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2014/03/07
䜐々朚隆治の物象化論

Author: ebara (8:14 pm)
䜐々朚隆治の物象化論

はじめに
物象化論に関する倧郚の著䜜が盞次いで出版された。ひず぀は䜐々朚隆治『マルクスの物象化論』瀟䌚評論瀟、2011幎であり、もう1冊は山本哲士『物象化論ず資本パワヌ』文化科孊高等研究院出版局、2012幎である。䜐々朚がマルクスに則しお議論しおいるのに察しお、山本は廣束枉に䟝拠し぀぀マルクス離れした議論を展開しおいる。たず䜐々朚の著曞を取り䞊げるこずにしたい。
マルクスの物象化論に぀いおは、1990幎に出版した自著『䟡倀圢態・物象化・物神性』で党面的に取り䞊げおいる。䜐々朚はこの本に぀いおは知らなかったようだ。共産党系の孊者では廣束物象化論の批刀では䞀臎し぀぀も、岩淵慶䞀のような、疎倖論に基本を芋お物象化論を吊定する議論ず、平子友長のような物象化肯定論ずがあった。䜐々朚は平子友長の提起に䟝拠し぀぀自らの物象化論をたずめおいる。
なお、匕甚に圓たり䜐々朚からの匕甚は頁数のみ衚瀺する。
泚
岩淵慶䞀は、「マルクスはたさに疎倖こずが基本的な事実であっお、物象化はこの事実によっお芏定された珟象であるず考えおいた。」「疎倖 物象化 物神厇拝」『マルクスの疎倖論』時朮瀟、2007幎、初出、2004幎、161頁ず述べおいる。なお岩淵には、廣束批刀を詊みた『神話ず真実』時朮瀟、1998幎、ほかには瀟䌚䞻矩思想を論じた『マルクスの21䞖玀』孊術曞院、2001幎がある。
匟子筋の田䞊孝䞀『初期マルクスの疎倖論』時朮瀟、2000幎にも「疎倖論から物象化論ぞ」ず䞻匵した廣束説ぞの批刀がある。
私が自著で取り䞊げた物象化に蚀及しおいる研究者は、第章では、廣束枉をはじめ、吉厎祥叞「資本論における“物象化”抂念」『唯物論』7号、汐文瀟、平子友長「マルクスの経枈孊批刀の方法ず匁蚌法」『唯物論』8号、汐文瀟、岩䜐茂「物象化抂念の認識論的反省」『唯物論研究』8号、癜石曞店らがあり、第3章では、山本広倪郎『差異ずマルクス』1985幎に蚀及しおいる。第5章では、ルカヌチ『歎史ず階玚意識』未来瀟、唐枡興宣『資本の力ず囜家の理論』青朚曞店、浅芋克圊『所有ず物象化』䞖界曞院らの諞説を取り䞊げお怜蚎しおいる。
䜐々朚の垫匠筋は、著曞による限り、岩䜐茂、島厎隆、平子友長、倧谷偵乃介、らであるが、䜐々朚が物象化論をたずめるに圓たっお思想的に䟝拠しおいるのが、ルカヌチず共に平子友長「疎倖論ず物象化論」『瀟䌚䞻矩ず珟代瀟䌚』青朚曞店、1991幎、初出1984幎である。

第章 䜐々朚の物象化論

解釈自䜓の問題性を問う
 䜐々朚は自らの著曞を䞖に問うこずの意矩に぀いお次のように述べおいる。
「物象化論の『実践的・批刀的』意矩を明らかにする詊みは䟝然ずしお充分になされおいないのである。・・・・物象化論、疎倖論、所有論に぀いおのより正確で、明確な解釈を瀺すこず、これが第二の目的である。」『マルクスの物象化論』、1178頁
芋られるように、䜐々朚がめざしおいるのは第䞀に、物象化論の「実践的・批刀的意矩」の解明であり、第二に、物象化論等々に぀いおより正確で明確な解釈を瀺すこずである。この二぀の目的に察しお䜐々朚はそれなりの成果を䞊げおいるず芋おいいだろう。しかし、その成果自身の内容が問題であり、その怜蚌を詊みるこずでマルクスに぀いお論じる際の課題に぀いお瀺すこずにしたい。
先走っお蚀えば、䜐々朚は物象化論を「解釈」しようずしおおり、この方法自䜓がマルクスの問題提起を捉えそこなう原因になっおいる。『資本論』は解釈の察象ではなくお、実践に掻かす理論をわがものずする営みにずっおの察象である。私は20幎以䞊も昔の自著におけるマルクスの物象化論把握ず、䜐々朚が珟圚展開しおいる物象化論解釈ずを比范察照し぀぀、マルクスずの付き合い方に぀いお読者に考えおもらうこずにしたい。
䜐々朚の「マルクスの物象化論」人栌の物象化論
 䜐々朚は論をおこすに圓たり、物象化論をめぐる諞説の怜蚎から始めおいる。廣束枉、宇野匘蔵、内田匘、林盎道、ルカヌチ、ポストン、平田枅明、ルヌビン、久留間鮫造、倧谷犎乃介、平子友長、らが取り䞊げられそれらの諞説が怜蚎されおいる。その際に、「ずはいえ『人栌ず人栌ずの瀟䌚的関係が物象ず物象ずの瀟䌚的関係ずしお珟れる』ずいう物象化抂念の抂括的な定矩に぀いおは抂ね共有されおいるものずみられる。」同曞、122頁ず述べおいる。しかし、これは芋圓違いである。そもそも物象化抂念は「物象の人栌化」の方にあり、「人栌の物象化」は前者自䜓の垰結であり、裏偎なのだ。ずころが䜐々朚にずっおは「人栌の物象化」の方が物象化の内容をなし、狭矩の物象化を指しおいお、「物象の人栌化」は広矩の物象化を意味する物象化論の領域にあるずいうのだ1489頁。
 このような取り違えは、以䞋に玹介するように、䜐々朚がマルクスの物象化論を「解釈」するに圓たり、『資本論』の物神性の節に䟝拠し、その結果ずしお、䟡倀圢態論を物象の人栌化過皋ず読むこずができなかったこずの垰結である。
䜐々朚は「物象化ずはなにか」ず問い、マルクスは定矩を䞎えおいないずした䞊で、『資本論』第䞀巻、第䞀篇、第䞉章から以䞋の匕甚を行っおいる。
「商品に内圚的な察立、すなわち䜿甚䟡倀ず䟡倀ずの察立、私的劎働が同時に盎接に瀟䌚的劎働ずしお衚わされなければならないずいう察立、特殊的具䜓的劎働が同時にただ抜象的䞀般的劎働ずしおのみ通甚するずいう察立、物象の人栌化ず人栌の物象化ずいう察立――この内圚的矛盟は、商品倉態䞊の諞察立においおそれの発展した運動諞圢態を受けずる。」『資本論』長谷郚蚳、河出曞房新瀟版、99頁
田䞊孝䞀が䞻匵しおいるように、マルクスは「物象化」ずいう蚀葉を頻繁に䜿っおいるわけではない田䞊孝䞀「マルクスの物象化論ず廣束の物象化論」『季刊経枈理論』48å·»2号、桜井曞店、2011幎。山本広倪郎はこの貚幣章で初めお「物象化」ずいう蚀葉が登堎するので、商品論では物象化論は展開されおいないずしたが、その芋解を斥けお、䜐々朚はこの蚘述だけでは物象化抂念を特定できないずしたうえで、『資本論』第章商品 第節商品の物神的性栌ずその秘密 から6段萜ず7段萜を匕甚し「この䞀節こそマルクスが自らの物象化論のもっずも基瀎ずなる郚分を展開した郚分にほかならない」136頁ず述べおいる。

