されえない。
利子は平均利最ず関速しおいるが、しかし貚幣資本家ず機胜資本家ずの間に分配されるべき利最の倧いさを芏定する事情ず、この利最の分配を芏定する事情ずははなはだしく異なる、ず展開した䞊でマルクスは䟋をあげおいる。
「近代的産業がそのうちで運動する回転埪環――静止状態、掻気の倧、繁栄、過剰生産、砎局、停滞、静止状態、などずいう、その詳しい分析はわれわれの考察圈倖に属する埪環――を考察しおみれば、ひずは、たいおい、繁栄たたは特別利最の時代には利子の䜎䜍が照応し、繁栄ずその急転ずの分かれめには利子の昂隰が照応し、恐流には極端な高利皋床におよぶ利子の最高限が照応する、ずいうこずを芋いだすであろう。」䞉巻、䞉九四・䞉䞃二頁
しかしたた他方では、利子の䜎萜が沈滞ず䞊行し、利子のほどほどな昂隰が掻気の倧ず䞊行するこずもありうるず指指したあず、マルクスは利子率が利最率の動揺にはたったく係りなく䜎萜する傟向に぀いお、二぀の䞻芁原因をあげおいる。
ひず぀は資本䞻矩的生産が貚幣資本家金利生掻者階般を倧させる傟向をも぀、ずいうこずであり、もう䞀぀は信甚制床の発展に぀れお, すべおの階玚の貯蓄貚幣が銀行の手によっお貞付資本ずしお集䞭されるこずである。 '
このように利子率倉動の芁因をあげたり、その傟向を知るこずはできるが、「䞀囜で支配的に行なわれる平均利子率――たえず動揺する垂堎率ず区別しおの――は、たったく䜕らの法則によっおも芏定されえないものである」䞉巻、䞉九六・䞉䞃四頁ずしたマルクスは、その理由に぀いお次のように述べおいる。
「利子は平均利最の䞀郚分にすぎない。同䞀資本が二重の芏定においお珟象する、――貞手の手では貞付可胜資本ずしお、機胜資本家の手では産業資本たたは商業資本ずしお。だが、それが機胜するのは䞀床きりであり、みずから利最を生産するのは䞀床きりである。 生産過皋そのものにおいおは、 貞付可胜資本ずしおの資本の性栌は䜕らの圹割も挔じない。この䞡者〔貞付資本家ず機胜資本家〕がこの利最をどんなに分配し、この利最に察しおどんな請求暩をも぀かは、絶察的に、――ある䌚瀟事業の共同利最の癟分比的分前がさたざたな出資者間に分割されるこずず同様に――玔経隓的な・偶然の領域に属する・事実である。利最率芏定の本質的基瀎たる剰䜙䟡倀ず劎賃ずの分割にあっおは、二぀のたったく盞異なる芁玠である劎働力ず資本ずが芏定的に䜜甚する。盞互に限界づけあうものは二぀の独立可倉量の凜数である。そしお、それらの質的区別から、生産された䟡倀の量的分割が生ずる。地代ず利最ずぞの剩䜙䟡倀の分割でも同じこずが生ずるずいうこずは、埌に芋るであろう。利子のばあいには䜕らこうしたこずは生じない。このばあいには、やがお芋るであろうように、逆に質的区別づけが、同じ剰䜙䟡倀郚分の玔粋に量的な分割から生ずる。」䞉巻、䞉九八・䞉䞃六〜䞃頁
このあずマルクスは、平均利子率を想定する法則がないのに利子率がその時々に明確な数字であらわされるこず、他方平均利最率の方はそれを芏定する法則があるのに、平均利最が明確な数字ずなっおあらわれおこないこずの原因に぀いお色々ず述べおいる。
ここでは「䞀般的利最率は぀ねに、特殊的諞利最率の均等化の傟向・運動・ずしおのみ実存」䞉巻、四〇〇・䞉䞃九頁し、か぀その運動は挞次的な資本の移動ずしおなされるのに察し、利子率は競争が商品売買の圢態を通じおなされるので、䞀挙同時的にその決定がなされるこず、「䞀般的利最率は事実䞊、䞀、総資本によっお生産される剰䜙䟡倀により、(二)、この剩䜙䟡倀が総資本の䟡倀にたいする比率により、および(侉)、競争――ずいっおも、ただそれが、特殊的生産諞郚面に投䞋された諞資本がそれらの盞察的倧いさに比䟋しお右の剩䜙䟡倀のうちから同等な配圓をひき出そうずする運動であるかぎりでの競争――によっお芏定されおいる。だから䞀般的利最率は、事実䞊、その芏定を、需芁䟛絊の関係によっお盎接的か぀無媒介的に芏定される垂堎利子率ずはたったく異なる・はるかに耇雑な諞原因から汲みだすのであり、したがっお、利子歩合がそうであるような、明癜な䞎えられた事実ではない」䞉巻、四〇䞀・䞉八〇頁ずいうこずを確認しおおくこずが必芁である。
マルクスは平均利最率が明確な数字ずしおあらわれないのに利子率の方は数字ずなっおいる原因に぀いお、さらに利子生み資本の特質から次のように興味のある展開を行なっおいる。
「貚幣垂堎では、貞手ず借手ずだけが察立する。商品は貚幣ずいう同䞀圢態を有する。資本が特殊的な生産たたは流通郚面に投䞋されるに応じおずるあらゆる特殊的姿態は、 ここでは消滅しおいる。資本はここでは、自立的䟡倀・貚幀ずいう、無差別で自己同等な姿態で実存する。特殊的諞郚面間の競争は、ここでは芋られない。すべおの郚面は貚幣の借手ずしお総括されおおり、資本はすべおの郚面にたいし、どんな仕方様匏で充甚されおもかたわないような圢態で察立しおいる。産業資本が特殊的諞郚面間の運動および競争においおのみ珟象するものずしお、〔資本家〕階玚の即自的に共同的な資本ずしお、資本はここでは、珟実に、重圧的に、資本の需芁および䟛絊においお登堎する。他面、貚幣垂堎にある貚幣資本は、それが共同的芁玠――その特殊的充甚には係わりのない――ずしお様々な郚面間・資本家階玚間・に各特殊的郚面の生産芁求に応じお配分されるような姿態を、珟実にずっおいる。そのうえ、さらに、倧工業の発展に぀れお、貞幣資本はたすたす、それが垂堎に珟われるかぎりでは、個々の資本家すなわち垂堎にある資本のあれこれの分数郚分の所有者によっおは代衚されなくなっお、珟実的生産ずはたったく異なり、瀟䌚的資本を代衚する銀行業者たちの統制䞋におかれおいる集積され組識された倧量ずしお登堎する。したがっお、需芁の圢態にかんしおは、貞付可胜資本にたいし䞀階玚の重圧が察応するのず同様に、䟛絊にかんしおも、それじしん、貞付資本の倧量ずしお登堎する。」䞉巻、四〇二〜䞉・䞉䞀八頁
この内容は埌に信甚制床に぀いお研究する際に詳しく怜蚎されるべきである。

宇野の利子率論
利子の本質に぀いおマルクスず異なる芋解をずなえた宇野は、利子率の決定に぀いおも異論を述べおいる。マルクスが利子を利最の䞀郚分ずしながらも、利最のうちいくらが利子ずなるかは、機胜資本家ず貚幣資本家ずの間の競争によっお決り、その際にこの競争は玔粋に偶然的なもので、利子率決定を芏制するような法則性は芋出せない、ずしたこずに察し、宇野は利最率ず利子率ずの間に䜕らかの因果関係を求めうるのではないかずしおいる。
そもそも宇野の想定によれば、利子率は、産業資本家の遊䌑貚幣資本が「資金」ずしお盞互に融通される銀行を媒介ずしお貚幣垂堎で決定されるものであるが、このように産業資本の再生産過皋のうちに必然的に発生する遊䌑貚幣資本の貞借から利子率を芏定するずすれば、利子率の決定に察しお、「産業資本の『諞郚面』ぞの適圓なる配分を補足するものずしお、いい換えれば利最率の均等化を補足するものずしお、遊䌑貚幣資本が資金ずしお商品化し、それに察する需芁䟛絊による利子率を圢成する、ずいうように考えざるをえなくなる」『宇野匘蔵著䜜集』四卷、二四六頁ず宇野は䞻匵しおいる。
産業資本の利最率の均等化は、特殊諞郚面間の運動ず競争によっお実珟されるが、しかしそこには垞に䞍均等が残るので、「資本は、産業資本の再生産過皋に必然的に発生する遊䌑貚幣資本を、䞀時的資金ずしお――したがっお資本の移動ずか、あるいは投資、匕䞊げずしおではなく――互いに融通するずいう機構によっおもその䞍均等をできうる限り均等化しようずする」同曞、二四䞃頁ずいうわけである。぀たり「比范的に高い利最率を有する産業郚門が、新たなる資本の他の郚門からの移動乃至新たなる蓄積による投䞋をたたないで、他の産業資本の遊䌑資金を利甚しお商品の生産を加し、その䟛絊を需芁に䞀臎せしめる」同曞、二四八頁ずいったこずが念頭におかれおいるのである。
利子率の決定に぀いおこのように考えおいるので、宇野は「利子率の決定が単に『偶然的な、玔経隓的な』るものであるずいうこずにはならない」同曞、二五䞃頁ずいっおマルクスを批刀しおいるが、しかし自らそれにかわる法則性を解明しえおいるわけではない。
宇野は利子率の決定に関しおは、利最率が䞍均等ずいう前提があれば、「利子率はそういう資本利最の均等化の資本家的補助機構ずしおの貚幣垂堎においお決定される。したがっおそれはその前提ずなる利最率の䞍均等によっお決定される」同曞、二五䞃頁が、しかしこの前提がなければ、「利子率は流通資本の生産資本化による、より倚くの剩䜙䟡倀の生産ずしお――賃銀隰貎による制限を受け぀぀も――単なる流通費甚の節玄ずいっおもよい」同曞、二五䞃頁ずし、結論的には「利最論の展開に際しおは、理論的には䞀応は資本の移動によっお利最率の均等化が実珟されるものずしお解明するほかはないのであるが、利子論ではそれに察応しお流通費甚の食玄による利最率の䞊昇を远求し぀぀、なお残存する利最率の䞍均等を均等化するものずしお、はじめお利子の存圚根拠が明らかにされる」同曞、二五䞃頁ず䞻匵するにずどたっおいる。
この宇野利子率論の批刀に぀いおはあずでずりあげる宇野商業資本論批刀のずころで詊みるこずにしよう。

総利最の質的分割――利子の確立
぀ぎに第二䞉章にう぀ろう。これたでマルクスは利子を貞付資本を借りお事業を営む資本家が、貞手に支払わねばならないものであり、それは利最の䞀郚分をなすものず想定しおきた。機胜資本家が自己資本だけを充甚するなら圌は他人に利子を支払う必芁はなく、圌がその資本を貚付けに回さない限りは圌は利子率の決定のための競争はしないから、この点をみおも「利子ずいう範疇――利子歩合の芏定なしにはありえない――が産業資本自䜓の運動ず無瞁なこずがわかる。・・・・・利最の䞀郚分を利子に転圢するもの、総じお利子ずいう範疇を創造するものは、事実䞊、貚幣資本家ず産業資本家ずぞの資本家の分裂だけである。たた利子歩合を創造するものは、この二皮類の資本家間の競争だけである。」䞉巻、四〇四・䞉八䞉頁
ずころが珟実には、自己資本のみを充甚する資本家にあっおも、総利最の䞀郚分を利子ずみなしおいる。だからここでは総利最の䞀郚分を利子ずするこずが、単に貞付資本の借入に察しお利子を払わねばならないずいう量的分割から、質的分割に転化しおいるずみなければならない。マルクスは「玔利最ず利子ずぞのこの玔粋に量的な利最分割が、質的分割に転倉するずいうこずは、どうしお生ずるかいいかえれば、自己資本だけを充甚しお借受資本を充甚しない資本家も、じぶんの総利最の䞀郚分を利子ずいう特殊的範疇に入れ、たたかかるものずしお特殊的に蚈算するずいうこずが、どうしお生ずるかしたがっお、さらに、すべおの資本が――借受資本であっおもなくおも――利子生み資本ずしお、玔利最をもたらす資本ずしおの自分じしんから区別されるずいうこずが、どうしお生ずるか」䞉巻、四〇六・䞉八五頁ずいうように問題を提出しおいる。
この問題を解くために、マルクスは再床、貚幣資本家ず機胜資本家ずの間の貚幣の貞借に立ちかえる。䜆し、先の䟋よりも条件をかえお。
「機胜資本家はここでは、 資本の非所有者だず想定されおいる。資本所有は、圌にたいし、貞手たる貚幣資本家によっお代衚されおいる。だから、圌が貚幣資本家に支払う利子は、総利最のうち、資本所有ずしおの資本所有に垰属する郚分ずしお珟象する。これに察立しお、利最のうち胜動的資本家に婊属する郚分は、いたや、䌁業者利埗――もっぱら、圌が再生産過皋で資本をもっお遂行する操䜜たたは機胜から、したがっお特に圌が䌁業者ずしお産業たたは商業においお果たす機胜から、発生する䌁業者利埗――ずしお珟象する。 だから、圌にたいし、利子は、たんなる資本所有の――資本が『劎働』せず機胜しないかぎりにおいお、再生産過皋から抜象された資本自䜓の――果実ずしお珟象するが、䌁業者利埗の方は、圌にたいし、もっぱら圌が資本をもっお果たす機胜の果実ずしお、資本の運動および過皋的䜜甚――圌にたいし、いたや、貚幣資本家の䞍掻動・生産過皋ぞの䞍参加・ず察立する圌独自の掻動ずしお珟象する過皋的䜜甚――の果実ずしお、珟象する。利子は、資本自䜓・生産過皋を床倖芖した資本所有・の果実であっお、䌁業者利埗は、過皋し぀぀ある・生産過皋で䜜甚し぀぀ある・資本の果実であり、したがっお資本充甚者が再生産過皋で挔ずる胜動的圹割の果実であるずいう、総利最の䞡郚分のこの質的分割は、けっしお、䞀方では貚幣資本家、他方では産業資本家の、たんなる䞻芳的芋解ではない。それは客芳的事実にもずづく。ずいうのは、利子は、貞手たる貚幣資本家――圌は単なる資本所有者であり、したがっお、生産過皋以前に生産過皋の倖郚で単なる資本所有を代衚する――の手もずに流れおゆき、䌁業者利埗は、資本の非所有者たる単に機胜し぀぀ある資本家の手もずに流れおゆくからである。」䞉巻、四〇八〜九・䞉八䞃〜八頁
資本の所有にもずづいお利子があり、資本家ずしおの再生産過皋での機胜にもずづいお䌁業者利埗がある、ずいうように、利子が借りた資本ずは無関係に珟象するこず、このこずをマルクスは質的分割――぀たりは異なる圹割による利最の分割、――ず呌んだ。この質的分割が自己資本のみを充甚する資本家にずっおはどのようにあらわれるかを分析したのち、マルクスは利子の確定を䞻匵した。
「自己資本をもっお䜜業する資本家も、借受資本をもっお䜜業する資本家ず同じように,自分の総利最を、自分じしんに察する自分じしんの資本の貞手たる所有者ずしおの圌に属する利子ず、胜動的・機胜的資本家ずしおの圌に属する䌁業者利埗ずに、分割する。かくしお、資本家が珟実に〔総利最を〕他の䞀資本家ず分けねばならぬか吊かは、質的分割ずしおのこの分割にずっおはどうでもよくなる。資本の充甚者は、自己資本をもっお䜜業しおも、二぀の人栌に――単なる資本所有者ず資本充甚者ずに――分裂する。圌の資本そのものは、そのもたらす利最範疇にかんしお、即自的に利子をもたらす資本所有・生産過皋倖の資本ず、過皋的資本ずしお䌁業者利埗をもたらす生産過皋内の資本ずに、分裂する。
そこで、利子が確定するのであっお、利子はもはや、たたたた産業資本家が他人の資本で䜜業するばあいにのみ生ずるような、生産ず無関係な総利最の分割ずしおは珟われない。 産業家が自己資本をもっお䜜業するばあいでも、圌の利最は利子ず䌁業者利埗ずに分裂する。かようにしお、たんに量的な分割が質的分割ずなる。これは、産業家がじぶんの資本の所有者であるか非所有者であるかずいう偶然的事情には係わりなく生ずる。利子ず䌁業者所埗ずは、盞異なる人物に分配される利最の分前であるばかりでなく、二぀の盞異なる利最範疇――資本にたいしお盞異なる関係に立ち、したがっお資本の盞異なる芏定性にたぃする関係に立぀、二぀の盞異なる利最範疇――である。」䞉巻、四〇九〜䞀〇・䞉八八〜九頁
こうしおここでわれわれははじめお、資本所有にもずづく利子、ずいう利子の珟実の圢態にたどり぀いた。ずころで利子が確定するず今床は利最の他方の郚分はどのような圢態を受けずるのだろうか。

䌁業者利埗
䌁業者利埗が再生産過皋での資本家の機胜にもずづく所埗ずしお珟れるこずは、それが資本家の劎働者ずしおの機胜にもずづくずいう考えを生みだすこずずなった。「圌の頭の䞭では、぀ぎのような考え、すなわち、圌の䌁業者利埗は、――賃劎働にたいし䜕らかの察立をなすものであり、他人の䞍払劎働に他ならぬものであるどころか、――むしろそれ自身、劎賃であり、監督賃であり、劎働の監督にたいする賃金であっお、この賃金が普通の賃劎働者のそれよりも高いのは、䞀、その劎働が耇雑劎働だからであり、(二)、圌が自分じしんに劎賃を支払うからである、ずいう考えが生ずる。」䞉巻、四䞀五・䞉九䞉頁
䌁業者利埗を論じるに圓り、マルクスはこのむデオロギヌが珟実の資本䞻矩的生産の発展によっお根拠のないものになり぀぀あるこずを瀺そうずした。その際たずマルクスは、このむデオロギヌが生じる珟実的土台を明らかにするこずからはじめおいる。
「利子自䜓は、たさに、劎働諞条件が資本ずしお・劎働にたいするその瀟䌚的察立においお、たた劎働に察立し劎働を支配する個人的諞力に転化せるものずしお、定圚するこずを衚珟する。利子は、他人の劎働の生産物を取埗する手段ずしおの単なる資本所有を衚瀺する。だが利子は、資本のこの性栌を、生産過皋の倖郚で資本に属しおこの生産過皋そのものの独自的・資本制的芏定性の成果では決しおないものずしお衚瀺する。利子はこれを、劎働にたいする盎接的察立においおではなく、むしろ逆に、劎働ずは無関係に、䞀資本家が他の資本家にたいする単なる関係ずしお衚瀺する。぀たり、劎働そのものにたいする資本の関係にずっおは倖面的でどうでもよい芏定ずしお。だから、利最の特殊的姿態たる利子においお資本の察立的性栌は䞀぀の自立的衚珟をずる、――自立的衚珟をずるずいっおも、この自立的衚珟においおは、この察立はそこでは完党に消枛しおおり、すっかり捚象されるこずになるのだが。利子は、資本家ず劎働者ずのあいだのではなく、二人の資本家のあいだの䞀関係である。
他面、この利子圢態は他の利最郚分にたいしお、䌁業者利埗ずいう、さらに監督賃ずいう、質的圢態を䞎える。資本家が資本家ずしお果たすべき特殊的機胜、たさに劎働者ず区別され察立する資本家に属する特殊的機胜が、たんなる劎働機胜ずしお衚瀺される。圌が剩䜙䟡倀を創造するのは、圌が資本家ずしお劎働するからではなく、圌――資本家ずしおの圌の属性はしばらくおき――もたた劎働するからである。だから、この剰䜙䟡倀郚分は、けっしお剰䜙䟡倀ではなく、その反察物であり、遂行された劎働の等䟡である。資本の疎倖された性栌、劎働にたいする資本の察立は、珟実的搟取過皋のかなた、すなわち利子生み資本のうちに移されるのであり、かくしお、この搟取過皋そのものは、たんなる劎働過皋――そこでは機胜資本家は劎働者ず違った劎働をするにすぎない――ずしお珟象する。したがっお、搟取する劎働ず搟取される劎働ずは、いずれも劎働ずしお、同䞀物である。搟取するずいう劎働は、搟取される劎働ず同じように劎働である。利子には資本の瀟䌚的圢態――ずいっおも、䞭立䞍偏的圢態で衚珟された――が垰属し、䌁業者利埗には資本の経枈的機胜――ずいっおも、この機胜の芏定された・資本制的な・性栌を捚象された――が垰属する。」䞉巻、四䞀䞃〜八・䞉九五〜六頁
この搟取する劎働、資本家の劎働はさしあたっお、指揮および監督ずいう劎働である。この劎働は劎働が瀟䌚的に結合されるや䞍可欠のものずなる。だがこの劎働は階玚瀟䌚では二重性栌をも぀。あらゆる結合された瀟䌚的劎働の本性から生ずる特殊的機胜の他に、盎接的生産者ずしおの劎働者を生産手段の所有者が支配するずいう機胜が加わる。
この劎働は資本䞻矩的生産の発展に぀れお、資本の所有から分離された管理人によっおなされるようになり、この管理人の奉絊は、搟取する劎働に察するものずしお、利最の䞍可欠な郚分を構成する。
先にみた資本家も劎働者であるずいう意味での資本家の劎働に察し、「圌がこの劎働にたいしお芁求し取埗する賃金は、取埗した他人の劎働量にちょうど等しく、搟取ずいう必芁な骚おりを圌が匕きうけるかぎり、この劎働の搟取床に盎接に䟝存するのであっお、圌がこの搟取に芁費する努力――これを圌は、盞圓の支払をしお管理人に転嫁するこずができる――の皋床には䟝存しない」䞉巻、四二䞉・四〇䞀頁ずいうこずがわかる。
マルクスは、管理賃ず䌁業者利埗ずが必ず分離しおあらわれる䌁業圢態ずしお、劎働者の協同組合工堎ず資本䞻矩的株匏䌁業ずをあげおいる。株匏䌁業は信甚制床に぀れお発達するが、そこでは次のような事態が起こる。
「䞀方では、資本の単なる所有者たる貚幣資本家に機胜資本家が察応し、信甚の発展に぀れおこの貚幣資本そのものが瀟䌚的性栌をおび、銀行に集積され、そしお銀行から――もはやその盎接的所有者からでなく――貞出されるこずによっお、しかも他方では、いかなる名矩のもずでも――借りたものであろうずなかろうず――資本を占有しない単なる管理人が、機胜資本家そのものに属するあらゆる珟実的機胜をおこなうこずによっお、残るのはただ機胜者だけずなり、資本家は䜙蚈な人物ずしお生産過皋から消枛する。」䞉巻、四二四・四〇䞀頁
生産過皋から機胜資本家個人が消枛したずしおも、機胜資本家範疇は消枛しはしない。資本家が瀟䌚化され集団化されるだけである。株匏䌁業では管理人の奉絊は総利最から支払われるこずにそれはあらわれおいる。他方で、「ブルゞョアゞヌの偎では株匏䌁業が発展するに぀れお、䌁業者利埗を管理賃ず混同するための最埌の口実も足もずから奪いさられお、利最は実践的にも、理論的に吊定できないものずしお、すなわち単なる剰䜙䟡倀――それにたいし䜕らの等䟡も支払われおいない䟡倀、実珟された䞍払劎働――ずしお珟象」䞉巻、四二五・四〇䞉頁するようになる。

宇野の質的分割論
宇野はマルクスを批刀しお、貚幣資本家ず機胜資本家ずの間の貚幣の貞借を想定しお利子論を説くべきではない、ず䞻匵したので、利子ず䌁業者利埗ずぞの利最の質的分割をマルクスずは別様に説くこずをせたられた。
この利最の質的分割をもたらすものずしお宇野が泚目したものが、商業資本に他ならなかった。圌の商業資本論は利子論のなかにずり蟌たれ、「資金」論ず「それ自身に利子を生むものずしおの資本」論ずを橋枡しする䜍眮におかれおいる。
宇野が提起した商業資本論に察しおは倚くの論争がなされたが、ここではそれらにはふれず、利子論ずのかかわりに関しお宇野自身の説を怜蚎するにずどめよう。
商業資本が利最の質的分割をもたらすずいうこずを宇野は次のように展開しおぃる。
「商業資本がその専門的に分担する流通過皋も産業資本の再生産過皋の䞀段階に過ぎない限り、その回転も瀟䌚的総資本の――消費過皋を含む――総再生産過皋の運動によっお終局的には決定され、商業資本も総資本の䞀郚分ずしお剰䜙䟡倀の利最ずしおの分配にあずかるに過ぎないのであるが, しかし盎接に剰䜙䟡倀の生産にあたるのでなく、そのいわば資本家的掻動による実珟を担圓するものずしお、その利最はあたかも商業資本家自身の掻動によっお埗られるもののような倖芳を䌎っお来る。・・・・・・それず同時に産業資本の資本力の進にあずかるものずしお貞付資本に分䞎せられた剩䜙䟡倀の䞀郚ずしおの利子は、ここにおいおたた新たなる芏定を䞎えられる。利最が資本家的掻動によっお埗られるものずなれば、利子は資本の所有自身によっお埗られるものずならざるを埗ない。」(『宇野匘蔵著䜜集』䞀巻、五〇五貢)
この内容は「商業資本の倒錯性」ずしお、宇野が総利最の質的分割を説くさいの前提的なものずしお述べたものだが、ここでの宇野の蚭定は、商業利最に぀いおの解釈を受け入れおみたずころで、䜕ら総利最の質的分割ずはかかわりがない。ずいうのは、ここで宇野が資本家自身の掻動によっお埗られるものずしおいる商業利最は、最初から利子に察立するものずしお、総利最のうちの䞀郚分ずしお想定されおいるからである。
このような想定があるから、宇野は商業利最これはすでに利子を控陀した残りが資本家的掻動によっお埗られるこずが前提ずなり、利子が資本の所有自身にもずづくず述べおいるのである。
しかしこれでは総利最の質的分割を説明するための前提的な内容ずはなりえない。はじめから分割しおしたい、その分割されたものずしおの利最の資本家掻動の成果化ずいうように展開しおいるからである。もし、総利最から宇野が出発しおいるずみなせば、総利最が資本家掻動の成果ずなっおしたっお、分割論はでおこない。質的分割を説こうずすれば、圓然総利最から出発しなければならないが、宇野はそうはせずに分割されおしたったものから出発しおおり、そしお、総利最から出発したものずみなせば、分割論がでおこないのだから、いずれにしおも問題解決の前提が誀っおいる。
「商業資本が剩䜙䟡倀の生産に盎接関係のない流通過皋に投ぜられ、しかもその資本家的掻動に基いおその利最を䞎えられるずいうこずは、利最郚分に察しお特殊の芏定を芁請する。ずいうのは商業利最が商業資本家の売買行為によっお埗られるにしおも、その党郚を資本家的掻動に基くものずはなし埗ないからである。かくお利最は、資本家的掻動に基くものずせられるいわゆる䌁業利最ず、単に産業資本の流通資本を補足するものずしお貞付資本ず同様に利最の䞀郚を分䞎せられる利子ずに分けられるこずになる。」同曞、五〇 六買
これが宇野の質的分割論であるが、この内容はさきの前提的内容ずは異なっおいる。ここでは䞀応総利最から出発し、それを資本家的掻動の成果にもずづくものず、そうではないものずに分けようずいう意図が認められはする。
぀たり宇野の理解によれば、商業資本には、?産業資本家が負担しなければならない远加的貚幣資本を、その商品資本が実珟される以前に貚幣にかえるこずによっお、その远加資本の肩代わりをする、?商品の販売を迅速に進めるための費甚を芁する、ずいう二぀の出費があり、?の出費は貞付資本ず同様な出費だから商業資本家はその郚分から埗られる利最を資本家掻動に基くものずはみなさない、ずいうわけである。
しかしこのように展開するず今床は、?の出費に察する収入が䜕故利子ずみなされるのか、ずいう間題がでおくる。
ずころがこの間題に぀いおは党然あいたいである。 商品の買入れにあおられる郜分には「貞付資本的性栌が倚分にある」(同曞、五〇䞃頁)ずか、「商業に投ぜられる資金が、貞付資本ずしお貞付けられる資金ず同じ源泉から出るもの」(同曞、五〇八頁)ずか、「商業資本は、䞀方では貞付資本ず共通の面をもち」(同曞、五〇九頁)ずされおいるだけで、?の出費が利子をずもなうずいうこずに぀いおは党然蚌明されおいない。
そこで宇野はこの困難をどのように解釈したか。その解決は次の通りである。
「商業資本の利最なるものは、すでに明らかにしたように産業資本の流通費甚を節玄するずいうこずに基いおいる。したがっおその内には産業資本が貞付資本を利甚しおその流通資本を補足する堎合ず同様の芁因を含んでいる。商業資本自身が銀行からの貞付資本を利甚する堎合には、その点は明確である。いい換えれば商業資本の利最は商業資本家の掻動に基くものずせられるにしおも、この貞付資本利子に盞圓する郚分たでを、䞀様にかかるものずするわけにはゆかない。そこで商業資本の利最は、䞀方では商品の賌入に充おないでその資金を貞付資本ずしお䜿甚した堎合に埗られる利子郚分ず、商業的掻動によっお埗られるものず考えられるいわゆる䌁業利最郚分ずに分けられるこずになる。」(同曞、五〇䞃頁)
ここで明らかなように、宇野は?の出費が利子をずもなうこずを蚌明するこずはできなかった。商業資本の総利最が、資本家的掻動にもずづくものず、そうではないものずに分割されるずいうこずは、商業資本論の範囲では䜕ら蚌明できなかった。そうする代りに、宇野は、商業資本がその総資本を貞付資本にたよる堎合を蚭定し、そのこずによっお、䌁業者利埗ず利子ずぞの総利最の分割を説いたのである。
これでは宇野が䜕故無䞀文の機胜資本家ず貚幣資本家ずの関係を想定するこずを吊定したのかがわからなくなる。ずいうのは、ここに到っお字野は無䞀文の商業資本家ず銀行ずの関係を想定しお、総利最の分割を説いおいるからである。
それはずもかく、総利最の質的分割を商業資本論の範囲内では結局説きえず、無䞀文の商業資本家をもちだすのなら、商業資本論で総利最の質的分割を説かねばならない必然性は䜕もないこずになる。宇野の商業資本論は単なる思い぀きでしかありえない。

宇野利子論の批刀
宇野の商業資本論を怜蚎した䞊にたっお、 前に宿題にしおおいた宇野の利子率論を批刀しおおこう。
宇野が利子率の決定に぀いお、玔粋に偶然的なものずはみなせない、ずいっおマルクスを批刀したのは、宇野の堎合、資本の再生産過皋の倖郚にある貚幣資本を「原理論」にずっおは䞍玔な芁玠ずみなし、資本の再生産過皋で必然的に発生する遊䌑貚幣資本「資金」、が盞互に融通されるずいうこずに限っお信甚を芏定しようずしたからであった。
「産業資本の流通過皋にある遊䌑貚幣資本が他の産業資本に融通されお、党産業資本の流通資本を節玄するものずしお論じおいる。たたその点から利子も生ずる」(『恐備論・商業利最論の講間題』䞀四六頁)ずいうのがそもそもの宇野の含意であった。
この利子に察する芏定は、遊䌑貚幣資本が銀行に集䞭され、これが貞付資本ずしお自立化しお埌にもそのたた維持されおいる。ずころが「資金」が貞付資本ずしお自立化するず宇野の「原理論」の枠組においおも、この利子芏定ず矛盟する芁玠が圢成されおくる。
「商業資本ずしお投ぜられる資金も、他の産業に投ぜられる資金ず同様に、資本ずしお投ぜられなければ貞付資本ずしお利子を分䞎せられ埗る資金をなすのであっお、産業資本が瀟䌚的に利甚し埗る資金をなしおいるのである。」(『字野匘蔵著䜜集』䞀巻、四九䞃頁)
「商業利最のかくの劂き䌁業利最化の背埌には、すでに指摘したように商業に投ぜられる資金が、貞付資本ずしお貞付けられる資金ず同じ源泉から出るものであるずいう事実がある。それは貞付資本ずしお利子の埗られる資金が商業に投ぜられたに過ぎない。ずころがその点になるず産業資本も商業資本ず異るずころはないものずなっおいる。個々の資本家にずっおはその資金は貞付資本にも、商業資本にも、さらにたた産業資本にも、いずれにも自由に䜿甚し埗る資金である。」(同曞、五〇八頁)
これは宇野が商業資本でなされた総利最の質的分割がどのようにしお産業資本に投入されるかに぀いお論じおいる郚分である。ここでは「資金」は「流通資本を節玄する」ずいう機胜に限定されず、産業資本にも投䞋しうるものずしおいる。
「資金」が産業資本にも投䞋しうるずいうこずは、その出生が産業資本の遊䌑貚幣資本であったにしおも、「流通資本」の節玄ずいう機胜ではなく、新たな産業資本の圢成ずいう機胜を担うこずになるから、投䞋される「資金」は資本の再生産過皋の倖郚からの資本ずしおの意矩をも぀こずになる。内郚的に圢成された「資金」でも、産業資本に投䞋される堎合には、倖郚からの貚幣資本ずなる。だから貚付資本の自立化を説いた時点で、内郚の「資金」の盞互融通なる宇野独自の利子芏定は、自己解䜓しおいるのである。
資本の再生産過皋のうちに圢成された遊䌑貚幣資本、宇野のいう「資金」も投資される際にはその倖郚からの貚幣資本ずいう圢をずるこずを宇野はここで認めおしたっおいるのだから、利子論の展開にさいしお、再生産の倖郚にある貚幣資本家範疇を吊定したこずには䜕の正圓性もなかったこずが明らかずなる。
宇野の枠組からしおも、その展開のうちにその枠組みをはみ出しおしたう内容を利子生み資本はもっおいた。ずすれば、この枠組をはみ出すずころに利子生み資本の本性があり、その枠組の内郚では、それはその本質を展開しおいない、ずいうこずになろう。
宇野が「資金」だけを原資ずする利子率論を組みたおお、利最率ずの間に本質的な関連をさぐろうずするこずは自由だが、それは利子の本質が展開しえおいない䞀個のモデルのなかでの関連ずいうこずにすぎず、宇野の念頭においおいる利子率は、本圓の利子率ではない、ずいうこずになるだけである。

第䞉章 利子生み資本の圢態における資本関係の倖面化

資本関係の倖面化
マルクスは利子生み資本の自立的姿態を資本関係の倖面化ず捉え、次のように述べた。
「G―G’。これは、資本の本源的出発点であり、範匏G−W−G’における貚幣が䞡極G−G’に敎玄されたものであっお、このG’はG△Gであり、より倚くの貚幣を創造する貚幣である。これは、没感性的抂念に総括された、資本の本源的で䞀般的な範匏である。これは、生産過皋ず流通過皋ずの統䞀たる、したがっお䞀定の期間に䞀定の剩䜙䟡倀をもたらす、完成した資本である。利子生み資本の圢態では、この関係が盎接的に、生産過皋ず流通過皋ずに媒介されないで、珟象する。資本が利子の、資本じしんの殖の、神秘的で自己創造者的な源泉ずしお珟象する。物貚幣、商品、䟡倀がいたや、単なる物ずしおすでに資本であっお、資本はたんなる物ずしお珟象する。総再生産過皋の成果が、物におのずからそなわる属性ずしお珟象する。貚幣を貚幣ずしお支出するか、資本ずしお貞付けるかは、貚幣の――すなわち、い぀でも亀換されうる圢態にある商品の――所有者しだいである。だから、利子生み資本においおは、自分じしんを殖する䟡倀・貚幣を生む貚幣・ずいう、こうした自動的物神が玔粋に䜜りあげられおいるのであっお、資本は、この圢態においおは、もはや、その成立のなんらの痕跡もおびおいない。瀟䌚的関係が、物たる貚幣がそれ自身にたいする関係ずしお完成されおいる。資本ぞの貚幣の珟実的転化のかわりに、ここでは、こうした転化の無内容な圢態だけが珟われる。劎働力のばあいず同じように、貚幣の䜿甚䟡倀は、ここでは、䟡倀を――貚幣そのものに含たれおいるよりも倧きな䟡倀を――創造するずいう䜿甚䟡倀ずなる。貚幣ずしおの貚幣が、すでに朜勢的には自らを殖する䟡倀であり、たた、かかるものずしお貞付けられるのであっお、この貞付は、この独自な商品にずっおの販売の圢態である。䟡倀を創造し利子をもたらすこずが貚幣の属性ずなるのは、梚の実を結ぶこずが梚の暹の属性であるのず同様である。そしお、こうした利子を生む物ずしお、貚幣の貞手はじぶんの貚幣を売る。それだけでは充分ではない。珟実に機胜する資本も、すでに芋たように、機胜資本ずしおでなく資本自䜓ずしお、貚幣資本ずしお、利子をもたらすずいうふうに自らを衚瀺する。
このこずも、ねじゆがめられる。利子は、利最――すなわち機胜資本家が劎働者から搟りずる剩䜙䟡倀――の䞀郚分にすぎないのに、その利子がいたや逆に、資本の本来的果実・本源的なもの・ずしお珟象し、利最の方は、いたや䌁業者利埗の圢態に転化しお、再生産過皋で附加される単なる添加物および远加物ずしお珟象する。ここでは、資本の物神的姿態が、資本物神ずいう衚象が、完成しおいる。G−G’においおわれわれがも぀のは、資本の没抂念的圢態、生産諞関係の最高床の顚倒および物象化たる利子生み姿態、資本じしんの再生産過皋に前提されおいる資本の単玔な姿態である。貚幣たたは商品が再生産から独立しおそれ自身の䟡倀を殖するこずができるずいうこず、――もっずも著しい圢態での資本神秘化。」䞉巻、四二䞃〜八・四〇四〜五頁
この内容を正しく把握するためには、 資本物神に぀いおの理解が必芁である。したがっお、第四八章、䞉䜍䞀䜓的範匏で䞻ずしお展開されおいる資本物神論に぀いお次にみおおこう。

資本物神
「すでにわれわれは、資本制的生産様匏の・および商品生産さえもの・もっずも簡単な範疇たる商品および貚幣のずころで、神秘的性栌、すなわち、瀟䌚的諞関係――富の質科的諞芁玠は生産にさいしこの諞関係の担い手ずしお圹だ぀――をこれらの物そのものの属諞性に転化し商品、たた、さらに刀然ず生産関係そのものを䞀぀の物に転化する貚幣、神秘化的性栌を指摘した。あらゆる瀟䌚諞圢態は、それらが商品生産および貚幣流通を生ぜしめるかぎり、この転倒に関䞎する。だが資本制的生産様匏においおは、そしお、それの支配的範疇・それを芏定する生産関係・をなす資本にあっおは、この魔法にかけられ転倒された䞖界がさらにいっそう発展する。」䞉巻、八八〇〜䞀・八䞉五頁
資本物神を論じるにあたり、マルクスはこう曞き出しおいる。ここでは、商品物神が、瀟䌚的諞関係を物そのものの属性に転化するこず、そしおたた貚幣物神が生産関係そのものを䞀぀の物に転化するこず、ずいうようにすでに『資本論』䞀卷で展開された物神性論の根本が簡単にたずめられおいる。そしお、資本物神は、これらの物神性が䞀局発展したものずしお䜍眮づけられおいる。
この曞きだしに続いおマルクスは、資本物神に぀いお、盎接的生産過皋ですでに生じるそれから説きはじめおいるが、ここではそれず流通過皋二巻で述べられたでの物神化に぀いお述べた郚分は省略し、䞉巻に盞圓する分野で生じる物神性に぀いお述べた郚分を玹介しよう。
「だがさらに、珟実的生産過皋は、盎接的生産過皋ず流通過皋ずの統䞀ずしおは、あらたな諞姿容――そこではたすたす内的関連の脈絡が消えうせ、生産諞関係がたがいに自立化し、䟡倀諞成分がたがいに自立的諞圢態においお骚化しあうずころの、あらたな諞姿容――を生みだす。
剩䜙䟡倀の利最ぞの転圢は、すでに芋たように、生産過皋によっおず同じように流通過皋によっお芏定されおいる。剩䜙䟡倀は、利最の圢態では、もはや、劎働に投䞋された資本郚分――それから剩䜙䟡倀が発生する資本郚分――にではなく総資本に連関させられる。利最率は、独自な諞法則――剩䜙䟡倀率が同等䞍倉であっおも利最率の倉動をゆるし、たた条件づけさえする独自な諞法則――によっお調敎される。すべおこうしたこずは、剩䜙䟡倀の真の本性を、したがっお資本の珟実的からくりを、たすたす隠蔜する。利最が平均利最に転圢し、䟡倀が生産䟡栌に――調敎的な平均垂堎䟡栌に――転圢するこずによっお、 さらにいっそう、こうしたこずが生ずる。 このばあいには、耇雑な瀟䌚的過皋、すなわち、諞資本の均等化過皋が介入しおくるのであっお、この過皋は、諞商品の盞察的な平均䟡栌をその䟡倀からひきはなし、盞異なる生産諞郚面各特殊的生産郚面における個々の投資のこずは党く床倖芖するにおけるもろもろの平均利最を、特殊的資本による劎働の珟実的搟取からひきはなす。そう芋えるばかりでなく、このばあいには事実䞊そうなのであるが、商品の平均䟡栌は、その䟡倀、぀たり商品䞭に実珟された劎働ず盞違し、たた、ある特殊的資本の平均利最は、この資本がその䜿甚劎働者から搟取した剩䜙䟡倀ず盞違する。商品の䟡倀は、盎接的にはもはや、劎動の生産力の倉動が生産䟡栌の隰萜・運動・に――その最終限界にでなく――およがす圱響においおのみ珟象する。利最はもはや、劎働の盎機的搟取によっおは、補助的に――すなわち、この搟取が資本家をしお、芋たずころこの搟取に係わりなく珟存する調敎的な垂堎䟡栌のもずで平均利最ず背離する利最を実珟させるかぎりで――のみ芏定されるかに芋える。正垞な平均利最そのものは、資本に内圚し、搟取には係わりがないかに芋える。異垞な搟取は、たたは、有利な䟋倖的条件のもずでの平均的搟取も、平均利最そのものをでなく、平均利最からの背離を、条件づけるかに芋える。䌁業者利埗ず利子ずぞの利最の分裂は 商業利最および貚幣取扱利最――これらは、流通にもずづくものであっお、生産過皋そのものからでなく党く流通から発生するかに芋える――の介入にはたったく蚀及しない、剩䜙䟡倀の圢態の自立化を、剩䜙䟡倀の実䜓・本質・にたいする剰䜙䟡倀の圢態の骚化を、完成する。利最の䞀郚分は、ほかの郚分に察立しお、資本関係ずしおの資本関係からすっかり分離し、貚劎働の搟取ずいう機胜からでなく資本家そのものの賃劎働から発生するかに芋える。これに察立しお、぀ぎに利子は、劎働者の賃劎働にも資本家の自己劎働にも係わりがないかに芋え、それじしんの独立的源泉ずしおの資本から発生するかに芋える。資本は、本源的には、流通の衚面では、資本物神・䟡倀を生みだす䟡倀・ずしお珟象したずすれば、資本はいたや、ふたたび、その最も疎倖された、最も独自な圢態ずしおの利子生み資本の姿態においお、みずからを衚瀺する。」䞉巻、八八二〜䞉・八䞉六〜䞃頁
ここではマルクスが資本物神の原因ずしお、「生産諞関係がたがいに自立化し、䟡倀諞成分がたがいに自立的諞圢態においお骚化しあう」ずか「剰䜙䟡倀の圢態の自立化を、剩䜙䟡倀の実䜓・本質・にたいする剰䜙䟡倀の圢態の骚化を」ずいったこずをあげおいるこずに泚意をうながしおおく必芁がある。
マルクスは『剩䜙䟡倀孊説史』で、商品・貚幣物神ず資本物神ずの間の、その圢成のされ方の盞違を指摘しおいる。
「諞物の䞻䜓化、諞䞻䜓の物化、原因ず結果ずの転倒、宗教的な取違え、資本の玔粋な圢態G―G’が、無意味に、いっさいの媒介なしに、衚瀺され衚珟されるかぎりでは、資本の性栌も姿も完成されおいる。同様に、諞関係の骚化も、この諞関係を特定の瀟䌚的性栌をも぀諞物にたいする人間の関係ずしお衚瀺するこずも、商品の単玔な神秘化や貚幣のすでにより耇雑化された神秘化におけるのずはたったく違った仕方で䜜り䞊げられおいる。化䜓は、呪物厇拝は、完成されおいる。」(『剰䜙䟡倀孊説史』䞉巻、四八四〜五頁)
商品・貚幣物神は䟡倀圢態から生じるが、資本物神では剩䜙䟡倀の圢態の自立化から生じるずいうこずが、マルクスのここでの䞻匵の県目であろう。この圢態の自立化ずいうこずの重芁性に぀いおは次のように䞻匵されおもいる。
「剩䜙䟡倀を、぀たり諞商品の䟡倀の䞀郚分を、これらの特殊な諞項目、諞範疇に分析するずいうこずは、非垞に理解しやすいこずであっお、けっしお䟡倀の法則そのものに反するこずではない。ずころが、剩䜙䟡倀のこれらのいろいろな郚分が独立な圢態を埗るずいうこずによっお、たた、これらの郚分が別々の人物の手に流れこむずいうこずによっお、たた、これらの郚分にたいする請求暩が別々の芁玠を根拠ずするずいうこずによっお、たた最埌に、これらの郚分が過皋にたいしおそれぞれ独立性をもっお諞条件ずしお盞察するずいうこずによっお、党䜓が神秘化されるのである。䟡倀を分析する堎合に生じる諞郚分が、䟡倀を構成する独立な諞芁玠になり、構成芁玠になるのである。」(同曞、五〇〇〜䞀頁)
以䞊のマルクスの資本物神論の理解の䞊にたっお、資本関係の倖面化ずいうこずに぀いおさらに詳しく研究する必芁があるが、そのための玠材ずしお、次に宇野の物神性論ず倖面化論ずをずりあげよう。

宇野の倖化論
宇野はすでに芋たように、貞付資本貚幣の貞借には資本の商品化を芋出さず、株匏擬制資本においおはじめお資本の商品化がなされるず䞻匵しおいたわけだから、資本関係の倖面化、資本物神の完成に関しおも、圓然擬制資本においおなされるず䞻匵するこずになった。
宇野は「『資本関係の倖化』がマルクスのいわゆる『利子生み資本の圢態』に盎接にあらわれるものではないず考えられる」『宇野匘蔵著䜜集』四卷、四四〇頁ずし、「貚幀資本家に察する機胜資本家の倖的関係においお倖化するのではなく、資本がそれ自身に利子を生むものずしお䌁業利最に察立するこずによっお倖化するずいう関係が確立される」同曞、四五䞀頁ず䞻匵しおいる。これだけでは䜕のこずか分らないので、宇野が倖化に぀いお具䜓的に述べおいるずころを芋おみよう。
「『資本関係の倖化』を具䜓的に実珟する資本の商品化は、かかる利子率を基瀎にしお、しかし単にそれだけではなく、貚幣垂堎で資本の再生産過皋の内郚においお圢成される利子率を、倖郚から䞎えられたものずしお受取りうる、商業資本による利最の䌁業利最化を媒介にしお始めお確立されるのであっお、商品化した資本ずしおの擬制資本を利子付資本ずしお貞付資本ず䞀䜓化するこずは、利子論を明確にするものずはいえない。」同曞、二五䞃〜八頁
「かくお『利子付資本の圢態における資本関係の倖化』は、産業資本の間に盞互に融通せられる貞付資本においおでなく、すでに䞀定の利子率を有する貞付資本を最もよく利甚する商業資本を通しお始めお実珟されるこずになる。しかしこの堎合にも、資本家的芳念ずしおは、産業資本もG―W―G’ずいう商人資本的圢匏を䞀般的な定匏ずする限りで圓然にこの利子に察する䌁業者利埗の関係を移入するこずになるのであるが、資本関係の物化自身は具䜓的にはむしろ逆転しお擬制資本ずしおあらわれ、貞付資本ずしおの利子付資本ではなお『資本関係の倖化』は成立するこずにはならない。それは資本がそれ自身に利子を生むものずしお商品化するずき、すなわち擬制資本ずしお始めお具䜓的に実珟される。貚付資本ずしおの資金が商品ずしお売買される貚幣垂堎で圢成せられる利子率、それが資本垂堎で商品ずしお売買せられる資本の、擬制資本ずしおの䟡倀の決定基準をなすものずなる。資本垂堎自身は、自らこの利子率を圢成するものではない。それはいわば倖郚から䞎えられたものずしおある。資本は、自己の産物たる䞀定の『芏則的に反埩される収入』をこの倖郚に䞎えられた利子率によっお『資本化』するこずによっお『物ずしお』の資本ずなるのである。」同曞、九巻、二䞃八〜九頁
宇野は擬制資本を資本の商品化ずみ、資本の物化、資本関係の倖面化をここに芋おいる。ずころで、株匏の堎合、配圓が利子ずみなされお、利子率によっお資本還元された株䟡が資本ずしおの倖觀をも぀にいたるのだが、宇野はこの資本還元を物化、資本関係の倖面化ず把えおいるのである。
その際に利子率が間題ずなるのであるが、宇野は利子ず䌁業者利埗ずぞの利最の分割を商業資本で説いたので、匕甚にあるような展開ずなっおいるのである。
芁するにここで䞻匵されおいるこずは、資金の盞互融通から圢成される利子率ず、商業資本によっお圢成される利子ず䌁業者利埗ぞの利最の分割぀たりは借りたかどうかにかかわらず、資本には利子が蚈算されるずいうこずを媒介にしお資本関係の倖面化を具䜓的に実珟する資本の商品化が実珟される、ずいうこずがひず぀。もう䞀぀は、擬制資本における資本の商品化ずは、その「䟡倀」の圢成のメカニズムのこずになるが、それは自らの倖郚にある利子率によっお資本化され、物ずしおの資本ずなるのだが、このように倖郚から䞎えられたもの利子率で資本化されるわけだから、資本関係の倖化ずなる、ずいうこずである。
ここでは資本関係が倖郚からの契機によっお成立するずいう意味で資本関係の倖化を宇野は説いおいるわけであるが、この他に、資本関係の倖に、もう䞀぀の資本が圢成されるこず、ずしお䞻匵されおいるずころもある。
「資本がそれ自身に利子を生むものずしお、『資本関係の倖化』物ずせられるのは、貚幣が『貞付けられさえすれば、あるいはたた再生産過皋に投䞋されさえすれば・・・・それには利子が぀く』ずいうような関係ではない。かかる貚幣はそれ自身で『利子が぀く』ずはいえない。そうではなくお、䟋えば珟実に䞀定の利子をもっお貞付けられお、利子が぀いおいる貚幣も、それ自身に利子を生むものずしおの資本ずしおは、別個の貚幣額をも぀資本ずもなるのである。」同曞、四卷、四五四〜五頁
この堎合は株匏には圓おはたらない。ずいうのは配圓は利子ではないからである。だから宇野はこの堎合の䟋ずしお、瀟債等の確定利子付蚌刞をあげおいる。
いずれにしおも、宇野による資本関係の倖面化の理解は、マルクスのそれずは党然異なっおいるこずは明らかである。マルクスは、利子生み資本においおは、貚幣がそれ自身で利子を生み、自己を増殖する䟡倀ずいう資本の本性を、その倖面だけで衚珟するこずになる、ずいうこずを資本関係の倖面化ずしたのであっお、宇野のような、倖郚の契機によっお資本化される資本関係であるずか、本来の資本関係の倖に圢成されるもう䞀぀の資本、ずいったこずが念頭におかれおいたわけではない。

宇野の資本物神論
擬制資本においお資本の商品化を芋、これをもっお「資本関係の倖化」ずする宇野にあっおは、圓然にも資本物神論においおも、マルクスず異ならざるをえない。宇野は資本物神に぀いお述べる。
「䜕らかの利子なり、利最なりを生んでいる珟実の資本は、いわゆる擬制資本ずしお䞀定の利子を生むものずせられ、そしおたたそれによっお商品化されもするのであるが、その前提ずなるのが『それ自身に利子を生むものずしおの資本』ずしおの『資本関係の倖化』なのである。それはそういう珟実の資本に察しおばかりでない。䟋えば土地所有その他定期的収入のえられるものは、すべおこの『資本関係の倖化』によっお擬制資本ずしおの䟡栌をもっお商品化されうるのである。それは『貚幣蓄蔵者の敬虔な願望』がそのたた『実珟されおいる』のではなく、むしろ商品にしろ、貚幣にしろ、あるいはたた生産芁玠にしろ、資本ずしおは䞀瞬も遊ばしおおけない――ずいう資本家の戒埋ずなっおいるのである。遊䌑する資本は、利子を喰っおいるものずしお、生むべき利子を倱うものずしお、それず同時に䞀定の定期的収入は、その源泉の劂䜕を問わず、かかる利子ずしおその源泉に資本を擬制せられるこずになる。資本はかくしお資本䞻矩䜓制を貫培する物神ずしお完成されるのである。
かくしおたた商品経枈の物神性は、単なる呪物厇拝ではない。商品圢態に基く特殊の幻想であっお、それぞれにその根拠を有しおいる。ただ貚幣物神が、䞀般的等䟡物ずしお商品に察しお盎接の亀換可胜性を有する物ずしおあらわれるのに察しお、資本物神は、そういう積極的な機胜による物ずしおあらわれるのではない。むしろ逆に貞付資本における利子圢成の倖郚にあっお、これを反映しお、自らは圢成しない利子を、䞎えられたものずしお受けずるこずによっお、それ自身に利子を生む資本ずしおの自己を物神化するのである。 それはいわば商品の物神性が資本䞻矩的生産䜓系の理念ずしお結晶したものずいっおよいであろう。」同曞、四巻、四五五〜六頁
マルクスにあっおは、利子生み資本においお資本関係が倖面化し、それが䞀぀の物に物化するので、資本の力がその物それ自身にそなわっおいるかの劂くあらわれる、ずいうこずをもっお資本物神の完成ずしおいるのに察し、ここで展開されおいる宇野の資本物神論はそれずは党然異なるものずなっおいる。
宇野の堎合資本が物化するのではなく、資本の倖に資本関係の倖化ずしお新たに圢成される「それ自身に利子を生む資本」が、自己を物神化する、ずいうのが資本物神論なのである。ずころで「それ自身に利子を生む資本ずいうような資本なるものがあるわけはありたせん」『資本論の経枈孊』、䞀二六頁ずいうわけだから、それはむデオロギヌだずいうこずになる。事実宇野の資本物神の説明も利子を倱なうな、ずいうこずが「資本家の戒埋」ずなっおいるこずをもっお「それ自身に利子を生む資本」の物神化ずしおいる。
しかしマルクスの䞻匵する意味での資本物神、぀たり物それ自䜓に資本の力が宿るずいう珟実がなければ、物でないもの、資本ずしおは存圚しないものに資本の力が宿るこずはありえない。
利子生み資本においお資本物神が完成されおいるから、擬制資本のように、本来資本ではなく、定期的収入にすぎないものが利子率で資本還元されお資本ずいう圢態を擬制されるずいう事態も起こりうるのである。そしお擬制資本ずは利子生み資本の圢態をなすのであっお、この圢態は貚幣の貞借ずいう簡単な圢態の発展したものなのである。
実際利子生み資本においお、貚幣がそれ自身利子を生むものずしおの資本ずしおあらわれ、物に資本の力が宿るずいう事態がなければ、定期的収入が資本に擬制されるこずはありえないのに、宇野は逆にこの定期的収入が資本ずしおあらわれるずころに資本物神を芋いだそうずしおいる。利子率による資本還元は資本物神成立の結果ひき起こされる珟象であっお、それ自䜓は資本物神ではありえない。宇野はこの結果珟象を資本物神ずみなしおいるので資本物神を「理念」や「戒埋」ずいったむデオロギヌずしお把えるこずになり、その垰結ずしお資本を神秘化しおいる。「それ自身に利子を生む資本」ずいうような資本の存圚を吊定しおおきながら、その資本ずしお珟われおいる擬制資本を資本の商品化ず䞻匵するのだから、宇野にあっおは資本ずしおは理念にすぎないものの売買を資本の商品化ずみなしおいるこずになるのである。

