グリーンコープ連合初代会長　武田桂二郎論（前半）

掲載にあたって
ASSB誌7巻2号（1999年6月）より

解題
今回は新しい社会運動の原理の追求というテーマにそって、「武田桂二郎論」を掲載します。武田さんはグリーンコープ連合結成の立役者の1人であり、遺稿集を拝見する限りでは、私にとって敬愛すべき人物です。しかし、谷川雁同様の文学的文章を解きほぐすのに苦労しました。
生協運動は閉じられた運動という性格があり、外部からはその実情をうかがい知ることは困難です。しかし武田さんは一貫して運動を外に開こうとしてこられたのでしょう。『共生』（遺稿集）を読めばグリーンコープの最も大切なことが部外者の私にも伝わってきました.それで「武田桂二郎」論は私のグリーンコープ論でもありますが、しかし、当事者からすれば的はずれな見解を展開しているかも知れません。この点お含み下さい。
なお、全共闘運動体験者やそれに興味をお持ちの方は第1章を精読し、不足であれば、『伝習館・複数の母たち』（三一新書）を手にとってみて下さい。数ある全共闘論のうちの最上のものがここにはあります。次に、生協運動に興味のある方は第５章だけでよいですから目を通して下さい。武田さんの遺稿集『共生』は非売品ですのでなるべく引用を多くしてあります。元気な生協グリーンコープの一つの側面にふれることができるでしょう。第３章、第４章は読者に理解していただけるようには書けていません。しかしここに新しい社会運動の原理が含まれていますので、別の機会に再提起したいと考えています。
第１章伝習館闘争の時代
第1節「伝習館・自立闘争宣言」
１）伝習館闘争の歴史的位置
伝習館闘争を地域で受けとめ、闘った武田桂二郎の思想を見ていく前に、伝習館闘争の歴史的位置を確定するところから始めよう。
闘争の全体像を描く余裕はないが、闘争宣言の日付が1970年６月６日、そして、自立闘争宣言の日付が同年11月29日とある。この時期は70年安保闘争が敗北し、社・共両党や総評の反対運動が終了したものの、全共闘、反戦青年委員会や、武装闘争を指向した部隊の闘争は継続されていた。権力に対する闘争の終息が大衆的に確認されたのは、恐らく71年に連合赤軍の粛正が明らかにされた時点だったろう。70年安保闘争が、68年10月８日羽田空港での山崎君虐殺を契機に大衆的昂揚が始まったことを考慮すれば、伝習館闘争はこの大衆運動が急速に終結にむかっていた時期に開始されたのであった。
次に伝習館闘争は全共闘運動の思想を継承している。このことは「自立」の提起や「関係の構造そのものを変革」するという運動方針や、自己の教師としての「犯罪性」をどこまで自己に拒絶できるか、といった伝習館闘争の基本思想のなかに確認できる。思えば、「自己否定」「関係の革命」「自立と連帯」が全共闘の思想だった。
いまこの伝習館闘争の歴史的位置をふまえたうえで、「伝習館・自立闘争宣言」から、武田の思想につながる問題提起を拾い出してみよう。
２）「自立闘争宣言」
「自立闘争宣言」の作成には武田も深く関与していると思われる。というのも、「言語革命」の思想がすでにここに見られるからである。
「われわれは生活によって連帯するのではなく、われわれが生活をとおして創出するフィクションによって連帯します。生活からフィクションを媒介するのは想像力であり、相互に自律しつつ他律しあう生活と想像力の関係において、生活の自立性を必然化するのが自然史であり、想像力の自律性を自然化するのが思想であります。連帯とはすぐれて思想の闘いにほかなりません。」（『伝習館・自立闘争宣言』三一新書、28頁）
この言葉は60年安保・三池闘争につぐ大衆的昂揚をもたらした70年安保闘争の敗北と大衆運動の後退局面という伝習館闘争の歴史的位置をふまえて理解されねばならない。大衆運動が昂揚に向かっている時代なら、生活で連帯が可能であり、運動で連帯が可能だったろう。しかし運動の昂揚が去ってしまった局面で、生活において人々は多極化し、運動には背を向けてしまっている。このような時期に闘いを継続しようとすれば、組織力を頼めないとすれば、思想の力しか残されてはいなかった。そして、この思想の力を紡ぎ出す方法について「大衆の情況への下降」ということが提起されている。
「旧左翼の体制化と総評の右翼解体への傾向は、いうまでもなく、これらの情況をつらぬく陽音のリズムを陰音のリズムを媒介として反体制化する言語＝文体の欠落によってもたらされたものです。いわゆる新左翼ないし反戦派に属する人たちが、たしかに或る時点まで、現実の闘いには敗退しながら、意識面において広汎な大衆的影響を獲ち取ってきたのは、彼らがこの二つのリズムを一定程度に媒介しうる新しい感性の論理に恵まれていたからであり、それが大衆のかくれた感性のヒダのひとつにふれえたからであります。しかし、感性の論理はただちに言語＝文体ではありません。新左翼ないし反戦派に属する一部の人には、ラディカルの意味をたえず大衆の原意識に還元し、たえず大衆の原意識と現意識の対立過程のなかで捉えなおし、その対立の止揚過程を権力支配から奪取することによって、想意識の革命的疎外態である革命的言語＝文体を着実に人民内部に創出してくという、語の真の意味における情況への弁証法、すなわち人類史と人間史の対立を止揚する弁証法を欠いたため、その影響が大衆の意識にようやく定着していくにつれて、かえって大衆から離反していく傾向を深めています。……もちろん、その反面において、一部の新左翼ないし反戦派の流れに属する人々は、これらの傾向の底を流れる人類史の構造を鋭く見つめ、新しい自己自身の言語＝文体を求めて、さらにふかく大衆の情況へ下降をはじめました。そして、そこに早くから下降していた旧左翼少数派の人々、むしろ旧左翼にすら属さなかった人々との新しい結合を獲得しつつあります。われわれは、このようにして左翼における新旧の概念規定が大衆的に止揚されていく事実の中に、新しい大衆発見・大衆創造のひとつの典型を見ることができます。」（34～５頁）

運動が大衆運動として展開しえない時期に革命の意志を持続させていく方法として「大衆の情況への下降」が打ち出され、しかも思想的課題としては人類史と人間史の対立を止揚する弁証法があげられている。
あと自立宣言の末尾には四つの任務がかかげられ、その三項目に柳下村塾の建設と「教育における新しい人間関係を実践的に模索」（37頁）することが述べられ、ここで「下からの大衆発見・大衆創造の場としての地域論＝社会構造論を完成」（37頁）することが約束されている。
この柳下村塾については、弁護士として闘争にかかわった倉田令二朗が述べているところによれば、武田が自宅を改築し、託児所、若衆宿、老人宿、学習室によって構成された地域の拠点で、1972年５月に設立されている。そして託児所設立後約１年半の間の経過をまとめたものが『伝習館・複数の母たち』（三一新書）であり、これに収録されている「柳下村塾、内化の思想」が武田の思想の全体像を明らかにしている。つぎにこの文書にもとづき、武田の思想をたどってみよう。
第２節内化の思想
１）言語革命
武田の思想は論理的ではない。その原因は対象をそれとして固定し、それを分析していく、という方法をとってはいないことによる。武田にとって論じている対象は男であり、女であり、また時間であり、空間なのだが、それらは実は「内化の思想」を語る道具だてなのだ。
武田によれば「革命は一貫して言語革命として遂行される」（『伝習館・複数の母たち』三一新書、42頁）ものだという。とすれば、武田が発する言語は「革命的に自立」（24頁）した言語だということになろう。だからわれわれはそれを体制言語のようなとらわれた言語として受けとめるのではなく、その言語がどのような革命を構想しているかということに想像力を働かせてみることが必要だろう。
２）関係の問いなおし
武田は伝習館闘争を通してかかわってきた党派や運動体やイデオロギーに対して批判したうえで、自らの闘いを関係を問いなおすというところに据えている。世間で分類されている政治闘争や労働運動や市民運動といった区分に異和感を表明しつつ、自らを生活者と位置づけ、伝習館の闘争との関連で、この関係の問いなおしを次のように位置づけている。
「〈伝習館〉は〈受験体制〉であり、〈受験体制〉は〈天皇制〉であるというただその一点において、三教師はわたしたち生活者をつらぬいたのである。かれらが〈受験体制〉の中の教師と生徒との関係を問いなおすことによって、〈教育〉そのものを問いなおしていったのは、わたしたちに〈生活〉の中の親と子、夫と妻、その他あれこれの関係を問いかえすことによって、〈生活〉そのものを問いかえせと迫ることであった。それがまっしぐらに〈天皇制〉のなかの〈国家〉と〈社会〉の関係を問いただす共同作業につながっていったのは、〈生活〉の中にこそ〈政治〉と〈労働〉をとらえかえす視点があったからである。」（12頁）
生活のなかのあれこれの関係の問いなおし、この視点から武田の言語は発せられている。「内化の思想」とは、この問いなおしの武器なのだ。
３）政治革命と社会革命
武田が「内化の思想」をかかげたのは、関係の問いなおしに自足することを回避していく、という意義をもっていた。もともと武田がこのテーマにとり組んだのは、従来の左翼思想が国家と社会の関係を根本的に見ていず、また直面している「移動期が人間連帯の再編過程である」（13頁）という認識があったからだった。
そこで武田は「社会共同体レベルにおける社会革命－経済的・身体的拘束およびそれが外化する社会幻想からの解放－と、国家共同体レベルにおける政治革命－法的・イデオロギー的拘束およびそれが外化する国家幻想からの解放－との相互媒介関係において」（14頁）闘うことを構想している。
その際に人々を捉えている幻想を形成していく過程を貫く論理を〈外化の論理〉ととらえ、これに〈内化の論理〉を対置するところから運動を出発させたものが「内化の思想」だった。
４）日常性と非日常性
ではこの「内化の思想」の発端はどこにあったのか。武田は社会と国家の関係を、「〈日常性〉の二重構造－〈日常性〉の中の〈日常性〉と〈非日常性〉との対立」（17頁）と捉え、この日常性の深渕にある理不尽な暴力的な本質としてある非日常性をあばき出すものとしてすぐれた闘いを位置づける。このあばき出されたものも、いずれ日常性の引力にひきもどされて無明の闇にかえるがしかし、残像は業火となって残る。人類の文明史2000年にわたって積もり積もった業火が「市民社会の腐食部分を焼きつくして、焦土によく人間連帯を回復しうるか」（18頁）という見地から「人類史を見きらねば現代は見えてこない」（24頁）という基礎視座が据えられる。2000年間に積もった業火を全て集めて一つの力にしようというわけである。これが武田が人類史にこだわる根拠となっている。
「〈人類史〉はいつも〈百姓〉の顔をしている。」（26頁）百姓は数千年の時間を耐えてきていることで無表情となっているが、これは時間を内化しているのではないか、60年代半ばに武田はこのことに気づき、「内化という言葉がわたしの頭にはじめて浮かぶ。」（27頁）武田の内化とは、何よりも「時間の内化」であった。
第３節都市と村との連帯
１）村と都市
武田は解体しつつある村、人と物資を売りつづける関係からついに一度も自立することのなかった村を「じつは子を生み、子を売りつづけてきた母そのものにほかならない」（29頁）と見ている。村が母のイメージで捉えられるとすれば、村の解体とは、「子を売る母から身を売る母への移行」（30頁）となる。
ところで都市と村との間には、「村内部の移動と村から都市への移動、都市内部の移動とその村への逆立という移動の四コース」（31頁）があるが、このからみ具合を決定するものは「それぞれの階級と階層を外化しながらその受容力を決定していく生産力の展開と、その意識的・理論的反映である生産力論としての移動論である」（31頁）が、ここで注意しておくべき点は「村はこのような移動を通して都市を外化していくとき、つねに都市が都市になり切れない部分を頑強に補強しつづけてきた」（31頁）ことである。
だから自然村としての村の解体とは、「村全体が身売りに転じたとい6
うことであり、それは必然的に都市それ自身の解体を意味してやまない。」（31～２頁）「このように、都市による村の破壊は同時に村による都市の破壊として進行しているわけであるが、残念ながら、この相互破壊は所詮共倒れにすぎない」（32頁）とすれば、「わたしたちの未来は、都市からも村からも意識的に自己疎外した〈異物〉の群れが、おのれの移動をそれぞれどのような結合において再び都市と村に内化しうるかにかかっていると思う。」（32頁）
このような観点から、武田は主体の問題に接近している。
２）変革の主体としての子
ではこの内化は「村の思想」とか「里の思想」だろうか。そうではない。「問題はただ一つ、父だ！」（32頁）都市（父）こそが問題なのだ。「わたしたちは、父が変われば母も変わる関係をひたすら見ている。」（33頁）
武田は柳下村塾の思想について「一度あらゆる思想を拒否して、居民のぼうぼうとした時間意識の底にたどりつき、そこから一挙に反転しようとする意志」（32頁）と述べている。
この見地から問題はただ一つ、父だと述べられている部分を父を都市に母を村におきかえて紹介しよう。
「わたしたちは、都市（父）から犯され続けてきた村（母）をわたしたち自身に拒絶するが、村（母）を捨てて、村（母）の子として都市（父）の世界に身を売るような真似はしないであろう。わたしたちは、あくまでも村（母）の内部に他者としてあり、そこから村（母）が外化した都市（父）の世界の構造、むしろ村（母）が都市（父）を外化していく過程の構造を問い続けていく。」（33頁）
父（都市）と母（村）と子、というときの子とは、実は、都市でも村でも選択できる主体であり、母（村）にとっては子を父（都市）として外化することで父（都市）を外化していくとすれば、この主体的構造こそが問題にされるべきなのだ。
「都市（父）と村（母）との関係の構造をかえる契機としての他者、都市（父）を村（母）に内化することによって都市（父）でも村（母）でもなくなった子（主体）、それがわたしたちの存在論的な志向である。」（33頁）
３）新しい連帯の構造と場
父と母は次に国家（父）と社会（母）にアナロジーされる。「父＝国家と母＝社会の二重性には、父＝都市と母＝村の二重性が影のように交錯している」（35頁）というのだが、このアナロジーには若干の無理がある。というのも、父＝都市のイメージのなかには、父を「外化された生産力」（33頁）と捉える視点があった。とすれば、父＝「外化された生産力」は国家ではなく、社会の方に属しているのである。すべてを父と母とにアナロジーしようとすれば、こうした論理上の矛盾が生まれざるをえない。
この矛盾は別にして、武田の新しい連帯の構造と場についてのメッセージだけは受けとめることができる。
「わたしたちは村内部にあって村が〈屈辱〉する過程とたたかい、都市居住者は都市内部にあって村が〈復讐〉する過程とたたかっている。ただそれだけの違いがあるにすぎない。共通して目指すところは、子に媒介された新たな父母の結合、すでに都市でも村でもなくなったがゆえに、第三の都市とも第三の村ともよびうる新しい連帯の構造と場である。」（35頁）
このように、子とは、都市でも農村でもない、新しい連帯の構造と場であった。
第４節内化論の展開
１）自律土着の基礎視座
都市と村から他律的に規定された子の存在の構造は「他律土着」であろう。従って「新しい連帯の構造と場」を構造としてもった子は「自律土着」となる。「自律土着」について、すこし長いが、内化論の原点でもあるので引用しておこう。
「わたしたちが『自律土着』を志向するとき、その第一の基礎視座となるのは、人間の他律性は〈自然〉および〈生産力〉の自律性と対概念であり、その〈生産力〉は〈自然〉から外化された〈時間〉の論理にほかならぬということである。人類はかつて〈時間〉に内化されることによって〈自然〉に内化されていたが、それは〈時間〉そのものが〈自然〉に内化されていたからである。これは人類が直接的に〈自然〉に従属していた時代、いいかえると〈自然〉が直接的に人類を『他律土着』させていた時代、すなわち土着前史にあたる。人類はやがて農業の発明によって〈自然〉と異質な生産関係をとり結び、〈自然〉に働きかける〈主体〉として自己を〈自然〉から外化すると同時に、〈時間〉を〈生産力〉として自己および〈自然〉から外化し、その論理に従属することによって語の真の意味において『土着』しうる。これが土着の第二段階、すなわち人類が〈生産力〉を媒介として〈自然〉に『他律土着』する段階であり、その有史が日本列島において少なくとも二千数百年におよぶのである。したがって『自律土着』とは、人類がいったん外化した〈生産力〉をふたたび自己自身に内化しつつ、同時に〈自然〉をも内化しうるよう再度その〈自然〉に向かって自己を外化していく意志とその現実的諸関係の構築である。
第二の基礎視座は、〈生産力〉に先行するもうひとつの時間的概念、すなわち〈移動〉である。人間は〈移動〉する必要がなければ〈生産〉しない。そこには〈移動〉が〈生産力〉を外化し、外化された〈生産力〉がさらに〈移動〉を外化していく地獄の因果関係が展開している。
…中略…
わたしたちの第三の基本視座は、言うまでもなくこの〈内化〉である。」（36～40頁）
武田が構想する「自律土着」とは、人類が外化した生産力で自然に他律土着している現状における諸関係を組みかえることだった。
２）内化の三つの条件
次に、「革命は一貫して言語革命として遂行される」（42頁）という立場から、武田は内化の三つの条件をあげている。
「(1)言語の内化＝個人の無名化
(2)移動の内化＝人間の共同化
第一群－都市の内化、文明の内化、科学の内化
第二群－工業の内化、労働の内化、分業の内化（起点）
第三群－医療の内化、育児＝教育の内化、死者の内化
第四群－権力の内化、制度の内化、言語の内化
(3)時間の内化＝生産力の内化」（43頁）
今日の社会では言葉を発したときに、その言葉が生産力体系にとらわれてしまうという現実がある。武田はこの言語の外化に内化の論理を対置する。
「わたしたちはまず内化に向けて言語を外化し、わたしたち自身の言語体系をかれらの生産力体系と革命的に対立させるところから闘いを始めねばならない。言語を真に内化しうる契機は〈闘争〉である。しかし『闘争』が〈闘争〉として成立しうるためには、そこで創出された集団言語が〈生活〉の場で〈運動〉化される質をもっていなければならない。」（44頁）
ではこの言語の内化が何故個人の無名化となるのか。
「個人の無名化とは人間の身体的存在からあらゆる個人幻想が削ぎ落とされた自由な状態、すなわち〈実存〉への回帰をいう。個人の無名化を集団的に保証するのが人間の共同化である。そこでは言語は自由に個人を通過するがゆえに、かえって私的に所有されることがなく、すべて共有を通して集団に内化される。」（44～５頁）
ここで述べられている言語の内化＝個人の無名化＝人間の共同化、という設定が可能となる条件は時間の内化がゆきつく先としての〈故郷〉の存在である。
「世界では普通土着からの移動という概念を立てるが、わたしたちは移動と土着、すなわち移動が論理的に土着に先行し、土着は移動の必然的形式であるという考えを立てる。農業以前と以後を問わず、〈故郷〉とは移動が土着によって空間化し、空間の時間性を喪失していく以前の自由な〈交通〉状態、したがって歴史上どの時期にもまだ実現されたことがなく、これから意識的に創出していくほかない全般的な〈共同性〉意識への純粋な希求、ないし渇きとして人類に内化している。」（45頁）
この〈故郷〉論が恐らく武田の「内化の思想」のよりどころとなっているのだろう。
この＜故郷＞の設定は、先に「日常性と非日常性」のところで見た2000年の業火と対になって、武田の革命運動論の根拠となっている。
３）内化を保障するものとしての〈地域〉
この時間が内化されていく〈故郷〉とは、〈地域〉のことだった。
「わたしたちが『自律土着』する空間、すなわちコンミューン化された〈地域〉とは、まず子に媒介された新たな父母の結合、すでに父でも母でもなくなったがゆえに、第三の都市とも第三の村ともよびうる新しい連帯の構造をもった場である。…
わたしたちが夢想する〈地域〉の第一の条件は、地域社会が都市として外化の掃き溜めになることもなく、村として外化の出納係になるのでもなく、それ自体、労働と生活、生産と消費において完結した地域空間として自立することによって、かえって地域間の自由な〈交通〉が保証されるような土着構造である。」（45～６頁）
このような〈地域〉を形成していく条件としては、時間の空間化と対決し、空間を時間化していかねばならない。「マルクスが措定した〈労働階級〉は、外化された〈労働〉の場で、外化されたこれらの文明論・都市論・科学論をつらぬく〈人間外化論〉と対決し、〈労働〉を〈生活〉に、〈生産〉を〈消費〉に内化していく先頭部隊、すなわち空間を時間化していく尖兵としてはじめて史上にタダシク位置することができる。」（48頁）
武田は〈地域〉現出の二つの条件、(1)労働と生活および生産と消費において自立すること、(2)労働を生活に、生産を消費に内化すること、をあげたうえで、第三の条件について述べている。
「第三の条件としてあげるのは、外化された専門家と専門機関を地域に内化すること、すなわち職業＝職種間の分業を集団的に克服して、地域内に専門言語と大衆言語の自由な交通を保証していくことである。専門は新しい集団性の中でかえって平等に尊重されるであろう。この三つの自由な交通に媒介されて、言語がグローバルに開かれたとき、時間の空間化は空間の時間化と一致しうる契機をはらむ。その瞬間に現出するのが〈地域〉である。」（54頁）
では〈地域〉とはどこにあるのか。「〈地域〉とはやがてあなたが死守する闘いの〈場〉にそっと送りこまれてくる、いまだほんの一包みの、しかし無限の回転能力をもつ小さな連帯の核エネルギーにすぎない」（56頁）。ということは、〈地域〉とは言語のなかにあることになる。
４）複数の母たち、柳下村塾の現実
言語の内化を保障する人間の共同化の手がかりを武田は託児所での〈母〉の〈集団化〉からつかむ。
「『複数の母たち』は、みずから〈集団化〉することを契機として私事化した子供との関係、私事化された夫との関係、すなわち〈母〉と〈女〉を同時に越えようとしている。それはまた、〈母〉に内在する〈父〉、〈女〉に内在する〈男〉そのものを越えることでもある。かれらが〈集団〉の中に見ている〈地域〉、〈内化〉された〈時間〉のイメージは、彼らが子供との関わりから捉えかえした〈身障者〉と〈健全者〉との関係に鮮やかにクローズ・アップされる。」（59頁）
〈身障者〉と〈健全者〉との関係については、保育や教育の問題としてとりあげれば、興味のある内容が展開されているが、ここでは言及しない。
「わたしたちは、〈身障者〉を〈生活〉に〈内化〉したとき、はじめて〈時間〉を〈内化〉した〈空間〉、すなわち〈地域〉の最終的なイメージを画くことができる。」（60～１頁）
「わたしたちはこの〈地域共和国〉の映像を、ささやかな託児所に仮想しつつ、ひとまず〈母〉の〈集団化〉にエネルギーの大半をさこうとしている。『複数の母たち』は柳下村塾の原点である。言語革命の基像である。」（63頁）
「柳下村塾・内化の思想」は、実にこの託児所での実践の位置づけとして、人類史という壮大なスケールから語られた物語だった。
第2章グリーンコープ結成
１）託児所から生協へ
柳下村塾の土台となった託児所ではたべものと環境問題に気をくばってきたが、1978年には親の会を中心に「たべもの共同会やながわ」が会員400名で発足した。この共同購入会をもとに82年には600名の組合員で共生クラブ生協やながわを設立し、86年には組合員3000名へと急成長している。この生協設立を通し、武田は85年に福岡生協連顧問に迎えられ、たがわ生協争議の解決を目的とした「新しい連帯のための特別委員会」代表に就任する。
２年間の身をけずる活動で87年にたがわ争議は解決し、翌88年の生協連合グリーンコープ創立にこぎつけ、初代会長に就任する。以降94年８月に死去するまでグリーンコープの発展に力をつくすことになる。
２）共生クラブ生協の原点
託児所の親の会が中心となって設立された共生クラブ生協については武田自身が作成した記録（グリーンコープ生協さが設立準備会への紹介文）がある。そこに設立趣意書が収録されているが、それには「母親連合の力で有害物質の人体攻撃と闘おう」という呼びかけがあり、自分たちの運動が「子を生み育てる母親の運動」であって、それをあらゆる人間関係を問い直そうとする大きな流れのなかに位置づけ、今日支配的な父性原理をしりぞけて母性原理を志向すると述べられている。
そして、たべもの運動を始めるにあたって加工食品中心の食構造を具体的に反省する手がかりとして、無農薬野菜の自主生産と自主配給および地場産業との提携を運動の基本にすえることが主張されている。全体の旗印としては「自立・連合・共生」がかかげられた。
あと、共生クラブ生協の原点として武田は６項目をあげて紹介しているが、その項目だけを引いておこう。
「食べ物は子育ての感覚と手続きで、
母親が運営の中心に
有機無・低農薬野菜と取り組む
食べ物ほんらいの姿にかえろう
豊かな地域活動をくり展げる
全県連帯を推進する」（『共生』武田桂二郎遺稿集、グリーンコープ発行、104～７頁）
この紹介文には福岡地区事業生協連合（ちくれん）の現状も報告されているが、それによれば、福岡県の８生協が連合に参加していたことがわかる。これらの生協を県規模でまとめて連帯し、さらに九州全体の連帯へ、具体的にはちくれんと共生社との連帯にむけ、武田はたがわ生協争議を解決することで大きな流れをつくっていくことになる。
３）学習会資料
柳下村塾の出発に当たり「伝習館・自立闘争宣言」でかかげられていたものは「大衆の情況への下降」であり、「関係の構造そのものの変革」であり、「人類史と人間史の対立を止揚」することであり、「革命的言語＝文体」の創出だった。
これらが「内化の思想」でもって統一的に捉えられ、「関係の問いなおし」から始まり、「新しい連帯の構造と場」としての「〈地域〉」づくりを「〈母〉の〈集団化〉」という実践的課題と結びつけたものが「柳下村塾・内化の思想」だった。そして、「内化の思想」という問題設定からもたらされる不可避の課題として、「人類史を見」きることがあげられていた。
1982年の日付を付されている「学習会資料」は、柳下村塾発足10年の節目に当たり、「内化の思想」の見地から人類史を整理し、それにもとづいて実践的な方向性を提起しようとする壮大な試みだった。ここで展開された人類史についての思想は、グリーンコープ宣言に盛り込まれているし、また、ここでは骨組みだけしか示されていなかった実践的な方向性は、グリーンコープ会長としての活動を経験するなかで次第に具体化されていった。

