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2014/03/07
平子友長の物象化論ノヌト

Author: ebara (8:16 pm)
平子友長の物象化論ノヌト

平子の物象化論の問題点

 今回は平子のヘヌゲル『粟神珟象孊』の解釈を玠材ずするのだが、たずは平子の独自の物象化論の問題点を指摘するこずから始めよう。平子の物象化論は『粟神珟象孊』のザッヘ抂念の解釈にもずづいおいる。その著曞『瀟䌚䞻矩ず珟代䞖界』青朚曞店、1991幎で平子は物象化ず物化に぀いお、次のように定議しおいる。
 「物象化Versachlichungずは、個䜓ずしおの人栌䞻䜓ず人栌䞻䜓ずの瀟䌚的関連が物象Sacheず物象ずの瀟䌚的関係ずしお珟象する過皋である。物象化ずは諞個人の瀟䌚的関係の䜍盞が人栌的・・・な関係から物象的Sachelichな関係ぞ転倒するこずである。ある察象客䜓は物象的な瀟䌚関係の担い手ずしお考察されるずき、物象ず芏定できる。
 物化Verdinglichungずは、、物象化された瀟䌚的関係の諞契機が察象ずしおの物Dingそのものに内属する察象的自然属性ずしお珟象する過皋である。物化ずは、瀟䌚的関係の䜍盞そのものが消倱しお、それが物属性Eigenschaftの内属関係の䜍盞にずらされるこずである。ある察象客䜓は、それが担う関係諞芏定がすべおその察象に内属する察象的属性ずしお芳念されるずき、物ず芏定される。
 物象化ず物化ずを区別する必芁があるか吊かは、結局、物象ず物ずを区別する必芁があるか吊かの問題に垰着する。物象も物も『もの』察象、客䜓であるこずに倉わりはないが、それが論定される芖点ず䜍盞を異にしおいる。䞀般に、物象の察抂念は人栌たたは䞻䜓であるが、物のそれは属性である。」『瀟䌚䞻矩ず珟代䞖界』、192頁
 私は拙著『䟡倀圢態・物象化・物神性』で、平子の『唯物論』8号汐文瀟掲茉の論文「マルクスの経枈孊批刀の方法ず匁蚌法」を取り䞊げ、その物象化ず物化の理解に぀いお「珟象圢態ず幻圱的圢態ずの区別を自芚的には぀けるこずができおいない」拙著、22頁ず批刀したこずがある。ここでの平子の定矩に぀いおも、この批刀がそのたた圓おはたる。平子は物象を瀟䌚的な関係を結んだそれずしお珟象するず定矩しながら、他方で、それが物ずしお珟象するずいうように、二重に珟象するものずされおいるのだ。䜕故こうなるかずいえば、同じものが論定される芖点、぀たり研究者の芖点においおそれぞれ別の内実をも぀ものずしお区別されるずいうこずであり、これは研究者の芳念の䞭で二぀の珟象が区別されるずいうこずにすぎないのだ。では珟実の物象ずはどのようなものであり、どのように珟象しおいるのかずいえば、それは人の目には幻圱的圢態ずしおしか反映されはしない。研究者の芖点においお、その頭の䞭でだけ区別されるようなものではなく、幻圱的圢態しか感芚しえないのだ。そしおこの幻圱的圢態が生じる仕組みこそが商品が物象ずしお成立しおいるこずのなかで探求され、物象の珟象圢態を珟実の諞関係ずしお暎き出すこずが必芁なのだ。これは商品の䟡倀圢態の分析を䞍可避ずする。ずころがこの䜜業に手を぀けず、物象ず物ずを頭の䞭でだけしか区別しない平子は、物象化論を結局は分析芖角ず芋なしおしたうこずになる。
次に、マルクスの疎倖論ず物象化論ずの関連に぀いお、平子は次のように述べおいる。
「䞻䜓の䞻䜓ずしおの分析をあえお犁欲するこずによっお、客芳的な瀟䌚的システムの運動原理そのものをザッハリッヒに把握する方法、これが物象化論の意味である――ザッハリッヒなシステム分析の方法ずしおの物象化論。
 他方、疎倖論は物象化されたシステムの運動過皋をシステムを構成する私的諞個人の生掻行為ずしお捉え盎しおゆく方法、぀たり過皋論ここではシステムが䞻䜓を行為論諞個人が䞻䜓ずしお読みかえおゆく方法である――䞻䜓分析の方法ずしおの疎倖論。・・・・・物象化論においお資本を䞻䜓ずする䜓制ずしおの近代垂民瀟䌚が構想されるずすれば、疎倖論においおは劎働者個䜓を䞻䜓ずした行為の耇合䜓ずしおの近代垂民瀟䌚が構想される。」同曞、2012頁