マルクスの株匏䌚瀟論
擬制資本をもっお資本の商品化ずみなす宇野の芋解を批刀する限りにおいお、株匏資本に察する分析がここで芁求されおいる。それで、『資本論』では埌の第二䞃章で展開されおいるマルクスの株匏䌚瀟論をさき走っお玹介しおおこう。
「、株匏䌚瀟の圢成。これによっお――
䞀、個別的諞資本にずっおは䞍可胜であった生産および䌁業の芏暡の、厖倧な拡匵。同時に、埓来は政府䌁業であったような䌁業が䌚瀟䌁業ずなる。
二、即自的に瀟䌚的生産様匏に立脚しお生産手段および劎働力の瀟䌚的集積を前提ずする資本が、このばあいには盎接に、私的資本に察立する瀟䌚䌚瀟資本盎接に結合した諞個人の資本の圢態をずるのであっお、こうした資本の䌁業は、私的䌁業に察立する瀟䌚䌚瀟䌁業ずしお登堎する。これは、資本制的生産様匏そのものの限界内での、私的所有ずしおの資本の止揚である。
䞉、珟実に機胜する資本家が他人の資本のたんなる支配人・管理人に転化し、資本所有者がたんなる所有者、たんなる貚幣資本家に転化する。被らの収埗する配圓が利子ず䌁業者利埗すなわち総利最をふくむ堎合でさえもずいうのは、支配人の棒絊は、特定皮類の熱緎劎働――その䟡栌は、他のあらゆる劎働の䟡栌ず同じく劎働垂堎で調敎される――のたんなる劎賃であり、たたはあるはずだから、この総利最はもはや、利子の圢態でのみ、すなわち、資本所有――これが今や珟実的再生産過皋における機胜から匕離されるこずは、この機胜が支配人の人栌においお資本所有から匕離されるのず党く同様である――のたんなる報償ずしおのみ、収埗される。かくしお利最はもはやその䞀郚分たる利子――これは借手の利最から正圓づけられる――ばかりでなく)、他人の剩䜙劎働――これは生産手段の資本ぞの転化から、すなわち珟実的生産者にたいする生産手段の疎倖から、珟実に生産においお掻動する䞊は支配人から䞋は最埌の日雇賃劎働者にいたるすべおの個人にたいする他人の所有ずしおの生産手段の察立から、発生する――のたんなる取埗ずしお自らを衚瀺する。株匏䌚瀟においおは、機胜が資本所有から分離され、したがっお劎働も、生産手段および剩䜙劎働の所有からすっかり分離されおいる。 資本制的生産の最高の発展のこうした成果は、資本が、生産者たちの所有――ずいっおも、もはや、個々別々の生産者たちの私的所有ずしおのではなく、結合した生産者ずしおの圌らの所有ずしおの、盎接的な瀟䌚的所有ずしおの――に再転化するための必然的な通過点である。それは他面では、埓来はただ資本所有ず結び぀いおいる再生産過皋䞊のあらゆる機胜が、結合生産者たちの単なる機胜に、瀟䌚的機胜に、転化するための通過点である。」䞉巻、四䞃䞃〜八・四五二〜䞉頁
マルクスは別の章で、擬制資本の䟡栌が利子率による資本還元によっお決定されるこずや、その売買が珟実資本の所有ずはかかわりがないこず等に぀いおも述べおいるが、その蚘述が分散しおいるので、次に、よりたずたっおいるヒルファヌディングの資本の動化論をみおみよう。

資本の動化論
ヒルフアヌディングは株䞻がどのよぅな仕組みで、貚幣資本家ずなるかに぀いお、次のように展開しおぃる。
「株䞻が貚幣資本家ずなるためには、かれがその資本をい぀でも貚幣資本ずしお回収できるこずが必芁である。だが、かれの資本は個別資本家たちのそれず同様に䌁業に固定されおいるようにみえる。そしお事実そうなのだ。貚幣は手ばなされおいお、機械や原料の賌入、劎働者ぞの支払いなどにあおられる。芁するに、それは産業資本ずしおの埪環をえがくために貚幣資本から生産資本G<PmAに転化されおいる。株䞻は、ひずたび手ばなしたこの資本をもはや回収するこずはできない。かれは、それにたいしお、なんらの請求暩をも有しない。かれはただ収益の䞀分数にたいしお請求暩を有するだけである。資本䞻矩瀟䌚では、しかし、どの貚幣額も利子をうむ胜力をも぀。逆に、芏則的にくりかえす、譲枡できる所埗そしお、劎賃などのように玔個人的な、したがっお䞀時的な䞍確実な条件にむすび぀いおいるのでないかぎり、讓枡できるはすべお、ある資本の利子ずみなされお、支配的な利子率で資本還元された額に等しい䟡栌をも぀。このこずは、぀ねに倚額の貚幣が䟡倀殖のために䌑息しおおり、そしお、それが䟡倀殖をこの収益ぞの請求暩においお芋出すずいうこずから、すぐ刀るこずである。だから、株䞻はその株――すなわち利最にたいする圌の請求暩――の販売によっお、い぀でもその資本を回収しうる地䜍にあり、したがっお貚幣資本家ずおなじ地䜍にある。このような販売可胜は、蚌刞取匕所ずいう固有の䞀垂堎によっお぀くりだされる。この垂堎の成立によっお初めお株匏資本は、いたやい぀でも個々人にずっお『実珟可胜な』ものずなり、したがっお貚幣資本の性栌を完党にあたえられる。逆に、貚幣資本家はその資本を株匏圢態で投ずるばあいにも、やはり貚幣資本家の性栌をたも぀。そこで、自由な貚幣資本は、それが貞し぀け資本ずしおの本来的機胜で確定利づき貞し぀けぞの投資を競争するのず同様に、そのものずしお、぀たり利子うみ資本ずしお、株ぞの投資を競争する。このようなさたざたな投資可胜性の競争は、株の䟡栌を確定利づき投資の䟡栌に接近させ、収益を株䞻にずっおは産業利最でなくお利子たらしめる。」(『金融資本論』倧月曞店版、第䞃章、䞀六八頁)
資本の動化ずは、ヒルファヌディングの蚀葉によれば「資本の擬制資本ぞの転化぀たり資本還元された収益指図蚌ぞの転化」(同曞、二〇二頁)である。圌はここで、株䞻が投資した貚幣は珟実資本ずしお䌁業に固定されおいるが、配圓請求暩を意味する株が、配圓を利子に芋立おるこずで資本還元され、䟡栌をも぀ようになるので、個々の株䞻は、自己の投資した貚幣を株を売るこずによっお回収できるこずをあげ、このような株匏擬制資本の成立によっお、株䞻は貚幣資本家ず同じ地䜍にあるようになるずしおいる。
この株の売買による個々の株䞻の資本の回収は、䌁業にずっおは、珟実資本の出資者の肩がわりを意味するだけで、珟実資本の回収は意味しない。 資本が珟実資本ずしおは株匏䌚瀟に固定しおいながら、個々の株䞻は株の売買によっお貚幣資本家ず同様の地䜍にた぀こずができるこず、これは珟実資本ずしお機胜する資本を、貚幣資本家の資本をも動員しお圢成するこずが可胜ずなるこずを意味する。こうしお株匏䌚瀟においおは資金調達が容易ずなるが、ヒルファヌディングはこのような事情をふたえお、資本の擬制資本ぞの転化を資本の動化ず芏定したのであった。
次に圌は株䟡の分析に移っおいる。
「私的䌁業を株匏䌚瀟に転化するこずによっお資本が二重化したようにみえる。だが、株䞻の払いこんだ最初の資本は決定的に産業資本に転化されおいお、そのようなものずしおのみ珟実には存圚する。貚幣は生産手段の賌買資金ずしお機胜し、これに支出され、したがっお決定的にこの資本の埪環過皋からは消え去る。生産をずおしお生産手段が商品に転化し、この商品が販売されるこずによっお初めお貚幣――たったく別の貚幣――が流通から還流する。だから、そのごの株匏取匕きで支払われる貚幣は、けっしお株䞻が最初に払いこんだ、そしお消費されおいるその貚幣ではない。それは、その株匏䌚瀟の資本の、その䌁業の資本の、構成郚分ではない。それは、資本還元された収益蚌刞の流通に必芁な远加貚幣である。同様に、株の䟡栌もたたけっしお䌁業資本の䞀郚分ずしお決定されおいるのではない。それは、むしろ資本還元された収益の持ち分である。そのようなものだから、 それは䌁業に固定されおいる総資本の分数ずしお、したがっお盞察的に確定した倧きさずしお決定されおいるのではなく、ただ支配的利子率で資本還元された収益であるにすぎない。だから、株の䟡栌は珟実に機胜し぀぀ある産業資本の䟡倀たたは䟡栌、に䟝存するのではない。なぜなら、株は䌁業で事実䞊機胜し぀぀ある資本の䞀郚分にたいする暩利蚌ではなく、収益の䞀郚分にたいする暩利蚌だからである。したがっお、株の䟡栌は第䞀には利最の倧きさしたがっお産業資本そのものの生産芁玠の䟡栌よりは遥かに倉動的な倧きさに䟝存し、第二には支配的利子率に䟝存する。
だから、株は収入暩であり、将来の生産にたいする債暩であり、収益蚌曞である。この収益は資本還元されお株の䟡栌ずなる。そこで、この株䟡ずいうものにおいお第二の資本が珟存するようにみえる。この資本は玔粋に擬制的である。珟実に存圚するのは、ただ産業資本ずその利最ずだけにすぎない。ずはいえ、そのこずは、この擬制『資本』が蚈算䞊珟存し『株匏資本』ずしお瀺されるこずを劚げるものではない。だが、それは珟実には資本ではなくお、䞀収入の䟡栌にすぎない。぀たり、資本䞻矩瀟䌚の内郚ではどんな貚幣額も収入をうみ、したがっお逆に、どんな収入もある貚幀額の果実ずしおあらわれるずいうこずからこそ可胜な、䞀぀の䟡栌にすぎないのだ。」同曞、䞀六九〜䞃二頁
この展開は明解であっお、ずりたおお説明すべきこずはない。

宇野の株匏擬制資本論
宇野は株匏擬制資本を資本の商品化ず芏定したが、その内容をみおみよう。
「株匏䌚瀟の資本は払蟌み株匏資本によっおなるわけであるが、払蟌みず同時にそれは二重の存圚を䞎えられる。それが産業䌁業の堎合には、䞀方は株匏䌚瀟の資本ずしお䞀般の産業資本ず同様にG ―W―・・・P・・・W’―G’の埪環運動を操返すこずになるが、他方ではこの資本の運動ずは䞀応は別個の存圚をなす株匏蚌刞ずしお、すなわち前者の資本の珟実的運動の内に埗られる利最から配圓ずしおその利益の分配を定期的に受ける暩利を有するものずしお、それ自身資本ずしお存圚するこずになる。しかもこの株匏蚌刞ずしおの資本は'株匏䌚瀟の珟実的資本の運動ずは党く別個に商品ずしお売買される。資本は、もずもず䞀個の運動䜓をなすものずしお、それ自䜓には商品でも、貚幣でも、たた機械等の生産手段でもなく、ただその運動の過皋においお、あるいは商品の姿をずり、あるいは貚幣の姿をずり、さらにたた生産手段や劎働力の姿をさえずるのであるが、商品の姿をずっおいる堎合でも資本自身が商品ずしお売買されるわけではない。・・・・・株刞ずしおの資本の商品化は、これず党く異なっお、資本そのものを、いいかえれば䟡倀殖をなす運動䜓ずしおの資本そのものを売買する特殊の圢態である。」(『経枈政策論』、䞀六四〜五頁)
この内容は、株匏の売買を資本の商品化ず芏定し、それによっお珟実資本そのものが商品化されおいるずみなす点を陀けば、 ヒルファヌディングが明らかにした資本の動化論にもずづいおいる。
宇野は株匏の売買を、単なる配圓請求暩の商品化ではなく、「それ自身に利子を生むものずしおの資本」の具䜓化であり、資本関係の倖化・物化をもたらす資本の商品化だず䞻匵しおいるので、ヒルファヌディングずの盞違は、株䟡の䜍眮づけにあらわれおいる。
ヒルファヌディングはすでにみたように「この株䟡においお第二の資本が珟存するようにみえる」けれども、それは「珟実には資本ではなくお、䞀収入の䟡栌にすぎない」ずしおいた。これに察しお宇野は、配圓請求暩を「それ自身資本ずしお存圚する」ずみなし、なおか぀、この「株匏蚌刞ずしおの資本」の商品化は「䟡倀殖をなす運動䜓ずしおの資本そのものを売買する特殊の圢態」であるずした。
宇野はこうしおヒルファヌディングが資本の動化ず芏定した事態を資本の商品化ず芏定したこずになるのだが、このような新たな芏定を正圓化するためには、いく぀かの論拠を必芁ずした。
その第䞀は株匏の䞻芁な内容が配圓請求暩ずされおいるこずの吊定であり、宇野は株匏に配圓請求暩のみならず、珟実資本に察する支配暩をも認めるこずになった。第二には株䟡が衚珟するものを、配圓請求暩ではなく「それ自身に利子を生むものずしおの資本」ずいう資本範疇ずみなし、株の売買をこの独自の利子を生む資本の売買ずみなすこずであった。だが、これらの論拠をもっおしおも、株匏擬制資本で資本の商品化を説くこずはできおいない。
第䞀に、株匏に支配暩をかりに認めたずしおも、それは筆頭株䞻ずなりうるだけの倧量の株匏の集積が必芁である。ずころで珟実には株匏はそのようなたずたった倧量ごずに売買されおいるわけではないから、株匏の商品化は支配暩ずはかかわりなく、配圓請求暩を基瀎にしおいるこずが明らかである。
第二に、配圓請求暩は、利子率で資本還元されお䟡栌をも぀にいたるが、かりにこの䟡栌を「それ自身に利子を生むものずしおの資本」だずしよう。この「資本」は株匏所有にもずづく定期的収入たる配圓を利子ずみなすにたりる資本額のこずだから、珟実資本の所有ずは䜕のかかわりもない。
それゆえ、仮りに株䟡を「それ自身に利子を生むものずしおの資本」ずみなし、株の売買をこの資本の商品化ず芏定しおみたずころで、この「資本」は珟実資本の所有ずは䜕の関係もない。だから、この「資本」の売買が「䟡倀殖をなす運動䜓ずしおの資本」の売買ずはならないこずは明らかである。
第䞉に、珟実資本に察する支配暩が商品化しおいるわけではないこず、さらに商品化によっお圢成された䟡栌が利子をもたらす資本ずいう珟象をずっおいるにしおも、この資本は珟実資本の運動ずは関係はないこず、これらが明らかずなれば、あずに残っおいる宇野の論拠は、株匏の買占めによっお筆頭株䞻になれば、珟実資本に察する䞀定の支配皮を獲埗しうるずいう経隓的事実だけである。しかし䌁業の売買は諞資本の競争のレベルに属する問題であり、利子生み資本の運動圢態ずしおの資本の商品化ずは無関係である。
以䞊から明らかなように、たずえ、株匏に珟実資本に察する支配暩を認め、たた、株䟡を「それ自身に利子を生むものずしおの資本」ず芏定しおみたずしおも、株匏の商品化が、䟡倀を殖する運動䜓ずしおの資本の商品化であるずいう結論はずうおい導き出せない。

宇野利子論䜓系の批刀
『資本論』の展開に則しお宇野利子論の䜓系を怜蚎しおくるなかで、䞡者の盞違及び,宇野利子論の難点はすでに明らかにされおいる。 ここでは宇野利子論䜓系ぞの批刀を簡単にたずめおおくこずにしよう。
結論からいえば、宇野利子論䜓系ずは、マルクスが『資本論』で展開しおいる利子生み資本論を玠材ずしお、「玔粹の資本䞻矩瀟䌚の想定」ずいう条件の䞋に組みたおられた、䞀個のモデルにすぎない。
「玔粋の資本䞻矩瀟䌚の想定」ずいう条件の䞋に、産業資本ずは別皮の資本たる利子生み資本は貚幣資本家を「䞍玔な芁玠」ずしお捚象したこずによっお、事実䞊吊定されおいる。その結果、珟実の利子生み資本は、産業資本盞互間の遊䌑貚幣資本の融通関係に限定され、産業資本の利最率均等化の運動を捕足する機構ずしおのみ䜍眮づけられるこずずなり、利子生み資本及び利子の本質ず独自の運動圢態に぀いおは考慮の倖におかれるこずになっおいる。
利子生み資本を事実䞊吊定しながらも、では䜕故宇野に利子論䜓系が成立しうるか、ずいえば、宇野自身は利子生み資本を、株匏擬制資本に芋いだしおいるからである。ここでは株䟡は利子を生む資本ずしお珟象しおいるので、宇野は株匏の売買を、「それ自身に利子を生むものずしおの資本」が売買されおいるず捉え、これをもっお資本の商品化ず芏定したのであった。
だから宇野の利子生み資本論は、定期的収入が利子に芋立おられ資本還元されお䟡栌をもち、その䟡栌が資本額ずしおあらわれる、ずいう擬制資本成立のメカニズムに則しお組み立おられおいる。資本の商品化を、利子を生むものずしおの資本の売買資本を貞し付けお利子を埗るのではなく、貚幣請求暩の商品化に資本の商品化を芋出しおいるず把えお、貞付資本ではただ資本の商品化は芋られない、ずいっおマルクスを批刀したこず。資本関係の倖化ずは、倖郚から䞎えられた利子率で資本還元されお、珟実の資本関係の倖郚にもうひず぀別の資本ができるこずだ、ずいった䞻匵。資本物神ずは「それ自身に利子を生むものずしおの資本」が、商業資本で「倖化」し、擬制資本で実珟されるずき、そういう資本は珟実には存圚しないのに「資本ずしおは䞀瞬も遊ばしおおけない」ずいう「資本家の戒埋」が生れるが、そのこずに他ならない、ずいった䞻匵。これらが宇野の利子生み資本論の内容ずなっおいる。
他方マルクスの利子生み資本論は、商業信甚、銀行信甚ずいう信甚制床論での「資金」の商品化論ぞず倉圢され、利最率均等化の運動の䞀芁因ずしお䜍眮づけられた。
このモデルの根本的な難点は、第䞀に、擬制資本の䟡栌を資本ずみなし、ここに資本の商品化を芋るずいう、資本物神が圢成する仮象に無批刀的に远随しおいるこず、第二に、利子生み資本ず利子の本質芏定がなされおいないこず、第䞉に、その論理が珟実の論理を把えおいないこず、にある。
こういう難点があるからこそ、逆に、今日の孊界では䞀定の圱響力をもちうるわけであるが実際に宇野掟を批刀しおいる孊者の説のなかにも、宇野利子論は䜕らかの圢で受け入れられおいる、その圱響力の拡倧は、今日の経枈孊界の珟実分析に察する無胜を隠蔜する圹割をはたしおいるにすぎない。
宇野利子論批刀はパズル解きのように、珟実から離れたものずならざるをえないが、その埡利益が信奉されおいる以䞊、このモデルの䞍毛性を立蚌する䜜業がなされねばならなぃが、そのための玠材ずしお本皿を提起した。
2014/06/19

Author: ebara (9:06 pm)
シンクタンク構想資料線


解題
 ここにあげた文曞類は、官僚から政策立案胜力を奪えるようなシンクタンク構想を昚幎考え぀き、その実珟めざしお走りながら郜床曞きずめたメモです。ルネサンス研究所など皆さんずしお䜕ができるかを怜蚎しおいただくために、資料ずしおたずめたした。
 Dで提案しおいる原発れロのシンクタンクは、Aでも觊れおいるように、すでに掻動しおいたす。埌は、このシンクタンクを運動偎がどのように䜍眮づけお、お互いに有益な関係を䜜れるかずいう問題が残されおいたす。
 数は倚くはありたせんが、各方面の方々に提案したずころ、呚りの皆さんも同じようなこずを考えおいるずいう感想をもらっおいたす。Cで䞊げた第䞀ステップの掻動をどのようにすれば始められるか、ずいう課題を共有しお知恵ず人を出し合っおいきたい。


目次
A䜕から始めるべきか  6月4日
Bシンクタンク構想たたき台  5月23日
C第䞀ステップの詳现  5月26日
D原発れロ実珟のためのシンクタンクの提案たたき台 2月9日
E正圓性なき官僚支配䞊掲Dの付垯文曞  2月23日


A䜕から始めるべきか

はじめに
 昚幎10月に朎勝俊さん関西孊院倧孊教官をお招きしお、ドむツ緑の党のお話を聞いたずきに、党のシンクタンクである、ベル財団の仕組みに興味を持ち、それ以来、日本の官僚支配の打砎のための方策ずしお、官僚から政策立案胜力を奪えるようなシンクタンク構想を考え始めたした。
 もずもず、私自身のシンクタンク論は、゜連・東欧厩壊以降、巊翌はシンクタンクから再出発すべしずいう考えで、自身でささやかながら、1993幎からASSB誌の刊行を継続しおきたした。日本ではシンクタンク掻動は、倧䌁業や囜のかかわりがなければ広がりをもおたせんが、民間のシンクタンクは倚く、掻動のすそ野は広いこずはわかっおいたした。しかし、なにぶんお互いに孀立し、連携がないのです。このような珟状は、ハヌドずしおは既に存圚する、うたく連携すれば倢が実珟できるずいう実感を感じさせたす。問題はみんなが倚くの課題を抱え忙しくしおおられるなかで、䜕から始めるかでしょう。
たず最初に、官僚が絶察にやらない原発れロのシンクタンク掻動の必芁性を考えたしたが、このシンクタンクは既に2013幎4月に原子力委員䌚ずしお発足し、玄束通り、1幎埌に、『原発れロ瀟䌚ぞの道』ず題する政策倧綱を発衚しおいたす。これは高朚基金に、5000䞇円の寄付があったこずで可胜になったずのこずです。すでに流はでき぀぀ありたす。この流れの合流こそが課題でしょう。改めお、䜕から始めるかに぀いお、以䞋にレゞュメ颚に述べたす。

八方ふさがりの反䜓制掟
 2009幎政暩亀代――>しかし、脱官僚に倱敗――>小沢排陀で民䞻党の匱䜓化――>消費皎導入ぞの官僚の誘い――>菅が乗っお、参院遞で倧敗――>3.11震灜ず原発事故で菅がもたず――>野田が自民党ずの連携の暡玢――>衆院遞での倧敗――>安倍の埩掻、野党の無力化
日本の抱える諞問題は䜕も解決しおいない
 原発事故、少子高霢化問題、地域の厩壊、もっずリストを挙げる
倧衆運動は継続しおいる
 60幎安保闘争や70幎安保闘争ず違い、脱原発をめざした倧衆運動は継続しおいかざるを埗ない。それをバックボヌンにしお他の課題も倧衆運動化できおいる。
いく぀かの方法
 ? 野党再線
 ? 倧衆運動の継続ず発展
 ? 党掟ないし政治掻動遞挙運動も含めたの足腰の匷化
 ? 党掟政治のリニュヌアルずサヌドセクタヌの育成
 ? グラムシの陣地戊受容の反省ず新しい陣地戊の開始
 ? 原発れロをめざした政策提蚀の䜜成
? 官僚から政策立案胜力を奪えるようなシンクタンクの圢成
䜕から始めるか
 日本の運動家は差異にこだわり、運動を分裂させおきたずいう経隓を持぀。それぞれの郚眲ではそれぞれの取り組みがあるが、差異を察立にするのではなく、逆に力にするこずを孊ぶこずで、運動の連携を぀くりだすこずが前提。
 いく぀かの方法のなかで、?、は、だれもが必芁性を感じおはいるが、実行方針をもおずにいる。しかし、考え方によっおはすぐに取り掛かれる課題である。シンクタンクの暪぀なぎの掻動に特化した組織ず掻動を倧勢で育おあげる事で、珟実のものずなる。


Bシンクタンク構想たたき台            

䞻䜓圢成からみた、䞖界ず日本瀟䌚の珟状
䞖界的な特長
○ 劎働者階玚を䞭心ずした劎働組合ず劎働者政党のヘゲモニヌの終焉
○ 先進囜における政暩党ず野党の政策䞊の収斂
○ 先進囜における資本䞻矩の究極的発展段階ず䞻䜓圢成の展望の䞍透明さ
○ 非営利事業を䞭心ずしたサヌドセクタヌの成長
日本的な特城
○ 極右安郚政暩の䞋での䞎党の内郚矛盟の激化、しかし政党再線には進たない。
○ 䞉極の瀟䌚モデル公的セクタヌ、私的セクタヌ、サヌドセクタヌで考えるず、公的セクタヌの圧倒的な支配力、匷固な官僚支配の存圚。
○ もうひず぀のモデル囜家、垂堎、互酬は人類孊に由来するが、垂堎が党面化しおいる今日の瀟䌚のモデルずしおは䞍適切。
○ サヌドセクタヌにおける䞻䜓圢成を考えるずきに、日本のそれが官の怍民地状態であるこずをどうするか。
日本のサヌドセクタヌ
○ 劎働人口も、団䜓も倚いが、官の怍民地ずしお瞊割りに組織されおおり、暪の぀ながりがない。
○ 自らがサヌドセクタヌに属しおいるずいうアむデンティティが圢成されおはいない。
グラムシの陣地戊論から考える
○ 陣地戊の提起の意味。むタリアでのファシズム台頭の評䟡から、ロシアず比べ、垂民瀟䌚の発達したペヌロッパ諞囜での機動戊の困難さ。支配階玚が垂民瀟䌚を陣地ずしお陣地戊を仕掛けおきおいる。同業組合、孊校、地域自治䜓等々がファシズム運動の陣地ずしお機胜したこず。
○ 日本におけるグラムシ受容の問題点
グラムシにあっおは、垂民瀟䌚は支配階玚の陣地ず芋なされおいるのに、日本では垂民瀟䌚は味方の陣地だず想定されおいた。根拠ずしお瀟䌚䞻矩の優䜍性ずいう䞖界情勢の認識があった。
○ 垂民瀟䌚は支配階玚の陣地であるずいう認識に基づいた、新たな陣地戊論の提起が必芁。
○ 新たな䞻䜓圢成のためには、陣地戊の戊略ず戊術の研究が䞍可欠である。
政策提蚀のためのシンクタンクの目暙、珟実から目暙ぞのステップ
○ 官僚が独占しおいる政策立案胜力に察抗できるシンクタンクの圢成が目暙。
○ シンクタンクは、囜や自治䜓のもの、倧䌁業のもの、政治家のもの、倧孊等研究機関のもの、巊翌団䜓のものなど倚数存圚する。
○ 日本の堎合、たくさん存圚するシンクタンク同士の暪の぀ながりがない。
第䞀ステップ
○ どんなシンクタンクがどこで䜕をやっおいるか、これをたず調査するこず。
○ 倧孊の科研費を申請できるような研究プランの䜜成。
○ 予備調査ずアンケヌト調査で抂芁を぀かむ。
第二ステップ
○ 蚪問、関係䜜り。
○ 共通の研究課題の暡玢、共同研究プランの䜜成。
○ 政策提蚀の枠組み怜蚎のプロゞェクトの結成。
第䞉ステップ
○ ネットワヌクの圢成。
○ 共同研究の組織化。
○ 政策提蚀の䜜成。

C第䞀ステップの詳现                

 科研費の準備
○ 科研費申請のためには、科孊に該圓させるこずが必芁。政治孊で、日本におけるシンクタンクの珟状、ずいったテヌマで可胜かどうか。あるいは珟代政治におけるシンクタンクの地䜍。瀟䌚孊ならば、脱官僚制における瀟䌚システム䞊の芁ずしおのシンクタンクの珟状分析。経枈孊では該圓しない。
予備調査
○ どんなシンクタンクがどこで䜕をやっおいるか。
 ? 先行研究の調査。たずえば朎珟゜りル垂長の『韓囜垂民運動家のたなざし』は日本の垂民団䜓100くらいを蚪問し、聞き取り調査をした報告曞。このうちシンクタンク機胜を持぀団䜓は盞圓数ある。この本では朎は、日本の垂民団䜓に暪の぀ながりがないこずに驚いおいる。この調査ず翻蚳は生掻クラブ神奈川の参加型システム研究所が手䌝っおいる。参加型システム研究所ぞの問い合わせがたず必芁か。
 ? ネットで調べおみる。
 早速調べおみるず、NIRAが日本のシンクタンクの調査をしおいる。HP日本のシンクタンクにUPされおいる「シンクタンク情報2014」PDF12頁によれば、300の機関にアンケヌト調査をし、214機関が回答、そのうち研究成果情報の提䟛があったのは181機関だった。研究成果情報は2,726件。研究成果に぀いおは1982〜2013幎たでで、玄10侇6千件の怜玢が可胜。たた各団䜓の怜玢もできる。
 14幎床の調査によれば、181機関のうち営利法人が82機関、財団法人が65機関䞀般32、公益33、瀟団法人が16機関䞀般13、公益3、その他NPOや孊校法人が18機関だった。
 専門分野は、経枈34機関、総合31機関、囜土開発・利甚28機関、だった。研究の圢態は自䞻研究が1,067件、受蚗研究が1,610件、助成研究が49件。成果は自䞻研究の堎合、無償公開が648件、有償公開が332件であるが、受蚗研究の堎合は非公開が676件に及ぶ。たぶん圹人の倩䞋り先が倚いだろう。
 ほかに『助成団䜓芁芧』も毎幎出されおいる。1䞇円䜍するので、12幎床版が安く出おいたので入手した。これは昔お䞖話になったもの。
 ? NIRAでマヌクすべきシンクタンクを探すこず。
 倧きなシンクタンクで䜕をやっおいるかに぀いおは、時間はかかるがNIRAでわかる。調べお泚目すべき団䜓を探すこず。
 ? NIRAが調査しおいないシンクタンク矀の調査
 どのように調査するか。さし圓たっお脱原発に絞っお調べおみるこずから始めればいい。この調査䜓制を䜜りたい。

D原発れロ実珟のためのシンクタンクの提案たたき台 

原発れロを巡る攻防
郜知事遞での现川・小泉連合軍の圢成は、勝おなかったものの、原発れロか再皌動かで、䌁業の経営陣の分裂を瀺した。しかし日本の支配者である官僚は、身内の原発れロ掟を排陀するこずで分裂はせず、原発れロの流れに逆らい、官僚の手に握られおいる政・業・報・孊のネットワヌクを動員しお自民党安倍掟を支えおいる。原発れロの運動にずっお圓面の課題は䌁業経営陣の分裂に楔を打ち蟌み、再皌動を阻止するこずにあるが、官僚支配の優䜍性を芆すには至っおいない。
官僚支配は正圓なのか
そもそも日本の官僚支配は、戊前の開発独裁の時期に圢成され、敗戊埌の高床成長期にも維持されおきた。そしお成熟瀟䌚を迎えた80幎代以降も盞倉わらずその支配は倉わるずころはない。ずころが成熟瀟䌚にあっおは垂民瀟䌚に垂堎や行政を埋め戻すこずが必芁だが、官僚は自己の消滅に向かう凊方箋を曞けず、退堎するこずを迫られおいるにも拘らず、その支配を維持しようずしおおり、たさに正圓性なき支配を継続しおいる。このような正圓性なき支配をいかに終わらせるかずいうこずに泚目すべきである。
民䞻党の政治䞻導はどうだったか
 2009幎の政暩亀代で、民䞻党が公玄に掲げた政治䞻導による官僚支配の解消に期埅が寄せられた。䞀郚では、アメリカや韓囜のように政暩亀替による高玚官僚の入れ替えが予想されたが、鳩山政暩は、埓来の官僚制の人事における慣習を断ち切れず、この第䞀歩で挫折した。鳩山蟞任以降官僚支配は着実に埩掻し、民䞻党政府を取り蟌み、菅銖盞に公玄にはなかった消費皎増皎を掲げさせお、民䞻党の匱䜓化ず同時に消費皎増皎の道筋を぀けるずいう官僚の政治的意図の実珟をはかった。その埌、2012幎末には野田銖盞に衆院解散に螏み切らせお、自民党支配の再来をもたらし、以降もねじれ解消ずいうスロヌガンで参院遞をも自民党の圧勝に持ち蟌たせお、この政治的意図を達成したのだ。日本における官僚支配は完党に埩掻し、以前よりも力を぀けるに至っおいる。
政治䞻導をいかに実珟するか
 官僚ず政治家ずの関係ずいう問題に限れば、日本の堎合、政策及び法案䜜りが完党に官僚偎に握られおいる。自民党は政策及び法案䜜りを官僚にたる投げしおきたし、自民党支配の時代に野党であった民䞻党は、独自のシンクタンクすら持ちえおおらず、囜䌚議員が片手間に政策䜜りをしおいたに過ぎなかった。
 ドむツでは、政党助成金が議員の数に応じお政党のシンクタンクに降り、シンクタンクが官僚ず䞀緒に政策及び法案䜜りをしおいる。日本のように䞭倮官庁の官僚が、孊識経隓者を招いお研究䌚や審議䌚を開いたり、民間倧䌁業のシンクタンクに調査を発泚したりしお、政策立案をしおいるのずは倧違いである。日本での政治䞻導は、政党が政策立案胜力を官僚から奪い取るこずなしには実珟しえないであろう。
官僚から政策立案胜力を奪えるようなシンクタンク構想
 日本の垂民瀟䌚には、小芏暡ではあるが倚くのシンクタンク掻動がある。たずこれらの掻動を暪に぀なげるこずがなされるべきだ。そしおそれらの掻動の成果を集玄するこずで成熟瀟䌚における政策立案の方向性を定めるこずが必芁である。
 以䞊の予備的掻動半幎から䞀幎の䞊に立っお、明らかにされた課題別に専門家を組織しお問題点を敎理し、政策䜜成の前提条件を圢成する。その際原発れロずいう課題を最優先する圢で問題点の敎理を行い、政治的な先入芳を排陀しお怜蚎するこずが必芁である。原発れロを最優先しお課題蚭定するこずは、官僚には求めおも無理であり、この領域での政策立案は官僚のなしうるずころではないが、しかし䞖界ず日本瀟䌚に緊急に芁請されおいる課題であり、むンパクトある構想ずなるこずは疑いない。賛同する皆さんのご協力で、構想を具䜓化しおいきたい。

E正圓性なき官僚支配

 この文曞は原発れロ実珟のためのシンクタンクの提案の付垯文曞ずしお、この間の文曞をもずにたずめたものです。

私の官僚支配䜓隓
 私は2005幎から、瀟䌚的経枈、瀟䌚的䌁業促進の掻動に参加したした。06幎関西で結成された共生型経枈掚進フォヌラムで、政策提蚀のため瀟䌚的䌁業調査に取り組み、聞き取り蚘録を䞭心にたずめた共生型経枈掚進フォヌラム線『誰も切らない、分けない経枈――時代を倉える瀟䌚的䌁業』同時代瀟、2009幎を、政暩亀代のドラマを前にしながら発刊したした。匕き続いおフォヌラムは、韓囜障碍友暩益研究所及び共同連ず共催で、10幎11月には第2回日韓瀟䌚的䌁業セミナヌ斌倧阪垂立倧孊を開催、東京の䌁画では衆議院第䞀議員䌚通での研究䌚を開催し、厚生劎働省からも参加がありたした。その埌瀟䌚的経枈、瀟䌚的䌁業促進の政策提蚀をたずめ、フォヌラムの自費出版でパンフ『緊急政策提蚀 瀟䌚的事業所法制化に向けお』フォヌラム線、2010幎を発行し、瀟䌚的䌁業法制化運動に取り組みたした。
 政暩亀代埌、総合犏祉法の法制化に向けお、障がい者制床改革掚進䌚議が蚭けられたしたが、これは埓来の䞭倮官庁が䞻催する䌚議ずは違っお、障害者の団䜓の代衚が過半を占め、議長も障害者偎から遞ぶずいう画期的なメンバヌ構成ずなりたした。たた総合犏祉郚䌚には、フォヌラムのメンバヌも参加したした。しかし、その埌の民䞻党政暩の迷走ず、障害者団䜓にたずたった政策提蚀をなしうる甚意がなかったこずもあり、結局は厚劎省のヘゲモニヌで法制化は進められ、瀟䌚的䌁業促進も䞀旊は文蚀ずしお文曞に登堎しはしたが、最終的にはなかったこずにされおしたいたした。この経過の䞭で私は官僚支配の珟実を身をもっお䜓隓したのです。
 たず、瀟䌚的経枈の領域は、ペヌロッパではサヌドセクタヌずしお、公的セクタヌ、私的セクタヌ株匏䌚瀟など営利事業の領域、に察抗する独自の非営利・協同セクタヌの䞭栞をなしおいたすが、日本の堎合、サヌドセクタヌの領域は経枈的にも人口的にも巚倧ですが、官の怍民地で瞊割りに分断され、セクタヌずしおのアむデンティティを持ちえおいないこずが刀明したした。
 次に、地方自治䜓も含め、官僚は䜏民ずの協働を掲げおはいたすが、亀付金などを通しお倩䞋り先の開拓に䜙念がなく、䜏民自治に察しおは絶えず譊戒し、暪に繋がる自治の詊みに氎を泚そうずしおいるように芋受けられたした。
 さらに、官庁䞻催の研究䌚や委員䌚での意芋は、聞き眮くだけで、政策自䜓は官庁の圓初の意図どおりに䜜成しおしたいたす。官僚は、政策䜜成䞊の独占的地䜍をしめおいるのです。
 以䞊のような状態の䞭で、䜏民は官僚支配に抵抗する有力な手段をもおおいないこずが分かりたした。眲名掻動、議䌚ぞの請願、瀺嚁行進デモ、ずいったものがあるだけで、日垞的な察抗手段をもおおいたせん。グラムシ流に蚀えば、ヘゲモニヌ抗争の手段がないのです。サヌドセクタヌの諞団䜓はむしろ自民党サむドのプレッシャヌグルヌプずしお政暩にぶら䞋がっおおり、自治をめざしおいる䜏民に察しおは、排陀しようずしおいるのです。

日本の官僚制支配の珟実

身分から階玚ぞ
 日本の官僚支配に察する批刀は、ずっず以前からあり、自民党も䜕床か公務員制床改革ずいう圢で取り組んできたした。マスコミも公務員バッシングを続けおいたす。しかし、自民党時代の省庁再線などの改革に察しおは、官僚は既埗暩を华っお拡倧するずいう焌け倪りで察応しおきたした。小泉政暩時の官邞䞻導は政ず官ずの関係を倉えたかに芋えたしたが、官僚はポピュリズム的政治に順応しただけで、関係の倉革にはいたらなかったのです。
そもそも、日本の官僚制は戊前から継続され、倉化はありたせん。アメリカ占領軍の民䞻化も、官僚制にだけは手を぀けられなかったのです。明治時代から延々ず぀づく日本の圹人䞖界官僚制の䞍文埋は、幎功序列、身分保障70歳たで、倩䞋り先の確保です。
具䜓的にキャリア官僚で芋るず、毎幎600人が採甚され順次昇進しお課長になるず、それ以降のポストが足りなくなりたす。府12省の官僚のトップは事務次官でそれぞれ䞀人です。したがっお課長以䞊の昇進期には競争に敗れた者を必ず肩たたきによっお倩䞋りさせ、枡りをさせおいきたす。その際埅遇は珟圹同期官僚䞊みずするこずで出䞖競争から脱萜したずいう䞍平を封じ蟌めおいたす。このような仕組みを維持しおいくためには倩䞋り先の確保が死掻問題ずなりたす。この仕組みはキャリア官僚だけではなく、ノンキャリアや地方自治䜓においおも慣行化しおいたす。
官僚は本来身分ですが、このような身分保障の䜓系はそれ自䜓を階玚に圢成しおいるこずを意味したす。資本䞻矩が発達した民䞻䞻矩囜である日本で、身分を階玚に圢成するこずは憲法に違反しおいたす。具䜓的には第14条、法の䞋の平等及び、15条、公務員の党䜓の奉仕者芏定ぞの違反です。
 明治の官僚制は倩皇の臣䞋であり、倩皇の名においお任呜され、官僚が属する官䜍の䜍階制は貎族階玚の序列でした。封建時代では身分が階玚であり、それを倩皇制に再組織したのです。
 敗戊埌は憲法によっお倩皇は象城ずされ、身分が階玚ずなるこずは犁止されたしたが、しかし官僚だけは戊前からの継続性を持っおいたした。最初は民衆に察する暩力行䜿ずいったこずでしたが、やがお高床成長の時代に官僚身分を階玚に圢成しおいったのです。官僚は法埋䞊は身分ですが、この身分を特暩化し、自らを階玚に圢成したのです。 
このような明らかな犯眪行為がこれたで芋逃されおきたした。たず官僚は自らの階玚圢成を極秘のうちに行っおいたす。2006〜8幎の公務員制床改革が法制化されたずきに倚少は明るみに出たしたが、しかし官僚の行き過ぎくらいに捉えられおいお、階玚圢成を問題芖する芋解は提起されおいたせん。ずいうのも日本の資本家政党である自民党自䜓が議員政党であり、倚くの官僚出身者を抱えるこずで官僚階玚に支配され、たた資本家階玚も業界団䜓などを通しお官僚階玚に埓属しおいるからです。
2009幎の政暩亀代で鳩山内閣の政治䞻導がなぜうたく行かなかったか、ずいうこずに぀いおは既にいろいろな意芋が衚明されおいたす。その䞭で、高玚官僚100人の入れ替えをできなかったずいう説がありたすが、それは正鵠をえおいたす。官僚が階玚ずしお圢成されおいるこずはいわば非合法な事態ですから、政治は真正面からこれず察抗できたはずでした。しかし民䞻党にはそのような決断も、人材の甚意もしおいなかったのです。政治䞻導は口先だけに終わり、官僚の統率が出来ずに歎代自民党政暩ず同じように、逆に官僚に支配されおいきたした。こうなるず、自民党以䞊に官僚べったりずなり、完党に官僚䞻導の政治運営になっおしたったのです。
圹人の行動原理に先茩批刀はタブヌずいうものがあり、前䟋螏襲、責任回避、が日垞的に発生したす。アメリカでは政暩亀代があるず3000人のキャリア官僚が入れ替えられるから、圌らが日本のように階玚に圢成されるこずはありえたせん。逆に、資本家の赀裞々な代匁者たちが、官僚になっお自分たちの郜合のいいように立法や行政を行う「回転ドア人事」が問題にされおいたす。日本では政暩亀代があっおも圹人の銖は飛ばず配眮転換もなかったわけですから、官僚は階玚ずしおは無傷でいられたした。官僚の圢匏䞊の長である倧臣は長くおも数幎で亀代したすが省庁はずっず継続しおいたす。ここから、官僚が政治・行政・立法及び囜䌚運営の実質的暩力を握るずいう珟状が維持され続けられおいるのです。

官僚階玚の経枈的基瀎
その䞊官僚階玚が独自の経枈圏を圢成しおいるずいう問題がありたす。1955幎からの高床経枈成長の過皋で、以降55幎間に官僚の倩䞋りは継続され、官庁も含めた官補䌁業の就業人口は垂堎経枈のそれを䞊回るようになっおいたす。民䞻党囜䌚議員の故石井玘基が䜜成した統蚈ではサヌドセクタヌ陣営も公的セクタヌに組み蟌たれおいるこずがわかりたす。この珟実に慣らされおいるせいか、日本の垂民はこの官僚支配の珟状に䞍満は蚀えども倉えようずはしおいたせん。戊前から延々ず続く官僚支配にたるで自然環境のようになじみ、支配されたがっおいるように思われたす。だから自民党員であれ民䞻党員であれ、官僚支配に察しお闘おうずする人たちを孀立させおしたいたす。
 統蚈的には少し叀いですが、石井玘基『日本を喰い぀くす寄生虫』道出版、2001幎より、官僚階玚の経枈的基瀎に぀いお玹介したしょう。2010幎に出版された北沢 栄『官僚利暩』実業之日本瀟も参照しおください。なお、石井は議員特暩で官僚支配の実䜓を暎こうずしたために、2002幎に暗殺されおいたす。
? 日本経枈の70は囜に支配されおいる
 たず日本のGDPは、1999幎に512兆円ですが、2000幎の政府支出䞀般䌚蚈85兆円ず特別䌚蚈の玔蚈が260兆円、地方公共団䜓の支出が90兆円、合蚈350兆円で、これはGDPの70を占めおいたこずになりたす。しかも政府支出の絊䞎分は民間最終消費ずしおダブルカりントされおいたすから、残りの30のなかにも政府支出がカりントされるこずになりたす。石井玘基『日本を喰い぀くす寄生虫』、12頁政府支出に限っお囜際比范すれば、アメリカ194兆円1059兆円、むギリス45.6兆円164兆円、フランス31兆円163兆円、ドむツ30兆円240兆円、日本260兆円512兆円です。同曞、13頁
? 日本最倧の貞金業、民間銀行を圧迫する政府系金融
 公的金融機関648.6兆円資金運甚郚348.2兆円政府系金融機関185.8兆円䞭倮政府13.3兆円地方公共団䜓10.8兆円公的金融法人䌁業9.1兆円その他81.5兆円
 民間金融機関520.4兆円郜垂銀行215.1兆円地方銀行134.1兆円第二地方銀行50.6兆円信甚金庫68.7兆円信甚組合14.2兆円貞金業者37.7兆円
 政府系金融機関は、金融事業は経枈掻動ではなく行政事務行政暩の䜜甚に属する事務ですので行政経費ずしお凊理され経営コスト面で民間より優䜍にありたす。同曞、16頁
? 経枈人口の4割が皎金に䟝存しおいる
 被扶逊者6254䞇人49
 民間䌁業の雇甚者2781䞇人22
 皎金郚門の雇甚者3665䞇人29
内蚳公務員、議䌚、政党など470䞇人3.7犏祉、医療、教育、文化、スポヌツ、NGOなど1330䞇人10.47行政䌁業、特殊法人、公益法人、第䞉セクタヌなど490䞇人3.86官公需専門䌁業800䞇人6.3蟲林氎産系保護団䜓・個人545䞇人4.29
その他30䞇人0.24同曞、18頁

政治䞻導の総括
 2009幎の政暩亀代で、民䞻党が公玄に掲げた政治䞻導による官僚支配の解消に期埅が寄せられたした。䞀郚では、アメリカや韓囜のように政暩亀替による高玚官僚の入れ替えが予想されたしたが、鳩山政暩は、埓来の官僚制の人事における慣習を断ち切れず、この第䞀歩で挫折したした。鳩山蟞任以降官僚支配は着実に埩掻し、民䞻党政府を取り蟌み、菅銖盞に公玄にはなかった消費皎増皎を掲げさせお、民䞻党の匱䜓化ず同時に消費皎増皎の道筋を぀けるずいう官僚の政治的意図の実珟をはかりたした。その埌、2012幎末には野田銖盞に衆院解散に螏み切らせお、自民党支配の再来をもたらし、以降もねじれ解消ずいうスロヌガンで参院遞をも自民党の圧勝に持ち蟌たせお、この政治的意図を達成したのです。日本における官僚支配は完党に埩掻し、以前よりも力を぀けるに至っおいたす。

政治䞻導の条件
 官僚ず政治家ずの関係ずいう問題に限れば、日本の堎合、政策及び法案䜜りが完党に官僚偎に握られおいたす。自民党支配の時代に野党であった民䞻党は、独自のシンクタンクすら持ちえおおらず、囜䌚議員が片手間に政策䜜りをしおいたに過ぎなかったのです。
 ドむツでは、政党助成金が議員の数に応じお政党のシンクタンクに降り、シンクタンクが政策及び法案䜜りをしおいたす。日本のように䞭倮官庁の官僚が、孊識経隓者を招いお研究䌚や審議䌚を開いたり、民間倧䌁業のシンクタンクに調査を発泚したりしお、政策立案をしおいるのずは倧違いです。日本での政治䞻導は、政党が政策立案胜力を官僚から奪い取るこずなしには実珟しえないでしょう。
2014/03/07

Author: ebara (8:20 pm)
『「資本論」の栞心』の薊め

本曞の特城は、゜連・東欧の厩壊の原理的根拠を解明しおいるずころにありたす。
この倧事件は、瀟䌚䞻矩をプラス・むメヌゞからマむナス・むメヌゞに転換させ、瀟䌚䞻矩を前提ずしおいた協同組合のむメヌゞも傷぀けたした。
䞀番の問題は、いただに巊翌瀟䌚党、共産党、新巊翌を総称しおおきたすの偎が、゜連・東欧厩壊に぀いおのきちんずした芋解を出しえおいないこずです。資本䞻矩を倉えるのに、たず政治暩力を奪取するずころからしか可胜ではないずいう考え方がその背景にありたしたが、この考え方自䜓を俎䞊に乗せるこずが問われおいたした。日本での60幎安保闘争の経隓は、䌝統的な考え方に疑問を持぀人々を生み出し、䟋えば生掻クラブ創業者の岩根邊雄のように、日垞の生掻からの倉革を求めお協同組合運動に関わる人々を生み出したしたが、その動きは巊翌の䞭では䜍眮づけられるこずなく珟圚に至っおいたす。぀たり、政治暩力を奪取するずころからしか瀟䌚革呜は可胜ではないずいう考え方のオルタナティブが、運動ずしおは圢成されおいるものの、政治的、思想的圱響力を巊翌に察しお持ちえおはいないのです。
その原因の䞀぀ずしお、オルタナティブの提起者たちも、89?91幎に起きた゜連・東欧厩壊に察しおきちんずした評䟡をしおはいないこずがありたす。政治暩力を奪取するこずから瀟䌚革呜ぞずいう路線ぞの違和感は衚明されおはいたしたが、それだけでは圱響力を行䜿できないのです。もっず積極的で原理的な批刀が必芁でした。
私は、゜連厩壊の原理的根拠を、商品や貚幣や資本が、人々の無意識の領域で人栌の意志支配をするシステムであり、埓っお、意識的行為によっおそれらをなくすずいう方針は、無意識の領域を意志で統制するずいう背理を抱えおいたずいうずころに求めたした。ですから、これらをなくすためには、迂回しお、商品や貚幣や資本なしで生産や流通や消費が可胜なシステムを䜜り出す以倖に道はありたせん。このように考えれば協同組合は、その迂回運動の最先端に䜍眮しおいたす。
いた、䞖界政治においおは、か぀おハむ゚クが想定した自由䞻矩ず党䜓䞻矩この文脈では゜連瀟䌚䞻矩もこれに含たれおいたすの二極察立に察しお、第䞉の道ペヌロッパの瀟䌚民䞻䞻矩のリニュヌアルが提起され、さらに緑の政治が登堎しおきおいたす。しかし、自由䞻矩以倖の政治思想で、゜連・東欧厩壊に぀いおきちんず評䟡したものは芋圓たりたせん。䞖界瀟䌚フォヌラムは資本䞻矩に代わる「もう䞀぀の䞖界は可胜だ」ず呌びかけおいたすが、その原理的根拠の解明こそがいた問われおいるのです。
商品や貚幣や資本が、人々の無意識の領域で意志支配をするシステムであるずいう、゜連厩壊の原理的根拠はたた、資本䞻矩が様々な抵抗運動にもかかわらず、䟝然ずしお氞続しおいる原理的根拠でもありたす。資本䞻矩の矛盟の深刻さにもずづいお、危機が劂䜕に深化しおも、䞻䜓が登堎しなければもう䞀぀の䞖界は実珟できたせん。そしお、商品や貚幣や資本が、人々の無意識の領域で人栌の意志支配をするシステムであるずいう珟実は、䞻䜓圢成の困難をも意味しおおり、この珟実を螏たえた䞻䜓圢成の展望こそが解明されなければならないのです。この曞では、「資本䞻矩を超える」ずいう合蚀葉で、新しい運動の提起を行っおいたす。ぜひお手にずっおみおください。

情況新曞 抎原 均著『資本論の栞心』発売䞭

 情況新曞 抎原 均著『資本論の栞心』新曞版、玄280頁、本䜓䟡栌1300円が発売䞭です。私は100郚ほど買い取っおいたすので、お求めにくい堎合は、䞋蚘宛申し蟌んでくだされば、送料圓方負担で送りたす。
 申し蟌み先 sakatake2000@yahoo.co.jp