「学習会資料」はまず「身体の進化」から論を説きおこしている。宇宙の始まりから生命の誕生、細胞の進化へと進められ、性差、人類の直立歩行へと展開されるが、そのポイントは、「女が男を分化する」というところにおかれ、ここから、デカルト以来の精神と身体の二元論の克服が「精神に対する身体の、男の対する女の、疎外されたものに対する疎外したものの復権を計り、両者の相互作用関係をより高度に実現する」（274頁）こととしてはかられている。つまり、「上位疎外態のより直接的な下位疎外態への内化」という「内化の思想」が、人類史における女からの男の分化という身体的な発生上の類的及び個的歴史過程をふまえることで根拠づけられているのである。
「身体の進化」に続き「性と直立歩行の進化」「家族の進化」「言語と労働の進化」「社会の進化」というように論議が展開されているが、その方法論が次のように述べられている。
「人間の分化した性と直立歩行は、それに伴う言語と労働（生産）の進化、意識の進化、そしてそれを総括する社会の進化と共に、次のように進化する。但し、一応時間的な序列に従って叙述するが、現実的には時間的に早いものは遅いものによって決定的に媒介・止揚される。」（277頁）
人類史の見きりと共に注目しておかねばならないのは、言語を信号系から説明する言語論と、社会を言語規制とコミュニケーション論から捉える社会論であるが、これらは90年代に入ってより詳しく述べられているので、ここでの紹介はひかえておく。
実践的な方向性としては結語で次のように述べられている。
「(1)男（上位疎外態）が女（下位疎外態）に向かって自己解体する。
人間→自然、国家→社会、都市 →農村、精神→身体
資本、市場、賃労働、分業→新しい連帯
(2)自己外化のための自己外化＝女
歴史と社会の自意識＝男
(3)自己解体＝自己外化の変革＝相互透明化」（289頁）
ではこの方向性はどのように具体化されていったであろうか。
４）たがわ生協争議
『共生』にはたがわ生協争議に関連する二つの文書が収録されている。「連帯への記録」と「提言(1)」がそれである。
「連帯への記録」で述べられている思想的な内容は、第一に国家と社会の関係であり、第二に上部構造と下部構造の関係である。
国家と社会の関係については一般原理として次のように述べられている。
「近代市民社会の成立によって実態的には同じ国家と社会が論理的に分離し、社会は国家からの相対的な自立と最終的な国家廃絶の契機をつかむと同時に、その国家廃絶のうらづけとなる社会の完全自立を実現するため、市場原理に支配された利益社会の止揚とそれに前後する新たな人間解放、すなわち二次的な共同社会の創造とそれを支持しうる人間のより高次の自立と連帯を次の課題として残した」（82～３頁）
ここで述べられている「社会の自立」については、「分業が階級・階層支配ではなく人間連帯・人間実現として機能する社会のイメージ」という注記がなされている。
この一般原理にもとづき、次に「関係の構造と止揚の方法」が述べられているが、そのポイントは、「後から疎外されたものを漸次疎外したものに向かって不可逆的に止揚解体していくのが人間にとって唯一の、自由な、従って主体的な運動であるとわたしたちは考えています。国家と社会の関係についてはもちろん社会の自立と国家の廃絶を志向します。」（84頁）というところにある。
例えば、国家は社会から疎外され、男は女から疎外され、そして疎外されたものが疎外したものを逆に支配するという構造があるのに対し、疎外されたもの（国家、男）を疎外したもの（社会、女）に向かって止揚解体していく、つまり、社会と女を自立させていく、これが方法だとされている。
次に上部構造と下部構造の関係については、下部構造とされている経済も、「自然との関係では社会という上部構造に属」（85頁）することに注目し、人間社会を自然の上部構造とみなすことで自然という下部構造を重視するという下部構造重視の新しい意義を説いている。そのうえで止揚の方法としては、「分業をタテの支配系からヨコの連帯系に組み替えること」（86頁）を提案している。
５）グリーンコープ宣言
グリーンコープ宣言の起草は武田にとっては、その思想を具体化していく契機となったと思われる。この地球上での太古の生命の発生から説きおこされた宣言は、まさに「人類史と人間史の対立を止揚」することを志向し、「学習会資料」でその内容を解明してきた武田にとって、その止揚に向けての大衆的な問題提起としての意義をもっていた。
すでに「連帯への記録」で明らかにされた、「関係の構造と止揚の方法」をふまえて、宣言の思想を捉えかえしてみよう。まず農耕の開始以降の今日までの歴史が次のように項目だてられている。
「１．ヒトの群れ社会から人間社会が分化する。
２．自然的な生産から農業的な生産が分化する。
－自然的な時間から歴史的な時間が基本的に分化する。
３．農業的な生産から工業的な生産が分化する。
－自然的な時間から歴史的な時間が本格的に分化する。
４．社会から国家が分化する。
５．地域から職場が分化する。
６．身体から精神が分化する。
７．南から北が分化する。
８．自然物質から合成物質が分化する。」（３頁）
この分化されたものと分化するものとの関係を分化されたものを分化したものにむかって止揚解体していく、という見地から、農業の自立、社会の自立、地域の自立、身体の自立、南の自立、といったイメージが導き出されてくる。そしてこのイメージは、人類史と人間史の対立を止揚するものとなる。そして、この止揚は分化（疎外）という関係の構造そのものの変革を意味するだろう。まさに武田が開始した「大衆の情況への下降」は、母親連合に到達し、ここから女の自立を媒介に「革命的言語＝文体」を創出する闘いに入っていったといえよう。
第3章内化の思想の体系化
１）「無名舎」からの思想
『共生』に収められたグリーンコープ時代の活動の記録をみると、武田は非常にすぐれたコーディネーターとしての役割をはたしていたことがわかる。現実政治家としての鋭いセンスの他に、やはり深みのある「内化の思想」の血肉化がその役割を可能にしたのであろう。そこで、グリーンコープでの活動の記録、つまりは武田の実践について追っていく前に、柳下村塾（92年に無名舎に改称）から発信された後期の思想を見ていこう。
『共生』には「無名百年より」という最終章に７編の論文が収められている。｢原風景が崩壊する」には1990年、「内化―工業と農業に内化する」には1993年の発行年が記録されている。先に見た｢学習会資料」にすでに述べられていた言語を信号系から説明する言語論と、社会を言語規制とコミュニケーション論から捉える社会論がこの二つの論文では一層詳しく展開されている。
２）「言語規制の自立の論理過程」
「原風景が崩壊する」は、『思想』78年11月号の高橋義孝論文を手がかりに原風景についての考察を進めているが、この高橋論文について「最近」と書いていることから、書かれたのは80年前後のことかも知れない。それで82年の日付がつけられている「学習会資料」とセットにして武田の言語規制論をみてみよう。
まず前提にあるのが、言語と意識を三つの信号系から説明する意識論で、第一信号系とは前コトバ的感性的認識の世界、第二信号系とは人間に特有のコトバ的信号系の世界、第三信号系とはコトバとしては指向対象のない数や論理の世界、というように区分される。そのうえで言語規制の自立の論理過程について次のようにまとめている。
「(a)言語の獲得によって、先ず人類のコミュニケーションの位相が三つの信号系に階梯化される。
(b)次に、人類の即自的なコミュニケーションが、第一信号系においては、内部コミュニケーションの疎外による内部コミュニケーションと外部コミュニケーションの対関係への分化として、第二信号系においては、自己外化の疎外による自己外化とコミュニケーションの対関係への分化として、第三信号系においては、言語規制の疎外による言語規制と自然規制の対関係への分化として対自化される。
（自己外化＝言語の時間性の本質、コミュニケーション＝言語の空間性の本質）
(c)さらにコミュニケーションの対象が外部（自然規制）から次第に内部（言語規制）に移行し、内部コミュニケーションの対象に転位する。すなわち内部コミュニケーションが自立する。そしてそれを通して言語規制が成員に逆立ちしてくる。」（「学習会資料」『共生』287頁）
「学習会資料」はこのあと「言語規制の自立の現実過程｣として、神、王、資本がそれぞれの段階をなすものとしてあげられ、ついで「言語規制の自立の意識過程」として、先の三段階を意識過程から捉えかえし、さらに「自己外化のための自己外化」と「自立のための自立」という項がつづく。何となく言わんとしているところは了解できるが、しかし、論理的ではないので理解しがたい。
３）分化、外化、内化、疎外
そこで『共生』から武田独特の用語の説明となっている部分を拾い出すことから始めよう。
まず最も基本的な用語である、分化、外化、内化、疎外について。
「分化するとは私の場合、外化すると疎外するの二重があるという意味で書きました。」（178頁）
「内化は外化の一種で疎外にならない外化」（351頁）
武田の外化、内化、疎外に近い内容をもっと概念的に規定しているのが真木悠介である。真木にあっては疎外＝物象化であり、物象化という概念をもたない武田とはこの点で異なるが、真木は「外化をとおしての内化」と「外化の疎外への転回」とを区別し、前者を労働の論理、後者を物象化の論理と捉える。
真木の「外化をとおしての内化」とは労働の回路と交通の回路に見られ、労働にあっては外化＝対象化、をとおしての内化＝享受であり、交通にあっては外化＝譲渡、をとおしての内化＝領有とされる。そして疎外は、労働過程におけるこのそれぞれの外化をとおしての内化の回路が、内化として回収されざる外化として、その還流する回路を遮断されるとき起こるものとされる。（真木悠介『現代社会の存立構造』104頁）
このように真木の場合、労働と交通（交換）に限定されているが、武田の場合、時間や言語にまで、外化、内化の論理をあてはめる。
すでに見たように、武田が内化の思想に到達したとき、その内実は「時間の内化」であった。ここから出発して「言語の内化＝個人の無名化」「移動の内化＝人間の共同化」「時間の内化＝生産力の内化」と展開され、さらに「まず内化に向けて言語を外化し、わたしたち自身の言語体系を彼らの生産力体系と革命的に対立させるところから闘いを始めねばならない」（「内化の思想」『伝習館・複数の母たち』44頁）と述べられているから、真木のように労働や交換といった、人間の活動の対象化されたものについて語る場合とちがって、無規定なものになっている。というのも、武田にあっては言語にしても、移動にしても、時間にしても、人間の活動の対象化されたものではなく、それゆえ内化（享受、領有）するといっても、対象的でないものを相手にすることになるからだ。
４）時間、空間
次に基本的な用語は時間と空間である。もともと時間は労働、空間は意識との関連で捉えられていた。
「時間が人を媒介にとして空間化していく……農業を通して時間が空間の中へ別物としてどんどん変えられていく」というとき、時間の推移のうちでしか意味をもたない労働が、労働生産物をつくり出すことで、空間を占めるものをつくり出す、ということが念頭におかれ、時間の空間化がイメージされている。そして「意識が意識空間をつくり、意識空間がまた意識をつくっていくという転移、生産力を外化し、外化した生産力に今度は人間が従属していく」（『共生』245頁）というように、空間の時間化（意識空間が意識をつくる）が、意識を媒介に論じられていた。
ところが「学習会資料」では、新たに「自己外化＝言語の時間性の本質、コミュニケーション＝言語の空間性の本質」というように、時間と空間とが外的なものとしてではなく、言語の属性として捉えられるに到っている。そして、労働も時間性と空間性をもつものとして捉えかえされる。そうなると、人間の類的疎外も「労働の本質を空間性（コミュニケーション）から時間性（自己外化）に転化」（292頁）することとして捉えられるようになる。
「言語の時間性の本質は自己外化であり、空間性の本質はコミュニケーションである。また労働の時間性とは、労働による自己外化、あるいは労働の自己外化的な側面をさし、労働の空間性とは、労働によるコミュニケーション、あるいは労働のコミュニケーション的な側面をさしている」（307頁）
５）狩猟から農耕へ、言語規制の変化
以上の用語の概念をふまえた上で、「言語規制」に移ろう。武田は「自然規制」から「言語規制」への移行というように問題をたてている。自然規制の時代では第二信号系（コトバ）は第一信号系（感性）に内化され、人類は身体的思考を行っていたが、第一信号系から第二信号系が疎外され、同時に第二信号系から第三信号系が疎外されて（神や王の出現）、それが言語規制として自然規制の上にかぶさる（304頁）というわけだ。
「人間の人間化を対自然的に保障するのが言語規制であり、対社会的に保障するものが内部コミュニケーションの自立」（316頁）というように展開される。
ここで「内部コミュニケーション」とは人と人との間のコミュニケーションのことであり、「外部コミュニケーション」とは人と自然との間のコミュニケーションのことである。
では、「人間が自然規制に対して明らかに一定の自立姿勢に転じている」（309頁）狩猟民社会と内部コミュニケーションの自立がみられる農耕社会との言語規制のちがいについての武田の説明をみてみよう。
まず狩猟社会について。
「狩猟は狩猟対象（移動する自然＝動物）と狩猟行為（協同作業）の双方に、対関係に分化し、対関係として疎外された一定の知識と行動の主体性を必要とする。すなわち前者に対して狩猟（外部コミュニケーション）の技術が、後者の関しては協同（内部コミュニケーション）の技術が、そして何よりもそれを対関係において可能ならしめる言語規制の一定の自立が不可欠である。狩猟社会では、その意味でコミュニケーションは明らかに外部コミュニケーション（狩猟）と内部コミュニケーション（バンドと家族）の対関係に分化し、対関係として疎外され、群れ社会の時代とは反対に、前者が間接的な規制として、後者が直接的な規制として性的コミュニケーションの上に被さり始めている。この二重の規制はいずれも自然と人間との間に介在する言語規制であり、狩猟社会はその内部比率にしたがって、論理的あるいは方法的に自然規制から自立しはじめている。」（309－10頁）
このあと狩猟社会での神の成立について論じられているが、この点についてはひとまず置いておこう。次に農耕社会について。
「人類がこの可能性（内部コミュニケーションの自立）に達するのは、もちろん定着農耕の発明と余剰生産の開始によってである。……観念的には自然に対する主体意識の疎外（内部コミュニケーションの疎外）、技術的には食糧となる自然の貯蔵と再生産の方法の疎外による言語規制の自立の物質的基礎の疎外、すなわち剰余食糧の蓄積とその物象化（制度化を含む）である。
幸と不幸の対関係を含むあらゆる対関係の疎外が始まるのは、この食糧の自主生産で可能となった余剰生産をとおしてである。つまり狩猟時代のかなり早い時期に論理的に疎外された言語規制が、余剰食糧の対象化によって一挙に立体化し、構造として疎外され、自然規制から自立する現実的な可能性に達する。すなわち共同体は共同体となり、神は神となる。そして人類史は、この共同体と神の対関係が言語規制として自立し、その構造変化をとおして、徐々に自然規制の直接性を代替して行く過程へと踏み出すのである。」（311頁）
実は論文「原風景が崩壊する」のこのあとに、「学習会資料」から引用しておいた「言語規制の自立の論理過程」が若干修正されて再掲されている。従って、さきに理解しがたいと述べておいたが、この「論理的過程」は、いま引用した狩猟社会と農耕社会についての記述のまとめなのである。そして、その次に言語規制の自立の現実的過程についての記述がつづいているので、さきにそれを見てみよう。
６）「言語規制の自立の現実的過程」
武田によれば言語規制は三段階になっている。第一段階とは「神→神殿→神官→軍隊の系譜」であり、第二段階とは「王→宮殿→廷臣→軍隊の系譜」であり、そして第三段階とは「資本→企業→経営管理層→労働者」の系譜だという。
ここで神が出てくるので、さきに「言語規制の自立の論理過程」の検討のところで留保しておいた、神についての武田の記述をみてみよう。武田は狩猟社会でコミュニケーションが外部コミュニケーションと内部コミュニケーションの対関係に分化したとき、言語もまた自己外化（時間性）とコミュニケーション（空間性）の対関係に分化しているはずだと述べたあと、次のように展開している。
「すなわち、それ（言語）は先ず外部コミュニケーションにおいて、直接的な生存・労働・闘い（恐怖・怒り・喜び・不満などの反射を含む）として条件反射的な空間性のコミュニケーションと、呪詛・期待・願望・征服欲など条件反応的な時間性のコミュニケーションとの対関係に分化し、その条件反応（自己外化）の本質的な部分が、生意識の一定の成熟に媒介されて、超自然的な実在、すなわち神として疎外される。神は狩猟社会における時間性の最高の表象であり、この神に対応する空間性の最高の表象として、われわれは内部コミュニケーションの中に首長あるいは長老を見出すであろう。」（310頁）
このようにして出現したとされる「神→神殿→神官→軍隊の系譜」はまだ実のところ自然規制の系譜だと武田はみなしている。そしてこれが「王→宮殿→廷臣→軍隊」という言語規制の系譜を生みだすが、それは次のような現実的過程をへるとされる。
「蓄積された余剰食糧から、言語規制の第一段階として、神→神殿→神官→軍隊の系譜が疎外される。この事実は二つの意味を持っている。第一に神は想像以上に早くから、小は木の枝に刻み付けた単純な印から、大は巨石文化のドルメンに到るまで、様々な依代によって記号化されてきたが、この神の記号化は、もともと神を記号として疎外することであり、疎外することによって無化する契機を含んでいる。すなわち人類は、自然規制の直接的表象として神を記号化することによって、究極的に自然規制そのものを無化する論理的な手掛かりを掴むのである。――この無化はもちろん存在としての無化ではない。――第二に神の住居が空から森や山や川や湖を経て神殿に移されたことは、神が大地と人間の世界に深く誘い込まれたこと、そしてその現実的な基盤として、神→神殿→神官→軍隊の系譜の中に、王→宮殿→廷臣→軍隊の系譜が内在していたことを意味する。」（312頁）
こうして自然規制の系譜である言語規制の第一段階のうちにその第二段階が内在しており、こうしてこの第二段階が疎外されてくるが、この第二段階は「共同体と神の対関係が自然規制中心から言語規制中心に移行していく過程」とみなされる。
「それは第一に、自然規制の直接的表象であった神が、言語規制の介在によって間接的表象として遠ざけられることを意味すると同時に、神は王に表象を変えて言語規制に内在し、共同体と神との対関係の疎外態が変るのであって、疎外された共同体には常に疎外された神が対応するという対関係の本質は永久に変らないのである。」（312－3頁）
では内部コミュニケーションの自立を内実とする言語規制の第三段階は、どのようにして形成されるのか。
「この第二段階は、歴史事実として見る時には、疎外権力による人身支配から土地支配への移行過程にほかならない。すなわち外部コミュニケーションの主たる対象は依然として自然であり、その内部コミュニケーションにはまだ自然規制の遺相が濃厚に残留している。従って第二段階から第三段階への契機、言語規制の真の自立の契機は、内部コミュニケーションの自立、いいかえれば、外部コミュニケーションの主たる対象が自然から内部コミュニケーションに移行することでなければならない。このように、共同体の自立が言語規制の自立として、言語規制の自立が内部コミュニケーションの自立として構造的に保証された時、神はその内部コミュニケーションの自立の契機を直接に表象していなくてはならない。すなわち貨幣＝資本は、第二次生産革命に始まる資本主義（第三段階＝資本→企業→経営管理層→労働者）によって物神化されるのではなく、最初から物神として歴史に登場して、資本主義を用意し、実現し、そして完成するのである。」（313頁）
７）再び「言語規制の自立の論理過程」
この言語規制の自立の現実的過程をふまえ、先に「学習会資料」から引用しておいた「言語規制の自立の論理的過程」について、その内容をかみくだいてみよう。まず、(a)と(b)について。
人類の動物としてのコミュニケーションが、言語を獲得することでその位相が三つの信号系に階梯化される。
感覚的なものを捉える領域が、言葉の成立によって第一信号系に階梯化されることで、対自然のコミュニケーションから人と人との間の内部コミュニケーション(協同）がもとの動物的人間から疎外され、こうして動物的人間は対自然コミュニケーション（内部）を対関係としてもつ動物を超えた人間となる。
次に言葉を使いこなす第二信号系にあっては、動物的人間から発話することが疎外され、発話とコミュニケーションの対関係をもつことで動物的群を超えた人間の集団が形成される。
最後に論理と数をつかさどる第三信号系にあっては言葉による規制が動物的人間から疎外(生み出）され言語規制と自然規制との対関係をもつ人間の社会が形成される。
武田の念頭にある「言語規制の自立の論理過程」の(a)と(b)とは、およそこのようなことではなかろうか。
８）「言語規制の第四段階」
これまで武田の言わんとするところを理解する、ということで論を進めてきたが、もうすこし、この調子で続けてみよう。武田は言語規制の三段階を述べたあと、第四段階について展望し、そして、それを実現する方法について模索している。そのときに要になっているものが「内部コミュニケーションの自立」である。従って「言語規制の自立の論理過程」の(c)については、これらを検討したうえで、とりあげることにしよう。
武田は、言語規制の三つの段階について要約したうえで、第四段階について次のように述べている。
「以上述べたことを要約するとすれば、それは第一に、疎外は常に言語の分化と汎化の対関係、およびそれに伴う社会構造の疎外として行なわれてきた。第二に、疎外は一貫して自然規制からの自立、すなわち共同体と神の対関係の疎外とその地上化→人間化→の方向で行なわれてきた、第三に、現段階では、神は地上化されて国家レベルの王(権力）と社会レベルの企業（資本）に分身している――それは言語規制が内部コミュニケーションの自立によって国家と社会の対関係に完全に二分されるからである――が、まだ十分に人間化されていない、ということになるであろう。われわれはここから、権力と資本の二重構造を止揚した第四段階を容易に想定し得るであろう。しかしこの第四段階は次の二点をワンセットでわれわれに要求している。
１．われわれが権力と資本の二重構造を止揚するという時、それはわれわれが三つの段階の最初の二つの段階、すなわち『奴隷』『農奴』を経ていま現に到達している『労働者』ないし『市民』を、具体的にはその自己外化とコミュニケーションの方法、すなわち＜言語＞を止揚するということでなければならない。
２．われわれが権力と資本の二重構造を止揚するという時、それは言語規制が現実的に自立した時点で、その言語規制と自然規制との対関係を本質的に組み換える――すなわち自然規制を真に無化することによって、同時に自立した内部コミュニケーションの構造、すなわちあらゆる幻想的な人間関係を無化することでなければならない。
このことはたぶん、われわれが人間として人間の構造的な自立そのものの意味を問うことになるであろう。」（313－4頁）
９）内部コミュニケーションの自立
次にこの言語規制節の要となっている「内部コミュニケーションの自立」について見てみよう。長文だが引用しよう。
「人間が自然規制から最初に自立した社会層として、いわゆる余剰食糧の独占的私有を疎外した時、すなわち人間が支配層をとおして人間自身を支配＝収奪の対象として対象化し始めた時、狩猟時代に論理的に疎外された内部コミュニケーションが現実的に立体化し始める。内部コミュニケーションの自立は、自立権力の疎外、いいかえれば、疎外した自立権力を媒介とする人間の自己対象化から始まる。
この内部コミュニケーションの自立はその自転運動として具体的に展開される。すなわち内部コミュニケーションの自立の物質的な条件が疎外された時、先ずそれ自身が社会的上限であり、かつ自然規制からすでに一定程度に自立している支配層において、時間性の自己外化と空間性のコミュニケーションが、いいかえれば、神と王が、第一に論理的に同位し、第二に現実的に接近する。この第一、第二過程で権力の即自的な自己意識が疎外される。この権力の即自的な自己意識が覚醒することなく、自然および異族に対する共同体の即自的な自己意識が覚醒することはおそらくあり得ない。第三に、時間が空間性に内化し、一元的な時間性として下向的な、全体として上向的な自転運動を開始する。ジェスイットの道徳範例は、権力の即自的な自己意識が覚醒しているばかりでなく、すでに自転運動の自己意識として対象化されていることを示している。第四に、この権力の自転運動が人身支配→土地支配→資本支配――この段階で国家レベルの自転軸＝権力に対し、社会レベルの自転軸＝資本が疎外される――の系譜をとおして、支配形式、すなわち内部コミュニケーションの基本形式を変えつつ、支配対象の奴隷→農奴→市民（労働者）として社会的に組織していく。こうして内部コミュニケーションの自立は何よりも先ず広義の階級闘争として社会的に現出し、第一に、それをとおして、自然規制時代の社会構造が徐々に破壊される。第二に、その過程で、人間の自己対象化から自己意識を疎外する内的論理が自転運動の内的論理として社会的に蓄積される。
すなわち、最初に疎外された自転運動の内的論理、権力の自己意識としての権力のための権力の論理、あるいは共同体の自己意識としての共同体のための共同体の論理が、第一に、階層分化によって生ずる様々な社会集団に分化され、空間性に内化した時間性の自転運動の論理、すなわち経済の富の論理、基本的には生産のための生産の論理の系譜として構造される。この『経済』はもちろん国家と社会の分離によって『政治経済』に分化総合される。第二に、それと対関係に、空間性を内化した時間性の自転運動の論理すなわち言語の富の論理、基本的には人間のための人間の論理の系譜として、技術のための技術、芸術のための芸術、学問のための学問、性のための性、その他、人間の根源的な自由を結節する『それ自身のために』の論理が意識の全領域に析出されていく。これらの自己意識は、たとえば技術なら技術が発生すると同時に、その技術に固有の論理として即自的に内在している。ただそれが自己意識の意識として疎外されるのに、近世から近代にかけての数世紀を直接に必要とするに過ぎない。そして第三に、前者が絶えず後者を内化していくこの経済の富と言語の富の対関係が、最終的に自然過程、すなわち人間化のための人間化過程、あるいは自立のための自立過程として総括される。いいかえれば、それらをそのように総括するものとして、後者からさらに純粋時間、すなわち純粋論理（デカルト）と純粋意識（パスカル）の対関係の流れが疎外されるのである。」（316－8頁）
武田によれば言語規制の第四段階とは、権力と資本の二重構造の止揚であり、そしてそのためには第三段階における言語の自己外化とコミュニケーションの方法を止揚することが問われ、またこのことは言語規制と自然規制との対関係を本質的に組みかえることが要求されると主張している。
このような第四段階の設定とその止揚の方法は、実は「内部コミュニケーションの自立」ということの理解からもたらされている。「学習会資料」で「内部コミュニケーションの対象である言語規制が徐々に外部コミュニケーションの対象に転移する」というように述べられている「内部コミュニケーションの自立」の問題がいよいよ解明されねばならない。
武田によれば、内部コミュニケーションの自立とは、権力のないところに自立した権力を打立て、この疎外された自立権力を媒介にして人間が自己を対象化するところから始まる。一たんこの過程が始まるとそれは自転運動を開始する。この自転運動とは支配層における権力の自己意識の覚醒にもとづく権力の自転運動であり、これは人身支配から土地支配へと進み、さらに資本の支配を実現する。この各種の支配形式が内部コミュニケーションの基本形式であるので、内部コミュニケーションの自立はまず広義の階級闘争として社会に出現する。
このように捉える武田にあっては結局は一番最初に出現した内部コミュニケーションの自転運動の論理たる「権力の自己意識としての権力のための権力の論理」が問題だ、ということになる。
以上のような説明をふまえると、「学習会資料」の(c)の内容は、実は権力が成立し、権力の自転運動がおこり、階級が形成されていくことで、本来内部コミュニケーションの対象であった言語規制が、階級対階級という形で外部コミュニケーションの対象へと転化し、人と人の間のコミュニケーションとしてあった協同を内実とする内部コミュニケーションが、人と自然との間のコミュニケーションとしてあった外部コミュニケーションをとり込むことで、自立するとともに、当初の協同の内実を失っていく、という意味なのだろう。
10）権力と資本の二重構造の止揚
武田は権力と資本の二重構造の止揚としてたてた第四段階を実現する方法として｢新しい時間性と空間性の対関係の創造」をかかげている。次にこの方法にうつろう。武田は先ず言語規制がつくり出してしまった事柄について次のように述べることから論を起こしている。
「１．われわれが言語規制として自然規制から自立すればするほど、それはわれわれにますます多くの解放をもたらすと同時に、ますます多くの危機をもたらすであろう。それはあるいは人類としての存立そのものを脅かす危機であるかも知れない。
２．言語規制の自転運動、あるいはそれを保障する内部コミュニケーションの自転運動は、その自転軸となるものを必ずや物神として疎外し、われわれにますます多くの解放をもたらすと同時に、ますます多くの従属をもたらすであろう。それはあるいは人類の存立そのものにどこまでも付きまとう影のようなものであるかも知れない。それでもわれわれは、すなわち疎外された言語規制、疎外された内部コミュニケーションは、もはや自転することそのことを決して止めようとしないであろう。」（320頁）
ある種運命論的にひびく、このような暗い見通しのなかで、武田は「疎外克服の方法もまた疎外過程の中に用意されているはずである」（320頁）ということに一すじの光明を求めている。
「もしわれわれが言語規制の自転運動を止めることができないならば、自然規制から自立すること自体が、自然をあり得べき対対象の空間性として措定することとなり得るように、またもし内部コミュニケーションの自転運動を止めることができないならば自転すること自体が、それ自身の神々を無化することとなり得るように、われわれは一元的に後者の方向を定めることができる。」（320頁）
このような考え方にもとづいて、上位疎外態の主体性を、より大きな下位疎外態の主体性に包摂すること、具体的には「都市は農村を、職場は地域を、男は女を、オトナはコドモを、そして教師は生徒を、それぞれ自己意識の必然的な契機として所有し、すなわち真の対対象の空間性として措定し、時間性と空間性の対関係、すなわち交通形態の構造的な変革を試行」（321頁）することを提案している。
11）山元言語論の継承
武田の後期の思想について最後に「内化－工業を農業に内化する」で述べられている言語論をとりあげよう。武田は第三信号系の存在を主張した山元一郎の『コトバの哲学』について次のように評価している。
「山元一郎氏（故人）の『コトバの哲学』、つまり信号理論の功績はそれまで世間に公認されていたパブロフ理論では『ことば』の第二信号系と、『ことば』に対応する実物・実体としての第一信号系と、この二つしか信号系がなかったのに対し、『論理と数』は『ことば』ではないこと、つまり『ことば』に対応する実物・実体がないことを丁寧に証明して、これを新たに第三信号系とした点に主としてあります。
信号理論はとくに社会理論の解釈と直接に関係しますから、『論理と数』の摘出はその意味で、むしろ私の社会理論理解に衝撃を与えました。」（349頁）
ここで武田は「論理と数」が第三信号系であるのは「事実の客観性においてであって、人間の主観性においてではありません。論理も数も人間の主観性を考慮すると忽ち『ことば』の次元に変更する一面を持っています」（349頁）と述べている。その上で山元理論を深めていく方向性について次の提案をしている。
「自然の中で最も重装備の人間の位置を確定し、その人間としての責任を新たに問う方向で、山元理論を祖述し直す方法はないかと皆さんに問うたのです。ご参考までに記します。
※山元氏は上位信号系は下位信号系に『階梯的に依拠している』ことを強調します。私はそれに次の数点を加えたいと思います。
①『ことば』が人間のすべてである。『ことば』はあらゆる方法を駆使して意識に迫っている。ある場合には拡大している。その際、偶然は事実の客観性に属する。
②第二信号系の『ことば』は第一信号系の『実物・実体』と第三信号系の『論理と数』をどこかで包摂している。
『どこか』とは人間の主観性か？
③人間の『ことば』、意識、態度は、他の一切のものの運命に恣意的な一撃を与える。
④現代に最終必要なのは細部への分化ではない。人間への総合である。」（350頁）
以上、すこし長くなったが、武田の後期思想について、そのポイントを紹介してきた。次に章をあらためてこの武田の思想の批判を試み、そのうえでグリーンコープ会長としての武田の言説についての評価を行いたい。
第4章武田の思想の批判
１）武田説の特徴
武田は山元理論を祖述し直す方法について述べたところで「『ことば』が人間のすべてである」（350頁）と言っている。これは単なる比ゆではない。「学習会資料」には、次のような「進化」論が展開されている。
「社会の進化の第一の契機は身体の進化（多細胞化→性分化→直立歩行→ホミニゼーション）であり、第二の契機は言語と労働（動作･行動･生産）の進化である。この進化は社会の総体的な進化の身体＝人間レベルに位置づけられる。
言語と労働は対関係において進化する。」（282頁）
「この言語の進化は労働の進化に媒介されて次のような社会の進化をもたらす。」（286頁）
このように武田にあっては、人間社会のすべては言語から始まるものとされている。従って、革命も「一貫して言語革命として遂行される」ということになる。この言語革命の内容とは、伝習館闘争時代にあたる初期にあっては「自立言語」の創出であり「言語の内化=個人の無名化＝人間の共同化」であった。そして、「学習会資料」から始まる後期にあっては、言語規制と自然規制との関係の組み換えとされている。
では、ことばが人間のすべてである、という見地から社会をみたとき、そこにある支配･隷属の関係はどのように捉えられるだろうか。それこそが、「内部コミュニケーションの自立」とその「自転運動」に他ならなかった。そして、この自転運動の内的論理は人類史上最初に権力が成立し、それが権力を自己目的化するところに発生するものとみなされている。
「最初に疎外された自転運動の内的論理、権力の自己意識としての権力のための権力の論理」（317頁）これにアナロジーして、「生産のための生産の論理」というように今日の支配形式もその自転運動の内的論理の帰結として説明されてしまっている。例えば、貨幣や資本についても次のように述べられている。
「貨幣＝資本は、第二次生産革命に始まる資本主義によって物神化されるのではなく、最初から物神として歴史に登場して、資本主義を用意し、実現し、そして完成するのである。」（313頁）
このように捉えるところからは、今日の社会の諸現象や諸論理を全て過去にさかのぼって説明する、という方法が導かれてくる。そしてこの方法こそが、武田の分化、外化、内化、疎外をキーワードとする進化論がもたらすものだった。
２）批判の方法
言語とは人間の意識の形式であり、従って観念の世界を構成している。この言語世界に人間のすべてを見る武田は、この言語世界という観念の世界での動きを捉えなければならず、それがまず「進化」として押さえられる。
次に「時間」と「空間」である。言語は発話にあっては時間的継続を必要とし、時間のなかでしか言葉をつむぐことはできない。他方、眼で世界を見るとき、一瞬のうちに空間を捉えられる。この時間と空間で言語を捉えると、それは分化（外化、内化、疎外）となる。
言語は分化によって時間と空間のうちにその位置を占め、そして、分化は内部コミュニケーション（人と人）と外部コミュニケーション（人と自然）というルートをたどって波及する。さらにこの分化のレベルが、人間の心経心理学的見地から三つの信号系へと区分され、観念世界にある種々の信号（記号）がどのレベルの信号系にあるかが示される。それを具体的に記述したものが「学習会資料」だった。宇宙の誕生から始まるこの壮大な進化論についてどのように評価すべきであろうか。
いくつかの評価軸を立てよう。まず人類史に関しては現代社会こそがそれとして検討されるべきで、現代社会の基本的な問題を過去の人類史にさかのぼって発見するという方法は採用しない。従って武田の人類史についての説について検証はしない。次に社会を革命しようとする意志は尊重する。したがって社会変革の理論として組みたてられている限りでの言語と社会の進化論に対しては、その妥当性が検証されるべきである。最後にことばは人間のすべてではなく、革命は必ずしも言語革命として遂行されるわけではない。武田も言葉では言語革命といいつつも、内実は諸関係を組みかえる文化革命を提起している。これは要するに社会関係を捉える際に、観念的なものは物質にとりつかれている、という点について十分考慮していないことの帰結であると捉え、武田の革命思想を物質的諸関係とのかかわりで捉えかえし、その積極面を生かしていく。
３）社会変革の理論としての欠陥
社会変革の理論として見る限りでの武田説の欠陥は階級支配の原理を「最初に疎外された自転運動の内的論理、権力の自己意識としての権力のための権力の論理」（317頁）に求めてしまったことにある。
ここからは「内部コミュニケーションの自転運動」（支配形式の永続）は止められず、「言語規制」は革命言語の形成を不能にする、という運命論が導かれてしまう。そこで武田はあくまでも革命を求め、「疎外克服の方法もまた疎外過程の中に用意されているはず」（320頁）だという見地に立つ。それは「自転すること自体が、それ自身の神々を無化することとなり得るように、われわれは一元的に後者の方向を定める」（320頁）というところに求められ、「上位疎外態が下位疎外態に向かって自己解体する」（289頁）とか「後から疎外されたものを漸次疎外したものにむかって不可逆的に止揚解体していく」（84頁）とか言われているが、これは実は「自転運動｣の解体であり、自転すること自体ではない。一たん「内部コミュニケーションの自転運動｣の成立を認め、そこに疎外の原因を求めるなら、その自転すること自体のうちに疎外を無化する方向など求めようがない。そして、自転運動に対して自己解体が可能なら、自転運動は内的論理をもっていなかったことになる。
自己解体とは武田によれば既成の諸関係の組みかえによる新しい諸関係の形成である。これは「言語革命」によってなしうるものだろうか。武田自身、言語の内化＝個人の無名化＝人間の共同化というイメージを描いていた。言葉が運動に先行することもありうるが、しかし通常は運動が言葉に先行しているのではなかろうか。自己解体する言葉がまずあるのではなく、自己解体しうる関係の形成が先行するのではなかろうか。むしろ、「内部コミュニケーションの自転運動」の内的論理にとらわれているかのごとく見える「言語規制」が新しい諸関係を含みうるから、自己解体が展望できるのではなかろうか。
４）進化論と言語論の問題点
このような社会変革論における困難はどこからもたらされているのだろうか。分化を基本とする武田の進化論が検討されるべきである。
武田が、言葉や労働や社会の進化を考えるとき、身体の進化をモデルにしている。身体の進化が単細胞の多細胞化、性分化、直立歩行、ホミニゼーション（大脳化現象）というように進行してきたこととのアナロジーで、言語の進化が第一信号系（感覚）、第二信号系(言葉)、第三信号系（論理と数）、というように身体の生理作用のちがいから捉えられる。この言葉の進化が物質化して労働の進化に転化すると言われているが、これは技術の歴史が述べられているだけで、思弁的な展開はない。これに対して、社会に対しては、第一信号系に位置するものが身体、第二信号系に位置するものが労働、職業、地域、そして第三信号系に位置するものが生産力、組織、国家、とされている。
このようにアナロジーでこと足れりとしてしまう原因はどこにあるのだろうか。それは身体の進化をもっぱら分化から説明していることに帰着する。武田の進化論には分化しかなく、融合や共生がない。また、生命と環境との相互作用も検討されていない。全ては最初の始原から分化したものとして説明されてしまう。
生物の進化に限っても、環境の変化による嫌気性の微生物から好気性の微生物への交代や、共生によるミトコンドリアの生成などの例は分化の論理からは出てこない。
次に言語を人間の生理的な信号系から説明していく山元説から、第三信号系に当る論理と数は言語ではないという見解をとり入れているが、この山元説だと、指示対象をもつもののみを言葉とし、それをもたないものは言葉ではない、という言語論になる。これは具体的な名辞のみを言葉とみなす、という点で誤っている。「そこのそれ」とか、「あそこのあれ」は言葉ではない、というなら、そんなことを主張する人の言語観の方が誤っていると言う他はない。
言葉が数や論理を表現しているとき、数や論理は指示対象となっていて、それ自身は言葉ではない、というかも知れないが、数や論理は現実世界の観念による抽象であり、それ自体言語としてしか存在しようがない。ただ具体的な名辞を使いこなす神経系と、抽象的な言葉である数や論理を使いこなす神経系とは異なっているかも知れない。しかし、それをもって数と論理は言葉ではない、という結論は導き出せない。
５）数と論理も言語である
では武田は何故、数と論理は言葉ではない、という山元説を受け入れたのであろうか。その原因は、武田自身が数と論理、とくに論理を言葉ではないと理解していたことにあるとしか考えられない。
武田にあっては論理とは人間の側にあるのではなく、客体の側にあるものと捉えられているのではなかろうか。「言語規制の自立の論理過程」（311頁）とか「内部コミュニケーションの自転運動」（320頁）の「内的論理」（317頁）とかで使われている「論理」とは、言葉化されていない、したがって人間にとっては未知の、運動自体がもっている運動の衝動のことを指しているのではなかろうか。これを論理だと言うなら、それは神の摂理となってしまう。論理とは人間がつくったものである。ところが人間は言葉を使う限り、この自らがつくり出した論理を対象そのものの論理であるかのように見なしてしまう。これは言語のフェティシズムにもとづく言語名称目録観である。山元の言語観は恐らく言語名称目録観にとらわれており、したがって数と論理を言葉とはみなせなかったのだろう。実際、山元は「コトバは存在の住家である」というハイデッガーの言葉を受け入れている（『コトバの哲学』431頁）。山元によれば「認識とは、対象を強いて語らしめつつ対象と対話すること」（404頁）であり、「対象を認識することは、対象にまで技術的に客体化された自己の認識として、さらに対象を主体的に有意味化する主体の自己認識として、自覚的な認識である」（405頁）とされる。対象がもつ論理のうちに言葉が住むことが自覚的認識だ、ということが語られており、この意味で理解された「論理」とは恐らく東洋思想に言う「空」や「無」のことなのだろう。
しかし人間は言葉を使うことではじめて対象を分節化することができるのである。ところが、言葉と指示対象との関係において、指示対象は個別的、具体的であるのに、言葉の方は他人に理解される、という意味で、社会的であり、一般的である。言葉を使うと、個別的、具体的なものに社会的、一般的な名称を付与する。この事態を別の側面からみよう。発話は意識の対象化である。発話によって個別的、具体的なものと社会的、一般的なものである対象化された意識との関係がつけられる。このとき、個別的、具体的なものが、社会的、一般的な対象化された意識の化身とされている。そうなると、対象化された意識としてある人間の論理が、個別的、具体的なもの自体に属するものであるかのように見える。
ヴィーコも言うように、対象が人間のつくったものなら、それは人間の身体の延長であり、従ってその論理は人間の論理と一致しうる。しかし対象が自然の場合、その対象に論理があると見るのは言葉を使うからで、実際は人間がつくった論理を対象におしつけている。
山元は対象に論理があると見、しかもそれを言葉を超えたものとみなすことで、言語のフェティシズムにそって、忠実にその言語観、対象に論理があり、言語はそれを受けとるだけ、という言語名称目録観を展開したのだった。
６）認識と実践
横道にそれたが、武田の「論理」観にもどろう。武田が数と論理を言葉を超えたものと捉え、さらにそれを自然や社会の運動の衝動として理解しているとすれば「ことばが人間のすべてである」という見解や、革命は「一貫して言語革命として遂行される」いった主張の意味が明らかとなる。
武田にあっては革命とは、社会の運動の衝動となっている｢内部コミュニケーションの自転運動」をやめさせることであり、そのためには自転運動の｢内的論理｣を言葉にすることが一切だ、ということになる。しかしこれは認識から実践という契機を除いてしまうことにはならないだろうか。論理を対象のうちにあるものとしてではなく、人間がつくったものと見ることではじめて、実践を認識論の中心に位置づけることができる。あれこれの闘いの論理が妥当であったかどうかは、実践を媒介とした認識によって決定されねばならない。そうではなく武田のように、言葉を超えた「論理」を言葉にすることから出発するなら、それは神の摂理を啓示によって理解せよと要求することにならないか。これでは「武田は神格化しているという評判」（154頁）の根は深いと見なければならない。
実際、「内部コミュニケーションの自転運動」の「内的論理」を「言語規制」として、「自然規制」に対立させているが、これ自体、武田の空想上の産物であり、一つの教義にすぎないのではなかろうか。このことを現代の社会を素材にして証明してみよう。
７）疎外＝物象化の地平