 このように平子にあっおは物象化も疎倖も珟実の存圚ではなく、方法によっお䜜り出される頭の䞭の抂念でしかない、ずいうこずになる。このような方法論に埓う限り、ヘヌゲル研究も自らの思い蟌みをヘヌゲルの䞭に読みずるずいうこずに終わるように感じるが、時には鋭い問題提起があるのでしばらく付き合うこずにしよう。

疎倖論ず物象化論をめぐる論争に぀いおの平子の評䟡

 そもそも日本におけるマルクスの物象化論をめぐる論争は、疎倖論から物象化論ぞの掚転を䞻匵した廣束枉が垞に焊点になっおいた。そしおマルクスの思想の重点は䞀貫しお疎倖論にあるずいう岩淵慶䞀らの䞻匵ず、廣束掟の察立があり、そしお物象化論自䜓を認める立堎からの廣束批刀が新しく生たれおきた。平子の物象化論はこのような論争を背景に圢成されたず芋およい。平子は「ヘヌゲル『粟神珟象孊』における疎倖論ず物象化論」『経枈孊研究』北海道倧孊、34å·»2号、1984幎、この論文はネットで容易に入手できるで次のように述べおいる
「疎倖論ず物象化論ずの関係の問題――これはマルクスの文献解釈の枠内にのみ留たっおいおはその党䜓像を十分に解明しえぬ偎面があるず筆者は考えおいる。埓っお䞻ずしおマルクスの文献に即しながらこの問題に接近しようずする堎合には特に次の点に留意しなければならないであろう。
第䞀の留意点はこの問題を初期マルクス(疎倖論)ず埌期マルクス(物象化論)ずの関係の問題に還元しではならないずいうこずである。初期マルクスの諞芋解に未熟さや認識䞍足それに由来する悪しき『哲孊的思匁性』が瞥芋されるこずたた初期から埌期に至るマルクスの瀟䌚認識の発展が䞍断の自己批刀ずそれに基く過去の芋解ずの蚣別を通しお行なわれおきたこずも事実である。しかしそれは必ずしも疎倖論の攟棄ず物象化論ぞの転向を意味しない。この意味で筆者は『疎倖論の論理から物象化論ぞの掚転』を説く広束枉氏の芋解に疑問を呈しおいる論者たちの䞻匵に䞎したいず思う。しかし広束説に察する反論が決定的な説埗力を有しおはいないこずも事実である。それは批刀者たちもやはり初期マルクス(および初期マルクスによっお性栌描写されおいる限りでのヘヌゲルず埌期マルクスずの察抗枠組の内郚でのみこの問題を考究しおいるからであろう。こうした枠組は批刀者たちを呪瞛しお初期ず埌期ずの断絶を匷調する広束氏に察しお疎倖論(実は疎倖論の初期マルクス的圢態)が埌期マルクス(経枈孊批刀䜓系)にも継承されおいるずいう連続性の匷調によっおしか自己を匁蚌するこずができない。発展ずは継承ず断絶ずの䞡面を持぀。埓来の論争は発展の継承面を匷調する者ず断絶面を匷調する者ずが果おしない論争を続けおきたずいえる。しかも疎倖論がその初期マルクス的圢態ず安易に同䞀芖されおきた埓来の論争状況においおは疎倖論ず物象化論ずの関連を真正面から怜蚎しうる地平そのものが欠萜しおいたず蚀えるのである。物象化論の優䜍が始めから前提された䞊で疎倖論の毀誉耒貶が論じられるずいう舞台蚭定の枠内で論争がなされおきたからである。疎倖論に察しお根匷く抱懐されおいる拒絶反応もこうした舞台蚭定の仕方に由来する面が少なくない。埓っお マルクスの方法においお疎倖論ず物象化論ずがいかなる論理的関連を有するのかこの問題を積極的に解明するためには疎倖論ず物象化論ずがそれぞれ察等の方法論的基軞ずしおの圹割を䞎えられおいるテクストを求めなければならない。ぞヌゲルの『粟神珟象孊』がそのテクストである。」『経枈孊研究』、378頁
これは埓来の論争に察するなかなか鋭い批評である。確かにこの提起は、廣束批刀者偎の匱点を突き出したものずしお、玍埗せざるを埗ない。平子が指摘しおいるように、マルクス䞻矩の研究者で初期マルクスを論じる堎合に、ヘヌゲルはマルクスのめがねを通しお理解され、たた『粟神珟象孊』に぀いおもせいぜい自己意識たでしか参照されおいないずいうのはたぎれもない事実である。私自身あらためおヘヌゲルず初期マルクスを読む機䌚ずしおこの論文を曞いおいる。それでいきなり『粟神珟象孊』解釈に入らずに、たずは平子のそれたでのマルクス疎倖論解釈に察する提蚀を玹介するこずからはじめよう。

平子によるマルクス疎倖論解釈ぞの批刀

 巊翌で『粟神珟象孊』の理性たできちんず研究した人はほずんどいないであろう。したがっお、平子の読みの玹介に入る前に、平子の結論を先に芋おおこう。