あるいは、次の郵䟿振替口座に、1冊1300円で振り蟌んでください。
 口座名資本論研究䌚
 口座番号01090?5?67283
2014/03/07

Author: ebara (8:16 pm)
平子友長の物象化論ノヌト

平子の物象化論の問題点

 今回は平子のヘヌゲル『粟神珟象孊』の解釈を玠材ずするのだが、たずは平子の独自の物象化論の問題点を指摘するこずから始めよう。平子の物象化論は『粟神珟象孊』のザッヘ抂念の解釈にもずづいおいる。その著曞『瀟䌚䞻矩ず珟代䞖界』青朚曞店、1991幎で平子は物象化ず物化に぀いお、次のように定議しおいる。
 「物象化Versachlichungずは、個䜓ずしおの人栌䞻䜓ず人栌䞻䜓ずの瀟䌚的関連が物象Sacheず物象ずの瀟䌚的関係ずしお珟象する過皋である。物象化ずは諞個人の瀟䌚的関係の䜍盞が人栌的・・・な関係から物象的Sachelichな関係ぞ転倒するこずである。ある察象客䜓は物象的な瀟䌚関係の担い手ずしお考察されるずき、物象ず芏定できる。
 物化Verdinglichungずは、、物象化された瀟䌚的関係の諞契機が察象ずしおの物Dingそのものに内属する察象的自然属性ずしお珟象する過皋である。物化ずは、瀟䌚的関係の䜍盞そのものが消倱しお、それが物属性Eigenschaftの内属関係の䜍盞にずらされるこずである。ある察象客䜓は、それが担う関係諞芏定がすべおその察象に内属する察象的属性ずしお芳念されるずき、物ず芏定される。
 物象化ず物化ずを区別する必芁があるか吊かは、結局、物象ず物ずを区別する必芁があるか吊かの問題に垰着する。物象も物も『もの』察象、客䜓であるこずに倉わりはないが、それが論定される芖点ず䜍盞を異にしおいる。䞀般に、物象の察抂念は人栌たたは䞻䜓であるが、物のそれは属性である。」『瀟䌚䞻矩ず珟代䞖界』、192頁
 私は拙著『䟡倀圢態・物象化・物神性』で、平子の『唯物論』8号汐文瀟掲茉の論文「マルクスの経枈孊批刀の方法ず匁蚌法」を取り䞊げ、その物象化ず物化の理解に぀いお「珟象圢態ず幻圱的圢態ずの区別を自芚的には぀けるこずができおいない」拙著、22頁ず批刀したこずがある。ここでの平子の定矩に぀いおも、この批刀がそのたた圓おはたる。平子は物象を瀟䌚的な関係を結んだそれずしお珟象するず定矩しながら、他方で、それが物ずしお珟象するずいうように、二重に珟象するものずされおいるのだ。䜕故こうなるかずいえば、同じものが論定される芖点、぀たり研究者の芖点においおそれぞれ別の内実をも぀ものずしお区別されるずいうこずであり、これは研究者の芳念の䞭で二぀の珟象が区別されるずいうこずにすぎないのだ。では珟実の物象ずはどのようなものであり、どのように珟象しおいるのかずいえば、それは人の目には幻圱的圢態ずしおしか反映されはしない。研究者の芖点においお、その頭の䞭でだけ区別されるようなものではなく、幻圱的圢態しか感芚しえないのだ。そしおこの幻圱的圢態が生じる仕組みこそが商品が物象ずしお成立しおいるこずのなかで探求され、物象の珟象圢態を珟実の諞関係ずしお暎き出すこずが必芁なのだ。これは商品の䟡倀圢態の分析を䞍可避ずする。ずころがこの䜜業に手を぀けず、物象ず物ずを頭の䞭でだけしか区別しない平子は、物象化論を結局は分析芖角ず芋なしおしたうこずになる。
次に、マルクスの疎倖論ず物象化論ずの関連に぀いお、平子は次のように述べおいる。
「䞻䜓の䞻䜓ずしおの分析をあえお犁欲するこずによっお、客芳的な瀟䌚的システムの運動原理そのものをザッハリッヒに把握する方法、これが物象化論の意味である――ザッハリッヒなシステム分析の方法ずしおの物象化論。
 他方、疎倖論は物象化されたシステムの運動過皋をシステムを構成する私的諞個人の生掻行為ずしお捉え盎しおゆく方法、぀たり過皋論ここではシステムが䞻䜓を行為論諞個人が䞻䜓ずしお読みかえおゆく方法である――䞻䜓分析の方法ずしおの疎倖論。・・・・・物象化論においお資本を䞻䜓ずする䜓制ずしおの近代垂民瀟䌚が構想されるずすれば、疎倖論においおは劎働者個䜓を䞻䜓ずした行為の耇合䜓ずしおの近代垂民瀟䌚が構想される。」同曞、2012頁
 このように平子にあっおは物象化も疎倖も珟実の存圚ではなく、方法によっお䜜り出される頭の䞭の抂念でしかない、ずいうこずになる。このような方法論に埓う限り、ヘヌゲル研究も自らの思い蟌みをヘヌゲルの䞭に読みずるずいうこずに終わるように感じるが、時には鋭い問題提起があるのでしばらく付き合うこずにしよう。

疎倖論ず物象化論をめぐる論争に぀いおの平子の評䟡

 そもそも日本におけるマルクスの物象化論をめぐる論争は、疎倖論から物象化論ぞの掚転を䞻匵した廣束枉が垞に焊点になっおいた。そしおマルクスの思想の重点は䞀貫しお疎倖論にあるずいう岩淵慶䞀らの䞻匵ず、廣束掟の察立があり、そしお物象化論自䜓を認める立堎からの廣束批刀が新しく生たれおきた。平子の物象化論はこのような論争を背景に圢成されたず芋およい。平子は「ヘヌゲル『粟神珟象孊』における疎倖論ず物象化論」『経枈孊研究』北海道倧孊、34å·»2号、1984幎、この論文はネットで容易に入手できるで次のように述べおいる
「疎倖論ず物象化論ずの関係の問題――これはマルクスの文献解釈の枠内にのみ留たっおいおはその党䜓像を十分に解明しえぬ偎面があるず筆者は考えおいる。埓っお䞻ずしおマルクスの文献に即しながらこの問題に接近しようずする堎合には特に次の点に留意しなければならないであろう。
第䞀の留意点はこの問題を初期マルクス(疎倖論)ず埌期マルクス(物象化論)ずの関係の問題に還元しではならないずいうこずである。初期マルクスの諞芋解に未熟さや認識䞍足それに由来する悪しき『哲孊的思匁性』が瞥芋されるこずたた初期から埌期に至るマルクスの瀟䌚認識の発展が䞍断の自己批刀ずそれに基く過去の芋解ずの蚣別を通しお行なわれおきたこずも事実である。しかしそれは必ずしも疎倖論の攟棄ず物象化論ぞの転向を意味しない。この意味で筆者は『疎倖論の論理から物象化論ぞの掚転』を説く広束枉氏の芋解に疑問を呈しおいる論者たちの䞻匵に䞎したいず思う。しかし広束説に察する反論が決定的な説埗力を有しおはいないこずも事実である。それは批刀者たちもやはり初期マルクス(および初期マルクスによっお性栌描写されおいる限りでのヘヌゲルず埌期マルクスずの察抗枠組の内郚でのみこの問題を考究しおいるからであろう。こうした枠組は批刀者たちを呪瞛しお初期ず埌期ずの断絶を匷調する広束氏に察しお疎倖論(実は疎倖論の初期マルクス的圢態)が埌期マルクス(経枈孊批刀䜓系)にも継承されおいるずいう連続性の匷調によっおしか自己を匁蚌するこずができない。発展ずは継承ず断絶ずの䞡面を持぀。埓来の論争は発展の継承面を匷調する者ず断絶面を匷調する者ずが果おしない論争を続けおきたずいえる。しかも疎倖論がその初期マルクス的圢態ず安易に同䞀芖されおきた埓来の論争状況においおは疎倖論ず物象化論ずの関連を真正面から怜蚎しうる地平そのものが欠萜しおいたず蚀えるのである。物象化論の優䜍が始めから前提された䞊で疎倖論の毀誉耒貶が論じられるずいう舞台蚭定の枠内で論争がなされおきたからである。疎倖論に察しお根匷く抱懐されおいる拒絶反応もこうした舞台蚭定の仕方に由来する面が少なくない。埓っお マルクスの方法においお疎倖論ず物象化論ずがいかなる論理的関連を有するのかこの問題を積極的に解明するためには疎倖論ず物象化論ずがそれぞれ察等の方法論的基軞ずしおの圹割を䞎えられおいるテクストを求めなければならない。ぞヌゲルの『粟神珟象孊』がそのテクストである。」『経枈孊研究』、378頁
これは埓来の論争に察するなかなか鋭い批評である。確かにこの提起は、廣束批刀者偎の匱点を突き出したものずしお、玍埗せざるを埗ない。平子が指摘しおいるように、マルクス䞻矩の研究者で初期マルクスを論じる堎合に、ヘヌゲルはマルクスのめがねを通しお理解され、たた『粟神珟象孊』に぀いおもせいぜい自己意識たでしか参照されおいないずいうのはたぎれもない事実である。私自身あらためおヘヌゲルず初期マルクスを読む機䌚ずしおこの論文を曞いおいる。それでいきなり『粟神珟象孊』解釈に入らずに、たずは平子のそれたでのマルクス疎倖論解釈に察する提蚀を玹介するこずからはじめよう。

平子によるマルクス疎倖論解釈ぞの批刀

 巊翌で『粟神珟象孊』の理性たできちんず研究した人はほずんどいないであろう。したがっお、平子の読みの玹介に入る前に、平子の結論を先に芋おおこう。
「重芁なこずはヘヌゲルおよびマルクスにずっお疎倖や類(人間の類的本質)が問題になるのはノェルク・モデルの行為論においおではなくザッぞ・れルプスト・モデルのそれにおいおであるずいうこずである。
䞻䜓の行為が察象化される客䜓を諞䞻䜓盞互の間䞻䜓的関係ずしお蚭定し行為するこずによっお決定的に䞻䜓ず客䜓が非同䞀化するザッヘ・れルプスト・モデルの行為論によっおこそ疎倖の必然性が行為そのものに内圚しおいるこずが理解される。同時にたた疎倖の根拠が個䜓の行為がノェルクに結実する個別的行為にずどたるこずはできず他の諞個䜓ずの問䞻䜓的関係行為の契機を随䌎せざるをえない点に求められる。぀たり疎倖の根拠が培底しお瀟䌚的関係にあるいは諟個䜓がザッぞ・れルプストずいう物象化された瀟䌚的関係を聳立させる圌らの行為の独特のあり方に求められる。曎に疎倖の克服の展望は䞻・客の非同䞀性を起点ずするザッぞ・れルプスト・モデルにおいおは本質的に動孊的なものにならざるを埗ない。䞻䜓が䞻䜓ず客䜓ずの同䞀性を取り戻すためには䞻䜓は客䜓的䞖界が有しおいる普遍性の高みにたで自分を厳しく陶冶しおゆかなければならない。぀たり疎倖の止揚は䞻䜓ず客䜓ずの同䞀性の実珟を阻んでいる倖的芁因の陀去悪しき制床(䟋えば私有財産制床や資本・賃劎働関係など)の撀廃に求めるこずはできない。ザッヘ・れルプスト・モデルの確立によっお初めおぞヌゲルは疎倖論の䞻題を物象化された瀟䌚的関係の内郚での䞻䜓の陶冶の問題ずしお問題意識化するこずに成功したず蚀える。
埓来のマルクス疎倖論研究の臎呜的欠陥はノェルク・モデルでマルクスの疎倖論を解釈しおきたこずである。こうした誀読が生じた䞀぀の理由は初期マルクスにおける劎働疎倖論の文脈に『資本論』第䞀巻第五章の『劎働過皋』論のモデルが安易に持ち蟌たれたこずである。この劎働過皋論モデルの特城はそれが生産関係の特殊な歎史的芏定性を捚象しお劎働の歎史貫通的性栌を抜象したずいう点にあるだけではない。それを䞻䜓・客䜓の論理行為論ずしお考察する時その特城は他の劎働䞻䜓ずの間䞻䜓的関係を捚象した䞻䜓ず客䜓ずのスタティックな䞀察䞀察応が成立する堎面に芖点を限定した問題蚭定であるずいう点にある。」同曞、48頁
いきなりいろいろず理解䞍胜な甚語が出おくるず思われるので、甚語の解説から始めよう。ノェルク・モデルずいうずきのノェルクずは、暫山蚳では「仕事」ず蚳されおいる。それは、「⅀章B-快ず必然性」暫山欜四郎蚳『粟神珟象孊』、䞖界の倧思想、河出曞房新瀟、212頁、原兞262頁、以䞋暫山蚳ず略蚘し、ペヌゞ数は原兞を採甚するでテヌマずなっおいるず平子は芋おいる。ここでは自己意識の察象はディングである。他方、ザッぞ・れルプスト・モデルずいうずきのザッぞ・れルプストずは、「⅀章C-粟神的な動物の囜ずだたし、たたは『こずそのもの』」暫山蚳、285頁でテヌマずなり、暫山蚳では「こずそのもの」ず蚳されおいる。平子によれば、-では自己意識は単独で察象ず仕事を通しお関係するこずが蚘述され、-では他者ず自己意識の関係においお仕事を考察し、「こずそのもの」ザッぞ・れルプストの地平を開いおいるずいうのだ。
平子のここでのヘヌゲル評䟡に぀いおは埌述するずしお、マルクスの疎倖論解釈に察する批評の郚分に泚目しよう。ヘヌゲルになぞらえお、平子は埓来のマルクス疎倖論の解釈が、個ず察象の関係、぀たりは劎働過皋論に則しおなされおいお、個ず他の関係から考慮されるこずがなかったずいうのである。この点に぀いお平子は駄目抌し的に述べおいる。
「マルクスの劎働疎倖論のモデルずしお『資本論』の劎働過皋論モデル(=ノェルク・モデル)が無批刀的に採甚されるこずによっおマルクスの劎働疎倖論は 物象化論から切断され物象化された瀟䌚的関係の内郚での個䜓の䞻䜓圢成(陶冶)のあり方を問うずいう本来の䞻題が忘华され個別的生産過皋における個別資本による個別的劎働者の搟取に矮小化されるこずになった。」同曞、49頁
埓来のマルクス疎倖論の解釈に察するこの提蚀は積極的に評䟡されるべきであろう。

平子の『粟神珟象孊』解釈

⅀--に぀いお
 平子はヘヌゲルを取り䞊げる際にその箇所に぀いお次のように指定しおいる。
「ぞヌゲルがザッぞずディングずをいかに䜿い分けおいたかを瀺す栌奜のテクストが『粟神珟象孊』の䞭にある。第V章『理性』のB『理性的自己意識が自分自身〔の行為〕を通じお珟実化するこず』(V-B)ずC『自分が即自か぀察自的に実圚しおいるこずを知っおいる個䜓性』(V-C)がそれである。䞡節はいずれも諞個䜓の自己意識ず諞個䜓の行為の錯綜を通しお間䞻䜓的に圢成される(ものでありながら個䜓の意識にずっおは疎遠な)客䜓的䞖界ずの関係を問題にしおいる。぀たり個人ず瀟䌚ずの関係を問題にしおいる。」同曞、40頁
 『粟神珟象孊』に぀いおは自己意識たではそれなりに苊劎しお、いろいろ文章もに掲茉しおいるが、理性、や粟神、宗教、絶察知などは読んではいるが理解しようずいう気持ちにならなかった郚分である。平子の読みに埓っお勉匷するこずにしよう。C理性第⅀章、に泚目した平子はたず抂論的に次のように述べおいる。
「さおザッヘディング察象(Gegenstand)客䜓(Objekt)――これらの甚語はヘヌゲルにずっおたずえば県の前にある䞀冊の本の様な個別的察象物を意味する甚語ではなく諟個䜓の行為の耇合ずしお圢成される諞個䜓にずっお䞍可芖的な客䜓的䞖界(日垞語で『䞖の䞭』ずか『䞖間』ずいう意味でのdie Welt) を指瀺する甚語であるこずにあらかじめ読者の泚意を喚起しおおきたい。ずいうのもヘヌゲル哲孊に察するありずあらゆる誀解ず䞍信は䞊蚘の点の無理解に端を発しおいるからである。
ヘヌゲルはV-Bにおいおは察象的䞖界をディングず芏定しおおり V-C においおはザッヘ・れルプストず芏定しおいる。察象的䞖界を個䜓から隔絶されたディングずしお聳立せしめる個䜓のプリミティノな意識ならびに行為から出発しながら個䜓がみずからの悲劇的経隓を通しお普遍的個䜓(普遍性ず個䜓性ずの個䜓のレベルで、の統䞀)ぞず自己を厳しく陶冶しおゆくこずによっお察象的䞖界をディングからザッヘ・れルプスト(普遍性ず個䜓性ずの客䜓的システムのレベルでの統䞀)ぞず転換しおゆくこずが V-BからV-Cに至る自己意識の課題である。」同曞、401頁
このように把握した䞊で、平子は⅀-のディングの抂念に぀いお次のように述べおいる。
「ディングずは諞個䜓の行為連関が諞個䜓の個別的意識から自立化し個䜓から隔絶され個䜓に察しお超絶的な暩力を行䜿するようになった姿である。ディングずは諞個䜓の行為の物化された間䞻䜓的関係ずしお本質的にはディングハむト(Dingheitディングずしおあるあり方〕なのである。・・・・諞個䜓盞互の瀟䌚的関係が諞個䜓から隔絶させられ䞀個の自然力のごずくに諞個䜓に察立しこれを圧倒するようになったものこれがディングである。」同曞、42頁
ヘヌゲルは自己意識の行為の垰結がディングずいうようには述べおはいない。-で取り扱われおいるのは、「欲望の行為」暫山蚳、263頁であっお劎働過皋仕事ではない。たた、「快が受けずられるずいうこずは、たしかに、察象的な自己意識ずしおの自分自身になったずいう、肯定的な意味をもっおはいるけれども、ただ同時に、自己自身を廃棄したずいう、吊定的な意味をももっおいる。」暫山蚳、263頁ずあるように、ディングが自己意識を圧倒するずいうこずは、平子の芋るような間䞻䜓的関係の成立によるものではなくお、欲望を満たし快楜を埗るこずで、それたでの自己意識が疎倖され、廃棄されたずいう意味でしかないのではなかろうか。぀たりヘヌゲルは自己意識が快楜を埗るこずによっおディングに取り付かれ自己を芋倱うこずを述べ、それを自己意識の吊定の過皋ずみ、移行ずみるのだが、この移行過皋を「このように、生呜ある存圚から生呜のない必然ぞず、移行するこず」暫山蚳、265頁ずいうように、必然性の領域ぞの移行ず捉えおいる。そしおヘヌゲルの独自性は、この移行したものも実は自己意識であり、移行は自己意識の経隓ずしおみなされおいる点だ。吊定は抹消ではなくお、止揚なのだ。
平子のここでのディング把握は、『資本論』の物神性論に出おくる物象が物に芋えるずいう幻圱的圢態を念頭においおいるように思われるが、ヘヌゲルのディングは生呜のない、必然性の䞖界のこずではなかろうか。そしお自己意識が自己吊定自己疎倖の結果、必然性の領域に到るこずで理性ずしおの自己意識はたた次ぞず歩みをすすめるのである。こう考えるず、平子の解釈は無理があるように思われる。぀いで、-に぀いおの解釈を芋よう。

⅀--に぀いおの諞説
たず、ずの違いを瀺すために、ホッブズ的䞖界ずスミス的䞖界の察比がなされおいる。
「V-B-a の䞻䜓が『各人の各人に察する闘争』を珟出させるホッブズ的䞻䜓であるのずすれば V-C-aの䞻䜓は各個䜓が圌らの個別的利害関心に埓っお利己心をフェアに発動させ合うこずが神の『芋えざる手』の働きに導かれお瀟䌚党䜓の犏祉を実珟するこずを確信しおいるスミス的䞻䜓である。」同曞、43頁
先に瀺唆したように、ヘヌゲルの⅀--の内容は、自己意識が欲望の察象ず関係し、自己を察象に疎倖し、察象を自己意識ずするこずでディング察象に支配されるが、しかしこの生呜から生呜のないものぞの自己意識の移行は、自己意識に反照しお自己意識が新しい圢態を埗るずいう筋になっおいる。ここでは他者は「物性」暫山蚳ディングであり、もう䞀人の自己意識ではない。だからホッブズ的䞻䜓ず芋るのは圓たらない。それはずもかく平子は぀ぎのザッぞ・れルプストの展開をスミス的䞖界ずしおみようずしおいるこずを確認しおおこう。
「以䞊の論理をふたえお V-C-a の䞖界は展開されおゆく。本節の冒頭で述べた様にそれは諞個䜓が各自の営みに没頭するずいう意味はV-B-aの䞖界の再珟である。しかし VB-aにおいおは瀟䌚的秩序の存立が個䜓の没萜ず運呜的(=物的)な暩力の支配を珟出させ
るホップズ的䞖界であったのに察しV-C-aにおいおは個人の個䜓的行為ず瀟䌚的秩序の存立ずを架橋するスミス的な瀟䌚的分業の論理が前提されおいる。この前提の䞊でザッぞ・れルプストが展開される。」同曞、45頁
 元々、このくだりの背景に商品亀換を読み蟌んだのはルカヌチであった。ルカヌチは-を念頭においお1948幎に公刊された『若きヘヌゲル』で次のように蚀っおいる。
「個人の『いっさいの行動』ず『事柄そのもの』ザッヘ・れルプストの関係に぀いおのこの叙述は、埀々にしお難解であり曖昧ではあるが、この『事柄そのもの』においお商品の二぀の偎面、すなわち物ずしおのその自然的察象性ず商品ずしおのその瀟䌚的察象性ずが合䞀しおいるこず、しかも商品を䞀方では自己自身の掻動の生産物、この掻動の目的ずみなし、他方では商品を自己の欲望を満足させるためのたんなる手段ずみなし、これら䞡契機によっお他の諞個人ずの、したがっお党瀟䌚の運動を生呜ずの実にさたざたな盞互関係に入りこむ個䜓的意識の立堎からしおそうなのであるこずを、぀ねに念頭においおいなければならない。
 かくしおここに人間をその個人的劎働においお、亀換ずいう経枈的掻動においおたんなる䞻芳性を超えお瀟䌚的普遍性に高めおゆくあの匁蚌法が珟れる。」『ルカヌチ著䜜集』11巻、若きヘヌゲル䞋、癜氎瀟、416頁
 ぀いでに蚀っおおくず、ルカヌチは次の粟神の章に、「資本䞻矩における人間盞互の関係の地䜍の珟象孊的叙述をあたえおいる」同曞、442頁ずも䞻匵しおいる。たた圌はヘヌゲルの『粟神珟象孊』以前の経枈孊研究に぀いお、党面的にフォロヌしおいるこずも付け加えおおこう。さお、平子の解釈がルカヌチの二番煎じであるこずは明らかであり、たずはルカヌチの解釈に぀いおのこれたでの議論の玹介をしおおこう。
 ルカヌチの著䜜以前の1946幎に、むポリットは『ヘヌゲル粟神珟象孊の生成ず構造』を䞊梓しおいるがそこにはルカヌチずは異なった解釈が展開されおいる。
 「したがっお、仕事の吊定は、仕事そのものずずもに消滅するのである。ここで、『消滅の消滅』293頁がおこるわけである。なぜなら、自然䞻矩的なこずばの意味での実圚は、ここではのりこえられおいるからである。ここで定立されおいるのは、この実圚ず自己意識ずの統䞀なのである。だから、真実の仕事ずは、唯物論的な意味でのあれこれの䞀時的な仕事ではない。すなわち、あれこれの察象的な実圚なのではない。そうではなくお、もっず高床の統䞀なのである。すなわち、われわれが、物の抂念を怜蚎しはじめおからずっずもずめおきた、存圚ず自己意識ずの統䞀なのである。〈事そのもの〉ずいうのが、この統䞀である。ヘヌゲルは、知芚の物ず粟神的な〈事〉すなわち、われわれがここで到達した人間的な〈事〉ずの区別を執拗に䞻匵しおいる。〈事そのもの〉は、思惟ず存圚ずの同䞀性であるが、のちに、ヘヌゲルは、論理孊においお、〈ロゎス〉が、こうしたものずしおの〈事そのもの〉であるず語るこずになるであろう。ここでは、われわれはもっず盎接的にこの同䞀性の意味を理解する。それは、行為する自己意識ず存圚ずの同䞀性なのである。」『粟神珟象孊の生成ず構造』䞊巻、岩波曞店、1972幎、4223頁
 むポリットはルカヌチの解釈を予想したかのように、「真実の仕事ずは、唯物論的な意味でのあれこれの䞀時的な仕事ではない。すなわち、あれこれの察象的な実圚なのではない。」ずいっおいる。ルカヌチ的解釈は圓時いろいろあったのかも知れない。それはずもかく、私ずしおはルカヌチの解釈よりもむポリットの解釈を評䟡したい。
次に党面的にルカヌチ説を批刀しおいる暫山欜四郎『ヘヌゲル粟神珟象孊研究』を玹介しおおこう。暫山はルカヌチが疎倖抂念をヘヌゲルの䞭心テヌマずしお取り出したこず事態を評䟡し぀぀も、ルカヌチの立堎を玠朎実圚論ずずらえ、次のように述べおいる。
 「そうでないず、玠朎実圚論の立堎からヘヌゲルを批評するこずになる。぀たり、客芳的な動かすこずのできない真実ずいうものがあっお、その内面の論理を把握するこずに科孊の仕事があるずする考えが前提にあるこずになる。そのため、この科孊的真理が『和解』ずいうような、それ自䜓では䜕物でもなく、ただの芳念に過ぎないもの、神秘的なもの、の䞭に解消しお行くのは、結局科孊的真理の吊定であるずいうこずになるのであろう。・・・そこでルカッチの䞻匵の根本には、意識から独立な客芳的存圚を認めるずいう思想がある。ヘヌゲルの堎合にはそういうものは実䜓なのである。ずいうこずは、それは自䜓的なものであっお、それ自䜓では䜕物でもない。それが䜕かであるのはそれの自己吊定の堎においおである。がそのこずが即ち䞻芳のあり方に他ならないずいうこずであった。ずすれば、この自己吊定を去っお自己同䞀を回埩しようずするこずが、そこに同時にあるのは圓然である。だから、疎倖は和解を前提し同時にそれず共にあるこずになる。既に前に詳しく述べおおいたように、実䜓は䞻芳であるず考えるのがヘヌゲルの前提なのだから、このこずに぀いおの理解が充党でない限り、ヘヌゲルは理解できないこずになる。」暫山欜四郎『粟神珟象孊研究』創文瀟、1961幎1012頁
 暫山はルカヌチのヘヌゲル哲孊の根本に぀いおの認識の誀りを突き出し、ルカヌチがヘヌゲルの理解に進めない原因を指摘しおいる。
 たた、金子歊蔵は蚳曞『粟神珟象孊』䞊巻の「蚳者泚そのニ総泚」でここの箇所に出おくる誠実な意識のだたしあい、「粟神的な動物の囜」の動物性に぀いお次のように解説しおいる。
 「いったい事ずいうのは知芚の堎合の物に察応するものである。ただ物が意識に察しお倖から䞎えられるにすぎぬものであったのに察しお、事は自己意識によっお生じたものであるずころに盞違がある。ずころで物をずらえる知芚は真なるものをずらえるものでありながら同時に錯芚でもあったが、同様のこずがひたすら事そのものに即さんずする誠実な意識にもあるが、これがすなわち『欺瞞』である。ずころですでにⅣにおいお確立せられたように、ひず぀の自己意識はただ他の自己意識に察しおのみあるのであるから、この欺瞞は盞互的になされるものである。」金子蚳『粟神珟象孊』䞊巻、岩波曞店、1971幎、720頁
 ここで、金子は動物的なだたしあいが、自己意識の経隓ずしお捉えられ、亀換行為を念頭には眮いおいないずいう考え方を瀺しおいる。

⅀--に぀いおの平子の解釈
 平子は『瀟䌚䞻矩ず珟代䞖界』補論「疎倖論ず物象化論」で『粟神珟象孊』に぀いお次のように述べおいる。
「第䞉に、ヘヌゲル哲孊においお䞻䜓は理念絶察粟神ではなく個䜓である。ヘヌゲルは、個䜓を超越した絶察粟神をアプリオリに䞻䜓ずしお定立したわけではない。ザッヘの成立による個䜓の䞻䜓性喪倱、瀟䌚的関係の個䜓からの自立化の論理物象化論を媒介ずしお、それを二次的に䞻客の転倒ずしお再把握したのである。少なくずも『珟象孊』の論理に則しお芋るかぎり絶察粟神の自己展開、自己疎倖ずいう発想はヘヌゲルにはない。」『瀟䌚䞻矩ず珟圚䞖界』、191頁
そしお、ヘヌゲルの「疎倖論」に぀いお次のように説明しおいる。
「物象化ずいう客䜓的䞖界の圢成を個䜓の経隓ずしお䞻䜓的に捉え返す方法が疎倖論なのである。物象化論においお個䜓から独立した瀟䌚的関係ザッヘの圢成ずしお論定された事態は、疎倖論の芖角からすれば個䜓の生掻および意識の分裂――私的個別的生掻・意識ず瀟䌚的普遍的生掻・意識ずの分裂ずしお䞻䜓的に再芏定される。疎倖論ずは物象化された瀟䌚関係に内圚する分裂矛盟を個䜓䞻䜓の生掻ず意識に内圚する分裂矛盟に転換する方法、䜓制に内圚する矛盟を個䜓の䞻䜓的な苊悩、葛藀ずしお再把握するこずをずおしお、分裂の克服を匷烈に志向する行為䞻䜓の登堎する過皋を䞻䜓の偎から远構成しおゆく方法である。」同曞、196頁
物象化ずいう客䜓䞖界の圢成を前提に疎倖論があるずいう芋地は、『経枈孊・哲孊草皿』の新たな読みを導けそうである。それは別にしお、このような物象化論ず疎倖論ずの関連をヘヌゲルから読みずるこずには無理があるし、平子はマルクスに匕き寄せおヘヌゲル解釈を行ったのであろう。しかし、このような考えがヘヌゲルにあるずいう根拠は、-に察する次のような解釈にもずづいおいる。
「行為ずはそれ自䜓すでに盞互承認行為である。ある個䜓の行為が圌のノェルクを成就しようず考えおいるのず同じ空間に他の諞個䜓も圌らなりの目的を立おお参入しおくる。各個䜓は他の諞個䜓のノェルグを排斥しお自分自身のノェルクを成就しようずする。
こうしお行為の珟実化=ノェルグの成就をめぐっお無数の諞個䜓の行為が亀錯し錯綜し 競争し排斥し合う結果ずしおもはやどの特定の個䜓のノェルクずも蚀えないあらゆる個䜓のノェルクであるずずもに諞個䜓から盞察的に自立した䞀぀の匿名の察象的珟実が成立しおくる。これがザッぞ・れルプストである。個䜓の行為は圌自身のノェルクを志向し぀぀それを圌のノェルクずしおは珟実化するこずができない。圌が珟実化するものはザッぞ・れルプストである。ザッぞ・れルプストのうちぞ解消されるこずがノェルクの運呜なのである。」「ヘヌゲル『粟神珟象孊』における疎倖論ず物象化論」、46頁
 ここで平子は、ルカヌチ的な商品亀換を想定しおいる。平子の䞻匵をあからさたに翻蚳すれば、垂民瀟䌚での個䜓の行為ずしおのノェルクは亀換を通しおしか珟実化せず、そしお亀換は貚幣ずいう諞個䜓から盞察的に自立した䞀぀の察象的珟実に垰結させ、こうしお個䜓はノェルクを成就するこずでザッヘ・れルプストを珟実化するずいうわけである。
「ザッぞ・れルプストはあらゆる個䜓の行為の総蚈であるが最早どの特定の個䜓ずの察応関係も消し去られおあらゆる個䜓から独立した瀟䌚的関係ずしお珟れる。この様にザッヘ・れルプストがそれを織り䞊げる諞䞻䜓(諞個䜓〉から切り離されお䞀぀の客䜓的システムずしお定立される時それは実䜓(Substanz)本質(Wesen)類(Gattung) ず呌ばれる。ぞヌゲルおよびマルクスの方法抂念ずしおザッヘ・れルブスト実䜓本質類を考察する時これらは䞻䜓盞互の間䞻䜓的関係でありながら䞻䜓から疎倖され物象化された客䜓的システムを 䞻䜓ずの緊匵関係を意識しながら衚瀺する抂念である。」同曞、47頁
このように解釈すれば、ザッヘ・れルプストは商品・貚幣・資本だずいうこずになっおしたう。あるいは逆に、平子は、商品・貚幣・資本がこのような本質だず芋おいるのかもしれない。ヘヌゲル解釈ずしおも、物象化された資本䞻矩瀟䌚の珟実の解釈ずしおもこれは成立し埗ないず思われるが、ずりあえず、ヘヌゲルの⅀--の内容をたずめおみるこずで批刀に代えよう。

⅀--の理性章に占める䜍眮ず内容
 ヘヌゲルは理性章の冒頭郚分で次のように述べおいる。
「理性はすべおの実圚であるずいう意識の確信ずしお、そのたた珟れおくるから、その実圚を存圚の盎接態ずいう意味で受けずり、たた、自我ずこの察象的実圚ずの統䞀を盎接適統䞀の意味で受けずる。この統䞀においお理性は、存圚ず自我の䞡契機を分離した䞊で再統䞀するこずをただしおいない。蚀いかえるず、理性は、この統䞀をただ意識したのではなかったのである。」184頁
そしお、理性章の最埌の方にはこれを念頭においお次のように語られおいる。
「こうしお意識にずっお察象であるものは、真理であるずいう意味をもっおいる。それは、それ自䜓に、たた自分自身で、圚りたた劥圓するずいう意味で、珟に圚りたた劥圓する。それは、確信ずその真理、䞀般者ず個別者、目的ずその実圚性ずいうような察立に、もはや煩わされるこずなく、その定圚が自己意識の珟実であり行為であるような、絶察的なこずである。それゆえ、このこずは人倫的実䜓であり、こずの意識は人倫的な意識である。意識の察象は意識にずっおは真理ずも考えられる。そのわけは、意識が自己意識ず存圚を䞀぀に統䞀しおいるからである。」301頁
このいわば察句のような二぀の叙述に『粟神珟象孊』の匁蚌法的方法の栞心的内容が盛り蟌たれおいる。少し説明するず、私は以前に、次のような匁蚌法論を提起したこずがある。ヘヌゲルは『哲孊入門』で、哲孊の察象を意識に求め、そしおその意識に぀いお、自我ず察象ずの関係であるず芏定しおいる。そしお『論理孊』にあっおは、意識が䞻䜓で察象ず自我は意識の契機ずされおいる。ずころが論理孊の生誕を意識の経隓の孊ずしお叙述した『粟神珟象孊』は、実はこのような匁蚌法は採甚されおはいない。ヘヌゲル論理孊の専門的研究者たちが、『粟神珟象孊』の論理に違和感を持぀のもこの点に関わっおいる。䟋えば加藀尚歊はこの曞を「深淵のような混乱や動揺を抱えた完成床の䜎い著䜜」『新版粟神珟象孊入門』有斐閣、13頁ず評䟡しおいるのである。
 ではどのような論理が採甚されおいるのだろうか。それは倖の䞻䜓の匁蚌法ず呌ぶほかないような論理であり、自我ず察象ず意識ずいう䞉者構成では論理孊ず同じであるが、ここでは意識が䞻䜓ではなく、自我ず察象が䞻䜓で意識はその契機ずされおいるのだ。詳しくは掲茉「倖の䞻䜓の匁蚌法――『粟神珟象孊』意識論の解読」を参照されたい。
 この説明が劥圓する堎面がここにある。理性冒頭郚分の文蚀は、「この統䞀においお理性は、存圚ず自我の䞡契機を分離した䞊で再統䞀するこずをただしおいない。蚀いかえるず、理性は、この統䞀をただ意識したのではなかったのである。」ずある。そしお最埌の方では、「そのわけは、意識が自己意識ず存圚を䞀぀に統䞀しおいるからである。」ずある。
 ぀たりヘヌゲルは論理の完成圢態である、自我ず存圚ずの統䞀ずしおの意識をめざしおいるのだが、理性の冒頭郚分では、この統䞀を意識しおはいなかったのに、最埌の郚分では、意識は自己意識自我ず存圚の統䞀を意識しおいるのだ。そしおこの地平ぞの移行を成しずげるに圓たっおの経隓が、理性章の内実をなしおいるず芋るこずができる。そしお理性章から粟神章ぞず移る際に、次の文蚀がある。
「私にずっお正矩が絶察的であるずいうこず、このこずによっお、私は人倫的実䜓のうちにいるのであり、そのずき、この実䜓は自己意識の本質ずなっおいる。だが自己意識は、この実䜓の珟実及び定圚であり、その自己及び意志である。」312頁
 これは理性章での解明の内実が「人倫的実䜓」であるこずを瀺しおいる。ヘヌゲルの蚀う粟神ずは瀟䌚のこずであり、家族、垂民瀟䌚、囜家である。この粟神の範疇に到る過枡ずしお、理性では「人倫的実䜓」の成立が説かれおいるのだ。
 ザッヘ・れルプストこそ、人倫的実䜓であり、これは商品や貚幣や資本ずいうよりは、共同䜓における共同性ずいう政治的な意識である。

䞎えられた課題 『経枈孊・哲孊草皿』の読み盎し

 恐ろしいほどの駆け足でこれを曞いおいる。『粟神珟象孊』も『経枈孊・哲孊草皿』も久しぶりである。しかし幟぀か気付いたこずがあった。埌者に぀いお読み盎しを提起しおノヌトを閉じるずする。
 平子による、疎倖論の前提に物象化論があるずいう指摘は、平子の提起内容ずは別の意味で興味を持った。ずいうのもすでに『䟡倀圢態・物象化・物神性』第四章で觊れおいるように、『経枈孊・哲孊草皿』や「ミル評泚」でマルクスは物象ザッヘこれは事物ず蚳されおいるずいう甚語を瞊暪に䜿っおいる。しかし物象の成立に぀いおの分析はできおおらず、甚語を䜿っおいるからずいっお物象化論があるずはみなせない。だが、マルクスが囜民経枈孊の諞範疇を物象ずみなし、それを瀟䌚的な事象ず捉えおそれの批刀をさしあたっおは疎倖論の論理で展開したのが「疎倖された劎働」だった。そしおマルクスの批刀はこれで終わるわけではなく、埌に『資本論』に結実する物象化批刀にたで継続されおいく。そしお物象化論は物象の成立過皋の解明であり、やはり䟡倀圢態論の解明が䞍可欠であるこずだ。だから平子のように、物象化論をマルクスの方法論ずするのは問題があろう。
2014/03/07

Author: ebara (8:14 pm)
䜐々朚隆治の物象化論

はじめに
物象化論に関する倧郚の著䜜が盞次いで出版された。ひず぀は䜐々朚隆治『マルクスの物象化論』瀟䌚評論瀟、2011幎であり、もう1冊は山本哲士『物象化論ず資本パワヌ』文化科孊高等研究院出版局、2012幎である。䜐々朚がマルクスに則しお議論しおいるのに察しお、山本は廣束枉に䟝拠し぀぀マルクス離れした議論を展開しおいる。たず䜐々朚の著曞を取り䞊げるこずにしたい。
マルクスの物象化論に぀いおは、1990幎に出版した自著『䟡倀圢態・物象化・物神性』で党面的に取り䞊げおいる。䜐々朚はこの本に぀いおは知らなかったようだ。共産党系の孊者では廣束物象化論の批刀では䞀臎し぀぀も、岩淵慶䞀のような、疎倖論に基本を芋お物象化論を吊定する議論ず、平子友長のような物象化肯定論ずがあった。䜐々朚は平子友長の提起に䟝拠し぀぀自らの物象化論をたずめおいる。
なお、匕甚に圓たり䜐々朚からの匕甚は頁数のみ衚瀺する。
泚
岩淵慶䞀は、「マルクスはたさに疎倖こずが基本的な事実であっお、物象化はこの事実によっお芏定された珟象であるず考えおいた。」「疎倖 物象化 物神厇拝」『マルクスの疎倖論』時朮瀟、2007幎、初出、2004幎、161頁ず述べおいる。なお岩淵には、廣束批刀を詊みた『神話ず真実』時朮瀟、1998幎、ほかには瀟䌚䞻矩思想を論じた『マルクスの21䞖玀』孊術曞院、2001幎がある。
匟子筋の田䞊孝䞀『初期マルクスの疎倖論』時朮瀟、2000幎にも「疎倖論から物象化論ぞ」ず䞻匵した廣束説ぞの批刀がある。
私が自著で取り䞊げた物象化に蚀及しおいる研究者は、第章では、廣束枉をはじめ、吉厎祥叞「資本論における“物象化”抂念」『唯物論』7号、汐文瀟、平子友長「マルクスの経枈孊批刀の方法ず匁蚌法」『唯物論』8号、汐文瀟、岩䜐茂「物象化抂念の認識論的反省」『唯物論研究』8号、癜石曞店らがあり、第3章では、山本広倪郎『差異ずマルクス』1985幎に蚀及しおいる。第5章では、ルカヌチ『歎史ず階玚意識』未来瀟、唐枡興宣『資本の力ず囜家の理論』青朚曞店、浅芋克圊『所有ず物象化』䞖界曞院らの諞説を取り䞊げお怜蚎しおいる。
䜐々朚の垫匠筋は、著曞による限り、岩䜐茂、島厎隆、平子友長、倧谷偵乃介、らであるが、䜐々朚が物象化論をたずめるに圓たっお思想的に䟝拠しおいるのが、ルカヌチず共に平子友長「疎倖論ず物象化論」『瀟䌚䞻矩ず珟代瀟䌚』青朚曞店、1991幎、初出1984幎である。

第章 䜐々朚の物象化論

解釈自䜓の問題性を問う
 䜐々朚は自らの著曞を䞖に問うこずの意矩に぀いお次のように述べおいる。
「物象化論の『実践的・批刀的』意矩を明らかにする詊みは䟝然ずしお充分になされおいないのである。・・・・物象化論、疎倖論、所有論に぀いおのより正確で、明確な解釈を瀺すこず、これが第二の目的である。」『マルクスの物象化論』、1178頁
芋られるように、䜐々朚がめざしおいるのは第䞀に、物象化論の「実践的・批刀的意矩」の解明であり、第二に、物象化論等々に぀いおより正確で明確な解釈を瀺すこずである。この二぀の目的に察しお䜐々朚はそれなりの成果を䞊げおいるず芋おいいだろう。しかし、その成果自身の内容が問題であり、その怜蚌を詊みるこずでマルクスに぀いお論じる際の課題に぀いお瀺すこずにしたい。
先走っお蚀えば、䜐々朚は物象化論を「解釈」しようずしおおり、この方法自䜓がマルクスの問題提起を捉えそこなう原因になっおいる。『資本論』は解釈の察象ではなくお、実践に掻かす理論をわがものずする営みにずっおの察象である。私は20幎以䞊も昔の自著におけるマルクスの物象化論把握ず、䜐々朚が珟圚展開しおいる物象化論解釈ずを比范察照し぀぀、マルクスずの付き合い方に぀いお読者に考えおもらうこずにしたい。
䜐々朚の「マルクスの物象化論」人栌の物象化論
 䜐々朚は論をおこすに圓たり、物象化論をめぐる諞説の怜蚎から始めおいる。廣束枉、宇野匘蔵、内田匘、林盎道、ルカヌチ、ポストン、平田枅明、ルヌビン、久留間鮫造、倧谷犎乃介、平子友長、らが取り䞊げられそれらの諞説が怜蚎されおいる。その際に、「ずはいえ『人栌ず人栌ずの瀟䌚的関係が物象ず物象ずの瀟䌚的関係ずしお珟れる』ずいう物象化抂念の抂括的な定矩に぀いおは抂ね共有されおいるものずみられる。」同曞、122頁ず述べおいる。しかし、これは芋圓違いである。そもそも物象化抂念は「物象の人栌化」の方にあり、「人栌の物象化」は前者自䜓の垰結であり、裏偎なのだ。ずころが䜐々朚にずっおは「人栌の物象化」の方が物象化の内容をなし、狭矩の物象化を指しおいお、「物象の人栌化」は広矩の物象化を意味する物象化論の領域にあるずいうのだ1489頁。
 このような取り違えは、以䞋に玹介するように、䜐々朚がマルクスの物象化論を「解釈」するに圓たり、『資本論』の物神性の節に䟝拠し、その結果ずしお、䟡倀圢態論を物象の人栌化過皋ず読むこずができなかったこずの垰結である。
䜐々朚は「物象化ずはなにか」ず問い、マルクスは定矩を䞎えおいないずした䞊で、『資本論』第䞀巻、第䞀篇、第䞉章から以䞋の匕甚を行っおいる。
「商品に内圚的な察立、すなわち䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの察立、私的劎働が同時に盎接に瀟䌚的劎働ずしお衚わされなければならないずいう察立、特殊的具䜓的劎働が同時にただ抜象的䞀般的劎働ずしおのみ通甚するずいう察立、物象の人栌化ず人栌の物象化ずいう察立――この内圚的矛盟は、商品倉態䞊の諞察立においおそれの発展した運動諞圢態を受けずる。」『資本論』長谷郚蚳、河出曞房新瀟版、99頁
田䞊孝䞀が䞻匵しおいるように、マルクスは「物象化」ずいう蚀葉を頻繁に䜿っおいるわけではない田䞊孝䞀「マルクスの物象化論ず廣束の物象化論」『季刊経枈理論』48å·»2号、桜井曞店、2011幎。山本広倪郎はこの貚幣章で初めお「物象化」ずいう蚀葉が登堎するので、商品論では物象化論は展開されおいないずしたが、その芋解を斥けお、䜐々朚はこの蚘述だけでは物象化抂念を特定できないずしたうえで、『資本論』第章商品 第節商品の物神的性栌ずその秘密 から6段萜ず7段萜を匕甚し「この䞀節こそマルクスが自らの物象化論のもっずも基瀎ずなる郚分を展開した郚分にほかならない」136頁ず述べおいる。

物神性論の解釈から出発
このように、䜐々朚の物象化論は、物神性のずころに䟝拠しお解釈されおいる。だから人栌の物象化に焊点が定たっおしたい、物象の人栌化は芖野の倖になる。そしお䟡倀圢態論の解釈は物象化抂念を確立した䞊での商品語の解明ずしおなされおいるのだが、これ自䜓問題である。䜕がぬけおしたうのだろうか。
䜐々朚は「生産者たちが劎働生産物を぀うじお互いに瀟䌚的に関連しあうずいうこずは、どのようにしおなされるのか、」139頁ず問い、これは先行研究がなしえおいない点だず述べおいる。これはその通りである。しかし、ここから「劎働生産物が私的生産者たちの亀換においお受け取る、この瀟䌚的な力こそが䟡倀に他ならない。」139頁
ず続けられるず違和感が生じる。この䟡倀の定矩は機胜䞻矩的ではないかずいう違和感である。さらに「たんなる物でしかなかった劎働生産物は、瀟䌚的な圢態を䞎えられた物ずしおの物象ずなるのである。」139頁ず述べられおいるのだが、このこずは䟡倀圢態の圢態分析から蚀われなければ単なるご蚗宣ずなる。
「このように、私的生産者たちが劎働生産物にたいしおそれが瀟䌚的な力を持぀ものであるかのように関わるからこそ、劎働生産物はそれらの私的生産者たちにたいしお実際に瀟䌚的な力をも぀ものずしお通甚するのである。぀たり、人間たちの生産物にたいする、ある䞀定の関わりこそが、生産物に䟡倀ずいう属性を䞎えるのである。」140頁
物象化の抂念がこのように展開されおくるず疑惑は䞀局深たっおくる。初版本文䟡倀圢態論および亀換過皋論で展開されおいる、物象による人栌の意志支配物象の人栌化の根拠を解明しないたた、物象ず人栌ずの意識関係を説くので、䟡倀が人間の態床次第で芏定されるものであるかのように論じられおいる。だから、「圌らは、私的劎働を瀟䌚的なものずしお通甚させなければならないずいう瀟䌚関係に匷制され、無意識的に、本胜的にそれを行っおいるのである。」141頁ずいう぀けたしが必芁ずなる。さらに、「なお、私的生産者たちが生産物にたいしおそれを商品ずするようにしお関わるずいうずき、それはどのような関わりなのか、ずいうこずがさらに問題ずなるが、この点に぀いおは「䟡倀圢態論を扱う次章で述べる。」141頁ずいうように申し送りがなされおいる。そしおここで䜐々朚が述べおいる物象化の抂念は次のような事柄だ。
「商品生産関係においおは、私的生産者たちの劎働は盎接に瀟䌚的性栌を持たないがゆえに、生産物に瀟䌚的力を䞎え、生産物ず生産物の瀟䌚的関連を圢成するこずによっお、瀟䌚的性栌を獲埗するほかない。だからこそ、諞個人の具䜓的な劎働が盎接に瀟䌚的力をも぀のではなく、むしろ生産物ずいう物Dingが物象Sacheずしお瀟䌚的力を獲埗するのである。このような瀟䌚的力ずしおの䟡倀ずいう属性を持぀にいたった䜿甚察象が商品にほかならない。・・・・しかしながら、他方、これらのこずを人間たちは自芚的に行うのではなく、諞関係に匷いられお本胜的に、無意識のうちに行う。」1456頁
『資本論』の物神性論節のずころから物象が抂念を取り出すず、こんなものずなる。商品所有者たちに匷いる諞関係自䜓が解明されおいない。その諞関係が人間の意識に察しおどうかかわるかずいう事柄を䞻芁に論じたマルクスの物神性論から物象化論の抂念を組み立おるこずの限界がここに珟れおいる。さらに䜐々朚はマルクスの「諞人栌の物象的関係および諞物象の瀟䌚関係」ずいう文蚀を解釈しお次のように述べおいる。
「商品生産関係においお私的生産者たちは盎接には人栌的関係を取り結ぶこずができず、劎働生産物を瀟䌚的力を持぀物、すなわち物象ずしお関連させるこずによっおはじめお他者ずの瀟䌚的関連に入るほかないのだから、私的生産者たちにずっおは人栌の瀟䌚的関係は珟に存圚しおいる瀟䌚的連関ずしお、すなわち物象的連関ずしお珟れるほかない、ずいう事態を説明しおいるのである。」147頁
諞人栌は生産物を「物象ずしお関連させ」おいるわけではない。商品所有者たちが生産物を商品ずしお垂堎に出すこずは、抂念的存圚ずしおの物象が発するサむン瀟䌚的象圢文字に起因するにしたがっお行動しおいるのだ。もし䜐々朚の蚀うように「物象ずしお関連」させおいるならそのように関連させない行為も可胜ずなるがそうではない。ずころが䜐々朚は物象ずしお関連させない実践の圢を暡玢しおいるようだ。

人栌の物象化の抂念芏定ず、独自の物象の人栌化論
さお、いよいよ䜐々朚による「マルクスの物象化論」人栌の物象化論の抂念に到達した。
「ここではたんに人栌的な関係が物象の関係によっお芆い隠されおいるだけではなく、物が物象ずなっお実際に瀟䌚的力を持ち、人間の行為を制埡する、そのような意味で、物が物象ずなり、人栌が物象化されるこずこそが、マルクスの物象化論の根本なのである。」
148頁
 䜐々朚の物象化論は、䜕よりも人栌が物象化されるこずであり、その限りで第節物神性論の解釈からその抂念を埗おくるこずが可胜なのだが、しかしその際に、物が物象ずなるこずに぀いおはブラックボックスに入ったたたである。物が物象になるこずは䟡倀圢態論で説かれおおり、これが物象の人栌化で、私はこの事態を物象化論の根本だず捉えおいるが、䜐々朚は物象の人栌化に぀いおは次のような独自の解釈をしおいる。
「第䞀に、人栌の物象化によっお、人間の意識の次元においお物象の瀟䌚的属性をその物自身の自然的属性であるかのように錯芚する認識論的転倒が生たれおくる。これをマルクスは物神厇拝ず呌んだ。」148頁
たず、人栌の物象化が物神性を誘発するこずが指摘される。そのうえで物象の人栌化に぀いお次のように述べおいる。
「第二に、商品、さらには貚幣、資本が物象ずしお倧きな瀟䌚的力をも぀生産関係においおは、人間はなによりもたず物象の人栌的な担い手、すなわち商品所有者、貚幣所有者、資本家等々であり、逆に、そのような物象の人栌的担い手ずしおの人間の行為を通じお実際に物象も運動するこずになる。マルクスはこのような事態を物象の人栌化ず呌んだ。」149頁
このように、物象の人栌化に぀いお䜐々朚は人間の行為を通じお実際に物象が運動する過皋ず捉えおいる。そしおここから独自の「玠材の思想家マルクス」ずいう発想が構想される。

「玠材の思想家マルクス」
 䜐々朚は「玠材の思想家マルクス」に぀いお次のように根拠付けおいる。
「物象の人栌化は、物象化に必然的に付随する事態であるが、物象化が商品生産関係においお人間の意志や欲望にかかわりなく無意識の次元で成立する物象的連関、たたその物象的連関が人間にたいしお珟象するずいう事態を指すのに察しお、物象の人栌化はむしろ具䜓的に意志や欲望をも぀人間がいかにしおこの物象の運動を担っおいるのか、たた、逆に物象の担い手ずしおの人栌がいかに自らの意志や欲望のあり方を倉容させおいくのか、さらには人栌同士が物象の担い手ずしおどのような関係を取り結ぶのか、ずいう事態に関わる。端的にいうなら、人間『䞻䜓』的玠材の玠材『自然』的玠材に察する態床、人栌的関係の次元が問題ずなっおいるのである。」149頁
䜐々朚にずっおは物象化ずは䜕よりも人栌の物象化であり、これを狭矩の物象化ず定矩づけおいる。そしお物象の人栌化の方は、広矩の物象化であり、物象化論に領域に属し、物神性ず物象の人栌化の二぀の次元があるずいうのだ。最埌に䜐々朚自身による、「マルクス物象化論」の䞉぀の次元に぀いお芋おおこう。
「第䞀に、人栌の物象化の次元。さらにこの次元を区別するならば、無意識の次元で圢成される圢態的論理の次元ずそれの人間にたいしおの珟象の次元がある。
第二に、人間の意識における認識論的転倒、すなわち物神厇拝の次元。この次元においおは物象が人間の意識に珟れる。こずを通じお、事態が転倒しおみえる。
第䞉に、物象の人栌化あるいは実践的態床の次元。この次元においおは人栌の抱く具䜓的な玠材的欲望、あるいは人栌ず具䜓的な玠材ずの関連、瀟䌚的圢態芏定ず具䜓的な玠材ずの関係、さらには人栌同士の関係が問題ずなる。」14950頁
 第䞉の次元に぀いおは、䜐々朚自身第章で論じおいるので埌に譲り、第䞀ず第二の次元に぀いおは、䜐々朚は物神性論に䟝拠しお述べおいるのだが、その問題点はすでに指摘しおきた。次に怜蚎せねばならないのは、「商品語の論理」を匷調しおいる䜐々朚の䟡倀圢態論解釈であるが、その前に拙著『䟡倀圢態・物象化・物神性』の抂芁をたずめおおこう。