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2013/01/22

社会運動の地殻変動とわれわれの課題

Author: ebara (10:06 pm)

社会運動の地殻変動とわれわれの課題

2012年12月16日に行われたルネサンス研究所シンポジウムの報告です。

はじめに
　ルネサンス研究所設立準備過程で、2009年3月13日～15日にかけてロンドンで行われた「共産主義の理念」をめぐるコンファレンスが話題になっていた。アラン・バディウとスラヴォイ・ジジェクが呼びかけ、当初180名規模の会場を予定したところ、最終的には1200名が詰めかけ、「共産主義」の復活を印象づけたのだ。このコンファレンスは引き続き2010年6月にはベルリンで、さらに、2011年10月にはオキュパイのさなかのニューヨークで開かれている。
　私はルネサンス研究所ではこの流れを受けて国際的なイベントを開催する場をもてると考えていたが、ネグリ招聘ができなかったことで、いまだ実現してはいない。しかし、この間いろいろな成果がルネサンス研究所のメンバーたちによって作り出されている。ひとつはメンバーたちがロンドンコンファレンスの報告書を翻訳した。長原豊（監訳）沖公裕、比嘉徹徳、松本潤一郎訳『共産主義の理念』（水声社）がそれだ。また、市田良彦は、『情況』（思想理論編第1号、発売元世界書院、単行本扱い）「＜公共＞に抗する――現代政治的理性批判」を編集し、思想・理論闘争の論壇形成に取り掛かっている。
　また、ルネサンス研究所研究員による研究会も途切れずに実施されてきている。その上に東西で数回の公開講座ももたれた。このような研究所の現状を踏まえ、私としては現在における共産主義の再生のための理論と、その立場からの今日の社会運動の展望とわれわれの課題について提案したい。
　なお、せっかく翻訳がでたので、ロンドンのコンファレンスの内容との関連で私の提起を位置づけておく。ロンドンのコンファレンスの呼びかけが「共産主義の理念」であり、そして報告者の多くが大学の哲学教授であることもあって、ほとんどの報告が、現実の運動との直接の接点をもってはいない。唯一ブルーノ・ボスティールスがボリビア副大統領になっている共産主義者、アルバロ・ガルシア・リネラから大幅に引用しながら問題提起しているくらいだ。しかし、理論的な分析があるかと調べると、どの論文でもソ連型の共産主義との決別を謳っているけれども、奇妙なことに、何故ソ連の共産主義が失敗したかについての研究がなされていない。悪夢はスッキリ忘れて共産主義を再び、といった論調が多い。このような現状に一石を投じることができればと考えている。

第1章　20世紀の共産主義運動の総括

　ここで、扱われるのは第３インターナショナル（コミンテルン）あるいはマルクス・レーニン主義の思想と運動である。中国やキューバなどのように、革命戦争を経て共産主義権力を樹立した諸国は考察の外にある。しかし、これら諸国共産党にとっても、第３インターナショナルの総括は他人事ではない。

１．20世紀における共産主義者の戦術
　20世紀における共産主義者の革命戦術は、永続革命論であった。この構想はマルクスによって1850年に提起されていた。マルクスの永続革命の戦術は、ブルジョア革命の時期に革命のヘゲモニーをプロレタリアートが掌握し、ブルジョア革命をプロレタリア革命にまで永続させるというものであった。
　レーニンは『何をなすべきか』でこの永続革命における革命党の組織論を提起したが、それは全国的政治新聞を発行する中央集権的な党であった。その内実はプロレタリアの闘争が自然発生的には組合的政治にしか至らず、革命党の政治新聞による全面的政治暴露にもとづく政治的扇動によって共産主義的意識が外部から持ち込まれ、共産主義と労働運動との結合がなされなければならないことと共に、武装蜂起による権力奪取に用意がある党の建設として構想されていた。
　この永続革命の戦術は、第一次大戦後ブルジョア革命が未完であったロシアで成功した。その影響で、東欧、及び中国などのアジア諸国では第二次世界大戦後に革命に成功し、社会主義国家群が形成された。しかし、西ヨーロッパでは革命的情勢は到来したがこの戦術は敗北を余儀なくされた。この歴史的経過はマルクスの想定とは異なり、帝国主義の成立と第一次世界大戦という世界革命の現実性の下で起きたことに注意しておく必要がある。
振りかえれば西ヨーロッパの第二インターナショナルに結集していた社会民主主義者は、第一次世界大戦に直面してプロレタリアートの国際主義的団結を投げ捨て、祖国防衛主義にながれ、そして極少数派（チンメルワルド左派）が戦争反対を唱えるにとどまった。その結果西ヨーロッパでは社会民主主義が運動の主流となり、戦争反対派（共産主義運動）は後退していた。しかし、ロシア革命はマルクスの永続革命の戦術を、帝国主義の下での世界革命の現実性という新しい条件の下で成功させ、プロレタリアート独裁の国家を成立させた。この新しいながれはヨーロッパに波及し、第３インターナショナルが結成され、両大戦間に勢力を伸ばし、東ヨーロッパに社会主義国家郡を誕生させた。
以降東西の冷戦体制が形成されていたが、ヨーロッパにおける戦後の革命の主体は、ロシア革命を突破口にして第３インターナショナルが創られるという経過の中で形成されたことから、ヨーロッパ諸国の共産党がソ連の党に牛耳られ、マルクス・レーニン主義の教条の枠を入れられ、思想的隷属を強いられることとなった。マルクス・レーニン主義はロシア革命の経験を普遍化したが、それは永続革命の戦術の普遍化であり、資本主義が発達した民主主義国家での革命戦術を欠いていた。
社会主義国家郡も一枚岩ではなくなり、スターリン体制への批判が始まったが、民主主義諸国家における共産主義の衰退もあり、また国有経済の行き詰まりに直面して、1989年から91年にかけて、ソ連・東欧の共産党が解体し、社会主義体制が崩壊して市場経済の導入が図られ、共産主義運動は一層混迷を深めることとなった。
　
２．21世紀における資本主義の暴走と共産主義再生への期待
　1990年代には全面的な勝利を占めたかに見えた資本主義は、その後対抗勢力の欠落によって歯止めを失しない、資本は自由な運動を暴走させ、架空資本を増殖させることで経済危機を招きよせ、社会崩壊を現実性化させることで、新しいタイプの大衆運動を復活させた。（この内容については「社会運動の視点から見た反・脱原発運動」第一章で述べたので繰り返さない。）共産主義も新しい条件の中で再生を期待されるようになっている。

３．20世紀の共産主義運動の問題点

①　商品・貨幣関係の廃絶について
　共産主義革命を永続革命として構想する現実的基盤はなくなっている。それだけではなく、永続革命を成功させ、プロレタリアートの独裁を樹立しても、経済の発展については、共産主義的経済の実現に向かえず、結果として市場経済化と資本主義の復活に期待しなければならなかったという現実がある。
　このような共産主義運動の現実をどのように総括するかが問われている。その際に共産党支配の時代においても市場経済化が避けられなかったこと、つまり商品・貨幣の廃絶が成し遂げられなかったことは何故かという問いが立てられなければならない。共産主義の理念が階級の廃絶であり、商品・貨幣・資本の廃絶であったことを考慮すれば、この問いへの回答が、20世紀の共産主義運動の敗北の根本的な総括となり、かつ、その再生の出発点を形成しうることは明らかである。
マルクスの『資本論』第一篇商品と貨幣、に立ち返り、如何にして商品から貨幣が生成されているかを解明することが課題となっている。そしてこの課題の解決のためには、『資本論』初版の価値形態論と交換過程論の解読が不可欠である。『資本論』現行版の価値形態論は、その最終の第Ⅳ形態が貨幣形態となっている。したがって、貨幣生成は価値形態論のなかでなされるものと受け止められざるをえない。ところが初版の価値形態論では第Ⅳ形態は貨幣形態ではなく、相対的価値形態の果てしなく合い並ぶカオスとされている。そしてこのカオスは交換過程論で、商品所有者たちが無意識のうちでの本能的共同行為を行うことの結果として貨幣が生成されることで、商品世界が統一した秩序へと形成されていくことが明らかにされている。
つまり商品からの貨幣生成は、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によるものであり、したがって、この過程をプロレタリアートの独裁による意志の力で廃絶しようとしても無理であったのだ。しかも貨幣生成の共同行為は、一回限りのものではなくて、商品が市場に出される都度貨幣の生成が更新されるというものなのだ。
このような貨幣生成の原理を踏まえるならば、商品・貨幣の廃絶は、無意識のうちでの本能的行為を不必要とする経済的関係を迂回して形成する以外にはありえないということが判明する。市場万能論が幅を利かせているが、市場に商品を売りに出す行為がなされなければ市場は崩壊する。市場外の交易や、貨幣を媒介にしない交易が市場経済よりも優位に立つような経済の構築が課題なのだ。
この点は資本の廃絶も同じことだ。資本家階級の生産手段を収奪することだけでは資本・賃労働関係の廃絶は無理であり、資本に雇用されなくとも生活できるような生産の仕組みを作り出すことが問われているのだ。

②　自己権力の創造による二重権力状況について
　永続革命の戦術からは、当然にも、勃興しつつある資本主義に対抗してプロレタリアートの独裁という政治権力によって、社会変革をめざすという路線が導かれてくる。パリコミューンの経験を踏まえ、1905年のロシアの第一次革命時におけるソビエト（労兵協議会）形成を総括して、レーニンは1917年2月革命によって作り出されたソビエトをブルジョア権力と対抗する二重権力と捉え、全権力をソビエトへというスローガンで10月に社会主義革命を成功させた。政治権力を打ち立てるには、自己権力の創造による二重権力状況が条件となる。毛沢東の場合は紅軍が支配する解放区が蒋介石の国民軍の支配地域との間で二重権力状況を形成していた。
　第一次大戦後、敗北したドイツ革命の時期にもレーテが自己権力として形成されたが、戦後における民主主義国家での階級闘争において、自己権力の形成は見られていない。つまり20世紀の自己権力は、生成されつつあったブルジョア権力に対抗した権力として形成されたのであって、一旦ブルジョア権力が確立した諸国では、敗戦といった非常事態を除いて、自然発生的な自己権力の生成は不可能だったのだ。
　永続革命の立場からは、資本主義を双葉のうちに摘み取ることがめざされていて、資本主義の胎内に次の社会の萌芽が生成されるかどうかということは問題意識に昇らない。また、マルクス主義の立場からしても、封建社会の内部に資本主義的生産関係が生成成長し、やがて国家権力をブルジョアジーが奪取するというような形では進まない、という理解の下に、国家権力の奪取が革命の第一歩とされてきた。しかし、一旦ブルジョアジーが権力を取り、資本主義社会が形成発展させた社会においてもそのように考えることは、自己権力の問題について考察することが、如何にして権力を奪取するかという政治革命の構想の裏面にある、革命のもう一つの条件であることを忘れている。明確なことは発達した資本主義国において、自己権力が自然発生的に形成されることはありえない、ということであり、アラブの春においても例外ではなかった。資本による社会支配は、民主主義国家でなくとも貫徹し、人びとは市場に絡み取られていることで、今日自己権力の形成は、前資本主義社会におけるそれとは比較にならない困難を抱えざるをえないのだ。
実際、パリコミューンも17年のロシア革命時のソビエトも18年のドイツ革命のレーテも戦争での敗北を契機にしている。戦争によって旧体制の都市の行政的機能が麻痺したことで、自己権力が生まれた。封建時代では経済的支配隷属の関係において人身的支配という政治が前面に出ていたのであり、政治的崩壊が階級支配と都市の支配を崩壊させるのだ。だが、資本主義社会では社会を束ねているのが経済的な関係であり、政治は後景に退いている。政治的崩壊は政権交代となり、階級支配の崩壊にはつながらなくなっているのだ。
　　

③　政治が全てを統帥するという政治思想
　永続革命の戦術に規定されて、共産主義運動においては政治が全てを統帥するという政治思想が生まれ、この思想は共産党の全一的支配を合理化してきた。しかし資本主義が全面的に発達した社会においては資本の支配が人びとを統帥しており、政治の出番は限定されている。その結果、今日における政治は、民主主義国家における選挙に収斂され、政治運動を議会に代表を送ることに矮小化されている。共産主義はこの点では社会民主主義に対抗できず、社会民主主義の後塵を拝することになってきた。政治の意味の変質が起きている。実際に大衆運動や文化運動でも議会制民主主義に回収されてしまうという現実がある。しかし、自己権力が自然発生的には形成不能であり、その形成のためには目的意識性が必要だとしたら、共産主義の政治は社会民主主義の政治とは袂を分かち、独自の政治運動を構想すべきであった。

④　社会変革論の未開拓
　最後に永続革命論の射程には、社会変革論が視野の外にあったことに注意しておく必要がある。従来の社会変革論は、経済過程における危機が政治危機を招き寄せ、革命的情勢が醸成されるという見通しにとどまり、社会とはどのようなもので、それはどのようにすれば変革できるのかといった問題意識は持ってはいなかった。しかし、無意識のうちでの本能的共同行為によって生成される貨幣が、意志の力では廃絶できないとすれば、現に存在する資本主義の下での社会をどのように変革するかという問題を改めて考察することが問われてくるのだ。

第2章　21世紀の階級闘争　社会運動の変容

１．民主主義の制度疲労
　民主主義の定義もいろいろあるが、ここではブルジョア国家と規定する。今日顕著なことは、ブルジョア国家が機能麻痺に陥っているということだ。議会制民主主義は、社会民主主義にとっては国家に対する干渉であり、国家を通じて資本の自由な運動に規制をかけることだった。国家が機能麻痺に陥ることで、議会制民主主義も従来のようには機能しえず、社会民主主義も衰退し、人々は直接行動に訴えざるをえなくなっている。なお、国家については官僚制の問題や国家死滅の問題など多くの議論すべき論点があるが、今回はふれない。

２．プロレタリアートの成熟
　1970年代から、新しい社会運動が始まり、労働者の階級単位でのまとまった運動が解体し、変容していった。おおむね階級の解体と受け止められ、プロレタリアートの解体という認識が一般化した。しかし、ブルジョア革命前後から、戦後の一時期に見られた階級闘争の様式は、消費社会と個人化の進展の以前に展開された様式であり、消費社会と個人化の下での運動の様式こそ、階級が成熟した時代の運動として捉え返すべきである。
　以前の階級闘争は、身分制と人身的隷属にもとづいた前近代社会の階級闘争の伝統を引き継いだものであり、それにイデオロギー的にも乗っかっていた。しかし、資本主義の発達と共に、プロレタリアの存在は物象的依存関係にもとづく人格的独立として成熟したのであり、その表れが消費社会における個人化として現象しているのだ。
　既成のプロレタリアートの階級闘争像から今日のプロレタリアの存在様式を切るのではなく、今日のプロレタリアの存在様式から、階級闘争の様式を認知し、共産主義運動との結合をめざすべきなのだ。その際に、プロレタリアートを賃労働者と同一視することはできない。上層労働者はブルジョアジーとの同盟関係にあり、脱プロレタリアート的賃労働者だ。プロレタリアートとはブルジョアジーに対して共通の利害に基づいて団結しうる存在であり、その団結の思想と様式こそが解明されるべきなのだ。
　その際に決定的なものは、個人化は必然的に、個の唯一性の要求に行き着くという事態をどう見るかということだ。これはそれ自体はエゴであるに過ぎないが、しかし、他者との関係において、他者の絶対的他性の承認に至れば、自由な共同体の原理がそこに孕まれている。というのも、個の唯一性の承認と他者の絶対的他性の承認ということは共産主義社会の内実にほかならないからだ。従来の共産主義運動は、個人の外にある存在への同一化を要求してきた。これは個の唯一性への干渉であり、成熟したプロレタリアにとっては余計なお世話にしかならなかった。しかし、個の唯一性を承認するところからしか、現在における自己権力の生成の可能性はありえない。問題は個が他者と出会ってどのような関係をつむぎだせるかというところにある。

３．社会変革の可能性
　成熟したプロレタリアにとっては、社会変革の道筋こそが求められているものだ。それはさし当たっては他者との関係の持ち方の問題だ。そして、どのようにしたら社会を変えられるかという問題は、社会がどのようにして生成されているかという問題を解くことから解明される。
　社会は多数の人間の集合体であるが、それは何よりも権力関係であり、その権力生成の原初形態は二人の対面関係から解明されるべきである。二人の対面関係に権力の生成の仕組みが隠されている。対面関係において、その両極は能動者と受動者にわかれる。普通は能動者の役割に注目されがちだが、実は受動者のほうに権力生成のヘゲモニーがある。対話的コミュニケーションにおいては話す側が能動者であり、聞く側が受動者である。身振りのコミュニケーションにあっては、見られる側が能動者であり、見る側が受動者である。この対面関係で受動者においては具体的な身体を持つ生身の人間としての存在が、社会一般の代表者として形態規定され、能動者を規制する権力行使を生成させる。
　例えば、犯罪行為をした能動者を見る受動者は、この関係においては生身の人間のままで法律という社会規範の化身となり、その否定の表情や阻止の行為として意志を発動する。
　社会における権力の生成がこのような仕組みによるものであれば、受動側の組織論が重要となる。その場合説得による同意の獲得よりも、相手に発話を促して聞くことでの合意形成のほうが理にかなっている。
　労働運動が自然発生的には組合主義的政治にしか行きつかず、外部から、社会革命が不可避であるという共産主義的意識、および政治的扇動による全面的政治暴露にもとづく政治的意識の注入が必要であるという、20世紀の共産主義運動の組織論は、社会生成における権力の発生に無自覚なものであり、成熟したプロレタリアにとっては迷惑な働きかけになる。成熟したプロレタリアは社会を変えるという意識を既にもっている。それは物象的依存関係にもとづく人格的独立という存在そのものが生みだす自然発生的な意識である。ならば現在の共産主義に問われているのは、社会生成を権力関係の生成の様式から解き明かし、既成の社会を変革していけるオルタナティブな社会生成の展望を編み出すことだ。

４．自己権力への道
　パリコミューンにしてもソビエトにしても、戦争によって崩壊させられた都市の自治のための機関であった。自己権力とは地域であろうと工場であろうと、自治組織としての性格をもつ。各工場の自治組織の連合としての都市の自治組織は、ユーゴの自主管理社会主義で経験されている。　
　自治とは、日本では、地方自治体への住民の参加という意味でしかないが、元々は自主管理であり、自己権力の前提条件である。自治の新たなイメージを作り出すことが問われている。そのために例示をあげよう。
　ニューヨークウォール街オキュパイ闘争は、自治の一つのモデルを提供した。特定の空間の占拠としてなされたオキュパイ闘争は、そこに一時的であれ、共同体を創造した。自治の共同体がそこに出現したのだ。自主管理という意味での自治は、直接民主主義として構想された。直接民主主義は代表を選ばず、総会で意思決定をする。この総会は全員参加で、毎週二回行われたが、しかしそれだけでは共同体としての機能を発揮できないので、共同体の機能を担う様々なワーキンググループが任意に作り出され、広報や清掃や配食など共同体に必要な業務がになわれ、ワーキンググループの活動を調整するスポークス・カウンシルが毎週行われた。参加者たちはこの自治の経験を自分の持ち場に持ち帰って、そこでの変革を模索している。
　戦後の福祉国家の時代から、新自由主義の支配する時代を経て、末期資本主義を体験しつつある人びとにとって、資本のくびきから脱出し、コモンズを奪還して自治による生産の仕組みを形成することが課題となってきている。この動きを自己権力の生成の過程として位置づけ、そのような課題に取り組む人びとが、市場経済と雇用労働で暮らす人々よりも比較優位になるように、意識性を働かせねばならない。
　
第3章　われわれの課題　　

１．ルネサンス研究所の課題
　これまで共産主義運動の再生のための論点をいくつか提起した。課題の第一は、権力奪取から社会革命へ、という伝統的コースを批判し、迂回して自己権力生成に向かう新しいコースの展望を作り出すことだ。第二の課題は、そのためには、政治の再定義がとわれてくる。ヨーロッパの社会民主主義は、新自由主義に対抗し、福祉国家路線から第三の道へと舵を切ったが、共産主義の政治の構想が、外部注入論の総括の上に提起されるべきである。第三の課題は、「いま」・「ここ」での社会変革論の原理的解明とその普及活動だ。
　私はルネサンス研究所関西の7月7日の研究会のあと、研究所の課題として次の三点をあげた。
一つ目は日本の官僚支配に対決する方向性を長期的な目標として自治・自己権力の獲得とおき、全ての闘争をこの目標から位置づけることだ。これは国家の廃絶とも関わる問題である。当面は官僚が階級としてあることへの対応として、「官僚階級の解体」のプログラムが構想されなければならないが、具体的にはサードセクターの団体の公的セクターからの解放闘争が日程に上るであろう。この闘いには連合の「市場経済全体主義」からの解放も含まれる。
　　　二つ目は日本の官僚支配の重心は原子力開発にあり、3.11原発事故はこの重心に亀裂を与えた。反・脱原発の闘いは、個別課題ではなく、日本の官僚階級解体と「市場経済全体主義」の解体を課題とする包括的な課題である。この課題を電力の自治・自主管理という目標のもとで、政治運動だけではなく、市民社会におけるヘゲモニー抗争が闘われなければならず、サードセクターでの抗争主体の育成を様々な形でなしとげなければならない。
　　　三つ目に、日本の市民社会におけるヘゲモニー抗争をルネサンス研究所が引き起こすことだ。そのためには、上記二つの課題におけるプログラムの確定に向けて体制を作り出すことが問われている。この課題の解決を隔月の公開研究会と、隔月の研究員研究会でなしとげていこう。（ここで官僚階級に言及しているが、日本の官僚が階級と化している点については、「社会運動の視点から見た反・脱原発運動」第2章を参照されたい。）
　本日提起した三つの課題も、以上に述べた日常的な具体的実践に取り組む中で解決されていかねばならない。その際に個別課題への研究が必要になる。日本における社会運動の地殻変動については「社会運動の視点から見た反・脱原発運動」（HP：office－ebara.org/　バラキン雑記）をふまえ、本日はこの日本における社会運動の地殻変動のさなかに新たに設立された緑の党に引き寄せて、われわれの課題を述べてみたい。

２．日本の社会運動の地殻変動と緑の党について

①　疑問に感じたこと
　緑の党が京都でルネサンス研究所メンバーも加わって準備されている。京都では赤と緑の連合を形成しようというわけだ。私は幾つかの疑問をもっている。東京の結成大会の趣旨は、国政選挙に打って出ることが中心となっている。それならば何故現職国会議員に働きかけないのか、まずこれが疑問であった。次に、いわゆる選挙運動の足・腰をどうするのか、共産党型の政党主導や自民党型の利益誘導や公明党型の入信でないとしたら、どのような構想があるのか。そして何を環にして、選挙での風を引き寄せるのか。
　この点は本日白川氏からお話があると思うが、既に発表されている文書の類からではスッキリ見えてこない。また、当然ヨーロッパ型の社会民主主義よりは左に位置する存在だと思うので社会変革論についても欠かせない。そして何よりも日本でやっとヨーロッパ型の社会民主主義政党が、未来の党として出現していることをどう評価するかという問題もある。

②　日本の歴史的現実をふまえて
　私見によれば、未来の党は、第三の道をめざしているヨーロッパ型の社会民主主義党として、政権の獲得を目指してほしいし、そのような日本の政治の大転換があってはじめて緑の党も本来のもち味を発揮できると考えている。日本にも社会民主主義党は、旧社会党や、現在の新社会、あるいは社民党として存続しているが、しかしこれらの党派は、日本の階級闘争の特徴から共産党コンプレックスがあり、政権党へと成長できなかった。ヨーロッパの社会民主主義党は、第2インターの主流派であり、他方で共産党は元々極少数派で、しかもコミンテルンというソ連主導の組織であって現実的影響力は発揮できてはいなかった。このような状況で各国の社会民主主義政党はブルジョア的保守党と政権交替を繰り返してきたのだ。
　日本における社会民主主義の発育不全は、日本の階級支配が官僚階級主導であることと関わっている。60年安保闘争で立ち上がった大衆は、高度成長期にも運動を継続し、それは60年代末から70年代初めの革新自治体の成立につながった。しかし、このながれは国政の変革に行き着かず、官僚主導の輸出立国によって、右傾化させられる。70年代に西欧諸国が経済成長で頭を打ち、失業問題などで問題を抱えている時に日本だけが洪水的な輸出で経済成長し、20年～30年間、日本人はただ職場で一生懸命働いているだけで、80年代末には日本をほんの一瞬間であるが、世界一の金融大国にまでおしあげたのだ。このシステムこそは一時的なものであったとはいえ、資本主義の不均等発展のニッチでうまく機能した官僚主導の資本主義であり、そしてそれは公的領域の肥大化をもたらし、サードセクターを官の植民地とする今日の日本のシステムをもたらしたのだ。
　このような官僚主導の資本主義社会の形成は、日本における新自由主義の導入にも独特の過程をへることになった。一方で左派労働運動解体の策動があり、他方では民営化が、官僚組織の焼け太りという形で推進された。左派労働運動の切り崩しによって大企業はフレキシブルな労働の導入に踏み切り、企業の社会保障機能を切り捨てていくことで、生活保護と企業内福利しかなかった日本の社会保障制度のセーフティネットとしての機能を破壊した。ただ働くだけでやってこられた大人たち、自己の身近な利益しか考えてこなかった人たち、この人たちが自公政権を支えてきたのだ。そして若者たちはその反動で新自由主義に期待したりもした。その後格差拡大が誰の目にも明らかとなり、リーマンショックのあと、政権交代によって政治主導による官僚支配の打破が期待されたがその期待は裏切られ、三党合意による消費税増税という財務省主導の政治の展開となっている。
　このような経過を踏まえるならば、日本の社会システムの全面的改革が日程に上っており、政策とそれを実現させていく運動の構想が問われているのだ。その際のキーポイントは、他治から自治へというコンセプトだ。官僚支配の要は他治であり、人びとの自治を奪うことだ。今人びとは他治から抜け出し、自治を手にしなければならない。

③　権力構造と社会構造の分析から足腰の問題を考える
　足腰の問題から考えてみよう。ドイツと日本の決定的な違いは自治体と中央国家官僚、自治体と住民との関係にある。ドイツの自治体は中央官庁に対して独立した政府機能をもち、かつ住民の自治もあるのに対して、日本の場合は形だけの分権化は進んだものの、内実は依然として中央官庁の支配の下にある。しかも自治体と住民との関係は、お上と臣民の関係であって、地方自治体の議員も特権階級である。お上は全ての住民サービスを独占的に差配し、公益法人とその傘下のファミリー企業によって事業を展開している。最近ではNPOも公的資金の流れに組み込まれている。これは日本の左翼政党があまり問題にしてこなかった点だが、日本の権力構造の具体的な分析とそれに基づく対抗運動の構想から、足腰の問題は解決されねばならない。
　このような日本の権力構造は、社会構造としては市民社会におけるヘゲモニー抗争の展開を妨げている。21世紀の社会構造は、公的セクター、私的（営利）セクター、サード（非営利）セクターという三つのセクターのセクター間バランスを作り出さなければならないが、日本の場合サードセクターにおける事業は公益法人とファミリー企業が大きくシェアを広げ、公的セクターの植民地となっている。市民社会におけるヘゲモニー抗争は、サードセクターが社会的経済としてのアイデンティティを持ち、公的セクターと私的セクターに対抗していくことがその中身なのだが、日本の場合抗争主体が充分に育っていないのだ。日本における社会民主主義の発育不全は、この独特の社会構造によるところが大きい。公益法人解体とサードセクターに属する諸団体のアイデンティティの獲得による市民社会におけるヘゲモニー抗争の展開、足腰の問題は、このような日本の権力構造と社会構造に対する対抗関係の形成という視点から問題提起がなされるべきである。

④　他治から自治へ、環を握りしめる
　政策反対闘争や党派の独自活動、これらについては日本の左翼はいつも取り組んできた。そしてその成果は党組織の拡大や議席増に結びつける、あるいは議会に幻想を持たず、議会外の大衆運動に期待して権力闘争を構想する、これは20世紀の共産主義運動の継承だった。この試みの総括の上に新たな政治運動が構想されなければならないが、その際の基本的観点は他治から自治へ、であり、この観点から運動主体を創造していくことだ。政策反対闘争においてもこの観点が生かされなければならず、それによって新たな局面を切り開いていける。
　このような観点に立てば、環は何かということは自ら明らかとなる。原発と電力をめぐる攻防こそ、他治から自治への運動のモデルを提供でき、他のあらゆる運動を導くものとなれる。