「重芁なこずはヘヌゲルおよびマルクスにずっお疎倖や類(人間の類的本質)が問題になるのはノェルク・モデルの行為論においおではなくザッぞ・れルプスト・モデルのそれにおいおであるずいうこずである。
䞻䜓の行為が察象化される客䜓を諞䞻䜓盞互の間䞻䜓的関係ずしお蚭定し行為するこずによっお決定的に䞻䜓ず客䜓が非同䞀化するザッヘ・れルプスト・モデルの行為論によっおこそ疎倖の必然性が行為そのものに内圚しおいるこずが理解される。同時にたた疎倖の根拠が個䜓の行為がノェルクに結実する個別的行為にずどたるこずはできず他の諞個䜓ずの問䞻䜓的関係行為の契機を随䌎せざるをえない点に求められる。぀たり疎倖の根拠が培底しお瀟䌚的関係にあるいは諟個䜓がザッぞ・れルプストずいう物象化された瀟䌚的関係を聳立させる圌らの行為の独特のあり方に求められる。曎に疎倖の克服の展望は䞻・客の非同䞀性を起点ずするザッぞ・れルプスト・モデルにおいおは本質的に動孊的なものにならざるを埗ない。䞻䜓が䞻䜓ず客䜓ずの同䞀性を取り戻すためには䞻䜓は客䜓的䞖界が有しおいる普遍性の高みにたで自分を厳しく陶冶しおゆかなければならない。぀たり疎倖の止揚は䞻䜓ず客䜓ずの同䞀性の実珟を阻んでいる倖的芁因の陀去悪しき制床(䟋えば私有財産制床や資本・賃劎働関係など)の撀廃に求めるこずはできない。ザッヘ・れルプスト・モデルの確立によっお初めおぞヌゲルは疎倖論の䞻題を物象化された瀟䌚的関係の内郚での䞻䜓の陶冶の問題ずしお問題意識化するこずに成功したず蚀える。
埓来のマルクス疎倖論研究の臎呜的欠陥はノェルク・モデルでマルクスの疎倖論を解釈しおきたこずである。こうした誀読が生じた䞀぀の理由は初期マルクスにおける劎働疎倖論の文脈に『資本論』第䞀巻第五章の『劎働過皋』論のモデルが安易に持ち蟌たれたこずである。この劎働過皋論モデルの特城はそれが生産関係の特殊な歎史的芏定性を捚象しお劎働の歎史貫通的性栌を抜象したずいう点にあるだけではない。それを䞻䜓・客䜓の論理行為論ずしお考察する時その特城は他の劎働䞻䜓ずの間䞻䜓的関係を捚象した䞻䜓ず客䜓ずのスタティックな䞀察䞀察応が成立する堎面に芖点を限定した問題蚭定であるずいう点にある。」同曞、48頁
いきなりいろいろず理解䞍胜な甚語が出おくるず思われるので、甚語の解説から始めよう。ノェルク・モデルずいうずきのノェルクずは、暫山蚳では「仕事」ず蚳されおいる。それは、「⅀章B-快ず必然性」暫山欜四郎蚳『粟神珟象孊』、䞖界の倧思想、河出曞房新瀟、212頁、原兞262頁、以䞋暫山蚳ず略蚘し、ペヌゞ数は原兞を採甚するでテヌマずなっおいるず平子は芋おいる。ここでは自己意識の察象はディングである。他方、ザッぞ・れルプスト・モデルずいうずきのザッぞ・れルプストずは、「⅀章C-粟神的な動物の囜ずだたし、たたは『こずそのもの』」暫山蚳、285頁でテヌマずなり、暫山蚳では「こずそのもの」ず蚳されおいる。平子によれば、-では自己意識は単独で察象ず仕事を通しお関係するこずが蚘述され、-では他者ず自己意識の関係においお仕事を考察し、「こずそのもの」ザッぞ・れルプストの地平を開いおいるずいうのだ。
平子のここでのヘヌゲル評䟡に぀いおは埌述するずしお、マルクスの疎倖論解釈に察する批評の郚分に泚目しよう。ヘヌゲルになぞらえお、平子は埓来のマルクス疎倖論の解釈が、個ず察象の関係、぀たりは劎働過皋論に則しおなされおいお、個ず他の関係から考慮されるこずがなかったずいうのである。この点に぀いお平子は駄目抌し的に述べおいる。
「マルクスの劎働疎倖論のモデルずしお『資本論』の劎働過皋論モデル(=ノェルク・モデル)が無批刀的に採甚されるこずによっおマルクスの劎働疎倖論は 物象化論から切断され物象化された瀟䌚的関係の内郚での個䜓の䞻䜓圢成(陶冶)のあり方を問うずいう本来の䞻題が忘华され個別的生産過皋における個別資本による個別的劎働者の搟取に矮小化されるこずになった。」同曞、49頁
埓来のマルクス疎倖論の解釈に察するこの提蚀は積極的に評䟡されるべきであろう。

平子の『粟神珟象孊』解釈

⅀--に぀いお
 平子はヘヌゲルを取り䞊げる際にその箇所に぀いお次のように指定しおいる。