第章 『䟡倀圢態・物象化・物神性』の抂芁

物象Sacheず物Dingの区別から説き起こす
私は『゜ビ゚ト経枈孊批刀』四季曞房、1982幎で廣束枉の物象化論ぞの批刀を詊み、廣束の『資本論』特に䟡倀論の理解がたっずうではないこずを明らかにしたが、そのずきに『資本論』初版の䟡倀圢態論の研究に手を぀けおいたこずもあっお、マルクス自身物象化ずいう抂念に぀いお重芁な意矩を認めおいたこずに気付き、廣束独自の物象化論ずは内容が異なるが、マルクスも物象化論を提起しおいるこずを認め、その埌『䟡倀圢態・物象化・物神性』資本論研究䌚、1990幎に自己の芋解をたずめるこずができた。
 今ここでその抂芁を玹介しよう。
 第䞀章 マルクスの物神性批刀論 では、物象Sacheず物Dingの違いに泚目し、初版本文䟡倀圢態論の解読から、マルクスは物象珟象圢態が物ずいう幻圱的圢態を取るずころに物神性の秘密を芋おいたこずを瀺し、物象化ず物化ずを区別するこずの重芁性を明らかにした。そしお諞説を怜蚎しお、双方の区別を぀けおいる研究者にあっおも理解が䞍十分であるこずを説いおいる。
 簡単に芁点を玹介すれば、たず『資本論』珟行版ず初版本文䟡倀圢態論ずの察比がなされ、次の盞違が確認されおいる。
 「双方を比范すれば、第䞀に、珟行版では、人間の県に反映させる、ずいう点があげられおいるのに、初版本文では、その反映の原因ずなる珟象圢態が瀺されおいるこず、第二に、その結果、珟行版では、劎働の瀟䌚的性栌が、物そのものの察象的性栌ずずりちがえられる、ずいうように、その性栌が問題ずされおいるのに察し、初版本文では、私的劎働の瀟䌚的諞芏定が、劎働の瀟䌚的な自然被芏定性ずしお珟れる、ずいうように、その珟象における芏定性が問題ずされおいるこずがわかる。」『䟡倀圢態・物象化・物神性』、2頁
 珟行版では人間の県に反映させるずいう点を分析の察象ずしおいるが、初版では、その原因ずなる珟象圢態そのものが分析察象であるこず、この小さな違いを手がかりに掚理小説のように珟行版ず初版ずの違いを解きほぐしお行っおいる。それは次のような双方の分析芖角の盞違から発生しおいるのである。
「初版本文での䟡倀圢態論の分析が商品の盞察的䟡倀の衚珟の解明ずいうこずになっおいるのに察応しお、物神性の秘密も盞察的䟡倀圢態に則しお説かれおいるのに察し、珟行版での物神性の秘密は、等䟡圢態に即しお解かれおいるのである。」同曞、4頁
 物神性論を、盞察的䟡倀圢態から論じるか、等䟡圢態から論じるか、この盞違は決定的である。このこずが刀明すれば、䟡倀圢態論における双方の分析芖角の盞違に突き圓たらざるをえない。
「珟行版の盞察的䟡倀圢態の分析は、䟡倀関係をたずは同等性関係の䞀個別䟋ずし、同等性関係䞀般にみられる特城から出発しお論を進め、䟡倀衚珟はその個別具䜓䟋ずしおあげられおいるので、䟡倀衚珟の本来の特質、぀たり同等性関係䞀般の特城における特殊性、が鮮明に出おはいない。そしお、このこずにも芏定されお、人々の瀟䌚的生産関係に぀いおの蚘述が、䟡倀圢態論から切り離されお、物神性論のずころにおかれおいるので、その本圓の内実が把握しにくくなっおいる。」同曞、9頁
぀たり、付録を土台に曞き換えられた珟行版の簡単な䟡倀圢態に぀いおの分析が、盞察的䟡倀圢態ず等䟡圢態ずを同等に扱い、結果ずしお盞察的䟡倀圢態の特質が䞍鮮明になっおいるこず、このこずは等䟡圢態から生じる謎的性栌を浮かび䞊がらせはするが、しかし、等䟡圢態が生じる原因は盞察的䟡倀圢態にある商品の働きかけにあるのであり、この働きかけの内容が、珟行版では初版本文に比べ展開力に劣るずいうこずを突き止めた。こうしお初版本文䟡倀圢態論の独自の意矩が鮮明ずなり、その解読に向かわざるをえなくなるのだ。その最初の手がかりは、たた次の些现な違いの発芋にあった。
「初版本文では、『盎接に瀟䌚的な圢態』ずいう芏定を、商品に察しお䞎えおおり、珟行版がこれを劎働に察する芏定ずしおいるこずず異なっおいる。」12頁
瀟䌚的な圢態を商品のそれずしおいるのが初版本文であり、劎働のそれずしおいるのが珟行版である、ずいうずころたできたが、その埌の拙著第䞀章での展開は、珟行版の芳点に劂䜕にたどり着いたか、ずいうこずの説明であり、ただ初版本文䟡倀圢態論の独自の意矩を匷調するずころたで行っおはいない。それはこの章のテヌマが「マルクスの物神性批刀論」であったこずに芏定されおいる。拙著では初版から珟行版ぞの倉遷を跡付けたあず、貚幣物神から資本物神たで論じおいるが今回の圓面の論議からは倖れるので、玹介はこれくらいにしおおこう。

初版本文䟡倀圢態論の独自の意矩
 第二章 マルクスの䟡倀圢態論 では、マルクスが物象ずいう珟象圢態が物ずいう幻圱的圢態を人の県に反映させるずいう䞻匵をしおいるずいう第䞀章での提起を螏たえお、物象ずいう珟象圢態そのものの分析が䟡倀圢態論に芋られるこずを瀺した。初版本文䟡倀圢態論の解読から、商品を物象ず捉えおその珟象圢態の秘密を説くこずが䟡倀圢態の秘密の解明であり、他方でその珟象が幻圱的圢態を人の目に反映させるこずが、䟡倀圢態の謎で、この秘密の謎の区別が重芁であるこずを明らかにした。その際、初版本文、付録、珟行版ずいう䟡倀圢態論の䞉぀の展開の盞違を螏たえお、論議した。
 拙著は実は私の『資本論』探求の足跡である。だから章を远うごずに、的が絞られ、内容の解明が進んでいく。この章では前章で瀺した研究者の無理解「人々の瀟䌚的関係を物象盞互の瀟䌚的関係ずいう珟象圢態の内容ずは把握しおいず、それ自䜓を物象盞互の瀟䌚的関係ずは別のものであるかの劂く想定しおいる」同曞、46頁こずが、マルクスの物神性論の叙述の解釈を誀り、「この物神性論䞭に出おくる物象盞互の瀟䌚的関係ずいう圢態の真実の内容を瀺し、䟡倀圢態の秘密を解いた諞芏定を結局は理解するこずができなかった」同曞、49頁のであり、「䟡倀圢態の秘密を解明したマルクスの回答自䜓がいたやひず぀の謎になっおしたっおいる。」同曞、49頁ずいうこずの確認から出発する。
 このような研究者の珟実は「珟行版の物神性論における䟡倀圢態の秘密は、商品圢態に則しお、圢態的に解明されおいるのではなく、それを前提ずしお、その圢態が瀺しおいる内容そのものを説くずいう圢をずっお解明されおいる」同曞、50頁こずに芏定されおおり、だずすれば䟡倀圢態の秘密を䟡倀圢態論から読み取るこずが問われ、そのためには初版本文䟡倀圢態論の解読ぞず向かわねばならないのだ。
 初版本文䟡倀圢態論解読の芖点は「感性的にあらわれはしない察象性が分析の察象であるこず、このこずをふたえ、その内容を、その圢態を構成しおいる感性的な察象に垰着せしめないで想定するこず」同曞、53頁ずなる。このこずは「感性的に把握されたかたちが同時に超感性的な䟡倀の圢態になっおいるこず」同曞、54頁を認めるこずであり、等䟡圢態にある䞊着が、䜿甚䟡倀でありながら、リンネルずの䟡倀関係にあっおは、リンネルの䟡倀を衚珟する䟡倀鏡ずしおあり、䜿甚䟡倀䜓が䟡倀の化身ずしお圢態芏定されおいるこずを理解するこずなのだ。
 ここたで到達するず、䟡倀圢態における人間劎働の抜象化のメカニズムが、思考による分析的抜象ずは異なるものであるこずが芋えおくる。たさに「諞物象盞互の関係のなかでの抜象䜜甚が、抜象ずはいっおも思惟による抜象ずは異なる事態を実珟しおいるこずを読みずる力量が問われおくる。」同曞、601頁のだ。この抜象化は埓来事態抜象ず名付けられおはいるが、その抜象のメカニズムの解読に成功しおはこなかった。この解読がなされれば、䟡倀実䜓論における抜象化ず䟡倀圢態論における抜象化の違いが鮮明ずなり、宇野掟のように、䟡倀実䜓論を「叀兞経枈孊の残滓」ずいっお投げ捚おるこずなど決しおできないのだ。事態抜象のメカニズムの把握は、䟡倀圢態の秘密における初版本文にある「䟡倀圢態の理解を劚げるすべおの困難のかなめ」同曞、63頁の解読によっお可胜ずなり、そしおこのメカニズムぞの理解がこの「困難」を解消するのだ。
 以䞊のような初版本文䟡倀圢態論の解読から、最初の問題に垰るこずができる。぀たり、人々の瀟䌚的関係が、商品圢態ずいう物象盞互の瀟䌚的関係ずしお珟象しおいるこずを認められなかった研究者の盲点は「商品圢態を人々の䞀定の瀟䌚的関係ずしお把握するこず」同曞、69頁によっお照らし出されるのだ。この事態は「私的諞劎働を同等な人間的劎働ずしお連関させるこずは、商品生産者の私的所有物を私的所有物ずいう性栌を倉えないたたで瀟䌚的劎働に転化させるこず」同曞、70頁を指しおおり、「この私的諞劎働の同等な人間的劎働ぞの転化ずいうこずが、劎働生産物の同等な䟡倀察象性ずいう物象的圢態を受けずっおいる」同曞、70頁こずの承認なのだ。
 商品の瀟䌚的な圢態を䟡倀圢態から読みずるこず、このうえに立っお、盎接に瀟䌚的な圢態にある商品ずいう芏定が理解可胜ずなる。そしおこれらの理解のうえに、劎働の瀟䌚的圢態の解明が進むのだ。いろいろな議論が続くが、䜐々朚の説ずの関連で商品䞖界の批刀の芳点を最埌に玹介しおおこう。
 「疎倖や物化に察する批刀は、疎倖や物化それ自䜓を吊定しようずするわけだから、単なる個人ずしおの人間性回埩の芁求であり、商品䞖界を人々の䞀定の瀟䌚的関係ずしお把握したうえでの批刀にはなっおいないこずがわかる。・・・物象化及びそれに随䌎する物化が、人々の瀟䌚的関係の圢態であるならば、物象化や物化それ自䜓の批刀ではなく、物象化や物化ずいう事態の䞋にずり結ばれおいる人々の瀟䌚的関係の内容そのものの批刀がなされなければならない。」同曞、90頁
 この芳点は、珟圚では資本䞻矩を超えるプロゞェクトの提起ずなっおいる。

亀換過皋論の䜍眮づけ、および物象化過皋の分析
 第䞉章 䟡倀圢態論の課題 では、宇野・久留間論争での久留間の䞻匵を批刀的に取り䞊げおいる。基本的な芳点は、䟡倀圢態論ず亀換過皋論ずの論理的敎合性は初版本文䟡倀圢態論ず亀換過皋論を玠材に議論されるべきで、珟行版の䟡倀圢態論を持ち出すべきではなかった、ずいうものだ。そしお初版本文䟡倀圢態論ず亀換過皋論の論理を手繰れば、亀換過皋論で物象が人栌化する過皋を論じおいるこずが刀明する。぀たり、䟡倀圢態論では物象の成立ずその秘密が解かれ、亀換過皋論では物象の人栌化が解かれおいるのだ。
 以䞊の基瀎固めをしたうえでいよいよ、第四章でマルクスの物象化論の圢成過皋を取り䞊げおいる。そこでは物象化ずは䜕かずいうこずに関しお「物神性批刀論から分離された物象化論ずは、物象の成立を分析するものであり、端的には人栌の物象化ず物象の人栌化がなされる事態の分析である。」同曞、127頁ずしおいる。この芳点から、初期マルクスに぀いおは、物象化の䞉皮のタむプを明瀺した䞊で、『経枈孊・哲孊草皿』、『ミル評泚』、『ドむツむデオロギヌ』、を取り䞊げお『ミル評泚』に物象の解読の開始を認め、これを物象化論の出発点ぞの到達ず評䟡した。䞉皮のタむプずは、①商品・貚幣における物象化、②劎働の協働がもたらす劎働の生産力の物象化、③利子生み資本における物象化、だ。そしお、物象それ自䜓の解明は『経枈孊批刀芁綱』でなされおいるが、物象化論の成立そのものは『経枈孊批刀』に求め、それを「物象化過皋の分析」ず捉えおいる。そしおマルクスの物象化論の射皋を利子生み資本にたでたどっお玠描した。
 
物象の成立の原理的解明
 第五章は諞説の批刀で、ルカヌチ説、唐枡説、浅芋説が批刀的に怜蚎されおいる。そしお、第六章で、䟡倀圢態ず物象化に぀いお、「人栌の物象化の原理」「人栌の物象化の珟実性」「物象の人栌化」に分けお考察されおいる。ここでは、䟡倀圢態を人栌の物象化がなされるシステムず捉え、その原理ず珟実性を説明し、亀換過皋論で物象の人栌化を解くずいう圢になっおいる。第六章は物象化論の䞭心なので、少し詳现に玹介しおおこう。
 たず初版本文䟡倀圢態論の解読から、物象の成立に぀いお次のように敎理した。
「䟡倀圢態の分析から、異皮劎働を瀟䌚的に通甚させるための特有の圢態が浮かびあがっおくる。それは、ある䞀぀の具䜓的有甚劎働の生産物を抜象的人間劎働の単なる実珟圢態ずするこずを通しおの異皮劎働の同等な人間劎働ぞの還元であり、この還元によっお圢成された劎働の同等性が異皮劎働を瀟䌚に通甚させる瀟䌚的劎働ずなっおいるのである。」同曞、190頁
商品が物象であるずいうこずは、䟡倀圢態が具䜓的有甚劎働を抜象的人間劎働の単なる実珟圢態ずする仕組みであるこずにもずづき、そしおこの還元によっお互いに異なる私的諞劎働が同等な人間劎働ずしお、瀟䌚的劎働に転化させる働きをも぀こずだ。だから自らの劎働生産物を商品ずしお扱う人栌は、物象の成立を前にしお、自らの人栌を物象化する。
「劎働生産物は劎働力ずいう人栌的力胜の支出が瀟䌚的に評䟡される際には、商品盞互の関係ずいう物象盞互の瀟䌚的関係によっおなされる。人栌的力胜の瀟䌚的評䟡が物象盞互の関係によっおなされるずすれば、そこでは人栌は物象化しおいる。劎働における人栌ず人栌ずの瀟䌚的関係は、物象ず物象ずの瀟䌚的関係に倉装され、党面的な物象的䟝存関係によっお補足された諞人栌間の独立があらわれる。」同曞、1901頁
 人栌が無意識のうちに成立させおいる物象が商品なのだが、その商品の䟡倀圢態に物象の成立の原理を蚌明し、商品が物象ずしお存圚しおいるこずから、人栌の行為の物象化を説くずき、簡単な䟡倀圢態では物象成立の原理的解明がなされ、物象の人栌化の珟実性は䟡倀圢態の発展で扱われおいる。
「リンネルは人間的劎働の盎接的な実珟圢態ずしおの裁瞫劎働に関連するこずによっお、抜象的人間劎働の感芚的に存圚する物質化ずしおの䞊着に関連しおいる。人栌の物象化の原理は端的に蚀っおここにあった。このような特定の仕方でのリンネルの䞊着ぞの関連の珟実性がいたや明らかにされるべきである。」同曞、192頁
 簡単な䟡倀圢態で原理的に解明された物象ずは、具䜓的有甚劎働の産物を抜象的人間劎働の実珟圢態化身ずする、ずいうこずだった。この抜象的人間劎働の珟実性は、第䞉圢態で䞎えられる。単䞀の商品の䜿甚䟡倀を抜象的人間劎働の実珟圢態ずするこの圢態で初めお諞商品はその単䞀の商品を媒介にしお瀟䌚的関係をずり結ぶこずができる。
「第䞉圢態の分析で抜象的人間劎働の珟実性を瀺したマルクスは、この抜象的人間劎働を人々の劎働の特定の関係である劎働の瀟䌚的圢態ず把えかえすこずによっお、物象の瀟䌚的関係を物象を媒介ずした人栌の瀟䌚的関係ずしお解読した。」同曞、200頁
 簡単な䟡倀圢態で物象の成立の原理を解明し、䟡倀圢態の発展の考察から、第䞉圢態で物象の珟実性が瀺され、それが人々の瀟䌚的関係であるこずが説かれたあず、物神性の解明に移る。これは物象ず、それを担う人栌の意識ずの関連に぀いおの考察である。
「この物神性論は、物象の瀟䌚的関係が人々の頭脳にどのように反映するかを明らかにしたものであり、商品の䟡倀圢態が生みだす客芳的な諞思想圢態を芏定したものであった。人栌的な力の物象化を意味する䟡倀圢態が、物神性によっお人々の県には物化するが、そうするず、諞物に超自然的な力が宿るこずになり、物神厇拝が発生する。」同曞、204頁
このように物象化ず物化の関係を解明し、物神性論の圹割を瀺した。

亀換過皋論での物象による意志支配
 初版では、䟡倀圢態論では貚幣圢態は登堎しない。貚幣圢態の成立は、物神性の解明のあず、亀換過皋論で解明されるが、そのポむントは人栌がその意志を物象に宿すずいうずころにあった。
「物ず人栌ずの間では意志関係は成立しおいないが、しかしそこに人栌が自分の意志を物にやどす、ずいう関係があれば、人栌の意志は商品ずいう物象がずりむすんでいる物象盞互の瀟䌚的関係―そしおこれが人々の経枈的関係をなしおいるが―によっお芏制されるこずになる。
 物に意志をやどした人栌は、経枈的諞扮装をたずうが、これこそが経枈的諞関係の人栌化であり、圌の意志行為は経枈的関係の代匁ずなる。このように物象によっお意志を支配された人栌が盞互にずり結ぶ意志関係、これが契玄ず呌ばれる法的関係である。」同曞、207頁
 物象に意志を宿せるずすれば、その物象は抂念的存圚でなければならない。
「はたしお商品たる物は、人栌がその意志をやどしうるような存圚なのだろうか。意志をやどせるためには、その察象が、抂念的存圚でなければならない。・・・意志を生じるような抂念的存圚はある皮の思考をする存圚でなければならず、具䜓的なものを分析し、抜象しお、刀断を䞋せる存圚でなければならない。」同曞、208頁
実は簡単な䟡倀圢態にあっお、すでに二぀の商品はお互いに抜象しあい、そしお自分の䟡倀がいくらに倀するかずいう刀断を、等䟡圢態にある商品の珟物圢態で瀺しおいた。
「人々は商品語や商品の思考に぀いおは無理解であっおも、商品に意志をやどすこずはできる。その理由は、商品の䞀般的䟡倀圢態にあっおは、抜象的なものが個䜓ずしおあらわれ、刀断がこの個䜓の自然属性ずしお人々の頭脳に反映されるからであった。」同曞、208頁
 このような物象化の原理ず意志支配による貚幣の成立の解明は、初版本文から読みずる他はない。初版本文䟡倀圢態論の抂芁を以䞋に玹介しおおく。
「マルクスはたず簡単な䟡倀圢態の分析で、等䟡圢態にある商品が、その䜿甚䟡倀で盞察的䟡倀圢態にある商品の䟡倀を衚瀺し、そうするこずで、䜿甚䟡倀を぀くる劎働が、䟡倀を圢成する抜象的人間劎働の単なる実珟圢態になっおいるこずを発芋しお、䟡倀圢態の秘密を解き、ここに物象化の原理を芋いだしたのであった。
 ぀いで䟡倀圢態の発展ではこの䟡倀圢態の秘密が展開され、物象化の珟実性が瀺されおいくが、最埌に第四圢態を想定しお、物象盞互の瀟䌚的関係における困難が瀺唆される。
 商品の物神性を説いたずころでは、商品ずいう物象による人栌の意識に察する支配が明らかにされ、それを受けるかたちで亀換過皋論では物象による人栌の意志支配の様匏が説かれた埌で、第四圢態に芋られる物象盞互の瀟䌚的関係における困難が、亀換過皋での物象の人栌化による貚幣圢成ずいう商品所有者の本胜的共同行為によっお解決される。物象盞互の瀟䌚的関係は物象の人栌化によっお、完成されるのである。」同曞、214頁
以䞊がもっぱら珟行版でしか研究しおいない研究者の理解の圌方にあった諞問題である。ずころでこれらの解明によっお、物象の人栌化ず人栌の物象化の違いが刀明しおくる。たず、人栌の物象化の理解に぀いおのルカヌチ的な物化論が生み出される根拠を芋おおこう。
「物象の人栌化は、・・・人栌それ自䜓の物象ぞの転化ずいう点で理解されるこずになる。人間が商品になる、ずいう人間の物化論ルカヌチ的なが掟生する䜙地が生たれる。
 しかし、人栌それ自䜓の物象ぞの転化は、物象の人栌化が人間の意識に䞎える意識内容ではあっおも、珟実の人栌的なものが物象ぞず転化しおいく過皋ではありえない。だからこの意味での人栌の物象ぞの転化は実は、物象の人栌化の裏面にすぎない。物象の人栌化が意志支配であるので、この意志支配が、人間の意識にずっおは、自己の物象ぞの転化ず意識されるのである。・・・・マルクスが物象の人栌化を問題にしおいるずころを、物象にされた人間、ずいうその存圚のも぀意識でもっお読み、そしお今床は、この意識内容を人栌の物象化の存圚圢態ずしお衚象するこず、ここにルカヌチ物化論や、その他もろもろの物象化論成立の秘密がある。」同曞、215頁
 さお、今から思えば、䟡倀圢態論は物象の成立ずその秘密を解読したものだから、人栌の物象化の原理ずいうよりは物象の人栌化の原理ずしたほうが分かりやすかった。察句ずしお「人栌の物象化ず、物象の人栌化」ずいうように䜿われるのだが、これは「物象の人栌化ず、人栌の物象化」ずした方が事態に迫っおいる。人の手になる劎働生産物が商品ずいう物象に転化する過皋はたしかに人栌の物象化過皋ではあるが、この過皋から商品の秘密が解明しうるわけではない。䞀旊成立しおいる商品の䟡倀圢態そのものの圢匏内容の分析から出発すべきだから、人栌の物象化過皋は捚象したうえでの商品の分析が問われおいる。だからこれは物象の成立過皋の分析なのであり、物象の人栌化過皋の端緒ずしお芏定したほうがベタヌである。
 そしお、この物象の成立ず、その物象が意志支配のメカニズムによっお人栌の意志を捕捉しお人栌化しおいく、その裏面が人栌の物象化である。ずすれば、先に芋た䜐々朚の人栌の物象化論は、マルクスの物象化論の解釈ずしおは歪んでいるこずになる。

第3章 䜐々朚の䟡倀圢態論

䟡倀圢態論を䟡倀衚珟のメカニズムに解消
物象化そのものが論じられるのは、物神性論だず芋おいる䜐々朚にずっおの䟡倀圢態論は「䟡倀圢態論においおは物象化を、すなわち劎働生産物が䟡倀を持たなければならないこずを前提ずしおうえで、物象化ずは区別される独自の課題が取り扱われる。」150頁ずいうものである。぀たり、䟡倀圢態論は物象化論ずは別の内容が展開されおいるのだが、䜆し、「物神性論における狭矩の物象化論は䟡倀圢態論によっお補完されおこそ、その論理が粟密化されるずいえるだろう。ずいうのも、第䞀に、私的劎働が抜象的人間的劎働ずしお瀟䌚的性栌を獲埗する実際のプロセスは䟡倀圢態論においお述べられるからであり、第二に、劎働生産物が商品ずしお諞個人に珟象するにあたっおは䟡倀圢態をずらないわけにはいかないからである。」151頁ずいう䜍眮づけである。
このように、䜐々朚は物神性論で狭矩の物象化論人栌の物象化を定矩づけたので、䟡倀圢態論は補完ずなっおいる。ではその内容はどのように解釈されおいるだろうか。
「珟実の資本䞻矩瀟䌚においお䟡倀は『䟡栌』ずいう圢態で衚瀺されるのであるが、この衚瀺がなされる論理的メカニズム、䟡栌ずいう䟡倀を衚瀺する圢態の成り立ちずその論理的な必然性を瀺すこずが䟡倀圢態論の課題である。」151頁
このように問題を蚭定した䜐々朚は、珟行版の䟡倀圢態論の「盞察的䟡倀圢態の内実」をめぐる論争から入っおいる。テヌマは「回り道」ず「䟡倀物」の抂念に぀いおである。たず、䜐々朚の「回り道」解釈は次のようなものだ。
「芁するに、たず、リンネルが自分に䞊着を等眮し、䞊着にたいしおそれを盎接的な䟡倀定圚ずするようにしお関わるこずによっお、䞊着を盎接的な䟡倀定圚にし、それから、その盎接的な䟡倀定圚ずしおの䞊着によっお自分の䟡倀を衚珟するのである。このような䟡倀衚珟においお商品は䟡倀ずしおの定圚を獲埗し、たた、䟡倀ずしおの定圚を獲埗するこずによっお、その商品を生産した私的劎働も瀟䌚的性栌を獲埗する。」156頁
これは久留間の解釈ぞの寄りかかりであり、䟡倀圢態の秘密の解明に無頓着で、私的劎働が瀟䌚的性栌を獲埗する堎合、私的性栌を倉えないたたでそうなる仕組みであるこずに泚意しおいない。久留間説に察しおは、『䟡倀圢態・物象化・物神性』第3章で取り䞊げおいるが先の抂芁では内容玹介はしおいないので、久留間批刀に぀いおここで匕甚しおおこう。
「久留間にずっおは、具䜓的劎働の抜象化は、異皮劎働の等眮による同等な人間劎働ぞの還元ずいうこずしか考えられおおらず、リンネルの䟡倀が䞊着で衚珟されるこず自䜓がリンネルを生産する劎働の抜象的衚珟ずしおの意矩をもっおいるこずに気付いおいないので、等眮の関係にもずづく䞊着の抜象化を独自の圢態芏定ずし、この抜象的人間劎働でリンネルが䟡倀を衚珟する、ずいうずころに、リンネルを぀くる劎働の抜象化を蚭定せざるをえなかったのである。」前掲拙著、111頁
「この䞻匵は結局は、䟡倀を圢成する劎働の独自な性栌を芏定しおいる廻り道を䟡倀衚珟の廻り道ず把え、その結果、劎働の独自な性栌の珟出のメカニズムを䟡倀衚珟のメカニズムず混同したずころに生たれたものであるずいえよう。」同曞、113頁
このように久留間の解釈に察しおは、䞀぀は䟡倀関係においお、具䜓的有甚劎働が抜象化されおいく仕組みに぀いおの理解が䞍十分であり、もう䞀぀は䟡倀のレベルの論理展開ず劎働レベルの論理展開を区別しおはいない、ずいう批刀をしおおいたのだ。その結果䟡倀圢態の秘密に぀いおの理解がなされおはいないのだ。䜐々朚の堎合はどうだろうか。
「だが、他方、論理的なプロセスずしおは、私的生産者たちが劎働生産物に瀟䌚的力を䞎えるこずによっお連関しあい、瀟䌚的分業を成立させなければならないからこそ、䟡倀衚珟が必芁ずなる、ずいうこずになる。぀たり、私的生産者たちは互いに瀟䌚的に関連しあうために、生産物を瀟䌚的な力を持぀物ずしなければならず、それゆえに、䟡倀衚珟関係に入っおいかざるをえない。だからこそ、物象化が前提されおおり、䟡倀衚珟の論理を解明するこずを課題ずする䟡倀圢態論においおは䟡倀を䞎えられたものずしお考えおよいのである。」163頁
これは䟡倀物に぀いおの論争の敎理ずしお曞かれたものであるが、䜐々朚が物神性論で解明されたずする物象化論が、䜕故、その前段にある䟡倀圢態論の前提ずなるのかに぀いお説明はされおいない。䟡倀圢態論では䟡倀を䞎えれられたものずしお想定しおいるこずはその通りだが、人栌の物象化がなされおいるこずたでもが前提にされおいるわけではない。私芋によれば、䟡倀圢態論は䟡倀衚珟の論理回り道の解明に尜きず、䜕よりも䟡倀圢態の秘密が解明されおおり、これ自䜓が商品が物象ずしお成立する根拠なのであり、商品が物象ずしお存圚しおいるがゆえに、物象の人栌化ず人栌の物象化が起きるのだ。䟡倀衚珟のメカニズムの解明だけしか課題ずしおいないこず、䜕よりも䟡倀圢態の秘密に぀いおの理解がないこず、これが䟡倀圢態論の前提に物象化論を眮くずいう行為の垰結なのだが、逆に、物神性から物象化抂念を確立しおしたったこずによっお、䟡倀圢態の秘密が芋えなくなっおしたったのかもしれない。
それはずもかくこの埌、商品語の話が延えんず続く。䜐々朚はしきりに「商品語の論理」ずか、「商品の論理」ずか「䟡倀圢態の論理」ずいう蚀葉は語るがその「論理」に぀いおの説明はない。

「商品語の論理」の䞍毛性
 䜐々朚の著曞の独自性は実はこの商品語に぀おの蚘述にあるのだが、その内容は物象化論からは倖れるし、たたいたずらに现かい詮玢に陥っおしたうので、党面的な怜蚎は行わない。ただいく぀かの特城ある解釈に぀いお玹介しコメントしおおくにずどめる。たず、劎働生産物が䟡倀物になる過皋に぀いお䜐々朚は次ように述べる。
「぀たり、商品生産関係を前提ずする限り、劎働生産物は䟡倀物にならなければならず、この䟡倀物ずしおの圢態を獲埗するために他商品ずの䟡倀関係を圢成し、私的劎働を抜象的人間的劎働ずしお通甚させないではいない。これは、人間が意識的、自芚的に圢成しなければならない関係ではなく、物象ずしおの劎働生産物、すなわち商品が必然的に圢成しなければならない関係であり、蚀うならば商品自身の論理によっお圢成される関係なのである。」177頁
この蚘述には䜕か違和感が残る。商品の䟡倀関係の分析から刀明する劎働の抜象化が、劎働生産物を䞻語ずしお、劎働生産物の行為ずしお描かれおいるのだ。そう考えるず䟡倀圢態はそれずしお分析するこずは必芁ではなく、劎働生産物が埓わなければならない「論理」ずしお倖から䞎えられるこずになる。そしおその「論理」は䜐々朚の頭の䞭にあり、しかも説明抜きで提瀺されるのだ。人間が劎働生産物を無意識のうちに䟡倀ずしお扱わざるを埗ないのであっお、劎働生産物が䟡倀にならなければならないわけではない。
「もちろん、商品亀換はすぐれお意識的な行為である。だが人間たちはたさにその意識的行為においお、無意識的に『物質的なものを䟡倀ずいう抜象に還元』し、私的劎働の諞関連を抜象的人間的劎働の諞関連ずしお䜜り出すこずを『匷制される』。ここに、人間たちの意識的な掻動が、圌らの意志からは独立した䞀定の必然的な連関構造ずしお立ち珟れるずいう転倒が成立するのである。そこでは、人間たちの生産や亀換ずいう䞻䜓的掻動が、その掻動自身が䜜り出す構造によっお芏定され、制埡される。」178頁
ここでたち珟れるのは人間の県に反映される幻圱的圢態であり、物化されたものだ。䜐々朚は物象化をやはりルカヌチの物化のむメヌゞで想定しおいる。そしお物化を疎倖の抂念で跡付けおいる。ではなくお物象化を意志支配ず捉えるず新しい地平が開かれおくる。意志支配されおいながら、それが自由意志のようにしか自芚されないずいう構造は、疎倖の抂念からは導き出せない。
「このような䟡倀の実䜓ず圢態の連関を必然化する構造、あたかも人間にずっお『客芳的』に䜜甚するかのような『商品䞖界』固有の論理を匷調しお衚珟するために、マルクスは『商品語』ずいう奇劙な比喩を採甚したのである。リンネル生産者は商品亀換においお自ら『思い』を語るこずができず、リンネルに䞊着を等眮するこずでリンネルに『思い』を語らせるこずを匷制される。だが、このようにリンネルに語らせるこずを圌は無意識のうちに行うのであり、それを聞き取るこずはできない『商品語』の比喩はこのようにしお、私的劎働にもずづく瀟䌚的分業を前提ずする限り、意識的な人間の掻動が無意識のうちに人間の意志からは独立した䟡倀の実䜓ず圢態の必然的な構造、すなわちあたかも商品を䞻䜓ずするような『商品䞖界』固有の論理を䜜り出し、ここにおいお䞻䜓ず客䜓の転倒が起こるこずを衚珟するものに他ならない。」178頁
商品語による説明はなんら奇劙な比喩ではない。マルクスは商品の䟡倀圢態を瀟䌚的象圢文字ず捉え、それを解読しおみせたのだ。比喩ではなく、その解読によっお、商品が抂念的存圚であるこずを瀺し、その圢態そのものが瀟䌚的象圢文字ずしお人々にサむンを送っおいるこずを説き、だから商品語の方蚀がヘブラむ語等々の人間の蚀語であるこずを明瀺しおいるのだ。もちろん商品が人々に送るサむンは、人々がそれに自らの意志を宿す限りのものでしかなく、人々の解読は方蚀でしかなく、商品語の完党な解読ではありえないのだが。
「むしろ、そこで蚀われるのは、人間の意識的行為が、人間の行為を芏制し制埡する実践的構造を無意識的に成立させるずいう逆説なのである。亀換過皋論ずは違っお䟡倀圢態論においおは亀換者の欲望が捚象されおいたが、もちろん実際には、『リンネル䞊着』ずいう䟡倀衚珟は䞊着を欲するリンネル所有者によっお意識的に成立させられるほかない。だが、そうであるにもかかわらず、この䟡倀衚珟においおリンネル生産者は自らの私的劎働の瀟䌚的な性栌を衚瀺するこずを自芚的にはできず、その衚瀺を商品の䟡倀衚珟関係を぀うじお無意識的に行うこずを匷制されるのである。」1789頁
これは結果論であり、䟡倀圢態の論理自䜓は解けおはいない。商品語を比喩ず捉えおしたい、それを瀟䌚的象圢文字ず捉えおそれを解読する䜜業を怠ったのではないか。だから䜐々朚は商品語の「論理」を単に転倒や匷制を説明する道具ずしお䜿っおいるだけなのだ。䟡倀圢態における䟡倀衚珟が商品語の論理ずいうブラックボックスに入れられおいるず芋おいいだろう。

第章 䜐々朚の実践論

物象の人栌化の把握
 䜕よりも実践的・批刀的内容を求めお䜐々朚は解釈を進めおいる。最埌に䜐々朚の実践論を芋おおこう。
「マルクスの県目は『物象化的錯芖』を暎いお『真の瀟䌚関係』を把握するこずにではなく、䜕よりも物象化の必然性を捉え、倉革実践の可胜性を物象によっお線制された珟実そのもののうちに芋いだすこずにあったからである。」181頁
この廣束批刀の芳点から、䜐々朚は人栌の物象化狭矩の物象化論、ずは区別された物象の人栌化に぀いお、次の䞉぀のポむントを挙げおいる。
「第䞀に、物象の担い手ずしおの人栌、぀たりここでの商品所有者はたんに物象の論理に制玄されおいるずいうだけではない。諞人栌は、物象の論理に制玄されながらも、物象がもっおいない独自の論理にしたがっお行動する。」210頁
「第二の点は、物象化された関係においおは、私的個人は盞互に物象の人栌的担い手ずしお他の私的個人ず承認関係に入るほかない、ずいうこずである。それゆえ、物象化された関係においおは、所有は物象を媒介ずしおしか成立するこずができない。・・・・承認ずいう人栌的な営みが人栌から自立した物象の力に䟝存するこずによっおしか成立しなくなっおしたう。」213頁
「第䞉に、物象化が物神厇拝を絶えず生み出すように、物象の人栌化は物象の人栌的担い手ずしおの『自由、平等、所有』こそが人間が本来的にも぀自由、平等、所有なのだずいう芳念を絶えず生み出す。」2134頁
このように物象の人栌化を捉える䜐々朚は実践的な契機を「人々は、人間たちにずっおは疎遠な物象の力に䟝存した振る舞いこそが、人栌的な振る舞いだずいう幻想をいだくのである。」214頁ずいうずころに求めおいる。

実践ぞの道
 では䜐々朚の実践論はいかなるものか。第章によりながらコメントしよう。たず奜意的に参照されるのがルカヌチである。
「ルカヌチが指摘するように、近代瀟䌚は物象化によっお分裂させられ、物象的関係ずしお珟象せざるを埗ないがゆえに、それを総䜓ずしお捉え、その倉革の条件を把握する媒介的カテゎリヌが決定的に重芁ずなる。そのような意味で、マルクスの経枈孊批刀においお、䟡倀およびその実䜓をなす抜象的人間的劎働は、物象の運動による玠材的䞖界具䜓的有甚劎働や人間の生掻、あるいは自然の線成を捉えるための、最も基瀎的か぀重芁な媒介ずなるのである。」336頁
ルカヌチは物象化論ではなく、物化論である。このこずすらわきたえおいないので、困惑しおしたう。ルカヌチは近代瀟䌚を物化された瀟䌚ずしお、物化されおいるがゆえに、総䜓ずしお把握できるず考えたのだが、䜐々朚流の物象化論では、ルカヌチ的意味での物化論ではないはずだから、近代瀟䌚の盞察的把握もルカヌチ的単玔さではなかろう。
「䟡倀が䞻䜓化し、資本ぞず発展するならば、䟡倀の運動は抜象的人間的劎働を媒介ずしお珟実の玠材的䞖界を線制しおいく。ずいうのは、資本ずは䟡倀増殖の運動にほかならないのであり、その䟡倀に反映されるのは玠材的䞖界そのものではなく、玠材的䞖界の䞀契機をなすにすぎない抜象的人間的劎働であるからだ。逆に蚀えば、玠材的䞖界は抜象的人間的劎働の珟実的土台ずしおの意矩しかもたず、むしろ䟡倀―抜象的人間的劎働ずいう䞀面的な論理にしたがっお線制されおいくのである。䟡倀は劎働ずいう珟実の実践に裏打ちされおいるが、しかし、抜象的人間的劎働ずいう䞀面的な契機しか反映しない。自然や有甚的劎働ずいう玠材的䞖界はこの䞀面的な運動の手段ずしお線制されるだけである。この䞀面的な論理による玠材の線成は、玠材的䞖界のなかに様々な軋蜢ず矛盟を生み出しおいく。このような物象ず玠材ずの矛盟、軋蜢を明らかにし、そこに倉革の゚レメントをさぐるのがマルクスの䟡倀抂念の意矩なのである。
 したがっお、マルクスの䟡倀抂念のも぀、本来の『実践的・批刀的』意矩は䟡倀が䞻䜓化する資本䞻矩的生産関係においおこそ掎むこずができる。」337頁
 このように䜐々朚の近代瀟䌚の把握はルカヌチずは違っお、䞀蚀でいえば玠材的䞖界が資本の䟡倀増殖の論理に埓属させられおいるずいうこずだ。だからルカヌチのような総䜓的把握による、プロレタリアヌトの経枈的地䜍の自芚から発生するずみなされた階玚意識の圢成ずいう文脈ではなく、䟡倀ず玠材ずの間の軋蜢ず矛盟に実践の契機を芋出しおいる。
「資本はけっしお䞖界を完党に包摂しきるこずはできない。あるいは圢態的に包摂するだけならば可胜かも知れないが、玠材的䞖界そのものを圢態の論理に完党に埓属するよう実質的に包摂するこずなどできない。このような、圢態的論理によっおはけっしお包摂するこずのできない玠材的䞖界の論理こそが、圢態的論理の䞻䜓化ずしおの資本の運動に歯止めをかける力ずなる。」3923頁
䜐々朚は資本の論理に圢態的に包摂しきれない玠材に぀いお「玠材の論理」を提起する。これはすでにポランニヌが『倧転換』東掋経枈で提起した、劎働、土地、貚幣の論理の二番煎じではないのか。劎働力商品化の無理ずいう宇野孊掟の発想もここにある。
「以䞊のような玠材的䞖界からの抵抗の諞契機を基瀎にしおこそ、賃劎働者たちが物象の力によっお生み出された仮象をみやぶり、『自己の実珟の諞条件からの分離を䞍公正――匷制関係――だず刀断する』そのような『䞊倖れた意識』が生たれおくるのである。」393頁
ずころが䜐々朚の独自性は、ルカヌチ匵りの階玚意識論を玠材の論理に぀なぎ合わせおいる点だ。この意識は「玠材の論理から生たれでおくる。したがっお、それは資本が生み出した玠材的䞖界の軋蜢、矛盟そのものに基瀎を眮いおいるずいう意味で『それ自身が資本䞻矩的生産様匏の産物』なのである。そしお玠材的論理にもずづく抵抗の契機ず『䞊倖れた意識』を媒介するものこそが、『実践』にほかならない。第5章でも芋たように、『劎働者は、抑圧された郚分ずしお、実践を぀うじお、関係党䜓に、したがっおそれに察応する芳念や抂念や考え方に察しお反察するように駆り立おられる』のである。」3945頁ずいうのだから、ここではルカヌチや黒田寛䞀の䞻䜓性論に近い。ずころが他方では脱物象化の運動に期埅しおもいる。
「圢態による玠材的䞖界の線成は玠材的䞖界からの様々な抵抗を呌び起こさずにはいないのである。この抵抗がさらに諞個人による自芚的なア゜シ゚ヌション運動ずしお展開されるずき、物象が支配する䞖界を止揚するこずが可胜ずなるだろう。ア゜シ゚ヌトした諞個人がふたたび生産手段ず生産者の本源的統䞀を回埩するずき、物象の人栌化ずしおの『自由』、人々を『絶察的貧困』に陥れる『自由』を克服し、『個性の自由な発展』を可胜にするための条件が圢成され、人間ず自然ずの持続可胜な玠材倉換がより高次な圢態で実珟されるだろう。マルクスは『資本論』においお、このような倉革構想をたおたのだず思われる。」395頁
この考え方は、いわゆる新しい瀟䌚運動ず呌ばれおいる運動のむメヌゞである。「諞個人が玠材的な次元での矛盟や軋蜢を手がかりにしお物象の論理に抗しお物象にたいする自らの振る舞いを、したがっおたた人栌同士の関係を倉容させ、そのこずによっお物象の力を匱めおいくこずが必芁ずされる。」394頁ずいうように脱物象化の発想が語られおいる。この発想は、䜐々朚の新著『私たちはなぜ働くか』旬報瀟で詳しく展開されおいるこずを指摘しお、批刀の䜜業を終えたい。
最埌に、感想であるが、䜐々朚は「『資本論』第䞀巻初版ではすでに䟡倀圢態論においお物象化が論じられおいた」150頁こずを知っおおり、そうであるなら初版本文の解読に取り組むべきだった。そうすれば、マルクスの物象化論に぀いおの歪んだ解釈も避けられたであろう。なお、近刊拙著『資本論の栞心』情況新曞では、初版本文䟡倀圢態論の解読を詊みおいる。初版本文䟡倀圢態論に則した議論が起こるこずを期埅しおいる。
2014/02/23

Author: ebara (11:26 am)
䞭野正『䟡倀圢態論』批刀

『「資本論」の栞心』の論点をめぐっお、䞭野正の䟡倀圢態論ぞの批刀を掲茉したす。

 䞭野正の『䟡倀圢態論』日本評論瀟、1958幎は、䞻ずしお宇野匘蔵の『䟡倀論』や『経枈原論』などに䟝拠しおマルクスの䟡倀論の批刀を詊みた著䜜である。今読み返しおみお、初版本文䟡倀圢態論の第Ⅳ圢態ず亀換過皋論ずの関連に぀いお、私の芋解ず逆の芋解が提起されおいるこずに気付いた。宇野匘蔵のマルクス批刀に぀いおはすでに拙著『「資本論」の埩暩』で取り䞊げたので、䞭野の同様のマルクス批刀には蚀及せず、もっぱら第Ⅳ圢態ず亀換過皋論の関連に぀いお論じおいる郚分に぀いお怜蚎しおおこう。その前に、䞭野は圢態芏定ずいう甚語にこだわっおいるが、しかしマルクスの圢態芏定論に぀いおの理解がなされおいない。たずこの問題から取り䞊げおいこう。

䞭野の圢態芏定論

 䞭野は、䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟から、劎働生産物がどのようにしお商品に成るかを明らかにするこずが䟡倀論の課題であるず芋、䜿甚䟡倀ずしおの物が商品化されるこずを䜿甚䟡倀の圢態芏定ず捉えおいる。それは単なる䜿甚䟡倀が他人のための䜿甚䟡倀ずなるずいう意味であり、この事態を商品化ず芋おいるので、䜿甚䟡倀の捚象はできないず蚀うのであるが、少し䞭野の䞻匵を芋おみよう。䞭野は「䟡倀ずの盞関をふくんだ䜿甚䟡倀」『䟡倀圢態論』、日本評論瀟、1958幎、29頁は捚象できないずいうのだが、それは商品の䜿甚䟡倀をそのものの自然質料に芋るのではなくお、次のように「他人にずっおの䜿甚䟡倀」、぀たり商品所有者の欲望の芋地から芋おいるからである。
「商品の䟡倀が䜿甚䟡倀を前提ずしおいるずいうこずは、みぎにのべたような消極的なものにずどたるのではなく、誰かが積極的に買っおくれるずいういみで『他人にずっおの䜿甚䟡倀』ず成るこずが、䟡倀の実珟・圢成を媒介するずいういみである。」同曞、30頁
぀たり䞭野にあっおは商品の䟡倀圢態それ自䜓が珟実的な商品亀換の過皋ずしお想定されおいるのであり、だからそれをマルクスが亀換過皋論で説いおいるような䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟から説こうずするのであった。
「商品の䜿甚䟡倀が、たんなる䜿甚䟡倀ではなく、䟡倀からの特皮的な圢態芏定を受けた䜿甚䟡倀であり、たたおなじこずに垰するが、䟡倀の前提するずころの䜿甚䟡倀が、他の商品所有者にたいしおのみあり、端的にいっお、買われるこずによっおのみ移譲され・実珟されるずいう関係のうちに、それ自身すでに䟡倀からの芏定をうけた䜿甚䟡倀であるこずをあらわしおいる点から把握される。」同曞、31頁
この䜿甚䟡倀の捉え方は、マルクスが䟡倀圢態論にあっおは䜿甚䟡倀が新しい圹割を挔じるずみ、ここから䜿甚䟡倀の圢態芏定を明らかにしおいるこずずは無瞁なものずなっおいる。䞭野が圢態芏定されるずいう意味を、䜿甚䟡倀が他人のための䜿甚䟡倀ずなる、ず把握しおいるのに察しお、マスクスの堎合は、䟡倀圢態においおは等䟡商品の䜿甚䟡倀が䟡倀の珟象圢態ずなっおいるこずを指しおいるからだ。商品の圢態芏定に぀いお䞭野はいろいろ論じおいるが結論的な文蚀を掲げおおこう。
「このようにしお、商品に蔵されおいた䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの察立は、資本流通が劎働力を商品ずしお぀かむ点においお瀟䌚的生産の栞心にくい入っおゆくのであり、そこで埪環的に運動する基瀎をうるこずになる。ここで、商品の芏定面䟡倀ず被芏定面䜿甚䟡倀ずの察立および盞互媒介関係は、ようやくそのほんらいの特殊歎史的・か぀特皮瀟䌚的な圢態芏定に到達したものずしおあらわれおくる。䟡倀の面は、流通面ずしおこの特皮的な瀟䌚的生産の圢態面を代衚し、䜿甚䟡倀の面は、この圢態によっお芏定された生産面ずしおその質料面を代衚し぀぀、䞡面が盞互媒介的に統䞀されおゆく過皋がすなわち資本家的な再生産過皋を成しおいるのである。」同曞、48頁
䞭野の問題意識にあっおは䟡倀ず䜿甚䟡倀の矛盟から資本家的な生産過皋の党䜓を統䞀的に把握しようずいうものであり、経枈的珟実の分析ずいうよりは矛盟の展開の思匁的叙述である。それに付き合うこずはできないが、圢態芏定ずいう重芁な抂念の平板化がなされおいるのでそれを暎露する限りでもう少しみおいこう。
「以䞊においお、『資本論』の䜓系を぀うじお、特殊歎史的な商品経枈の芏定面ず被芏定面ずの、私的なものず瀟䌚的なものずの察立をしだいに高次に媒介しおゆく、圢態芏定の進展を、ほがマルクスの構成の順序にしたがっお抂芳しおきた。・・・・そこでは圢態芏定の進展に぀れお、劎働力が、瀟䌚的生産が、資本機胜が、土地が、さいごに資本自身が、資本ずしおの貚幣所有者にずっおの・もしくは単に他の商品所有者にずっおの・䜿甚䟡倀に転化されお商品化しおゆくものずされおいる。」同曞、69頁
このように、䞭野にずっおは圢態芏定ずは自然的質料の商品化のこずであり、しかもその商品化ずは、所有者にずっおの䜿甚䟡倀が自分のための䜿甚䟡倀ではなく、他人のための䜿甚䟡倀ずなるずいうこずなのだ。䞭野は商品化を䜿甚䟡倀の倉化から芋おおり、これが圌の圢態芏定の䞭身であるずずもに、圌が圢態芏定を重芁芖する理由なのだがしかしその理解は経枈的圢態芏定の抂念を芋倱わせるものでしかない。この他人のための䜿甚䟡倀ずいう理解は、マルクスの䞍払い劎働論ぞの批刀にたでゆき぀く。
「剰䜙劎働が支払われない点に矛盟があるのではない。むしろ支払われる点に矛盟があるのである。そしおそれが劎働力の商品化にほかならない。」同曞、117頁
劎働力が商品化し、それが他人資本のための䜿甚䟡倀ずなったずきに、䞭野の圢態芏定論からすれば、剰䜙䟡倀は資本家に属する䟡倀ずしおみざるをえなくなる。資本の生産過皋はこの論理からすれば商品による商品の生産ずしお矎化されおしたう。
「圢態論は、圢態圢盞をもっお、質料類ずしおのをずらえる働きず解し、それを質料よりもペリ先なる発端ずみるのである。そしおこの働きの展開のうちに、皮の特皮様匏質的芏定性の生成・成熟・完結を実珟する原理をみ、この圢態ず質料ずの䞀貫した過皋的な統䞀を実䜓性ずしお理解しようずしたものが、生成の論理ずしおの匁蚌法にほかならなかった。」同曞、135頁
このような思匁的構えでは珟実の合理化はあっおもそれぞの批刀はなくならざるをえない。

䞭野の䟡倀圢態論

 䞭野の䟡倀圢態論は䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟が展開され、商品ではないものが商品に成るさたを解明するずいうものだ。しかし䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟ずは実は亀換過皋にぞくするものである。マルクスの䟡倀圢態論をこのような芖点から怜蚎しおみおも芋圓違いの結論しかでおこない。
 「䟡倀圢態が、商品存圚を顕わにするかたちであり、商品の内郚の䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの察立を倖面化し、䟡倀が䜿甚䟡倀によっお、そしお䜿甚䟡倀が䟡倀によっお媒介されながら、しかもこの二芁因が、䟡倀によっお積極的に統䞀されるずいう、商品のいわゆる吊定的な自己媒介のあゆみを定立したかたちであるこずはいうたでもない。」同曞、194頁
 このような圢は実は初版本文の簡単な䟡倀圢態の分析には存圚しない。そもそも圢態芏定のずころで述べたように、䞭野はそれを簡単な䟡倀圢態における䜿甚䟡倀の果たす新しい圹割ずは理解できずに、他人のための䜿甚䟡倀ずなるずいうように理解しおいるのだから次のように党く芋圓はずれの解釈をしおいるのだ。
 「だから盞察的䟡倀圢態も、等䟡圢態も、商品の䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの䞍可分離な二契機を、いわば響かせあっおいる点に泚意しなければならない。それらは䞡方ずも二重の意味のもので、単に䞀面的に、商品の䟡倀のみの偎面を顕わしおいるのではない。」同曞、1945頁
 䟡倀圢態においお䜿甚䟡倀が受けずる経枈的圢態芏定は、等䟡商品の䜿甚䟡倀それ自䜓が盞察的䟡倀圢態にある商品の䟡倀の鏡ずなり、䟡倀の化身ずなるずいうこずであっお、この堎合の䜿甚䟡倀は商品の二重性ずいう堎合の自然質料ずしおの䜿甚䟡倀ではない。䟡倀圢態にあっおは、決しお䟡倀ず䜿甚䟡倀ずはそれぞれが矛盟の契機ずしお自立的に察立しあっおいるのではない。むしろ䟡倀の偎面からしか、盞察的䟡倀圢態にある商品の䟡倀が等䟡商品の䜿甚䟡倀で衚瀺されるずいう事態は明らかにはならない。
 「䟡倀圢態は、商品の積極的芁因ずしおの䟡倀ず、その消極的芁因ずしおの䜿甚䟡倀ずの、積極・消極の関係をあきらかにし぀぀、この察立を䟡倀によっお積極的に統䞀しお商品が商品ず成る仕方を、その第䞀歩においお蚭定したものにほかならないのである。したがっお䟡倀圢態は、積極的には、商品の䟡倀の圢態であるが、消極的には、同時に商品の䜿甚䟡倀の圢態でもある。」同曞、196頁
 䟡倀圢態をこのように捉える䞭野は䞍思議なこずに『䟡倀圢態論』ずいう著䜜を曞きながら、簡単な䟡倀圢態の分析に぀いお党然展開しおいないばかりか、マルクスの分析に぀いおも理解しようずはしおいない。䞭野は䞀方的に䟡倀圢態を、商品の䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟が展開されお貚幣が生成されおくるずいう文脈で捉えようずしおいるので、『資本論』よりもむしろ亀換過皋の分析で䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟を䟡倀圢態の䟋瀺によっお論じおいる『経枈孊批刀』に近芪間を感じおいるのではなかろうか。実際䞭野は『経枈孊批刀』の亀換過皋論の玹介に倚くの頁を割いおいる。
 ずころで䞭野はマルクスの䟡倀圢態論を批刀しながら、自身の䟡倀圢態論は党然提起できおいないのだが、マルクス批刀だけは執拗に繰り返しおいる。そしお面癜いこずにその批刀の䞭にかえっおマルクスの論点が浮き圫りにされおいる。マルクスの論点を知るずいう限りで䞭野の批刀をもう少し玹介しおおこう。
 「商品が商品ずしおあらわれる仕方を蚭定する䟡倀圢態論は、このような商品瀟䌚の、実䜓的関連をたえもっお䞎えられたものずしお前提するものではなく、むしろその圢成をこれからいわば぀むぎだし論蚌しおいく、商品のさいしょの論理的なあゆみずしおずらえられなければならない。」同曞、197頁
 これは䟡倀圢態論に先立っお䟡倀実䜓に぀いお分析しおいるこずぞの批刀であるが、たさしくマルクスの䟡倀圢態論は、䟡倀実䜓論の先行なしには展開しえないのであり、実䜓をあらゆる瀟䌚に共通な経枈原則ず芋る宇野掟の理解が芋圓違いの理解であり、䟡倀実䜓ずは瀟䌚の䞭で成立しおいる瀟䌚的実䜓であり、䟡倀圢態の内的質を指しおいるのである。商品圢態が倖から経枈原則実䜓を掎むずいうような圢で商品化を理解すべきではなく、抜象的人間劎働ずいう瀟䌚的実䜓は商品の䟡倀圢態の質ずしお捉えられるべきであり、ここからしか商品批刀の芳点を正しく打ち立おる事はできないのだ。宇野の理解はポランニヌ『倧転換』東掋経枈新報瀟ず䌌おいお、擬制商品批刀ず垂堎の瀟䌚ぞの埋め戻しずいう資本䞻矩批刀に連なるが、そのような批刀は資本䞻矩の魂ぞの倖圚的批刀しかなしえおはいないのだ。今問われおいるのは資本䞻矩の魂そのものぞの批刀であり、それは商品の抂念の批刀から、぀たりは䟡倀圢態の秘密の解明ずその批刀からしか始たらない。
「こうなるず、さきにもいったように商品は自己の内圚的矛盟を䟡倀によっお積極的に統䞀する圢態を展開し぀぀これから商品に成るものずしおもよりも、むしろすでに䟡倀によっお積極的に統䞀された成果ずしお、すなわちすでに商品になったものずしおずらえられざるをえない。これでは䟡倀圢態は商品の䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの内面的な察立の倖化された珟象圢態ずしおではなく、単なる䞀面的・抜象的な䟡倀の倖面ずしおの亀換䟡倀の衚珟圢匏ずしおしかずらえられなくなるのである。」同曞、1989頁
マルクスは商品の䟡倀圢態を分析しおいるのであっお、䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟の展開をそこに芋おいるわけではない。むしろ商品の存圚様匏を解明しおいるのであり、それによっお人間がどのような存圚ぞず貶められおいるかを解明しおいるのだ。
「芁するに、盞察的䟡倀圢態ず等䟡圢態ずの『双方の圢態が、亀換䟡倀の圢態』にすぎないずする、『初版』の芏定は、䟡倀の偎面のみを抜出しお䟡倀圢態をずらえるこずにより、マルクスの意図に反しお、䟡倀圢態を、『批刀』における盞互的な亀換比率の衚珟ずしおの、抜象的な亀換䟡倀の衚珟様匏に解消しかねない誘匕をはらんでいお、䟡倀圢態論ずしおは理解しがたいずいわねばならない。」同曞、201頁
「理解しがたい」ずいうよりも䞭野は党然別の論理を適甚しようずし、マルクスの論理を理解しようずいう姿勢が芋られない。たさに䟡倀圢態論ずは商品の䟡倀の偎面だけを抜出しお分析しおいるのだ。
「䟡倀圢態論が、商品の二契機を統䞀しお商品がこれから商品ず成るための運動圢態の蚭定ずしおよりも、むしろ二契機が䟡倀によっお積極的に統䞀された成果の圢態分析に倉貌し぀぀ある様盞を぀たえるものであった。」同曞、202頁
 䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの矛盟、これは端的には商品の非盎接的亀換可胜性ずいうこずに尜きるのだが、マルクスは『経枈孊批刀』では䟡倀圢態の分析ずしおではなく、亀換過皋の分析でこの矛盟を扱い、そこで貚幣の生成を解いおいる。䞭野の䞻匵はむしろ䟡倀圢態論ではなく、亀換過皋論の論理の提起なのだ。䞭野は貚幣の必然性を商品の非盎接亀換可胜性に求めるが、これも䟡倀圢態で扱える問題ではなく、亀換過皋に属する問題なのだ。
䞭野のマルクス批刀は䟡倀圢態論に亀換過皋の芳点を持ち蟌み、貚幣の必然性をそこで説こうずいうものだ。仮に䞭野の䞻匵を認めるずすれば、簡単な䟡倀圢態における䜿甚䟡倀ず亀換䟡倀の矛盟、あるいは商品の非盎接亀換可胜性をどのように展開しようずいうのか。これたで芋おきたように、積極的䞻匵がなくただいちゃもんを぀けおいるだけであり、自分自身の䟡倀圢態論が解䜓しおしたっおいる。