⑤　自治論について
　自治についての日本での今日の一般的理解として、ふつう自治といえば地方自治のことを指し、まちづくりや地域づくりを連想させる。『市民派議員になるための本』（寺町みどり、学陽書房）では、「『自治』とは、『自らの自由意志に基づき、自由に行為を行うこと』です。」（18頁）と説明されている。これは市民派議員になるという観点からの自治の概念で、「『市民の自治』は、市民自身が、あなたが、いま・ここで、つくっていくしかありません。」（20頁）と結論付けられている。
　寺町みどりのブログでは後藤新平の自治論が紹介されている。後藤の自治論は「国家の基礎は自治の健全な発達にある」（『自治　シリーズ後藤新平とは何か』、藤原書店、92頁）という観点からのものであるとはいえ、日本社会の特徴をよく捉え、それの批判の要に自治をもってきている点で、今日でも意義を失っていない諸論点がある。例えば次のような批評がそれだ。
　「日本人の生活を一言でいえば『隣人のない生活』である。・・・・平等観がないから日本には上下の関係はあるが隣人という平等の関係がないのである。・・・・家族制度的な生活があって隣人関係の生活がないのである。国家的生活、国家に対する義務を遂行し、国家に頼る生活があって、社会的な生活がないのである。」（同書、74～5頁）
　日本は100年近くたった今でも、官僚支配の国であり、家族制度は解体し、個人化は進んでいるが、それは孤立的生活を実現したに過ぎず、隣人関係の生活が実現されてはいない。それは中央官庁のみならず、地方自治体までにいたる官僚支配の継続の結果であり、自治による地域づくりの欠落であり、国に頼る生活があって、社会的な生活がないのだ。
　「自己の生活はただ隣人とともに団結してはじめて拡充させ向上することが可能であるのは説明するまでもないが、このことは平等観の生活がない日本では容易に実現できないのである。・・・・もし、日本国民の生活に社会的に隣人と密接につながった組織があれば、自己の利益と社会の利益とが一致融合することを発見し、自己が永遠の生命を社会生活の中に発見することになろう。」（同書、75頁）
　後藤はここで述べている社会的に隣人と密接につながった組織の機能として、主婦の不買運動を挙げている。これは「人間の生活はまず食べることから始まる」（同書、77頁）と考え「食べるために生きるものはまず経済的に生きなければならない」（同書、77頁）という考えに裏打ちされ、今日の生協の組合員活動のイメージを描き出していると見ることもできる。後藤の自治論は地方自治に限らず、産業も含めた各種団体の自治を含んでいたのである。100年近く前に後藤が提起した自治の課題はいまだ実現されておらず、その限りで後藤の提起は現代性を失ってはいない。
　後藤は日本が他治社会であることを見抜き、自治の創造を他者（隣人）との関係の問題として提起した。寺町みどりが、自治を個人の政治参加としてしか見ていないのと好対照をなしている。他治から自治へというときの自治は自主管理・自主運営であり、他者との関係の持ち方である。それは決して参加型民主主義ではない。だから自治は他者との関係の取り方である、協同の問題を考慮することなしには展開できない。

⑥　オルタナティブな運動・団体と政治
　他治から自治へのながれは続き、既に多くのオルタナティブな運動・団体は存在している。20年掛けて緑の党を準備してきた白川氏の文章を読めば、この種の運動および団体との政治的結びつきについての具体的方針なり、組織について案が作れなかった、というように読み取れる。少し辛口の批評になるが、その原因は、白川氏の「新しい政治」がヨーロッパ社会民主主義の第三の道をモデルとしていたことと共に、例えば「脱成長」といった、もっぱらエコロジー的イデオロギーや価値観による人々の獲得という啓蒙主義的な姿勢にあるように思われる。政党は具体的な要求で人を組織すべきであり「脱成長」も具体的要求として提案されるべきだ。
さらに第三の道や伝統的なコミンテルンの政治からは、オルタナティブな運動・団体の政治的位置づけがでてこない。たとえば協同組合の政治性をどのように捉えるかということひとつ取ってみても、その政党の政治において迂回作戦が組み込まれていなければ政治的結びつきは不可能である。社会運動の地殻変動をふまえ、第三の道や、価値観の提起とは異なる政治の探求が求められているのではなかろうか。

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2013/01/22

2012年中日社会主義フォーラム報告

Author: ebara (10:02 pm)

2012年中日社会主義フォーラム報告
　ソ連崩壊の原理的根拠の解明と『資本論』初版本文価値形態論の意義
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
（解題）2012年9月南京師範大学で行われた第3回中日社会主義フォーラムで報告した文書の全文です。第3章は「社会運動の視点から見た反・脱原発運動 (バラキン雑記)」と同文です。

目次

要約
第1章　商品からの貨幣生成の原理
１．『資本論』の価値形態論、三つの異文
２．初版本文による貨幣生成の原理
１）初版本文には貨幣形態は登場しない
２）初版本文物神性論による商品所有者の意識の解明
３）交換過程論における意志支配
３．ソ連崩壊の原理的根拠

第2章　人格を物象化させるシステムとしての商品
１．物象化（Versachlichung）と物化（Verdinglichung）
２．初版本文価値形態論の解読
１）価値形態は単なる等式ではなく、社会的象形文字
２）思考における抽象と、価値関係における抽象との違い
３）価値形態の秘密と謎
４）物象の人格化のメカニズム
５）物象化（秘密）と物化（謎・神秘性）

第3章　投機・信用資本主義の段階と99％が掲げる反資本主義の思想的課題
１）資本蓄積の変化、もう一つの資本蓄積（投機・信用資本主義）の台頭
２）投機・信用資本主義の歴史
３）投機・信用資本主義の思想
４）投機・信用資本主義の本質
５）投機・信用資本主義の歴史的地位
６）反資本主義の思想的課題

2012年中日社会主義フォーラム報告
　ソ連崩壊の原理的根拠の解明と『資本論』初版本文価値形態論の意義

要約
　現代社会の発展を考察しようとする時に、ソ連社会主義がなぜ崩壊したのかという問題の解明は避けて通れない。周知のようにソ連社会主義の初期の革命理念は、階級の廃絶であり、この大目的のために、プロレタリアートの独裁によって、商品・貨幣関係を廃絶しようというところにあった。この革命理念を実現しようとしたプロレタリアートの独裁という戦術の再検討が今問われている。
　マルクス主義の古典中の古典である『資本論』、とりわけ初版本文価値形態論および交換過程論を読み解けば、商品からの貨幣の生成は、商品所有者たちの、無意識のうちでの本能的共同行為にもとづくものであることが知られる。この原理的認識にもとづけば、意志の力の限界を知ることが可能となる。
　プロレタリアートの独裁は、国家権力の法的、行政的な行使のみならず、権力の超法規的行使による社会革命をめざす戦術であり、資本家階級や地主階級からの生産手段の収奪については実現可能であり、また実現された。しかし、商品・貨幣関係は容易に廃絶できず、ソ連でも1930年代になって、「社会主義的商品生産」という範疇によって、この残存を承認せざるを得なかった。
　もし、商品からの貨幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によるということが革命党にとって周知のことであったならば、「社会主義的商品生産」といった範疇でその残存を事後承認的に認めるのではなく、商品・貨幣廃絶の実践的展望を明らかにすることが求められたはずである。
　無意識のうちでの本能的共同行為を意志の力で廃絶することは不可能である。しかし、このような行為を必然的にとらせるような生産関係を、迂回して変革していくような作戦により、このような共同行為を未発のものとする生産関係を構築していくことはできる。現代の資本主義は高度に発展をとげ、その中枢諸国では爛熟、腐蝕が見られ、中枢諸国の交代が予想される時代に入っている。このような時期に、商品・貨幣廃絶の実践的展望を明らかにすることによってマルクス主義の再生を図ることは、国際的な共産主義運動にとって死活の課題である。以上のような認識に従い、次の諸点について問題提起をしたい。
１．商品からの貨幣の生成が商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によること、したがってその廃絶はプロレタリアートの独裁によっては成し遂げられないこと。
２．商品自体が人格の物象化・物象の人格化をなしとげるシステムであること、したがって現代社会では人々は商品や貨幣や資本に意志を支配された存在であり、この意志支配から逃れる脱物象化の運動が実践されねばならない。
３．信用制度の異常な発展は、社会と国家の破壊にまで進み、人々を反資本主義の運動に駆り立てていること、したがって、脱物象化の運動は現実的な基盤を拡大している。人々は国家の破産後の社会設計を余儀なくされていること。この意味で、今日の反資本主義を求める運動は、商品・貨幣の廃絶をめざした脱物象化の運動の発展であり、共産主義運動の現実的展開としての意義をもっていること。

第1章　商品からの貨幣生成の原理

１．『資本論』の価値形態論、三つの異文

　周知のように『資本論』の価値形態論には三つの異文がある。初版の第1章商品のところに書かれているもの、これを初版本文と名づけておく。あと初版には付録がついていて、これは付録。そして最後に現行版の第1章商品のところの価値形態論で、これを現行版と呼ぶ。三つの異文の来歴は、マルクスが『資本論』初版の原稿をクーゲルマンに見せたところ、価値形態のところが難しすぎると言われて、これを学校教師風に解説した付録を書いた。そして第2版（現行版）では、マルクスは初版本文の価値形態論を全面的に書き換えたが、それは付録を土台にしている。だから現行版では付録はつけられていない。
　三つの異文の間の相違は色々あるが、その最大のものは価値形態論における貨幣形態の扱いにある。現行版では価値形態発展の4つの段階の最終段階は貨幣形態であり、付録もそうなのだが、初版本文では貨幣形態には一切言及されてはいない。この貨幣形態の扱いの相違が、初版で展開されているマルクスの貨幣生成論を見失わせてしまう結果になっている。

２．初版本文による貨幣生成の原理

１）　初版本文には貨幣形態は登場しない
　まず、初版本文価値形態論においては価値形態の発展は次の段階として記述されている。
　Ⅰ　相対的価値の第一形態あるいは単純な形態　（15頁）
　Ⅱ　相対的価値の、第二形態・あるいは発展した形態　（24頁）
　Ⅲ　相対的価値の、第三形態・あるいは第二形態を転倒しあるいは逆の関係においた形態（25頁）
　Ⅳ　形態Ⅳ　（34頁）
　Ⅰ～Ⅲについては付録や現行版との相違はない。しかし、Ⅳについては付録や現行版が貨幣形態を取り上げているのに対して、初版本文は、全ての商品が形態Ⅱをとり、「単純な相対的価値表現の決して終結することのない系列」（34頁）が無限に続く形となっている。つまり、初版本文価値形態論では、商品の社会的形態（端的には貨幣形態）が、商品の価値形態の発展だけからは望み得ないこと、第2章の交換過程論をまって始めて貨幣形態の生成が起きることを想定していたのである。つまり、初版本文の形態Ⅳは、どの商品もが貨幣形態になりうること、しかし商品Aがそうなれば、商品B、C、等々はそうはなれないこと、ということの確認だったのである。

２）　初版本文物神性論による商品所有者の意識の解明
　商品章の最後は物神性論で締めくくられているが、この部分も現行版と初版では相当の相違があり、現行版では商品の神秘性（物神性）の暴露に焦点が当てられているが、初版の場合は人格が物象化する仕組みの暴露に焦点が当てられている。これは初版本文価値形態論が、もっぱら商品がいかにして社会的形態を獲得するかという観点から、商品を人格を物象化するメカニズムとして解き明かしていること、つまり商品の秘密の解明が企てられていることと関連している。先走って言っておけば現行版では商品の秘密の暴露は後景に退き、その謎の暴露（等価形態の謎性の解明）に焦点が移っているのである。
　さて、初版の物神性論の中心的テーマは、商品という、人格を物象化するメカニズムに人が取り込まれたときに、人がどのような意識状態にあるかということの解明である。
「それでは、労働生産物が商品の形態をとるとき、その謎のような性格は一体どこからくるのであろうか？
もし人間たちが彼らの諸生産物を、これらの諸物象（Sache）が同質の人間労働のたんに物象（Sache）的な外皮として認められるかぎりにおいて、諸価値として相互に関係させるのだとすれば、このことのうちには同時にそれとは逆に、彼らのいろいろに違った労働は、ただ物象（Sache）的な外皮のなかの同質な人間的労働としてのみ認められているのだ、ということが含まれている。彼らが彼らのいろいろな労働を相互に人間労働として関係させるのは、彼らが彼らの諸生産物を相互に諸価値として関係させるからである。人格的な関係が物象（Sache）的な形態によって隠されているのである。したがって、この価値の額には、それがなんであるか、は書かれていないのである。人間は、彼らの諸生産物を相互に諸商品として関係させるためには、彼らのいろいろに違った労働を抽象的な人間労働に等値することを強制されているのである。彼らはそれを知ってはいない。しかし、彼らは、物質的な物を抽象物たる価値に還元することによって、それを行うのである。これこそは彼らの頭脳の自然発生的な、したがってまた無意識的、本能的な作用なのであって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産が彼らをそのなかに置くところの諸関係とから、必然的に生え出てくるのである。」（38頁）
初版本文価値形態論では、商品が主役で、商品所有者は役割を果たしてはいない。そして交換過程論では商品所有者の行為が考察されるのだが、その中間に位置する物神性論では、このように商品所有者の意識が考察されている。商品は確かに人格を物象化するメカニズムではあるが、しかし商品それ自体は単なる物であり、それは所有者たる人格の意思行為によって商品として実存しうるのだ。では人格が、商品という人格を物象化するメカニズムに身を任せたときの意識はどのようなものか。
商品所有者たちが、自らの労働生産物を商品として扱うということは、私的所有物にその性格を変えないまま社会的な形態を与えるということであり、このメカニズムは価値形態論で解明されたように、物質的なものを抽象物たる価値に還元することなのだが、彼らはこのことを意識はせず、あたかももって生まれた本能に従っているかのように、この行為を行うのである。

３）　交換過程論における意志支配
　初版本文価値形態論の第Ⅳ形態は、どの商品もが一般的等価物となりうることの確認であり、この確認で価値形態論は締めくくられていた。そして初版物神性論では、人格を物象化するシステムである商品とは、所有者たちの私的労働の産物を社会的な物にするという人々の社会的関係に他ならないのだが、所有者たちは、その内容を何も知らないまま、もって生まれた本能に従っているかのように、無意識的に生産物を商品にしていることが解明された。そしてこのような手順を踏んで交換過程における商品所有者たちの行為が分析されるに至るのである。
　「諸商品は、自分たち自身で市場に行くことができないし、自分たち自身を交換しあうこともできない。だから、われわれは、それらの番人である商品所有者たちを探し出さねばならない。諸商品は、物であり、したがって人間に対しては無抵抗である。それらが従順でなければ、人間は暴力を用いることができる、言い換えれば、それらをつかまえることができる。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志がこれらの物においてある定在をもつところの諸個人として互いに関係しあわねばならない。・・・・諸個人はここでは、自分たちがなんらかの諸物象（Sache）を商品として互いに関係させることによって、互いに関係しあっているにすぎない。だから、この関係のあらゆる規定は、商品としての物象（Sache）の規定のなかに含まれている。」（45頁）
物神性論で明らかにされたことは、商品所有者たちの行為は無意識的に商品の関係に組み込まれていくのだが、それはその内容については理解しないままであった。交換過程論では商品所有者たちの意識ではなくて意志が問題にされ、「自分たちの意志がこれらの物においてある定在をもつところの諸個人」というように述べられている。つまり、商品所有者たちの意志は、商品という物象に支配されているのである。現行版では、この叙述は「自分の意志をこれらの物に宿す人格」（現行版、90頁）というように変更されて分かりやすくなっている。
この現行版に即して考えると、商品とは人が意志を宿せるような存在だということになる。単なる物には意志を宿せないが、商品は物象だから意志を宿せるのであり、私はこれを商品が概念的存在であるとマルクスが見ていたと思っている。概念的存在という意味は、結局人間の思考様式に似た、抽象力と判断力とをもった存在という意味である。人間の思考というのは、デカルトが思考法則としてこれを定式化しているように、物事を分析して抽象して、とことん簡単なところまでいって、それを思考のなかで再度組み立てて総合して、それで概念的に把握して判断をするという、対象の理解の仕方である。実は、商品という物象もそういう思考に似たことを行っている。商品自身が他の商品との価値関係のなかで、思考に似たことを行っているのだ。彼らが行っているのはどういうことかと言ったら、商品が「考える」と言っても、人間のように余計なことではなくて、自分の価値がいくらかということを「考えて」いる。自分の価値がいくらかということは商品相互の関係のなかで、彼らが決めているわけだ。だから、人間はその物象に意志を宿すことができる。
「もっと詳しく見ると、どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれも自分の商品の特殊的な等価物とみなされ、したがって、自分の商品はすべての他の商品の一般的な等価物と見なされる。ところが、すべての商品所有者が同じことを行うから、どの商品も一般的な等価物ではなく、したがってまた諸商品は、それらが価値として等置され価値量として比較されあうところの、一般的な相対的価値形態を、もっていない。だから、諸商品は、一般的には、商品として相対するのではなく、生産物または使用価値としてのみ相対することになる。
わが商品所有者たちは当惑のあまりファウストのように考え込む。初めに行為ありき、と。だから、彼らは考えるよりも以前にすでに行為していたのだ。商品の諸法則は、商品所有者たちの自然本能において実証されている。」（47頁）
ここで、ゲーテを引きながら述べられている事柄に注目してみよう。商品に意志を宿した商品所有者たちが、当惑したのは、彼らには初版本文第Ⅳ形態が望ましいものに見えるからだった。商品が概念的存在であり、人がそれに意志を宿せるとしても、初版本文の第Ⅳ形態を作ってしまっては一般的、統一的な商品交換は成立しない。普通に考えれば、商品所有者たちは自分が所有している商品で他の商品が買えればそれにこしたことはないから、商品所有者たちが自分の頭で考えれば第Ⅳ形態に落ち着いてしまう。自分の商品を一般的等価物にしたいという意識は、しかし、そのことによってどの商品も一般的等価物にはなれず、一般的な商品交換が不能となるという現実に直面する。しかしマルクスは考える前にすでに行為していた、と言っている。ここで初版本文価値形態論の第Ⅳ形態が想起されるべきである。その第Ⅳ形態が貨幣形態ではなく、商品所有者たちが自分の頭で考えて、自分の商品を一般的等価物にしようとする結果でき上がる形態であったことは、貨幣生成が、価値形態論の枠組みの外でなされるものであり、それが商品所有者たちのどのような行為であるかを交換過程論で解明していくための手立てだったのだ。では「商品の諸法則は、商品所有者たちの自然本能において実証されている。」とはどのようなことか。
「彼らが、自分たちの商品を、価値として、それゆえに商品として、互いに関係させることができるためには、彼らが、自分たちの商品を、一般的な等価物としてのなんらかの別の一商品に対立的に関係させる、という手段にたよるほかはない。このことは、商品の分析が明らかにしたところである。ところが、社会的な行為だけが、ある特定の商品を一般的な等価物にすることができる。だから、すべての他の商品の社会的行為が特定の一商品を排除し、この商品のうちに、すべての他の商品が自分たちの価値を全面的に表わすことになる。このことによって、この商品の現物形態が、社会的に認められる等価形態になる。一般的な等価物であるということが、社会的過程によって、この排除された商品の独自的な社会的機能となる。こうして、この商品は――貨幣になるのである。」（47～8頁）
ではなぜ考える前に行動できたのか。商品所有者たちが自分の頭で考える前に行動できたのは、商品に意志を宿しているからだった。自分の考えでは自分の商品を一般的等価物にしたいのだが、それでは商品交換は成立しない。ところが諸商品は自分以外の特定の商品を一般的等価物とすれば、一般的な商品交換が可能となるというサインを商品所有者たちに送っている。このサインに従って行為することが行われているのだ。この行為の結果、商品所有者たちは自分の商品ではなく、他の一定の商品で自分の商品の価値を表現することで一般的等価物を作り出すことができる。これは商品所有者たちの共同行為であるが、商品に意志を宿したことの帰結として作り出された行為であり、人々はこの行為については自らの頭で考える必要はなかった。それゆえ、貨幣生成の共同行為は、無意識のうちでの本能的共同行為なのである。
つまり、貨幣生成の無意識のうちでの本能的共同行為というのは、一般的等価形態（貨幣形態）にある一定の排除された商品で自分の商品の価値を表現するという、単にそれだけのことだ。その共同行為は、商品所有者にとっては自分の商品の市場価格はいくらと知って、それで値付けをしているという行為の裏面にある。個々の商品所有者にとっては値付けをしているという行為が、実は貨幣を生成する共同行為に各々が参加するという意義をもっているのだが、それは無意識の行為だから意識されない、そういう変な行為の構造があるという点が貨幣生成論の本質的なところである。

３．ソ連崩壊の原理的根拠

　以上で述べたように、初版本文価値形態論と物神性論、そして交換過程論を解読して、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によって商品から貨幣が生成されているということが判明すれば、貨幣は歴史的一時点で形成され、それがずっと継続されているものとしてではなく、現在の毎日の無数の商品交換の過程で都度生成され続けていることが判明する。そしてこのように絶えず再生産され続けているものであるがゆえに、それの廃絶も可能であるが、しかし、それは法律や行政といった、意志行為の枠外にあるのだ。商品・貨幣の廃絶という問題については、無意識のうちでの本能的共同行為を必要とはしない経済的関係を迂回して形成していくという課題が見えてくる。そしてソ連の経験は、この無意識のうちでの本能的共同行為を、政治権力や法律的規制や行政的方法で廃絶しようと試みたがそれを実現することができなかったということとして、総括できる。

第2章　人格を物象化させるシステムとしての商品

１．物象化（Versachlichung）と物化（Verdinglichung）

　まず冒頭で、周知のことだと思われるが、レーニンの言葉の引用から始めたい。レーニンは『哲学ノート』で「ヘーゲルの論理学全体をよく研究せず理解しないではマルクスの資本論、とくにその第1章を完全に理解することはできない。したがって、マルクス主義者のうちだれひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった。」（『レーニン全集』日本語版38巻、150～1頁）と述べている。レーニン以降も『資本論』第1章についての理解が進んでいるとは思われない。そして現在のような資本主義の爛熟的発展期において、資本主義への批判を、商品・貨幣への批判から始めることが問われているが、そのためにもレーニンの言葉をかみ締める必要がある。
　マルクスの商品・貨幣論の理解にとって避けて通れないのが、物象化（Versachlichung）と物化（Verdinglichung）の区別である。マルクス自身が用語を区別して使っているにも拘らず、長谷部訳を除く日本語版、ロシア語版、中国語版では区別されていない。
マルクスがわざわざ別の用語を使って区別した理由を知ることが大事である。物象化については、人格の物象化と物象の人格化というような表現がある。このようなことが起きる仕組みは物神性論で解明されているが、マルクスは他方そこでの課題を商品の神秘性や物神性の解明にも置いている。それで、物象化を物化と同じものと見なす考え方も生み出されている。しかしマルクスの構えは、物象化という事態があり、これが人間の意識に幻影的形態を反映させるという二重の考察にもとづいて、商品の物神性を解き明かしてる。だから物化とは、この人格が商品に物象化されたときに人格の意識に昇る幻影的形態に関連し、商品の交換可能という社会的力が、そのものの自然的属性から生じているように見えることにもとづいて起きている事態のことだ。
　他方で物象化とは、価値形態論で解明されているが、まずは人々が自らの生産物を商品として扱う時に起きる人々と商品との関係の転倒であり、人々の社会的力が商品という物象の社会的力に頼る形でしか発揮できないという事態のことなのだ。マルクスは価値形態の秘密と謎というように二つの事柄を説いているが、秘密は物象化に関連し、謎は物化に関連している。そしてまずは価値形態の秘密こそが理解されねばならない。以上を前置きとして、初版本文の価値形態論を読み解いていく。なお頁数の関係で以下は論文「大阪自由大学資本論講義記録（第2回）」（『ＡＳＳＢ』誌、第20巻第2号所収）の要約である。

２．初版本文価値形態論の解読

１）　価値形態は単なる等式ではなく、社会的象形文字
　価値形態の秘密をリンネル＝上着という簡単な価値形態で解き明かしている初版本文価値形態論は、『資本論』の中でも一番難解な箇所である。それの解読がなされなければならない。まずマルクスは次のように述べている。
「リンネルは、一つの使用価値すなわち有用物の姿で、この世に登場する。それゆえ、その糊でごわごわした物体性すなわち自然形態は、その価値ではなくて、価値形態の正反対物なのである。それはそれ自身の価値存在を、さしあたりはまず、自分に等しいものとしての他の一つの商品、上着に連関することによって、示すのである。もしリンネルがそれ自身価値でないならば、リンネルは価値としての・自分に等しいものとしての・上着に連関することはできないであろう。質的にはリンネルは自分に上着を等置するのであるが、そうするのは、リンネルが、同種の人間的労働の・すなわちそれ自身の価値実体の・対象化としての上着に関連することによってである。そしてリンネルが自分に、ｘ着の上着ではなくて1着だけの上着を等置するのは、リンネルが単に価値一般であるだけではなくて一定の大きさの価値であり、しかも1着の上着が20エレのリンネルが含んでいるのとちょうど同じだけの労働を含んでいるからである。」（久留間鮫造『マルクス経済学レキシコン』第11巻、23～5頁、原典、16頁）
　まず価値形態とは超感性的なものであり、感性的につかみうるリンネルや上着といった個々の商品の等置の関係において、超感性的な現象形態がどのように現れているかということを読み解くことが問われている。超感性的な現象形態といったものが果たしてありうるのか、あるいはそのような現象形態は認識可能なのか、このような疑問が当然出てくるが、一旦脇において、マルクスの分析を追って行く。
　リンネル=上着、という形態は数式の形をとっているが、今必要なことはこれを量的関係の表示としてではなくて、社会的象形文字として解読することである。だからそこに量的関係を見るのではなくて、意味を解読しなければならない。このことが分かれば、言語表現も、超感性的なものであることが判明する。音や文字は感性的に把握できる自然物であるが、意味は超感性的なものであり、かつ言語は人間が意味を理解し、表現し、それによって思考する意識形態そのものなのだ。
　リンネル=上着、という社会的象形文字の意味は、まずはこの関係が「質的にはリンネルは自分に上着を等値する」という現象形態をとっていることとして解析することから解読が始まる。ここでリンネルは上着に関連しているのだが、この関連の中身を「質的にはリンネルは自分に上着を等置する」と視ることで、この場合の同等な質が、価値であり、労働であることを発見できるのである。
　「リンネルは、上着にたいするこの連関によって、一石で何鳥をも仕留めるのである。リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、価値としての自分自身に連関する。リンネルは、価値としての自分自身に関連することによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。リンネルは自分の価値の大きさ―そして価値の大きさは価値一般と量的に計られた価値との両方である―を上着で表現することによって、自分の価値存在に自分の直接的な定在とは区別される価値形態を与える。リンネルは、こうして自分を、自分自身において分化したものとして示すことによって、自分をはじめて現実に商品として、すなわち同時に価値でもある有用物として示すのである。リンネルが使用価値であるかぎりでは、それは一つの自立した物である。これに反して、リンネルの価値は、ただ、他の商品・たとえば上着・にたいする関係のなかにおいてのみ現れるのであって、この関係のなかでは、上着という商品種類がリンネルに質的に等置され、したがってまた一定の量において同等とみなされ、リンネルの代わりとなり、リンネルと交換可能なのである。それゆえ、価値は、使用価値とは区別された固有の形態を、ただ交換価値としてのそれの表示によってのみ、受け取るのである。
リンネルの価値の上着での表現は、上着そのものに一つの新しい形態を刻印する。じっさい、リンネルの価値形態とは、何を意味するのであろうか？それは、上着がリンネルと交換可能である、ということである。上着はいまやまったくありのままの姿で、上着という自然形態において、他の商品との直接的交換可能性の形態を、一つの交換可能な使用価値の・あるいは等価物の・形態を持つ。等価物という規定は、商品が価値一般であるということを含むばかりでなく、その商品がその物的な姿において、それの使用価値において、他の商品にたいして価値として意義をもち、したがってまた直接に交換価値として他の商品のために存在している、ということを含むのである。」（同書、25頁、原典、16～7頁）
　リンネル＝上着、という社会的象形文字の解読が、ここでは社会関係における両極の役割と、両極の関係で成立している形態規定の内容の分析としてなされている。両極にあるものはリンネルと上着という使用価値であり、それ自体はありふれた物である。ところが両者が価値形態を取ると、「質的にはリンネルは自分に上着を等置する」という意味が発生する。そしてこのことは、この社会関係で形成されている事態が、リンネルにとっては価値としての自分自身と関係していることであり、そしてそのことは同時に、この関係を使用価値としての自分自身とは区別された存在として表示し、その上にさらにこの区別された存在を価値形態として現象させているというように解析できるのである。そしてこの現象してきた価値形態、その内容は決して感覚的に認識することはできないのであるが、この価値形態において、リンネルが上着に直接交換可能性という社会的力を与えるように形態規定しているのである。この関係のなかでは上着はその自然形態のままで、等価物という社会的力をもつのである。
　一つの例えを考えてみよう。人と人との対面の関係を想定しよう。ＡさんとＢさんとが対面関係にあるときに、ＡさんがＣさんのポケットから財布を失敬したとしよう。するとそれを見たＢさんはＡさんをとがめる。このときにＡ＝Ｂという関係で、表示できる事柄がある。それは両者が法律的関係に入っているということだ。Ａさんは犯罪的行為を犯すことでＢさんに働きかけ、法律という社会的な共通性の関係を顕現させて自分にＢさんを等置する。そうすることで、Ａさんは自然人としての存在とは区別された法律的存在として自らを表示し、その上に、相手であるＢさんの仕草で、自らの行為の犯罪性を現象させる。
　例えはいつでも比喩的である。ここでも商品と意思をもつ人間との違いが当然にも現れているが、しかし共通な事柄は、社会関係が常に形態規定を伴うということだ。商品の価値形態にあっては、等価形態にある商品上着が、価値形態による形態規定によって、リンネルと交換可能だという社会的力を受け取るのであるが、法律的関係の場合はＢさんが、自然人でありながらＡさんとの法律的関係の中では、法律という社会的なものの化身とされているということであり、ここに形態規定の働きを読み取ることができる。社会的形態規定が社会的関係においては働いているという事態は共通であり、この意味でマルクスが商品の価値形態論で社会関係の意味を解読したことが、社会関係一般の解読に応用できるのだ。