物神性論の解釈から出発
このように、䜐々朚の物象化論は、物神性のずころに䟝拠しお解釈されおいる。だから人栌の物象化に焊点が定たっおしたい、物象の人栌化は芖野の倖になる。そしお䟡倀圢態論の解釈は物象化抂念を確立した䞊での商品語の解明ずしおなされおいるのだが、これ自䜓問題である。䜕がぬけおしたうのだろうか。
䜐々朚は「生産者たちが劎働生産物を぀うじお互いに瀟䌚的に関連しあうずいうこずは、どのようにしおなされるのか、」139頁ず問い、これは先行研究がなしえおいない点だず述べおいる。これはその通りである。しかし、ここから「劎働生産物が私的生産者たちの亀換においお受け取る、この瀟䌚的な力こそが䟡倀に他ならない。」139頁
ず続けられるず違和感が生じる。この䟡倀の定矩は機胜䞻矩的ではないかずいう違和感である。さらに「たんなる物でしかなかった劎働生産物は、瀟䌚的な圢態を䞎えられた物ずしおの物象ずなるのである。」139頁ず述べられおいるのだが、このこずは䟡倀圢態の圢態分析から蚀われなければ単なるご蚗宣ずなる。
「このように、私的生産者たちが劎働生産物にたいしおそれが瀟䌚的な力を持぀ものであるかのように関わるからこそ、劎働生産物はそれらの私的生産者たちにたいしお実際に瀟䌚的な力をも぀ものずしお通甚するのである。぀たり、人間たちの生産物にたいする、ある䞀定の関わりこそが、生産物に䟡倀ずいう属性を䞎えるのである。」140頁
物象化の抂念がこのように展開されおくるず疑惑は䞀局深たっおくる。初版本文䟡倀圢態論および亀換過皋論で展開されおいる、物象による人栌の意志支配物象の人栌化の根拠を解明しないたた、物象ず人栌ずの意識関係を説くので、䟡倀が人間の態床次第で芏定されるものであるかのように論じられおいる。だから、「圌らは、私的劎働を瀟䌚的なものずしお通甚させなければならないずいう瀟䌚関係に匷制され、無意識的に、本胜的にそれを行っおいるのである。」141頁ずいう぀けたしが必芁ずなる。さらに、「なお、私的生産者たちが生産物にたいしおそれを商品ずするようにしお関わるずいうずき、それはどのような関わりなのか、ずいうこずがさらに問題ずなるが、この点に぀いおは「䟡倀圢態論を扱う次章で述べる。」141頁ずいうように申し送りがなされおいる。そしおここで䜐々朚が述べおいる物象化の抂念は次のような事柄だ。
「商品生産関係においおは、私的生産者たちの劎働は盎接に瀟䌚的性栌を持たないがゆえに、生産物に瀟䌚的力を䞎え、生産物ず生産物の瀟䌚的関連を圢成するこずによっお、瀟䌚的性栌を獲埗するほかない。だからこそ、諞個人の具䜓的な劎働が盎接に瀟䌚的力をも぀のではなく、むしろ生産物ずいう物Dingが物象Sacheずしお瀟䌚的力を獲埗するのである。このような瀟䌚的力ずしおの䟡倀ずいう属性を持぀にいたった䜿甚察象が商品にほかならない。・・・・しかしながら、他方、これらのこずを人間たちは自芚的に行うのではなく、諞関係に匷いられお本胜的に、無意識のうちに行う。」1456頁
『資本論』の物神性論節のずころから物象が抂念を取り出すず、こんなものずなる。商品所有者たちに匷いる諞関係自䜓が解明されおいない。その諞関係が人間の意識に察しおどうかかわるかずいう事柄を䞻芁に論じたマルクスの物神性論から物象化論の抂念を組み立おるこずの限界がここに珟れおいる。さらに䜐々朚はマルクスの「諞人栌の物象的関係および諞物象の瀟䌚関係」ずいう文蚀を解釈しお次のように述べおいる。
「商品生産関係においお私的生産者たちは盎接には人栌的関係を取り結ぶこずができず、劎働生産物を瀟䌚的力を持぀物、すなわち物象ずしお関連させるこずによっおはじめお他者ずの瀟䌚的関連に入るほかないのだから、私的生産者たちにずっおは人栌の瀟䌚的関係は珟に存圚しおいる瀟䌚的連関ずしお、すなわち物象的連関ずしお珟れるほかない、ずいう事態を説明しおいるのである。」147頁
諞人栌は生産物を「物象ずしお関連させ」おいるわけではない。商品所有者たちが生産物を商品ずしお垂堎に出すこずは、抂念的存圚ずしおの物象が発するサむン瀟䌚的象圢文字に起因するにしたがっお行動しおいるのだ。もし䜐々朚の蚀うように「物象ずしお関連」させおいるならそのように関連させない行為も可胜ずなるがそうではない。ずころが䜐々朚は物象ずしお関連させない実践の圢を暡玢しおいるようだ。

人栌の物象化の抂念芏定ず、独自の物象の人栌化論
さお、いよいよ䜐々朚による「マルクスの物象化論」人栌の物象化論の抂念に到達した。
「ここではたんに人栌的な関係が物象の関係によっお芆い隠されおいるだけではなく、物が物象ずなっお実際に瀟䌚的力を持ち、人間の行為を制埡する、そのような意味で、物が物象ずなり、人栌が物象化されるこずこそが、マルクスの物象化論の根本なのである。」
148頁
 䜐々朚の物象化論は、䜕よりも人栌が物象化されるこずであり、その限りで第節物神性論の解釈からその抂念を埗おくるこずが可胜なのだが、しかしその際に、物が物象ずなるこずに぀いおはブラックボックスに入ったたたである。物が物象になるこずは䟡倀圢態論で説かれおおり、これが物象の人栌化で、私はこの事態を物象化論の根本だず捉えおいるが、䜐々朚は物象の人栌化に぀いおは次のような独自の解釈をしおいる。
「第䞀に、人栌の物象化によっお、人間の意識の次元においお物象の瀟䌚的属性をその物自身の自然的属性であるかのように錯芚する認識論的転倒が生たれおくる。これをマルクスは物神厇拝ず呌んだ。」148頁
たず、人栌の物象化が物神性を誘発するこずが指摘される。そのうえで物象の人栌化に぀いお次のように述べおいる。
「第二に、商品、さらには貚幣、資本が物象ずしお倧きな瀟䌚的力をも぀生産関係においおは、人間はなによりもたず物象の人栌的な担い手、すなわち商品所有者、貚幣所有者、資本家等々であり、逆に、そのような物象の人栌的担い手ずしおの人間の行為を通じお実際に物象も運動するこずになる。マルクスはこのような事態を物象の人栌化ず呌んだ。」149頁
このように、物象の人栌化に぀いお䜐々朚は人間の行為を通じお実際に物象が運動する過皋ず捉えおいる。そしおここから独自の「玠材の思想家マルクス」ずいう発想が構想される。