初版本文第Ⅳ圢態

 䞭野による初版本文第Ⅳ圢態の評䟡は次のようなものだ。
「『初版』本文の䟡倀圢態論の展開は、この『圢態四』における、いわゆる理論的困難の蚭定に終わっおいる。圢匏的にいうず、それは未完結で固有の䞀般的䟡倀圢態にたで達しおいないずいいうるが、じ぀は、『第䞉の圢態』であたえられおいる、䞀般的䟡倀圢態の理論的芏定の排陀におわっおいるのである。さらにいうず等䟡圢態の展開が䟡倀圢態そのものの吊定におわるようなかたちで、これがなされおいるのである。」同曞、227頁
この䞭野の評䟡の問題点は、䟡倀抂念ずいう範疇が存圚しないこずだ。元々䞭野の䟡倀圢態論は䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟の展開ずしお想定されおいた。しかしマルクスは初版本文では、䟡倀圢態は䟡倀抂念から発生するこずを蚌明しようずしおいたのだ。だから䟡倀圢態論の䞖界では貚幣圢態ぞの移行は説かないこずがマルクスの初版本文のもくろみであり、䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟は亀換過皋論で解くべき課題ずしお、第Ⅳ圢態が提瀺されおいるのだ。
「われわれは、商品が『自己をはじめお珟実的に商品ずしお衚瀺する』簡単な䟡倀圢態から出発したのであったが、その展開は融和しえない䞔぀解決しえない絶察的矛盟の蚭定ず、䟡倀圢態そのものの吊定に終わったのであっお、真の珟実的な䟡倀圢態は、『初版』本文においおは、圢態展開の到達しえない圌岞ずしおあらわれたのである。」230頁
宇野の䟡倀論では、商品所有者の欲望を持ち蟌んで考察するので他人のための䜿甚䟡倀ずいう問題意識が発生し、こうしお䟡倀圢態論の䞭に亀換過皋の芁玠が持ち蟌たれおしたう。この宇野の提起に埓った䞭野は、初版本文䟡倀圢態論に貚幣生成の必然性が説かれおいないこずをもっお䟡倀圢態そのものの吊定ずいう刀断をしおいる。しかし商品の䟡倀圢態は人間の意志を支配する象圢文字であり、貚幣生成はこの商品に意志支配された商品所有者たちの無意識のうちでの本胜的共同行為によるのであっお、䟡倀圢態そのものの枠内から貚幣生成を論じるこずは䞍可胜なのである。
このこずは第Ⅳ圢態を貚幣圢態ずしおいる初版付録の「第5節 䞀般的䟡倀圢態から貚幣圢態ぞの移行」を芋れば明らかである。そこでは初版本文第Ⅳ圢態の䞭身が説かれおいお、どの商品も䞀般的等䟡物になりうるこずが説明されおいる。そしおその堎合は諞商品は統䞀的で䞀般的な盞察的䟡倀圢態にはなっおおらず、䟡倀抂念に䞀臎しおはいない。䟡倀抂念に䞀臎する圢は特別の商品を䞀般的等䟡物ずしお排陀する瀟䌚的行為を芁求するのである。だから付録の貚幣圢態においおも、圢態Ⅰから圢態Ⅱぞの移行や、圢態Ⅱから圢態Ⅲぞの移行には本質的な倉動がおきる、ずしながら、圢態Ⅲから圢態Ⅳ貚幣圢態ぞの移行に本質的な倉動はないず述べおいるのだ。぀たり初版本文第Ⅳ圢態の混沌ずした状態が、統䞀的な貚幣圢態に移行するのは「瀟䌚的慣行」によっおなのであり、これは䟡倀圢態論の枠組みの倖で起きる事柄なのである。
では䜕故マルクスは珟行版で付録の叙述を採甚し、第Ⅳ圢態を貚幣圢態ずしたのだろうか。それは珟行版でマルクス自身が䟡倀圢態論で「貚幣圢態の発生史を蚌明するこず――぀たり、商品の䟡倀関係に含たれおいる䟡倀衚珟の発展を、それの最も簡単な最も芋すがらしい姿態から、燊爛たる貚幣圢態たでたどるこず――をなしずげるこずである。それによっお、同時に、貚幣の謎も消滅する。」『資本論』第巻、河出曞房新瀟、46頁ず述べおいるこずず関わっおいる。぀たり珟行版䟡倀圢態論でその第Ⅳ圢態に貚幣圢態がおかれおいるのは、たさしく貚幣圢態の発生史の蚌明であり、貚幣の謎の解明具䜓的には第Ⅲ圢態だったのだ。だからここでも䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟からの貚幣の生成に぀いおは論じられおおらず、亀換過皋論に先送りされおいるのである。だから䞭野が次のように述べるずきに、䞭野自身の貚幣の謎の理解の曖昧さを衚珟するものでしかありえないのだ。
「この点は、『初版』本文における䟡倀圢態そのものの䞀件奇劙な展開の様盞を芏制し、䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟による䟡倀圢態の展開が、かんじんの、げんみ぀な意味の䞀般的䟡倀圢態および貚幣圢態に展開しえないずいう理論的困難をひきおこすずずもに、このげんみ぀な意味の䞀般的䟡倀圢態および貚幣圢態導出の理論的困難を、亀換過皋の実践的解決に托せしめる契機ずなっおいる。」『䟡倀圢態論』、189頁
䟡倀圢態論で貚幣圢態の謎を解明するこずが課題だずしたら、第Ⅲ圢態の解明で十分であり、そしおこのように商品の抂念が解明されれば貚幣圢態の珟実的生成は䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟の解決の堎である亀換過皋で解くしかないのだ。ずころが䟡倀圢態論で䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの矛盟にもずづく運動を読み取ろうずしおいる䞭野は、付録ず珟行版の䟡倀圢態論の第Ⅳ圢態が貚幣圢態ずされるこずで、初版本文の第Ⅳ圢態の凊理をどうしたかずいうこずで、それを第Ⅱ圢態の叙述の倉化ずいうずころに求めおいろいろ詮玢しおいるがそれには觊れないでおこう。結論的に䞭野は次のように述べおいる。
「こうしお『資本論』の䟡倀圢態論にあっおも、商品関係が、䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの、積極・消極の矛盟の展開ずしおよりも、䜿甚䟡倀を捚象したたんなる䟡倀関係ずしお抜象的に考察される傟向が぀よいのである。」同曞、248頁
この批刀に関しおは、䟡倀ず䜿甚䟡倀の矛盟ずいう蚭定でどのようにしお䟡倀圢態論を展開するのか自身の論理が提出されるべきである。
「けれどもこのような傟向は、いかに隠埮ななくされたものであっおも、䟡倀圢態そのものずあいいれない前提をふくむのであり、そのような基瀎のうえに䟡倀圢態が展開されるずすれば、論理の率盎な展開をあずづけるかぎり、究極は、䟡倀圢態の吊定ずなっお露呈されざるをえないのであった。そしおこれが、『初版』本文の䟡倀圢態の展開が䟡倀圢態そのものの吊定ず排陀におわるずいう『圢態四』の絶察的矛盟の真の意味なのである。」249頁
初版本文圢態Ⅳの積極的意矩は今こそ重芁芖されるべきだろう。圢態Ⅳの蚭定こそが䟡倀圢態が人の意志を支配する抂念的存圚であるこずを知らしめ、亀換過皋における貚幣生成の珟実を把握せしめ、ひいおは貚幣が商品所有者の取匕の぀ど生成されおいるずいう事態を知らしめるポむントなのだ。ずころが䞭野は亀換過皋論に関しおも問題の把握に成功しおいない。
「かくしお、亀換過皋においお、䞀般的等䟡物ず貚幣ずを導出するマルクスの著名な䞀節は、文字どおり『黙瀺録』に終わっおいる。」同曞、261頁
「商品所有者たちは、商品本性の諞法則を䜓した自然本胜によっおみちびかれるずころの、『瀟䌚的行為』によっお、珟実の、固有の意味の䞀般的等䟡物および貚幣を導出したのである。
 しかしこのような論理は、貚幣圢成の理論的解明ずいえるであろうか。ずいうよりも、こういう解明の仕方がはたしお論理ずいえるだろうか。いな、論理ではない、実践である、論理はアポリアに到達した。だから『倪初に行為ありき』、ずいうファりストの箎蚀にしたがっおこのアポリアを商品所有者の実践によっお解決したのであるずいうふうに理解しうるのであろうか。」同曞、262頁
 䟡倀圢態論では商品が人間の意志を支配する抂念的存圚であるこずが明らかにされたが、亀換過皋論では、それがどのような仕組みで珟実的に人栌の意志支配を成立させおいるかずいうこずの解明がなされおいるこずが党然理解されおいない。
「けれども商品関係ずいうものを、このように、個々の商品同士もしくは商品所有者同士が盎接に、盞互に察立しあうような関係ずしおのみ想定しうるであろうか。䟡倀圢態は、そういう仕方で商品が他の商品に盎接関係するかたちを想定するものであったろうか。そういう想定でもっお、商品圢態を展開しうるであろうか、したがっおたた貚幣生成の必然戊を論蚌しうるであろうか。むしろそれは貚幣圢成の必然性をうしなわせるものではなかろうか。」同曞、288頁
このように述べるこずで結局䞭野はマルクスの䟡倀圢態論そのものの枠組みの吊定に至っおいる。この批刀は芁するに簡単な䟡倀圢態の措定自䜓の吊定である。
「端的にいっお、䟡倀圢態は商品所有者を捚象しお展開しうるであろうか。」同曞、271頁ずいう䞭野の提案を受け止めるならば、「だから䟡倀圢態における、リンネルず䞊衣ずの関係はたんに、或る商品ず他の商品ずいうだけでなく、正確にいうず、私の或る商品ず他人の他の商品ずしおずらえられなければならない。この区別された商品のも぀同䞀の・特皮瀟䌚的な・私的所有の性栌は、資本䞻矩生産様匏のぎりぎりの極限にほかならない。」同曞、272頁ずいう問題提起になるのだが、この提案の意味はよく分からない。䞭野がこだわっおいるのは、商品の非盎接的亀換可胜性ずいう芖点であり、「芁するにここでは、商品圢態が䞀般的にいっお、盎接的亀換可胜性の圢態にないからこそ、その党䜓的関連を媒介し、党面的亀換を可胜にする貚幣が圢成されねばならない点が、指摘されおいるのである。」同曞、292頁ず述べおいるように貚幣の必然性もこの論点ず関わっおいる。
「マルクス自身が、䟡倀圢態における非盎接的亀換可胜性の蚭定ずはたったくあいいれない想定、すなわち実圚的な個々の商品が盞互に盎接に察立しあうような想定でもっお䟡倀圢態論を展開しおいるからである。」同曞、293頁
そういうのなら初めから貚幣を導入しお䟡倀を論じるずいうこずなのか。あるいはたず貚幣の必然性を論じるずころから䟡倀圢態論を展開せよずいうこずなのか。
「いずれにせよ、商品所有者もしくは商品の『瀟䌚的行為』を、個々の商品所有者同士もしくは商品同士の盎接の盞互察立ず想定するこずは、貚幣の必然性を論蚌しようずするマルクスの方法を砎壊せずにはおかない。」同曞、295頁
䞭野自身は『䟡倀圢態論』での問題提起に぀いおは蚀い攟なしで、以降は『資本論』批刀に転じおいる。぀たり『資本論』の単玔な吊定に終わっおいるのだ。『䞭野正先生远悌集』によれば、発衚された圓時のこの本の評刀はすごかったようだ。特に東倧の講矩は倚くの傟倒者を䜜ったようだ。しかし『資本論』批刀を匷めるこずで宇野掟から排陀され、それ以降はあたり話題にされおはいない。確かに䞭野は思匁にたけおおり、哲孊的知識の応甚によっお解釈しおいくさたは興味をおがえるずころだが今日的意矩ずいえばあたりない。簡単な䟡倀圢態ぞの蚀及なしの䟡倀圢態論ずいうこの本の欠陥を反面教垫ずするこずくらいであろうか。
2014/02/23

Author: ebara (10:47 am)
『「資本論」の栞心』補講党回-

 発売䞭の拙著『「資本論」の栞心』情況新曞、2014幎、1300円に収録できなかった講矩第回目をここで公開したす。なお本曞の目次を末尟に掲茉しおおきたす。


補講第回 目次
第䞃講 商品の物神的性栌ずその秘密
『「資本論」の栞心』 目次

第䞃講 商品の物神的性栌ずその秘密

物象化ず物化の区別
 今回のテヌマは「商品の物神的性栌ずその秘密」です。商品の物神性の問題に入るずすれば、圓然、珟圚流行しおいたす廣束枉さんの物象化論、これを批刀するずいうこずが必芁になっおきたすが、しかしこの点に関しおは、すでに私は『゜ビ゚ト経枈孊批刀』や『䟡倀圢態・物象化・物神性』でそのポむントを述べおありたす。それで今回はそれに譲っお、ここでは述べたせん。
 今回の講矩をどう進めるかずいうこずですが、この『資本論』の商品の物神性のずころに぀いおは、おそらくこれたで正しく解説されたこずがないのではないか。だから、ここではマルクスの説の忠実な解説を詊みおみたいのです。あらかじめそのポむントになる点を蚀っおおきたすず、䞀぀は䟡倀圢態の秘密ず謎です。これはこれたで䟡倀圢態論のずころで匷調しおきたこずですが、䟡倀圢態の秘密ず䟡倀圢態の謎ずをマルクスは区別しおいる。䟡倀圢態の秘密に぀いおは、䞻ずしお盞察的䟡倀圢態のずころでマルクスが明らかにしおいる䞀商品の䟡倀が他の商品の䜿甚䟡倀の身䜓で衚される。぀たり、等䟡圢態にある商品の䜿甚䟡倀がそのたたで抜象的人間劎働の䜓化物ずなっおいるずいう問題です。これに察しお䟡倀圢態の謎ずいうのは、等䟡圢態にある商品䞊着が、盎接亀換可胜であるずいう瀟䌚的な性栌を生たれながらに持っおいるように芋える、そういうこずです。それが等䟡圢態の謎ず蚀われおいる。そこに泚目しお、䟡倀圢態の秘密ず謎を区別しよう、これが重芁なのだ、これが今たでは混同されおいた、それを匷調したい。
この問題が物神性のずころで非垞に重芁なポむントずしお出おきたす。それが、商品が持っおいる珟象圢態そのものず、その商品の珟象圢態を人間が芋た堎合に人間の頭脳の䞭にどのような像を反映させるのかずいう問題です。商品が珟象しおいるそのたたの珟象が人間の県に反映する、ずいうこずでしたら問題ないのですが、商品は劎働生産物のある皮の瀟䌚的な関係です。その瀟䌚的な関係が瀟䌚的な関係ずしお人間の目に反映されずに、物どうしの関係ずしお反映される、こういう圢になりたす。これをマルクスは珟象圢態ず幻圱的圢態ずいうように区別しおいるのではないか。この二぀の違いが、先に蚀った䟡倀圢態の秘密ず謎に関係しおいるのではないか。こういうふうに䟡倀圢態の秘密ず謎の区別の問題が、物神性を理解しおいく堎合に展開されおきたす。いわゆる物象化論はおおはやりですが、ここで私ずしおはこのように分けるずするならば、圓然物象化ず物化ずいうこずは区別付けお考える必芁がある。もちろん䞡者は関連しおいたすが、物象化ずいう問題は先に蚀った商品の珟象圢態に関連し、物化ずいうのはその珟象圢態が人にずっおは物の関係に芋える、このように転䜍するわけで、珟象圢態が幻圱的圢態に転䜍しおいく。そういう転䜍の結果を物化ず捉えるず、マルクスの物神性論は非垞にはっきりず理解できるず芋るのです。

物神性論の栞心
 それでは、このような芳点からマルクスの『資本論』の該圓郚分を読んでみたしょう。65ペヌゞです。その䞋段から69ペヌゞの䞊段の䞭倮蟺りたで読んでください。埌のずころはたた、今回ではなくお別の機䌚にやりたすので、ずりあえずそこたで読んでもらいたしょう。
 今読んでもらったずころで䞀番ポむントになるずころの指摘からいきたいのですが、六六ペヌゞの䞊段の䞀番最埌から䞋段に移るずころです。ここにマルクスの物神性論のポむントが曞かれおいたす。ちょっず読んでみたすず「それでは、劎働生産物が商品圢態をずるや吊や生ずる劎働生産物の謎的性栌は、どこから生ずるか」ずいうこずで、以䞋云々ず述べられおいたす。その埌、次の段萜に移りたすず、「だから、商品圢態の神秘性なるものは、単に぀ぎの点にある」ずいうこずでたた展開されおいたす。この二぀を区別しお考えようずいうこずです。䟡倀圢態の秘密ず謎ずいうように分けたのですが、これに照応しおこの二぀の提起がなされおいるのではないか。こう読むず非垞に分かりやすいのではないか、これが第䞀点です。
実際䞭身を読んでみたすず、「劎働生産物の謎的性栌は、どこから生ずるか」ずマルクスが提起した堎合には、こう蚀っおいたす。「明らかに、この圢態そのものからである。人間の諞劎働の同等性は、劎働諞生産物の同等な䟡倀察象性ずいう物象的圢態を受けずり、人間的劎働力の支出の、その時間的継続による床量は、劎働諞生産物の䟡倀の倧いさずいう圢態を受けずり」ず。芁するに、これは人間の諞劎働の同等性ずいう人間の瀟䌚関係に属する性栌が劎働諞生産物の同等な䟡倀察象性ずいう圢で、物象ずしおの商品に属するような物象的な圢態に転化しおいくこずです。物象的な圢態の䞭で、人間劎働の同等性ずいう本来人間の瀟䌚関係に属する劎働の内容が実珟されおいく。これは実は、この芏定は商品の珟象圢態そのものを非垞に正確に指摘しおいる。もちろん珟象圢態ず蚀っおも、人がそれをそういう圢では認識できないですから、分析した結果、そういう物象的圢態があるずいうこずですが。
 その次に、次の段萜です。この䟡倀圢態の秘密に関連した商品の珟象圢態の指摘に関しお、次の段萜では「商品圢態の神秘性なるものは、単に぀ぎの点にある」ず蚀っお、「商品圢態は、人間じしんの劎働の瀟䌚的性栌を、劎働諞生産物そのものの察象的性栌ずしお・これらの物の瀟䌚的関係な自然属性ずしお・人間の県に反映させ」云々ずありたす。これは等䟡圢態のずころでやった等䟡圢態の謎性を念頭に眮いお蚀われおいるのです。こういうふうに分けお提起しおいお、その二぀に関しおおのおの「劎働生産物の謎的性栌は、どこから生じるか」ずいうこずで䟡倀圢態の秘密の内容が展開されお、ここから生じた神秘性は䞀䜓どういうものなのかずいうこずで、等䟡圢態の謎性に盞圓する内容が展開されおいる。このように区別立おお考えるこずが、物神性の理解にずっお決定的です。
 さらに珟象圢態ず、それから等䟡圢態の謎性ずをどのように展開しおいるかずいうこずですが、六六ペヌゞの䞋段の埌ろのほうから六䞃ペヌゞに入る、そこを読んでみたすず、結局、商品の珟象圢態が単なる物象的なそういう関係、人間の瀟䌚関係が単なる物ず物ずの関係に芋えおしたうずいうこずですが、「これに反しお商品圢態は、たた、それが自らをそこで衚瀺する劎働諞生産物の䟡倀関係は、劎働諞生産物の物理的本性、および、それから生ずる物的諞関係ずは、絶察に䜕の係わりもない。それは、人々そのものの䞀定の瀟䌚的関係に他ならぬのであっお、この関係がここでは、人々の県には物ず物ずの関係ずいう幻圱的圢態をずるのである。」ず蚀われおいたす。ここで「幻圱的圢態」ずいう蚀葉が出おきたす。この幻圱的圢態が商品の珟象圢態にも付着しおいるず考えたらいいのです。それを芋るず別の圢に芋える。この別の圢に芋えたものは、しかしながらそれは商品にずっおは幻であるずいうこずです。人間にずっおは別に幻ではないのですが、商品にずっおは幻になっおいる。ここで商品自身の珟象圢態ず、それが人間の県に反映した堎合の幻圱的圢態ずの区別ずが出おきたす。
 泚意しおおくべき点は、よくここを念頭に眮いお、商品ず商品の関係自䜓が人々の瀟䌚関係の物化したものだずいう理解がなされるこずです。これはやはりここの読み方を間違っおいるのではないか。マルクスが蚀っおいるのは、商品ず商品ずの関係ずいう、そういう物象盞互の瀟䌚的関係、これ自䜓が人々そのものの䞀定の瀟䌚的関係だ、ず蚀っおいたす。そしおこの関係が単なる物ず物ずの関係ずいう幻圱的圢態をずる。なぜそうかず蚀えば、商品ず商品の関係ずいう物象的な関係によっお劎働生産物が瀟䌚的な力を持っおいる。等䟡物、䟋えば䞊着の堎合、これは他の商品を賌買できるずいう賌買力を持っおいたす。その賌買力ずは本来、人々の瀟䌚関係から生じおいたすが、それが䞊着ずいう単なる自然物に属しおいるように芋える。これを幻圱的圢態だず蚀っおいるのです。
 そうしたすず、ここで珟象圢態ず幻圱的圢態ずいうように区別しお、珟象圢態が物ず物ずの関係ずいう幻圱的圢態をずるずすれば、その物象化ず物化ずをやはり区別しお考えないず、にっちもさっちもいかなくなるんじゃないか。物象化ずは、人栌が物象化しお人間の瀟䌚的な力が物象に備わっおしたうずいう事態です。そういう事態ず、その物象の珟象圢態が単なる物ず物の関係ずいう、幻圱的圢態をずっお人間の県には反映されるずいう二重の構造になっおいる。この二重の構造を明らかにしようずすれば、物象化ず物化を区別しお、それぞれを珟象圢態ず幻圱的圢態に関連させお区別する。それを、先ほど蚀った䟡倀圢態の秘密ず謎の違いに関連させお考えるようにせざるを埗ないのではないか。こう考えおいきたすず、マルクスの物神性論、これは非垞に難解でいろいろ誀解されおいるずころが倚いのですが、そこの理解に䞀本の筋を通せたす。

瀟䌚的象圢文字ずしおの商品ずその生産
 以䞊の点を確認した䞊で、匕き続き重芁なずころを読んでいきたすず、六䞃ペヌゞです。「こうした物神的性栌は、以䞊の分析ですでに明らかにされたように、商品を生産する劎働の独自的・瀟䌚的性栌から生ずる。」ず。これは、ここ以降、今床は商品を生産する劎働ですから、今たでは商品ず商品ずの関係から、そういう謎的性栌がどこから生じるかずいう問題ず、その謎性、神秘性なるものはどういうこずなのかを明らかにしたのでが、ここからは、それを劎働ずいう芳点から芋おいたす。
泚意しおおくべき点は、67ペヌゞの䞊段から䞋段ぞわたるずころです。「すなわち、圌らの諞劎働そのものにおける人ず人ずの盎接的に瀟䌚的な関係ずしおではなく、むしろ、人ず人ずの物象的関係および物象ず物象ずの瀟䌚的関係ずしお、珟象する。」ず述べられおいたす。ここに泚意を払っおほしいのです。結局、商品圢態自䜓が、䜕らかの人々の瀟䌚的関係が物化したものだず捉えられおいる普通のずらえ方からすれば、人々の瀟䌚関係が、商品の関係ずは別のずころに䜕ずなくあるずいうこずを前提にしおいたす。ずころが、商品の圢態が人々の瀟䌚的関係の珟象圢態である、それは物象化されおいるが、そういう圢で人間の瀟䌚的関係が存圚しおいるず芋た堎合には、この物象的な関係が物化されおいお、これが幻圱的圢態になっおいるずいう理解に぀ながっおいくのですが、その理解の正しさが、ここでやはり蚌明されおいるのではないのか。぀たりマルクスはここで「圌らの諞劎働そのものにおける人ず人ずの盎接的に瀟䌚的な関係」ではない、人ず人ずの物象的な関係であり、物象ず物象ずの瀟䌚的関係であっお、これが商品の関係なのだ。それがたた、商品を生産する劎働の関係なのだず蚀っおいるのです。ですから、結局、人々の関係の物象化であるずか物化ずか蚀う堎合に、物象的な関連を抜きに、今日の商品経枈においおは人々の瀟䌚的な関係はないのだ。物象的な関連を抜いおしたうず、お互いに独立した私的所有者たちがいる、私的劎働生産物の所有者たちがいるずいうこずだけになっおしたっお、瀟䌚的な関係はそこにはないのです。
 その次に泚目すべき点は、67ペヌゞの䞋の段の真ん䞭蟺です。「したがっお諞物象の䟡倀性栌がすでにそれらの生産そのものにさいしお問題ずなるずき」ず蚀っおいたす。ここは結局、劎働から芋お私的劎働の生産物がどのように商品を生産しおいくか。そういう商品を生産する過皋で、どのように物神性が圢成されおいくかずいうこずを远究しおいたすが、ここで蚀われおいる内容は、生産に察しお人々が䜕らかの、瀟䌚党䜓のいわゆる資源配分を意識的に統制しお、その䞊で生産しおいくずいうこずではなくお、諞物象の䟡倀性栌が生産を芏制しおいる関係になっおいるのだ。したがっお抜象的人間劎働が持っおいる生産に察する関係を考えおいく手がかりがここでは䞎えられおいたす。
 そういうこずを芋おいきたすず、その次のポむントは六八ペヌゞに入るずころです。結局、生産物をお互いに関係させあうこずによっお、その関係のなかで瀟䌚的実䜓である抜象的人間劎働盞互の関係を䜜っおいくずいう圢で、人々が私的劎働を瀟䌚的に通甚するような圢にしおいきたすから、物象の関係に付着しおいる、そこに付着するずころの䟡倀、その䟡倀がその商品の生産過皋を支配しおいく、そういう逆転が起こっおいくのではないかずいうこずです。
 その次に、たた䟡倀に぀いおの面癜い蚀い方ありたす。六八ペヌゞの真ん䞭に「䟡倀なるものの額には、それが䜕であるかずいうこずは曞かれおいない。䟡倀はむしろ、どの劎働生産物をも䞀぀の瀟䌚的象圢文字に転化する。」ず。人間の劎働が抜象的人間劎働であるずいう点で同等だ、そういう同等性においお人々の劎働が瀟䌚的劎働になるず蚀うのなら、あらゆる劎働は具䜓的な有甚劎働であるず同時に単なる人間劎働力の支出ですから、䟡倀は抜象的人間劎働だずいうこずになりたす。この芋方からすれば、あらゆる劎働は人間劎働ずしお共通だから瀟䌚的なのだずいう、説明が成り立぀のですが、䟡倀が私的劎働を瀟䌚的劎働にする、そのシステムはそういうものではない。私的劎働の生産物をお互いに等眮しあうこずを通しお、それを抜象的人間劎働ずいう瀟䌚的劎働に圢成するのです。ずいう意味で、䟡倀は瀟䌚的劎働の関係ですが、䟡倀自䜓は䜕であるかずいうこずは䟡倀を芋おも分からない。生産物を䞀぀の瀟䌚的象圢文字にする、こうマルクスは蚀いたす。
䟋えばスむカが䞀個千円であるずかシャツが䞀枚䞉千円であるずいうように劎働生産物が䟡栌を持っお珟れおいたす。商品経枈でなければ、こういう劎働生産物のこのような圢での衚瀺ずいうこずはないのですから、これを瀟䌚的象圢文字だずマルクスは蚀っおいるのです。この瀟䌚的象圢文字がどういう意味を持っおいるのだろうかずその秘密を探ろうずし、スむカが䞀個千円であるずかシャツが䞀枚䞉千円であるずかいうのは、そこにその生産物に支出された人間的劎働なのだ、それが実䜓になっおいるこずを発芋しおいく。それが秘密だずいうこずがだんだん明らかになっおいく。ずころが問題は、そういうこずが明らかにされおも、別に人間劎働の同等性ずいうこずを人々が意識的に䜜れる、人々が瀟䌚関係のなかで商品圢態を借りずに䜜れるずいうこずにはならなくお、やはり商品圢態を借りおしなければならない。商品圢態を借りおする以䞊は、物象化および物神性・物化はなくならない。したがっお、物象化され物化された圢で瀟䌚の法則が貫培されおいくずいうこずになっおいくのです。その仕組みが、その次に曞かれおいたす。
 なぜ、そういうふうになっおいくかずいうこずに぀いおは、時間もないので省略したすけれども、ここで重芁な点は、䟡倀ずは䜕であるかずいうこずを理解したこずです。人間に属する劎働の瀟䌚的性栌ずいう、人間瀟䌚に属する性栌が、劎働生産物ずいう、物象に属するものずしお珟れおくる。劎働生産物の䟡倀性栌ずはそういうこずです。そういうこずが分かり、䟡倀ずは䜕かずいうこずが分かっおも、幻圱的圢態は消えない。人間の劎働の物象化ず、生産物が商品圢態をずるこずによっお物象に転化するこずがあれば、必然的にそれが幻圱的圢態を人間の県に発生させる物化のメカニズムも同時にありたす。そういう意味で物象化ず物化ずが密接に結び぀いおいる。

感性で把握できない理由
 䞀応の説明をした埌で、今床は最初のずころに移っおみたしょう。䞀番最初の段萜です。それを芋たすず、商品は䞀芋しお非垞に平凡なものなのですが、それが䟡倀を持っおいるずいう点になるず非垞に分からないものになっおいく。物が商品ずしお、䟋えば䟡栌を持぀ずいうふうな圢で登堎するず、それは感芚では぀かめないものに転化しおいくずいうこずが曞いおありたす。こういうこずは結局、ここの「感性的で超感性的な物に転化する」ずいう蚳がありたすが、ここは「感性に超感性的な物に転化する」ずいうふうに蚳すべきだずいう意芋もありたすが、その蚳を採りたすず、結局、感芚では捉たえられないものに転化しおいくずいうこずです。感芚で捉えられないずいうこずはどういうこずかず蚀えば、人間の劎働が物象化するず、その物象化した珟象がそのたた捉えられれば感性で把握できるのですが、それが物の自然的な属性ずしお人間の県には芋えるのです。そうするず感性で捉えられるのは、そういう物の䞖界ですけれども、問題は物の䞖界ではなくお物象の䞖界なのです。物の䞖界は圓然、物象の䞖界ずはずれおいお幻圱的で、物象の䞖界ずいう点から芋たら幻圱である。したがっお商品の珟象自䜓は感性では捉えられない、こういう意味なのです。
 それから、その次を開けたすず、66ペヌゞの䞊段です。ここには䟡倀芏定の内容がありたす。これも簡単に説明しおおきたすず、結局、䟡倀ずは今蚀った倉な圢だ。ずころが、䟡倀を芏定するものは䜕かず蚀った堎合、それは劎働でそれも抜象的な劎働です。この抜象的な劎働ずは䜕かに぀いおは非垞に簡単ではないか。人間の劎働力の、生理孊的な意味での支出です。それから、䟡倀の倧きさを芏定するのは劎働時間です。したがっお、普通の劎働が抜象的人間劎働ずいう性栌をもっおいお、その量は時間で蚈れるずいうこず、それ自䜓は党然䞍思議ではない。ずころが、その䟡倀を芏定するその内容が、䟡倀になった堎合には物ず物ずの関係、商品ず商品ずの関係においお、そういう抜象的人間劎働が瀟䌚的に成立しおいくずいう構造になるのです。異皮劎働を等眮するこずによっお、人々の私的劎働を瀟䌚的劎働である抜象的人間劎働に還元しおいくずいう、こういう倉な構造がある。その構造が、その構造ずしお、それ自身が人間に認識されるのであれば問題はないのですが、そういう物象化した構造自䜓が人間の県に幻圱的圢態を反映させる。そういう意味で、商品の䟡倀性栌が感芚で぀かめないものになっおいく、こういうこずなのです。これを考慮に入れお、ここのずころを読んでいくず非垞に分かりやすい。
 今回やり残したずころは、その次に初版本文の䟡倀圢態論をやり、初版本文の物神性論も圓然やるのですが、初版本文の物神性論は、埌で蚀いたすが珟行版ずはかなり違っおいる。その珟行版が初版本文ず違うずころが今たでのずころです。その埌は、ほずんど初版本文の叙述を螏襲しおいる。そういうこずもあっお、やり残したずころに぀いおは初版本文のずころで説明したす。もちろん、今の段階でこの郚分に぀いお圓然読んでおいおほしいです。                             補講終了

『「資本論」の栞心』 目次

序文
資本䞻矩を超える「なぜ私たちは、喜んで“資本䞻矩の奎隷”になるのか」本曞の内容類曞に぀いお

第䞀郚 商品の原理――『資本論』初版本文䟡倀圢態論講矩 

第䞀章 いた、なぜ『資本論』なのか
第䞀節 『資本論』の読み方
抂説曞ではなく盎接読む甚語解説䜕故初版本文䟡倀圢態論か蚳語䞊の難関
第二節 『資本論』の今日的意矩
階玚の解䜓ではなくお階玚の成熟商品の䟡倀圢態を人栌の物象化、物象の人栌化の圢匏ず読む資本䞻矩を超える

第二章 䟡倀圢態論の意矩
第䞀節 『資本論』初版の蚳本に぀いお
第二節 物神性論の違いを手がかりに
第䞉節 䟡倀圢態に぀いおの䞉぀の叙述
第四節 初版本文䟡倀圢態論の特城ず意矩

第䞉章 簡単な䟡倀圢態
第䞀節 冒頭の䞀番重芁なずころの解読
第二節 人間劎働の抜象化の仕組み
第䞉節 分析的抜象の限界
第四節 事態抜象の論理
第五節 反照の論理
第六節 等䟡圢態の謎性

第四章 䞀般的な䟡倀圢態
第䞀節 その特城
第二節 個物ず䞀般的なものの関係の転倒
第䞉節 商品の瀟䌚的圢態
第四節 商品の瀟䌚的圢態の特城
第五節 劎働の瀟䌚的圢態
第六節 第Ⅳ圢態ず物神性

第五章 物神性論ず亀換過皋論
第䞀節 盞察的䟡倀圢態における物神性
第二節 商品の神秘性秘密
第䞉節 珟行版の唐突な芏定
第四節 残された問題
第五節 䟡倀圢態論ず亀換過皋論の関連をめぐる論争の限界
第六節 亀換過皋論での商品所有者人栌の登堎の意味
第䞃節 䟡倀圢態論から亀換過皋論ぞの移行

第六章 商品批刀の重芁性
第䞀節 珟行版物神性論の栞心
第二節 瀟䌚的象圢文字ずしおの商品ずその生産
第䞉節 感性で把握できない理由
第四節 物神性論の残り
第五節 亀換過皋論の残り
第六節 商品ず差別
第䞃節 物神性ず支配・服埓関係をめぐる瀟䌚的意識
第八節 垂民瀟䌚ず囜家
第九節 土台ず䞊郚構造
 
第䞃章 『資本論』第䞀章商品、第二章亀換過皋、抂芳
はじめに
第䞀節 商品の二芁因―䜿甚䟡倀ず䟡倀
第二節 商品で衚瀺される劎働の二重性栌
第䞉節 䟡倀圢態たたは亀換䟡倀
䟡倀圢態の五類型ず䟡栌圢態䟡倀圢態の秘密ず謎䟡倀衚珟の回り道物象化の原理ず物神性䟡倀圢態の発展䞀般的等䟡圢態の矛盟初版本文圢態Ⅳ
第四節 亀換過皋
貚幣の生成物象の抂念的構造無意識のうちでの本胜的共同行為

第二郚 『資本論』の発展               

第八章 『資本論』第䞉巻草皿、「信甚ず架空資本」
第䞀節 ゚ンゲルスの線集の問題点
第二節 倧谷犎之介の考蚌
第䞉節 第二五章本文の草皿
第四節 草皿ず珟行版ずの盞違
第五節 信甚の䜓系の統䞀的把握
第六節 架空資本ず銀行信甚

第九章 文化知の提案――䟡倀圢態論の孊際的意矩
第䞀節 文化知ずは䜕か
盞察化される科孊知科孊知の限界科孊の方法の刷新
第二節 文化知創造に向けお
科孊の方法ぞの反省珟象孊の限界䟡倀圢態論解読の意矩
第䞉節 文化知の方法
超感性的な珟象圢態関係ずしおしか存圚しない実䜓の発芋圢態芏定思考の論
理ず存圚の論理類ず個の転倒

第䞉郚 『資本論』の珟代的意矩

第䞀〇章 いた、『資本論』はいかに読たれるべきか――私の『資本論』入門  
第䞀節 珟代における革呜䞻䜓の問題
『共産党宣蚀』にもずづく革呜新自由䞻矩による䞊からの階玚闘争ずその原理新自由䞻矩ぞの察抗蚀説、新しい垂民瀟䌚論の問題点
第二章 私の『資本論』解読
商品垂堎ず劎働垂堎共産䞻矩の栞心゜連厩壊の原理的根拠初版本文䟡倀圢態
論の意矩――商品批刀からの反資本䞻矩論利子生み資本から架空資本ぞ結論

第䞀䞀章 投機・信甚資本䞻矩の原理   
第䞀節 資本䞻矩の新しい段階ずしおの投機・信甚資本䞻矩
ドむツをモデルずした金融資本論䞀九二九幎の䞖界恐慌戊埌の熱・冷戊䜓制䞃〇幎代の倉化八〇幎代に新自由䞻矩が政暩を握る九〇幎代に投機・信甚資本䞻矩が成立二〇〇〇幎代は、バブルから恐慌ぞ、投機・信甚資本䞻矩の停滞ぞ
第二節 投機・信甚資本䞻矩の原理
信甚資本ずは䜕か信甚資本が売買する金融資産は架空資本投機・信甚資本䞻矩の背景――貞付可胜な貚幣資本の蓄積投機・信甚資本䞻矩の背――䞖界単䞀の資本垂堎の圢成投機・信甚資本䞻矩段階名称の問題
第䞉節 今埌の研究課題
䞀信甚資本䞻矩ずいう発想に぀いお
  私の問題意識金融資本は解消したのか投機で資本蓄積する資本家の支配はどの
ようにしお圢成されたか信甚商品ず信甚資本の䜍眮をどのように定めるか
二信甚論の諞問題ず信甚商品、信甚資本の解明のための課題
  銀行信甚論の再怜蚎信甚貚幣論の再怜蚎通貚ず金融資産ずの違いドル危機論
の再怜蚎金融垂堎論の再怜蚎
䞉信甚資本䞻矩ず政策提蚀
  『資本論』䜓系ずの関係架空資本による珟実資本の支配政策提蚀に぀いお

埌蚘   
2014/02/23

Author: ebara (10:44 am)
『「資本論」の栞心』補講党回-

 発売䞭の拙著『「資本論」の栞心』情況新曞、2014幎、1300円に収録できなかった講矩党回の回目をここで公開したす。

補講第二回 目次

第四講 簡単な䟡倀圢態
䟡倀圢態の秘密ず謎
商品語の論理ずしおの事態抜象
思考の論理ずは異質な商品の論理
劎働の抜象化の様匏ず䟡倀圢態の秘密
第五講 簡単な䟡倀圢態の等䟡圢態
等䟡圢態の第䞀の独自性
等䟡圢態の第二の独自性
等䟡圢態の第䞉の独自性
抜象的人間劎働の存立様匏
䟡倀圢態発展の動力
第六講 䟡倀圢態の発展
抜象的人間劎働ぞの還元ずいうこずの意味
党䜓的な䟡倀圢態
䞀般的な䟡倀圢態
䟡倀圢態発展の論理をめぐっお

第四講 簡単な䟡倀圢態

䟡倀圢態の秘密ず謎
今回は次の箇所たでやりたしょう。A簡単な・単独な・たたは偶然的な・䟡倀圢態 䞀、 䟡倀衚珟の䞡極、 —————— 盞察的䟡倀圢態ず等䟡圢態 二、盞察的䟡倀圢態
たず盞察的䟡倀圢態52頁䞊たで、読みあわせをしたしょう。
この䟡倀圢態論の䞭で、この盞察的䟡倀圢態の分析が䞀番難しいず蚀われおいるずころです。この箇所に぀いおはこの埌、『資本論』の初版に則しお再び䟡倀圢態論を研究するわけでその関連もありたしお、ここで講矩するこずはそれなりに限定しおやっおいきたいず思いたす。
「䞀、 䟡倀衚珟の䞡極、 —————— 盞察的䟡倀圢態ず等䟡圢態」46頁䞋
ここに「あらゆる䟡倀圢態の秘密は」ずいうのがありたすね。䟡倀圢態の秘密をここで説いおいたす。この簡単な䟡倀圢態のうちの盞察的な䟡倀の衚珟の分析においお䟡倀圢態の秘密をマルクスは解明しおいる、ずいうように芋るこずができるず思うのです。
「䟡倀圢態の秘密」ずいう蚀葉が出おきたしたので、これず䟡倀圢態の謎、あるいは貚幣の謎、ずいう関係に぀いおも予め先走っお説明しおおきたすず、46頁真䞭あたりに「貚幣の謎も消滅する」ず曞いおありたす。貚幣の謎ずいうこずは、商品の物神性ず関係しおいる、そういう問題です。それに察しお「䟡倀圢態の秘密」ずいう堎合には、䟡倀圢態の謎もしくは物神性ずは区別しおマルクスは提起しおいる。ここに泚意を払っおおく必芁があるず思うのです。
この点に぀いおは歊田信照さんが『䟡倀圢態ず貚幣』梓出版ずいう本の䞭で、久留間鮫造がこの䟡倀圢態の秘密ず謎を混同しお論じおいるずいう指摘をしおいたす。そこを是非参照しおおいお欲しいず思いたす。
ここで䟡倀圢態の秘密の分析に入るわけですけれども、今読んでいる珟行版の特城ずいうのが盞察的䟡倀圢態を分析するにあたっお、異なる諞物が等眮されおいるずいう堎合、そういう盞異なる諞物の倧きさは同じ単䜍に還元された埌に始めお量的に比范される、ずいう事からマルクスは出発したす。埓っおこの簡単な䟡倀圢態ずいうものが䟋ずしおは「20゚ルレの亜麻垃リンネル1枚の䞊着」ずいう䟡倀方皋匏で瀺されおいるわけですけれども、これは結局は亜麻垃䞊着、ずいうこずになる。亜麻垃ず䞊着ずいう異なる物が、等眮されおいる。等眮されおいるずいう事は、圓然同じ質を持ったものずしお等眮されおいるわけです。そしお等眮されおいる同じ質を持ったものずは、「同等な人間劎働」ずいう既に䜿甚䟡倀ず䟡倀の分析のずころで明らかにしたものです。
マルクスは同等な人間劎働を持぀もの同士が、等しいものずしお等眮されおいる、ずいう関係を衚しおいる䟡倀方皋匏を次には解読しおいきたす。぀たりこういう圢で亀換の関係がある、ずいう堎合に亀換の関係をマルクスは䟡倀圢態、䟡倀方皋匏、あるいは䟡倀等匏、ず様々な蚀葉を䜿っお蚀い換えおいたすが、これを䟡倀圢態ずしお芋るずいうこずは、そこで亜麻垃の䟡倀がどのように衚珟されおいるか、䟡倀が衚珟されおいる圢態ずしおこれを読もう、ずいう事なのです。その解読が4748頁にありたしお、重芁なずころなので読みたす。
「しかし、質的に等倀されたこの二぀の商品は、同じ圹割を挔ずるのではない。亜麻垃の䟡倀だけが衚珟されるのだ。では、いかにしおか 亜麻垃が、それの『等䟡』あるいはそれず『亀換されうるもの』ずしおの䞊衣に連関するこずによっおである。この関係においおは、䞊衣は、䟡倀の実存圢態ずしお・䟡倀物ずしお・意矩をも぀、 ――― けだし䞊衣は、こうしたものずしおのみ、亜麻垃ず同じものであるから、他方では、亜麻垃それ自身の䟡倀(ノェルト)存圚(ザむン)が珟出する、すなわち自立的衚珟を受けずる、けだし亜麻垃は、䟡倀ずしおのみ、同等な䟡倀あるもの・あるいはそれず亀換されうるもの・ずしおの䞊衣に連関しおいるのだから。」
『資本論』を読んでいお、こういう所が出おくるず戞惑っおしたいたす。䜕を蚀っおいるのか分からない、ずいう盎芳したす。䜕を蚀っおいるのか分からない、ずいうような所を䜕故やる必芁があるのか、ずいうこずですが、それはこの節の冒頭45頁例9で、「商品の䟡倀察象性は、぀かたえどころがない・・・略・・・商品䜓の感芚的な察象性ずは正反察に、それの䟡倀察象性にはみじんの自然的質料も入りこたない。」ずマルクスは蚀っおいたす。芁するに商品を感芚的に觊っおみる、嗅いでみるずいった五感を動かしお把握しおみおも、その商品の䟡倀がどういうように珟されおいるか、ずいうこずは分からない。ないしはその商品が䟡倀ずしお持っおいる圢態は、感芚では掎めない。感芚で掎めないものを、どのように認識するか、ずいう堎合にその関係の䞭で双方がお互いに同等な人間劎働ずしお関係し合っおいる。そういう関係の仕方ですが、これを解明し埗れば、そうするずそこに䟡倀が珟れおいる、䟡倀が珟象しおいる圢態である、ずいうこずが確認できるのではないのか。
珟行版の堎合、そういうような分析の仕方になっおいるわけです。初版の堎合は少し違いたすが珟行版では、䜕か同じ質の、抜象的人間劎働ずいう同じ質を持ったものずしおお互いに関係し合っおいる。そういう関係はどのような圢で成立しおいるか、ずいう事を明らかにする。それが䟡倀圢態の分析の課題になっおいる、ずいうように蚀えるず思うのです。
そのような芳点から、今読んだ箇所を芋おいきたすず、䞀぀は亜麻垃䞊着ずいう関係がある堎合に、ここでは盞察的䟡倀圢態にある亜麻垃、亜麻垃だけの䟡倀が衚珟されおいる、ずたず芋たす。亜麻垃の䟡倀が䞊着で衚珟されおいる。それはどういうこずかず蚀うず、亜麻垃は䞊着ず亀換されおもよい、同じものだから亀換されおもよい、ずいうように蚀っおいるずいうこずです。これを蚀い換えるず、亜麻垃は䞊着を自分ず亀換できるもの、぀たり自分ず同じものにしおいるわけです。自分ず同じものだずいうように芋做し、そうした䞊で自分の䟡倀を䞊着で衚珟しおいる。だから商品盞互の関係ずいう堎合、盞察的䟡倀圢態にある商品が自分の䟡倀を衚珟する。自分の䟡倀は自分自身では衚珟出来ずに、等䟡圢態にある䞊着ずいう商品の䜓を通じお衚珟する。その堎合に盞察的䟡倀圢態にある亜麻垃は、䞊着は自分ず亀換できるものだから䞊着は自分ず同じものである、ずいうような圢で関係を結んで、その関係で䞊着は自分の䟡倀だ。自分の䟡倀は䞊着で珟わされおいる、ず䞻匵しおいるのだ。
こういうように読み取っお行くず、今床は劎働のレベルで、䟡倀は抜象的人間劎働からなるずいう以䞊は、単に察象化された劎働・生産物の関係だけではなくお、生産物を生産する劎働の関係も含めお分析しなければならないわけで、その問題を次にマルクスは芋おいきたす。
それは48頁䞋段にある箇所で、いわゆる「たわり道」ずいう蚀葉が出おきたすが、この問題に぀いおは、「䟡倀衚珟のたわり道」ずいうようなこずで様々な論争がありたした。
ここでのたわり道に関しおは、䟡倀衚珟のたわり道ではない。少なくずも珟行版に関しおは、䟡倀衚珟はここでは問題にされおおらず、䟡倀を圢成する劎働が抜象的人間劎働である、ずいうこずが亜麻垃ず䞊着ずいう商品盞互の関係によっおどのように瀺されおいるか、ずいうこずをマルクスはここで分析しおいるわけです。
たわり道に関する様々な議論に぀いおは、殆ど正解を埗おいないのではないかず思いたす。マルクスはここで分析したこずを今床は敎理しお、以降に展開しおいきたす。ここでの根本問題は亜麻垃ずの関係においお、䞊着ずいう自然物自䜓が䟡倀ずしお意矩を持っおいる、持たされおいる、ずいうようになっおいる所です。䟡倀が䟡倀ずしお珟われるのではなくお、䞊着ずいう䜿甚䟡倀の䜓が䟡倀を䜓珟するものになっおいる。ですから亜麻垃の䟡倀は䞊着ずいう䜿甚䟡倀で衚珟されおいる、ずいう関係になっおいたす。こういう関係になっおいるずいう事が、䟡倀圢態の秘密だずいう内容になりたす。
ここでよく䟡倀圢態の秘密ずいう堎合は、商品の䟡倀が䜿甚䟡倀で珟わされる、他の商品の䜿甚䟡倀で珟わされおいる、ずいうこずだず簡単に蚀っおしたっただけで理解したような気になっおいるずいう事が倚いのです。問題は䞊着ずいう䜿甚䟡倀が単に䟡倀を珟わすものずしか機胜しおいない。ですから等䟡圢態にある䞊着は䜿甚䟡倀でありながら䜿甚䟡倀ずしおの圹割を持っおおらずに䟡倀を珟わす、「䟡倀の鏡」ずしお、䟡倀の䜓化物ずしおの意矩しか持っおいないのだ。そういう関係になるずいう所が、非垞に難しい所であり、それを掎む所が簡単な䟡倀圢態の構造を把握する䞊で根本的なこずだ、ずいうように私は芋おいたす。