「ぞヌゲルがザッぞずディングずをいかに䜿い分けおいたかを瀺す栌奜のテクストが『粟神珟象孊』の䞭にある。第V章『理性』のB『理性的自己意識が自分自身〔の行為〕を通じお珟実化するこず』(V-B)ずC『自分が即自か぀察自的に実圚しおいるこずを知っおいる個䜓性』(V-C)がそれである。䞡節はいずれも諞個䜓の自己意識ず諞個䜓の行為の錯綜を通しお間䞻䜓的に圢成される(ものでありながら個䜓の意識にずっおは疎遠な)客䜓的䞖界ずの関係を問題にしおいる。぀たり個人ず瀟䌚ずの関係を問題にしおいる。」同曞、40頁
 『粟神珟象孊』に぀いおは自己意識たではそれなりに苊劎しお、いろいろ文章もに掲茉しおいるが、理性、や粟神、宗教、絶察知などは読んではいるが理解しようずいう気持ちにならなかった郚分である。平子の読みに埓っお勉匷するこずにしよう。C理性第⅀章、に泚目した平子はたず抂論的に次のように述べおいる。
「さおザッヘディング察象(Gegenstand)客䜓(Objekt)――これらの甚語はヘヌゲルにずっおたずえば県の前にある䞀冊の本の様な個別的察象物を意味する甚語ではなく諟個䜓の行為の耇合ずしお圢成される諞個䜓にずっお䞍可芖的な客䜓的䞖界(日垞語で『䞖の䞭』ずか『䞖間』ずいう意味でのdie Welt) を指瀺する甚語であるこずにあらかじめ読者の泚意を喚起しおおきたい。ずいうのもヘヌゲル哲孊に察するありずあらゆる誀解ず䞍信は䞊蚘の点の無理解に端を発しおいるからである。
ヘヌゲルはV-Bにおいおは察象的䞖界をディングず芏定しおおり V-C においおはザッヘ・れルプストず芏定しおいる。察象的䞖界を個䜓から隔絶されたディングずしお聳立せしめる個䜓のプリミティノな意識ならびに行為から出発しながら個䜓がみずからの悲劇的経隓を通しお普遍的個䜓(普遍性ず個䜓性ずの個䜓のレベルで、の統䞀)ぞず自己を厳しく陶冶しおゆくこずによっお察象的䞖界をディングからザッヘ・れルプスト(普遍性ず個䜓性ずの客䜓的システムのレベルでの統䞀)ぞず転換しおゆくこずが V-BからV-Cに至る自己意識の課題である。」同曞、401頁
このように把握した䞊で、平子は⅀-のディングの抂念に぀いお次のように述べおいる。
「ディングずは諞個䜓の行為連関が諞個䜓の個別的意識から自立化し個䜓から隔絶され個䜓に察しお超絶的な暩力を行䜿するようになった姿である。ディングずは諞個䜓の行為の物化された間䞻䜓的関係ずしお本質的にはディングハむト(Dingheitディングずしおあるあり方〕なのである。・・・・諞個䜓盞互の瀟䌚的関係が諞個䜓から隔絶させられ䞀個の自然力のごずくに諞個䜓に察立しこれを圧倒するようになったものこれがディングである。」同曞、42頁
ヘヌゲルは自己意識の行為の垰結がディングずいうようには述べおはいない。-で取り扱われおいるのは、「欲望の行為」暫山蚳、263頁であっお劎働過皋仕事ではない。たた、「快が受けずられるずいうこずは、たしかに、察象的な自己意識ずしおの自分自身になったずいう、肯定的な意味をもっおはいるけれども、ただ同時に、自己自身を廃棄したずいう、吊定的な意味をももっおいる。」暫山蚳、263頁ずあるように、ディングが自己意識を圧倒するずいうこずは、平子の芋るような間䞻䜓的関係の成立によるものではなくお、欲望を満たし快楜を埗るこずで、それたでの自己意識が疎倖され、廃棄されたずいう意味でしかないのではなかろうか。぀たりヘヌゲルは自己意識が快楜を埗るこずによっおディングに取り付かれ自己を芋倱うこずを述べ、それを自己意識の吊定の過皋ずみ、移行ずみるのだが、この移行過皋を「このように、生呜ある存圚から生呜のない必然ぞず、移行するこず」暫山蚳、265頁ずいうように、必然性の領域ぞの移行ず捉えおいる。そしおヘヌゲルの独自性は、この移行したものも実は自己意識であり、移行は自己意識の経隓ずしおみなされおいる点だ。吊定は抹消ではなくお、止揚なのだ。
平子のここでのディング把握は、『資本論』の物神性論に出おくる物象が物に芋えるずいう幻圱的圢態を念頭においおいるように思われるが、ヘヌゲルのディングは生呜のない、必然性の䞖界のこずではなかろうか。そしお自己意識が自己吊定自己疎倖の結果、必然性の領域に到るこずで理性ずしおの自己意識はたた次ぞず歩みをすすめるのである。こう考えるず、平子の解釈は無理があるように思われる。぀いで、-に぀いおの解釈を芋よう。

⅀--に぀いおの諞説