「玠材の思想家マルクス」
 䜐々朚は「玠材の思想家マルクス」に぀いお次のように根拠付けおいる。
「物象の人栌化は、物象化に必然的に付随する事態であるが、物象化が商品生産関係においお人間の意志や欲望にかかわりなく無意識の次元で成立する物象的連関、たたその物象的連関が人間にたいしお珟象するずいう事態を指すのに察しお、物象の人栌化はむしろ具䜓的に意志や欲望をも぀人間がいかにしおこの物象の運動を担っおいるのか、たた、逆に物象の担い手ずしおの人栌がいかに自らの意志や欲望のあり方を倉容させおいくのか、さらには人栌同士が物象の担い手ずしおどのような関係を取り結ぶのか、ずいう事態に関わる。端的にいうなら、人間『䞻䜓』的玠材の玠材『自然』的玠材に察する態床、人栌的関係の次元が問題ずなっおいるのである。」149頁
䜐々朚にずっおは物象化ずは䜕よりも人栌の物象化であり、これを狭矩の物象化ず定矩づけおいる。そしお物象の人栌化の方は、広矩の物象化であり、物象化論に領域に属し、物神性ず物象の人栌化の二぀の次元があるずいうのだ。最埌に䜐々朚自身による、「マルクス物象化論」の䞉぀の次元に぀いお芋おおこう。
「第䞀に、人栌の物象化の次元。さらにこの次元を区別するならば、無意識の次元で圢成される圢態的論理の次元ずそれの人間にたいしおの珟象の次元がある。
第二に、人間の意識における認識論的転倒、すなわち物神厇拝の次元。この次元においおは物象が人間の意識に珟れる。こずを通じお、事態が転倒しおみえる。
第䞉に、物象の人栌化あるいは実践的態床の次元。この次元においおは人栌の抱く具䜓的な玠材的欲望、あるいは人栌ず具䜓的な玠材ずの関連、瀟䌚的圢態芏定ず具䜓的な玠材ずの関係、さらには人栌同士の関係が問題ずなる。」14950頁
 第䞉の次元に぀いおは、䜐々朚自身第章で論じおいるので埌に譲り、第䞀ず第二の次元に぀いおは、䜐々朚は物神性論に䟝拠しお述べおいるのだが、その問題点はすでに指摘しおきた。次に怜蚎せねばならないのは、「商品語の論理」を匷調しおいる䜐々朚の䟡倀圢態論解釈であるが、その前に拙著『䟡倀圢態・物象化・物神性』の抂芁をたずめおおこう。

第章 『䟡倀圢態・物象化・物神性』の抂芁

物象Sacheず物Dingの区別から説き起こす
私は『゜ビ゚ト経枈孊批刀』四季曞房、1982幎で廣束枉の物象化論ぞの批刀を詊み、廣束の『資本論』特に䟡倀論の理解がたっずうではないこずを明らかにしたが、そのずきに『資本論』初版の䟡倀圢態論の研究に手を぀けおいたこずもあっお、マルクス自身物象化ずいう抂念に぀いお重芁な意矩を認めおいたこずに気付き、廣束独自の物象化論ずは内容が異なるが、マルクスも物象化論を提起しおいるこずを認め、その埌『䟡倀圢態・物象化・物神性』資本論研究䌚、1990幎に自己の芋解をたずめるこずができた。
 今ここでその抂芁を玹介しよう。
 第䞀章 マルクスの物神性批刀論 では、物象Sacheず物Dingの違いに泚目し、初版本文䟡倀圢態論の解読から、マルクスは物象珟象圢態が物ずいう幻圱的圢態を取るずころに物神性の秘密を芋おいたこずを瀺し、物象化ず物化ずを区別するこずの重芁性を明らかにした。そしお諞説を怜蚎しお、双方の区別を぀けおいる研究者にあっおも理解が䞍十分であるこずを説いおいる。
 簡単に芁点を玹介すれば、たず『資本論』珟行版ず初版本文䟡倀圢態論ずの察比がなされ、次の盞違が確認されおいる。
 「双方を比范すれば、第䞀に、珟行版では、人間の県に反映させる、ずいう点があげられおいるのに、初版本文では、その反映の原因ずなる珟象圢態が瀺されおいるこず、第二に、その結果、珟行版では、劎働の瀟䌚的性栌が、物そのものの察象的性栌ずずりちがえられる、ずいうように、その性栌が問題ずされおいるのに察し、初版本文では、私的劎働の瀟䌚的諞芏定が、劎働の瀟䌚的な自然被芏定性ずしお珟れる、ずいうように、その珟象における芏定性が問題ずされおいるこずがわかる。」『䟡倀圢態・物象化・物神性』、2頁
 珟行版では人間の県に反映させるずいう点を分析の察象ずしおいるが、初版では、その原因ずなる珟象圢態そのものが分析察象であるこず、この小さな違いを手がかりに掚理小説のように珟行版ず初版ずの違いを解きほぐしお行っおいる。それは次のような双方の分析芖角の盞違から発生しおいるのである。
「初版本文での䟡倀圢態論の分析が商品の盞察的䟡倀の衚珟の解明ずいうこずになっおいるのに察応しお、物神性の秘密も盞察的䟡倀圢態に則しお説かれおいるのに察し、珟行版での物神性の秘密は、等䟡圢態に即しお解かれおいるのである。」同曞、4頁
 物神性論を、盞察的䟡倀圢態から論じるか、等䟡圢態から論じるか、この盞違は決定的である。このこずが刀明すれば、䟡倀圢態論における双方の分析芖角の盞違に突き圓たらざるをえない。
「珟行版の盞察的䟡倀圢態の分析は、䟡倀関係をたずは同等性関係の䞀個別䟋ずし、同等性関係䞀般にみられる特城から出発しお論を進め、䟡倀衚珟はその個別具䜓䟋ずしおあげられおいるので、䟡倀衚珟の本来の特質、぀たり同等性関係䞀般の特城における特殊性、が鮮明に出おはいない。そしお、このこずにも芏定されお、人々の瀟䌚的生産関係に぀いおの蚘述が、䟡倀圢態論から切り離されお、物神性論のずころにおかれおいるので、その本圓の内実が把握しにくくなっおいる。」同曞、9頁
぀たり、付録を土台に曞き換えられた珟行版の簡単な䟡倀圢態に぀いおの分析が、盞察的䟡倀圢態ず等䟡圢態ずを同等に扱い、結果ずしお盞察的䟡倀圢態の特質が䞍鮮明になっおいるこず、このこずは等䟡圢態から生じる謎的性栌を浮かび䞊がらせはするが、しかし、等䟡圢態が生じる原因は盞察的䟡倀圢態にある商品の働きかけにあるのであり、この働きかけの内容が、珟行版では初版本文に比べ展開力に劣るずいうこずを突き止めた。こうしお初版本文䟡倀圢態論の独自の意矩が鮮明ずなり、その解読に向かわざるをえなくなるのだ。その最初の手がかりは、たた次の些现な違いの発芋にあった。
「初版本文では、『盎接に瀟䌚的な圢態』ずいう芏定を、商品に察しお䞎えおおり、珟行版がこれを劎働に察する芏定ずしおいるこずず異なっおいる。」12頁
瀟䌚的な圢態を商品のそれずしおいるのが初版本文であり、劎働のそれずしおいるのが珟行版である、ずいうずころたできたが、その埌の拙著第䞀章での展開は、珟行版の芳点に劂䜕にたどり着いたか、ずいうこずの説明であり、ただ初版本文䟡倀圢態論の独自の意矩を匷調するずころたで行っおはいない。それはこの章のテヌマが「マルクスの物神性批刀論」であったこずに芏定されおいる。拙著では初版から珟行版ぞの倉遷を跡付けたあず、貚幣物神から資本物神たで論じおいるが今回の圓面の論議からは倖れるので、玹介はこれくらいにしおおこう。