商品語の論理ずしおの事態抜象
ここで分析したこずをマルクスは、実は商品は商品語でそういうこずを蚀っおおり、商品語で語られたこずを翻蚳しただけだ、ず別のずころでそう蚀っおいたす。50頁侊1段に、マルクスが商品語を翻蚳した箇所がありたす。
「人間的劎働ずいう抜象的属性における劎働が、それ自身の䟡倀を圢成するずいうこずを語るために、亜麻垃はいう、 ――― 䞊衣は、それが亜麻垃ず同等な意矩をも぀かぎり、぀たり䟡倀であるかぎり、亜麻垃が成りた぀のず同じ劎働から成りたっおいる、ず。亜
麻垃の厇高な䟡倀察象性はゎツゎツした亜麻垃のからだずは異なるものだずいうこずを語るために、亜麻垃はいう、 ――― 䟡倀は䞊衣のように芋え、したがっお亜麻垃そのものは、䟡倀物ずしおは䞊衣ず同等なこず瓜(うり)ふた぀である、ず。」
ここを読むず、抜象的人間劎働が瀟䌚的な実䜓である、ずいう意味が明らかになるのではないかず思うのです。「䞊衣は、それが亜麻垃ず同等な意矩をも぀かぎり」ずいう箇所は、䞊着は、぀たり䟡倀である限り亜麻垃が成り立぀のず同じ劎働から成り立っおいる。そのように関係の䞭で亜麻垃は蚀っおいる。
これはどういう事かず蚀うず、䞊着は亜麻垃ず同じだ、ず亜麻垃は蚀っおいたす。これを亜麻垃ず䞊着を぀くる劎働ずいう芳点から考えたすず、䞊着を぀くった劎働は亜麻垃を぀くった劎働ず同じものですから䞊着は亜麻垃である、こういうように蚀っおいるこずになりたす。䞊着を぀くる劎働が亜麻垃で衚珟されおいる。䞊着を芋れば、䞊着を䜜る劎働は想像できたすが、亜麻垃を芋おも、䞊着を぀くる劎働はどういうものかは分からない。そういう意味で䞊着を぀くる劎働が抜象化されおいる。
次に亜麻垃の䟡倀は䞊着だ、ずいうように蚀っおいいたす。䞊着を䟡倀の䜓化物にした䞊で、その䟡倀の䜓化物で自分の䟡倀を衚珟する、こういう構造になっおいたす。そしお自分の䟡倀を衚珟する箇所で、亜麻垃の䟡倀は䞊着ず同じだ、亜麻垃は䞊着ず同じずいうわけですから、今床は䟡倀ずしおは亜麻垃を぀くった劎働は䞊着で瀺されたす。ですから䞊着を芋おも亜麻垃を぀くった劎働は、どういう劎働かずいうこずは分からない。
そうするず抜象的人間劎働ずいうものは、この亜麻垃ず䞊着ずいう䟡倀圢態における䟡倀関係の䞭、お互いの関係の䞭で、抜象化し合っおいる。そういう関係の䞭で、抜象的人間劎働にそれぞれが還元しあっおいる、こういう事になっおいるのではないか。

思考の論理ずは異質な商品の論理
第二回目でやりたした抜象的人間劎働ぞの還元ですね、䟡倀実䜓の箇所でマルクスが行った抜象的人間劎働の還元。それがここでは亜麻垃ず䞊着ずいう䟡倀関係の䞭で双方を生産した劎働が抜象的人間劎働に還元されるずいうように展開されおいたす。二぀のケヌスで同じく抜象的人間劎働に還元するず蚀っおも、その還元の仕方、構造は随分ず違う、ずいうこずになるわけです。
䟡倀実䜓の箇所での抜象的人間劎働の還元、ずいう事はいわゆる分析をするこずに基づく還元です。ですから二぀の商品の亀換関係においお、そこに䜕か共通なものがあるはずだ、ずいうこずを指摘しお、その共通なものは䜕かずいうこずで分析によっお異なるものを消しお行く。そうするず残るものが同等なもので、それが劎働だ。こういう圢で分析によっお、同等なものを発芋しおきおいる。
ずころが亜麻垃ず䞊着の䟡倀関係が出来お、そこで抜象的人間劎働が珟われおいる。この堎合は、䞡方の関係で劎働の抜象化が行われおいる、ずいうこずになっおいるのではないか。そうするず分析ではなくお、総合によっお劎働が抜象化されおいる。このようになっおいるのではないか。
人間の頭の䞭の思考の䜜甚ずいうものは、分析ず総合ずいう圢で、自分で抂念を埗お行くわけですね。ずころが商品の䟡倀圢態の堎合は二぀の商品の関係ずいう、いわば総合によっお劎働を抜象化しおしたっおいる。その堎合にはたず分析をせずにいきなり総合による抜象化を説くこずは、本来は人間の思考様匏からは倖れおしたうのではないか。埓っお䞀旊、分析的に抜象しお䟡倀実䜓を明らかにしお、そこから総合しお䟡倀圢態に行く。その総合する過皋で、抜象的人間劎働を再び別の圢で芏定しお行く、ずいう構造になるのは、もうそうならざるを埗ないのではないか。
抜象的人間劎働を巡る論争に぀いおは今回ずっず蚀っおきたしたので、それずの関連で蚀いたす。結局はどのような議論を展開しおいる人にずっおも、抜象的人間劎働ぞの還元ないしは劎働の抜象化ずいうこずは、先ほど蚀いたした分析的な抜象です。䟡倀実䜓論の箇所でマルクスが展開し、たたは思考䜜甚にもっずも適応した圢である分析的な抜象䜜甚、ずいうものしかないず思い蟌んだ䞊で、議論を展開しおいるのではないかずいうように思いたす。
ずころが商品盞互の関係で劎働が抜象化されお行くずいうこずが、思考が行う圢での分析的抜象ではなくお、総合する過皋で抜象しあっおいる、ずいうものであり、そしお䟡倀圢態論でこの関係を明らかにしようずしたす。この堎合事態抜象ず名づけられおいたすが、これを思考が把握するためには、予め分析しお抜象的な芏定に還元した䞊で、諞圢態の関係に照応しお抜象の過皋がどのように珟実にあるか、ずいうこずを再構成する以倖ないのではないのか。思考の䞭での総合ずいうものは、いったん抜象しおから総合する。いったん分析しお抜象的なものを埗おから総合する。䞀旊はそういう圢を取らない限り、事態抜象がなされおいる䟡倀圢態を把握する、ずいうこずは出来ないのではないか。
このような芳点から䜍眮づけるず、䟡倀圢態論で展開されおいる抜象的人間劎働ずいう問題ずは別に、先行しお展開されおいる䟡倀実䜓における抜象的人間劎働の芏定ずいうものは、仮の芏定あるいは理念䞊のものだずは必ずしも蚀えないのではないか。
それだけを切り離せば、理念䞊のものだずいう批刀も成り立ち埗たす。しかしながらマルクスは䟡倀圢態における劎働の抜象化ず結び぀けお論じおいるわけです。たたそれず結び぀けお把握するずすれば商品の䟡倀圢態ずいうものは䞀䜓䜕か、ずいうこずを分析し、䟡倀圢態に即しお䟡倀ずは同等な人間劎働である、ずいうこずを解明しようずしたす。ここでの抜象化が、思考による分析的抜象ず異なるずすれば、どうしおも取らざるを埗ない方法だず芋做さざるを埗ないのではないかず思いたす。
盞察的䟡倀圢態の分析の箇所で、䟡倀圢態の秘密を明らかにしお行くに぀れ若干等䟡圢態の箇所にも觊れたしょう。その等䟡圢態で蚀われおいる内容で、今の議論ず関係する問題を蚀いたすず、䟋えば56頁例5行に「䟡倀衚珟の秘密」ずいう箇所がありたす。「䟡倀衚珟の秘密、すなわち、すべおの劎働が人間的劎働䞀般であるがゆえの・たたはそのかぎりでの・すべおの劎働の同等性および同等な劥圓性・・・」このようにマルクスは蚀っおいたす。それず関連するこずですが、57頁䞋埌3行を芋おみたす。
「劎働生産物は、いかなる瀟䌚的状態のもずでも䜿甚察象であるが、劎働生産物を商品に転化するのは、ある䜿甚物の生産においお支出された劎働をその䜿甚物の『察象的』属性ずしお・すなわちその䜿甚物の䟡倀ずしお・衚瀺するような、歎史的に芏定された発展時代のみである。」
こういう箇所ずの関係で䟡倀圢態の秘密、いわゆる劎働が抜象化される䟡倀圢態の䞭の䞀぀の構造ですが、こういう箇所を芋盎しお行くず、次第にはっきりずしおくるのではないか、ず思うのですね。
最初の箇所は、䟡倀衚珟の秘密、芁するに䟡倀を衚珟する堎合にそういう圢をずらなければいけないのは、人間の劎働の同等性ずいうこずが今ではそういう圢を通じおしか実珟しないのだ。䜕故ならば私的所有者の瀟䌚ですから、みんな個々人の劎働は私的所有物になっおいる。だから瀟䌚的には同等ではない。瀟䌚的には同等ではない私的劎働を、私的生産物ずいう性栌を倉えないたたで瀟䌚的なものにしようず思えば、䟡倀圢態を取らざるを埗ないのだ。ここに䟡倀衚珟の秘密があるのだ、ずいうこずが䞀぀の問題ですね。
もう䞀぀の箇所は、57頁䞋埌2行の箇所です。「ある䜿甚物の生産においお支出された劎働をその䜿甚物の「察象的」属性ずしお・すなわちその䜿甚物の䟡倀ずしお・衚瀺するような・・・」
これも同じようなこずで、自分の劎働生産物を瀟䌚に通甚しよう、瀟䌚的劎働にしよう、ずする堎合、結局は生産物を垂堎に出さなければいけない。商品にしなければいけない、ずいうこずでこの商品にするずいうこずは、生産過皋においお支出した劎働がそのたた瀟䌚的な劎働になっおいくのではなくお、商品ずいう物象に属しおいる瀟䌚的劎働の持分ですね。これに芏定されおしたうのだ。
たずえば、蟲家でスむカを䜜る堎合、スむカを垂堎に出すずすれば、スむカの䟡栌ずいうものは客芳的にそれたでの垂堎の経過で決たっおいたす。その䟡栌に巊右されざるを埗ない。スむカの䟡栌はどのように決たったかず蚀いたすず、垂堎にあるスむカの需芁ず䟛絊によっお決たっおいる。ですから蟲家がスむカを䜜る劎働をいかに頑匵っお、倚倧な劎働時間をかけお生産したずしおも、スむカずいう物によっお決たっおいる䟡倀を超えるこずは出来たせん。こういう関係が珟実にありたすね。䟋倖ずしおもちろんうたいスむカを入れれば若干䟡栌を高く぀けおもよい、などずいう問題はありたすがずにかく、生産過皋で必芁だった個々人の劎働がそのたたでは瀟䌚的劎働ずしおは認められない。瀟䌚的劎働ずしおは既に垂堎にあるスむカの䟡栌に芏制される、ずいう構造がありたす。
抜象的人間劎働がこういう圢で実珟されるずいうこずは、結局は総合による抜象化です。商品ず商品が関係を結んで、その総合の過皋で劎働が抜象化されお行く。ですから結果的に、そうなりたす。埓っお瀟䌚的実䜓であるずいう堎合の抜象的人間劎働の圢成のされ方を、今述べたしたような圢で掎む、ずいう事は非垞に重芁な問題ではないか、ずいうように考えたす。

第五講 簡単な䟡倀圢態の等䟡圢態

等䟡圢態の第䞀の独自性
この等䟡圢態ずいうのは、先の盞察的䟡倀圢態のずころでやりたした䞊着自䜓、䞊着の自然的な性質、ないしは䞊着ずしおの物䜓、それ自䜓が䟡倀の䜓化物ずしお意矩を持っおいる。そういうものに亜麻垃によっおされおいる、ずいうこずを蚀いたしたけれども、今床はその亜麻垃の䟡倀の衚珟の材料ずなっおいる䞊着、この等䟡圢態自䜓がどういう意味をもっおいるか、ずいうこずに぀いおの分析に移りたす。
 マルクスは等䟡圢態の分析で、䞉぀の独自性ずいうものを各々明らかにしお、その䞊に簡単な䟡倀圢態の総䜓、ずいうものを述べおおりたしお、そこでは䟡倀圢態の移行の問題が提起されおいたす。では、次䞉、等䟡圢態、四、簡単な䟡倀圢態の総䜓をたず読んでください。
 今読んだ箇所の説明を最初からやっおいきたす。たず等䟡圢態ずいうのは䞀䜓䜕か、ずいうこずでそれが「その商品の、他の商品ずの盎接的な亀換可胜性の圢態である。」52頁䞋埌7行ずいうようにマルクスは芏定しおいたす。たた53頁の䞊段12行目には、「䞊衣ずいう䜿甚䟡倀は亜麻垃にたいし䟡倀䜓ずしお意矩をも぀」ず曞いおありたす。この盎接的な亀換の可胜性の圢態である、ずいう事ず、䞊衣が䟡倀䜓である、ずいう事。この二぀の特城を指摘した䞊で、いよいよ等䟡圢態の䞉぀の独自性を述べるようになっおいるわけですけれども、たず、第䞀の独自性ずいうこずで䜕が蚀われおいるかず蚀えば「䜿甚䟡倀がその察立者たる䟡倀の珟象圢態になる」53頁䞋段1行目ずいうこずです。
 ここは亜麻垃の䟡倀が䞊着の䜿甚䟡倀で衚珟されおいる、ずいう事が既に盞察的䟡倀圢態の分析から明らかにされおいるのですが、今床は等䟡圢態をそれ独自に分析しお、そしお䜿甚䟡倀が察立者たる䟡倀の珟象圢態になっおいる、ずいうこずを指摘したのです。ずころがこの独自性で問題になるのは商品の自然的な圢態がその䟡倀の圢態になる、ずいうわけですけれども、䟋えば亜麻垃ず䞊着ずいうものが䜕時でもそうだずいうこずではなくお、亜麻垃は䞊着ず亀換関係にある、そういう䟡倀関係の内郚でのみその事が蚀える。いわば垂堎を離れお亜麻垃ず䞊着があるだけだったら、それは別に䟡倀関係をずっおいないし、そういう状態にあっおは䞊着が䟡倀の珟象圢態になるずいう事はないのです。
なぜそのような事をマルクスは匷調しおいるかず蚀うず、この亜麻垃ず䞊衣の䟡倀関係の内郚でしか䞊着ずいう䜿甚䟡倀が䟡倀の珟象圢態にならないにも関わらず、商品の物神性によっお䞊着が䟡倀の珟象圢態になるずいうこずがこの関係の倖郚でもそうであるように芋える。そのこずによっお䞊着が䟡倀の珟象圢態になっおいるずいうこずが、䞊着に生たれ぀きに備わっおいるかに芋える、ずいう問題があるわけで、これをマルクスは「等䟡圢態の謎性」54頁例10行ず蚀い、これが前回やりたした「貚幣の謎」の解明であるわけです。こういう問題があるから、特にここで䟡倀関係の内郚でのみでそうなのだ、ずいうこずを匷調しおいるのです。
䟡倀関係の内郚でしか劥圓しないこずが、䞀般的に劥圓するように芋える、ずいう問題。これが等䟡圢態の謎性ずいうこずでありたしお、この説明は重芁なので読んでおきたす。
「等䟡圢態ずは、たさに、䞀商品たずえば䞊衣が、こうした物がそのありのたたで、䟡倀を衚珟し、かくしお生たれながらに䟡倀圢態をずる、ずいうこずである。なるほど、このこずは、亜麻垃商品が等䟡ずしおの䞊衣商品に連関させられおいる䟡倀関係の内郚でのみ、劥圓する。しかし、ある物の属性は、他の物にたいするその物の関係から生ずるのではなく、むしろ、こうした関係においお自らを実蚌するにすぎないので、䞊衣もたた、それの等䟡圢態を、盎接的な亀換䟡倀性ずいうそれの属性を、重さがあるずか保枩するずかいうそれの属性ず同じように、生たれながらにも぀かに芋える。」54頁䞊埌1行
これが発展するず、貚幣物神になっおいくわけです。

等䟡圢態の第二の独自性
その次に等䟡圢態の第二の独自性の説明に移りたす。これは今の関係、ですから䜿甚䟡倀が䟡倀の珟象圢態になる、ずいう事を今床は劎働ずいう芳点から芋たすず、「具䜓的劎働が抜象的・人間的劎働の衚珟ずなる」54頁䞋埌1行ずいうこずになるのです。「具䜓的劎働が抜象的・人間的劎働の衚珟ずなる」ずいう問題は䞀䜓どういうこずか。これは普通に理解しやすいのは、亜麻垃を織る織物劎働たたは䞊衣を䜜る裁瞫劎働も共に人間の劎働である、だから䞡者は共通である、こういう考え方です。これは非垞に理解しやすい。
ずころが「具䜓的劎働が抜象的・人間的劎働の衚珟ずなる」、ずいうこの等䟡圢態の堎合はこういう圢で劎働の同等性が確認されおいる、ずいうこずではないのです。この蟺りの箇所は55頁侊13行に曞いおありたすので、読んでみたす。これは先ほど私が蚀ったこずです。
「裁瞫業の圢態においおも、織物業の圢態においおも、人間的劎働力が支出される。だから䞡者は、人間的劎働ずいう䞀般的属性をもっおおり、したがっおたた、䞀定のばあい、たずえば䟡倀生産のばあいには、この芋地のもずでのみ問題ずなりうる。およそこうしたこずは、なんら神秘的なこずではない。ずころが商品の䟡倀衚珟においおは、事態がねじゆがめられる。たずえば、機織(はたお)りは、機織りずしおのそれの具䜓的圢態においおではなく、人間的劎働ずしおのそれの䞀般的属性においお亜麻垃䟡倀を圢成するずいうこずを衚珟するために、機織りにたいし、亜麻垃の等䟡を生産する具䜓的劎働たる裁瞫業が、抜象的・人間的劎働の感芚的な実珟圢態ずしお察眮されるのである。」55頁侊13行
なぜこうなっおいるかずいう事は、先に盞察的䟡倀圢態の箇所、48頁例7行目で、たわり道を経お抜象的人間劎働ずいう性栌が珟出されおいる、ずありたした。
「こうしたたわり道をしお、それから、織物業も、それが䟡倀を織るかぎりでは、裁瞫業ず区別されるべき䜕らの特城をもたず、かくしお抜象的・人間的劎働だずいうこずが、語られおいる。皮類を異にする諞商品の等䟡衚珟のみが、皮類を異にする諞商品のうちに含たれおいる・皮類を異にする・諞劎働を、事実䞊、それらの共通者に ――― 人間的劎働䞀般に ――― 還元するこずによっお、䟡倀を圢成する劎働の独自な性栌を珟出させるのである。」48頁例7行
そこで蚀われおいるこずを、今床は等䟡圢態の方からもう䞀床芋おみたのです。そうするず、亜麻垃を織る劎働ず䞊衣を瞫う劎働ずは同じ劎働だずいうこずが、䞡方ずも同じ人間的劎働だから同じ劎働だ、ずいう圢で劎働の同等性が衚珟されおいるのではありたせん。そうではなくお、亜麻垃に䞊着を等眮する、そういう圢で䟡倀圢態が圢成される䞭で同等化抜象化がなされおいる、ずいうこずですから、生産物同士の関係を媒介にしおその生産物を䜜った裁瞫業ず織物業が抜象的人間劎働に還元されお行く。こういう構造をしおいるわけですから、その䞭では䞊着を瞫った裁瞫業が抜象的人間劎働の代衚者になっおいる、ずいう圢だずいうこずです。そういう意味で具䜓的劎働が察立者たる抜象的人間劎働になっおいる。ですから具䜓的劎働を抜象的人間劎働の代衚者・珟象圢態にするこずによっお、他の具䜓的劎働が関係を結ぶならば、それ自身も抜象的人間劎働ずなる。そういうこずが可胜になるずいう話なのです。

等䟡圢態の第䞉の独自性
䜕故こういうこずをクドクドず蚀っおいるか、ずいうのは次に等䟡圢態の「第䞉の独自性」55頁例10行目ずいうこずを芋れば割合にはっきりずしおくるのではないかず思うのです。「第二の独自性」55頁例1行ずは、䜿甚䟡倀ず䟡倀の関係を劎働の属性、具䜓的劎働ず抜象的人間劎働ずいう劎働の二重性の芳点から芋たわけです。今床は劎働の瀟䌚的性栌です。劎働自身の性栌ではなくお、䟋えば、抜象的や具䜓的ずいうのは劎働自身の性栌、劎働の属性だったわけですが、今床は䟡倀の関係で芏定された関係です。ですからこの堎合には、私的劎働か瀟䌚的劎働かずいうこずで、これは劎働䞀般ではなくお、劎働の瀟䌚関係の䞭でそういう性栌が決たっおいくわけです。その芳点から、同じ内容を芋おいるのです。「かくしお、私的劎働がそれの察立者の圢態になり、盎接に瀟䌚的な圢態をずる劎働になるずいうこず」55頁例10行目ずいうこずを、マルクスは「等䟡圢態の第䞉の独自性」ずいうように蚀っおいるのです。ですから抜象的人間劎働が具䜓的な劎働によっお衚珟されおいる。具䜓的劎働が抜象的人間劎働の珟象圢態になっおいるずいうこずは結局、私的劎働の生産物それ自䜓が、私的劎働生産物ずいう性栌を残したたた瀟䌚的な圢態をずっおいる、ずいうこずだ。
等䟡圢態にある䞊着はそういう関係をずっおいるので、他の商品はその等䟡圢態をずっおいる䞊着ず関係すれば、䞊着自䜓が瀟䌚的劎働の圢態をずっおいるからそれず等しい。そういう圢を取るこずによっお、他の劎働はすべお瀟䌚的劎働の圢を、䞊着を媒介にしおずるこずが出来る。芁するに私的劎働が私的劎働ずいう性栌を残したたたで瀟䌚的な劎働になる圢です。どういう圢態をずれば私的劎働の産物が瀟䌚に通甚する瀟䌚的劎働になり埗るか、ずいう芳点から考えおみたすず「等䟡圢態の第䞉の独自性」は、非垞にはっきりずしおくるのではないか。
ですから裁瞫業ず織物業ずはずもに人間的劎働で共通性があるから等眮されおいるずいうこずではなくお、ずもに私的劎働だからそのたたでは瀟䌚的には通甚しない。瀟䌚的に通甚させ埗るような圢を探そうずすれば、たず裁瞫業ずいう特定の劎働を人間劎働䞀般の代衚者にしおやる。そういう圢で、その他のすべおの商品が䞊着ず関係を結び、瀟䌚に通甚するものになっお行ける。これは埌の「より発展した䟡倀圢態」の䟡倀圢態からその内容を借甚しおいるわけですね。そういうものずしお、この箇所を理解すれば非垞に分かりやすいのではないかず思いたす。
あずアリストテレスの話がありたしお、人間劎働の同等性ずいうこずが䟡倀衚珟の秘密だずいうこずが56頁の䞋段で曞かれおいお、この人間劎働の同䞀性ずいうこずが特に匷調されおいるのですが、ここで抜出しおおくべきこずは、こうです。人間劎働の同等性ずいうこずが、぀たり瀟䌚に通甚する劎働は同等な人間劎働でなければならない、同等な人間劎働でなければいけないのだけれども、それは個々の分業䞋にある様々な劎働が皆人間劎働ずしお同䞀である、だから瀟䌚に通甚する、ずいうこずにはならないずいうこずです。
個々の分業のもずにある様々な劎働は私的所有のもずでの劎働だから、それは盎接的には瀟䌚的な劎働にはなっおいない。それを瀟䌚的劎働にしようず思ったら、独特の䟡倀圢態ずいう圢をずっお、぀たり生産物を商品にしなきゃならないのだ。生産物を商品にしたずきに圢成されおいる人間劎働の同等性ずいうのが抜象的人間劎働なのですけれども、それが瀟䌚的実䜓だずいうふうにマルクスが最初に蚀ったこずの意味は、そんなに簡単に把握できるものではないのです。私的劎働生産物を私的劎働ずいう性栌を倉えないたたで瀟䌚に通甚する圢にする、ずいう倉な圢の䞭で圢成されおくる人間劎働の同等性です。その同等な人間劎働を抜象的人間劎働ずいうふうにマルクスは芏定しおいるわけですけれども、そういう倉な圢になっおいる、ずいうこずです。ここを抌さえられるかどうかずいうこずが、等䟡圢態を分析したマルクスの理論を把握できるための根本的なずころではないかず思いたす。

事態抜象ず思考による分析的抜象ずの違い
そういうふうに問題を掎んで行くず、次に䟡倀圢態の発展です。これをどう掎むかずいうこずに移行しおいくわけですが、䟡倀圢態の発展ずいうこずに぀いおはいろんな論争があるわけで、これは次回に玹介したすけれども、はっきり蚀っおどれも正確な議論ずいうのは展開できおはいないのではないか。特にその等䟡圢態をどう掎むかずいうこずで倱敗しおいる。䟋えばそれがどこに衚れおくるかずいったら、抜象的人間劎働をどのように把握するかずいう点でいろんな間違いをおかしおいる。
たた、宇野さんの説にちょっず返りたすけれど、宇野さんの堎合でしたら、二商品の亀換関係では劎働の抜象的人間劎働ぞの還元はなされないずいうふうに蚀ったわけです。これは䟡倀圢態の発展によっお、段々そのようになっおくるず。ですから貚幣圢態たで行くず、殆ど抜象的人間劎働に還元できる間際たで行くのですが、しかしそこでも出来ないずいうわけです。そうしお最終的には資本の生産過皋においお劎働力が、どういう劎働でも出来るずいう単玔な劎働力に転化しお、そこではじめお抜象的人間劎働が圢成されおいるこずが分かる。そういう抜象的人間劎働によっお生産された商品は圓然に、抜象的人間劎働の䜓化物になる、ずいう議論を䜜っおいるのですけれども、これがおかしいずいうのはずっず以前に批刀枈みなので、その誀りに぀いおは指摘したせん。
その抜象的人間劎働の圢成のされ方が頭の䞭で分析しお考える堎合ず、商品が䟡倀圢態においお自ら自分自身を抜象的人間劎働に還元しおいくずいうメカニズムが違うのだずいうこずをはっきりさせさえすれば、そもそも抜象的人間劎働ずいうものに還元されるずいうようにマルクスが蚀っおいるこずは、その諞物象、商品の諞関係においおそういうこずが瀺されるずいうこずを確認すればいいこずです。実際に劎働が抜象的人間劎働ずしお、諞商品が抜象的人間劎働であるこずを実際に感芚的に瀺すような圢態があるかどうかずいうこずは、どうでもいい事なのです。
䟋えば正朚八郎さんにしおも、結局䟡倀圢態の発展の䞭で劎働が段々ず抜象化されお行っお、最埌に䟡倀圢態の䞭で商品が抜象的人間劎働からなる、ずいうこずが瀺されるようなこずになるのではないか、ずいう問題意識から䟡倀圢態論に取り蟌んでいたす。けれども、それはやはりおかしいのではないか。
抜象的人間劎働ぞの還元ずいうこずはやはり、これは簡単な䟡倀圢態で既に成され枈みであっお、そこで成されおいるこずがより明らかに我々の目に芋えるものずしお珟れおくる、そういうこずは、あり埗ないのではないか。倚少異なった圢では、そういう抜象的人間劎働があるずいうこずを実蚌するたたは傍蚌するずいった事を䟡倀圢態の発展のなかでマルクスは蚀っおいたす。けれども、商品抜象的人間劎働ずいうような端的な圢をずっお䟡倀の実䜓が抜象的人間劎働であるこずが我々の目の前に珟れおくる、ずいうような圢での事態ずいうのはやはり起こらない。
それは結局、分析的な抜象化による抜象ではなくお総合による抜象ですから、結局分析的でしたら䟋えばA抜象的人間劎働ずいうようなずころに最埌は還元されなくおはいけないずいうこずになるのですが、ABずいうような諞商品の䟡倀関係ずいった、そういう総合過皋で抜象されおいるずいうこずですから、そもそもA抜象的人間劎働ずいうようなそういう圢を探そうずいう事自䜓がやはり問題にならないずいうこずではないか、ず思いたす。

䟡倀圢態発展の動力
それでは次に䟡倀圢態の発展の問題に移りたす。マルクスは䟡倀圢態の発展に぀いおは、「四 簡単な䟡倀圢態の総䜓」56頁の箇所で基本的な方向性を述べおいたす。「簡単な䟡倀圢態の ―――すなわち、䞀連の姿態倉換をぞお初めお䟡栌圢態に成熟するこの萌芜圢態の ――― 䞍充分性は、䞀芋すればわかる。」58頁䞊、6行ず曞いおあり、芁するに簡単な䟡倀圢態は䟡倀の衚珟圢匏ずしおは、䞍十分だず。簡単な䟡倀圢態ずいうこずだけでは、私的劎働の生産物である商品を瀟䌚に通甚するような圢にする、ずいう䟡倀の抂念から芋おみれば、それ自身では非垞に䞍十分だ。埓っおより十党な圢に発展しなければいけない、ずいうこずを蚀っおいたす。
この堎合には簡単な䟡倀圢態から次の圢態ぞず移行するのは、どのような芳点、論理から移行するのかず蚀いたすず、「単独な䟡倀圢態は、おのずから、より完党な圢態に移行する。」58頁䞊埌7行ず曞いおありたす。この自ら移行する、ずいうように蚀われおいるこずの意味は、芁するに簡単な䟡倀圢態があるずいうこずは他にもそのような同様の䟡倀圢態がある。ただあるけれども、今は䞀぀だけに泚目しおいるので簡単な䟡倀圢態になっおいる、ずいうこずです。
次の「 党䜓的な・たたは開展された・䟡倀圢態」58頁例6行が始たりたすが、簡単な䟡倀圢態からそのような党䜓的な䟡倀圢態ぞ移行する堎合はただ量を増やせばよく、䟡倀圢態をたくさん䜜っおいけばそれが次の䟡倀圢態になっおいく。ですから論理孊の甚語で蚀えば、量から質ぞの転換がここでは念頭に眮かれおいるのではないか、ず思うのです。量から質ぞの転換ずいうこずですから、「自ら、より完党な圢態に移行する」。そのようになっおいるのではないか。
䟡倀圢態の発展に぀いおは、ちょっず先走っお議論を玹介しおおきたすず、いったいどういう動力ないしは論理で、簡単な䟡倀圢態から貚幣圢態たで䟡倀圢態が発展しおいくのかが問題になっおいたす。これは宇野さんなんかの説明だず、やはり動力ずいうものは矛盟だ、商品に内圚する矛盟、これが䟡倀圢態の発展の動力になっおいるはずだ。商品の矛盟ずいうのは䜿甚䟡倀ず䟡倀である。だから䜿甚䟡倀ず䟡倀の矛盟を動力にしお、䟡倀圢態は発展いく、ずいうふうに受け取らないず説明できないのではないか、こういう考え方です。
 それに察しお、それを批刀する人は、商品の矛盟はたしかに䜿甚䟡倀ず䟡倀なのだけれども、䟡倀圢態の発展を解く堎合の矛盟はそういうふうに蚭定すべきではないのではないか。䟡倀圢態の発展は䟡倀の抂念ずそれからそれの衚珟圢態、それの圢匏ですね。ですから抂念ず圢態ずの矛盟から説明すべきじゃないか。マルクスが䞍十分性ずいう様に蚀っおいるのはこの事だ。こういう芳点から問題を解こうずしおいるのです。
したがっお䟡倀圢態の発展ずいうこずに぀いおどういう論理が発展の論理かずいうこずをめぐっおの議論ずいうのは、䞀぀は䜿甚䟡倀ず䟡倀の矛盟ずしお䟡倀圢態の発展を論じようずする立堎。もう䞀぀は䟡倀抂念ず䟡倀の圢態の矛盟。すなわち䟡倀抂念に照応した䟡倀圢態を埗るために䟡倀圢態が発展しお行くのだずいう、倧䜓そうした考えで、これが察立しおいるわけです。
 そのどちらがどうか、ずいう問題に぀いおは次回でやるわけですけれども、ずりあえずそういう䟡倀圢態の発展が䜕にもずづいおいるか、どういう論理にもずづいおいるか、ずいうようなこずを理解するうえにおいおも、盞察的䟡倀圢態における䟡倀圢態の秘密の問題、それず䟡倀圢態の謎ずを区別する必芁がある。䟡倀圢態の謎ずいうのは等䟡圢態の謎性のこずで、これは物神性ず関係しおいるずいう問題ず、等䟡圢態論の堎合のポむントずしおは、等䟡圢態にあるそういうその䞊着なら䞊着ずいう商品の自然的圢態が抜象的人間劎働の実珟圢態にされおいるずいう問題です。こういう圢匏にならない限り、私的劎働を瀟䌚的劎働にするこずは出来ないし、私的劎働が瀟䌚的劎働になっおいるずいうこずはたたそういう事なのだ。そういうような圢で抜象的人間劎働が実珟するのです。
ですからそれが瀟䌚的だずいうこずにもなるし、それが最初の第二回の講矩の時にやりたした、䟡倀実䜓は抜象的人間劎働だずいうこずを明らかにしたこずず関連しおいたす。第二回目にそれを劎働ずいう点から芋おどのような性栌を持っおいるかずいう具合に、䞀個同䞀の人間の劎働力や平均劎働力などずいった話が出おきたしたけれども、なぜそこで蚀われたかずいうこずは、今蚀ったような抜象的人間劎働の圢成のシステムずいうこずが、䟡倀圢態ずいう圢であるが故にそういう圢でマルクスは議論を展開せざるをえなかった。以䞊の点を確認しおおく必芁がある、ずいうように思いたす。

第六講 䟡倀圢態の発展

抜象的人間劎働ぞの還元ずいうこずの意味
たず、該圓箇所65ペヌゞたでを読んでください。今回は䟡倀圢態の発展に぀いお話したすが、その前に各䟡倀圢態芋おおきたす。これはテキストで図匏しおおきたしたが、このⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳずそれから初版本文に出おくる第Ⅳ圢態、これを⅀ずしおテキストに曞いおありたす。この各䟡倀圢態の特城をかい぀たんで説明するずいうずころから始めたしょう。
 その説明の芳点ですけれども、前回に抜象的人間劎働ぞの還元ずいうこずが、䟡倀圢態の発展を通じお段々こう目に芋えるような圢で出おくるずいうわけではない、ずいうこずを蚀いたしたけれども、しかし、マルクスは抜象的人間劎働、䟡倀がそういうものであるずいうこずが段々はっきりしおくる、ずいうような圢で蚀っおいるずころがなきにしもあらずずいうこずなので、その点に぀いおたず芋おいくずころから始めたしょう。58ペヌゞの䞋段の最初のずころですね。党䜓的な䟡倀圢態の特城を述べたずころで、以䞋のように述べおいたす。
「䞀商品、たずえば亜麻垃の䟡倀は、いたや商品䞖界の無数の他の諞芁玠で衚珟されおいる。他のどの商品䜓でも亜麻垃䟡倀の鏡ずなる。かくしおこの䟡倀そのものが、はじめお真に無差別な人間的劎働の凝結ずしお珟象する。」
これが抜象的人間劎働を䟡倀圢態の発展ずの絡みで説いおいる䞀぀の箇所ですね。もう䞀぀は䞀般的な䟡倀圢態の所。これを芋たすず、62ペヌゞの䞋段の方、䞊段の末尟から読みたすず、「かくしお、商品䟡倀に察象化されおいる劎働は、それにおいおは珟実的諞劎働のすべおの具䜓的圢態および有甚的属性が捚象される劎働ずしお、消極的に衚瀺されおいるだけではない。それじしんの積極的な本性が、はっきり珟われおいる。それは、すべおの珟実的諞劎働の、人間的劎働ずいうそれらに共通な性栌ぞの、人間的劎働力の支出ぞの、還元である」こういうように蚀っおいたす。ここでは、「はっきり珟われおいる」ずいうように蚀っおいたすね。
無差別な人間的劎働の凝結ずしお珟象するずいうこずが党䜓的な䟡倀圢態よりも、䞀般的な䟡倀圢態のずころではっきり衚れおいる、その積極的本性が はっきり衚れおいる、ずいうふうに蚀われおいるのですけれども、これは抜象的人間劎働が手に取るような圢で珟象するず、いうようなこずではないわけです。芁するに党䜓的な䟡倀圢態、それから䞀般的な䟡倀圢態を分析しおみるず、そこに抜象的人間劎働の圢態がより発展した圢であるこずが確認できる。その抜象的人間劎働の盞互の関係、それの発展した圢をここで蚘述しおいる、ずいうように芋たほうが正確ではないか、ずいうように思いたす。

党䜓的な䟡倀圢態
そういう事を確認した䞊で、各䟡倀圢態の特城をマルクスはどう芋おいるか、ずいう事を説明しおいきたすが、簡単な䟡倀圢態に぀いおは詳しくやったので、党䜓的な䟡倀圢態に移りたす。テキストの二぀目の圢態ですね。「䟡倀そのものが、はじめお真に無差別な人間的劎働の凝結ずしお珟象する。」ずいうこずは、これはどういうこずかず蚀いたすず盞察的䟡倀圢態にある商品の䟡倀が様々なその他の商品の䟡倀で珟わされおいる。
だから盞察的䟡倀圢態の商品の䟡倀は、無差別な人間的劎働の凝結になっおいる。どのような具䜓的な有甚的な劎働ずも関係しおいる。どのような劎働ずも関係できるずいうこずは無差別な人間的劎働の凝結だ、ずいう意味なのです。ですから抜象的人間劎働がより珟われおいるずいう事ではなくお、この圢を芋ればそういう事が読み取れる。だからあくたでも、ここで珟象するず蚀われおいるこずは解読しないず分からない。そういう含みがあるずいうこずですね。
この䟡倀圢態はそういうものですが、確かに盞察的䟡倀圢態にある商品の䟡倀自䜓を無差別な人間的劎働の凝結ずしお瀺すわけですけれども、しかしこれだけではこの䟡倀圢態はただ䞍十分だずいうこずで、䟡倀圢態の䞍十分性、欠陥ですね。それを59頁の䞋の段䞋段埌6行で述べおいたす。この欠陥のずころを読んでみたす。
「第䞀に、商品の盞察的な䟡倀衚珟は、それの衚瀺系列がけっしお終結しないがゆえに、未完成である。䞀぀の䟡倀方皋匏が他の䟡倀方皋匏ずむすび぀く鎖は、新たな䟡倀衚珟の材料を提䟛する新たに登堎する各商品皮類によっお、い぀たでもひき぀づき延長されうるものである。第二に、この鎖は、ばらばらで様々な皮類の䟡倀衚珟の、雑然たる寄朚现工をなす。」
この鎖は「ばらばら」だず。ずいうのは、䞀぀の商品に察しおみんなそういうように出来るわけですから、お互いに関連し合わないずいけないずいうわけです。その次に盞互に関連しあえないずいうこずを、等䟡圢態の方から芋るず統䞀性がないずいうこずです。埓っお私的劎働を瀟䌚的なものずしお通甚させる堎合に、こういう無数の系列があり、無数の圢で衚珟出来るずいうこずであれば、これはやはり䟡倀の抂念からすれば䞍十分だ。統䞀的な圢にならなければ、䞍十分だずいうこずです。
そこで移行の問題に぀いおは前回、簡単な䟡倀圢態から党䜓的な䟡倀圢態ぞは自ら移行するずマルクスは曞いおあったずいうこずを述べ、これが量から質ぞの転化、ずいうこずを意味しおいるのではないか。このこずを説明したしたが、ここでは䞍十分性、確かに党䜓的な䟡倀圢態の䞍十分性に぀いおしお指摘されおいたすけれども、自ずから移行するずいうこずにはなっおいないのです。
今床はこの圢態は逆の関連を含んでいる、ずいうこずを指摘したす。ですから欠陥を指摘し、逆の関連を含んでいる、60頁の䞊段です。その䞊で事実䞊ではずいうこずで、この逆の関連ずいうのは事実䞊こういうこずはあり埗る。こういう颚に念を抌した䞊で、今床は逆の関連を衚珟しようずいうこずです。これは䟡倀圢態が内的に展開しお発展しお行くずいうよりは、分析する自分が今床は逆の関連を衚珟しおみよう。そうすればどうなるだろうか、ずいう蚭定になっおいたす。

䞀般的な䟡倀圢態
そしお次の䞉番目の䞀般的な䟡倀圢態、これに移っおいるのですが、ここでの特城は等䟡圢態が単䞀の商品で珟わされおいる。そうするずどうなるか。ここでは61頁の䞋段3行目にその特城が曞かれおいたす。
「各商品の䟡倀は、いたや、亜麻垃ず同等なものずしお、その商品じしんの䜿甚䟡倀から区別されおいるばかりでなく、およそ䜿甚䟡倀なるものから区別されおおり、たた、たさにそうされるこずによっお、その商品ずすべおの商品ずに共通なものずしお、衚珟されおいる。だから、はじめおこの圢態が、珟実的に、諞商品を盞互に䟡倀ずしお連関させるのであり、あるいは、諞商品を盞互に亀換䟡倀ずしお珟象させるのである。」
ですから単䞀の商品を等䟡物ずしお党おの商品が衚珟されるずするず、盞察的に䟡倀圢態にある商品同士の同等性ずいうこずが、ひず目で明らかになるずいうこずです。結局ある商品が他の商品を等䟡圢態にずり、他の商品がたた別の商品ず等䟡圢態をずっおいる堎合に、盞察的䟡倀圢態にある商品同士の関連ずいうこずは、明確ではなく統䞀的ではないわけですが、単䞀の等䟡圢態をずった堎合にはそれが統䞀的に衚珟されお、埓っお盞察的䟡倀圢態にある商品同士の瀟䌚性がひず目で明らかになる。そういう意味でこの䞀般的な䟡倀圢態は商品䞖界の共同事業ずしお成立する、ずいうこずを特城ずしおマルクスは述べおいるのです。
ここで泚意すべき問題は、こういう等䟡圢態が単䞀のものになっおしたうず、それはどういう事かずいうず、商品䞖界の共同事業ずしお成立しおいる。蚀い換えれば他の党おの商品所有者が、単䞀の商品で自分の商品の䟡倀を衚珟する。そういう働きかけの結果䞀぀の商品が等䟡圢態に眮かれる、ずいうこずです。ですから62頁の䞊段真䞭あたりから埌に曞かれおいる箇所を芋たしょう。
「商品䞖界の䞀般的な盞察的䟡倀圢態は、商品䞖界から排陀された等䟡商品たる亜麻垃に、䞀般的な等䟡ずいう性栌をおし぀ける。」
この䞀般的な等䟡物は、䟋えば金などの特定の商品に瀟䌚的習慣によっお固定されるず次の貚幣圢態になる。普通の䞀般的な垞識ずしおは貚幣に䟡倀があるから他の商品の䟡倀を貚幣で衚珟するのだ、ず考えがちです。 けれども、䞀般的な等䟡ずいう貚幣の眮かれおいる䜍眮は、貚幣商品が䜜り出したわけではなくお、他の党おの商品が貚幣にそういう性栌を抌し付けおいるのだず蚀っおいる点です。これに泚目する必芁があるず思うのです。
この堎合に亜麻垃は等䟡物ですから、等䟡物は簡単な䟡倀圢態の等䟡圢態の所で芋た具䜓的劎働が抜象的人間劎働の珟実化したものになる、ずいうこずはここでもなされる。これが単に䞀぀の商品、䞀぀の盞察的䟡倀圢態の商品からなされ、そうしお䞀぀の商品の䟡倀を衚珟するずいうこずだけではなくお、自分以倖のあらゆる商品がその商品で䟡倀を衚珟する。ですからこの抜象的人間劎働の実珟圢態であるずいうこずが䞀般的、瀟䌚的に認められる、ずいうこずになるのです。
簡単な䟡倀圢態、䟋えば先皋でしたら亜麻垃ず䞊着ずいう関係で、䞊着が抜象的人間劎働の䜓化物ずされおいるずいうこずを芋たしたが、今床は亜麻垃だけではなくおコヌヒヌからもそうですし、鉄からもそうですし、茶からもそうされる。そうするず抜象的人間劎働の化身であるずいうこずが䞀般化され、次に瀟䌚化される。そういう意味でこれは䞀般的な䟡倀圢態だず蚀われおいるのです。けれども、こういうように第䞉の䟡倀圢態ですね、䞀般的な䟡倀圢態をそういうように読みたすず、党おの様々な劎働が人間的劎働ずいうそれらの共通な性栌ぞ還元されおいる、ずいうこずが分かるずいう意味です。
ですから様々な劎働が亜麻垃で䟡倀を衚珟する、ずいう圢だけを芋おも別に珟実的諞劎働ぞの共通な性栌ぞの還元、ずいうこずは読み取れない。むしろこれを䟡倀の衚珟の圢匏ずいうように芋お、䟡倀の衚珟、芁するに抜象的人間劎働盞互の関係です。その関係がここにあるずいう商品語を読み取った䞊で、こういう党おの珟実的諞劎働が人間劎働ずいう共通な性栌ぞず還元されおいる、そういう圢がここで珟われおいる、ずいうこずが分かる。ですからここでも諞商品の䟡倀が抜象的人間劎働である、ずいう事が䜕か明瀺的にパッず衚珟されおいる、ずいうこずではあり埗ない。そういう事だず思うのです。
埌、この䞀般的䟡倀圢態から貚幣圢態ぞの移行ずいう箇所があり、この移行の箇所でも移行の論理ずいう点に泚目しお芋おみたす。この䞀般的䟡倀圢態を取るのはどの商品でも取り埗る。ですから䞀般的䟡倀圢態ずいうものは貚幣圢態ずは違うわけですけれども、貚幣圢態の堎合は等䟡圢態にある商品が単䞀の商品になり、その他の商品が等䟡圢態になるこずを排陀する、ずいう関係です。それは瀟䌚的な習慣によっおそうなる、ずマルクスは蚀っおいたす。そうするずこれは移行の論理ずしおは、䞀般的䟡倀圢態に内属する論理によっお貚幣圢態ぞ移行する、ずいうようには蚀えないのではないか。぀たり金が貚幣にされるずいうこずは、瀟䌚的な習慣などの䟡倀圢態以倖の様々な芁玠です。そこからの働きかけ、ずいうこずを芋逃せないのではないか。そのような話をしおいるうちに、䟡倀圢態の発展の話に半分くらいは入っおいるわけですけれども、いよいよその問題ぞず移っお行きたいず思うのです。

䟡倀圢態発展の論理をめぐっお
䟡倀圢態の発展に぀いおの論争は、宇野さんが䜿甚䟡倀ず䟡倀、ずいう矛盟をテコにしお䟡倀圢態の発展を読もうずしおいる、ずいうこずは先ほど述べたした。こういうように芋るず、結局は商品所有者の欲望ずいう問題を入れないず䞊手く展開が出来ないずいうこずになるわけです。宇野さんの堎合は第䞀圢態から第二圢態ぞの移行を、䞊着だけでなく他の商品をも欲するようになる、こういう欲望を持ち蟌むこずで自ら移行する、ずいうわけですね。
次に第二圢態から第䞉圢態ぞの移行に぀いおは、共通な等䟡圢態を求められおいる商品、そういうものを商品所有者が芁求する、欲望する、ずいうずころから説明するわけです。それに察しお宇野さんの芋解を批刀しおいる、䟡倀抂念ずその衚珟圢態ずの矛盟ずいう立堎ですけれども、これを最初に蚀った方はおそらく芋田石介さんではないかず思うのです。芋田さんの匟子たちがそういう芳点から宇野批刀を行っおいるわけで、最近1990幎圓時たずたった本を出された方ずしおは、尌寺矩匘さんずいう方ですね。その方が『䟡倀圢態論』青朚曞店ずいう本の䞭で宇野説を批刀しお、䟡倀抂念ずその衚珟圢態ずの矛盟が䟡倀圢態の発展の動力だずいうこずを䞻匵されおいたす。これはテキストに匕甚しおおきたした。195頁です。
「぀たりAは普遍的な瀟䌚性である䟡倀の性栌を衚珟する圢態ずしおは䞍十分さを持っおいる。ここに䟡倀抂念ずその衚珟圢態定圚様匏ずの矛盟がある。だからAは䟡倀抂念に照応するより進んだ䟡倀圢態ぞず移行せざるを埗ない。」
こういうように抂念ず衚珟圢態ずの矛盟、そこから䟡倀圢態の移行を説こう、ずいう説です。これらの説に察しお先ほどから玹介しおいる歊田さんです。歊田さんの本では、先ほども少し玹介したした第二圢態から第䞉圢態ぞ移行する堎合の逆の関係、この問題がたた䞀぀の論点になっおいるわけですけれども、この逆の関連ずいうこずず、䟡倀抂念ず衚珟様匏ずの矛盟ずの関係はどうか、そういう事を歊田さんは考えたわけです。尌寺さんの堎合は逆の関連に぀いおは、逆の論理は圓然含たれおいるのだずいう䞻匵ですけれども、第二圢態の䞭に第䞉圢態を逆の関連ずしおは含たないのではないか、ずいう意芋が最近1990幎圓時孊䌚では倚数掟になり぀぀あるのです。
どういう事か、ず蚀うず商品の亀換関係にあっおは等䟡圢態にある商品は芳念的でよい。芳念的でよいのに逆の関係があるずするず、それは芳念的ではなくなっおいる。芳念的でないのは亀換過皋で、亀換過皋の堎合は䞡方の圓事者がいないず商品亀換が出来ないので、亀換過皋になる。その䞀方で、䟡倀圢態では亀換過皋ずは異なるので、等䟡圢態にある商品の所有者は芳念的でよいし、その商品自䜓も芳念的でよい。そういう事であるずすれば、逆の関連ずいうのは含たないのだ。確かにそう蚀われればそういう気がするのですが、そういう議論が䞭心になっおきおそれで逆の関連は含たないのではないか、ずいう話が出おきおいたす。
そこで歊田さんずしおは、䟡倀抂念ず衚珟様匏の矛盟を動力にするずいう問題ず逆関係の論理はどうなのか、䞡方を考えながら基本的に䟡倀抂念ず衚珟圢態ずの矛盟を䞻にしながら逆関係の論理に぀いおは、マルクス自身は倉化しおいるのではないかずいう説を立おおいたす。どのような説かず蚀いたすず、初版では党面的に逆関係の論理になっおいたすけれども、付録、珟行版で段々ず修正しお行き、むしろ逆関係ずいう考え方は退いお䟡倀抂念ず衚珟様匏ずの矛盟、぀たり䟡倀圢態の䞍十分性ですね、そこを䞭心に移行を論じおいるのではないか。そのような説を提起しおいたす。
私はそのような説を、『資本論』の今たでやっおきた䟡倀圢態の理解のポむントを怜蚎し螏たえお行くず、䞍十分性ないしは䟡倀圢態ず䟡倀抂念ずの間の矛盟が圢態発展の動力であるずいうのは「自らの移行」はそうだずしおも、第二圢態から第䞉圢態、それから第䞉圢態から第四圢態に぀いおは単玔にそうだずは蚀えないのではないか。そしおやや抜象的な話になりたすけれども、䜿甚䟡倀ず䟡倀の矛盟ずいうものは結局、『資本論』ではどの箇所かず蚀えば亀換過皋になるわけです。これは埌でやりたすけれども、亀換過皋では商品に内圚する䜿甚䟡倀ず䟡倀の矛盟が商品亀換ずいう圢で倖化しお珟われおくる。ですからその矛盟は商品の流通ずいう運動ずなる。そう展開されおいる。これは匁蚌法の論理で蚀えば、察立物の統䞀が展開されお運動になる、こういうレベルの話です。
ずころが圢態の発展の問題ずいうものは、そういう察立物の統䞀ではなくお、「吊定の吊定」ずいう論理である。叀い圢態が止揚されお次の圢態に垭を譲る。そういう意味では「吊定の吊定」での根本的な矛盟ず蚀いたすか、「吊定の吊定」が行われる根本的な原因ずいうこずが䟡倀抂念ず䟡倀圢態のあいだの矛盟だ。圓然これでよいず思うのです。ですから䞍十分性ずいうこずをマルクスが䞀貫しお匷調しおいるずいう事は、「吊定の吊定」を考察するに圓たり、䟡倀の本性抂念ずいうよりは本性ず蚀う方がよいず思いたすけれどもず䟡倀の圢態のあいだに矛盟があっお、䟡倀の圢態が䞍十分だからどんどん発展しお行くのだ。
そういう根本的な芁玠ずしお捉えるのはよいのですが、具䜓的に第䞀圢態から第二圢態、第二圢態から第䞉圢態、そうしお第䞉圢態から第四圢態ぞず移行する、移行の契機はやはり単に内的な力だけではなくお倖からの力も同時に働いお、それが加わっお発展しおいくようになっおいるのではないか。ですから『資本論』を芋れば䞀から二ぞの移行は自らず曞いおあり、自らずいう以䞊は内的に行くわけですけれども、それ以倖には自らにはなっおいない、ずいう問題ですね。そういう倖からの関係を考慮した䞊で、䟡倀圢態が発展し埗る条件を䞍十分性ずいう圢で蚭定する、ずいうこずになっおいるのではないか。ですから具䜓的に蚀いたすず、第二圢態から第䞉圢態に顚倒の関係があるのですが、転倒の関係があるずいうこずは芁するに亀換過皋をマルクスは暗瀺しおいるのです。
商品の亀換過皋ずいうものが倖的な契機になっお、第二圢態から第䞉圢態ぞず珟実には移行する。そしお亀換過皋の契機は䟡倀圢態の䞭には持ち蟌めないわけですから、事実䞊ずいうわけで事実の話を持ち蟌んでいる。そういう意味で転倒は第二圢態には含たれおいないずいえば含たれおいないのです。含たれおいないのですが移行ずいうこずを問題にする以䞊は、それが亀換過皋ずいう論理を媒介にしお含たれおいるず蚀っおその䞊で、顛倒した圢態を想定しようずいうようにマルクスが論を進めおいる、ずいうこずが極めお正確に事態を衚珟しおいるのではないか。
単に第二圢態に内圚する論理だけで、䟡倀の本性ず䟡倀の圢態の矛盟だけから自動的に移転・発展しおいく、ずいうこずではなくお亀換過皋ずいう倖の契機を受けお発展したのだずいうこずをここで暗瀺しおいるのではないか、ずいうように思うのです。
それから第䞉圢態から第四圢態、すなわち䞀般的等䟡物が貚幣圢態になる、金が貚幣になるのは䜕故かずいうこずでは、ここでも自らではなくお瀟䌚的習慣ずいう圢になるのです。これも結局は人間が瀟䌚生掻をやっおいく䞭で䜕を貚幣にするかずいう問題は、䟡倀圢態だけからは説明は出来ない。䟡倀圢態の発展は瀟䌚的習慣ずいう芁玠からも芏定されるのだ、ずいう事をやはりマルクスは蚀いたかったのではないか。そういうように考察しお行きたすず、䟡倀圢態の発展を䜿甚䟡倀ず䟡倀の矛盟で芋る、これはおかしい。これは亀換過皋の矛盟であっおこういうように考えるず䟡倀圢態論ず亀換過皋論がごっちゃになっおしたう、ずいうこずが䞀぀はっきりしたこずです。
それから䟡倀の抂念ず䟡倀の圢匏圢態の矛盟、ずいうように問題を蚭定するこず。これ自䜓はよくお、それが䟡倀圢態発展の基本的な芁因になっおいるずいう事は認めるわけですけれどもそれが即、その論理だけで䟡倀圢態の移行は説明できないのではないか。䟡倀圢態が発展、移行する堎合に倖的な契機がある。その倖的な契機をマルクスは様々な圢で瀺唆しおいる。埓っお内的論理の䞀矩性ずいう点から芋るず、矛盟しおいるずいう批刀を受け取るこずになる。しかしながらそれは内的論理の䞀矩性ずいうこずを求める方が無理であるためであり、論理の䞭断、歎史的事実の挿入ずいうようなこずに぀いお我々はきちんず考える必芁があるのではないか、ずいうように考えたす。それが今のずころ様々な論争があった䟡倀圢態の移行に察する私なりの芋解です。
結局は矛盟の展開ずいっおも「察立物の統䞀」の矛盟が運動ずなるずいう堎合ず、「吊定の吊定」の法則です。それをやはり区別しお掎たないずいけないし、やはりマルクスはそれを䞊手く区別しながら理論を進めおいるのではないか、ずいうように思いたす。以䞊で、䟡倀圢態の箇所は、党郚が終わったわけです。この次は物神性をやり、それが終われば初版の䞀番難しいず蚀われおいる䟡倀圢態論をもう少し時間をかけお、ゆっくり解きほぐしおいきたいず思いたす。
2014/02/23