２）　思考における抽象と、価値関係における抽象との違い
次は少し長いが、重要なところなので、厭わず引用しておく。
「価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明に結晶した労働の凝固体をなしている。ところが、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは―そして必ずしもどの商品体も労働の痕跡を示しているわけではない―、それは無区別な人間的労働ではなく、織布、紡績、等々であって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろもろもろの自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物にしているところのすべてのものを度外視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容ももたない人間的労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。ところが、諸商品は諸物象である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物象的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品は、それらがなんであるかを、それら自身の物象的な諸関連のなかで示さなければならない。リンネルの生産においては一定量の人間的労働が支出されてしまった。リンネルの価値は、このように支出された労働の単に反射なのであるが、しかし、その価値はリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。リンネルが価値としての上着を自分に等置しながら、他方同時に、自分を使用対象として上着から区別する、ということによって、上着は、リンネル‐物体に対立するリンネル‐価値の現象形態となり、リンネルの自然形態とは区別されるリンネルの価値形態となるのである。
20エレのリンネル＝1着の上着、またはx量のリンネルはｙ量の上着に値する、という相対的価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体としてのみ意義をもつのではあるが、しかしまさにこのことによって、労働凝固体は上着として意義をもち、上着は、人間的労働が凝固している形態として意義をもつのである。使用価値上着がリンネル‐価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に連関しているからにすぎない。上着という対象性は、リンネルにとっては、同種の人間的労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがって自然形態における価値として、意義をもつのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という自然形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、人間的労働そのものではないのであって、一定の、有用的な労働、裁縫労働である。人間的労働そのもの、人間的労働力の支出は、たしかにどのようにでも規定されることができるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間的労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。というのは、ただ、特定の労働にたいしてのみ、自然素材は、すなわち労働がそのなかに対象化されていく外的な物質は、相対するのだからである。ただヘーゲル的な『概念』だけが、外的な素材なしに自己を客観化することをやってのけるのである。」（同書、27～29頁、原典、19～9頁）
ここでマルクスは思考による抽象化と、価値形態における抽象化との違いについて述べている。自身が『資本論』冒頭で諸商品を抽象的人間労働に還元したことを念頭において、まず思考による抽象がもたらした抽象的人間労働の対象化としてのリンネルが「一つの思考産物」であることを明らかにし、それが価値形態においてリンネルが抽象化されることとは別の事態であることを示している。思考による抽象は分析的抽象で、差異を捨てて共通な物を取り出すことであるが、しかしそこで得られた抽象的な対象性とは思考産物だった。では商品の価値形態ではリンネルはどのようにして抽象化されるのであろうか。
思考産物ではないリンネルの抽象性とはリンネルの上着との価値関係のなかに発見するしかない。この場合のカギも「質的にはリンネルは自分に上着を等置する」という理解が出発点である。この等置の関係において、リンネルを生産した労働がどのような役割を果たしているかというと、上着に自分に等しい物として関連するということであるから、この場合は双方に共通な物は労働であり、労働の等しい関係が成立しており、リンネルを生産した労働が上着に反射しているという事態が解読できる。そこでリンネルを作る労働がリンネルに反射している場合、それがどのような労働かは想像できるし、この場合はリンネルを使用価値として分析しているわけである。ところが、リンネルを作る労働が上着に反射しているとすれば、上着を見てもリンネルを作る労働を想像することはできない。この意味で、リンネルを作る労働が抽象化されていることになる。
さて、次にこのリンネルによる上着での価値表現は上着に形態規定を与え、上着を労働凝固体としている。でもその場合、上着を作る労働が、抽象的人間労働の産物というわけではなくて、上着は裁縫労働という具体的有用労働の産物だ。具体的有用労働の産物であり、それ自身自然物である上着は、リンネルとの価値関係のなかでだけ、その自然形態のままで、単なる労働凝固体としての意義をもつものとなるのである。
順序は逆になるが、思考による抽象化の対象としての商品が、人間労働の単に「物」的な表現として、単なる「物」として規定されているのに対して、マルクスが「諸商品は諸物象である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物象的にそういうものでなければならない」と述べていることに注目しよう。ここからは商品が単なる物から物象へと転変していく仕組みが説かれているのである。

３）　価値形態の秘密と謎
商品が物象として存在する仕組みは、商品の価値形態そのものであるが、その価値形態においては人間労働の抽象化が、思考による抽象化とは異なる事態抽象としてなされるので、理解するのに非常な困難がともなう。
「われわれはここで、価値形態の理解を妨げるすべての困難のかなめに立っているのである。商品の価値をその使用価値から区別すること、あるいは、使用価値を形成する労働を、単に人間的労働力の支出として商品価値から評価されるかぎりでの同じ労働から区別することは、比較的たやすい。商品または労働をまえの形態で考察するときには、あとの形態では考察しないし、あとの形態で考察するときにはまえの形態では考察しない。これらの抽象的な対立物はおのずからたがいに分かれあうのであり、したがってまたたやすく見分けられうるのである。商品の商品にたいする関係のなかにだけ存在する価値形態の場合はそうではない。使用価値あるいは商品体は、ここでは一つの新しい役割を演じるのである。それは商品価値の、つまりそれ自身の反対物の現象形態となる。同様に、使用価値に含まれている具体的有用労働が、それ自身の反対物に、すなわち、抽象的人間労働の単なる実現形態となる。商品の対立的な規定は、ここでは、互いに分かれるのではなくて、互いに反照しあうのである。これは一見するといかにも奇異に思われるが、立ち入って考察すれば必然的なものであることがわかる。商品は、もともと一つの二重物、すなわち使用価値および価値、有用的労働の生産物および抽象的な労働凝固体である。それゆえ商品は、自分が商品なのだということを表わすためには、その形態を二重にしなければならない。使用価値の形態は、商品は生まれながらにもっている。それは商品の自然形態である。価値形態は、商品が他の諸商品との交わりにおいてはじめて獲得するものである。だが、商品の価値形態は、それ自身がまた対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な形態は、その使用姿態、その自然形態である。ところで、一商品、たとえばリンネルの自然形態はその価値形態の正反対物なのだから、それは何か他の自然形態を、他の一商品の自然形態を、自分の価値形態にしなければならない。それは、直接に自分自身にたいしてすることができないことを直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分自身にたいして、することができるのである。それは自分の価値を、それ自身の身体で、言い換えればそれ自身の使用価値で表現することはできないが、しかしそれは、直接的な価値定在としての他のある使用価値あるいは商品体に関連することはできる。それは、それ自身のうちに含まれている具体的労働にたいしては、抽象的人間労働の単なる実現形態としての表現形態としてのこの労働に関係するということはできないが、しかし、他の商品に含まれている具体的労働にたいしてはそうすることができる。そうするためには、その商品はただ、他の商品を自分に対して等価物として等置しさえすればよい。一商品の使用価値が他のある商品のために存在するのは、まったくただ、それがこの他の商品の価値の現象形態として役立つかぎりにおいてのみである。もし、x量の商品A＝y量の商品B、という簡単な相対的価値表現において、ただ量的な関係だけしか考察しないならば、そこに見いだされるものもまた、ただ、相対的価値の運動にかんするまえに展開した諸法則―それらはすべて、商品の価値の大きさはそれの生産のために必要な労働時間によって規定されている、ということにもとづいている―だけである。だがもし、両商品の価値関係をその質的な側面から考察するならば、われわれはこの簡単な価値表現のうちに、価値形態の秘密を、したがってまた、つづめて言えば貨幣の秘密を発見するのである。」（同書、31～3頁、原典、19～21頁）
マルクスが価値形態の理解を妨げる困難の要、と言っていることは価値形態の秘密に関連している。ここで価値形態の秘密と謎の区別について簡単にふれておく必要がある。価値形態の謎とは、上着が価値関係において形態規定されて、上着の自然形態そのものが価値の実現形態とされている、という事態が、人々には、上着が価値の実現形態であること、つまりはリンネルとの直接的交換可能性という力をもつことが、リンネルとの価値関係の外部にある上着という自然物そのものに備わっているように見える、という誤った認識を生み出さざるを得ない事を指している。これに対して秘密の方は、この謎が生み出される根拠のことだ。そして価値形態の秘密とは、通常使用価値が価値の現象形態となることというように理解されているのだが、このような理解ではこの秘密の上面を眺めたかぎりのものでしかない。
価値形態の秘密とは、煎じ詰めれば商品が物象として成立していることの解明だ。それは上着の使用価値が価値の現象形態となっていることに違いはないのだが、これがどのようなメカニズムでそうなるかということこそが問題なのだ。その際の要は、リンネルが上着を価値の現象形態とするためには、上着を作る具体的労働を抽象的人間労働の単なる実現形態にしなければならないということだ。リンネルも上着も共に労働生産物であり、したがって、生理学的意味での人間労働という共通性を持ち、この意味で双方とも抽象的人間労働である、という思考における抽象化とは違う形での抽象化が、リンネルと上着の価値関係では行われているのだが、この抽象化はリンネルが上着を等価物として自分に等置するだけでいいのである。
リンネル商品の所有者は、上着の使用価値を価値の実現形態にしようという意図をもって上着に関連するわけではない。しかしリンネル＝上着という価値形態にあっては、上着を作る具体的労働を抽象的人間労働の実現形態とするという抽象化がなされていて、そしてこの抽象化によって、商品が社会的形態を獲得するのである。私的所有物であるリンネルは、同じく私的所有物である上着と交換可能である、というこの形態こそ、私的労働の産物を私的性格を変えないままで社会に通用させる社会的形態なのである。こうして商品は物象となる。人々は何も意識しないで商品の本性に従うことで、社会的交易を実現できるのである。

４）　物象の人格化のメカニズム
価値形態論の解明の視角が初版本文と現行版とでは相違があり、初版本文では商品の社会的形態がいかにして成立するかという視角であったが、現行版では労働の社会的形態という視角になっている。この視角の相違に加えて、初版本文の価値形態論では、貨幣形態は説かれてはいないのに、現行版では物神性論の前にすでに貨幣形態を説いてしまっていること、ここから物神性論においても初版本文と現行版との相違が出てくることは予想できる。しかし、この検討はあまりにも細かい論点になるので今回は取り上げない。とりあえずは初版の物神性論の解読から始めて行きこう。訳文は江夏訳を採用するが、物象と物の訳しわけをしてはいないので、原文に当たって修正してある。
「それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか？
　人々が彼らの諸生産物を、これらの諸物象が同種の人間労働の単なる物象的外皮として認められているかぎりにおいて、価値として互いに関係させるならば、このことのうちには、同時にこのこととは逆に、彼らのいろいろな労働が、物象的外皮のなかでは、同種の人間労働としてのみ認められる、ということが含まれている。彼らは、自分たちの諸生産物を価値として互いに関係させることによって、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させているのである。人的な関係が物象的な形態で覆い隠されている。したがって、価値の額には、価値が何であるかは書かれていない。人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。彼らはこのことを知ってはいないが、彼らは、物質的なものを抽象物である価値に還元することによって、このことを行うのである。これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産によって彼らがおかれているところの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。」（江夏美千穂訳『初版資本論』幻燈社、61～2頁、原典、38頁）
　価値形態論では商品が主役で、商品が物象として存在している様式の解明がなされていた。価値形態論の一番難解な箇所を解読し終えたいま、この物神性論の叙述は、意外とすらすらと理解可能ではないだろうか。物神性論では、商品という物象と商品所有者という人格との関係をテーマとしていることが判明し、物象の人格化と人格の物象化の仕組みと、その仕組みが人格の意識に生みだす意識内容とが問題にされているのだ。
　物象の人格化と人格の物象化は、二つの区別された過程ではなくて、人々が諸生産物を商品として扱うという、一つの行為から生まれる。生産物を商品とするということは一つの行為であり、人々の意識的活動に他ならないのであるが、しかしその意識は、自らの行為が物質的なものを抽象的なものである価値に還元しているというこの行為のもつ意味については理解がないのだ。つまり物質的なものを抽象的なものに還元するという事態は、商品の価値形態で商品自体の社会的行為でなされていて、商品に物象化された所有者たちの意識の外にあり、所有者たちは商品という意識を持たない存在に物象化されているのである。だから、所有者たちにとっては、生産物を商品にするという行為は、無意識のうちでの本能的行為となる。
「生産者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物象の運動という形態をとっているのであった、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御されているのである。ところで最後に価値形態について言えば、この形態こそはまさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがって私的諸労動が社会的に規定されていることを、あらわにするのではなくて、物象的に覆い隠している。私が、上着や長靴等々は、抽象的な、人間的な、労働の・一般的な具象物としてのリンネルに、関係していると言えば、この表現の奇異なことは明白である。ところが、上着や長靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させると、彼らにとっては、自分たちの私的諸労働の社会的な関係が、まさにこのような奇異な形態で現れるのである。」（同書、62～3頁、原典、39頁）
　物象の人格化と人格の物象化という事態が生みだされる仕組みとは、私的労働生産物を社会的なものにしていくときに、生産物を商品とするという無意識のうちでの本能的行為によって、物象相互の社会的関係に人格の意思を委ねることで、私的労働を社会的なものへと転化する仕組みである。つまり、リンネルという具体的労働の産物を単なる抽象的労働の実現形態とすることで個々の具体的労働の産物を社会に通用できるものにする、という物象のメカニズムを作動させることなのだ。だからこの事態は生産者たち自身の社会的運動が、諸物象の運動という形態を取り、したがって彼らはこの運動を制御はできず、逆に物象の運動によって制御されることを意味するのだ。
　「私的生産者たちは、自分たちの私的生産物である諸物象に媒介されて、初めて社会的な接触にはいる。だから、彼らの労働の社会的な諸関係は、彼らの労働における人々の直接的に社会的な諸関係として、存在し現れているのではなくて、人々の物象的な諸関係または諸物象の社会的な関係として、存在し現れている。ところで、物象を社会的な物として、最初にかつ最も一般的に表わすことは、労働生産物が商品に転化することなのである。
　つまり、商品の神秘性は次のことから生じている。すなわち、私的生産者たちにとっては、自分たちの私的労働の社会的な諸規定が、労働生産物の社会的な自然規定性として現れているということ、人々の社会的な生産諸関係が、諸物象の対相互的および対人的な社会的諸関係として現れているということ。社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがって、彼らにとっては諸対象という形態で存在している。商品生産者たちの一般的な社会的生産関係は、自分たちの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物象的な形態において、自分たちの私的所労働を同等な人間労働として互いに関係させる、という点にあるのであるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的な人間にたいする礼拝を伴うキリスト教が、ことにそれのブルジョア的な発展であるプロテスタントや理神論等々におけるキリスト教が、もっともふさわしい宗教形態である。」（同書、63～4頁、原典、39～40頁）
　マルクスはここで、物象を社会的なものとして、最初にかつ最も一般的に表わすことは、労働生産物が商品に転化することであると述べている。つまり私たちが、商品の価値形態を商品という物象の生成と捉え、物象の人格化の仕組みを物神性論に読み取るという試みは正鵠を得ているのだ。そしてこれらの観点は現行版による限りは明らかになりにくいのであり、初版本文価値形態論にまでさかのぼる必要があったのだ。そして商品は物象でありながらもそれ自体は意思をもたないモノであるから、商品所有者の意識との関連で、物象の人格化のメカニズムを説く必要があり、商品所有者の無意識のうちでの本能的行為として生産物を商品とする行為がある、ということが解明されたのである。
　初版本文では、価値形態論で貨幣は説いておらず、交換過程論のところで、商品の本性に意志を宿すことで実現する、無意識のうちでの本能的共同行為が貨幣生成のメカニズムであること、私たちはこの確認から今回の報告を説き起こした。そして、交換過程の前に、すでに生産物を商品にするという行為もまた無意識的な本能的行為であることを確認したのだ。このような理解のうえで、商品の神秘性、謎的性格、あるいは物神性、などといわれている問題、つまり物象の成立を解き明かす価値形態の秘密ではなくて、物化に関連する謎の方の解明に移ろう。

５）　物象化（秘密）と物化（謎・神秘性）
初版の物神性論では、商品の神秘性についてはそれがどこから生じるかについて述べられてはいるが、現行版のほうが分かりやすくまとめている。現行版によって商品の神秘性について見ておく。
　「それでは、労働生産物が商品形態をとるや否や生ずる労働生産物の謎的性格は、どこから生ずるか？あきらかに、この形態そのものからである。人間の諸労働の同等性は、労働諸生産物の同等な価値対象性という物象的形態を受けとり、人間的労働力の支出の、その時間的継続による度量は、労働諸生産物の価値の大いさという形態を受けとり、最後に、生産者たちの諸労働のかの社会的諸規定がそこで実証される彼らの諸関係は、労働諸生産物の社会的関係という形態を受けとる。
　だから、商品形態の神秘性なるものは、単につぎの点にある、――というのは、商品形態は、人間じしんの労働の社会的性格を、労働諸生産物そのものの対象的性格として・これらの物の社会的な自然属性として・人間の眼に反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係として人間の眼に反映させるということ、これである。この交替によって、労働諸生産物は商品――感性的で超感性的または社会的な物――となる。たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れないで、眼の外部にある物の対象的形態として現れる。だが、視覚のばあいには、外的対象たる一つの物から眼という他の物に、現実に光が投ぜられる。それは、物理的な物と物とのあいだの物理的な一関係である。これに反して商品形態は、また、それが自らをそこで表示する労働諸生産物の価値関係は、労働諸生産物の物理的本性、および、それから生ずる物的諸関係とは、絶対になんの係りもない。それは、人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係という幻影的形態をとるのである。」（長谷部訳『資本論』Ⅰ、66～7頁、原典、77～8頁）
　現行版では、簡単な価値形態の分析で、等価形態を取り上げたところですでに、「上衣もまた、それの等価形態を、直接的な交換可能性というそれの属性を、重さがあるとか保温するとかいうそれの属性と同じように、生まれながらにもつかに見える。ここから等価形態の謎性が生ずる」（長谷部訳、54頁）と述べられていた。つまり、価値関係の内部でのみ、上着に直接交換可能性という等価物としての社会的属性が与えられるのに、そのようには見えず、直接交換可能性という社会的力が、上着そのものの自然属性に見える、ということだった。商品の謎的性格とはこの等価形態の謎性から発生している。
人々が無意識のうちでの本能的行為として自らの生産物を商品として市場に出すときに、これが、自然物である労働生産物を、商品という物象に転化させ、そうすることで自らの私的所有物を社会に通用させて交換できる仕組みを作ることに加担しているのであり、これはまさしく人々そのものの一定の社会関係（物象を媒介とした生産関係）なのであるが、それが、当事者たちにとっては、物と物との関係として認識されているのだ。この事態が物化であり、商品の神秘性や、謎的性格や、物神性といった事柄は、みな同じことを指しているのであるが、物象の人格化が人々にもたらす意識において、物象が単なる物として認識される事態を指し、したがってマルクスは物化という用語でこの事態を示しているのである。
　以上の解読を踏まえて、マルクスの物象化論と物化論について簡単にまとめておこう。初版本文価値形態論は商品が物象として成立している仕組みの解明だった。そして初版物神性論は、この物象として成立している商品を現実に商品として扱う所有者の意識を解明し、それが、商品を物象として扱うというこの行為についての意味を理解した意識ではなくて、この行為の意味は意識されてはいず、社会的力をもった商品の物象としての力が、物それ自体の属性と意識されて、単なる物を扱っているように考えられているということの暴露だった。無意識のうちでの本能的行為とは、人という生物種に属する本能から生じる行為という意味ではなくて、物を商品とする行為において、物それ自体の属性に順応しているという意識が生じているという事態のことだ。そしてこの物象化の問題は、第1章で解読した交換過程論での、商品の本性に意志を宿すことで貨幣を生成するという問題提起に繋がって行く。
　このように読むことで、マルクスは、商品からの貨幣の生成が、単に歴史的な一回行為としてではなく、毎日商品市場に商品が投入される都度貨幣が生成される行為が繰り返され、貨幣はそういうものとして日比刻々再生産されているものであり、だからこれの廃絶も可能である、というメッセージを発していることが分かる。
　そして物象化を単に物化としてしか把握せず、これを人間の認識の問題に還元してしまうような『資本論』の理解が、商品の価値形態の解明へと進めないのも当然のことだ。商品の価値形態を物象の生成のメカニズムと捉えることで、物を物象として生成させることに日々加担している私たちが、どのようにして脱物象化を成し遂げていけるのかという課題も見えてくるのである。

第3章　投機・信用資本主義の段階と99％が掲げる反資本主義の思想的課題

１）資本蓄積の変化、もう一つの資本蓄積（投機・信用資本主義）の台頭
　資本・賃労働関係にもとづく搾取による資本蓄積とは異なる、もう一つの資本蓄積様式をもつ投機・信用資本主義が台頭してきている。その特徴は多国籍企業やその他の株式会社からの配当、賃労働者や中間層の年金、生活財のローン化、などから生み出される多様な金融資産（債権者からすれば、負債が金融資産となる）を用いて投機による利ざや稼ぎで資本蓄積をするところにあり、投機資本家たちのうちから想像を絶するような大金持ちが現れた。生産者の資本蓄積と生活者の生活財に寄生し、そこから富を搾り出している新たな階級が出現したのだ。この階級に属さない99％の人々がこの事実を自覚したことで、99％対1％という考え方、1％の利害と99％の利害とは非和解的に対立しているという思想を生み出した。マウリツィオ・ラッツァラートによれば、「負債による支配」であり、1％の債権者による99％の債務者からの収奪である（『借金人間製造工場』、作品社）。

２）投機・信用資本主義の歴史
　投機市場は古くからあったが、もともと投機は金融市場の調節役であった。投機資本市場が、金融市場を従属させるようになったのは、21世紀に入ってからであり、その発展の歴史もたかだか40年を数えるにすぎない。1972年のニクソンによる金・ドル交換停止、外国為替市場の変動相場制への移行が、外国為替市場での投機取引を生みだすようになった。デリバティブなどの投機の様々な技術が開発された。他方、IT技術の発達は、金融市場のオンライン化を進め、80年代後半には国際金融市場でのオンライン化により、銀行がディーリングによって利益を上げるようになった。銀行は金融機関から投機資本家へと変貌をとげた。その上に金融資産の証券化が進められ、小口の資産も貯蓄から投資へという合言葉で投機市場へと動員されるようになった。
　1972年までのように外国為替市場が固定相場制であれば、外国為替の売買が投機にはならない。また1980年代前半までのように投機市場が各国毎に分断され、投機に要する時間がかかり、費用も多額であれば、投機取引は一部の専門業者に限られる。しかし、今日オンライン化で投機に要する時間が一瞬となり費用も安価になったことで、外国為替市場では貿易実需の100倍もの取引がなされ、その他の投機的資本市場も発達し、社会の遊休金融資産が投機に振り向けられるようになった。さらに、金融資産の証券化は金融資産の額を膨大に膨らまし、21世紀に入って、この架空資本の増大がまた投機バブルに拍車を賭けたのである。そしてリーマンショック以後の世界金融危機を迎え、各国政府は金融機関の支払決済システムを防衛するために公的資金を注入して金融機関を支えた。そしてこの公的資金がまたもや投機取引の原資とされ、投機取引の大宗が国債になったことで、国債の安全性が問題とされ、政府の財政事情を投機取引の取引条件とみなした格付け機関が格付けを下げることでソブリン危機を招来し、現在EU危機が投機・信用資本主義によってかもしだされている。
　もう一つの資本蓄積の様式は、それが世界のスタンダードとなった直後にリーマンショック以後の世界金融危機を迎え、その後、投機・信用資本主義は実体経済はいうに及ばず、国家と社会をも破壊することで生きながらえようとする悪性腫瘍になりさがったのである。

３）投機・信用資本主義の思想
　投機・信用資本主義の思想は、新自由主義者フリードマンによって語られている。彼らは自由市場の信奉者である。市場には商品市場、労働市場、金融市場がある。これら全てをフリードマンは自由競争に任せることを主張した。しかしこの三つの市場は根本的に異なっていて、一律に自由競争に任せることはできない。まず商品市場は等価物の交換の場であり、使用価値の持ち手の交換が行われる。労働市場は労働力という擬制的商品の売買の場であり、階級間の取引である。最後に金融市場は将来の価値請求権の売買の場であり、リスクの交換が行われる。商品市場で不正をすれば罰せられるし、労働市場で不正をすれば争議行為が発生する。しかし金融市場で大損をしても自己責任となる。そこではリスクが交換されるからだ。フリードマンはこの金融市場の原理を労働市場にまで拡張して自己責任論を主張したのだ。しかし労働市場はいうまでもなく、労働者階級が摩滅してしまうような状態を招き寄せるべきではない。それは現実資本にとっても価値増殖の摩滅をもたらすからだ。だが、1％の新しい支配階級にとってはそうではないところに、生存を賭けた99％の闘いが引き起こされている根拠がある。

４）投機・信用資本主義の本質
　金融市場の金融資産は元々は、金融資本の定義が銀行と産業との癒着であったように、産業に投資される資本のことだった。これは利子生み資本の形態をなし、産業資本に貸し付けて、その利潤から利子を得るという関係であった。しかしもっぱら投機によって資本蓄積する現在の投機・信用資本は、利子生み資本の運動形態を取ってはいない。したがってその蓄積運動は現実資本に対して完全に外側に立っている。そして現実資本そのものが投機の対象となり売買されているのである。

５）投機・信用資本主義の歴史的地位
　EU危機で明らかなように、投機・信用資本主義の危機は、社会と国家の破壊にまで進む。デフォルト後の国家について考察しておくことが問われ、投機・信用資本の規制が問われている。アイスランドではデフォルト後に投機・信用資本との断絶が起きることが、社会と国家にとってよりましな選択肢となっている。99％の闘いによって、投機・信用資本主義の自由な活動を規制することが問われている。

６）反資本主義の思想的課題
　99％の闘いは反資本主義という課題を掲げている。反資本主義とは、商品・貨幣批判から始まる。商品・貨幣批判における『資本論』初版本文価値形態論の意義が顧みられるべきである。『資本論』初版によることで、商品からの貨幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によるものであることが判明する。そして、商品所有者が自らの生産物を商品にする行為、それは市場に出して値付けすること、というように意識されているのだが、実はこの行為が商品から貨幣を生成させる共同行為への参加なのだ。だから貨幣は歴史的一時期に生成され、それがずっと継続しているものではなくて、今日の商品の取引において都度生成され続けているものなのだ。それゆえにそれを廃絶することも可能となるのだ。そのほか、商品が人格を物象化させるシステムであり、商品による人格の物象化は、商品による人格の意思支配をもたらすことも初版で明らかにされている。この商品・貨幣批判をわがものとすることで、99％の闘いはその戦略的課題を設定でき、長期の闘いを継続して成果を生みだすことができよう。

文献（自著）
著書　榎原　均『資本論の復権』（鹿砦社、1978年）
　　　榎原　均『価値形態・物象化・物神性』（資本論研究会、1990年）
論文「大阪自由大学資本論講義（第1回）」（『ASSB』誌、第20巻第1号、2012年所収、）
「大阪自由大学資本論講義（第2回）」（『ASSB』誌、第20巻第2号、2012年所収、）
　　「ソ連における階級の形成」（『赤報』連載論文）

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2012/08/02

社会運動の視点から見た反・脱原発運動

Author: ebara (5:58 pm)

社会運動の視点から見た反・脱原発運動

掲載に当たって
首都圏反原発連合と国会議員の話し合いが持たれ、いずれは野田首相も会見に応じるといわれている。しかし、厳重な注意が必要だ。野田の「大きい音」発言については本文で次のように述べている

この階級（官僚階級）のパワーは相当のものであり、野田をして官邸デモのシュプレヒコールを「大きい音」と表現させたことの基本的要因である。まさに古代ギリシャの奴隷が言葉はしゃべるがポリスの政治にとっては単なる音としかみなされなかったように、今日の日本の政治を取り仕切っているのは官僚階級であり、それ以外の人々の声は彼らにとっては雑音でしかない、という現実を明るみに出したのだ。

勝財務省事務次官をはじめとする狡猾な官僚たちにだまされないことを念じている。

序章　日本でもはじまった社会運動の地殻変動

１．はじめに
　原発事故によって市民の前に明らかとなったのは、それが日本の国策であり、原発を推進していく団体がオールジャパンを形成して、巨額の交付金で立地自治体を買収し、反対運動を封じ込め、電力独占の土台を形成してきたことだった。
　このような構造が明らかになって以降も、このシステムは解体するどころか焼け太りを狙い、あくまでも国策としての原発推進を続行しようとしている。
　反・脱原発運動の側は、原発の危険性、放射性廃棄物処理における問題点、排出温水による環境破壊、原発のコストの高さ、などの原発そのものの問題点の他に、代替エネルギー政策や、発電・送電分離などの電力独占の解体提案など、どれを見てもまっとうな主張を展開しているのだが、推進側は聞く耳を持ってはいない。このような現状で、必要なことは推進派に推進をやめさせる方法について考察することであり、それは、反・脱原発運動を社会運動の視点からその有効性をさぐることだ。
　チェルノブイリ事故のときのニューウエーブの運動が解体したのは参議院選挙で敗北したことがきっかけだった。巨額の供託金がもめごとの原因だったようだ。今回はニューウエーブの運動は昨年の高円寺での素人の乱の15000のデモで終わったかに見えたが、今年に入って6月の野田政権の再稼動決定前後から、新たな盛り上がりを見せている。毎週金曜日の首相官邸デモは、3月に300人で始まりまったが回を追うごとに拡大し、７月には毎週10万人を超える人々が集まるようになっている。また最初に再稼動がなされた大飯原発では、若者たちが運動公園に20張りのテントを張って泊り込み、当日35時間にわたる抗議行動を行なった。このニューウエーブの運動の評価が必要である。
　再稼動をめぐる攻防戦で、立地自治体の拡大とそこでの自治権の要求が一つの目玉だったが、首長頼みでは推進派に切り崩されることが判明した。それもあり、野田政権のあまりにも非常識な再稼動決定に対して、やむにやまれず声をあげるという形で、今日の運動が形成されている。

２．3.11原発事故の政治的意味
　3.11原発事故は史上最悪の原発事故となり、いまだ終息の目処はたっていない。放射能はいまだ垂れ流され、被災地を汚染し続けている。それだけではなく、天災等でもう一度爆発事故が起これば、関東地方や北海道にまで汚染が広がる。このような事故をおこしたにもかかわらず、政府や東京電力は何の責任も取らず、事態を成り行き任せとしている。
この事故は、日本の官僚支配の中枢の位置にあった原子力推進派に打撃を与えた。しかし、官僚支配の国日本では、支配者の失敗の責任はいつも曖昧にされ、失敗は反省されることなく、打撃を受けた推進派は巻き返して、再稼動に向けて政治的決定を行っている。この日本の官僚が政治を差配しているという現実に何の変化もない。
考えれば、2009年の政権交代に際しても、選挙民は官僚に対する政治主導を期待していた。しかし、鳩山政権は脱税で官僚から攻撃され、政治主導を発揮できずに引きずりおろされ、それ以降菅、野田と首相を入れ替えるたびに政権党である民主党は、ますます官僚支配に屈服するようになってきている。
ところが、3.11以降、従来は黒子として、議会における政党政治を裏で操ってきた官僚たちが、表に出て、政党自体を牽引しないと政治が進まないというような局面を向かえ、これが人々に政治的不満を鬱積させるようになってきている。ある意味ではチャンスなのだがしかし既得権益の壁に守られた官僚支配は強固であり、これに風穴を開ける工夫が必要である。
そこで私の提起は、従来あまり取り上げられていない諸問題についての試論を提供したい。ひとつは今日のオキュパイ運動の合言葉となった、99％対1％というスローガンが出てきた経済的背景について考察したい。もうひとつは日本の政治を語る場合にいつも分析の空白地帯のままであった官僚支配の問題である。前者は今日の社会運動の性格と発展方向の把握に不可欠であり、後者は日本での反・脱原発運動をはじめとする社会運動のプログラムを構想するときに問われる課題である。これらの考察の上に、社会運動のプログラムを作りあげていく方向性についての提案を行いたい。

第１章　99％の思想的課題　なぜ99％か

１）資本蓄積の変化、もう一つの資本蓄積（投機・信用資本主義）の台頭
　資本・賃労働関係にもとづく搾取による資本蓄積とは異なる、もう一つの資本蓄積をもつ投機・信用資本主義が台頭してきている。その特徴は多国籍企業やその他の株式会社からの配当、賃労働者や中間層の年金、生活財のローン化、などから生み出される多様な金融資産（債権者からすれば、負債が金融資産となる）を用いて投機による利ざや稼ぎで資本蓄積をするところにあり、投機資本家たちのうちから想像を絶するような大金持ちが現れた。生産者の資本蓄積と生活者の生活財に寄生し、そこから富を搾り出している新たな階級が出現したのだ。この階級に属さない99％の人々がこの事実を自覚したことで、99％対1％という考え方、1％の利害と99％の利害とは非和解的に対立しているという思想を生み出した。マウリツィオ・ラッツァラートによれば、「負債による支配」であり、1％の債権者による99％の債務者からの収奪である（『借金人間製造工場』、作品社）。

２）投機・信用資本主義の歴史
　投機市場は古くからあったが、もともと投機は金融市場の調節役であった。投機資本市場が、金融市場を従属させるようになったのは、21世紀に入ってからであり、その発展の歴史もたかだか40年を数えるにすぎない。1972年のニクソンによる金・ドル交換停止、外国為替市場の変動相場制への移行が、外国為替市場での投機取引を生みだすようになった。デリバティブなどの投機の様々な技術が開発された。他方、IT技術の発達は、金融市場のオンライン化を進め、80年代後半には国際金融市場でのオンライン化により、銀行がディーリングによって利益を上げるようになった。銀行は金融機関から投機資本家へと変貌をとげた。その上に金融資産の証券化が進められ、小口の資産も貯蓄から投資へという合言葉で投機市場へと動員されるようになった。
　外国為替市場が固定相場制であれば、外国為替の売買が投機にはならない。また投機市場が各国毎に分断され、投機に要する時間がかかり、費用も多額であれば、投機取引は一部の専門業者に限られる。しかし、変動相場制によって、貿易実需の100倍もの投機取引がなされ、オンライン化で投機に要する時間が一瞬となり費用も安価になったことで、社会の遊休金融資産が投機市場に振り向けられるようになった。さらに、金融資産の証券化は金融資産の額を膨大に膨らまし、21世紀に入って、この架空資本の増大がまた投機バブルに拍車を賭けたのである。そしてリーマンショック以降の世界金融危機を迎え、各国政府は金融機関の支払決済システムを防衛するために公的資金を注入して金融機関を支えた。そしてこの公的資金がまたもや投機取引の原資とされ、投機取引の大宗が国債になったことで、国債の安全性が問題とされ、政府の財政事情が投機取引の取引条件とみなして格付け機関が格付けを下げることでソブリン危機を招来し、現在EU危機が投機・信用資本主義によってかもしだされている。
　もう一つの資本蓄積の様式は、それが世界のスタンダードとなった直後にリーマンショック以降の世界金融危機を迎え、その後、投機・信用資本主義は実体経済はいうに及ばず、国家と社会をも破壊することで生きながらえようとする悪性腫瘍になりさがったのである。