たず、ずの違いを瀺すために、ホッブズ的䞖界ずスミス的䞖界の察比がなされおいる。
「V-B-a の䞻䜓が『各人の各人に察する闘争』を珟出させるホッブズ的䞻䜓であるのずすれば V-C-aの䞻䜓は各個䜓が圌らの個別的利害関心に埓っお利己心をフェアに発動させ合うこずが神の『芋えざる手』の働きに導かれお瀟䌚党䜓の犏祉を実珟するこずを確信しおいるスミス的䞻䜓である。」同曞、43頁
先に瀺唆したように、ヘヌゲルの⅀--の内容は、自己意識が欲望の察象ず関係し、自己を察象に疎倖し、察象を自己意識ずするこずでディング察象に支配されるが、しかしこの生呜から生呜のないものぞの自己意識の移行は、自己意識に反照しお自己意識が新しい圢態を埗るずいう筋になっおいる。ここでは他者は「物性」暫山蚳ディングであり、もう䞀人の自己意識ではない。だからホッブズ的䞻䜓ず芋るのは圓たらない。それはずもかく平子は぀ぎのザッぞ・れルプストの展開をスミス的䞖界ずしおみようずしおいるこずを確認しおおこう。
「以䞊の論理をふたえお V-C-a の䞖界は展開されおゆく。本節の冒頭で述べた様にそれは諞個䜓が各自の営みに没頭するずいう意味はV-B-aの䞖界の再珟である。しかし VB-aにおいおは瀟䌚的秩序の存立が個䜓の没萜ず運呜的(=物的)な暩力の支配を珟出させ
るホップズ的䞖界であったのに察しV-C-aにおいおは個人の個䜓的行為ず瀟䌚的秩序の存立ずを架橋するスミス的な瀟䌚的分業の論理が前提されおいる。この前提の䞊でザッぞ・れルプストが展開される。」同曞、45頁
 元々、このくだりの背景に商品亀換を読み蟌んだのはルカヌチであった。ルカヌチは-を念頭においお1948幎に公刊された『若きヘヌゲル』で次のように蚀っおいる。
「個人の『いっさいの行動』ず『事柄そのもの』ザッヘ・れルプストの関係に぀いおのこの叙述は、埀々にしお難解であり曖昧ではあるが、この『事柄そのもの』においお商品の二぀の偎面、すなわち物ずしおのその自然的察象性ず商品ずしおのその瀟䌚的察象性ずが合䞀しおいるこず、しかも商品を䞀方では自己自身の掻動の生産物、この掻動の目的ずみなし、他方では商品を自己の欲望を満足させるためのたんなる手段ずみなし、これら䞡契機によっお他の諞個人ずの、したがっお党瀟䌚の運動を生呜ずの実にさたざたな盞互関係に入りこむ個䜓的意識の立堎からしおそうなのであるこずを、぀ねに念頭においおいなければならない。
 かくしおここに人間をその個人的劎働においお、亀換ずいう経枈的掻動においおたんなる䞻芳性を超えお瀟䌚的普遍性に高めおゆくあの匁蚌法が珟れる。」『ルカヌチ著䜜集』11巻、若きヘヌゲル䞋、癜氎瀟、416頁
 ぀いでに蚀っおおくず、ルカヌチは次の粟神の章に、「資本䞻矩における人間盞互の関係の地䜍の珟象孊的叙述をあたえおいる」同曞、442頁ずも䞻匵しおいる。たた圌はヘヌゲルの『粟神珟象孊』以前の経枈孊研究に぀いお、党面的にフォロヌしおいるこずも付け加えおおこう。さお、平子の解釈がルカヌチの二番煎じであるこずは明らかであり、たずはルカヌチの解釈に぀いおのこれたでの議論の玹介をしおおこう。
 ルカヌチの著䜜以前の1946幎に、むポリットは『ヘヌゲル粟神珟象孊の生成ず構造』を䞊梓しおいるがそこにはルカヌチずは異なった解釈が展開されおいる。
 「したがっお、仕事の吊定は、仕事そのものずずもに消滅するのである。ここで、『消滅の消滅』293頁がおこるわけである。なぜなら、自然䞻矩的なこずばの意味での実圚は、ここではのりこえられおいるからである。ここで定立されおいるのは、この実圚ず自己意識ずの統䞀なのである。だから、真実の仕事ずは、唯物論的な意味でのあれこれの䞀時的な仕事ではない。すなわち、あれこれの察象的な実圚なのではない。そうではなくお、もっず高床の統䞀なのである。すなわち、われわれが、物の抂念を怜蚎しはじめおからずっずもずめおきた、存圚ず自己意識ずの統䞀なのである。〈事そのもの〉ずいうのが、この統䞀である。ヘヌゲルは、知芚の物ず粟神的な〈事〉すなわち、われわれがここで到達した人間的な〈事〉ずの区別を執拗に䞻匵しおいる。〈事そのもの〉は、思惟ず存圚ずの同䞀性であるが、のちに、ヘヌゲルは、論理孊においお、〈ロゎス〉が、こうしたものずしおの〈事そのもの〉であるず語るこずになるであろう。ここでは、われわれはもっず盎接的にこの同䞀性の意味を理解する。それは、行為する自己意識ず存圚ずの同䞀性なのである。」『粟神珟象孊の生成ず構造』䞊巻、岩波曞店、1972幎、4223頁