Author: ebara (10:41 am)
『「資本論」の栞心』補講党回-

 発売䞭の拙著『「資本論」の栞心』情況新曞、2014幎、1300円に収録できなかった講矩をここで公開したす。䞉回に分けお掲茉し、䞉回目には本曞の目次を末尟に収録しおおきたす。なお『資本論』珟行版は長谷郚文雄蚳の『䞖界の倧思想 マルクス資本論』河出曞房新瀟を䜿いたす。ペヌゞ数に぀いおはこのペヌゞ数でやっおいきたす。

補講第䞀回 目次

第䞀講 資本論の読み方 今なぜ『資本論』か
参考文献の玹介
階玚の解䜓ではなくお階玚の成熟
商品の䟡倀圢態を人栌の物象化、物象の人栌化の圢匏ず読む
第二講 商品の二芁因 ――― 䜿甚䟡倀ず䟡倀
冒頭商品の性栌をめぐっお
䟡倀実䜓の分析ぞの異論をめぐっお
抜象的人間劎働ぞの還元の「恣意性」をめぐっお
第䞉講 劎働の二重性
䟡倀ずは瀟䌚的実䜓ずいう認識の欠萜
瀟䌚的実䜓ず劎働の瀟䌚的性栌
生きた劎働ず察象化された劎働ずの区別

第䞀講 資本論の読み方 今なぜ『資本論』か

参考文献の玹介
資本論には膚倧な論争がありたす。そういう論争を䞀々远っおいくずいうこずは今回はやらないわけですけれども、䞀応どういう論争があるかずいうこずに぀いおの文献を玹介しおおきたしょう。
遊郚久蔵の『資本論研究史』ミネルノァ曞房、これが䞀番叀いものです。次に出たのが『資本論を孊ぶ』、それから、刊行䞭の『資本論䜓系』最近完結した、それぞれ有斐閣から出おいたす。その他、共産党系の孊者の手になる『マルクス経枈孊講座』、『新マルクス経枈孊講座』有斐閣、宇野孊掟の手になる『資本論研究入門』東倧出版䌚ずいうのもありたすが、それぞれ䞀定の傟向から曞かれおいたしお、比范的䞭立的な立堎から曞かれおいるのが䞀番新しい『資本論䜓系』ずいう本です。
これらの本には論争の玹介ず共に膚倧な文献の玹介がありたす。もし今回の研究䌚の䞭で掎みたいテヌマなどが埡自身で芋぀かりたしたら、是非そういう文献に圓たり、䞀々文献を調べお自分で研究しおいくような圢でやっお戎いたらいいず考えおいたす。そういう論争に぀いおは今回の講矩では必芁に応じお蚀及するずいうこずに臎したすので、文献の玹介に留めおおくずしたしお、今なぜ『資本論』を取り䞊げるかずいうこずに぀いお次にお話ししたいず思いたす。

階玚の解䜓ではなくお階玚の成熟
日本ではマルクスはもう叀い、ずいうこずが数幎前80幎代前半から蚀われおきたしお、それはどういうこずを根拠にしおいるかず蚀いたすず、階玚が解䜓しおいるずいう認識が䞀般化しおいるずいう所に珟れおいるず思いたす。階玚の解䜓ずいう問題は䟋えば䞖論調査で囜民の倧倚数が䞭流の意識を持っおいる、こういう所に兞型的に珟われおいる問題ですけれども、資本家ず劎働者の利害の察立は敵察的な察立なのだずいう意識が薄れおきおいるずいうこずなのです。
これは裏返せば自分が階玚に垰属しおいる、ずいう意識が垌薄になっおきおいるずいうこずでもあるわけですが、このような階玚の解䜓ずいうようなこずが進行しおいく䞭で、マルクスの理論は階玚闘争、階玚の問題を党面に抌し出したものだったために、マルクスはもう叀いのではないかずいうような意芋が方々から出おくるずいうこずになっおきおいるのです。
ずころが私たちはこの様な珟状こそが、むしろマルクスが『資本論』で予蚀した階玚闘争ず階玚の存圚圢態の完成ではないか。だから階玚が解䜓したのではなくお、階玚が完成したのではないか。階玚が成熟しお完成したのではないか。こういうこずが『資本論』を読めば分かるのではないか。これが私たちの基本的な芳点です。
それで今なぜ『資本論』かずいうこずは、䞀芋階玚の解䜓に芋えおいるような珟圚の事態が実は階玚の完成である。そういうこずが『資本論』を読めば分かる。今この問題に若干立入っお話しを進めおいきたすず、埓来の階玚に぀いおの芳念ずいうのはやはり資本家ず劎働者ずの間の経枈的な関係は搟取・被搟取の関係であるずいうように捉えられおいたのです。埓っお資本家ず劎働者ずの間の階玚の察立ずいうこずは搟取・被搟取の意識だったのです。しかもこの搟取・被搟取が人ず人ずの関係ずいうように自芚されおいたわけです。
ずころが今日では人ず人ずの関係においお搟取されおいるずいう意識が垌薄になっおきおいる。そしお資本家も圌が資本家であるから搟取しおいるずいうこずではなくお、䞀぀の瀟䌚䜓制の䞭で䞀぀の圹割を占めおいるに過ぎない。それで資本家の圹割ずいうのが䜕か人間の力を超えた䜓制的な力が、資本家に匷制させおいるずいう、このような圢で階玚の問題が理解されるようになっおきおいる。そうするず搟取ずいう問題はもちろんあるずしおも、そのような搟取は人による人の搟取ずいうようには意識されなくなっおくる。䞀぀の党䜓的な䜓制があっお、そういう䜓制の䞭で人々がそれぞれの圹割を挔じおいる。これを厳密な蚀葉で蚀いたすず物象による人栌の支配、これが完成したずいうこずなのです。
そもそも資本の䜓制ずいうのは、商品や貚幣や資本ずいった物象を媒介にした人に察する人の支配ずいうこずなのです。䟋えば封建制床、奎隷制床であれば、人ず人ずの支配・服埓関係が搟取するための前提でした。領䞻ず蟲民ずいった人ず人ずの間の人栌的な支配・埓属の関係があっお、その元で搟取されおいく。ずころが資本の堎合には人ず人ずの政治的関係は自由平等であっお、そこに支配・隷属の関係はない。しかしながら、資本ずいうのは䞀぀の物象ずしお珟われるわけですから、物象ずしおの資本を所有しおいるかしおいないかが問題で、物象を所有しおいるこずにもずづいお人による人に察する支配がなされるずいうのが資本䞻矩の特城なのです。
ずころが物象を媒介にした支配ずいうこずが、資本䞻矩が封建瀟䌚から生たれおきお発展しおいく過皋ではただ埐々に支配的になっおいくのですが、それ自身が䞀぀のむデオロギヌずしお人々の頭のなかに圢成されるずいうずころたでは行っおなかった。埓っお昔の資本家は資本を䞀぀の物象ずしお捉えた堎合に、物象を媒介ずしお人を支配し搟取しおいたにも拘わらず、䞀般的には人が人を搟取する、支配するずいうように芋えおいたのです。
しかし、今日では人ず人ずの支配ずしお意識されおきた関係が、逆に物象を媒介ずした支配の完成によっお人に察する人の支配ずいう意識がむしろ消えおいっおいる。こういうように意識が倉化しおきおいるようになっおいるのです。
それはなぜか、ずいうこずなのですが、その蟺りの問題を解く鍵がいわゆる物象化ず物神性物化なのです。物象を媒介ずした支配がもちろん人による人の支配の䞀぀の圢匏なのですけれども、それが人による人の支配には芋えなくなっおいく。぀たり、物象を媒介ずした支配がむしろ人による人の支配であるこずを隠しおしたう。
そういう問題がどこにあるかずいうず根本的には商品にある。物象化も物神性も商品の䟡倀圢態にある。そういうように考えおいきたすず、昔であれば資本家ず劎働者の関係は搟取・被搟取の関係で尚䞔぀資本家は資本ずいう物象を媒介にしお搟取するわけですけれども、その資本ずいう物象を媒介に搟取する過皋が、生産過皋での資本家による劎働者の搟取ずいうそういう人ず人ずの支配・隷属の関係を消しおしたうような圢では成立しおいなかった。埓っおそこに搟取ずいう芳念を媒介にしお階玚ず階玚が存圚しおいる、お互いに利害が察立しおいる、ずいう意識があったのです。
ずころが今日では物象を媒介にした支配ずいう方が膚倧に膚らんでいっお、それが人ず人ずの関係を隠しおしたう、そのようになっおいる。埓っお䌝統的な階玚論では通甚しない。そのような事態が階玚の解䜓ずいうような蚀説で様々な人々によっお䞻匵されおいる原因だったず思うのです。
私たちが今回の講矩でそれを階玚の解䜓ではなくお階玚の成熟だず䞻匵するこずがどういう意味かずいえば、そのように物象の方がむしろでしゃばっおきおいる。それは単なる物ず物ずの関係であっお、そこには人々の支配・隷属の関係はないのだ、ずいう意識が出おくるこずこそがむしろ資本䞻矩的な䜓制の完成であり階玚の成熟であろう、こういうように、捉えられるのではないか。
それは商品・貚幣・資本、これらの持぀物象の瀟䌚的力が支配・隷属の関係を圢成しおいるのだが、物象のも぀物神性が人による人の支配・隷属関係の消滅ずいった意識を人々の間に䜜り出さざるを埗ない。それが成熟しお珟に䜜りだされた。こういう事態ずしお、今日のいわゆる階玚の解䜓ず蚀われおいるような䞻匵が、実は逆に階玚の成熟を意味しおいるのだずいう理解に導いおいけるのではないかずいうように考えおいるのです。

商品の䟡倀圢態を人栌の物象化、物象の人栌化の圢匏ず読む
そういうような芳点から『資本論』を読もうずいうこずになりたすず、もずもず、『資本論』には最初に商品論がありたす。これは読んでいっおも非垞に難しくおはっきり分からないこずが倚い。それで商品論の埌に貚幣論があっお、貚幣の資本ぞの転化が説かれ、それから資本の生産過皋ずいうようになっおいたす。その商品論ずいうのは貚幣を理解しおそれから貚幣の資本ぞの転化を理解する、そういう前座のようなものずしお今たでは孊習されおきたず思うのです。そしお、むしろ孊習の䞭心は資本の生産過皋を勉匷しお、そこで搟取がどういうようになされおいるかずいう事を理解しお、そしお階玚察立がなぜ起るのかずいうこずを知る。こういうやりかたが今たでの『資本論』の孊習方法だったず蚀えるず思うのです。
ずころが今蚀いたしたように、䞀芋階玚が解䜓しおいるず芋えるような事態が階玚の成熟であるずいう認識を持ずうずすれば、商品論はいい加枛にしお資本の生産過皋から詳しく孊習するずいうこずをやっおいたのでは到底そういう認識は出おこない。そこで商品論を非垞に詳しく研究するずいうこずが今必芁になっおきおいるず蚀えるず思うのです。
そこで私たちの芳点をもう少し敎理しおみたすず、䞀぀は『資本論』の膚倧な論争がありたすけれどもそういう論争の䞭でただ充分議論されおいない問題、぀たり新たな解釈を確立する、あるいは既成の解釈を乗り越える、ずいうようなこずが商品論の所でなされねばならない。そういうように考えおいたす。
それはどういう事かず蚀いたすず、商品の䟡倀圢態を人栌の物象化、物象の人栌化、これが成される䞀぀の圢匏ずしお解明しようずいうこずです。これが䞀぀の根本的な芳点なのです。商品の䟡倀圢態に぀いおは様々な論争がありたしお、ここが特に『資本論』の商品論の所でも䞀番難しいず蚀われおいるのですが、この䟡倀圢態に関しおは今たでの議論は本圓の所マルクスの真意を掎めおいるずは決しお蚀えなかったのではないか、ず私たちは芋おいたす。
『資本論』の䟡倀圢態論ずいうのは、『経枈孊批刀』を含めれば倚くの論じ方があるわけです。『資本論』の初版の本文に䟡倀圢態論が䞀぀展開されおいたすし、それからそれでは難しいのではないかずクヌゲルマンがマルクスに指摘したこずによっお付録ずいうものが曞かれお、初版には本文ず付録ずいう圢で䟡倀圢態論が二重に説かれおいたす。さらに珟行版ずいうものがありたしお、マルクス自身が『資本論』の初版本を改定したわけですけれども、その改定した珟行版の䟡倀圢態論ずいうものが、付録を土台ずしお曞き盎されお新しい圢で展開されおいる。埓っおいわゆる商品の䟡倀圢態の分析ずいうこずに぀いおは、マルクスは少なくずも䞉぀の仕方で展開をしおいるのです。
これたでの研究がいかに䞍充分であったかずいうこずは、このマルクスが展開しおいる䞉぀の異文に぀いお各々どういう特城があっおどういう関連があるか、ずいうような事に぀いお圓然研究されるべきなのですけれども、それに関しおはただ党然手が぀けられおいない、ずいう所にも珟われおいるように思いたす。
人栌の物象化、物象の人栌化ずいうこずは、今たで『資本論』の解釈の䞭では䜙り匷調されおこなかったこずなのですけれども、先皋の実は“階玚の解䜓が階玚の成熟である”ずいうふうに認識をしおいくための基本的な拠り所ずいうのが“人栌の物象化、物象の人栌化”ずいうこずなのです。
この事に぀いお予め説明しおおきたすず、結局ここで人栌ずいう堎合は法埋行為の䞻䜓ずしおの人間であっお、物象ずいうのは、自然物でありながら人々の瀟䌚関係で圢成される瀟䌚的な力をモノの方が吞収しおしたいモノがそういう瀟䌚的な力を持っおいる、そういうモノを物象ず呌びたす。
䟋えば貚幣ですけれど、今の貚幣でしたら日銀刞になりたすけれども、ああいう日銀刞ずいう玙切れが商品を買うずいう賌買力を持っおいる。これは日銀刞ずいう玙切れに人々が生産した商品を賌入するずいう、人間の瀟䌚の䞭でしか成立しおいない瀟䌚的な力が付着しおいるのです。そういうように自然物でありながら瀟䌚的な力を持っおしたった、そういうモノを“物象”ず呌ぶのです。そしお、資本䞻矩の基本的な傟向ずしお、瀟䌚的な力を持った物象が人栌化するずいうこずが起っおいる。
この物象が人栌化し人栌が物象化しおしたうずいう関係が、実際にモノを利甚しお人が人を支配しおいく堎合にこのモノが物象になっおしたうず、モノの方がいかにも人の圹割を果たしおしたう。その結果、人による人の支配がモノを通じお行なわれる堎合に、本圓はそのモノが単なる物ではなくお、物象ずしお人による人に察する支配がなされおいるずいうように芋なければいけない。ずころがそのモノが人的な力を持っおしたっおいるわけですから、人の方が逆にモノの力に順応しお、モノをコントロヌルしおいるように感じおしたう。
そうするずそこにあるのは䞀぀の物的な、䜓制的な関係で、そういう関係があるから人々の䞍平等が生たれおいる。そういうような認識が生たれおくるずするず、人ず人ずは結局は資本䞻矩では平等なのに、䜓制的な圢で、なぜかよく分からない、人間の存圚を超えた神のごずき力が、珟代の瀟䌚を運動させおいる、そういうように捉えられるようになる。
そういうような事態が生じる根本的な原因が、人栌の物象化ず物象の人栌化だずいうこずであり、これが商品の䟡倀圢態によっおそういうこずがなされおいるずいうこずですから、商品の䟡倀圢態を研究するこずによっおこのこずがはっきりすれば、先皋の階玚の成熟ずいうような問題が次に理解されおいくのではないかずいうように考えるのです。
どういうような蚈画で今回の講矩を行なうかずいうこずですけれど、『資本論』の論争史は必芁に応じお取り䞊げるずいうこずに留めたいず思うのです。あず特に階玚の解䜓ずいうこずを䞻匵しおいる今日の論客が提起しおいる幟぀かの批刀、これは適宜取り䞊げおその問題点に぀いお怜蚎しおいきたいず思いたす。
党䜓でどういうような圢で配分するかずいうこずですけれども、最初の䞀幎、぀たり回で資本論の第䞀巻の半分くらいたで出来るのではないかずいうように考えおいたす。残りの幎目に、第䞀巻の半分ず第䞉巻たで、これは非垞に駆け足的になりたすけれども党郚を䞀応抂論的にやっおしたおうずいうのが珟圚の蚈画です。なぜそのような蚈画になるかずいうずやはり商品論のずころを詳しくやる、ずいうのを基本的な目暙にしたすので商品論のずころを半幎かけお研究しよう、そしお埌の半幎で貚幣から第䞀巻の半分を、具䜓的には劎働日あたりたであず半幎でやろう、ずいうこずですね。
ずりあえず、今回の講矩をこのような芳点から始めるわけですけれども、特に講矩の焊点ずいうのは商品論の研究ずいうこずに䞭心があるわけで、そこが『資本論』の䞭の䞀番難しいずころでありたた謎でもありたす。䞔぀䞀般の『資本論』の研究家、いわゆる孊者になるのですけれども、孊者たちの間では党く間違った解釈が暪行しおいるずいう、こういうこずがありたすので、ここのずころは特に力を入れおやっおいきたいず思いたす。では第䞀回目の『資本論』の読み方、ずいうテヌマに぀いおはこれくらいで終りたしょう。

第二講 商品の二芁因 ――― 䜿甚䟡倀ず䟡倀

冒頭商品の性栌をめぐっお
『資本論』の商品章での最初の郚分なのですけれども、ここでは『資本論』を読み合わせながらやっおいきたしょう。読み合わせに䜿う『資本論』ですけれどもこれは倚くの蚳がありたすが、長谷郚文雄蚳の『䞖界の倧思想 マルクス資本論』河出曞房新瀟を䜿いたす。ペヌゞ数に぀いおはこのペヌゞ数でやっおいきたす。
それでは35頁『第䞀篇 商品ず貚幣  第䞀章 商品  第䞀節 商品の二芁因 ――― 䜿甚䟡倀ず䟡倀』、この第䞀パラグラフをたず皆さんで読んでください。
ここの第䞀パラグラフでたず商品から分析を始める、ずいうこずをマルクスは蚀っおいたす。この冒頭の商品をどう芏定するかに関しお様々な論争がありたすので、これを簡単に玹介しおいきたしょう。
たずここで蚀われおいる商品が、資本䞻矩的な商品なのか、それずも資本䞻矩が発生する以前の商品生産者の商品なのか、ずいうこずをめぐっお論争がありたした。たず埌者を「単玔商品生産瀟䌚の商品」ずいいたす。この論争がなぜ起ったかずいう問題は、論理ず歎史は照応しなければいけない、ずいう論理歎史照応説があったのです。この説からすれば、䞀番初めはただ資本はなかったはずですから単なる商品生産者の瀟䌚があった。そこから貚幣が出おきお資本が出おくるずいうように『資本論』党䜓の䜓系は叙述されおいるのではないか。そうなるず最初の商品は資本䞻矩的な商品、぀たり資本家が生産した商品ではなくお、䟋えば自営蟲民であるずかそういった資本家以倖の人々が生産した商品が最初に取り扱われおいるのではないか。こういうような意芋が䞀時期は支配的だったのです。
あずこの他に、なぜ『資本論』の䜓系が商品論から始たっおいるのか。それがどういう理由に基づくのかずいう論争もありたした。『資本論』だから資本から始めなくおはいけないずいう事が圓然考えられるし、あるいは劎働から始めなくおはいけないずいうような考え方も圓然あるだろうし。䟋えばスミスだったら分業から始めおいたす。
マルクスは商品論から始めたわけですけれど、これに぀いおはマルクス自身の簡単な説明がありたしお、これは『経枈孊批刀』囜民文庫ずいう最初の『資本論』の原型になった曞物ですが、その本にはマルクスがそれを出版した時には未公開であった「経枈孊批刀の序説」ずいう草皿も収録されおいたす。この草皿でなぜ商品から始めるかずいうこずに぀いお盎接それを説いたわけではありたせんが、もっずも単玔なものから始めお耇雑なものぞず移っおいくずいう圢で科孊は叙述されるべきではないかずいうように蚀っおいるのです。
科孊を叙述するのはそういう方法ですけれども、しかしながら実際に叙述する以前に、その察象である資本䞻矩瀟䌚あるいは資本䞻矩の生産様匏ですが、そういうこずが完党に分かっおいなければならない。それを分析しおいく堎合には耇雑なものから出発しお段々ず単玔なものに䞋向分析しおいくのだ。分析した結果、単玔なものに到達するず今床は叙述する堎合にはそこから䞊向しお段々ず耇雑なものぞず移っおいく。こういう分析ず総合ずいう圢で、科孊の方法は成りたっおいるのだずいうような事が曞かれおいるのですが、先の論争での資本䞻矩的な商品か単玔な商品生産者の商品かずいう論争は別にしお、この埌者の方法の問題に぀いおは是非「経枈孊批刀の序説」を圓たっお芋おおかれた方がよいずいうように思いたす。
論理ず歎史ずの照応説ずいうのは珟圚では殆ど支配的ではなくお、冒頭の商品は資本䞻矩の生産者の商品であるけれども、しかしながら資本䞻矩的な芏定、これが抜象されおいる。そういう意味で単玔な商品生産者の商品ず同じような抜象的な商品になっおいる、ずいうものが先の論点に぀いおの支配的な説になっおいたす。その玹介はそれくらいにしお、次の段萜から36頁䞊段の真䞭蟺りたで読んでください。

䟡倀実䜓の分析ぞの異論をめぐっお
今読んでいただいた所は、商品の二芁因のうち、䜿甚䟡倀の説明がなされおいたす。商品の䜿甚䟡倀ずは䜕か、ずいう説明はあたり難しい問題はないず思うので次に䟡倀の説明をしおいる所に移りたしょう。その続きから37頁䞋段の5行目たでを読んでください。
今読んでいただいた所が、䟡倀の分析です。䟡倀ず蚀わずにここでは亀換䟡倀ずいうようになっおいたすが、マルクスはこの亀換䟡倀ずいうこずで䟡倀を代衚させおいたす。取りあえず䟡倀は亀換䟡倀ずしお珟われおいるので、珟象に則しおここでは䟡倀を亀換䟡倀ず芏定しお分析しおいたす。
ここで亀換䟡倀の分析を通じお䟡倀ずは䜕か、普通は䟡倀の実䜓ずいうように蚀われおいるものずは䜕か、ずいうこずが分析されおいるのですが、ここに倚くの論争がありたた興味深い芋解の盞違ずいうこずがあるのです。埓っおここはかなり詳しくやっおいきたしょう。
先走っお䟡倀ずは䜕か、ずいう事に぀いお前提的な認識を蚀っおおいた方がいいず思うので説明しおおきたすず、芁するに商品に䟡栌が぀いおいる。䟋えばここにあるコップが250円で売られおいる。コップ自䜓は自然物ですけれど、それに䟡栌が付いおいる。その䟡栌は人間の瀟䌚の䞭でのみ起こる経枈的な珟象です。それでコップに䟡栌が付いおいるずいうこず、これは亀換䟡倀なのですけれども、コップが亀換䟡倀を持぀、それはどういうこずなのか、それを説明するこずが䟡倀の説明になるのです。
コップを䜜った人は、コップが垂堎にある時にはただ自分の所有物ですね。ですからコップはコップを生産した人の私的な生産物であり、私的な所有物である。ずころがコップが亀換䟡倀を持っお、䟡栌を付けお垂堎に出される堎合に、他の人々はコップを生産したコップを所有しおいる人に察しお、貚幣を支払うこずによっおそのコップを自分のものにするこずが出来る。そこではコップは瀟䌚に通甚する劎働になっおいるのです。
だから䟡倀ずは䜕か、䟡倀圢態ずは䜕か、ずいう問題は私的劎働の生産物が私的所有ずいう性栌を倉えないたたで瀟䌚的に通甚する、そういう瀟䌚的劎働の圢を取っおいる。この私的劎働生産物がずる瀟䌚的劎働の圢態、これが䟡倀であり、その圢匏が䟡倀圢態である。倧䜓こういうようなこずを頭においお、䟡倀の実䜓に぀いおのマルクスの分析を芋お行きたいのです。
ここで、特に日本の孊界の䞭で倧きな論点になったずいうのが宇野匘蔵さんの説です。二぀の商品の亀換関係から抜象的人間劎働ぞの劎働の還元が成されおいるずいうようにマルクスが䞻匵しおいるけれども、宇野さんはそうはならないのではないかずいう批刀をしたこずが最倧の論争点なのです。
二぀の商品の亀換関係からだけでは䟡倀が抜象的人間劎働であるずいうこずは分からない、こういう批刀を宇野さんはしたのですが、たあ宇野さんの批刀はもう叀いし私も『資本論の埩暩』鹿砊瀟などで宇野批刀を曞いたこずもありたすのでそのこずは盎接ここでは蚀及せずに、同じような立堎から問題を立おお展開しおいる柄谷行人さんの説を芋おみたしょう。
柄谷さんは『マルクスその可胜性の䞭心』ずいう本で、この本の内容はテキストに匕甚しおおきたしたけれども、次のように蚀っおいたす。
「いいかえれば、『䟡倀』なるものはなく、盞異なる䜿甚䟡倀の関係が、もっず正確にいえば『差異』のたわむれが根底にあるだけなのだ。」
先皋読んだ所で、マルクスは商品に䟡倀が含たれおいる、商品に内的な内圚的な䟡倀があるのだろう、ずいう芳点から分析したのです。それに察しお柄谷さんは、商品に䟡倀が含たれおいるずいう事はないのだ。ただそこには䜿甚䟡倀ず䜿甚䟡倀の関係があるだけだ。だからちょうどマルクスの『資本論』でいえば、36頁䞊段の最埌の方ですね、そこで蚀われおいる、「だから亀換䟡倀は、なにか偶然的で玔粋に盞察的なもののように芋える」ずいうマルクスが吊定しおいる考え方、これが正しいのだず柄谷さんは蚀っおいるのです。
なぜ圌がこのような䞻匵を展開するかず蚀いたすず、続いお柄谷さんの本『マルクスその可胜性の䞭心』の47頁からの匕甚、を掲げたしょう。
「䞀぀の商品の“䟡倀”は、内圚的にあるのではなく、他のすべおの商品ずの䟡倀関係ずしおあるにすぎない。だが、貚幣圢態をずるず、それは数量的に衚瀺される。同じ商品が䞀地域で安く、他の地域で高いのは、それぞれの地域においお、他の商品ずの関係がちがうずいうこず以倖ではない。ずころが、この関係が貚幣圢態によっお消去されるず、たるでその商品に単独に内圚的䟡倀が存圚するかのようにみえる。」
面癜いこずに柄谷さんは貚幣圢態があるから、商品に内圚的な䟡倀があるように芋えるのだ、こういう䞻匵をしおいるのです。もし貚幣圢態を取り払っおもっず簡単な䟡倀の関係を想定しおいくず、それは商品に内圚的な䟡倀ずいうようには蚀えないのではないだろうかず。
なぜこのような察立が出おきたかずいう問題ですが、これは実は先皋蚀った宇野さんの説ず非垞に関係しおいるのです。宇野さんは『資本論』を批刀しお、新しい芳点から自分の䟡倀論を展開しおいる。そういう内容を䞀番新しい著䜜でいうず『経枈原論』岩波党曞で展開しおいるのですが、そこでは商品がみんな䟡栌を持っおいる、この点での同質性が䟡倀だ。こういうように蚀っおいるのです。
だからある商品は○円である。たた別のある商品は×円である。みんな共通の䜕円ずいう䟡栌を持っおいる。この商品が䟡栌を持぀ずいう同質性が䟡倀だ。こういう圢で䟡倀を芏定しおいるのです。柄谷さんはそういう貚幣圢態を想定するず、本来商品自䜓に䟡倀が内圚的にないのにあるように芋える。そういうように商品の分析をもっおする堎合に䟡栌や貚幣圢態を問題にしお、そこから出発点にしお分析しようずする。これが宇野さんにも柄谷さんにも共通しおいる。
ずころがマルクスはそうせずに二商品の亀換関係を分析しおいるのですが、宇野さんの堎合は䟡栌をもっおいるずいう点での共通性が䟡倀でその䟡倀は䞀䜓䜕か、ずいうようになっおいるし、柄谷さんの堎合も䟡倀は結局䜿甚䟡倀ず䜿甚䟡倀ずの間の関係で内圚的な関係はなく、貚幣圢態を取るず䟡倀があるように芋えるのだ、ずいうような圢で蚀う。いずれにしおも貚幣圢態に泚目しおいる。䟡栌に泚目しおいる。その䟡栌を分析しおいっおも䟡倀が抜象的人間劎働であるかは分からない、ず二人ずもそういうようには蚀っおいないし、そういう䞻匵は別にしおいないのだけれども、裏返せばそういう事を蚀っおいるこずになるのです。
実は柄谷さんや宇野さんの説が登堎しおくる䜙地がどこにあるかず蚀えば、実は商品の䟡栌圢態を分析したのでは、その䟡倀がどういうものかずいう事は党然分からない。これはマルクスがそういう展開を圓然芖しおいるのですが、実はそういう非垞に平凡な䞀぀の事実を、宇野さんや柄谷さんは別の蚀葉で蚀い換えおいるに過ぎないのではないか。では䟡栌や貚幣圢態では商品䟡倀の実䜓、商品の䟡倀ずは䜕かずいうこずをなぜ分析出来ないか、ずいうこずに移りたすけれども、その問題に移る際にはたずそのマルクスの分析に぀いお、先皋読んでいただいた所にもう䞀床垰っお芋お行きたいず思いたす。

抜象的人間劎働ぞの還元の「恣意性」をめぐっお
マルクスは二぀の商品、小麊ず鉄の関係ずいうこずを提起しおそしお共通者が抜象的人間劎働である、ず述べおいたす。そのような議論を展開する前に、クォヌタヌの小麊の亀換䟡倀ずいうのは様々あっお、様々な亀換䟡倀があるのだろう、ずいうこずからたず出発しおいるのです。ですから、これは埌で䟡倀圢態のずころで出おくる「党䜓的な・たたは開展された・䟡倀圢態」ですね。だからクォヌタヌの小麊が様々な商品ず亀換されおいる、そういう亀換関係です。それをたず念頭においお、そこで䟋えばクォヌタヌの小麊がの商品ずはどれだけの割合で亀換されるか、の商品がどれだけの割合かず考えお行きたすず、・・・・・・様々な商品ず亀換できるわけですが、そうするず今床は小麊ず反察の右蟺にある・・・・・・ずいったこれらの商品は同じ同等なものではないかず。そういうこずをたずマルクスは蚀っおいるのです。それで右蟺の様々な商品がみんな同等なものを衚珟しおいる、ずいう事を抌さえた䞊で、この党䜓の䞭に含たれおいた小麊ず鉄の関係ずいう䟡倀関係のうちの䞀぀を取り出しお、次にこの共通なものは䜕かず、いうように分析しお行っおいる。
ここで宇野さんなり柄谷さんなりが想定しおいる貚幣圢態を取るずどうなるか。そうするずクォヌタヌの小麊が右蟺に来お、・・・・・・他の商品が巊蟺に行く。だからこれは埌で出おくる盞察的䟡倀圢態ず等䟡圢態ずいう二぀の䟡倀圢態に分かれおいるずいうようにマルクスは蚀っおおり、マルクスの䟋では小麊ずいうのは盞察的䟡倀圢態に立っおいるのですけれども、今床は宇野さんや柄谷さんの堎合では小麊は等䟡圢態に立っおいるのです。
様々な商品が䞀぀の単䞀の小麊ずいうもので䟡倀を衚珟されおいる。こういう関係を実は圌等は想定しおしたっおいるのです。それでそういう圢態を芋るず確かに様々な商品が党お単䞀の商品で珟されおいるから、䜕か䞀぀の共通のものを持っおいる。そういうこずは圓然分かるのですけれども、その共通なものの䞭身は䞀䜓䜕か。それは逆に共通なものは小麊だ、ずいう事になっおいるわけですから、党く逆に隠蔜されおいる。共通なものは劎働だずいうこずはむしろ分からなくなっおいる。
だから宇野さんや柄谷さんにしおも、䟡栌を持っおいるずいう点での同質性が䟡倀だずいうような所から出発しお䟡倀を分析しようずすれば、䟋えば貚幣なら金なり、先皋の䟋なら小麊なり、みんな他の商品が金なり小麊なりず等眮されおいる。そういう事が分かるだけで、では金や小麊ずいうのは実際に䜕か、ずいう事はこの圢を幟ら分析しおも分からない。
そういう意味でマルクスの分析を宇野さんや柄谷さんなりは批刀しおいるわけですけれども、その批刀がマルクスの展開を正確に抌さえた䞊での批刀にはなっおなくおむしろ、特に宇野さんの堎合では顕著ですけれども、マルクスが蚭定しおいる亀換関係ずは逆転した亀換関係を蚭定した䞊で抜象的人間劎働が出おこないずいう事を蚀っおいるに過ぎない。
確かに商品が党郚䟡栌を持っおいるからそういう同䞀性が䟡倀だずいう事は、子䟛でも分かる話なのですけれども、そういうような珟象を匕き合いにだしお果たしお䟡倀ずいうこずの質が分かるかどうか。そういう問題を考えおみるずすれば、このような問題蚭定では䟡倀の分析の仕様がない、ずいうようになっおいるのではないか。
このこずはマルクスの分析を裏返せばそういうこずがハッキリするし、マルクスの分析は商品が䟡栌を持っおいるずいう点で共通でありそういう共通性が䟡倀だずいう考え方には立たずに䟡倀の分析をしおいる、ずいうこずをここでは理解しおもらいたいのです。
その次に同じくここの分析に関連しおマむケル・ラむアンずいう人が著曞『デリダずマルクス』剄草曞房の䞭で展開しおいる議論を少し玹介しおおきたす。
 「䟡倀法則は、ひそかにではあれ、匷制的なものだ。それは、等しくないたたは異なる実圚䜓の間の理念䞊の等䟡性や亀換可胜性の䞊に打ち立おられおおり、異なるものを等䟡にし、同䞀化する。ただし、この操䜜が実際に起こるずしおも、それは理念䞊のこずでしかないし、超越論的なパラダむム貚幣の助けを借りた堎合に限られる。資本䞻矩は、したがっお䞍等性から抜象を行ない、差異を同䞀化し、系列をパラダむムぞず解消する。」
぀たりマルクスが、䟡倀の実䜓が抜象的人間劎働で䟡倀は様々な䜿甚䟡倀を持った諞商品を共通なものに還元しおいる、ずいうように蚀った堎合に、異なるものを䞀぀の等質なものに同䞀化するずいうのは単なる理念の䞊での事だ。珟実にはそうなっおいない。珟実にはやはり差異は差異のたた残っおいる。こういう䞻匵をラむアンはしおいるのです。
ラむアンに぀いおは埌でたた詳しく述べおみたいず思うのですが、この異なるものを同等化するのは理念䞊のこずだ、ずいう批刀ずいうのは宇野さんの批刀にも䌌おいるのですが、ずっず䞀貫しおマルクスの䟡倀実䜓のずころの諞批刀に底流ずしおありたす。䟋えば叀くはベヌム・バり゚ルクずいう人が二぀の商品ずの亀換の䞭に同等性が珟われるずいうのは疑問であるずし、ずくに䞉角圢の䟋を匕いおの分析がこれは単なる頭の䞭の考えに過ぎないのではないかず。こういう批刀をしおいたす。
実際マルクスはここでの分析は頭の䞭の分析だずいうような事は、埌の箇所で蚀っおいたす。ただそういう事をマルクスが蚀っおいたすから、埓っおそういう意味ではここでの䟡倀実䜓の分析ずいうのは䟋えば廣束枉さんは『資本論を物象化論を芖軞にしお読む』岩波曞店ずいう本を執筆されおいたすが、廣束さんはここの䟡倀実䜓の芏定は仮にこういうようにマルクスは蚀ったのだろう、そしお埌で段々ず蚂正しおいっおそれが珟実的な論になっおいるのだず。この廣束さんの説に぀いおも埌で述べたいず思うのですが、いずれにせよここでの議論が単なる仮の議論ではないか、ずいうような説ずいうのはずっずありたす。
ただその堎合ラむアンのようにここの䟡倀実䜓の分析ではなくお、異なるものを等䟡ずするずいうのは䟡倀圢態の問題ですから䟡倀圢態の問題をも含めおこれは理念䞊だず、蚀っおいるのは少なくずも日本の孊者ではいないず思いたす。ただその事をなぜラむアンは蚀っおいるかずいうこずは、廣束さんの怜蚎を含めお埌で芋おいきたすが、いずれにしおもこのような圢でここでのマルクスの䟡倀実䜓論の分析のずころに様々な意芋が出されおいる。䟡倀実䜓の分析は実際には䟡倀圢態の分析ず絡めお、それず総合しお最終的な刀断を出すずいう事にならざるを埗ないし、そういうような圢で持っお行こう、それが今回の講矩の目的です。そういう意味で取りあえず第回目の講矩ずしおは、䟡倀実䜓の分析の所に様々な意芋なり反論なりがあっおこれは非垞に重芁だ、この論争点に぀いおはただ解決しおいないのだ、ずいう事を確認しお、ただこの第䞀節が終っおいないのですがこれは次回に「劎働の二重性」の所ず䞀緒に研究するこずにしたしょう。

第䞉講 劎働の二重性

䟡倀ずは瀟䌚的実䜓ずいう認識の欠萜
今回は前回やり残した所ず、その次に第二節商品で衚瀺される劎働の二重性栌、ここをやりたしょう。それでは前回やり残した所から始めたしょう。『資本論』の28頁䞊段の最初の段萜たで読んでください。
ここで泚目すべき点は、䟡倀の芏定があるわけですけれども、その䟡倀ずいうものは、「瀟䌚的実䜓の結晶ずしおは」38頁8行目ずいう様に曞かれおいたす。この瀟䌚的ずいうように蚀われおいる所、ここが䞀番䞭心的なこずなのです。それで商品の二芁因が䜿甚䟡倀ず䟡倀であり、䜿甚䟡倀が具䜓的な有甚的な劎働ず関連しお䟡倀が抜象的な人間劎働ず関連する、ずいう事が今たでの所で説かれおいるのですが、その抜象的人間的劎働ずいうのは䞀䜓どういうものなのだろうか。その抜象的人間劎働の性栌芏定ずしお、「瀟䌚的実䜓」ずいうような事が蚀われおいるのです。
ここから埌、この抜象的人間劎働ずいうのが瀟䌚的実䜓であるからこそ、マルクスは様々な圢で、䟋えばこれをどうやっお枬るか、個々人の劎働がどのように瀟䌚的劎働になっおいくのか、ずいうような事に぀いお、これ以降ずそれから次の「商品で衚瀺される劎働の二重性栌」ずいう所で展開しおいたす。それでここから次の第二節党䜓たで、たず先に読んでもらいたしょう。
その堎合どういうこずが述べられおいるか、ずいうこずに぀いお予めかい぀たんで述べおおきたすず、たず「瀟䌚的実䜓の結晶ずしおは䟡倀 ——— 商品䟡倀である」38頁・䞊8、ずいうように蚀った埌に「䟡倀の実䜓をなす劎働は、同等な人間的劎働であり、同じ人間的劎働力の支出である」38頁・䞋7ずいう芏定をしお、そしお個々人の劎働力が「䞀個同䞀の人間的劎働力」ずしお意矩を持぀38頁・䞋10。芁するに䞀人の人間の劎働だずいうように考えたものず同じような圢で個々人の劎働が意矩を持っおいるのだ、ずいうそういう芏定をたずしたす。
それから第二節に入りたすず、この商品で衚されおいる劎働の二重性を今床は生産過皋、商品を生産する過皋における劎働ずの関連でもう䞀床芋盎すのです。そしお有甚的劎働の堎合は様々な瀟䌚的分業ずしおなされお、様々な分業が発展しおいるず曞かれおいたす。
これに察しお䟡倀ずしおの商品、䟡倀を生産するずいう意味での商品の生産、この䟡倀の生産過皋においおは分業ずは関係がない。この堎合は簡単な平均劎働ずいうものが䞀぀の単䜍になっおいお、そしお平均劎働ず耇雑な劎働ずいうこの2皮類の劎働しかない。平均劎働ず耇雑な劎働はお互いに換算できる。こういう事が次に曞かれおいたすね。これが43頁あたりですね。最埌に45頁の最埌に、有名な芏定がありたす。
 「およそ劎働は、䞀方では、生理孊的意味での人 間的劎働力の支出であっお、同等な人間的劎働たた は抜象的・人間的劎働ずいうこの属性においおは、 商品䟡倀を圢成する。およそ劎働は、他方では、特 殊的な・目的を芏定された圢態での人間的劎働力の 支出であっお、具䜓的・有甚的劎働ずいうこの属性 においおは、䜿甚䟡倀を生産する。」
ずいうこずで締めくくっおいたす。ここたで読んで䞋さいね。
今読んだずころですけれども、䜕から始めるかずいう事で、先ほど玹介したした廣束さんが『資本論を物象化論を芖軞にしお読む』ずいう本で、この第回目にやりたした䟡倀の実䜓芏定ず、䟡倀圢態、それから劎働の二重性、これらの関連をどのように理解されおいるか、ずいうこずに぀いおたず批刀的に怜蚎するこずから始めおみたしょう。
廣束さんは著曞でこういうように䞻匵されおいたす。
「 埌論における匁蚌法的再措定の䞀端を先取りしお蚀えば、しかし、真実には、商品䜓の内郚に䟡倀なるものが実䜓盞で実圚しおいるわけではなく、抜象的人間劎働なるものが凝固的に察象化するわけでもない。亀換的等眮の堎における䟡倀量や䟡倀圢態の芏定にsub
立おられるものstganzずいうかぎりで、物象化された芖界では、Sub-stanz実䜓ずしおの䟡倀実䜓が措定されるずはいえ、これずおその珟実䜓においおは『人ず人ずの物を介しおの関係』の『反照的芏定 Reflexions-bestimmung』なのである。」
これは第回目でやりたしたマルクスの抜象的人間劎働ぞの還元ずいう分析が、実は単なる理念的な仮説ではないか、理念䞊の問題ではないかずいうラむアンの説明ずか、あるいは柄谷さんの、商品䜓に䟡倀があるずいうのはおかしい、ずいうような事ずはレベルが違いたすけれども、いずれにしおも抜象的人間劎働ずいうものは、䜕か手に掎めるような感じであるずいう事はない。そういう事を䜕ずか蚀おうずしおいるのだず思うのです。
それはその限りでは、䟋えば商品を䜜るのにこれは䜕時間かかった、ずいう個々人の劎働時間は圓然枬れたすが、そういう圢では商品の䟡倀は枬れない。こういう問題ず関連しおいるわけで圓然、抜象的人間劎働は手に取るように明らかなものではない。そういう事を蚀おうずする限りでは、こういう芳点ずいうものは必芁です。しかしながら廣束さんの堎合は、こういう䟡倀実䜓の蚭定、あるいは抜象的人間劎働の凝固・察象化、ずいうような蚀い方、これは物象化された芖界に則しお述べおいるのだ、ずいうように䞻匵するのです。
本来は人ず人ずの物を介しおの関係が、物に反射しおいる、反照しおいる。商品亀換ずいうものは䞀぀の仮の像で、その奥に人ず人ずの関係があっお、それが反射しおいる。反射しおいる映像に則しお、マルクスは䟡倀実䜓、䟡倀量、それから抜象的人間劎働の察象化ずいうような事を蚀っおいるのだ、ずいう考え方をしおいるのです。
ここは私は疑問でしお、人ず人ずの物を介しおの関係が商品亀換、商品の䟡倀ずいう所に反照しおいる、ずいう事ではなくお、劎働生産物が䟡倀を持っお商品ずしお珟れおいるずいうこず自䜓が、人々の䞀定の瀟䌚的関係なのだ。これは埌で蚀いたすけれども、そういう関係が実は物神性によっお単なる物ず物ずの関係に芋えおしたう。だから物ず物ずの関係に芋えおしたう商品の亀換関係の背埌には、物象ず物象の関係、぀たり人ず人ずの瀟䌚的関係を背埌に持った物象の盞互の関係がある。そういうように捉えるず、そういう商品自䜓が人々の䞀定の生産関係であり、それが商品の珟象圢態だ。そういう商品の珟象圢態自䜓が、人間の目には物化されお、それで物ず物ずの関係に芋える。こういう商品の物神性の構造を批刀的に掎むずすれば、むしろ商品の亀換関係自䜓を珟象圢態ずしお掎んだ堎合、それ自䜓が人々の瀟䌚的な関係だ。そういうように捉えるべきではないか、ずいうように考えるのです。
そういう芳点から、抜象的人間劎働が瀟䌚的実䜓ず蚀われおいる、その瀟䌚的性栌ずいうものをどのように掎んでいくか。今回の講矩の目的がここに生たれおくるず思いたす。
たず、『資本論』第節の 残りの䞭で重芁な問題は、38頁・䞋7行目です。

瀟䌚的実䜓ず劎働の瀟䌚的性栌
「けれども、䟡倀の実䜓をなす劎働は、同等な人間的劎働であり、同じ人間的劎働力の支出である。商品䞖界の䟡倀で衚瀺される瀟䌚の総劎働力は、無数の個人的劎働力から成りた぀ずはいえ、ここでは䞀個同䞀の人間的劎働力ずしお意矩をも぀。」
珟実には倚くの人々が様々な違った劎働に就いお、様々な違った圢で劎働力を支出しおいるのですが、これは結局䞀人の人間が劎働をしおいる、ずいうように考えお、様々な圢で様々な機胜を担っおいるず芋おもいいのではないか。あるいは逆に蚀えば、もし個々人を䞀人の人間が党員平均的人間であるず考えた、党䜓ですね。皆が平均的な劎働力を持っおいる、そういうように仮定するず、党郚平均的な人間でしたら、䞀人の人間ず同じこずだ。こういう関係をマルクスは考えるのです。
ですから抜象的人間的劎働が䟡倀の実䜓で、それが察象化されるず蚀っおも、珟実には様々な倚様な分業・劎働があっお、各々それが倚様な圢で䟡倀を生産しおいるずいうのではなくお、それが同等な人間劎働ずしお芋做されおしたう。そういうように芋做された䞊で、同等な劎働力が個々の商品を生産するのに必芁な劎働時間、それが商品の䟡倀ずなっお珟れるのだ。
ですからこの堎合の劎働は瀟䌚的で、抜象的人間劎働ずは瀟䌚的実䜓だ。そういう個々人の䞍等な劎働の同等化、平均化、そういう瀟䌚化の仕組みをどのように含んでいるかずいうこずです。個々人の異なる人間の劎働力が同等化されるシステム、これ自䜓ただ分析しおいないし、それは䟡倀圢態でやるわけで、それはただ出お来ないのだけれども、マルクスはここでそういうシステムがないず行われないようなこず、そういう事䟋をここで既に説いおいたす。
ですから、「抜象的・人間的劎働が察象化たたは物質化されおいる」38頁䞊・埌5行ずいう堎合に、それは䜕も個々人の劎働の属性ずいうのではなくお、䞀個同䞀の人間劎働力ずしお芋做された、そういう劎働力が支出されお、その結果ずしお抜象的人間劎働が察象化される。そういう事をマルクスは説いおいる。ここに䞀぀泚目すべきポむントがあるず思うのです。
その次に第二節に入っお、ここで具䜓的劎働が瀟䌚的分業になる41頁あたりずいう芏定がありたすが、ここは比范的分かりやすいず思うので、次いでは商品䟡倀を圢成する抜象的人間劎働を分析したずころに移っおいきたす。ここでは先ほどの同等な人間劎働ずしお意矩をも぀ず芋なされおいる、ずいうそういう問題が別の芖点で提起されおいるのです。ここでは䟋えば42頁・䞋4行目の方に、こうありたす。
「䟡倀ずしおは、䞊衣ず亜麻垃ずは、同等な実䜓 からなる物であり、同等な皮類の劎働の客芳的衚珟である。しかし、裁瞫業ず織物業ずは質的に異なる劎働である。」
第二節では䟡倀ずいうのは商品䜓に付着しおいる瀟䌚的劎働ですが、そういう瀟䌚的劎働ずいうのはどこかで劎働力が支出されないず圢成されない。そういう瀟䌚的劎働が支出される生産過皋、これを今芋おいるのです。これを芋おいるず、䞊着ずリンネルずいう商品は劎働生産物ですから、これは結局、裁瞫業ずか織物業ずか、そういう商品を䜜る生産過皋がないず䟡倀は圢成できないのです。
そういう生産過皋における劎働のうちに䟡倀を䜜る劎働、䟡倀を圢成する劎働があるのではないか、そういうふうに芋おいった堎合に裁瞫業ず織物業は明確に異なっおいる。異なっおいる劎働が同等な劎働ずしお芋なされるずいうのはどういうこずなのだろうか、ずいうこずで異なる劎働でも同等な劎働ず芋なしうる根拠をマルクスはいく぀か挙げおいるのです。
䞀぀はたしかに分業ずしお固定化されるけれども、同じ人間があるずきは裁瞫をやり、あるずきは織垃をやる、ずいうようなこずは可胜であろうずいう問題です。たた、䟋えば資本䞻矩の瀟䌚を想定すれば、繊維産業がだめになるず繊維産業から人が流れお、たた資本も流れお、他の分野に行っお、そこで䟋えば補菓業なら補菓業でお菓子を぀くるずいうような劎働が開始される。そういう意味で、繊維産業からお菓子の生産ずいうように劎働の圢が倉わる、そういうこずができるずいう事は、そこに䜕か同等な内容があるのではないか。
それは先ほどの第二回目のずころで分析した抜象的人間劎働ですが、結局は、単なる人間劎働力の支出である、ずいうこずは共通性ずしお指摘しうるのではないか。この人間的劎働䞀般の支出、これが䟡倀の生産に関連しおいる、ずいうこずをこういう圢でマルクスは説くのです。
人間劎働䞀般ずいうこずになりたすず、そこにあるもう䞀぀の問題は、䟡倀の量に関係しおくる問題がありたす。䟋えばある劎働がある時間で生産する䟡倀ず、別の劎働が同じ劎働時間で生産する䟡倀ずが違っおくる、こういう堎合が圓然あるのです。そういう堎合を説明するものずしお簡単な劎働ず耇雑な劎働をマルクスは説いお、耇雑な劎働は簡単な劎働に換算しうるず述べおいたす。ただし、簡単、耇雑ずいうものも実は瀟䌚的に決たるこずだ、ずいう事にマルクスは泚意を促しおいたす。43頁・䞊埌7行目の方に曞かれおいるこずです。
「さたざたな皮類の劎働がそれらの床量単䜍ずしおの簡単劎働に還元されおいるさたざたな比率は、生産者たちの背埌で瀟䌚的過皋によっお確立されるのであり、したがっお、生産者たちにずっおは慣習によっお䞎えられるかに芋える。」
だからこれは珟実には決たりきっおいるわけではなくお、䟋えば個々人にずっおは非垞に耇雑な劎働をしおいる぀もりでも、瀟䌚的に芋ればそれは非垞に簡単な劎働ず芋做される、ずいうような堎合は圓然起こりうるのです。䟋えば䞊着の補法、瞫補などを考えるず、倧きな工堎が出来お䞊着の瞫補が機械化されお簡単に出来るようになったずいうような事を想定したすず、埓来の職人ずいうのは非垞に耇雑な劎働を手仕事でやっおいるのですが、その劎働の産物は耇雑な劎働ずいうようには党然評䟡されない。そういう事が圓然起こっおくる。
ですから抜象的人間劎働が䟡倀の実䜓であるずいう堎合に、同時にマルクスはこういうような抜象的人間劎働が簡単な平均的劎働力ずいうように考えられる堎合に、簡単たたは耇雑ずいうようなこずは、非垞に単玔ではない。瀟䌚的過皋によっお確立されるずいう、そういう問題だ。そういう事に泚意を促しお、ある意味では抜象的人間劎働ずいうものは䜕か手に取れるような物ずしおあっおそれが䟡倀になっおいく、ずいうような事ではない。そういう事をこの箇所でも匷調しおいる、ずいう事だず思いたす。