３）投機・信用資本主義の思想
　投機・信用資本主義の思想は、新自由主義者フリードマンによって語られている。彼らは自由市場の信奉者である。市場には商品市場、労働市場、金融市場がある。これら全てをフリードマンは自由競争に任せることを主張した。しかしこの三つの市場は根本的に異なっていて、一律に自由競争に任せることはできない。まず商品市場は等価物の交換の場であり、使用価値の持ち手の交換が行われる。労働市場は労働力という擬制的商品の売買の場であり、階級間の取引である。最後に金融市場は将来の価値請求権の売買の場であり、リスクの交換が行われる。商品市場で不正をすれば罰せられるし、労働市場で不正をすれば争議行為が発生する。しかし金融市場で大損をしても自己責任となる。そこではリスクが交換されるからだ。フリードマンはこの金融市場の原理を労働市場にまで拡張して自己責任論を主張したのだ。しかし労働市場はいうまでもなく、労働者階級が摩滅してしまうような状態を招き寄せるべきではない。それは現実資本にとっても価値増殖の摩滅をもたらすからだ。だが、1％の新しい支配階級にとってはそうではないところに、生存を賭けた99％の闘いが引き起こされている根拠がある。

４）投機・信用資本主義の本質
　金融市場の金融資産は元々は、金融資本の定義が銀行と産業との癒着であったように、産業に投資される資本のことだった。これは利子生み資本の形態をなし、産業資本に貸し付けて、その利潤から利子を得るという関係であった。しかしもっぱら投機によって資本蓄積する現在の投機・信用資本は、利子生み資本の運動形態を取ってはいない。したがってその蓄積運動は現実資本に対して完全に外側に立っている。そして現実資本そのものが投機の対象となり売買されているのである。

５）投機・信用資本主義の歴史的地位
　EU危機で明らかなように、投機・信用資本主義の危機は、社会と国家の破壊にまで進む。デフォルト後の国家について考察しておくことが問われ、投機・信用資本の規制が問われている。アイスランドではデフォルト後に投機・信用資本との断絶が起きることが、社会と国家にとってよりましな選択肢となっている。99％の闘いによって、投機・信用資本主義の自由な活動を規制することが問われている。

６）反資本主義の思想的課題
　99％の闘いは反資本主義という課題を掲げている。反資本主義とは、商品・貨幣批判から始まる。商品・貨幣批判における『資本論』初版本文価値形態論の意義が顧みられるべきである。『資本論』初版によることで、商品からの貨幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によるものであることが判明する。そして、商品所有者が自らの生産物を商品にする行為、それは市場に出して値付けすること、というように意識されているのだが、実はこの行為が商品から貨幣を生成させる共同行為への参加なのだ。だから貨幣は歴史的一時期に生成され、それがずっと継続しているものではなくて、今日の商品の取引において都度生成され続けているものなのだ。それゆえにそれを廃絶することも可能となるのだ。そのほか、商品が人格を物象化させるシステムであり、商品による人格の物象化は、商品による人格の意思支配をもたらすことも初版で明らかにされている。この商品・貨幣批判をわがものとすることで、99％の闘いはその戦略的課題を設定でき、長期の闘いを継続して成果を生みだすことができよう。

第２章　日本の支配階級構造の要　官僚身分の階級への転化　
　
１）はじめに
現代の日本では官僚だけが非合法の階級闘争をやっている。本来全体の奉仕者である官僚が独自の利害を持ち階級を形成することは、日本国ではそれ自体非合法な事態である。それゆえ官僚が自らの階級的利害を守ろうとする闘争は非合法的な闘争にならざるをえない。官僚は日本の支配階級である、資本家階級とその政治的代表部（議会、政府、自民党、最近では民主党）を支配し束ねてきた。ところが1990年代に入って官僚支配にほころびが目立つようになり、支配階級内部での利害関係に基づく抗争がおき、それに対して官僚支配体制を防衛しようとする闘争が、その階級闘争の主要な内容であった。その際官僚階級は行政機構である、検察、税務署、公安警察を使ってその階級闘争を展開することができた。従来官僚階級の役割は支配階級を束ねてきたことだったので、被支配階級に対しては、直接の支配・隷属関係が見えてくることはなかった。しかし、民主党への政権交代によって、自民党を隠れ蓑にしてきた束ね方がやれなくなり、さらには3.11以降、日本の支配機構は打撃を受け、従来は黒子として裏に隠れていた官僚階級が、統治の前面に出てくるようになって、日本の権力構造における官僚階級の位置とその役割が目に見えるようになってきた。改めて官僚が階級となっていることについての認識を共有することで、今後の社会運動における敵は誰かという、日本の権力構造の認識を正確なものとしていきたい。

２）階級とは何か　レーニンの定義より
階級とは何かということについては色々な見解がある。しかし最も簡単でよくまとまっているのが次のレーニンの定義である。
「階級と呼ばれるのは、歴史的に規定された社会的生産の体制のなかで占めるその他位により、生産手段にたいするその関係により、社会的労働組織のなかでの役制により、したがってまた、彼らが処理する社会的富の分けまえを得る方法とその分量とによって、たがいに区別されている人間の大きな集団である。」（レーニン『偉大な創意』）
この定義に従って現在社会の階級についての素描を与えておこう。現代の資本主義社会では、資本家階級は生産手段を所有しているが、労働者は生産手段を所有してはない。このことから労働者は資本家の下に雇われないと生活できない。そして雇われたときに、労働者は労働力の処分権を売り渡し、資本家の工場やその他の職場で労働するが、その際労働者が実現した価値を含む生産物やサービスは資本家の所有となり、労働者には労働力の価値が支払われるが、残りは剰余価値として資本家によって搾取される。現在の社会では資本家階級と労働者階級が二大階級をなしている。ところで最近顕著な事態は非正規雇用者と派遣労働者の増大である。これらの労働者たちは労働力の価値以下の支払いしか受けておらず、かつ労働者の諸権利からも排除されて、結婚も自己の再生産も不可能となっており、奴隷以下の経済状態にある。この大きな集団の階級性について、検討されるべきである。
土地所有者は大地の占有によってその借り手から地代を取得でき、資本主義社会においても独自の階級を形成している。また独立した小生産者は、自ら生産手段を持ち、自己労働による所有を実現できるので、農民や商店主などの自営業者は減少しているが、独自の階級をなしている。
日本では皇族も独特の経済的地位を占めているが、しかし、大きな集団ではないので階級とは認められない。これに対して官僚は大きな集団であるので、階級を形成しているがどうかは、具体的に検討されるべきである。

３）日本の官僚支配の現状
日本の官僚制は戦前から継続され、変化はなかった。ＧＨＱ（アメリカ占領軍）の民主化も、官僚制にだけは手をつけられなかった。明治時代から延々とつづく日本の役人世界（官僚制）の不文律は、年功序列、身分保障（70歳まで）、天下り先の確保である。
具体的にキャリア官僚で見ると、毎年600人が採用され順次昇進して課長になると、それ以降のポストが足りなくなる。１府12省の官僚のトップは事務次官でそれぞれ一人である。したがって課長以上の昇進期には競争に敗れた者を必ず肩たたきによって天下りさせ、渡りをさせていく。その際待遇は現役同期官僚並みとすることで出世競争から脱落したという不平を封じ込めている。このような仕組みを維持していくためには天下り先の確保が死活問題となる。この仕組みはキャリア官僚だけではなく、ノンキャリアや地方自治体においても慣行化している。

（注）
長谷川幸洋『日本国の正体』（2009年、講談社）より
「霞ヶ関にとって天下りは人事異動の一環であり、天下りがあって初めて省内秩序が保たれる。入省すれば『70歳までは面倒をみる』というのは、霞ヶ関の鉄の掟なのだ。」（23頁）
小泉の改革路線は、「09年3月に至って、全面的に敗北した形である。」（24頁）高橋洋一、中川財務相の追放など
首相官邸は官僚に占拠されている。官房長官に官房副長官3名（衆、参から各一名の議員と官僚一名）官房副長官の下に官房副長官補が3人いて全員官僚。（29頁）
「官僚にとって、もっとも大事な既得権益は天下り構造である。たとえば、天下り構造が廃止されるようなら、倒閣さえも狙う。」（31頁）
「もともとの政策を作ったのが官僚であるだけでなく、与党内の政策審議プロセスでも、官僚が法案成立に向けて重要な役割を演じているのである。」（50頁）
「それは官僚が選択肢を示すのではなく、政策をあらかじめ選択していて、政治家を自分たちと同じ結論に導こうとしているからだ。」（52頁）
成長率・金利論争　中川・竹中　対　谷垣・与謝野　　財務省は中川に擦り寄る（66頁）
「官僚にとって『権力の実体』は自分たち自身であって、政治家はその権力を行使するための『衣装』にすぎない。」（68頁）

官僚は本来身分であるが、このような身分保障の体系はそれ自体を階級に形成していることを意味する。資本主義が発達した民主主義国である日本で、身分を階級に形成することは憲法に違反している。このような明らかな犯罪行為がこれまで見逃されてきた。まず官僚は自らの階級形成を極秘のうちに行っている。2006～8年の公務員制度改革が法制化されたときに多少は明るみに出たが、しかし官僚の行き過ぎくらいに捉えられていて、階級形成を問題視する見解は提起されていない。というのも日本の資本家政党である自民党自体が官僚階級に支配され、また資本家階級もこれまで官僚階級に従属しているからだ。
2009年の政権交代で鳩山内閣の政治主導がなぜうまく行かなかったか、ということについては既にいろいろな意見が表明されている。その中で、高級官僚100人の入れ替えをできなかったという説があるが、それは正鵠をえている。官僚が階級として形成されていることはいわば非合法な事態であるから、政治は真正面からこれと対抗できたはずだ。しかし民主党にはそのような決断も、人材の用意もしていなかった。政治主導は口先だけに終わり、官僚の統率が出来ずに歴代自民党政権と同じように、逆に官僚に支配されていった。こうなると、自民党以上に官僚べったりとなり、完全に官僚主導の政治運営になっている。
役人の行動原理に先輩批判はタブーというものがあり、前例踏襲、責任回避、が日常的に発生する。アメリカでは政権交代があると3000人のキャリア官僚が入れ替えられるから、彼らが日本のように階級に形成されることはありえない。（逆に、資本家の赤裸々な代弁者たちが、官僚になって自分たちの都合のいいように立法や行政を行う「回転ドア人事」が問題にされている。）日本では政権交代があっても役人の首は飛ばず配置転換もなかったわけだから、官僚は階級としては無傷でいられた。官僚の形式上の長である大臣は長くても数年で交代するが省庁はずっと継続している。ここから、官僚が政治・行政・立法及び国会運営の実際的権力を握るという現状が維持され続けられている。

（注）長谷川、前掲書より
事務次官等会議　定例閣議前日の月曜日と木曜日
「閣議にかけられる案件は必ず事務次官等会議で承認された案件に限られているのだ。これまた法的根拠はないが、慣例でそうなっている。」（79頁）（政権交替直後、鳩山・小沢は、事務次官等会議を廃止したが、一時的措置にとどまった。）
案件はここにあげられる前に各省庁で協議されている。「ところが、実質的に政策が議会どころか閣議ですらなく、事務次官等会議やさらに密室性が高い各省協議という官僚だけの場で決まってしまうと、国民は何が問題になっていて、どう改めようとしているのかすらわからなくなってしまう。」（80～1頁）
官房副長官が事務次官等会議の仕切り役。閣議はお習字大会（86頁）
「つまり前夜の事務次官等会議で了承された案件しか閣議には上がってこないので、閣僚間であらためて議論しなければならないような問題はない。残された仕事は閣議決定や閣議了承の内容を書いた紙に、毛筆で閣僚たちが花押（署名）を書くことだけになる。閣僚たちは次々に回ってくる紙に淡々と黙って花押を記していくのが閣議の実態なのである。」（86～7頁）
財務省　増税の本当の狙いは、既得権益の維持である。（100頁）大臣に財務省から政務秘書官をつけて、政治家を政策通として売り込む。
ばらまき　長谷川の定義「国民の特定層や特定業界に恩恵を与える財政支出」（106頁）
「実はこの特定層への恩恵供与こそが、霞ヶ関官僚が政策を立案するうえで、最も基本的な発想の一つとなっている。」（112頁）福田政権時の緊急経済対策はその典型

その上官僚階級が独自の経済圏を形成しているという問題がある。1955年からの高度経済成長の過程で、以降55年間に官僚の天下りは継続され、官庁も含めた官製企業の就業人口は市場経済のそれを上回るようになっている。石井鉱基が作成した統計ではサードセクター陣営も公的セクターに組み込まれている。この現実に慣らされているせいか、日本の市民はこの官僚支配の現状に不満は言えども変えようとはしない。戦前から延々と続く官僚支配にまるで自然環境のようになじみ、支配されたがっているように思われる。だから自民党員であれ民主党員であれ、官僚支配に対して闘おうとする人たちを孤立させてしまう。

（注）
社民党の石井鉱基は、議員特権で官僚支配についての徹底した調査を行い、2001年という早い時期に『日本を喰いつくす寄生虫』（道出版）を出版したが、その後自宅から出たところで暗殺されている。2006年小泉内閣時代に行政改革・規制改革担当大臣だった渡辺善美は離党を余儀なくされ、『官僚国家の崩壊』（講談社）という著書を出版した中川秀直は完全に干されてしまった。小沢一郎も官僚階級から階級闘争を仕掛けられている。橋下徹にも再稼動に反対したことで恫喝がなされた。

４）官僚階級の経済的基礎
　統計的には少し古いが、石井鉱基『日本を喰いつくす寄生虫』より、官僚階級の経済的基礎について紹介しよう。なお、2010年に出版された北沢　栄『官僚利権』（実業之日本社）も参照されたい。
①　日本経済の70％は国に支配されている
　まず日本のGDPは、1999年に512兆円であるが、2000年の政府支出：一般会計（85兆円）と特別会計の純計が260兆円、地方公共団体の支出が90兆円、合計350兆円で、これはGDPの70％を占めていたことになる。しかも政府支出の給与分は民間最終消費としてダブルカウントされているから、残りの30％のなかにも政府支出がカウントされることになる。（石井鉱基『日本を喰いつくす寄生虫』、道出版、12頁）政府支出に限って国際比較すれば、アメリカ：194兆円／1059兆円、イギリス：45.6兆円／164兆円、フランス：31兆円／163兆円、ドイツ：30兆円／240兆円、日本：260兆円／512兆円である。（同書、13頁）
②　日本最大の貸金業、民間銀行を圧迫する政府系金融
　公的金融機関（648.6兆円）：資金運用部（348.2兆円）政府系金融機関（185.8兆円）中央政府（13.3兆円）地方公共団体（10.8兆円）公的金融法人企業（9.1兆円）その他（81.5兆円）
　民間金融機関（520.4兆円）：都市銀行（215.1兆円）地方銀行（134.1兆円）第二地方銀行（50.6兆円）信用金庫（68.7兆円）信用組合（14.2兆円）貸金業者（37.7兆円）
　政府系金融機関は、金融事業は経済活動ではなく行政事務（行政権の作用に属する事務）であるので行政経費として処理され経営コスト面で民間より優位にある。（同書、16頁）
③　経済人口の4割が税金に依存している
　被扶養者：6254万人（49％）
　民間企業の雇用者：2781万人（22％）
　税金部門の雇用者：3665万人（29％）
内訳：公務員、議会、政党など470万人（3.7％）福祉、医療、教育、文化、スポーツ、NGOなど1330万人（10.47％）行政企業、（特殊法人、公益法人、第三セクターなど）490万人（3.86％）官公需専門企業800万人（6.3％）農林水産系保護団体・個人545万人（4.29％）
その他30万人（0.24％）（同書、18頁）

５）官僚による支配の実体
　国家の官僚制自体は国家の発生とともに形成されるものであるが、近代国家の官僚制は絶対王政をその起源とする。日本の場合、明治時代の官僚制がそのまま継続しているわけだから、ある意味では絶対王政を取り仕切ってきた官僚が、同じ精神構造で現在の民主主義国家と資本家階級を支配しているということになる。議会に対する支配の構造はすでに見たが、官僚の経済的基礎を踏まえるならば、資本家階級への支配も実現可能である。
　また官僚階級はサードセクターを植民地にしており、このサードセクターの非営利・協同セクターとしての自律に絶えずブレーキをかけてきている。例えば特定非営利活動法人（NPO法人）法制化にあたって、出資を認めようとはしなかった。これを認めれば生協法人のように、事業で自立でき、官僚の植民地とはならないので、経済的自立ができるような仕掛けを蹴飛ばしたわけだ。その代わりにボランティア団体であるNPO業界にも、天下りの仕掛けを作っている。国が中間支援組織に補助金を出して、それと引き換えに自治体職員を受け入れさせているのだ。これが官主導の公共を改めるという触れ込みの「新しい公共」の真実である。

（注）長谷川、前掲書より
「霞ヶ関は個別業界への恩恵供与から一歩進んで、自分たち自身の利権拡大に全力で走り始めた。」（114頁）
中身を見るとほとんどが「官への支出」（115頁）
施設費、それも何に使われているのか分からない。
「財務省は毎年暮れに予算編成が終わった後、記者や論説委員たちに分厚い資料を配って、予算の内容を説明するが、独立行政法人など『官への支出』がどのくらいになるかといった情報は一切発表したことがない。
　各省庁は民間企業に仕事を発注する前段階で、まず自分たちが所轄する独立行政法人や公益法人にカネを回し、さらに独法が子会社のようなファミリー企業に仕事を発注する仕組みが一般的になっているのだ。」（118頁）
　専務理事政策
「官僚はそうした産業の業界団体をつくる。・・・・業界団体が出来ると、財団法人や社団法人化を目指す。・・・うまく成功すれば、天下りポストが一つ増える。」（126頁）
「衆院調査局の調査では、07年度で独立行政法人や公益法人など約4500法人に約2万5000人の霞が関官僚が常務理事などの形で天下りし、その天下り先に12.1兆円が補助金や助成金などとして国庫から支出されていた。」（130～1頁）

６）官僚が階級となっている理由
　以上の分析に基づきレーニンの定義と照らし合わせて日本の官僚の階級形成について証明していこう。
①「階級と呼ばれるのは、歴史的に規定された社会的生産の体制のなかで占めるその他位により、」―→　国有あるいは公有財産による生産様式を独占している。　②「生産手段にたいするその関係により、」―→　生産手段の上位占有者である。　③「社会的労働組織のなかでの役制により、」―→　労働者を指揮・管理する役員である。　④「したがってまた、彼らが処理する社会的富の分けまえを得る方法とその分量とによって、」―→　12兆円の税金でファミリー企業が事業を行っている。　⑤　「たがいに区別されている人間の大きな集団である。」―→　資本家階級でも、労働者階級でも、土地所有者階級でも、自営業者でもない、国有財産と税金に寄生している階級であり、中央官庁と地方自治体、そしてそれぞれの天下りを合計すると、就業人口3665万人のうち50万人位を占めると思われる。
この階級のパワーは相当のものであり、野田をして官邸デモのシュプレヒコールを「大きい音」と表現させたことの基本的要因である。まさに古代ギリシャの奴隷が言葉はしゃべるがポリスの政治にとっては単なる音としかみなされなかったように、今日の日本の政治を取り仕切っているのは官僚階級であり、それ以外の人々の声は彼らにとっては雑音でしかない、という現実を明るみに出したのだ。

第３章　日本における新しい運動のはじまり

１）新しい運動と自治のプログラム
　序章でみたように、政府による大飯原発再稼動の決定前後から、日本の運動にも地殻変動が見られるようになっている。99％を掲げたオキュパイ運動と連帯した新しいタイプの運動が形をとってきている。反・脱原発運動におけるニューウェイブはチェルノブイリ後の運動で始めて登場したが、この運動は参院選に敗北したことを契機に衰退した。今日の新しい運動は、事故がまだ終息してはいないこと、世界的に新しい運動の黎明期にあること、官僚支配という日本の権力構造がいまだ強固であること、などによって、長期にわたって継続していくものとならざるをえない。
世界的に登場してきている新しい運動にとっては、直接民主主義（自治）が共通の課題となっている。しかし、自治を獲得していくためには、ある種の二重権力状況の実現が不可欠であり、そのためには自己権力がどのような形で可能かについての議論がなされなければならない。二重権力は古くはパリコミューンであり、ロシア革命時のソヴィエトであり、中国革命における解放区であった。しかし、いわゆる民主主義国家が成立して以降の二重権力状況は工場委員会などの構想があり（アウトノミア）、オペライズモが実践したが成功してはいない。

２）反・脱原発運動と自治のプログラム
　21世紀の日本などの先発資本主義社会における課題のひとつは、公的セクター（税金のセクター）、私的セクター（株式会社などの営利企業のセクター）、サードセクター（非営利協同セクター）のセクター間バランスを作り出すことである。しかし日本の場合サードセクターは公的セクターの植民地とされていて、サードセクターの自律すら考えられない状況で、自治の取り組みは非常に重い課題ではある。ヨーロッパであれば社会的経済や社会的企業の促進である種の自治圏を構想していけるが、日本の場合、公的資金の交付で絡みとられているサードセクターの諸団体は縦割りにされていて、今年の国連の国際協同組合年にもサードセクター全体での取り組みすら実現できていないという惨状がある。また日本の左派労働組合もサードセクター論がなく、ワーカーズコレクティブなどの自立したサードセクターの取り組みと協調しようとはしていない。
　また日本の地方自治体は中央権力に完全に植民地化され、同時に特権官僚化していて、人々を支配の対象と見なしている。だから人々にとっては選挙で鬱憤を晴らすしかなく、早くも1960年代末には地方自治体での首長選挙で革新候補が当選する事態があったが、市民の自治への道は切り開かれることはなかった。首長は官僚支配の現実に対してなすすべもなかったのだ。そして首長を代えた選挙民はそれでも一向に変わらない自治体に飽きが来て、革新首長の時代は終息してしまう。
このような自治に向けての日本での取り組みの出口なしの状況のなかで、反・脱原発運動の一連のプログラムを自治の獲得の観点から組み立てることがきわめて重要になってきている。自治の第一歩は政治参加であるが、署名運動から始まり、首長や自治体議会への再稼動反対の働きかけや、発電・送電分離の要求、そして街頭で声をあげる、等々、従来では選挙しかなかった市民の政治参加の道が多様に開かれている。今日本における自治の取り組みはこの運動をメインにすることで始めて突破口を切り開くことが可能となる。自治のプログラムは、どこかの政党やシンクタンクが上から提起できるようなものではありえない。自治のプログラムの創出は、運動に参加している人々の共同事業としてなされなければならない。さまざまな運動団体に参加している人々が、自治という観点からそれぞれの運動を位置付けなおすことから運動の未来が開けてこよう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

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2012/07/29

マルチチュードという主体

Author: ebara (2:54 pm)

マルチチュードという主体

１．ネグリのマルチチュード論

①　マルチチュードとコモン
　ネグリとマイケル・ハートの共著『マルチチュード』上・下（原書、2004年、NHKブックス）は、『帝国』に引き続き書かれたが、こちらはマルチチュードについてより詳しく論じている。マルチチュードという主体について紹介する際にまずこの本から始めよう。上巻の序では、「ネットワーク状の権力」としての帝国という考え方が示されている。ネグリらにとってはこの権力は国家権力ではない。ネグリらは資本を指示とみ、資本主義的生産が社会を構成していると見なす観点（社会の総括としての国家という観点は見られない）から見ているので，このネットワーク状の権力とはグローバルな資本の権力のことであり、これに帝国という名称が与えられているのだ。
他方、マルチチュードとは、「帝国の内部で成長するオルタナティブ、すなわちマルチチュード」（『マルチチュード』上、18頁）というように規定されている。ネグリらにとってはマルチチュードは帝国の内にありながらも、資本から自律した存在なのだ。だから、グローバリゼーションの二つの傾向を、帝国としての秩序の維持及び、国境や大陸を超えた新しい協働と協調の回路を創造し、無数の出会いを生み出すものと捉え、後者にマルチチュードの生成の根拠を見出しているのだ。
ところで、マルチチュードもネットワークを形成しており、人々は、違いをそのままに、コミュニケートや共同行動というコモンを発見することでマルチチュードとして生成する。このマルチチュードの生成は、国家のもとでの人民のあり方とは違っている。国家のもとで、人民は多様性を統一性へと縮減するが、「マルチチュードは、単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異から成る。・・・マルチチュードとは、これらすべての特異な差異から成る多数多様性にほかならない。」（上、19~20頁）とみなされている。
では無数の差異からなるマルチチュードの、多様性を残したままでの一つの勢力としての生成はどのようになされるのか。
「マルチチュードという概念が提起する課題は、いかにして社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互いにコミュニケートしつつ共に行動することができるのか、ということである。」（上、20頁）
「マルチチュードが人民のような同一性も、大衆のような均一性ももたない以上、マルチチュードの内的差異は、相互のコミュニケーションやコモン的行動（訳者はコモンを＜共＞と訳しているが、コモンのままにした）を可能にするコモンを見出さなければならない。もっとも実のところ、私たちが分かち合うコモンとは、見出されるものというよりは生み出されるものなのだが。」（上、21頁）
ここでコモンと呼ばれているものは、コミュニケーションや共同行動の基盤である。コモンズではなくてコモンというのは、コモンズは昔の共有地を連想させるから、そのようなものではなく、現在の人びとの、コミュニケーションなどによって形成されている社会的な共有物を指すものだからだ。
「私たちの行うコミュニケーションや共同作業や協働は、コモンを基盤にしているだけでなく、それ自体もコモンを生み出す。したがって両者の関係性は螺旋状に拡大していくのである。」（上、22頁）
「労働そのものが経済の変容をとおして、協働とコミュニケーションのネットワークを創り出し、またそこに組み入れられているのだ。」（上、22頁）
ネグリらはここでコモンの説明に一般的知性を引き合いに出さない。そうではなく、コモンを、非物質的生産が主流となっている今日の生産システムが作り出している協働とコミュニケーションの基盤というように捉えている。
この一連の思想はすべて、資本を指令とみ、資本主義的生産が社会を構成するとみ、さらに資本の生産過程では資本と労働とはそれぞれ自律した主体として闘争しあえるというオペライズモの基本的発想に由来している。この発想が間違いであればここでの提起はすべて夢想となる。

②　非物質的生産とコモン
次にネグリらが「補説１方法――非物質的生産をどうとらえるか」で述べている非物質的生産の分析に移ろう。
「これ（物質的生産）に対して非物質的生産――アイデア、イメージ、知識、コミュニケーション、協働、情動的関係などの生産――は社会的生活手段ではなく、おおむね社会的生そのものを創り出す。非物質的生産は生政治的なものなのだ。」（上、242頁）
人間の生そのものが資本によって包摂されている今日の生産システムの特徴を非物質的生産と捉えたネグリらは、この生産のシステムを主として使用価値視点から見ている。工場で労働するという時代から、工場の壁を越えて資本の生産過程が社会全体へと拡張されているという現実がもっぱら使用価値視点から捉えられて、生活手段の生産から生そのものの生産へと変化していっていると見る。
「ここで私たちが把握すべき非物質的生産のパラダイムの最も重要な側面は、非物質的生産と協働・共同作業・コミュニケーションとの密接な関係――端的にいえば、非物質的生産の基盤がコモンにあるということだ。」（上、243頁）
使用価値視点からシステムを見れば、それは協働や共同作業やコミュニケーションであり、人びとの共通な社会関係をそこに見出せる。そしてそれがコモンと捉えられているのだ。そして一旦は使用価値視点から捉えられた非物質的生産が今度は価値の生産の問題として見直される。
「今日の労働と個別の価値の関係に関する理論は、コモンにもとづくものでなければならない。コモンは非物質的生産の始め（前提）と終わり（結果）の両方に現れる。新しい知の生産は常に私たちのコモン的知識を基礎にしている。」（上、245頁）
ネグリらはここでの主張をマルクスの労働価値説の修正と考えている。なぜかといえば、ネグリらはマルクスが古典派政治経済学にならって「資本主義社会においては労働がすべての価値と富の源泉であるという基本原理を採用した」（上、239頁）と考えており、マルクスの古典派からの前進は、価値の実体を抽象的人間労働に求め「資本主義社会においては労働がすべての富の源泉であるとするなら、抽象的労働は価値一般の源泉であるはずだ」（240頁）と考えたと見なしている。しかしマルクスは労働が富の唯一の源泉とは考えていなかった。土地を含む自然も富の源泉である。ただそれは価値としては計算に入らない。ネグリらのここでの提起はコモンが富の源泉であるという事実を、それが価値の源泉でもあるというように捉えているようだ。つまりネグリらは自然自体は価値ではないがしかしそれは富の源泉となるというマルクスも否定してはいない事実を、ねじまげて理解している。つまり、ネグリらは、マルクスが富の源泉を唯一労働に求めたという誤解から、自然（コモン）を富の源泉としてだけではなく価値の源泉としても認めようと主張しているのだ。
「価値の生産をコモンの観点から理解しなければならないのと同様、搾取もまたコモンの収奪＝収用としてとらえる必要がある。今やコモンが剰余価値の生じる場となったのだ。」（上、248頁）
使用価値視点から導き出された、非物質的生産の基盤としてのコモンは確かに富の源泉であるが、ネグリはこれを資本関係の外部に想定し、そして収奪＝収用（レント）という関係をそこに見ている。
「おそらく金融資本の取得する利潤とは、コモンの収奪・収用のもっとも純粋な形態にほかなるまい。」（上、240頁）
利子生み資本についての理解が見られないので、金融市場での金融資産の売買で差益を稼ぐという投機のメカニズムが理解されてはいない。貨幣の貸付や物品のレンタルなど所有権が利得をもたらすというようにしか金融市場を理解してはいない。1970年代後半から、資本主義的信用制度のもとでの利子生み資本の運動が新たな段階に到達し、それまでは現実資本へのファイナンスが中心だった金融市場が、価値を現実資本から吸い上げる投機市場へと変貌を遂げたことが理解されてはいない。（この点については「認知資本主義論によせて（第3回）」で取り上げる）
したがって、ネグリらが次のようにマルチチュードという主体を措定したとしても、理論的な裏づけに欠けていると見るほかはない。
「労働の主体性が創出する富は奪い取られ、それが敵対性の源泉となる。それでも労働の主体性は富を生み出す能力をもち続け、それがその力となる。この敵対性と力との結合によって、革命的主体性が創り上げられるのだ。」（上、252頁）
　生産した富が奪われるという敵対性と、富を生み出す力との結合とは、労働主体が本来の主体性を取り戻すということのようだが、富の源泉が唯一労働にあるとすれば、このような見通しも立てられるだろうが、そうではなく自然も富の源泉なのだから労働主体は自然の欠如（生産手段からの自由）によって資本に経済的に隷属させられているのだ。そのような人々にこのように呼びかけてもむなしい掛け声に終わるのではなかろうか。

③　コモンと民主主義
　ところで労働を富の唯一の源泉と見なし、そして自然としてのコモンを価値の源泉と見なすネグリらは、革命的主体形成について非常に楽観的な見通しを立てるのだが、その見通しからもたらされる戦術が民主主義の追求である。
「この生政治的生産とそれによるコモンの拡大は、今日のグローバル民主主義の可能性を支える強力な支柱のひとつとなるものだ。」（上、22~3頁）
「今日、世界のいたるところで、局地的・地域的なレベルとグローバルなレベルにおいて自由と解放を求めて行われているあまたの闘争や運動に共通するのは、民主主義への欲望にほかならない。」（上、23頁）
「マルチチュードはブルジョアジーやその他の排他的・限定的な階級形成とは対照的に、自律的に社会を形づくる能力をもつ。」（上、26頁）
確かに今日ランシェールが述べているように現在の民主主義国家はコンセンサス民主主義であり、民主主義を欠いたポスト民主主義国家である。したがって民主主義の欲望と闘争の必然性について認めることは必要である。
しかし、ネグリらにとって、労働が富の唯一の源泉であり、しかも経済と政治は資本に一体化されていると理解されている。したがって資本の支配に抗する民主主義が革命的主体の戦術として考えられており、民主主義が資本の支配の廃絶であるかのように妄想されている。
　けれども、先にも述たように、労働は富の唯一の源泉ではなく、しかも、商品・貨幣・資本の関係は，働く人たちの経済的隷属に基づいた物象による意志支配を土台としており、働く人たちはこの意志支配を内面化して自己神格化して体制に順応しているのだ。この現実に切り込む思想としては成功してはいない。