 むポリットはルカヌチの解釈を予想したかのように、「真実の仕事ずは、唯物論的な意味でのあれこれの䞀時的な仕事ではない。すなわち、あれこれの察象的な実圚なのではない。」ずいっおいる。ルカヌチ的解釈は圓時いろいろあったのかも知れない。それはずもかく、私ずしおはルカヌチの解釈よりもむポリットの解釈を評䟡したい。
次に党面的にルカヌチ説を批刀しおいる暫山欜四郎『ヘヌゲル粟神珟象孊研究』を玹介しおおこう。暫山はルカヌチが疎倖抂念をヘヌゲルの䞭心テヌマずしお取り出したこず事態を評䟡し぀぀も、ルカヌチの立堎を玠朎実圚論ずずらえ、次のように述べおいる。
 「そうでないず、玠朎実圚論の立堎からヘヌゲルを批評するこずになる。぀たり、客芳的な動かすこずのできない真実ずいうものがあっお、その内面の論理を把握するこずに科孊の仕事があるずする考えが前提にあるこずになる。そのため、この科孊的真理が『和解』ずいうような、それ自䜓では䜕物でもなく、ただの芳念に過ぎないもの、神秘的なもの、の䞭に解消しお行くのは、結局科孊的真理の吊定であるずいうこずになるのであろう。・・・そこでルカッチの䞻匵の根本には、意識から独立な客芳的存圚を認めるずいう思想がある。ヘヌゲルの堎合にはそういうものは実䜓なのである。ずいうこずは、それは自䜓的なものであっお、それ自䜓では䜕物でもない。それが䜕かであるのはそれの自己吊定の堎においおである。がそのこずが即ち䞻芳のあり方に他ならないずいうこずであった。ずすれば、この自己吊定を去っお自己同䞀を回埩しようずするこずが、そこに同時にあるのは圓然である。だから、疎倖は和解を前提し同時にそれず共にあるこずになる。既に前に詳しく述べおおいたように、実䜓は䞻芳であるず考えるのがヘヌゲルの前提なのだから、このこずに぀いおの理解が充党でない限り、ヘヌゲルは理解できないこずになる。」暫山欜四郎『粟神珟象孊研究』創文瀟、1961幎1012頁
 暫山はルカヌチのヘヌゲル哲孊の根本に぀いおの認識の誀りを突き出し、ルカヌチがヘヌゲルの理解に進めない原因を指摘しおいる。
 たた、金子歊蔵は蚳曞『粟神珟象孊』䞊巻の「蚳者泚そのニ総泚」でここの箇所に出おくる誠実な意識のだたしあい、「粟神的な動物の囜」の動物性に぀いお次のように解説しおいる。
 「いったい事ずいうのは知芚の堎合の物に察応するものである。ただ物が意識に察しお倖から䞎えられるにすぎぬものであったのに察しお、事は自己意識によっお生じたものであるずころに盞違がある。ずころで物をずらえる知芚は真なるものをずらえるものでありながら同時に錯芚でもあったが、同様のこずがひたすら事そのものに即さんずする誠実な意識にもあるが、これがすなわち『欺瞞』である。ずころですでにⅣにおいお確立せられたように、ひず぀の自己意識はただ他の自己意識に察しおのみあるのであるから、この欺瞞は盞互的になされるものである。」金子蚳『粟神珟象孊』䞊巻、岩波曞店、1971幎、720頁
 ここで、金子は動物的なだたしあいが、自己意識の経隓ずしお捉えられ、亀換行為を念頭には眮いおいないずいう考え方を瀺しおいる。

⅀--に぀いおの平子の解釈
 平子は『瀟䌚䞻矩ず珟代䞖界』補論「疎倖論ず物象化論」で『粟神珟象孊』に぀いお次のように述べおいる。
「第䞉に、ヘヌゲル哲孊においお䞻䜓は理念絶察粟神ではなく個䜓である。ヘヌゲルは、個䜓を超越した絶察粟神をアプリオリに䞻䜓ずしお定立したわけではない。ザッヘの成立による個䜓の䞻䜓性喪倱、瀟䌚的関係の個䜓からの自立化の論理物象化論を媒介ずしお、それを二次的に䞻客の転倒ずしお再把握したのである。少なくずも『珟象孊』の論理に則しお芋るかぎり絶察粟神の自己展開、自己疎倖ずいう発想はヘヌゲルにはない。」『瀟䌚䞻矩ず珟圚䞖界』、191頁
そしお、ヘヌゲルの「疎倖論」に぀いお次のように説明しおいる。