生きた劎働ず察象化された劎働ずの区別
そういう所に泚目をしおいきたすず、第二節の最埌45頁では、生理孊的意味での人間的劎働が抜象的・人間的劎働で、今床は具䜓的な圢態での劎働は具䜓的・有甚的劎働だ、ずいうような芏定がありたす。ここから様々な芋解が生たれおくる。
ある芋解は、抜象的人間劎働ずいうものは結局生理孊的意味での人間的劎働力の支出ずいうこずだから、これはい぀の時代にもある。それはそうです。䜕かの劎働をするのに、人間が䞀方で具䜓的な目的が芏定された劎働の仕方をしなければいけないけれども、それは他方では同時に生理孊的意味での人間的劎働力の支出になっおいるのです。だから劎働の二重性ずいうものは、い぀の時代にもあるのではないか、ずいう芋解がここの芏定から出おきたす。
他方、䟡倀は瀟䌚的だ、䟡倀の実䜓は瀟䌚的な実䜓だ、ずいう事もマルクスは同時に蚀っおいるし、それから今回芋おきたような䟋えば劎働力の支出ずいう事を取っおみおも、䞀個同䞀な劎働力の支出38頁・䞋あたりずいうように芋做されるずか、そしお簡単劎働ず耇雑劎働の関係は生産者の背埌で決定されおいる43頁・䞊あたりずか、いうような圢で蚀っおいる。そうするず劎働が䟡倀になっおいく堎合は瀟䌚的な関係になっおはじめお䟡倀になるのではないか。だから生産過皋にある劎働がそのたた䟡倀になるのではない、ずいうこずを匷調しお䟡倀は亀換過皋で圢成されるのではないか、ずいう説も同時に生たれおくるのです。
この抜象的人間劎働の芏定を巡る論争に぀いおは、元々ルヌビン・コヌン論争ずいうものが端緒になっおいたしお、これに぀いお私は『゜ビ゚ト経枈孊批刀』四季曞房で怜蚎したしたのでここでは詳しくやりたせん。
そこではどういうレベルで総括したのかずいうず、生きた劎働ず察象化された劎働ずの区別をするべきではないか。䟡倀ずいうものは既に察象化された劎働に぀いおの芏定であっお、埓っお䟡倀の実䜓ずいうのも察象化された劎働に぀いお蚀っおいるのだ。
生きた劎働にしおも察象化された劎働にしおも、もちろん二重の性栌を持っおいたすが、生きた劎働の生理孊的意味での人間的劎働力の支出が、抜象的人間劎働だずいう堎合に、それは䟡倀の実䜓ではないのだ。䟡倀を圢成する実䜓、ないしは䟡倀を創造する実䜓であっおも䟡倀ではない。それが様々な諞関係によっお翻蚳された圢で䟡倀になっおいくのだ。
こういう理解でその時では私はそういう総括をしおみたのですが、珟圚1990幎ではもっず別の芳点からこの問題は解けるのではないか、ずいうように芋おいたす。それは䟡倀圢態ず関係するのですが、先走っお若干觊れおおきたしょう。
たず、マルクスのこれたでの分析を簡単にたずめお芋たしょう。マルクスは二商品の亀換関係を取っお、そこから䞡者に共通な第䞉者に各々が還元されおいるず芋、そしお還元されおいる堎合、どのように還元されおいるかずいうず、それが䜿甚䟡倀の捚象であるず芋たした。そうしお亀換䟡倀を抜象的人間劎働に還元し、抜象的人間劎働が䟡倀の実䜓になっおいる、そういうこずを分析しおいるのです。
それず今床は商品で衚されおいる抜象的人間劎働ず、具䜓的有甚劎働ずいう二重性です。二重性を今床は劎働ずいう芳点から芋お、劎働ずいう芳点から芋るず、生産物ず生産過皋、䞡方になるのです。䞡方からここで芏定を䞎えた。
その堎合に結局は抜象的人間劎働ずいうのはやはり分析によっお、商品䟡倀の珟象圢態を分析するこずによっお商品䟡倀の実䜓の性栌、そしお実䜓ずは䜕か、ずいうこずを解明しおきたのです。そこで亀換䟡倀を抜象的人間劎働に還元しおいくずいうこずは、確かに䞀぀の芳念であり、人間の思考の䞭での操䜜です。
問題はそういう思考の䞭の操䜜においお察象が果たしお正確に掎たれおいるかどうか、察象の構造が人間の頭の䞭で、思考の産物ずしお正確に再生産されおいるかどうか、ずいうこずです。そういう芳点から芋おいきたすず、結局は䟡倀の実䜓の芏定ずいうような事が、抜象的人間劎働であるずいうように䞎えられた堎合に、それで䟡倀に぀いお党おが解明されおいるずいう事では党くないずいうこずです。
泚意すべきこずは、䟡倀の実䜓が䟡倀圢態ずいう圢で展開されおいく、そのこずの䞭に䟡倀の党䜓の理解がなされなければならない。こういう構造に『資本論』商品章はなっおいるのではないか。だから廣束さんでしたら匁蚌法的䜓系構成法の垞であっお、先に芏定した最初の芏定は次々に吊定されお新しい芏定によっお抌しのけられおいく。もちろんその吊定は単なる吊定ではなくお、止揚されおいるのだ。そのようなこずを先ほどのずころで蚀っおいたす。
そういうように論理䞀般、匁蚌法䞀般の問題ずしお蚀うよりもむしろ具䜓的に䟡倀ずいう問題に則しお、䟡倀を解明しようず思えばこういうような方法を提起するしか定矩しようがないのだ、そういう問題ずしおマルクスが曞いおいる点を芋おおく必芁があるのではないか。
廣束さんの説に関しおは先ほども蚀いたしたように、人ず人ずの関係の反照芏定が䟡倀であっお、そういう䟡倀ずいう物象化された事態に則しお䟡倀の実䜓をマルクスは芏定しおいるのだ、ずいうように蚀っおいる。これはやはりおかしいずいう事を䞀぀はっきりさせながら、他方で䟡倀の実䜓を抜象的人間劎働ずいうように芏定すればそれで䟡倀の芏定は党お終わったずいうこずではなくお、そういう䟡倀の実䜓の芏定をする堎合にもマルクスは様々な保留の条件を぀けお、それが瀟䌚的実䜓だず蚀っおいる。だから単玔に掎たえられるものではない、ずいうこずを蚀っおいるのです。次からの䟡倀圢態論の研究に進む前段階ずしお、そういうこずを確認しおおきたいず思いたす。
2013/02/13

Author: ebara (4:20 pm)
グリヌンコヌプ連合初代䌚長 歊田桂二郎論続

論文が長すぎお途䞭で切れたした。続きを掲茉したす。
なお生掻クラブ論に぀いおは远っお掲茉する予定です。

疎倖物象化の地平
歊田は、「貚幣資本は、第二次生産革呜に始たる資本䞻矩によっお物神化されるのではなく、最初から物神ずしお、資本䞻矩を甚意し、実珟し、そしお完成するのである」313頁ず芋おいる。ここで歊田が蚀っおいる「物神」ずは、「最初に疎倖された自転運動の内的論理、暩力の自己意識ずしおの暩力のための暩力の論理」317頁ずいうものである。それは「経枈の富の論理」ずか「生産のための生産の論理」ずいうように倉容させられ、「それ自身のために」の論理ずしおたずめられおいる。
しかし、商品、貚幣、資本の物神性ずは、このような論理ではない。人々の生産における䞀定の瀟䌚関係から生み出されおきた、私的諞劎働の産物を瀟䌚的劎働ずしお通甚させる圢態が商品、貚幣の䞖界であるが、この人々の亀換ずいう瀟䌚性が貚幣商品金ずいう物そのものに生たれながらに属しおいる力に芋える、ずいうこずが、貚幣の物神性であった。そしお、この物神性が䜕故もたらされるか、ずいう事が根本問題なのである。
物神性は物象化の垰結であり、物象化に随䌎しおいる。商品、貚幣、資本にみられる物象化ずは、物象の関係がも぀抂念的な構造に人間が自らの意志を宿すこずで物象に意志支配されるこずである。これは人が他人の意志を支配する政治的支配ずは本質的に異なった支配の様匏であり、自由ず民䞻䞻矩の政治䜓制の䞋で貫培される逓えの芏埋にもずづく経枈的支配である。
「こずばが人間のすべおである」ずみなし、階玚支配を「内郚コミュニケヌションの自転運動」ずしお捉え、この自転運動の「内的論理」から「蚀語芏制の自立」を芋、そしおこの自立した「蚀語芏制」を組み換えるこずを瀟䌚倉革ず䜍眮づける歊田にあっお完党に欠萜しおいるものは物質ずそれが果たしおいる圹割である。
さきに芋たように真朚悠介の倖化、内化、疎倖論は、劎働ず亀換に限定され、物質的裏付けをもった議論が展開されおいた。しかし「時間の内化」、「移動の内化」を䞻匵する歊田の倖化、内化、疎倖論には物質的裏づけがない。
実際、歊田の疎倖論には物質的裏づけがないので物象化論を含んでいない。劎働の疎倖ずは、劎働者ず劎働生産物ずの関係を想定し、人間ず物質ずの所有関係を問題にする限りで物象化論ぞの道がひらかれる。ずころが、歊田は䟋えば「第䞀信号系から第二信号系が疎倖され」ずか「自然が人類を疎倖し、身䜓が粟神を疎倖しお」ずかいった甚法に芋られるように、単に分化しおいくこずを「疎倖」ずいう甚語で衚珟しおいる。もっずも分化過皋で、分化されたものが分化したものを支配する、ずいう意味をこめお「疎倖」ずいう甚語が甚いられおいるずはいえ、このような発想からは、疎倖された劎働から物象化論ぞずゆき぀けない。ずいうものこの疎倖論からは、察象化物質化された劎働が欠萜しおいるからだ。
商品や貚幣や資本を、物神ずしお捉えるだけでなく、それを察象化された劎働ず捉えるこずが決定的である。そしお疎倖された劎働の根本は、察象化された劎働ずしおある資本が、劎働者を経枈的に埓属させおいるずころにある。資本家はその際、蓄積された過去の劎働ずしおの資本の蓄積衝動が人栌化したものである。そうするず「内郚コミュニケヌションの自立」ではなく、物象を媒介ずする経枈的関係のうちに支配隷属の関係があるこずになる。人ず人ずのコミュニケヌションは物象化によっお意志支配されたコミュニケヌションであり、「暩力のための暩力の論理」ずはならない。したがっお「蚀語芏制」も自転運動をしはしない。劎働者は資本のための剰䜙劎働を提䟛する限りで働くこずを蚱される、ずいう逓えの芏埋がそこにあるだけである。
もちろん、囜家ず政治の領域では「暩力のための暩力の論理」は存圚しおいる。しかしそれはもはや資本家的生産ずいう珟代瀟䌚の生産様匏の論理ではない。歊田はこの暩力の論理ず共通するものずしお、「生産のための生産の論理」をあげおいるが、しかしこれは䜿甚䟡倀の生産が䟡倀の生産の手段ずなっおいるこずがその内実であり、「それ自身のために」の論理ずは埮劙に異なっおいる。次章で芋るように、恐らく歊田はこのズレに気付いおいたであろう。
第5章グリヌンコヌプ運動
第1節新しい生掻協同組合の発生
歊田の思想の栞心
歊田はもずもず文孊者だったわけで、その思想は物語りずいう圢匏をずっおいる。しかも、その思想の栞心に、「こずばが人間のすべおである」ずいう考えず、「数ず論理はこずばではない」ずいう蚀語芳ずがすえられ、しかも今日の瀟䌚に存圚しおいる支配様匏を人類2000幎の歎史にさかのがっお捉えようずする歎史芳ず、その支配様匏のルヌツをさらに宇宙ず生呜の誕生にさぐろうずする「進化」論にもずづいお物語りを構成しようずしおいる。
歊田がこのような物語りの語り郚ずしお自己を登堎させざるをえないものがあるずすれば、恐らくそれは「内化の思想」にもずづく「蚀語革呜」ぞの垌求であろう。数ず論理はこずばではないずすれば、内化の思想も蚀語では衚珟できず、蚀語も含めた人々の関係の革呜が远求されるこずになり、蚀語の内化個人の無名化人間の共同化、を通し、そこに創出される集団蚀語が生掻の堎で運動化されるこずによっお蚀語革呜を䜓珟した物語を぀むぎ出しおいく。
それは、『䌝習通・耇数の母たち』に収められた座談䌚「疎倖の遠さに぀いお―柳䞋村塟蚗児所」での歊田の次の発蚀で予告されおいた。
「時間にはただ耐えるほかはない。時間が人間を貫いお空間化するずき、䞀郚が芳念化しお時間軞ずなり、䞀郚が物質化しお空間軞ずなり、その間に生ずる凜数関係の䞀郚が自然に制床化しおいく。それを私たちは疎倖―よそよそしく察立しおくるものずしお倖化する―ず呌んでおり、それは玄癟䞇幎の前奏曲をぞお、今から1䞇幎前、人間が蟲業を発明したずきから始たっおいる。垌望ずも絶望ずもたったく無瞁なずころで、ひたすら生きるこずに耐え、どうすればこの疎倖の自然過皋をいくらかでも修正できるか、ただそのこずを考え続けおいくほかはない。」䞉䞀新曞、289頁
ずころでこのような歊田の思想を支えおいるものは第章第節でふれたように、人類の共同性意識ずしおの故郷ぞの期埅である。「これが枇きずしお人類に内化しおいる」ずみる歊田は、人類史2000幎の業火を人類史を芋きるこずで集䞭し、「垂民瀟䌚の腐食郚分を焌き぀くしお焊土によく人間連垯を回埩」するこずを意図したのであった。
個人がどのような内的根拠をもっお瀟䌚運動に参加し、か぀それを継続しおいるか、ずいうこず自䜓は倚様であり、それを人におし぀けるずすれば、それは宗掟を打立おるこずにしかならない。歊田の堎合物語りの語り郚であり぀぀も、運動の珟堎にあっおは卓越した政治家ずしおの足跡を蚘録しおいる。䟋えば遺皿集『共生』は、グリヌンコヌプ䌚長ずしおの挚拶集、グリヌンコヌプ運営集、『共生の時代』ぞの寄皿、それに個人論文の皮類の遺皿が収録されおいるが、それぞれがその堎に察応した思想展開ずなっおいる。それぞれの堎に応じた話が出来る、ずいうこずは珟実政治家ずしおの優れた資質を瀺すものずいえよう。
そこで最埌にグリヌンコヌプ運営集で語られた歊田の思想を远い、歊田の「革呜的蚀語文䜓」を創出する闘いをあずづけよう。
地域のむメヌゞ
グリヌンコヌプ䌚長ずしおの歊田の思想的出発点は、蚗児所を足堎に「共生クラブ生協やながわ」を蚭立したずきの蚭立趣意曞に曞きずめられおいる。「自立・連合・共生の旗印」のもずの「母芪連合」、この運動は䞉぀の芳点から䜍眮づけられおいた。
䞀぀目は「子を生み育おる母芪の運動」、二぀目は「あらゆる人間関係を問い盎そう」ずする流れの䞭に運動を䜍眮づけるこず、䞉぀目は父性原理におちいりがちな生産至䞊䞻矩の珟われである加工食品䞭心の食構造そのものを反省し、地堎の有機蟲業家ず産業家ずの連垯を進める、ずいうものだった。
䞀぀目の母芪の運動ず、䞉぀目の地堎ずの連垯は「地域」ずしおむメヌゞされおくる。「地方が行動においお掻性化する手がかりは野菜、地域、平和である」ずいう立堎から「『倧きく連垯する』を内実化するためには『小さく動く』が必芁であり、『小さく動く』を保障するためにこそ『倧きく連垯する』が必芁である。その間の盞関関係を理解し、『倧きく連垯する』が着々ず実珟し぀぀ある時、私達はそれに呌応しお、野菜、地域、平和を手がかりに、そしお『小さく動く』をモットヌに、私達自身の行動を掻性化しなければならないのではないか」『共生』114頁ず述べおいる。そしお、地域に぀いおは、珟にいたある地域ず、新しく創出しおいく第二地域ずを区別し、次のように述べおいる。
「地域の鍵抂念は䞀括された自然、生掻、家族であり、家族の鍵抂念は女、子䟛、である。共同賌入運動は激しい盛り䞊がりを芋せたが、郚分的にしか地域の問題に迫っおいない。しかも地域には、䜓制ず資本が倧芏暡に進出し぀぀ある。今、生協には出口を求める゚ネルギヌが充満しおいる。連垯、協同、共生の思想ず第二地域の創出を目指しお、女が質的に倉わり、量的に拡倧した生協運動を生協の内倖に新たに展開すべき時期が来おいるず感じる。
ワヌカヌズがその新しい運動を切り開こうずしおいる。その願いの䞭に実圚する地域の倚様なむメヌゞに期埅したい。
  䞭略  
その際、ワヌカヌズに忘れおもらいたくないのは、生協運動ず生協経営、生協倖運動ずの構造的な関係、぀たり前者が埌者に支えられ、埌者が前者に曎に生かされおいく関係である。垞に前者は埌者より熱く、埌者は前者より冷たい。より熱いものは垞により冷たいものに支えられ、より冷たいものは垞に熱いものに曎に生かされおいく関係にある。」126頁
歊田には埌で芋るように「生協は本来、地域の䞭に地域を創り出しおいく運動䜓である」115頁ずいう考えがあった。第二地域を぀くり出すこずこそが、生協運動の倧きな課題ずされおいるのである。
人間の自然性ず文化性
二぀目の人間関係の問い盎し、に぀いおは「孊習䌚資料」で「男䞊䜍疎倖態が女䞋䜍疎倖態に向かっお自己解䜓する」ず述べられおいたが、この内容は、1989幎の段階になるず「連垯の新しい列の組み方は自立ず共生であっおほしい」139頁ずされ、次のように分業の組みかえずしお具䜓化されおいる。
「埌から出お来たものが自立する。先にあったものを埁服したり䟵害したりしない。できれば先にあったものに自己解䜓しおいく。同時に先にあったものが自立する。関係のレベルが䞊がる。皆んなが豊かになる。そのように分業を支配・差別、その根幹ずなる栌差の列から自立・連垯・共生の列ぞ倉えお行く。そういう分業間の列の組み方を私は『内化』ず呌んでいる。」140頁
䞻ずしお自然ずの関係で埁服か共生かず問うこずで、この「内化」に぀いお分業の列の組みかえずしお具䜓化した歊田は、぀いでそれを文化の問題ずしお展開しおいる。
たず「自然ずしおの人間の生呜」が「文化ずしおの人間の生呜」に優䜍しおいるこずが確認され、次に双方ずもが人間の生呜掻動ずいう同䞀次元に属するこずが確認される。ずころが人間の文化性はある時点で䞀方的に自然性䞀般を察象化し、それそのものの本来の䜍眮からはずれた次元ぞず転移させるこずで、「自然ずしおの人間の生呜」の優䜍性がゆるがされるようになる。そしお歊田は「問題はしたがっお、自然性䞀般の察象化の仕方、぀たり埁服か共生かにありたす。人間の文化性は埁服の堎合、自然性䞀般の倖郚の異次元に、共生の堎合、内郚の異次元に転移したす。」147頁ず述べおいる。
人間関係の問いなおしや分業の列の組み換え、ずいった具䜓的な課題ずしお提出されおいた「内化」が、ここでは文化の問題ぞず䞀般化され、そうするこずで文化革呜の方法を導く内実ぞず到達しおいる。
「人間の文化性は頑匷に、文化性が察象化の『はたらき』ずしお獲埗した珟実的な優䜍性が、自然性が本来もっおいる『存圚』たたは『いずなみ』の優䜍性を損傷しないよう、玔粋に論理的な察象化を文化性自身に芁求すべきです。共生は自然ず人間をいかに察象化するかの闘いですから。
人間の文化性は、その際、人間の自然性を自然性䞀般に開かれるように察象化する必芁がありたす。」147頁
歊田はここで、自然性が文化性に「論理的な優䜍性」を獲埗し、埌者は逆に前者に察しお「珟実的な優䜍性」を獲埗するずみおいるが、論理はこずばではない、ずいう歊田説をふたえれば、ここで䜿われおいる「論理的」ずは「本源的」ずいう䜍の意味であろう。
぀いでに歊田は「疎倖」や「察象化」ずいう甚語も、物質的裏づけなしに䜿甚するので単に産出される、ずいう意味䜆し、産出されるものが、よそよそしく察立するずいう堎合になっおいる。
さお、ここで歊田が文化に芁求しおいる「玔粋に論理的な察象化」ずか「人間の自然性を自然性䞀般に開かれるように察象化する」ずいったこずは、䞀぀は自然の本源性を損傷しない文化のあり方であり、もう䞀぀は䟋えば埪環型瀟䌚のように、文化性の察象化が自然䞀般に受け容れられる、ずいうこずだろう。
工業を蟲業に内化する
人間の自然性ず文化性ずの関係に぀いおのこのような把握は、圓然にも「工業を蟲業に内化する」ずいう課題に導く。歊田にあっおはこれは「倖化→内化の道」であり、その内容は「①工業ず蟲業のバランスを考える、②『ここたでおいでおいで』ず制床も人間も䞊からあおらない、が二倧原則です」353頁ず1993幎に述べおいる。ずいうのも、「これから高床成長を経隓する者には、倖化→内化の道はいかにもただるっこいし、き぀い」353頁からだったが、しかし、今は「はっきり申し䞊げたす」353頁。
「1960幎の高床成長ですべおは倉わりたした。倉えたのは、第䞀に有害物質が合法的に拡散されおいる、ずいう事実、第二に、地球資源は有限である。工業は蟲業に内化しなければならない、ずいう考え方です。」3534頁
このように述べたあず、歊田は、岞本重陳、高坂正堯、岩井克人の著曞の内容を玹介し぀぀高床成長の過皋をあずづけ、地域ず職堎の関係が戊前ずは芋事に逆転しおいるこずを確認したうえで、次のように述べおいる。
「この逆転を、よくやった自然過皋ず積極的に芋ようが、今さらどうにもならない自然過皋ず消極的に芋ようが、ずもに倖化→疎倖の立堎に立っおいるこずに倉りはありたせん。ただ実珟しおいない人間過皋―再床申したすが、この人間過皋ずいう蚀葉は様々な䜿われ方をしたす―぀たり人間の考え䞀぀でこうもなりえた、今からでも遅くはない、がんばっおほしい、ず䌝承的に考えるずすれば倖化→内化の立堎に立たざるを埗たせん。」361頁
「倖化→内化の道」に立ち、工業を蟲業に内化するこずを目ざせば圓然にもシステムの問題をさけおは通れない。しかし分化による進化論は展開できるが、システム論に぀いおは未展開である。げんに歊田は「村岡垞務ぞのお答え」のなかで、グリヌンコヌプ宣蚀が「協同組合の発生」にふれられおいないこずを認め、それに蚀及するのは「『男が工業を発明する』のずうっず埌の方か、『グリヌンコヌプ運動』を提唱する時か、ずのどちらかにすべきでした」179頁ず述べおいる。
歊田によれば、グリヌンコヌプ宣蚀の党文の趣旚は「闘う盞手は実は人類の『進化』そのものである、生きるためには少なくずもこれだけのこずを解決しなければならない、いい加枛にやれるこずではない、ず蚀いたかった」178頁のであり、「その原理をいかに噛み砕いお蚀うかに気を取られお個々の珟象にたで気が回りたせんでした」179頁ず率盎に述べおいる。
歊田の意識にあったのは、新しい生掻協同組合運動ずしおのグリヌンコヌプ運動の提唱にあたり、「その䜿呜の困難さを理解しおもらうだけの文章が曞けない」179頁こずで、「䜿呜の困難さを䞊回るような文章はなおさら曞けない、ずいう絶望」179頁があったず述べおいる。
ここから刀明するこずは、歊田が「協同組合の発生」の問題をグリヌンコヌプ運動の䜿呜を理解しおもらうこずよりも䞀局困難な問題ず考えおいた、ずいうこずである。
新しい生掻協同組合の発生
今日の資本家的生産様匏に代わりうる次䞖代のシステムに぀いお考えようずすれば、商品や貚幣に぀いおの考察が䞍可欠である。
歊田は「私はかねがね、貚幣は人間の経枈掻動の恐るべき疎倖態である。それに぀いお本栌的な論及をマルクシズム偎の孊者に期埅したい、぀たり、マルクスの恐慌論は間違いではないか、ず思っおいたしたが、今幎3月25日、岩井克人『貚幣論』築摩曞房が近代経枈孊の立堎から出たした」358頁ず述べ、岩井の序文を玹介しおいる。
歊田が「マルクスの恐慌論は間違いである」ず述べたこずの意味は恐慌から資本䞻矩の危機が到来するずいう予芋は間違いだ、ずいう意味であり、岩井が恐慌よりもハむパヌむンフレヌションの方が危機だ、ず述べおいる点を評䟡しおいるのであるが、同時に岩井がマルクスの䟡倀圢態論を読み盎す必芁があるず述べおいる郚分を肯定的に玹介しおいる。
「協同組合の発生」に぀いお歊田がグリヌンコヌプ運動の䜿呜の理解よりも䞀局困難な問題ずしお捉えおいた、ずいうこずに぀いお、ここでその真意が蚈られるべきである。通俗的な協同組合論やレむドロり報告など「協同組合の発生」に぀いお述べた文献は倚数あるが、歊田はそれらで展開されおいる内容に぀いお賛同しえなかったのではなかろうか。歊田が远求しようずしたものは、この間存圚しおきた協同組合の「発生」ではなく、これから぀くり出すべき、「新しい生掻協同組合」の「発生」の問題だったのではなかろうか。
ずすれば「人間の経枈掻動の恐るべき疎倖態」である貚幣ずは䜕であり、それをどうするのか、ずいう点の究明を欠いた協同組合論はシステム論ずしおは倱栌だ、ずいうこずになろう。
新しい産盎運動
そこで最晩幎の歊田の思想を远っおみよう。1993幎10月9日付の文曞「平和ず共生東桂子さんに」には、工業を蟲業に内化しおいくむメヌゞが次のように語られおいる。
「われわれの第䞉蚀語は、①蟲業ず工業のバランスを考える、②蟲業は産業でよいか、③小䞭の蟲でいく、④新しい産盎運動を展開する、です。④の産盎運動を匷化する必芁がありたす。総員䞀日二時間の有償の蟲業劎働が将来を芋すえた産盎の新しい課題ずなりたす。」360頁
ここでも蚀語から説きおこしおいるので、若干の解説を付しおおこう。歊田はここで人間の蚀語を第䞀蚀語、第二蚀語、第䞉蚀語に分類し、第䞀蚀語を蟲業ず蟲業文化の蚀語、第二蚀語を工業ず工業文化の蚀語、第䞉蚀語は双方の関係に関する蚀語ずみなしおいる。そしお今日の問題点を、本来第二蚀語が第䞀蚀語に、第䞀蚀語は生呜に深く䟝拠しおいるにもかかわらず、第二蚀語が第䞉蚀語を領略しおいるずころに求めおいる。だから第䞉蚀語のレベルで自分たちの蟲業蚀語が発展し埗る条件を守らねばならない、ずいうこずで、先の提案がなされおいるわけである。
そこでこの提案の内容を芋おみるず、党お、自然成長的な資本家的生産の発展に察する歯ドメずなっおいる。それは他ならぬ脱物象化された瀟䌚システムの提案ずなっおはいないだろうか。したがっお問われおいるものは、タテの支配系をペコの連垯系に組み換えた新たな分業をシステムずしお組み立おるこずであろう。
第2節グリヌンコヌプ運動の展開
グリヌンコヌプ運動の䞉぀の原点
グリヌンコヌプの䜿呜が人類の「進化」そのものを闘いの盞手ずするこずであり、このこずを理解しおいくための原理の解明に集䞭したずされおいるグリヌンコヌプ宣蚀の末尟にはグリヌンコヌプ連垯の垌いずしお、䞉぀の原点があげられおいる。
「①グリヌンコヌプ連垯の究極の垌いは地球䞊のすべおのいのちず自然・くらしを守るこずである。
②この垌いを地域の運動ずしお衚珟しおいく根拠は歎史的に女の自立である。
③女の自立は内倖に平等にひらかれおいなければならない。」頁
グリヌンコヌプ運動は、この䞉぀の原点に立ち、「自然ずの共生、人間の共生、男女の共生ずいう人類最埌の課題をめざしお」頁スタヌトしたのであったが、この芋地は実は、埓来の協同組合運動の地平はいうたでもなく、劎働運動や垂民運動の地平をも超えたものずしお提起されおいた。
1985幎月に歊田が犏岡県生協連顧問ず「新しい連垯のための特別委員䌚」代衚に就任し、以降幎䜙にわたり、たがわ生協問題の解決に力を぀くし、そしおこの掻動がグリヌンコヌプ連合結成ぞの動きを぀くり出しおいくが、この連垯をめざした歊田の掻動こそは、「新しい生掻協同組合運動」ずしおのグリヌンコヌプ運動を埓来の協同組合䞻矩や劎働運動、垂民運動ずの蚀論戊をずおしお創出しおいく過皋であったのではなかろうか。この芋地から歊田の掻動を捉えかえしおみよう。
囜家ず瀟䌚ずの関係
たがわ生協問題の解決にむけお、それたでの察話をたずめた「連垯ぞの蚘録」の思想的栞心は垂民運動ずしおの生協運動ず劎働運動ずが連垯しうる根拠を囜家ず瀟䌚の関係、及び䞊郚構造ず䞋郚構造ずの関係の解明によっおあずづけたこずにある。
察立は、グリヌンコヌプ連合結成にむけ、犏岡県での党県連垯を実珟しようずする方向が、劎働者にずっおは経営による合理化攻勢であり、劎働組合ず劎働者の暩利に察する軜芖を生みださざるをえない、ずする意芋によっお圢成されおいた。これに察し、歊田は回答の基調を「䞀般䌁業の業務統合合理化劎組ねじふせに察しお、県生協連独自の連垯業務統合掻性化組合員・劎働者の盞互䞻䜓化を提唱しおきたこず、今埌もこの方針を堅持するこず、生協運動はこの方針の堅持を可胜ならしめる質を本来的に持っおいるず考えおいるこず」81頁ずいうずころにおき、この問題に぀いお、囜家ず瀟䌚ずの関係、䞊郚構造ず䞋郚構造ずの関係に぀いおの新しい知芋を瀺すこずで解決しようずしおいる。
囜家ず瀟䌚の関係の問題には政治革呜ず瀟䌚革呜の関係の問題が含たれおいた。この点に぀いおの劎働運動の偎の䌝統的な理解は、たず政治革呜をなしずげ、劎働者の囜家を実珟し、しかる埌に瀟䌚革呜にずりかかるべきだ、ずいうものであった。埓っお、歊田はこの䌝統的な理解に぀いお「①察暩力闘争の真の重芁性ず方法論からずれっ攟しであったずいう意味で、生掻者に察しお垞に背信的であったし、②たたそれ自身の思想的な䜓質が闘争の総括性ず䞊䜍性から暩力の攻撃性ず抑圧性に転移しおいた点で、生掻者に察しお垞に圧制的なものを含んでいた」85頁ずいうように経隓的に退けおいるが、ここでは、それに代わるもう䞀぀の理解が積極的に提出されおいるのである。
囜家ず瀟䌚の関係に぀いおの歊田のもう䞀぀の理解の原理は非垞に簡単である。たず䞀般原理ずしお、次の事柄が確認される。
「近代垂民瀟䌚の成立によっお実態的には同じ囜家ず瀟䌚が論理的に分離し、瀟䌚は囜家からの盞察的な自立ず最終的な囜家廃絶の契機を぀かむず同時に、その囜家廃絶のうらづけずなる瀟䌚の完党自立を実珟するため、垂堎原理に支配された利益瀟䌚の止揚ずそれに前埌する新たな人間解攟、すなわち二次的共同瀟䌚の創造ずそれを支持しうる人間のより高次の自立ず連垯を次の課題ずしお残した。」82-3頁ず。
ここで提起されおいる事柄は、瀟䌚の完党自立を実珟するこずによる囜家の廃絶であり、そしお、瀟䌚を自立させおいくためには、垂堎原理に支配された利益瀟䌚を止揚すべく、新たな人間解攟ずしおある二次的な共同瀟䌚の創造ずそれを支えるこずのできる人間のより高次の自立ず連垯の圢成ずいうこずである。そしお、これがグリヌンコヌプ運動の目的に他ならなかった。
次にこの䞀般的な課題を実珟しおいくために、「関係の構造ず止揚の方法」が述べられおいる。そもそも囜家は瀟䌚から疎倖生み出され、瀟䌚は自然から疎倖されたものだが、さらに次のような構造があるずされる。
「この囜家の瀟䌚からの疎倖はさらに、男の女からの疎倖、人類の自然からの疎倖、職堎の地域からの疎倖、工業の蟲業からの疎倖、郜垂の蟲村からの疎倖、文明の土着からの疎倖、北半球の南半球からの疎倖、その他の疎倖関係、すなわち分業によっお意識的・制床的に構造化されおいたす。」83-4頁
ここで「疎倖」ずいう甚語は歊田独自の意味あいで䜿われおいる。それは䟋えば「人類の自然からの疎倖」ずは、自然から生み出された人類が、自然に察しおよそよそしい関係に立ち、自然を支配しおいる、ずいう意味なのである。だからこれは、人類を生み出すこずによる自然の自己疎倖ずいうこずを衚珟しおいるのであろうし、他のものも同様であろう。぀たり歊田はここで瀟䌚の自己疎倖、女の自己疎倖、地域の自己疎倖、蟲村の自己疎倖、等々に぀いお語っおいるず芋およいであろう。このように捉えるず、「こうしお埌から疎倖されたものを挞次疎倖したものに向かっお䞍可避的に止揚解䜓しおいくのが人間にずっおの唯䞀な、埓っお䞻䜓的な運動であるず私達は考えおいたす。」84頁ずいう提起の意味も明確になっおくる。
䟋えば、瀟䌚は囜家を生み出す疎倖するこずによっお自己疎倖におちいっおいるずみなすずすれば、埌から疎倖されたものである囜家を疎倖したものである瀟䌚に向かっお止揚解䜓しおいけば、瀟䌚は自己疎倖から回埩される、ずいうこずになるだろう。これを歊田は「瀟䌚の自立ず囜家の廃絶」84頁ずいうように衚珟しおいる。
「しかし瀟䌚が囜家から完党に自立するためには、その構成員である人間は、前述のように、男ず女、人類ず自然、職堎ず地域、工業ず蟲業、郜垂ず蟲村、文明ず土着、北半球ず南半球、その他の瀟䌚的な疎倖の察関係を内圚的に通過しお、最終的に瀟䌚ず自然ずの察関係をどう組み換えるかの問題に到達したす。」84頁
歊田の疎倖論は、先に芋た疎倖したものの自己疎倖ずいう論理ず同時に、疎倖の関係を分業ず捉える芖点がある。したがっお、瀟䌚の自己疎倖からの回埩を䞀たんは瀟䌚の自立ずいうように原理的に想定したうえで、次には分業の組み換え、ずいう実践的な課題が提起されおくる。
以䞊、劎働組合的な、あるいは「政治䞻矩」的な立堎による瀟䌚倉革論ずは別のもう䞀぀の瀟䌚倉革論を芋おきたが、ここでそれをたずめおみよう。
たず、瀟䌚的な人間瀟䌚、囜家、男性、女性等々を生み出したもの疎倖したものず生み出されたもの疎倖されたものずの察関係ずしお捉える。瀟䌚ず囜家に関しお蚀えば、瀟䌚が囜家を疎倖生み出しおいる。ここに瀟䌚の自己疎倖が成立しおいるが、瀟䌚を自己疎倖から回埩させるためには、疎倖されたものを疎倖したものに向かっお解䜓止揚するこず、具䜓的には囜家を瀟䌚に向かっお解䜓止揚しおいくこずが必芁である。そうするこずで瀟䌚は自立し囜家は廃絶される。ずころでこの疎倖関係は分業ずしお、組織化され、制床化されおいる。埓っお解䜓止揚しおいくこずは即この分業の組み換えずいうこずになる。この分業の組み換えこそが、今日の瀟䌚革呜を実珟しおいく方法である。およそこのような考えずしお敎理するこずができるのではなかろうか。
䞊郚構造ず䞋郚構造ずの関係
次に䞊郚構造ず䞋郚構造ずの関係に぀いお。歊田は、䞋郚構造䞀元論を批刀し、䞊郚構造は䞋郚構造に深く芏定されながらも、それ自身に固有の論理で䞋郚構造の動向を或る皋床逆芏定するこずを確認したうえで、次のように述べおいる。
「経枈は自然ずの関係の䞊に成り立っおいたすから、瀟䌚構造ずしおは䞋郚に属する経枈も、自然ずの関係では瀟䌚ずいう䞊郚構造に属し、もちろん固有の論理で動くず同時に、自然を䞋郚構造ずしお措定するこず自䜓によっお、䞊郚構造をさらに䞊郚ず䞋郚の二重構造に分化する契機を胚胎したす。そしおこの䞊郚ず䞋郚の二重構造をふくめお人間瀟䌚を『自然』の䞊郚構造ずせず、自然を『自然』の䞋郚構造ずしなかった楜倩的な人間䞭心䞻矩が、マルクスはもちろん、その埌のいかなる䜜家も予想しない公害を生み出したのでした。」85-7頁
囜家の䞋郚構造は経枈であるが、しかし経枈それ自䜓は自然に察しおは囜家ずずもに䞊郚構造ずなっおいる、ずいうこずを確認したうえで、歊田は人間のこころ䞊郚構造の状態が身䜓䞋郚構造に奜圱響を䞎えるホルモンを分泌するように、瀟䌚ずいう䞊郚構造が自然ずいう䞋郚構造に信号を発信できれば「もはや取り陀くこずができないず刀明した分業であっおも、それをタテの支配系からペコの連垯系に組み倉えるこずが或いは可胜ずなるかも知れない」86頁ず述べおいる。
「『党県連垯』は県生協連関係者にずっおそのような信号であっおほしいずいう願いが私達にはありたす。基底䜓制還元論は政治革呜䞻矩に短絡したり、瀟䌚革呜を停装したりしたすが、私達は分業間のペコの連垯系の栞ずしお、構造化され類別化された論理的な䞊䞋疎倖態間の察関係に内圚しお、それが珟実的にはタテの支配系ずしお䜜甚する基軞ずどこたでも拮抗しおいきたいず考えおいたす。」86頁
囜家ず瀟䌚ずの関係を論じたずきに瀺された分業の組みかえが、自然を瀟䌚の䞋郚構造ず捉えるこずで、疎倖関係ずしおある分業がタテの支配系ずしお䜜甚する基軞ず拮抗しおいく芖点がここで明らかにされおいる。
先にみたもう䞀぀の瀟䌚倉革論ず、それを前提にしお組み立おられた自然を瀟䌚の䞋郚構造ずみなす考え方にもずづき、歊田はそれたでの生協運動の䜍眮づけに぀いお明らかにしおいる。それは、「生掻者の生掻条件に敵察的・抑圧的・砎壊的なあらゆる䜓制ずむデオロギヌからの生掻そのものの解攟、すなわち瀟䌚の完党自立をめざす瀟䌚運動の䞀環ずしお生協運動を䜍眮づけ、生掻の䞭で最も自然に近い『食ずその呚蟺』を分担しお、その領域で応分の努力を重ねお来たした。」85頁ずいうもので、この努力のうえに今回の党県連垯を通し、「有志生協矀の小囜家的な無益な競合状態を克服し、共に開かれた瀟䌚連垯の地平に立っお、私達の珟状ず未来をもう少し倧きな県で芋る芖点を獲埗したいず念願しおおりたす」85頁ず述べおいる。
なお、この他「連垯ぞの蚘録」には「生協ず流通再線」「゚ネルギヌ革呜―消費の倧型化」「生協は女の運動」「倧きく連垯しお小さく動く」「生掻ず劎働の真の豊かさ」「劎働生産性ず劎働分配率」「疎倖に耐える」「パヌト問題」「囜鉄・組合・倩皇制・家族」「䌁業防衛ず囜家防衛」「劎働者ず生掻者」などの項目があるが、これらに぀いおは項目をあげおおくだけにずどめよう。このあずさらに別の論文から、䞻ずしお、「新しい生掻協同組合」ずしおの「グリヌンコヌプ運動」に぀いお述べられおいる郚分を远っおいくこずにしよう。
第節新しい協同組合論
新しい生掻協同組合
歊田が生協運動に぀いお、最も簡明に述べおいるのは「野菜、地域、平和に぀いお」の「地域に぀いお」である。それを党文匕甚しよう。
「①生協は本来、地域の䞭に地域を創り出しおいく運動䜓である。
②自然に存圚する地域第䞀地域・自然地域は有害食品を氟濫させる珟代瀟䌚の生産・流通・消費の構造が浞透しおいる。
③その䞭に生協が創り出しお行く地域第二地域・生協地域・連垯地域・協同地域は生協商品が充溢する新しい生産・流通・消費の構造を独自に内包しおいる。
④第二地域は埐々に第䞀地域に取っお代わるであろう。だからこそ第二地域は内倖に開かれおいなければならない。第二地域はあくたでも連垯ず協同による自䞻的な地域䜏民の掻動に基瀎をおく。
⑀経営的にも共同賌入が生協掻動に占める比率は近々50パヌセントにすぎなくなるずいう。そのように地域䜏民の欲求が倉化しおいく。あずの50パヌセントを埋めるのが私達の地域掻動なのだ。
⑥私達の地域掻動は、私達にしかできない、私達の偎からの、すなわち連垯ず協同による仕出し屋、べんずう屋、レストラン、リサむクル工堎、子どもセンタヌ、蚗児所、医療盞談宀、蚺療所、その他もろもろである。」115-6頁
生協を地域を぀くり出しおいく運動䜓ず芋るのは、それを生協運動ずしお捉えるものだった。これに察しお狭矩の生協は歊田によれば生協の経営である。この経営ず運動ずをより高い次元で結び぀けたものが広矩の生協であり広矩の生協には広矩の経営が察応しおいる。
そこで狭矩の生協経営は地域ではない、ずいう結論が出おくる。それはこれを吊定的に捉えおいるこずを意味せず、むしろ狭矩の経営は地域や運動には䞭立でシャンず業務を遂行するずいう意味だずいう。
ここから第䞀に「狭矩の生協経営が越え、越えられるのは、ただ運動によっおのみである。私達はこの事実を『生協運動は、生協を貫き、生協を越える』ず衚珟しおきた。広矩の生協は、狭矩の生協が地域に内圚し埗るように経営されねばならない。」125頁ずいう芋解が導かれおくる。
第二に、理事䌚の圹割の重芖である。ずいうのも以䞋に述べられおいるように、広矩の生協ず生協運動のリヌダヌが理事䌚ずされおいるからである。
「理事䌚は囜内倖の状況を的確に芋透し、的確に察応し、新しい地域運動を創り出し埗る『匷力な䞻䜓』ずしお生協を圢成し、組合員に粟神的・物質的な受益者意識を、職員に職堎ず雇甚の安定を䞍断に保蚌し続けねばならない。」119頁
この理事䌚に察する䜍眮づけは、通垞の生協の理事䌚には荷が重い。しかし、グリヌンコヌプはワヌカヌズコレクティブずしおの理事䌚事務局を創り出すこずで、理事䌚がこの重い荷物を担える条件づくりをしおいる。
自立ず共生
次に歊田が意図しおいる生協運動を思想面から芋おみよう。たず珟実の瀟䌚運動にずり組む際に政治的なリアリズムが䞍可避的に芁請される。運動の原理ずしおは、もう䞀぀の瀟䌚倉革論ずしお疎倖されたものを疎倖したものに向かっお解䜓止揚するこずを提起し、その実践的課題ずしおは分業をタテの支配系からペコの連垯系ぞ組み倉えるこずがあげられた。そのうえにたっお、政治的リアリズムを導く政治思想が、プラス面ずマむナス面の関係の問題ずしお展開されおいる。
「①どんなプラス面にも必ずマむナス面が䌎う、②生きるためには珟実に䜕かを捚おねばならない、③しかしその䞀芋捚おたかに芋える察立物のプラス面を埌生倧事に育おおいく芳念の運動がないず折角のものも結局぀ぶれる、④自然は苛酷である、⑀芳念は芳念、今はずもかく有機蟲業の末端に぀ながろう、ずいうの二重螺線みたいな哲理を生き抜くのも䞀生かなず芚悟させられおいたす。」347頁
「どんなプラスのものにも必ずマむナス面が付きたずいたす。そのプラス面ずマむナス面の察立を䞍断にレベル・アップしお行くのが我々の『運動』ではないでしょうか。」191頁
この政治的リアリズムをふたえ、グリヌンコヌプ連垯の思想は自立ず共生におかれおいる。
「連垯の新しい列の組み方は自立ず共生であっおほしい。
①人間の自立、自然の自立、人間ず自然の共生
人間が自立しなければ自然は自立しない。自立し合った者同士の連垯でなければ共生にはならない。自然ずの調和を誇っおいた日本人がいた自然の最倧の砎壊者になっおいる。自然ずの列の組み方を『埁服』から『共生』ぞ倉えたい。
そのためには瀟䌚の䞋郚構造に自然を加え、䞋郚構造をそれぞれ自立した自然ず経枈の二重構造ずずらえ盎すくらいの芳念の運動がほしい。
②女の自立、男女の共生、人間の共生
人間ず自然が共生の列を組むためには、人間同士が共生の列を組たねばならない。
自立ずは消去法で蚀えば他者を埁服したり䟵害したりしないこず。
人間が自然を埁服し䟵害するなら、その埁服ず䟵害の論理は必ず人間自身にはねかえる。
人間同士の共生が実珟するためには、キヌポむントずしお男女の共生が実珟しおいなければならない。男が女を支配し䟵害するのは䞀切のために良くない。
男女の共生はそれぞれ自立し合った男女の連垯でなければならない。女は男から自立する。
③地域の自立、南北の共生
女が男から自立するためには地域が職堎から自立しなければならない。
  䞭略  
埌から出来たものが自立する。先にあったものを埁服したり䟵害したりしない。できれば先にあったものに自己解䜓しおいく。同時に先にあったもの が自立する。関係のレベルが䞊がる。皆んなが豊かになる。そのように分業を支配・差別、その根幹ずなる栌差の列から、自立・連垯・共生の列ぞ倉えお行く。そういう分業間の列の組み方を私は『内化』ず呌んでいる。」139-140頁
ここでは「内化の思想」が、分業間の列の組み方ずいうように具䜓化されおいる。
媒介、連垯の関係のもち方
このように自立ず共生の思想をもずに連垯の列を組もうずするずき、「指導」か「媒介」か、ずいう問題が出おくる。ずいうのも、連垯ずは関係のもち方に他ならないからである。この問題に぀いお歊田は媒介を重芁芖しおいる。
「そのような絶えず柔かく止揚され決しお䞀方に硬盎するこずのない関係の維持ず発展の原動力を我々は『連垯』ず衚珟しお来た。
○䞡者は盞互に浞透し合うものであるから、その盞互に浞透し合うこずが盞互の関係をレベルアップするように䞡者を『媒介』するこず、『指導』はその『媒介』が真剣で本物であるなら自然にその䞭に含たれおくるず考えおよい。
○人は指導しようずしお指導しきれるものではない。状況ずの察決を垞に念願に眮いお、資質ず資質、思想ず思想ずの聡明な出合いを媒介するこず、その際状況、資質、思想に぀いおそれぞれ明瀺する必芁があれば、その明瀺がやや指導に近い。
○媒介の方が指導より芳念が倧きい。
○魯迅の塹壕戊の論理は『時に髪を振り乱しお斗う』こずを吊定しおいない。どんな時に髪を振り乱すのか、魯迅は䜕も語っおいないが、媒介か指導かの論議など無甚の䞀瞬があるこずを忘れずにいたい。」133頁
指導の堎合、指導・被指導関係が前提にされるが媒介の堎合は、媒介者は媒介したあずには関係から消え去っおいる。この意味で連垯の関係には媒介がふさわしい。
連垯を獲埗しおいく方法
さらに連垯を獲埗しおいく方法に぀いお歊田は次のように述べおいる。
「連垯の基本は䞀床、二床、䞉床ず関係のレベルアップに応じお䜕床も自他を盞察化し埗るこず、そしお、共々に共通の絶察を或いは発芋し、或いは創出しお、共々にそれに接近しようず詊みるこずである。
○自他を盞察化するためには自他を盞察化し埗る蚀葉を持たねばならない。
○蚀葉は぀いにずぎれるものであるこず、その時は他の蚀葉に蚗しお静かに退堎するこずを予め芚悟しおおかねばならない。
○自分だけいちはやく絶察に達したず錯芚し、そこから他を指導しようずしたり、そこで高芋の芋物を極め蟌んだりしおはならない。
○第䞀に、我々の蚀葉が仮りに絶察に達したずしおも、それは我々の身䜓に制限される。
○第二に、珟実は膚倧であり、どんな蚀葉も䞀元的にこれを衚珟するこずはできない。
○もちろん、自立ず連垯は䞍可分である。自立の根拠ずなる蚀葉はし぀ように探し出されねばならない。ただ連垯のコトバの方が自立のコトバより倧きい。
○たんに自分の自立のコトバを他に泚入しようなどず考えるな。それぞれが自立の蚀葉に至る可胜性を持った存圚であるず考えよ。自他の自立に揎助し、時に打撃するこずもあるのが連垯のコトバだ。
○以䞋、具䜓的には次の順序をたどる。
①ただ極めお䞍十分なものであるが、先ず連垯のコトバによっお他のすべおを䞞ごず所有する。ダボな䟡倀刀断なんか䞀切しない。
②次ぎにいくぶん塑成しかけおいる自分の自立のコトバによっお、 いったん所有したものをきびしく拒絶する。
③拒絶するず同時にもう䞀床所有する。䜕床も䜕床も同䞀物に察しお所有ず拒絶をくり返す。
④連垯のコトバず自立のコトバが共に鍛えられる。共に絶察に近づく。関係のレベルが䞊がる。」133-4頁
これは媒介を軞ずした連垯の関係のずり方に぀いお敎理したものであるが、連垯を獲埗しおいく方法に぀いおここたで敎理したこずは、連垯の意志の背埌に倚くの玛争ず察立、論争があったこずをうかがわせる。
実際生協の認可単䜍に぀の生協を぀くり、それが連合しおいった生掻クラブずちがい、グリヌンコヌプは䟋えば犏岡県に芋られるように倚くの色あいの異なる生協が、゚フ・コヌプぞの察応ず劎働組合問題をかかえながら連垯しおいった。その連垯の過皋に倚倧の゚ネルギヌがそそぎ蟌たれおいる。その垰結ずしお、連垯の方法に぀いおの詳现な内容が瀺されおいるのであろう。
専埓職員論
あず新しい生協運動のむメヌゞを瀺すものずしお芋萜ずせないものに、専埓職員論がある。
「○共生瀟が専埓に、ずもかく賃劎働に専念せよ、ずお願いしたのは、次の䞉぀の理由からだず考えられたす。
①運動を第䞀矩、配送は第二矩ず考え、配達が運動を支えおいる事実に無頓着な劎働者が倚かった。
②䞀般公募で運動ぞの参加を期埅するのは非瀌であり、条件づけるのは以おの倖、ずいう考えがあった。
③劎働者は劎働者本来の暩利劎働条件の改善に努めるず矩務職務をきちんずやり抜くに目芚めおほしい、ず芁請するこずで䞡者を統䞀したいず思った。
○連合では次のように敎理しおいたす。
①先ず芳念的に䞀䜓䞍可分のものずしおずらえられた広矩の経営ず広矩の運動がある。生協は䌁業䜓でもあれば運動䜓でもある。赀字のたれ流しは䌁業の倒産、運動の廃滅を同時に意味する。
②狭矩の経営ず狭矩の運動が盞互に䜜甚し぀぀これを支える。『狭矩の』ずは『実際に、或るいは、具䜓的に行われる』ずいうほどの意である。
③狭矩の経営は䞀切の経営事務ず物質の配送を含む。盎接には専埓が担う。狭矩の運動は盎接には組合員が担う。
○連合は次のように専埓にお願いしたす。
①専埓は先ず、賃劎働者ずしおの自分の仕事、䞻に配送ず配送事務の仕事を、それ自䜓ずしおきちんずやり抜くか、やり抜けるような条件敎備に努力されたい。それが狭矩の経営の基瀎であり、狭矩の運動ず䜜甚し合っお、広矩の経営ず広矩の運動を支える。連合はこれを支持する。
②専埓は次に、生協䌁業䜓の『劎働者』ず生協運動䜓の『垂民』ずが自分の䞭で察立するのをずおしお、自分の劎働の質を察象化し、できれば䞡者の察立を止揚されたい。賃劎働は䞀般的な劎働の質を蚀うのであっお、自分の劎働の質を察象化する『コトバ』ではない。そういう『コトバ』を持っおいるのは劎働者ではなくお垂民である。
③専埓は曎に、完党な䞀人の垂民に垰った時、グリヌンコヌプ運動の質を玔粋に察象化できるはずであり、その際、たずえば『グリヌンコヌプ連垯の新しい列の組み方』の意図なり考えなりを共有しおはいただけたいか。専埓の䞭の『賃劎働者』がテヌれ正、『垂民』がアンチテヌれ反ずなっお、垂民の堎合は、もちろん『垂民』がテヌれ、『賃劎働者』がアンチテヌれずなっお、『グリヌンコヌプ連垯の新しい列の組み方』のゞンテヌれ合に進んで行く。これは私ひずりの倢想であろうか。」140-2頁
専埓職員論も媒介の芳点から立おられおいる。歊田は職員が媒介者ずしお自己の内で察立を止揚するこずを期埅しおいる。
媒介の䞻䜓
別のずころでは歊田は、「生協が本来内包しおいる運動ず経営の矛盟を双方から論理的に止揚し埗る方法を考え出しおいほしい」132頁ずいう芳点から「先ず経営『個人からの超越 性』普遍性が運動『個人の自発性』恣意性を生かし埗る『媒介し埗る』ように自己疎倖しおほしい。そうしお始めお『逆もたた真なり』ずたっすぐに蚀うこずができる。䜕より経営の偎の自己確認が論理的には前提であり、先決である」132頁ず述べおいる。
これは「運営に関する芚え曞的提蚀」ずいう文曞で述べられたものであるが、この文曞は生協の運動䜓ずいう偎面ず組織、経営䜓であるずいう偎面に぀いおそれぞれ考察したうえで双方の矛盟の止揚を経営の偎の自己確認に求めたものである。
その際、運動䜓は個々の個人の自発性に近づくものずみなされ、組織䜓、経営䜓は個人からの超越性を内包しおいるものずみなされおいる。この個人からの超越性ずいう堎に、珟実的には等身倧でしかない自分を論理ず芳念の次元で越えるこずで察応する。これが経営に課せられた課題であった。ここから次の任務蚭定が出おくる。
「䞀぀、グリヌンコヌプは或る蚈画の統括䞻矩的培底を参加者に匷芁しない。むしろ参加者の意志を䞀぀の蚈画に媒介したい、二぀、媒介の䞻䜓は垞勀垞務理事䌚である。」135頁
これは筋論ずしおはその通りだが、たえずあやうさが぀きたずう。連合圢成過皋で、理事長䌚がおかれおいたが、その理事長䌚の䜍眮に぀いお歊田は次のように述べおいた。
「理事長䌚を機関にしなかったのは、①理事䌚ずの関係を考慮した組織ずしおは理事䌚が最高機関である。②しかし組合員はあらゆる゚ネルギヌの源泉、ガむア、倧地である。ガむアはあらゆる機関をこえおいる。③その盎接の代衚である理事長䌚が機関であっおはならなかった、等の事情によりたす。」153頁
このあやうさは、理事長がガむアずしおの組合員を代衚できるか、ずいう問題のあやうさでもある。もっずもこの点は歊田にも十分わかっおいたこずだろう。「膚倧な゚ネルギヌに察しおハむアラキヌず独裁の非難だけはグリヌンコヌプずしお是非ずも避けねばならない」152-3頁ず述べられおいるこずからもそれは明癜である。恐らく組織面での新しい発展が芁求されおいるずいう予感があるのだろう。
「『は遠くなった』ずいう声がタコのように耳にこびり぀いおいたす。たしかに暩力ずしお延びた面がありたすが瞮たった面もありたす。その瞮たった面での成果がただ実感されおいないのでしょう。我々の䞀局の努力が肝芁です。暩力ずしお自立するこずの床合いは媒介の責任をずるこずの床合いず正比䟋したす。䞁寧に䞁寧にやりたいものです。集䞭ず排陀の問題、分暩ず集暩の問題、その他、䞀歩誀れば組織の呜取りになりかねない問題が私たちの前に山積しおいたす。」207頁
媒介の䞻䜓にずっお媒介が無甚ずなる事態こそが自己実珟に他ならない。「媒介の責任をずるこず」を媒介を無甚ずする条件の圢成ずしお぀くりあげおいくこずははたしお可胜だろうか。

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