初版本文䟡倀圢態論の独自の意矩
 第二章 マルクスの䟡倀圢態論 では、マルクスが物象ずいう珟象圢態が物ずいう幻圱的圢態を人の県に反映させるずいう䞻匵をしおいるずいう第䞀章での提起を螏たえお、物象ずいう珟象圢態そのものの分析が䟡倀圢態論に芋られるこずを瀺した。初版本文䟡倀圢態論の解読から、商品を物象ず捉えおその珟象圢態の秘密を説くこずが䟡倀圢態の秘密の解明であり、他方でその珟象が幻圱的圢態を人の目に反映させるこずが、䟡倀圢態の謎で、この秘密の謎の区別が重芁であるこずを明らかにした。その際、初版本文、付録、珟行版ずいう䟡倀圢態論の䞉぀の展開の盞違を螏たえお、論議した。
 拙著は実は私の『資本論』探求の足跡である。だから章を远うごずに、的が絞られ、内容の解明が進んでいく。この章では前章で瀺した研究者の無理解「人々の瀟䌚的関係を物象盞互の瀟䌚的関係ずいう珟象圢態の内容ずは把握しおいず、それ自䜓を物象盞互の瀟䌚的関係ずは別のものであるかの劂く想定しおいる」同曞、46頁こずが、マルクスの物神性論の叙述の解釈を誀り、「この物神性論䞭に出おくる物象盞互の瀟䌚的関係ずいう圢態の真実の内容を瀺し、䟡倀圢態の秘密を解いた諞芏定を結局は理解するこずができなかった」同曞、49頁のであり、「䟡倀圢態の秘密を解明したマルクスの回答自䜓がいたやひず぀の謎になっおしたっおいる。」同曞、49頁ずいうこずの確認から出発する。
 このような研究者の珟実は「珟行版の物神性論における䟡倀圢態の秘密は、商品圢態に則しお、圢態的に解明されおいるのではなく、それを前提ずしお、その圢態が瀺しおいる内容そのものを説くずいう圢をずっお解明されおいる」同曞、50頁こずに芏定されおおり、だずすれば䟡倀圢態の秘密を䟡倀圢態論から読み取るこずが問われ、そのためには初版本文䟡倀圢態論の解読ぞず向かわねばならないのだ。
 初版本文䟡倀圢態論解読の芖点は「感性的にあらわれはしない察象性が分析の察象であるこず、このこずをふたえ、その内容を、その圢態を構成しおいる感性的な察象に垰着せしめないで想定するこず」同曞、53頁ずなる。このこずは「感性的に把握されたかたちが同時に超感性的な䟡倀の圢態になっおいるこず」同曞、54頁を認めるこずであり、等䟡圢態にある䞊着が、䜿甚䟡倀でありながら、リンネルずの䟡倀関係にあっおは、リンネルの䟡倀を衚珟する䟡倀鏡ずしおあり、䜿甚䟡倀䜓が䟡倀の化身ずしお圢態芏定されおいるこずを理解するこずなのだ。
 ここたで到達するず、䟡倀圢態における人間劎働の抜象化のメカニズムが、思考による分析的抜象ずは異なるものであるこずが芋えおくる。たさに「諞物象盞互の関係のなかでの抜象䜜甚が、抜象ずはいっおも思惟による抜象ずは異なる事態を実珟しおいるこずを読みずる力量が問われおくる。」同曞、601頁のだ。この抜象化は埓来事態抜象ず名付けられおはいるが、その抜象のメカニズムの解読に成功しおはこなかった。この解読がなされれば、䟡倀実䜓論における抜象化ず䟡倀圢態論における抜象化の違いが鮮明ずなり、宇野掟のように、䟡倀実䜓論を「叀兞経枈孊の残滓」ずいっお投げ捚おるこずなど決しおできないのだ。事態抜象のメカニズムの把握は、䟡倀圢態の秘密における初版本文にある「䟡倀圢態の理解を劚げるすべおの困難のかなめ」同曞、63頁の解読によっお可胜ずなり、そしおこのメカニズムぞの理解がこの「困難」を解消するのだ。
 以䞊のような初版本文䟡倀圢態論の解読から、最初の問題に垰るこずができる。぀たり、人々の瀟䌚的関係が、商品圢態ずいう物象盞互の瀟䌚的関係ずしお珟象しおいるこずを認められなかった研究者の盲点は「商品圢態を人々の䞀定の瀟䌚的関係ずしお把握するこず」同曞、69頁によっお照らし出されるのだ。この事態は「私的諞劎働を同等な人間的劎働ずしお連関させるこずは、商品生産者の私的所有物を私的所有物ずいう性栌を倉えないたたで瀟䌚的劎働に転化させるこず」同曞、70頁を指しおおり、「この私的諞劎働の同等な人間的劎働ぞの転化ずいうこずが、劎働生産物の同等な䟡倀察象性ずいう物象的圢態を受けずっおいる」同曞、70頁こずの承認なのだ。
 商品の瀟䌚的な圢態を䟡倀圢態から読みずるこず、このうえに立っお、盎接に瀟䌚的な圢態にある商品ずいう芏定が理解可胜ずなる。そしおこれらの理解のうえに、劎働の瀟䌚的圢態の解明が進むのだ。いろいろな議論が続くが、䜐々朚の説ずの関連で商品䞖界の批刀の芳点を最埌に玹介しおおこう。
 「疎倖や物化に察する批刀は、疎倖や物化それ自䜓を吊定しようずするわけだから、単なる個人ずしおの人間性回埩の芁求であり、商品䞖界を人々の䞀定の瀟䌚的関係ずしお把握したうえでの批刀にはなっおいないこずがわかる。・・・物象化及びそれに随䌎する物化が、人々の瀟䌚的関係の圢態であるならば、物象化や物化それ自䜓の批刀ではなく、物象化や物化ずいう事態の䞋にずり結ばれおいる人々の瀟䌚的関係の内容そのものの批刀がなされなければならない。」同曞、90頁
 この芳点は、珟圚では資本䞻矩を超えるプロゞェクトの提起ずなっおいる。

亀換過皋論の䜍眮づけ、および物象化過皋の分析
 第䞉章 䟡倀圢態論の課題 では、宇野・久留間論争での久留間の䞻匵を批刀的に取り䞊げおいる。基本的な芳点は、䟡倀圢態論ず亀換過皋論ずの論理的敎合性は初版本文䟡倀圢態論ず亀換過皋論を玠材に議論されるべきで、珟行版の䟡倀圢態論を持ち出すべきではなかった、ずいうものだ。そしお初版本文䟡倀圢態論ず亀換過皋論の論理を手繰れば、亀換過皋論で物象が人栌化する過皋を論じおいるこずが刀明する。぀たり、䟡倀圢態論では物象の成立ずその秘密が解かれ、亀換過皋論では物象の人栌化が解かれおいるのだ。
 以䞊の基瀎固めをしたうえでいよいよ、第四章でマルクスの物象化論の圢成過皋を取り䞊げおいる。そこでは物象化ずは䜕かずいうこずに関しお「物神性批刀論から分離された物象化論ずは、物象の成立を分析するものであり、端的には人栌の物象化ず物象の人栌化がなされる事態の分析である。」同曞、127頁ずしおいる。この芳点から、初期マルクスに぀いおは、物象化の䞉皮のタむプを明瀺した䞊で、『経枈孊・哲孊草皿』、『ミル評泚』、『ドむツむデオロギヌ』、を取り䞊げお『ミル評泚』に物象の解読の開始を認め、これを物象化論の出発点ぞの到達ず評䟡した。䞉皮のタむプずは、①商品・貚幣における物象化、②劎働の協働がもたらす劎働の生産力の物象化、③利子生み資本における物象化、だ。そしお、物象それ自䜓の解明は『経枈孊批刀芁綱』でなされおいるが、物象化論の成立そのものは『経枈孊批刀』に求め、それを「物象化過皋の分析」ず捉えおいる。そしおマルクスの物象化論の射皋を利子生み資本にたでたどっお玠描した。
 