④　コモンと左翼
　ネグリらは労働が富の唯一の源泉であるという誤った命題と、生産過程では資本と労働は相互に自律的であるというオペライズモの経験則と、資本は単に経済的な生産だけではなく、社会を生成する政治的権力でもあるという観点から、絶対的民主主義をマルチチュードと呼ぶ革命主体の戦術として提起した。そしてこの観点から左翼に対する批判を述べている。
「もっとも深刻なのは、左翼とは何であり、何になりうるかについての概念的欠如である。」（下、61頁）
「今日新しい左翼について語るには、一方で、過去のイデオロギーとの物質的・概念的な断絶にもとづくポスト社会主義的・ポスト自由主義的プログラムという視点が必要である。すなわち、産業労働者運動のイデオロギー的伝統、その組織、それが手本とした生産管理のモデルといったものと存在論的に決別しなければならないということだ。」（62頁）
確かにネグリらのこの批判はまっとうである。そして、左翼に対する代案である、マルチチュード論が次のように展開されている。
「ここでは民主主義が直接的な目的となる。民主主義はもはや自由主義的観点から平等の制限という形で評価されることも、社会主義的観点から自由の制限という形で評価されることもできない。民主主義は自由と平等をともに一切の留保なくラディカルに押しすすめるものでなければならないのだ。」（62頁）
「それ（コモンの生産）は、間の空間、コミュニケーションからなる社会的空間において姿を現す。マルチチュードは協同的な社会的相互作用のなかで創られるのである。」（66頁）
ネグリらのこのような見解をみると、大学の教員や売れっ子の批評家といった自身の立場をマルチチュードに投影しているように感じる。労働が自然によって制約されているという現実の中でマルチチュードは、自らの意志や希望や民主主義的要求を実現する力を奪われた存在として、実存している。この問題についての戦術を提起することのない民主主義論はポスト社会主義の革命論としては不都合ではなかろうか。
「マルチチュードのもつコモンにもとづいた社会的・政治的能力を強調するものなのである。」（67頁）
「非物質的労働が主導権を握り、あらゆる労働形態がコモンになるという私たちの議論は、現代の状況が労働全般にわたるコミュニケーション協働を形成しつつあり、それがマルチチュードにとっての基盤となりうることを論証するためのものなのである。」（68頁）
「私たちの主張は、コモンにもとづく政治的プロジェクトが可能だということだ。いうまでもなくこの可能性は、実地に検証され現実化されなければならない。」（72頁）
「私たちは皆、民主主義を創出する能力をもっているのだ。私たちが取り組むべき課題は民主主義を政治的に組織することなのである。」（72~3頁）
このようなマルチチュード論はすべて、労働が富の唯一の源泉であるとすれば実りをもたらすであろう。しかし現実はそうではない。ネグリらはマルクスの誤解にもとづいて、コモンが富の源泉であるという正当な見解だけではなく、それが価値の源泉でもあるということで、非物質的労働が生み出すコモンの搾取という認知資本主義論を打ち立てたが、コモンは賃労働や所有権に媒介されない限り価値としては現れない。この媒介を廃絶することは民主主義では不可能である。

２．パオロ・ヴィルノのマルチチュード論

①　マルチチュードとは何か
　次に、ネグリらのマルチチュード論よりも先に出版され、ネグリらにも影響を与えたと思われるパオロ・ヴィルノのマルチチュード論を紹介する。引用は『マルチチュードの文法』（原書、2001年、月曜社）からである。日本語版序文と序章でヴィルノはマルチチュードについて明快な説明を与えている。日本語版序文で「グローバル化された社会の本質的な局面――他のすべての局面がそこから生じるような局面――は、言語活動と労働との共生関係にあるように私には思われます。」（『マルチチュードの文法』、6頁）という提起から始めたヴィルノは、ハーバーマスが解明した、道具的行為（労働）とコミュニケーション的行為との対立は、ポストフォーディズムの体制によって覆されたと見て次のように述べている。
「『コミュニケーション的行為』は、もはや、倫理的－文化的関係や政治のなかにだけに自分の領域を限定できません。反対に、対話的発語が資本主義的生産そのものの中心に陣取っているのです。労働は相互行為そのものなのです。」（7頁）
ヴィルノは、このようなポストフォーディズムにおける生産過程の特徴と資本によって分有されている一般的知性の普及が、マルチチュードという存在様態を生み出していると見ている。そのマルチチュードの存在様態についてヴィルノは序章で「マルチチュードとは、＜多数的なもの＞の多数的なものとしての社会的・政治的存在形式のことなのです。」（23頁）と述べているのだが、それは人民との対比で次のように素描されている。
「（マルチチュードの）単一性は、人民の場合のようにそこへと収斂するための何ものか（国家、＜主権者＝君主＞）ではもはやなく、ひとつの背景あるいはひとつの前提条件として、私たちの背後にあるものなのです。」（32頁）
　ここで素描されている内容はのちに③で、詳しく見ていくが、もう一つの注目点はヴィルノが日本語版序文で、ネグリらの『帝国』でのマルチチュード論に、異議を唱えていることだ。ネグリらはヴィルノが提起した言語活動と労働との共生関係に同意しながら、しかしその観点には労働者の身体が欠落していると批判しているが、ヴィルノは、この批判は言語活動が身体と生を伴っていることに注意していない二元論とみなし、生政治という概念の乱用に警告している。ヴィルノによれば、生政治とは労働力の商品化と切り離せなく、「力能は、それ自体ではまだ非実在的であるからこそ、労働者の生きた身体と不可分なのです。そして、このために、このためにのみ、資本主義は『生政治的なもの』となるのです。」（11頁）と述べている。ヴィルノは労働力の商品化のメカニズムをきちんと把握しており、ここに生政治の根拠を見ているのだ。そしてこのような労働力の把握からは、コモンの否定的側面を描き出すことが可能となる。

②　コモンの否定的側面
ヴィルノは第1章　懸念と防御、でコモンの否定的側面について次のように述べている。
「私の議論は、極端に要約すれば、次のようなものです。知性の公共性がひとつの公的領域――すなわち，多数的なものがそこにおいて共有の諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間――のなかにたわみ込まれない場合、この公共性は、人に恐怖を与える幾つかの効果を産み出すことになるのではないか。すなわち、公的領域なき公共性、これこそがマルチチュードの経験における否定的な側面――もしお望みであれば、悪い側面――なのです。」（61頁）
ヴィルノはネグリらのように非物質的労働からではなく、一般的知性からポストフォーディズム（認知資本主義）を導き出すのだが、その一般的知性が属する公共性（コモン）について、重要な指摘を行っている。知性の公共性がひとつの公的領域にあるということは今日の資本主義ではありえないことだ。ここからヴィルノはそれが恐ろしいものを生み出し、マルチチュードの経験にとって否定的なものを生成すると見ている。
「一般的知性あるいは公共的知性は、それが公共体――公的領域、政治的共同体――とならない場合、諸々の支配形式を狂ったように増殖させることになります。」（62頁）
ヴィルノは一般的知性が資本制的な外皮によって掌握されていることを熟知し、このように述べている。そして、「資本にとって本当に重要なのは、言語活動的・認知的な素質の本源的な分有なのです。」（63頁）と述べている。なぜ分有なのか。分有とは個別に所有できない社会的なものを持つという意味であり、資本といえども工場外にあり、また契約の外にある、一般的知性を個別に所有することは出来ないが、しかし分有することは出来るとヴィルノは見ている。そして資本にとっては分有で十分なのだ。というのも、資本は分有によって一般的知性を資本の生産過程を制御するものとして利用できるからだ。
「知性の公共性、すなわち、知性の分有は、一方であらゆる厳密な分業を挫折させ、また他方で、人格的従属関係を助長するものでもあります。一般的知性、分業の終焉、人格的従属関係、これら三つの局面は互いに関係しあっているのです。知性の公共性は、それがいかなる公的領域とも関連していない場合には、ヒエラルキーの無統制な拡散へと姿を変えます。そうしたヒエラルキーは、無根拠であると同様に揺るぎないものでもあります。従属関係が人格的なものであると言えるのは、次のような二つの意味においてのことです。まず、労働において、私たちはあの人やこの人といった特定の人格に従属しているのであって，匿名の圧制的権力に従属しているわけではないという意味において、さらに、支配下に置かれるのは、私たちの＜全人格＞、すなわち、私たちの人格が有するコミュニケーション的・認知的な基礎素質であるという意味において。要するに、ヒエラルキーは、拡散し、細部に及ぶものとなり、また人格的なものになるということです。」（64頁）
ネグリらと違って、労働を富の唯一の源泉とは見ていないヴィルノは、一般的知性も資本によって分有されることで、支配が強化されると見ているが、しかしその支配は人格的な支配とみなされている。なぜそうなるのかは、もう少しヴィルノの紹介を進めることで明らかにするが、さし当たって資本の支配を人格的な支配と見ることには異議があると述べておきたい。ヴィルノは生産過程における労働者の管理者への従属を根拠としているようだが、それは労働力の売買とその後の資本家による労働力の使用が、指揮命令系統をなしており、労働力は労働者の身体から切り離しえないがゆえに、その指揮命令系統に従属させられるということだが、これ自体は時間決めであり、人格的な従属とは見なせない。ヴィルノが人格的従属と見ているのは、実際には物象による意志支配であって、これは実は匿名のものであり、ある種の社会的な自然力の支配と観念されているものだ。

③　人民とマルチチュードの一者
　次にヴィルノはマルチチュードについて、非常に深遠でかつ実践的に見て有効な視点を提起している。それはマルチチュードには、独特の仕方で一者が措定されているという見解である。まず国家を形成している人民という概念における一者と対比する形で、マルチチュードの一者について次のように考察している。
「マルチチュードの＜一者＞は、国家を構成する＜一者＞――すなわち、人民がそこへと収斂するような＜一者＞とはもはや何の関係もないものです。
　人民は、一つの求心運動の、すなわち、原子化された状態にある諸個人から『政治体』の単一性あるいは主権へと向かう運動の帰結です。人民における＜一者＞とはこの求心運動における最終的な成果なのです。反対にマルチチュードのほうは、一つの遠心的運動の、すなわち＜一者＞から＜多数的なもの＞へと向かう運動の成果です。しかし、多数的なものが分化しつつそれとして存続する際にその出発点になるような＜一者＞とはいったいどのようなものでしょうか。もちろんそれは、国家ではありません。国家とは全く異なる＜単一性／普遍性＞の形式が問題とされなければならないのです。この意味で、今日の講義で最初に論じた問題を、ここでもう一度取り上げ直してみてもよいかも知れません。
マルチチュードの背後にある単一性は、精神や、類に共有の言語的活動・認知的能力や、一般的知性といったような諸々の『共有のトポス』から構成されています。ここでは国家のそれとは明らかに異質なひとつの単一性／普遍性が問題となっているのです。次のことを明確にしておきましょう。すなわち、類の認知的・言語活動的諸ハピトゥスが前面に姿を現すのは、誰かがそれを前面に引き出すことを決めたからではありません。それは必然なのです。つまり、実体的な共同体（すなわち『特殊なトポス』）をもたない一つの社会においては、そうしたハピドゥスが一つの保護形式となるからです。
　マルチチュードの＜一者＞は、したがって、人民の＜一者＞ではありません。マルチチュードがひとつの一般的意志に収斂しないのは次のような簡単な理由からです。すなわち，マルチチュードはすでにひとつの一般的知性を有しているのですから。」（65~6頁）
　ヴィルノによれば、人民は外の一者に向かって収斂していくが、マルチチュードは一者から出発して多数的なものに向かうものだ。この人民はプロレタリアートと言い換えてもいい。これまでの運動はたえず、個々人の外にある何かの物語に収斂させる形で団結や集団化をなしとげてきた。そのような発想はマルチチュードに関しては役に立たないということを、ヴィルノは一者の問題を考察するところから指摘している。
　では、マルチチュードが、すでに一般的知性という一者を有しており、しかしその一般的知性が公共空間に位置してはいないために、諸々の支配形式を狂ったように増殖させているとするならば、この一者から向かう多数的なものはどのような意味を持つのであろうか。あるいは増殖させられている一般的知性を、自らの一者として認知することが大切なのか。

④　マルチチュードの可能性
　ヴィルノはマルチチュードの存在様態を解き明かした後に、その可能性について考察している。まず、「生産の道具が、機械だけにあるわけではなく、生きた労働と不可分の言語的活動‐認知的能力にも存するような状況においては、『生産手段』とみなされるものの大部分はコミュニケーション的な技術と慣例からなっていると考えてもよいでしょう。」（108頁）というポストフォーディズムの特徴から説き起こし、貨幣について次のように述べている。
「貨幣においては、実際、人間の思考の主軸のひとつをなす等価という理念が具現化し実在のものとなっています。この理念は、それ自体ではこの上なく抽象的なものなのですが、貨幣においてひとつの具象的な存在を獲得し、財布のなかでチャラチャラと鳴らされさえするようになるのです。ひとつの思考がモノになるということ、それこそが実在的抽象なのです。」（115頁）
この貨幣論は、いい線を行っているが異論がある。関係は思考によってしか捉えられない、ということを、ヴィルノは思考産物の実在化と見ているようだ。貨幣は人間の思考産物ではなく商品のそれであり、だからこそそれは実在的抽象の産物なのだ。人間の思考が貨幣という実在的抽象を作り出すのではない。
　ヴィルノに従えば、等価という理念を思考のうちから追放すれば貨幣はなくなることになる。いやどうもそう考えているようだが、それではあまりにも資本主義を甘く見ることにならないか。
それはさておいて、ヴィルノは一般的知性について、資本に分有されている側面からではなく、生きた労働によって分有されている側面からの考察を始める。
「一般的知性が――機械システムにおいて具現化される（あるいはむしろ推論される）代わりに――生きた労働の属性として存在するような側面もまた、考察してみる必要があるのです。」（116頁）この考察からは、「公的な知性は、協働と、生きた労働の＜協力して行動すること＞と、あるいは諸個人のコミュニケーション能力と一体化しているということです。」（117頁）ということが明らかとなる。しかしヴィルノはコモンの否定的側面を見失いはしない。
「簡単に言えば、私たちはもはや、国家の＜合理化＝理性化＞に属する一般によく知られた諸過程に対峙しているのではなく、全く反対に、私たちはいまや、≪知性≫の国家化という出来事を確認しなければならないということです。」（123頁）
このようにコモンを中性的なものと捉えるのではなく資本と国家の支配機構に巻き込まれたものとして捉えるヴィルノにあっては、マルチチュードの可能性は楽観的な見通しを許さない。
「『生産物が生産する行為と不可分である』場合には、この生産する行為は、それを完遂する者の人格を問題とし、またとりわけ、この人格とそれを命令した者――あるいは、それが差し向けられる相手――の人格との関係を問題とすることになります。＜共有のもの＞――すなわち知性と言語活動――が労働のもとへと置かれることによって、一方で、諸職務の技術的かつ非人格的な分割が虚構のものとなり、また他方で、このような共有性が公的領域へと転換されないように、隷属状態の執拗な人格化が誘発されるのです。
　最も重要な問いは次のようなものです。今日結合しているもの――すなわち≪知性≫（一般的知性）と≪労働≫（賃金労働）――を切り離すことは可能なのか、そしてまた、今日切り離されているもの――すなわち≪知性≫と≪政治的行動≫――を結合させることは可能なのか。≪知性≫／≪労働≫とい『旧約』から≪知性≫／≪政治的行動≫という『新約』へと移行することは可能なのか。」（124～5頁）
　ヴィルノは、先に見たように、資本の支配を生産過程における人格的支配・隷属関係に見ており、そしてこの支配が、一般的知性を公共空間へと解き放つ傾向に対してそれを押しとどめようとしている、というように考えている。そしてそのような資本の支配に対して、知性と賃労働とを切り離し、あるいは知性と政治的行動とを結合させることを課題として設定している。
　「現在の麻痺状態から政治的行動を解放することは、≪賃金労働≫の外で≪賃金労働≫に対抗するものとして、≪知性≫の公共性を展開させることと別のことではありません。この問題は二つの区別される側面を示しますが、両者の間には、それでもなお、この上なく厳密な相互補完性があります。一方で、一般的知性が公的領域としてその存在をあらわにしますが、それには一般的知性を商品生産や賃金労働に縛り付けてきた連結が切断されなければなりません。また他方で、資本主義的な生産諸関係の転覆が姿を現わす可能性もありますが、そのためには、非国家的な公的領域――すなわち、一般的知性を自らの中心とするような政治的共同体――が創設されなければなりません。」（125頁）
　ヴィルノにあっては資本の人格的支配から逃れるということは、賃労働の外で賃労働と対抗することであり、これはすなわち知性の公共性を展開させることだとされている。そして他方での資本主義的な生産諸関係の転覆の可能性に備えて、政治的共同体が創造されねばならないというのだ。
「脱出、すなわち退出は、『自分の生産ライン以外、他に失うものは何もない』というやけくそな文句とは正反対のものです。脱出は、潜在的な富を、過剰な可能性を、要するに第三のものが与えられることを軸にしているのです。しかし、現代のマルチチュードにとって、抵抗という選択を犠牲にしてまでも遁走という選択を誘導するようなこの潜勢的な豊かさとは、いったいどのようなものなのでしょうか。ここで賭け金となっているのは、言うまでもなく、空間的な『フロンティア』ではありません。そうではなく、一般的知性の公共性に含まれる様々な知――コミュニケーション、名人芸的な＜協力して行動すること＞――の剰余なのです。退出とは、こうした剰余をひとつの自律的で肯定的な表現として浮き出させることで、国家行政の権力への自らの『譲渡』を阻止し、あるいはまた、資本主義的企業の生産資源として自らが組み込まれるのを阻止するのです。」（130～1頁）
ヴィルノはネグリやホロゥエイと違って、労働を富の唯一の源泉とはみなしてはいない。その結果一般的知性が資本によって支配されていることを見抜いている。そして資本の支配を人格的なものと見ているので、一般的知性を商品生産や賃労働から切り離すことが課題となり、このことは脱出によって可能と見ている。
しかし、資本の支配が人格的なものではなく、物象による意志支配としてあり、労働者にとっては、あたかも社会的な自然法則への順応として、意識されているような状況のなかで、資本からの脱出自体は簡単であるが、継続は非常に困難である。その脱出によって形成される経済的関係性が資本のそれよりも魅力を持ったものとして、文化的に優位に立つことが問われているのだが、ヴィルノは、脱出自体は簡単だがその後の継続が大変であるということに十分注意してはいない。
ヴィルノは脱出自体にいろいろな意義を見出しているが、それははかない物語にはならないだろうか。少なくとも次世代の生産様式の輪郭を描き出すことが必要だろう。また、政治的共同体のイメージがもう一つ明らかではないが、このことも脱出自体に意義を見出していることと無関係ではなかろう。
「マルチチュードとは、字義的には複数性を意味し、社会的かつ政治的存在の持続的形式としては、人民の結束的単一性との対比において、＜多数であること＞を意味します。要するに、マルチチュードは複数の個体のネットワークに存するものであり、多数的なものとは複数の特異性のことです。」（136頁）
資本の支配が人格的なものであれば、脱出自体が意義を持ち、それ自体が政治的共同体を形成でき、文化的にも資本に対して優位にたてるだろう。しかし資本の支配は人格的なものではなく、問題は簡単ではない。実際に、ヴィルノも述べているように、特異性は出発点ではなく終着点であり、個体化プロセスの最終成果で、この個体化過程ではこれに先行する前個体的実在（共有的で、普遍的で、未分化の何か）に注目することが必要である。資本の支配は、この前個体的実在と関連しているのであり、従って脱出によって資本から逃げ出せるわけではない。ヴィルノは前個体的実在について次の三点を挙げている。
「第一に前個体的なものとして挙げられるのは、類の生物学的基底、すなわち、感覚諸器官、運動機構、知覚諸能力といったものです。」（137頁）
「第二に前個体的なものとして挙げられるのは、言語、すなわち、ある特定の共同体に属するすべての話者によって共有されている＜博物学＝自然誌＞的言語です。」（138頁）
「第三に、今日において支配的な生産関係もまた前個体的なものです。」（140頁）
ヴィルノは第三で資本の生産関係も前個体的な実在であると認めている。そうであれば、主体の規定について、「主体とは、反対に、ひとつの混合物のことです。『私』であると同時に『ひと』でもあり、反復不可能な単一性であると同時に匿名的な普遍性でもあるということです。」（143頁）というように、前個体的実在との関係で考えるならば、マルチチュードの主体性とはどのようになるであろうか。ヴィルノは次のように主張している。
「『多数的なもの』が国家的単一性を要求することなく、『多数的なもの』のままでいるのは、次のような理由からです。（a）個体化された特異性としての『多数的なもの』は、多種の前個体的なものに備わった単一性／普遍性を、自らの背後に有しているから。（b）『多数的なもの』は、自らの集団的行動において、個体化過程をいっそう際立たせ続けるから。」（145～6頁）
類の生物学的基底や、言語と共に、資本主義的生産関係をも前個体的実在とみるならば、このマルチチュードによる主体形成論は、このようなものとしては無理があるように思われる。むしろ資本主義の内部ではあるが、資本関係からは脱出した人々の生産関係が、いかにして次世代のそれとして組織されるのかという問題を解決しなければ、背後に有する前個体的なものとしてある資本主義的生産関係を抜きにした、個体化過程は実現できないからだ。
「私は、全ての『社会的個人』からなる総体をマルチチュードと呼びたいと考えています。現在の状況を根源的に変化させることは、類のメンバー各々の存在に最大限の存在感と最大限の価値とを与えることに存すると言えるかも知れません。」（147～8頁）
このような希望については大いに共感するが、しかし現実的支えを欠いているように思われる。

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2012/07/29

認知資本主義論によせて（第３回）

Author: ebara (2:50 pm)

認知資本主義論によせて（第三回）

オペライズモの金融危機論の批判

解題：この論文は雑誌『情況』2012年5・6号に寄稿したものです。

はじめに
現代の資本主義が、レーニンが定義した帝国主義段階から、新たな投機・信用資本主義の段階に到達しているということについては既に本誌掲載の論文で述べたことがある。（『情況』2006年11・12月号掲載、榎原均「信用資本主義論と価値形態論」上、および、『情況』2009年1・2月号掲載、榎原均「投機・信用資本主義の原理」）
今回はその原理的な観点から、イタリアのオペライズモの系統の人たちによる集団的著作である『金融危機をめぐる10のテーゼ』（以文社、以下『テーゼ』と略記）での金融危機論を紹介しながら、それに批判的にコメントすることで、金融危機に際しての我々の課題がどのようなものであるかを明らかにしてみたい。
なお、手短に結論を述べておきたい。オペライズモ（『テーゼ』は集団的著作であるので、個々の論文の執筆者名ではなく、オペライズモという呼称で代表させたい）は金融化によって認知資本主義が成立し、認知資本主義の蓄積様式の行詰りが、金融危機として現われていると見ているが、その際、オペライズモは金融経済そのものはブラックボックスに入れたまま，それが現実経済に与えた影響を、フォーディズムから認知資本主義への転換の媒介者として論じている。私は、このブラックボックスを開きそこでの現実を解明することを試みたが、従来の私の理解に新しく、2点の内容を付け加えることが出来た。一つは資本市場で実体経済をはるかに凌駕する額にまで膨れ上がった金融資産のクラッシュの意味を、将来の利益に対する請求権の削減であるから歓迎すべきものと捉えたことだ。もう一つは、投機・信用資本主義への対抗を利子生み資本の廃絶、つまりは銀行が私有している支払い決済システムのコモンとしての解放と、利子のつかない通貨の創設による取引で、こちらの方がベーシック・インカムよりも現実性があるという把握だ。諸賢の批判を待ちたい。

１．10のテーゼ

『テーゼ』の最終章は、「もはや何もこれまでどおりには行かない」と題され、金融危機をめぐる10のテーゼが述べられている。テーゼにはそれぞれ簡単な説明がついているが、とりあえず、10のテーゼ本文を引用しよう。ところでこの本で問題にされている金融危機とは2008年のリーマンショック以降の100年に一度の危機と語られた世界恐慌のことである。
①　今回の金融危機は資本主義システム全体の危機である
②　今回の金融危機は資本主義が価値増殖を行う際の尺度の危機である
③　危機とは認知資本主義が発展する地平である
④　金融危機は生政治的管理の危機、つまり＜ガバナンス＞の危機であり、そのシステムが構造的に不安定であることを明らかにしている
⑤　金融危機とは単独主義の危機であり、地政学的見地からするとバランスが回復される時である
⑥　金融危機はEUを経済的、政治的そして社会的に構築するプロセスがいかに険しいかを余すところなく示している
⑦　金融危機は新自由主義理論の危機を示している
⑧　金融危機は認知資本主義に内在するふたつの主要な矛盾を明るみにだしている。労働に対する伝統的な報酬形態が不適正であること、そして所有という構造が卑劣だということである
⑨　今回の金融危機を、新たな＜ニューディール＞を定義する改良主義的政策によって解決することはできない
⑩　現在の金融危機は新たな社会闘争のシナリオを開く

２．金融危機と認知資本主義

少しテーゼの解説文に立ち入ってみよう。テーゼ①の解説文では、金融危機が資本主義システム全体の危機であるのは「今や金融市場が認知資本主義の脈打つ心臓であるという事実による」（『テーゼ』、225頁）とされる。そして金融市場にはそこに絶えず富を吸い上げることが不可欠で、その結果労働者の所得が減少して所得格差が拡大していく。ところが金融市場は公的セクターの民営化をはかることで「これまで社会を保障してきた国家に取って代わりつつある」（前掲書、225頁）にもかかわらず、これが危機に陥るということは、「現代資本主義が行使する生権力構造の危機」（前掲書、226頁）である。その上に「金融市場は、今日の資本主義が価値増殖を行う場、つまり社会的協働と＜一般的知性＞のレントが搾取される場」（前掲書、226頁）であり、これが危機に陥るということは、当然にも資本主義システム全体の危機となるほかはない、というわけである。
　ここではまだ認知資本主義の概念は明確ではないが、テーゼ②の解説文では次のようにその概念が述べられている。
　「認知資本主義の到来とともに、価値増殖プロセスは物質的生産に結びついた単一の量的尺度を失った。こうした尺度を何らかのかたちで規定していたのは、商品を生産するのに必要な労働内容だが、これは生産そのものの物質性と生産に必要な時間をもとに計測可能だった。だが認知資本主義の到来とともに、価値増殖はさまざまな労働形態と結びつくようになり、労働は明確に定められた時間から溢れ出し、ますます生の時間全体と一致するようになっている。現代の資本主義的蓄積を支える労働価値は、知識、情動と関係、想像的なものおよび象徴的なものの価値でもある。こうした生政治的変化の結果、労働価値という伝統的な尺度とともに，利潤という形態が危機に陥っている。それに対して資本が見つけだしたひとつの解決策が、市場価値の力学を、社会的協働と＜一般的知性＞を搾取する際の尺度とすることだった。こうして利潤はレントに変容し、金融市場が労働価値を決定する場となり、労働価値は金融価値へと変わる。」（前掲書、226頁）
　金融市場が認知資本主義の心臓であるという見方は、認知資本主義においては価値尺度が働く場が金融市場となり、労働価値が金融価値となっているという問題提起に基づいている。つまり今日の資本は、工場での労働者の搾取だけではなく、金融市場を媒介として社会的協働と＜一般的知性＞からレントを得ているというのだ。このような変化によって、労働者は、工場で搾取されているだけではなく、非労働時間としてある、生きている時間からも収奪されているというのである。
　このような変容については、テーゼ③の解説文が次のようにまとめている。
　「1929年の大恐慌と第二次世界大戦を経て生まれた、大企業型の生産モデルとケインズ主義的政策を基盤とするフォーディズム－テイラー主義的パラダイムが、取り返しのつかない危機に見舞われ始めたのは70年代後半からである。・・・・1987年の金融崩壊と1991年から1992年の景気後退に続く1990年代初頭、認知資本主義という新たなパラダイムが、その力を遺憾なく発揮すると同時に、不安定さも見せつつ広まり始めた。こうした状況のなか、生産と労働の変容とともに、金融市場の役割がその性質を変え、国民国家とケインズ主義的な＜福祉＞の構造もまた変化した。」（前掲書、227頁）
　認知資本主義が国家の福祉的役割を縮小させ、金融市場にそれを任せているという状況が生まれているのにこのシステムは非常に不安定であること、こうして現在の金融危機と認知資本主義の発展とは同じ地平にあるというわけだ。
　では、オペライズモにとって金融危機とはなにか。テーゼ⑦の解説文は認知資本主義における金融の役割について次のように述べている。
　「蓄積を行う経済としての資本主義システムは、すべからく債務に依拠する貨幣経済であるという認識を前提に、1929年の大恐慌以降、国家は債務の管理・運営を責務とすることで、最終段階の貸主という役割を担うことになった。それに対し、フォーディズムから認知資本主義への移行にあたり、所有による個人主義の名のもと、第二次世界大戦以降に獲得されてきたさまざまな社会権が金融によって民営化／私物化されることで、公的債務が個人債務へと変容しつつある。」（前掲書、234頁）
　ここでは認知資本主義についての規定と関連して金融市場や金融危機について述べられているのだが、テーゼ①から③までの解説文から先に引用しておいた部分も含め、いずれも外部からの規定になっていて、金融市場そのものの分析にはなっていない。つまり金融が今日の資本主義システムに対して果たしている役割については述べられているのだが、金融の仕組みやその運動についてはブラックボックスに入れられたままなのだ。したがって、『テーゼ』への批判はブラックボックスに入れられている金融そのものの解明によってなされなければならない。そのためには、冒頭の論文「金融資本主義の暴力」と、3番目の論文「価値法則の危機と利潤のレント化」で展開されている金融論を検討していこう。

３．金融化とコモン

『テーゼ』の冒頭論文は「金融資本主義の暴力」と題するマラッツイの分析である。
「いまわたしたちが経験している危機をもたらした金融化プロセスは、20世紀の歴史上に生じたどの金融化の時期からも区別される。」（前掲書、23頁）
これはそのとおりである。金本位制から管理通貨制への移行を経てさらに変動相場制への移行が金融化プロセスの変化を特徴づけている。そしてこの変化を受けて、アメリカの資本市場における金融の証券化が進み、お金にお金を生ませる新しい資本蓄積様式が生み出された。これを投機・信用資本主義段階と捉えるのが私の立場だが、オペライズモは認知資本主義と捉えている。この認知資本主義という把握自体が、金融を外部から見る視点を作り出しているように思える。
「今日の金融経済は浸透的である。つまり経済サイクル全体にわたって蔓延しており、言うなればそれに最初から最後まで付きまとっている。・・・・ひとつだけ例を挙げると、自動車産業はすべてが信用メカニズムに則って機能している。つまりわたしたちがおかれている歴史的状況では、金融があらゆる財・サービス生産そのものと同質かつ不可分なのである。いまや金融化の糧となる源は、各国経済のなかで生産手段と賃金に再投資されない産業利潤にとどまらず、続々と増えている。」（前掲書、24頁）
オペライズモはアメリカの事例を念頭において議論しているのだが、金融経済の浸透性がローンという問題から実証されている。しかしこれ自体は、金融経済の変容の中枢ではありえない。年金基金や保険などの機関投資家はフォーディズムの時代にも存在したが、それらが、投機で利鞘を稼ぐようになったことが変容の中身であり、そうであれば、資本市場の変容を問題としなければならない。資本市場における投機は、変動相場制への移行にともなう外国為替取引でのリスクヘッジを目的としたデリバティブ（金融派生商品）の開発に始まり、これが貿易の実需から乖離した外貨の取引を急速に拡大していったが、そのためには金融システムのオンライン化とインターネットの普及による取引費用の削減と取引時間の短縮が大きい役割を果たした。そしてそれが商業銀行や機関投資家のディーリング（外貨の売買による利鞘稼ぎ）の拡大となり、アメリカのグラス・ステーガル法の廃止による投資銀行業務の拡大で、金融の証券化は歯止めを失い、金融工学を利用したリスクを考慮しないさまざまな金融商品の開発とその世界的販売へと進んだのである。これが金融危機を招き寄せた直接の原因である。
「『利子生み資本』の源と担い手が増殖し広がっていることは、間違いなく新たな金融資本主義をこれまでの資本主義から区別する特徴のひとつだが、と同時にこのシステムを修正し、『脱金融化』することで、実物経済と金融経済の間に『よりバランスの取れた』関係を築き直す可能性を考察するための問題を提起している。」（前掲書、24頁）
　オペライズモの分析の特徴は、資本主義の変容をマルチチュードとの対抗関係として描き出すところにあり、これはまた、現在のシステムに対するオルタナティブをいつも考えているということだ。この点は単なる現状分析には終わらない面白さがある。しかし、オルタナティブを求めるあまり、分析自体がオルタナティブの側に引き寄せてなされているように感じる。
「こうして金融の論理は＜コモン＞を生産しておきながら、あらゆる種類の希少性――金融手段、流動性、諸権利、欲望、権力――を人為的に創出することによって、＜コモンの住人＞を排除し、＜コモン＞を分割・私有化するのである。このプロセスは、17世紀の＜囲い込み＞に時代を思い出させる。」（前掲書、29頁）
金融の浸透を、一方では金融危機の原因と見なしながら、他方では、コモンの生産と見るこの見地は、コモンのマルチチュードによる奪還というオルタナティブに引き寄せた理解の典型だろう。金融の浸透は、金融資産によるあらゆる所得が未来の価値の先取りである以上、それはコモンではなく、負債の積み上げであり、この負債はクラッシュによって胡散霧消させるという筋道しかないのだ。金融危機は途方もない金融資産の価値の消失をもたらすが、それは将来の利益に対する価値請求権としての価値の先取りの企ての破産なのだ。その意味ではすごくエコロジカルなことではなかろうか。このように考えれば、現代にあっては金融危機こそは寄生的生産様式の一時的解消であり、歓迎すべきことなのであろう。