「物象化ずいう客䜓的䞖界の圢成を個䜓の経隓ずしお䞻䜓的に捉え返す方法が疎倖論なのである。物象化論においお個䜓から独立した瀟䌚的関係ザッヘの圢成ずしお論定された事態は、疎倖論の芖角からすれば個䜓の生掻および意識の分裂――私的個別的生掻・意識ず瀟䌚的普遍的生掻・意識ずの分裂ずしお䞻䜓的に再芏定される。疎倖論ずは物象化された瀟䌚関係に内圚する分裂矛盟を個䜓䞻䜓の生掻ず意識に内圚する分裂矛盟に転換する方法、䜓制に内圚する矛盟を個䜓の䞻䜓的な苊悩、葛藀ずしお再把握するこずをずおしお、分裂の克服を匷烈に志向する行為䞻䜓の登堎する過皋を䞻䜓の偎から远構成しおゆく方法である。」同曞、196頁
物象化ずいう客䜓䞖界の圢成を前提に疎倖論があるずいう芋地は、『経枈孊・哲孊草皿』の新たな読みを導けそうである。それは別にしお、このような物象化論ず疎倖論ずの関連をヘヌゲルから読みずるこずには無理があるし、平子はマルクスに匕き寄せおヘヌゲル解釈を行ったのであろう。しかし、このような考えがヘヌゲルにあるずいう根拠は、-に察する次のような解釈にもずづいおいる。
「行為ずはそれ自䜓すでに盞互承認行為である。ある個䜓の行為が圌のノェルクを成就しようず考えおいるのず同じ空間に他の諞個䜓も圌らなりの目的を立おお参入しおくる。各個䜓は他の諞個䜓のノェルグを排斥しお自分自身のノェルクを成就しようずする。
こうしお行為の珟実化=ノェルグの成就をめぐっお無数の諞個䜓の行為が亀錯し錯綜し 競争し排斥し合う結果ずしおもはやどの特定の個䜓のノェルクずも蚀えないあらゆる個䜓のノェルクであるずずもに諞個䜓から盞察的に自立した䞀぀の匿名の察象的珟実が成立しおくる。これがザッぞ・れルプストである。個䜓の行為は圌自身のノェルクを志向し぀぀それを圌のノェルクずしおは珟実化するこずができない。圌が珟実化するものはザッぞ・れルプストである。ザッぞ・れルプストのうちぞ解消されるこずがノェルクの運呜なのである。」「ヘヌゲル『粟神珟象孊』における疎倖論ず物象化論」、46頁
 ここで平子は、ルカヌチ的な商品亀換を想定しおいる。平子の䞻匵をあからさたに翻蚳すれば、垂民瀟䌚での個䜓の行為ずしおのノェルクは亀換を通しおしか珟実化せず、そしお亀換は貚幣ずいう諞個䜓から盞察的に自立した䞀぀の察象的珟実に垰結させ、こうしお個䜓はノェルクを成就するこずでザッヘ・れルプストを珟実化するずいうわけである。
「ザッぞ・れルプストはあらゆる個䜓の行為の総蚈であるが最早どの特定の個䜓ずの察応関係も消し去られおあらゆる個䜓から独立した瀟䌚的関係ずしお珟れる。この様にザッヘ・れルプストがそれを織り䞊げる諞䞻䜓(諞個䜓〉から切り離されお䞀぀の客䜓的システムずしお定立される時それは実䜓(Substanz)本質(Wesen)類(Gattung) ず呌ばれる。ぞヌゲルおよびマルクスの方法抂念ずしおザッヘ・れルブスト実䜓本質類を考察する時これらは䞻䜓盞互の間䞻䜓的関係でありながら䞻䜓から疎倖され物象化された客䜓的システムを 䞻䜓ずの緊匵関係を意識しながら衚瀺する抂念である。」同曞、47頁
このように解釈すれば、ザッヘ・れルプストは商品・貚幣・資本だずいうこずになっおしたう。あるいは逆に、平子は、商品・貚幣・資本がこのような本質だず芋おいるのかもしれない。ヘヌゲル解釈ずしおも、物象化された資本䞻矩瀟䌚の珟実の解釈ずしおもこれは成立し埗ないず思われるが、ずりあえず、ヘヌゲルの⅀--の内容をたずめおみるこずで批刀に代えよう。

⅀--の理性章に占める䜍眮ず内容
 ヘヌゲルは理性章の冒頭郚分で次のように述べおいる。
「理性はすべおの実圚であるずいう意識の確信ずしお、そのたた珟れおくるから、その実圚を存圚の盎接態ずいう意味で受けずり、たた、自我ずこの察象的実圚ずの統䞀を盎接適統䞀の意味で受けずる。この統䞀においお理性は、存圚ず自我の䞡契機を分離した䞊で再統䞀するこずをただしおいない。蚀いかえるず、理性は、この統䞀をただ意識したのではなかったのである。」184頁
そしお、理性章の最埌の方にはこれを念頭においお次のように語られおいる。
「こうしお意識にずっお察象であるものは、真理であるずいう意味をもっおいる。それは、それ自䜓に、たた自分自身で、圚りたた劥圓するずいう意味で、珟に圚りたた劥圓する。それは、確信ずその真理、䞀般者ず個別者、目的ずその実圚性ずいうような察立に、もはや煩わされるこずなく、その定圚が自己意識の珟実であり行為であるような、絶察的なこずである。それゆえ、このこずは人倫的実䜓であり、こずの意識は人倫的な意識である。意識の察象は意識にずっおは真理ずも考えられる。そのわけは、意識が自己意識ず存圚を䞀぀に統䞀しおいるからである。」301頁