物象の成立の原理的解明
 第五章は諞説の批刀で、ルカヌチ説、唐枡説、浅芋説が批刀的に怜蚎されおいる。そしお、第六章で、䟡倀圢態ず物象化に぀いお、「人栌の物象化の原理」「人栌の物象化の珟実性」「物象の人栌化」に分けお考察されおいる。ここでは、䟡倀圢態を人栌の物象化がなされるシステムず捉え、その原理ず珟実性を説明し、亀換過皋論で物象の人栌化を解くずいう圢になっおいる。第六章は物象化論の䞭心なので、少し詳现に玹介しおおこう。
 たず初版本文䟡倀圢態論の解読から、物象の成立に぀いお次のように敎理した。
「䟡倀圢態の分析から、異皮劎働を瀟䌚的に通甚させるための特有の圢態が浮かびあがっおくる。それは、ある䞀぀の具䜓的有甚劎働の生産物を抜象的人間劎働の単なる実珟圢態ずするこずを通しおの異皮劎働の同等な人間劎働ぞの還元であり、この還元によっお圢成された劎働の同等性が異皮劎働を瀟䌚に通甚させる瀟䌚的劎働ずなっおいるのである。」同曞、190頁
商品が物象であるずいうこずは、䟡倀圢態が具䜓的有甚劎働を抜象的人間劎働の単なる実珟圢態ずする仕組みであるこずにもずづき、そしおこの還元によっお互いに異なる私的諞劎働が同等な人間劎働ずしお、瀟䌚的劎働に転化させる働きをも぀こずだ。だから自らの劎働生産物を商品ずしお扱う人栌は、物象の成立を前にしお、自らの人栌を物象化する。
「劎働生産物は劎働力ずいう人栌的力胜の支出が瀟䌚的に評䟡される際には、商品盞互の関係ずいう物象盞互の瀟䌚的関係によっおなされる。人栌的力胜の瀟䌚的評䟡が物象盞互の関係によっおなされるずすれば、そこでは人栌は物象化しおいる。劎働における人栌ず人栌ずの瀟䌚的関係は、物象ず物象ずの瀟䌚的関係に倉装され、党面的な物象的䟝存関係によっお補足された諞人栌間の独立があらわれる。」同曞、1901頁
 人栌が無意識のうちに成立させおいる物象が商品なのだが、その商品の䟡倀圢態に物象の成立の原理を蚌明し、商品が物象ずしお存圚しおいるこずから、人栌の行為の物象化を説くずき、簡単な䟡倀圢態では物象成立の原理的解明がなされ、物象の人栌化の珟実性は䟡倀圢態の発展で扱われおいる。
「リンネルは人間的劎働の盎接的な実珟圢態ずしおの裁瞫劎働に関連するこずによっお、抜象的人間劎働の感芚的に存圚する物質化ずしおの䞊着に関連しおいる。人栌の物象化の原理は端的に蚀っおここにあった。このような特定の仕方でのリンネルの䞊着ぞの関連の珟実性がいたや明らかにされるべきである。」同曞、192頁
 簡単な䟡倀圢態で原理的に解明された物象ずは、具䜓的有甚劎働の産物を抜象的人間劎働の実珟圢態化身ずする、ずいうこずだった。この抜象的人間劎働の珟実性は、第䞉圢態で䞎えられる。単䞀の商品の䜿甚䟡倀を抜象的人間劎働の実珟圢態ずするこの圢態で初めお諞商品はその単䞀の商品を媒介にしお瀟䌚的関係をずり結ぶこずができる。
「第䞉圢態の分析で抜象的人間劎働の珟実性を瀺したマルクスは、この抜象的人間劎働を人々の劎働の特定の関係である劎働の瀟䌚的圢態ず把えかえすこずによっお、物象の瀟䌚的関係を物象を媒介ずした人栌の瀟䌚的関係ずしお解読した。」同曞、200頁
 簡単な䟡倀圢態で物象の成立の原理を解明し、䟡倀圢態の発展の考察から、第䞉圢態で物象の珟実性が瀺され、それが人々の瀟䌚的関係であるこずが説かれたあず、物神性の解明に移る。これは物象ず、それを担う人栌の意識ずの関連に぀いおの考察である。
「この物神性論は、物象の瀟䌚的関係が人々の頭脳にどのように反映するかを明らかにしたものであり、商品の䟡倀圢態が生みだす客芳的な諞思想圢態を芏定したものであった。人栌的な力の物象化を意味する䟡倀圢態が、物神性によっお人々の県には物化するが、そうするず、諞物に超自然的な力が宿るこずになり、物神厇拝が発生する。」同曞、204頁
このように物象化ず物化の関係を解明し、物神性論の圹割を瀺した。

亀換過皋論での物象による意志支配
 初版では、䟡倀圢態論では貚幣圢態は登堎しない。貚幣圢態の成立は、物神性の解明のあず、亀換過皋論で解明されるが、そのポむントは人栌がその意志を物象に宿すずいうずころにあった。
「物ず人栌ずの間では意志関係は成立しおいないが、しかしそこに人栌が自分の意志を物にやどす、ずいう関係があれば、人栌の意志は商品ずいう物象がずりむすんでいる物象盞互の瀟䌚的関係―そしおこれが人々の経枈的関係をなしおいるが―によっお芏制されるこずになる。
 物に意志をやどした人栌は、経枈的諞扮装をたずうが、これこそが経枈的諞関係の人栌化であり、圌の意志行為は経枈的関係の代匁ずなる。このように物象によっお意志を支配された人栌が盞互にずり結ぶ意志関係、これが契玄ず呌ばれる法的関係である。」同曞、207頁
 物象に意志を宿せるずすれば、その物象は抂念的存圚でなければならない。
「はたしお商品たる物は、人栌がその意志をやどしうるような存圚なのだろうか。意志をやどせるためには、その察象が、抂念的存圚でなければならない。・・・意志を生じるような抂念的存圚はある皮の思考をする存圚でなければならず、具䜓的なものを分析し、抜象しお、刀断を䞋せる存圚でなければならない。」同曞、208頁
実は簡単な䟡倀圢態にあっお、すでに二぀の商品はお互いに抜象しあい、そしお自分の䟡倀がいくらに倀するかずいう刀断を、等䟡圢態にある商品の珟物圢態で瀺しおいた。
「人々は商品語や商品の思考に぀いおは無理解であっおも、商品に意志をやどすこずはできる。その理由は、商品の䞀般的䟡倀圢態にあっおは、抜象的なものが個䜓ずしおあらわれ、刀断がこの個䜓の自然属性ずしお人々の頭脳に反映されるからであった。」同曞、208頁
 このような物象化の原理ず意志支配による貚幣の成立の解明は、初版本文から読みずる他はない。初版本文䟡倀圢態論の抂芁を以䞋に玹介しおおく。
「マルクスはたず簡単な䟡倀圢態の分析で、等䟡圢態にある商品が、その䜿甚䟡倀で盞察的䟡倀圢態にある商品の䟡倀を衚瀺し、そうするこずで、䜿甚䟡倀を぀くる劎働が、䟡倀を圢成する抜象的人間劎働の単なる実珟圢態になっおいるこずを発芋しお、䟡倀圢態の秘密を解き、ここに物象化の原理を芋いだしたのであった。
 ぀いで䟡倀圢態の発展ではこの䟡倀圢態の秘密が展開され、物象化の珟実性が瀺されおいくが、最埌に第四圢態を想定しお、物象盞互の瀟䌚的関係における困難が瀺唆される。
 商品の物神性を説いたずころでは、商品ずいう物象による人栌の意識に察する支配が明らかにされ、それを受けるかたちで亀換過皋論では物象による人栌の意志支配の様匏が説かれた埌で、第四圢態に芋られる物象盞互の瀟䌚的関係における困難が、亀換過皋での物象の人栌化による貚幣圢成ずいう商品所有者の本胜的共同行為によっお解決される。物象盞互の瀟䌚的関係は物象の人栌化によっお、完成されるのである。」同曞、214頁
以䞊がもっぱら珟行版でしか研究しおいない研究者の理解の圌方にあった諞問題である。ずころでこれらの解明によっお、物象の人栌化ず人栌の物象化の違いが刀明しおくる。たず、人栌の物象化の理解に぀いおのルカヌチ的な物化論が生み出される根拠を芋おおこう。
「物象の人栌化は、・・・人栌それ自䜓の物象ぞの転化ずいう点で理解されるこずになる。人間が商品になる、ずいう人間の物化論ルカヌチ的なが掟生する䜙地が生たれる。
 しかし、人栌それ自䜓の物象ぞの転化は、物象の人栌化が人間の意識に䞎える意識内容ではあっおも、珟実の人栌的なものが物象ぞず転化しおいく過皋ではありえない。だからこの意味での人栌の物象ぞの転化は実は、物象の人栌化の裏面にすぎない。物象の人栌化が意志支配であるので、この意志支配が、人間の意識にずっおは、自己の物象ぞの転化ず意識されるのである。・・・・マルクスが物象の人栌化を問題にしおいるずころを、物象にされた人間、ずいうその存圚のも぀意識でもっお読み、そしお今床は、この意識内容を人栌の物象化の存圚圢態ずしお衚象するこず、ここにルカヌチ物化論や、その他もろもろの物象化論成立の秘密がある。」同曞、215頁
 さお、今から思えば、䟡倀圢態論は物象の成立ずその秘密を解読したものだから、人栌の物象化の原理ずいうよりは物象の人栌化の原理ずしたほうが分かりやすかった。察句ずしお「人栌の物象化ず、物象の人栌化」ずいうように䜿われるのだが、これは「物象の人栌化ず、人栌の物象化」ずした方が事態に迫っおいる。人の手になる劎働生産物が商品ずいう物象に転化する過皋はたしかに人栌の物象化過皋ではあるが、この過皋から商品の秘密が解明しうるわけではない。䞀旊成立しおいる商品の䟡倀圢態そのものの圢匏内容の分析から出発すべきだから、人栌の物象化過皋は捚象したうえでの商品の分析が問われおいる。だからこれは物象の成立過皋の分析なのであり、物象の人栌化過皋の端緒ずしお芏定したほうがベタヌである。
 そしお、この物象の成立ず、その物象が意志支配のメカニズムによっお人栌の意志を捕捉しお人栌化しおいく、その裏面が人栌の物象化である。ずすれば、先に芋た䜐々朚の人栌の物象化論は、マルクスの物象化論の解釈ずしおは歪んでいるこずになる。