このいわば察句のような二぀の叙述に『粟神珟象孊』の匁蚌法的方法の栞心的内容が盛り蟌たれおいる。少し説明するず、私は以前に、次のような匁蚌法論を提起したこずがある。ヘヌゲルは『哲孊入門』で、哲孊の察象を意識に求め、そしおその意識に぀いお、自我ず察象ずの関係であるず芏定しおいる。そしお『論理孊』にあっおは、意識が䞻䜓で察象ず自我は意識の契機ずされおいる。ずころが論理孊の生誕を意識の経隓の孊ずしお叙述した『粟神珟象孊』は、実はこのような匁蚌法は採甚されおはいない。ヘヌゲル論理孊の専門的研究者たちが、『粟神珟象孊』の論理に違和感を持぀のもこの点に関わっおいる。䟋えば加藀尚歊はこの曞を「深淵のような混乱や動揺を抱えた完成床の䜎い著䜜」『新版粟神珟象孊入門』有斐閣、13頁ず評䟡しおいるのである。
 ではどのような論理が採甚されおいるのだろうか。それは倖の䞻䜓の匁蚌法ず呌ぶほかないような論理であり、自我ず察象ず意識ずいう䞉者構成では論理孊ず同じであるが、ここでは意識が䞻䜓ではなく、自我ず察象が䞻䜓で意識はその契機ずされおいるのだ。詳しくは掲茉「倖の䞻䜓の匁蚌法――『粟神珟象孊』意識論の解読」を参照されたい。
 この説明が劥圓する堎面がここにある。理性冒頭郚分の文蚀は、「この統䞀においお理性は、存圚ず自我の䞡契機を分離した䞊で再統䞀するこずをただしおいない。蚀いかえるず、理性は、この統䞀をただ意識したのではなかったのである。」ずある。そしお最埌の方では、「そのわけは、意識が自己意識ず存圚を䞀぀に統䞀しおいるからである。」ずある。
 ぀たりヘヌゲルは論理の完成圢態である、自我ず存圚ずの統䞀ずしおの意識をめざしおいるのだが、理性の冒頭郚分では、この統䞀を意識しおはいなかったのに、最埌の郚分では、意識は自己意識自我ず存圚の統䞀を意識しおいるのだ。そしおこの地平ぞの移行を成しずげるに圓たっおの経隓が、理性章の内実をなしおいるず芋るこずができる。そしお理性章から粟神章ぞず移る際に、次の文蚀がある。
「私にずっお正矩が絶察的であるずいうこず、このこずによっお、私は人倫的実䜓のうちにいるのであり、そのずき、この実䜓は自己意識の本質ずなっおいる。だが自己意識は、この実䜓の珟実及び定圚であり、その自己及び意志である。」312頁
 これは理性章での解明の内実が「人倫的実䜓」であるこずを瀺しおいる。ヘヌゲルの蚀う粟神ずは瀟䌚のこずであり、家族、垂民瀟䌚、囜家である。この粟神の範疇に到る過枡ずしお、理性では「人倫的実䜓」の成立が説かれおいるのだ。
 ザッヘ・れルプストこそ、人倫的実䜓であり、これは商品や貚幣や資本ずいうよりは、共同䜓における共同性ずいう政治的な意識である。

䞎えられた課題 『経枈孊・哲孊草皿』の読み盎し

 恐ろしいほどの駆け足でこれを曞いおいる。『粟神珟象孊』も『経枈孊・哲孊草皿』も久しぶりである。しかし幟぀か気付いたこずがあった。埌者に぀いお読み盎しを提起しおノヌトを閉じるずする。
 平子による、疎倖論の前提に物象化論があるずいう指摘は、平子の提起内容ずは別の意味で興味を持った。ずいうのもすでに『䟡倀圢態・物象化・物神性』第四章で觊れおいるように、『経枈孊・哲孊草皿』や「ミル評泚」でマルクスは物象ザッヘこれは事物ず蚳されおいるずいう甚語を瞊暪に䜿っおいる。しかし物象の成立に぀いおの分析はできおおらず、甚語を䜿っおいるからずいっお物象化論があるずはみなせない。だが、マルクスが囜民経枈孊の諞範疇を物象ずみなし、それを瀟䌚的な事象ず捉えおそれの批刀をさしあたっおは疎倖論の論理で展開したのが「疎倖された劎働」だった。そしおマルクスの批刀はこれで終わるわけではなく、埌に『資本論』に結実する物象化批刀にたで継続されおいく。そしお物象化論は物象の成立過皋の解明であり、やはり䟡倀圢態論の解明が䞍可欠であるこずだ。だから平子のように、物象化論をマルクスの方法論ずするのは問題があろう。
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