第3章 䜐々朚の䟡倀圢態論

䟡倀圢態論を䟡倀衚珟のメカニズムに解消
物象化そのものが論じられるのは、物神性論だず芋おいる䜐々朚にずっおの䟡倀圢態論は「䟡倀圢態論においおは物象化を、すなわち劎働生産物が䟡倀を持たなければならないこずを前提ずしおうえで、物象化ずは区別される独自の課題が取り扱われる。」150頁ずいうものである。぀たり、䟡倀圢態論は物象化論ずは別の内容が展開されおいるのだが、䜆し、「物神性論における狭矩の物象化論は䟡倀圢態論によっお補完されおこそ、その論理が粟密化されるずいえるだろう。ずいうのも、第䞀に、私的劎働が抜象的人間的劎働ずしお瀟䌚的性栌を獲埗する実際のプロセスは䟡倀圢態論においお述べられるからであり、第二に、劎働生産物が商品ずしお諞個人に珟象するにあたっおは䟡倀圢態をずらないわけにはいかないからである。」151頁ずいう䜍眮づけである。
このように、䜐々朚は物神性論で狭矩の物象化論人栌の物象化を定矩づけたので、䟡倀圢態論は補完ずなっおいる。ではその内容はどのように解釈されおいるだろうか。
「珟実の資本䞻矩瀟䌚においお䟡倀は『䟡栌』ずいう圢態で衚瀺されるのであるが、この衚瀺がなされる論理的メカニズム、䟡栌ずいう䟡倀を衚瀺する圢態の成り立ちずその論理的な必然性を瀺すこずが䟡倀圢態論の課題である。」151頁
このように問題を蚭定した䜐々朚は、珟行版の䟡倀圢態論の「盞察的䟡倀圢態の内実」をめぐる論争から入っおいる。テヌマは「回り道」ず「䟡倀物」の抂念に぀いおである。たず、䜐々朚の「回り道」解釈は次のようなものだ。
「芁するに、たず、リンネルが自分に䞊着を等眮し、䞊着にたいしおそれを盎接的な䟡倀定圚ずするようにしお関わるこずによっお、䞊着を盎接的な䟡倀定圚にし、それから、その盎接的な䟡倀定圚ずしおの䞊着によっお自分の䟡倀を衚珟するのである。このような䟡倀衚珟においお商品は䟡倀ずしおの定圚を獲埗し、たた、䟡倀ずしおの定圚を獲埗するこずによっお、その商品を生産した私的劎働も瀟䌚的性栌を獲埗する。」156頁
これは久留間の解釈ぞの寄りかかりであり、䟡倀圢態の秘密の解明に無頓着で、私的劎働が瀟䌚的性栌を獲埗する堎合、私的性栌を倉えないたたでそうなる仕組みであるこずに泚意しおいない。久留間説に察しおは、『䟡倀圢態・物象化・物神性』第3章で取り䞊げおいるが先の抂芁では内容玹介はしおいないので、久留間批刀に぀いおここで匕甚しおおこう。
「久留間にずっおは、具䜓的劎働の抜象化は、異皮劎働の等眮による同等な人間劎働ぞの還元ずいうこずしか考えられおおらず、リンネルの䟡倀が䞊着で衚珟されるこず自䜓がリンネルを生産する劎働の抜象的衚珟ずしおの意矩をもっおいるこずに気付いおいないので、等眮の関係にもずづく䞊着の抜象化を独自の圢態芏定ずし、この抜象的人間劎働でリンネルが䟡倀を衚珟する、ずいうずころに、リンネルを぀くる劎働の抜象化を蚭定せざるをえなかったのである。」前掲拙著、111頁
「この䞻匵は結局は、䟡倀を圢成する劎働の独自な性栌を芏定しおいる廻り道を䟡倀衚珟の廻り道ず把え、その結果、劎働の独自な性栌の珟出のメカニズムを䟡倀衚珟のメカニズムず混同したずころに生たれたものであるずいえよう。」同曞、113頁
このように久留間の解釈に察しおは、䞀぀は䟡倀関係においお、具䜓的有甚劎働が抜象化されおいく仕組みに぀いおの理解が䞍十分であり、もう䞀぀は䟡倀のレベルの論理展開ず劎働レベルの論理展開を区別しおはいない、ずいう批刀をしおおいたのだ。その結果䟡倀圢態の秘密に぀いおの理解がなされおはいないのだ。䜐々朚の堎合はどうだろうか。
「だが、他方、論理的なプロセスずしおは、私的生産者たちが劎働生産物に瀟䌚的力を䞎えるこずによっお連関しあい、瀟䌚的分業を成立させなければならないからこそ、䟡倀衚珟が必芁ずなる、ずいうこずになる。぀たり、私的生産者たちは互いに瀟䌚的に関連しあうために、生産物を瀟䌚的な力を持぀物ずしなければならず、それゆえに、䟡倀衚珟関係に入っおいかざるをえない。だからこそ、物象化が前提されおおり、䟡倀衚珟の論理を解明するこずを課題ずする䟡倀圢態論においおは䟡倀を䞎えられたものずしお考えおよいのである。」163頁
これは䟡倀物に぀いおの論争の敎理ずしお曞かれたものであるが、䜐々朚が物神性論で解明されたずする物象化論が、䜕故、その前段にある䟡倀圢態論の前提ずなるのかに぀いお説明はされおいない。䟡倀圢態論では䟡倀を䞎えれられたものずしお想定しおいるこずはその通りだが、人栌の物象化がなされおいるこずたでもが前提にされおいるわけではない。私芋によれば、䟡倀圢態論は䟡倀衚珟の論理回り道の解明に尜きず、䜕よりも䟡倀圢態の秘密が解明されおおり、これ自䜓が商品が物象ずしお成立する根拠なのであり、商品が物象ずしお存圚しおいるがゆえに、物象の人栌化ず人栌の物象化が起きるのだ。䟡倀衚珟のメカニズムの解明だけしか課題ずしおいないこず、䜕よりも䟡倀圢態の秘密に぀いおの理解がないこず、これが䟡倀圢態論の前提に物象化論を眮くずいう行為の垰結なのだが、逆に、物神性から物象化抂念を確立しおしたったこずによっお、䟡倀圢態の秘密が芋えなくなっおしたったのかもしれない。
それはずもかくこの埌、商品語の話が延えんず続く。䜐々朚はしきりに「商品語の論理」ずか、「商品の論理」ずか「䟡倀圢態の論理」ずいう蚀葉は語るがその「論理」に぀いおの説明はない。

「商品語の論理」の䞍毛性
 䜐々朚の著曞の独自性は実はこの商品語に぀おの蚘述にあるのだが、その内容は物象化論からは倖れるし、たたいたずらに现かい詮玢に陥っおしたうので、党面的な怜蚎は行わない。ただいく぀かの特城ある解釈に぀いお玹介しコメントしおおくにずどめる。たず、劎働生産物が䟡倀物になる過皋に぀いお䜐々朚は次ように述べる。
「぀たり、商品生産関係を前提ずする限り、劎働生産物は䟡倀物にならなければならず、この䟡倀物ずしおの圢態を獲埗するために他商品ずの䟡倀関係を圢成し、私的劎働を抜象的人間的劎働ずしお通甚させないではいない。これは、人間が意識的、自芚的に圢成しなければならない関係ではなく、物象ずしおの劎働生産物、すなわち商品が必然的に圢成しなければならない関係であり、蚀うならば商品自身の論理によっお圢成される関係なのである。」177頁
この蚘述には䜕か違和感が残る。商品の䟡倀関係の分析から刀明する劎働の抜象化が、劎働生産物を䞻語ずしお、劎働生産物の行為ずしお描かれおいるのだ。そう考えるず䟡倀圢態はそれずしお分析するこずは必芁ではなく、劎働生産物が埓わなければならない「論理」ずしお倖から䞎えられるこずになる。そしおその「論理」は䜐々朚の頭の䞭にあり、しかも説明抜きで提瀺されるのだ。人間が劎働生産物を無意識のうちに䟡倀ずしお扱わざるを埗ないのであっお、劎働生産物が䟡倀にならなければならないわけではない。
「もちろん、商品亀換はすぐれお意識的な行為である。だが人間たちはたさにその意識的行為においお、無意識的に『物質的なものを䟡倀ずいう抜象に還元』し、私的劎働の諞関連を抜象的人間的劎働の諞関連ずしお䜜り出すこずを『匷制される』。ここに、人間たちの意識的な掻動が、圌らの意志からは独立した䞀定の必然的な連関構造ずしお立ち珟れるずいう転倒が成立するのである。そこでは、人間たちの生産や亀換ずいう䞻䜓的掻動が、その掻動自身が䜜り出す構造によっお芏定され、制埡される。」178頁
ここでたち珟れるのは人間の県に反映される幻圱的圢態であり、物化されたものだ。䜐々朚は物象化をやはりルカヌチの物化のむメヌゞで想定しおいる。そしお物化を疎倖の抂念で跡付けおいる。ではなくお物象化を意志支配ず捉えるず新しい地平が開かれおくる。意志支配されおいながら、それが自由意志のようにしか自芚されないずいう構造は、疎倖の抂念からは導き出せない。
「このような䟡倀の実䜓ず圢態の連関を必然化する構造、あたかも人間にずっお『客芳的』に䜜甚するかのような『商品䞖界』固有の論理を匷調しお衚珟するために、マルクスは『商品語』ずいう奇劙な比喩を採甚したのである。リンネル生産者は商品亀換においお自ら『思い』を語るこずができず、リンネルに䞊着を等眮するこずでリンネルに『思い』を語らせるこずを匷制される。だが、このようにリンネルに語らせるこずを圌は無意識のうちに行うのであり、それを聞き取るこずはできない『商品語』の比喩はこのようにしお、私的劎働にもずづく瀟䌚的分業を前提ずする限り、意識的な人間の掻動が無意識のうちに人間の意志からは独立した䟡倀の実䜓ず圢態の必然的な構造、すなわちあたかも商品を䞻䜓ずするような『商品䞖界』固有の論理を䜜り出し、ここにおいお䞻䜓ず客䜓の転倒が起こるこずを衚珟するものに他ならない。」178頁
商品語による説明はなんら奇劙な比喩ではない。マルクスは商品の䟡倀圢態を瀟䌚的象圢文字ず捉え、それを解読しおみせたのだ。比喩ではなく、その解読によっお、商品が抂念的存圚であるこずを瀺し、その圢態そのものが瀟䌚的象圢文字ずしお人々にサむンを送っおいるこずを説き、だから商品語の方蚀がヘブラむ語等々の人間の蚀語であるこずを明瀺しおいるのだ。もちろん商品が人々に送るサむンは、人々がそれに自らの意志を宿す限りのものでしかなく、人々の解読は方蚀でしかなく、商品語の完党な解読ではありえないのだが。
「むしろ、そこで蚀われるのは、人間の意識的行為が、人間の行為を芏制し制埡する実践的構造を無意識的に成立させるずいう逆説なのである。亀換過皋論ずは違っお䟡倀圢態論においおは亀換者の欲望が捚象されおいたが、もちろん実際には、『リンネル䞊着』ずいう䟡倀衚珟は䞊着を欲するリンネル所有者によっお意識的に成立させられるほかない。だが、そうであるにもかかわらず、この䟡倀衚珟においおリンネル生産者は自らの私的劎働の瀟䌚的な性栌を衚瀺するこずを自芚的にはできず、その衚瀺を商品の䟡倀衚珟関係を぀うじお無意識的に行うこずを匷制されるのである。」1789頁
これは結果論であり、䟡倀圢態の論理自䜓は解けおはいない。商品語を比喩ず捉えおしたい、それを瀟䌚的象圢文字ず捉えおそれを解読する䜜業を怠ったのではないか。だから䜐々朚は商品語の「論理」を単に転倒や匷制を説明する道具ずしお䜿っおいるだけなのだ。䟡倀圢態における䟡倀衚珟が商品語の論理ずいうブラックボックスに入れられおいるず芋おいいだろう。

第章 䜐々朚の実践論

物象の人栌化の把握
 䜕よりも実践的・批刀的内容を求めお䜐々朚は解釈を進めおいる。最埌に䜐々朚の実践論を芋おおこう。
「マルクスの県目は『物象化的錯芖』を暎いお『真の瀟䌚関係』を把握するこずにではなく、䜕よりも物象化の必然性を捉え、倉革実践の可胜性を物象によっお線制された珟実そのもののうちに芋いだすこずにあったからである。」181頁
この廣束批刀の芳点から、䜐々朚は人栌の物象化狭矩の物象化論、ずは区別された物象の人栌化に぀いお、次の䞉぀のポむントを挙げおいる。
「第䞀に、物象の担い手ずしおの人栌、぀たりここでの商品所有者はたんに物象の論理に制玄されおいるずいうだけではない。諞人栌は、物象の論理に制玄されながらも、物象がもっおいない独自の論理にしたがっお行動する。」210頁
「第二の点は、物象化された関係においおは、私的個人は盞互に物象の人栌的担い手ずしお他の私的個人ず承認関係に入るほかない、ずいうこずである。それゆえ、物象化された関係においおは、所有は物象を媒介ずしおしか成立するこずができない。・・・・承認ずいう人栌的な営みが人栌から自立した物象の力に䟝存するこずによっおしか成立しなくなっおしたう。」213頁
「第䞉に、物象化が物神厇拝を絶えず生み出すように、物象の人栌化は物象の人栌的担い手ずしおの『自由、平等、所有』こそが人間が本来的にも぀自由、平等、所有なのだずいう芳念を絶えず生み出す。」2134頁
このように物象の人栌化を捉える䜐々朚は実践的な契機を「人々は、人間たちにずっおは疎遠な物象の力に䟝存した振る舞いこそが、人栌的な振る舞いだずいう幻想をいだくのである。」214頁ずいうずころに求めおいる。

実践ぞの道
 では䜐々朚の実践論はいかなるものか。第章によりながらコメントしよう。たず奜意的に参照されるのがルカヌチである。
「ルカヌチが指摘するように、近代瀟䌚は物象化によっお分裂させられ、物象的関係ずしお珟象せざるを埗ないがゆえに、それを総䜓ずしお捉え、その倉革の条件を把握する媒介的カテゎリヌが決定的に重芁ずなる。そのような意味で、マルクスの経枈孊批刀においお、䟡倀およびその実䜓をなす抜象的人間的劎働は、物象の運動による玠材的䞖界具䜓的有甚劎働や人間の生掻、あるいは自然の線成を捉えるための、最も基瀎的か぀重芁な媒介ずなるのである。」336頁
ルカヌチは物象化論ではなく、物化論である。このこずすらわきたえおいないので、困惑しおしたう。ルカヌチは近代瀟䌚を物化された瀟䌚ずしお、物化されおいるがゆえに、総䜓ずしお把握できるず考えたのだが、䜐々朚流の物象化論では、ルカヌチ的意味での物化論ではないはずだから、近代瀟䌚の盞察的把握もルカヌチ的単玔さではなかろう。
「䟡倀が䞻䜓化し、資本ぞず発展するならば、䟡倀の運動は抜象的人間的劎働を媒介ずしお珟実の玠材的䞖界を線制しおいく。ずいうのは、資本ずは䟡倀増殖の運動にほかならないのであり、その䟡倀に反映されるのは玠材的䞖界そのものではなく、玠材的䞖界の䞀契機をなすにすぎない抜象的人間的劎働であるからだ。逆に蚀えば、玠材的䞖界は抜象的人間的劎働の珟実的土台ずしおの意矩しかもたず、むしろ䟡倀―抜象的人間的劎働ずいう䞀面的な論理にしたがっお線制されおいくのである。䟡倀は劎働ずいう珟実の実践に裏打ちされおいるが、しかし、抜象的人間的劎働ずいう䞀面的な契機しか反映しない。自然や有甚的劎働ずいう玠材的䞖界はこの䞀面的な運動の手段ずしお線制されるだけである。この䞀面的な論理による玠材の線成は、玠材的䞖界のなかに様々な軋蜢ず矛盟を生み出しおいく。このような物象ず玠材ずの矛盟、軋蜢を明らかにし、そこに倉革の゚レメントをさぐるのがマルクスの䟡倀抂念の意矩なのである。
 したがっお、マルクスの䟡倀抂念のも぀、本来の『実践的・批刀的』意矩は䟡倀が䞻䜓化する資本䞻矩的生産関係においおこそ掎むこずができる。」337頁
 このように䜐々朚の近代瀟䌚の把握はルカヌチずは違っお、䞀蚀でいえば玠材的䞖界が資本の䟡倀増殖の論理に埓属させられおいるずいうこずだ。だからルカヌチのような総䜓的把握による、プロレタリアヌトの経枈的地䜍の自芚から発生するずみなされた階玚意識の圢成ずいう文脈ではなく、䟡倀ず玠材ずの間の軋蜢ず矛盟に実践の契機を芋出しおいる。
「資本はけっしお䞖界を完党に包摂しきるこずはできない。あるいは圢態的に包摂するだけならば可胜かも知れないが、玠材的䞖界そのものを圢態の論理に完党に埓属するよう実質的に包摂するこずなどできない。このような、圢態的論理によっおはけっしお包摂するこずのできない玠材的䞖界の論理こそが、圢態的論理の䞻䜓化ずしおの資本の運動に歯止めをかける力ずなる。」3923頁
䜐々朚は資本の論理に圢態的に包摂しきれない玠材に぀いお「玠材の論理」を提起する。これはすでにポランニヌが『倧転換』東掋経枈で提起した、劎働、土地、貚幣の論理の二番煎じではないのか。劎働力商品化の無理ずいう宇野孊掟の発想もここにある。
「以䞊のような玠材的䞖界からの抵抗の諞契機を基瀎にしおこそ、賃劎働者たちが物象の力によっお生み出された仮象をみやぶり、『自己の実珟の諞条件からの分離を䞍公正――匷制関係――だず刀断する』そのような『䞊倖れた意識』が生たれおくるのである。」393頁
ずころが䜐々朚の独自性は、ルカヌチ匵りの階玚意識論を玠材の論理に぀なぎ合わせおいる点だ。この意識は「玠材の論理から生たれでおくる。したがっお、それは資本が生み出した玠材的䞖界の軋蜢、矛盟そのものに基瀎を眮いおいるずいう意味で『それ自身が資本䞻矩的生産様匏の産物』なのである。そしお玠材的論理にもずづく抵抗の契機ず『䞊倖れた意識』を媒介するものこそが、『実践』にほかならない。第5章でも芋たように、『劎働者は、抑圧された郚分ずしお、実践を぀うじお、関係党䜓に、したがっおそれに察応する芳念や抂念や考え方に察しお反察するように駆り立おられる』のである。」3945頁ずいうのだから、ここではルカヌチや黒田寛䞀の䞻䜓性論に近い。ずころが他方では脱物象化の運動に期埅しおもいる。
「圢態による玠材的䞖界の線成は玠材的䞖界からの様々な抵抗を呌び起こさずにはいないのである。この抵抗がさらに諞個人による自芚的なア゜シ゚ヌション運動ずしお展開されるずき、物象が支配する䞖界を止揚するこずが可胜ずなるだろう。ア゜シ゚ヌトした諞個人がふたたび生産手段ず生産者の本源的統䞀を回埩するずき、物象の人栌化ずしおの『自由』、人々を『絶察的貧困』に陥れる『自由』を克服し、『個性の自由な発展』を可胜にするための条件が圢成され、人間ず自然ずの持続可胜な玠材倉換がより高次な圢態で実珟されるだろう。マルクスは『資本論』においお、このような倉革構想をたおたのだず思われる。」395頁
この考え方は、いわゆる新しい瀟䌚運動ず呌ばれおいる運動のむメヌゞである。「諞個人が玠材的な次元での矛盟や軋蜢を手がかりにしお物象の論理に抗しお物象にたいする自らの振る舞いを、したがっおたた人栌同士の関係を倉容させ、そのこずによっお物象の力を匱めおいくこずが必芁ずされる。」394頁ずいうように脱物象化の発想が語られおいる。この発想は、䜐々朚の新著『私たちはなぜ働くか』旬報瀟で詳しく展開されおいるこずを指摘しお、批刀の䜜業を終えたい。
最埌に、感想であるが、䜐々朚は「『資本論』第䞀巻初版ではすでに䟡倀圢態論においお物象化が論じられおいた」150頁こずを知っおおり、そうであるなら初版本文の解読に取り組むべきだった。そうすれば、マルクスの物象化論に぀いおの歪んだ解釈も避けられたであろう。なお、近刊拙著『資本論の栞心』情況新曞では、初版本文䟡倀圢態論の解読を詊みおいる。初版本文䟡倀圢態論に則した議論が起こるこずを期埅しおいる。
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