４．ブラックボックスを開く：金融論の新展開
　マラッツイは、金融資本主義の危機についてまとめ的に分析している。それにそって批判を試みてみよう。問題はオペライズモがブラックボックスに入れている金融について語ることだ。
「批判的に、ということは政治的に金融資本主義の危機を分析するには、スタート時点、つまり金融化の起源である例の蓄積をともなわない利潤の増大に立ちもどる必要がある。言い換えれば、フォードモデルが危機に陥り、資本主義が生きた直接労働から剰余価値を引き出すことができなくなって以来、支配的になってきた価値生産プロセスと表裏一体をなすものとして金融化を分析する必要があるのだ。本論考では次のテーゼを提示したい。すなわち，金融化とは、剰余価値と集団的貯蓄のなかで非生産的／寄生的な方向に逸脱する部分が増大することではなく、新たな価値生産プロセスと対称をなす資本の蓄積形態である。とすれば、今日の金融危機は、資本蓄積を欠いた価値生産プロセスが内部崩壊した結果ではなく、新たな資本の蓄積形態が遮断されたことに起因するものとして理解されなくてはならない。」（前掲書、31～2頁）
ハーヴェイが分析したように新自由主義は戦後の福祉国家の体制に対するアンチテーゼを提起した。それは持てるものたちによる階級闘争だった。フリードマンは1960年代に『資本主義と自由』（日経BP社）で、民営化と規制緩和の構想を具体的政策として提案している。しかし、新自由主義者も、今世紀に入っての投機の横行は予測してはいなかった。フリードマンも変動相場制への移行を提案しているが、その理由として、そうなれば貿易格差が縮小すると考えていたのだ。金融化の流れは、新自由主義者の思惑を超える形で進展したのだ。そもそも資本市場は、新自由主義者が考えたような「市場原理」には従わないシステムだったのだ。等価交換を原理とする商品市場と、投機が主要な取引となった資本市場とではぜんぜん異なる内容となっているのだ。オペライズモは工場での剰余価値の生産に行詰った結果として新たな資本蓄積の形態としての金融化があったという理解だが、新自由主義的改革と資本市場の投機市場への変化とは区別しておく必要があると思われる。現に多国籍企業は伝統的な意味での剰余価値生産に行詰っているとは見なせないだろう。
　「消費領域において金融の果たす役割以外で、ここ30年間に起こってきたこと、それは剰余価値そのものを生み出すプロセスの変貌である。変貌を遂げた価値増殖プロセスは、もはや価値の抽出が財・サービス生産という委託地に限定されているとはみなさず、工場の鉄柵を越えて拡大し、資本が流通する領域、すなわち財とサービスが交換される領域に直接入ってゆく。つまり価値を生産するプロセスが、再生産と分配の領域にまで拡大しているのだ。」（前掲書、32頁）
　工場内での剰余価値生産に行詰っているという考え方の背後には、このように価値の生産が再生産と分配の領域にまで広がっているという認識がある。この認識は認知資本主義論の立場の表明でもある。
「それゆえ、蓄積、利潤そして金融化の関係を解釈し直すためには、ポストフォーディズム型生産プロセスの主な特徴をこそ出発点にすべきである。利潤が増大し、金融化の糧となりえたのは、生資本主義においては資本蓄積の概念そのものが変容したからだ。それはもはやフォード時代のように、不変資本と可変資本（賃金）にではなく、生産に直接かかわるプロセスの外部で価値を生産・捕獲するための仕組みに投資することから成り立っている。こうした＜クラウドソーシングの技術＞は、新たな資本の有機的構成を表している。つまり、不変資本が社会に拡散／普及する一方、可変資本もまた、再生産、消費、さまざまな生のかたち、個人・集団の想像力などといった領域のなかで境界を失い、脱空間化され、分散しているのである。新たな不変資本を構成するのは、フォード時代に典型的な機械システムではなく、情報・コミュニケーションテクノロジー、そしてなにより労働者をその生活のあらゆる時間にまで追いかけることで、剰余労働を吸い尽くす非物質的組織システムの全体だ。その結果、労働日と生きた労働時間が拡大・強化される。この生きた労働時間量の増大は、戦略的生産手段（知識、さまざまな知、協働）が労働力の生きた身体に移行していることを反映するだけでなく、古典的な生産手段が経済的価値を失いつつあることも説明してくれる。それゆえ、近年ずっと続いている株式市場依存の目指すところが、直接的に雇用と賃金を増大させる投資ではなく、純粋かつ単純な株価の上昇だとしても不思議ではない。先に述べた自己金融による投資が何かを明らかにしているとすれば、それは、〔現代資本主義の〕蓄積の動力が、社会の内部で価値を生産・捕獲する装置としての金融化に関わっているということである。
　それゆえ、ここ30年間の利潤の増大は、古典的な生産プロセスの外部にあるという意味で前代未聞の蓄積であるとはいえ、やはり蓄積をともなう剰余価値生産に帰することができる。この意味で、生産に直接かかわる空間の外部で生みだされる価値が捕獲されるようになった結果、『利潤（そして賃金そのものの一部）がレント化』しているという考察は正しいと言える。」（前掲書、35～6頁）
　このようにオペライズモの金融論は、フォーディズムから認知資本主義への移行における資本蓄積様式の変化という観点から分析されている。この変化は搾取の場が工場の外部にまで拡張され、労働者の就業時間以外の生活時間にまでその場が広げられることで、利潤の性格も変化し、レントに転化するというわけだ。その際、工場外に作り出されたレント生成の場であるコモンの私的所有の是非をめぐる闘いが重要だということになる。
　しかし、オペライズモがブラックボックスに入れてしまっている金融における変化そのものを解明していけば、このような考え方では金融危機に対する処方箋にはなっていないことが明らかとなる。
　ヒルファーディングやレーニンが定義した金融資本は銀行と産業との癒着であった。しかし今日の金融経済の事態は、この金融資本の概念からは説明できないものとなっている。金融資本概念にあっては、利子生み資本が主要な資本であった。利子生み資本とは、貨幣資本家が産業に投資する形で、資本が商品化されることに基づいて生成されるものであり、利子は利潤の一部分として企業家から支払われるものであった。しかし、信用制度が発達することで、利子生み資本の運動をとりはしない定期的収入が、それを利子と見なして資本還元することで成立する擬制資本が資本市場で取引されるようになってくる。例えば土地所有は地代（レント）を発生させるが、この定期的収入が利子に擬制されて資本還元して土地価格が成立する。また国債は、産業に投資されているわけではないが、国家が利子を支払うことで、擬制資本として売買される。株式も配当を利子と見なして資本還元した株価が、擬制資本価格として株価の決定の要因となる。これらの擬制資本の売買は古くから行われており、金融経済におけるバブルとその崩壊も金融市場にはつきものであった。
　しかし以前には資本市場での取引は制約が多かった。投機をするにも取引費用や手続きにおける制約や、市場への参入の制限などがあったのだ。しかしすでに簡単に触れたように、金融システムのオンライン化とインターネットの発達は、資本市場への参入を容易にして大衆が参加できるようになり、取引費用の削減と取引時間の短縮が行われることで、擬制資本の取引が膨大な額にまで膨張して行ったのである。そして90年代後半からの金融の証券化は、もともと架空資本である擬制資本（利子生み資本ではないにもかかわらずその形式を供えているという意味）をさらにいっそう膨張させた。なぜ擬制資本の膨張がなされるかといえばそれはおそらく資本市場へのマネーの流入速度に規定されているだろう。この速度が膨張の係数を構成していると思われる。つまり巨大につみあがった金融資産とは資本市場へのマネーの流入の係数に他ならず、マネーが流出すればそれは収縮していくのだ。
　今日の資本市場に膨大に蓄積された擬制資本としての金融資産は、将来の利益に対する請求権である。それが、例えばサブプライムローンを組んだ人々が将来ずっと利子を支払い続けるということが前提で資産としての価値を保全する。それが現実には不可能となったことで、架空資本の架空性が暴露され、バブルは弾けたのだ。
　擬制資本の前提となる定期的収入は、産業に投資された利子生み資本が獲得する利子とは違って、利子に擬制されているにすぎない。擬制資本としての金融資産が引き出す定期的収入は地代と類似的であり、これをレントと名づけることは、擬制資本の架空性を明らかにした上での提起としてはうなづける。しかし、オペライズモは利潤のレント化といって、レントを社会的協働と一般的知性の私有から位置づけている。そして金融化がコモンを生み出すというように理解している。これは現実資本の蓄積の変化を、工場の外部にある社会的協働と一般的知性からのレントの搾取という枠組み（認知資本主義論）で思考しているからだ。
　だが、金融危機の引き金となった金融化とは、擬制資本の膨張であり、これはコモンの創出とは関係がない。そして擬制資本の膨張は将来の利益に対する価値請求権であるのだから、その収縮はこの価値請求権の破壊を意味する。すでに指摘したように、この破壊は歓迎すべきことである。ただ金融機関は投機の主体としてあるだけではなくて、商業銀行は支払い決済システムとしての機能を持っている。金融危機は商業銀行の経営を直撃し、銀行の倒産を招き寄せた、支払い決済システムを維持するためには公的資金による銀行救済が不可欠であった。しかし、投機・信用資本主義のつけを公的資金の投入によって解決することは、投機・信用資本主義に対する最後のカードを切ったことを意味する。もう後がない状況で、EUにおけるユーロの危機が始まっている。
　では金融危機に対してどのように対応していくかについてのオペライズモの見解を「価値法則の危機と利潤のレント化」と題するヴェルチェッローネの論文から紹介しよう。

５．金融危機へのオルタナティブ

　社会闘争が向かうべきオルタナティブについて、ヴェルチェッローネは次のように述べている。
「最初の軸が提起するのは、＜福祉＞の諸制度を民主的に取り戻すことであり、社会を横断する労働の連帯的・自己組織的力学を基盤とする。この軸は、生産・消費規範という観点から、非営利的な『人間による人間の生産』を優先させる、オルタナティブな社会モデルを構築する際の基礎を規定する。・・・・
二番目の軸が提起するのは、レントの権力を転覆させ、『資本の社会主義』を貨幣の再社会化プロセスに変容させるための闘争である。このプロセスはコモンを広め、賃労働から解放された無条件の所得へのアクセス形態を多様化するために貨幣を活用する。中・長期的に見て、この構成的力学をその地平として導いていくのは、＜構成員全員に社会的に保障される所得（ベーシック・インカム）＞である。」（前掲書、101頁）
　最初の問題提起はサードセクターの再生の問題であり、新自由主義的政治によってずたずたにされた地域の再生の問題であって、私も同じ問題について社会的経済・社会的企業の促進の問題として取り上げているが、金融危機への直接的な対応ではないのでここでは触れないでおこう。
　二つ目にはベーシック・インカムが提案されているが、これは金融化がコモンを創出しているというオペライズモの見方から導き出された結論であろう。しかし、今日の投機・信用資本主義に対する対抗としてこれで果たしてやっていけるのだろうか。
　オペライズモに触発されて投機・信用資本主義との対抗について考えてみよう。資本市場における擬制資本の投機的取引が野放しにされている現状を、トービン税などによって規制をかけるという方向性は、オペライズモによって改良主義と評価されているが、それならば、擬制資本成立の大本である利子生み資本の廃絶という問題を考えてみたい。これは利子のつかないお金として、地域通貨の実践によってその現実性が試されているが、現在銀行が私的に所有している支払い決済システムをコモンとして解放し、その口座での取引で利子のつかない通貨を創造するのである。その場合、個々人は口座からいくら引き出しても無利子であり、また収入を口座に入れることでバランスを回復することが出来る。ベーシック・インカムだと貨幣が必要であり、国家等の行政機関の財政問題の解決をせまられる。しかし支払い決済システムのコモンとしての解放と利子のつかない通貨での取引は、行政とはかかわりのないところでの所得の再配分機能の発揮であり、資本主義的な私的システムが社会化されているその極限で実施可能な課題ではなかろうか。
　さて、ここまで論を進めてくると、オペライズモの金融危機論への批判は、むしろ認知資本主義論への批判として展開したほうがいいのかもしれない。しかしそうするためにも、金融化という事態の解き明かしは前提作業となるであろう。とまれ認知資本主義論という認識にもとづいて、オペライズモは「新たな社会闘争のシナリオ」について次のように述べている。
「重要なのは、『資本のコミュニズム』を『＜一般的知性＞のコミュニズム』へと転倒させ、それが現代社会の生きた力として＜コモンフェア＞の構造を発展させ、人間が実際に効力をもつかたちで自由と平等を選択する際の条件となるようにすることである。」（前掲書、243頁）
「すでに抵抗を実践し、新たな階級構成をそなえたコモンを構築しつつある自律的な主体を擁護し組織することは、現行の社会・経済ヒエラルキーを改善しうる闘争プロセスを開始するための必要条件なのである。」（前掲書、244頁）
3.11大震災と原発事故によって、大衆運動が復活した日本において、この運動をどう評価し，どう発展させていくのかが課題となっているが、アウトノミア運動を踏まえたこのような提起は、分散している社会運動の連携をつくっていこうとする際に、示唆を与えてくれる。投機・信用資本主義は国民経済内部に格差を拡大することで、新しい階級闘争の火種を撒き散らしているが、この新しい階級闘争における意識性こそが問われており、金融危機への対応においても、この意識性が試されている。

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2012/07/29

認知資本主義論によせて（第2回）

Author: ebara (2:41 pm)

認知資本主義論によせて（第2回）
マルクス『経済学批判要綱』機械の断章を読む

はじめに

　前回に引き続き認知資本主義論の検討をした。オペライズモの発想の源泉となっているマルクスの『経済学批判要綱』を取り上げた。これは原文を11月23日のルネサンス研究所の研究会で報告させてもらい、いろいろ意見を頂いて増補することが出来た。参加者の皆さんに感謝したい。
また当初は予定してはいなかった「マルチチュードという主体」を急遽追加した（これは別途掲載します）。たくさん翻訳されているオペライズモ関係の本にすべて目を通したわけではないが、基本的な批判点は明確になったように思う。あらかじめ紹介しておけば、ネグリとハートは、ホロウェイと同様に、マルクスが労働を富の唯一の源泉と捉えていると考えており（マルクスは『ゴータ綱領批判』で労働を富の唯一の源泉と見なしたゴータ綱領を批判し、自然も富の源泉であると指摘している。）、それに付け加えて、資本の生産過程での資本と労働との相互自律関係を想定している。ここからコモンを利用して資本と対抗するマルチチュードのイメージを描いている。それに対してヴィルノはコモンを中性的なものとは見ずに、それが公的な政治的空間がないところでは資本の支配を強化するようなものとして捉えている。このコモンに対する理解において、ヴィルノの方が正しいのでやや詳しくヴィルノの説を紹介した。もともと新しい社会運動における主体の問題を整理しようと思っていたが、マルチチュード論が長くなったため、こちらは次の課題とした。

１．認知資本主義のイメージ

前回『金融危機をめぐる10のテーゼ』を検討したが、そこから明らかになってきた認知資本主義論のイメージについて整理することから始めよう。その上で、オペライズモにとっての議論の、そもそもの源泉となっているマルクスの『経済学批判要綱』の、機械についての断章を検討しよう。金融の問題についてはその後で取り上げる。
『テーゼ』最終章の10のテーゼから認知資本主義のイメージを構成してみよう。
テーゼ１．は、「今回の金融危機は資本主義システム全体の危機である」とし、テーゼ２．では「今回の金融危機は資本主義が価値増殖を行う際の尺度の危機である」という。そして、テーゼ３．では「危機とは認知資本主義が発展する地平である」とされる。
　少しテーゼの解説文に立ち入ってみよう。テーゼ１．の解説文では、金融危機が資本主義システム全体の危機であるのは「今や金融市場が認知資本主義の脈打つ心臓であるという事実による」（テーゼ、225頁）とされる。そして金融市場にはそこに絶えず富を吸い上げることが不可欠で、その結果労働者の所得が減少して所得格差が拡大していく。ところが金融市場は公的セクターの民営化をはかることで「これまで社会を保障してきた国家に取って代わりつつある」（テーゼ、225頁）にもかかわらず、これが危機に陥るということは、「現代資本主義が行使する生権力構造の危機」（テーゼ、226頁）である。その上に「金融市場は、今日の資本主義が価値増殖を行う場、つまり社会的協働と＜一般的知性＞のレントが搾取される場」（テーゼ、226頁）であり、これが危機に陥るということは、当然にも資本主義システム全体の危機となるほかはない、というわけである。
　ここではまだ認知資本主義の概念は明確ではないが、テーゼ２．の解説文では次のようにその概念が述べられている。
　「認知資本主義の到来とともに、価値増殖プロセスは物質的生産に結びついた単一の量的尺度を失った。こうした尺度を何らかのかたちで規定していたのは、商品を生産するのに必要な労働内容だが、これは生産そのものの物質性と生産に必要な時間をもとに計測可能だった。だが認知資本主義の到来とともに、価値増殖はさまざまな労働形態と結びつくようになり、労働は明確に定められた時間から溢れ出し、ますます生の時間全体と一致するようになっている。現代の資本主義的蓄積を支える労働価値は、知識、情動と関係、想像的なものおよび象徴的なものの価値でもある。こうした生政治的変化の結果、労働価値という伝統的な尺度とともに，利潤という形態が危機に陥っている。それに対して資本が見つけだしたひとつの解決策が、市場価値の力学を、社会的協働と＜一般的知性＞を搾取する際の尺度とすることだった。こうして利潤はレントに変容し、金融市場が労働価値を決定する場となり、労働価値は金融価値へと変わる。」（テーゼ、226頁）
　金融市場が認知資本主義の心臓であるという見方は、認知資本主義においては価値尺度が働く場が金融市場となり、労働価値が金融価値となっているという問題提起に基づいている。つまり今日の資本は、工場での労働者の搾取だけではなく、金融市場を媒介として社会的協働と＜一般的知性＞からレントを得ているというのだ。このような変化によって、労働者は、工場で搾取されているだけではなく、非労働時間としてある、生きている時間からも収奪されているというのである。
　このような変容については、テーゼ３．の解説文が次のようにまとめている。
　「1929年の大恐慌と第二次世界大戦を経て生まれた、大企業型の生産モデルとケインズ主義的政策を基盤とするフォーディズム－テイラー主義的パラダイムが、取り返しのつかない危機に見舞われ始めたのは70年代後半からである。・・・・1987年の金融崩壊と1991年から1992年の景気後退に続く1990年代初頭、認知資本主義という新たなパラダイムが、その力を遺憾なく発揮すると同時に、不安定さも見せつつ広まり始めた。こうした状況のなか、生産と労働の変容とともに、金融市場の役割がその性質を変え、国民国家とケインズ主義的な＜福祉＞の構造もまた変化した。」（テーゼ、227頁）
　認知資本主義が国家の福祉的役割を縮小させ、金融市場にそれを任せているという状況が生まれているのにこのシステムは非常に不安定であること、こうして現在の金融危機と認知資本主義の発展とは同じ地平にあるというわけだ。
　このような認知資本主義論で、原理的な問題提起は第1に、労働が価値の尺度足りえていないということであり、第2に、利潤がレント化しているということであり、第3に、レントが一般的知性からくみ出されているということであり、第4に、労働者は労働時間だけではなくその全生活過程が資本の生産過程に組み込まれるという、生政治の成立であり、第5に、現実資本の蓄積そのものが金融危機と結びついているという見方である。
　これらの見解のうち最後のものを除けばマルクス『経済学批判要綱』（以下要綱と略記）の機械の断章からヒントを得ている。少し回り道になるかもしれないが、要綱機械の断章が検討されるべきである。

２．ネグリの要綱研究

ネグリは『マルクスを超えるマルクス』（作品社）でマルクスの資本論準備ノートである要綱の研究をしている。私は以前にネグリのこの本について批判的コメントを行ったことがある。『ASSB』誌12巻4号（2004年10月）に掲載した「ネグリの『要綱』研究について――経済学的範疇を政治学的範疇として読む試み」がそれである。批判の観点はこの副題で示されている。ところでこのときには十分には検討しなかったが、このネグリの大部の著書で注目すべきは要綱「機械の断章」からの大量の引用である。
日本でこの機械の断章がどのように研究されてきたのか、今は調べる余裕はない。しかし私自身の経験に照らせば、あまり話題にはなっていなかった。1990年代に入って、従来は恐慌の研究をしていた高木彰が新たにオートメーションの研究に取り組み『現代オートメーションと経済学』（青木書店、1995年）を書いているが、そこでは機械の断章が取り上げられている。自動機械の研究者にとっては周知のものだったのかもしれない。
ところでネグリはこの大著で機械の断章から大幅な引用を行っているが、一般的知性についてマルクスが述べたところは落としている。それはネグリが賃金論の解明という観点からこの断章を読んだことに規定されているようだ。ネグリはもっぱら必要労働と剰余労働との関連に注目して断章を読んでいて、たとえば「革命的プロレタリアがたどる道程においては、再領有された剰余労働が必要労働によって支配される。」（ネグリ、273頁）といった解読がなされているからだ。さらにネグリは資本は指令であり、純然たる政治の形態であると見ており、生産過程では資本と労働とは分離され、双方が自律的で独立した主体になると見ているので、必要労働（労働者）と剰余労働（資本）との関係の逆転にコミュニズムを想定し、この意味で「労働者階級の権力は資本制的権力の転倒ではない」（ネグリ、277頁）と述べてもいる。
したがって、ネグリの機械の断章の解説は、一般的知性論に注目して、認知資本主義を論じるという文脈とは異なっていた。もっとも機械の断章に注目したこと自体はオペライズモに知的刺激を与えたことだろう。

３．要綱がオペライズモにあたえたインスピレーションの紹介

①　労働時間は富の尺度であることをやめる
マルクスは端的に「直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の〔尺度〕であることを、やめるし、またやめざるをえない。」と述べている。これは意味深長な提起だ。この文章の前後を引用しよう。
「現実の富の姿は、むしろ、充用される労働時間とこれの生産物のあいだの途方もない不比例のなかに、また同じく、〔一切の具体性を奪われて〕全くの抽象にまで還元された労働が監視している生産過程の猛威とのあいだの質的な不比例のなかに、はっきり現れる――そしてこのことを暴露するのが大工業である――。もはや、労働が生産過程のなかに内包されたものとして現れるというよりは、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関わるようになる。（機械装置について妥当することは、同様に、人間の活動の結合と人間の交通の発展とについても妥当する。）もはや労働者は、変形された自然対象を、客体と自分のあいだに媒介者として割り込ませるのではなく、彼は、彼が産業的な過程に変換する自然過程を、自分と自分が思うままに操る非有機的自然とのあいだに手段として押し込むのである。労働者は生産過程の主作用因であることをやめ、生産過程と並んで現れる。この変換のなかで、生産と富との大黒柱として現れるのは、人間自身が行う直接的労働でも、彼が労働する時間でもなくて、彼自身の一般的生産力の取得、自然に対する彼の理解、そして社会体としての彼の定在を通じての自然の支配、一言で言えば社会的個人の発展である。現在の富が立脚する、他人の労働時間の盗みは、新たに発展した大工業それ自身によって創造されたこの基礎に比べれば、みすぼらしい基礎に見える。直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の〔尺度〕であることを、やめるし、またやめざるをえない。大衆の剰余労働はすでに一般的富の発展のための条件であることをやめてしまったし、同様にまた、少数者の非労働は人間の頭脳の一般的諸力の発展のための条件であることをやめてしまった。それとともに交換価値を土台とする生産は崩壊し、直接的な物質的生産過程それ自体から、窮迫性と対抗性という形態がはぎとられる。諸個人の自由な発展、だからまた、剰余労働を生みだすために必要労働を縮減することではなくて、そもそも社会の必要労働の最小限への縮減、その場合、この縮減には、すべての個人のために自由になった時間と創造された手段とによる、諸個人の芸術的、科学的、等々の発達開花が対応する。資本は、それ自身が、過程を進行しつつある矛盾である。すなわちそれは、〔一方では〕労働時間を最小限に縮減しようと努めながら、他方では労働時間を富の唯一の尺度かつ源泉として措定する、という矛盾である。」（ネグリ、267～8頁、邦訳要綱Ⅱ、489~90頁）
マルクスの原意は、資本主義の後に来る社会を念頭に置いて、労働時間が富の尺度たることをやめてしまうと述べていることは明らかである。しかしオペライズモは、これを認知資本主義の成立と見なし、労働価値が金融価値に取って代わられたと主張している。このように読み取ることが出来るのは、大工業のもとでの自動機械がもたらす生産過程の変化と、そこでの価値創造力としての生きた労働の役割の縮小という事態をフォーディズムの傾向と捉え、そしてその傾向がポスト資本主義社会を招き寄せずに認知資本主義を招き寄せたと考えているからだ。このような考えは、剰余価値を無きものにしようとした、77年のオペライズモの闘争目標である労働の拒否が実現されず、その発想を資本が盗んで自らを認知資本主義へと発展させたという自己の経験へのこだわりがある。
確かに機械の断章でのマルクスによる自動機械の分析は、今日のオートメーション研究にとって不可欠の視点を提起している。オートメーションによる無人工場の成立は労働価値論をゆるがせるという主張はずいぶんたくさんあるし、その根拠を機械の断章から導くことも可能だからだ。しかし、私としては資本制的外皮の社会化の結果、個別資本の工場がそれとして独立に存在するような時代から、ネットワークで結ばれる時代へ移行することで、平均利潤の法則の土台が変化していることに注目すべきだと考えている。無人工場での剰余価値生産の説明の困難を主張する研究者たちは、ほとんどが価値の生産価格への転形と利潤率の均等化による平均利潤の法則の成立を考慮に入れてはいない。オペライズモの、資本による搾取が工場の壁を越えて社会への拡大しているという考え方はもっともであり、この事態を平均利潤成立のメカニズムに組み込むことが問われているように思う。

②　一般的知性
　ネグリの『マルクスを超えるマルクス』をきっかけとして、イタリアの運動グループは要綱機械の断章からいろいろなヒントを得て、認知資本主義論や、コモン論や、レント（地代）復活論や、コニタリアート（認知労働者）論を展開しており、それが日本で紹介されているが、この機械の断章でマルクスが一般的知性について述べたくだりをネグリは引用していない。以下に引用しておく。認知資本主義論とは、このマルクスの一般的知性論を受けて、現在では一般的知性は土地と同じように公共物となっているのに資本はそこから「レント」を引き出しているという理解に基づいている。
「自然は機械をつくらないし、機関車、鉄道、電信、ミュール自動精紡機、等々をつくらない。それらは人間の勤労の産物であり、天然の材料が、自然を支配する人間の意志の器官に、あるいは自然における人間の意志の実証の器官に転化されたものである。それらは、人間の手で創造された、人間の頭脳の器官であり、対象化された知力である。固定資本の発展は、どの程度まで一般的社会的知能、知識が、直接的な生産力になっているか、だからまた、どの程度まで社会的生活過程の諸条件それ自体が、一般的知性の制御のもとにはいり、この知性にもとづいて改造されているかを示している。〔それは〕どの程度まで社会的生産力が、知識という形態においてのみではなく、社会的実践の、実在的生活過程の直接的器官として生産されているか〔を示している〕。」（要綱Ⅱ、492頁）
　マルクスによれば、固定資本とはもともと労働手段であったが、自動機械の成立はそれを個別的労働者の労働手段ではありえないものへと転化し、はては労働過程から生きた労働を排除して、機械そのものが「労働」するという事態を創り出すが、この機械は一般的知性が直接的な生産力になっていることを示している。だからここでマルクスが言及している一般的知性とは、直接的な生産力を制御するそれとして規定されている。
　一般的知性を直接的生産と結びつけるのは資本の役割である。知的所有権や委託研究、産学共同などその結びつきはさまざまである。これが一般的知性の現実であり、これが資本制的外皮である。このような資本制的外皮抜きの一般的知性はただ思考されるだけではなかろうか。それはオペライズモがいうようなコモンではなく、資本によって囲い込まれたものとしてしか存在してはいない。
　パオロ・ヴィルノは『マルチチュードの文法』で次のように述べている。
「私の議論は、極端に要約すれば、次のようなものです。知性の公共性がひとつの公的領域――すなわち，多数的なものがそこにおいて共有の諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間――のなかにたわみ込まれない場合、この公共性は、人に恐怖を与える幾つかの効果を産み出すことになるのではないか。すなわち、公的領域なき公共性、これこそがマルチチュードの経験における否定的な側面――もしお望みであれば、悪い側面――なのです。」（61頁）
「一般的知性あるいは公共的知性は、それが公共体――公的領域、政治的共同体――とならない場合、諸々の支配形式を狂ったように増殖させることになります。」（62頁）
一般的知性が本来あるべき公共性とはなってはいないことの帰結についてヴィルノは見抜いているが、しかしこの現実への批判が疎外論的発想からなされているように思う。そうなるのは、自動機械の導入による生きた労働による価値増殖の縮小という事態の延長線上に未来社会を展望した要綱の①で引用した記述と関わっているようだ。私としては、この矛盾を解決する運動形態として平均利潤の法則があり、資本制的外皮の社会化があると考える。

③　労働の拒否
　働くことの意味について、ポスト資本主義社会の価値尺度が労働時間ではないというマルクスの提起は、いまここで、自由に処分できる時間を求めているニートたちの先駆性をしめしてはいないか。「富の尺度は、もはや労働時間ではけっしてなくて、自由に処分できる時間である。」。この考え方を「いま」「ここ」で実現しようとする試みは困難な道ではあるがしかし、次第に増大していっている。労働の拒否から雇われずに生活するライフスタイルへ、このような志向性を励ますような主張がここにはある。
「資本はこのように、図らずも、社会の自由に処分できる時間という手段を創造することに、すなわち、社会全体のための労働時間を、減少していく最小限に縮減し、こうして万人の時間を彼ら自身の発展のために解放するための手段を創造することに役立つのである。だが、資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである。資本は、前者の点でうまく成功し過ぎると、剰余生産に苦しむことになるのであり、その場合、剰余労働が資本によって価値実現されえないので、必要労働が中断される。この矛盾が発展すればするほど、ますますはっきりしてくるのは、生産諸力の増大はもはや他人の剰余労働の取得に縛りつけられたままでいることができないということ、労働者大衆自身が自分たちの剰余労働を取得しなければならないということである。彼らがそれをやりとげたならば、――そしてそれとともに、自由に処分できる時間が対立的な存在をもつことをやめるならば――、一方では、必要労働時間が社会的個人の諸要求をその尺度とすることになるであろうし、他方では社会的生産力の発展がきわめて急速に増大し、その結果として、生産はいまや万人の富を考慮したものであるにもかかわらず、万人の自由に処分できる時間が増大するであろう。というのも、現実の富とはすべての個人の発展した生産力だからである。そうなれば、富の尺度は、もはや労働時間ではけっしてなくて、自由に処分できる時間である。富の尺度としての労働時間は、富そのものを、窮乏にもとづくものとして措定し、また自由に処分できる時間を、ただ剰余労働との対立――言い換えれば、個人の全時間を労働時間として措定すること、それゆえ個人をたんなる労働者に格下げし、労働のもとに包摂すること――のなかでのみまたそれを通じてのみ存在するものとして措定する。だからこそ、いまや、最も発展した機械装置が労働者に、未開人よりも長く、すなわち労働者自身が最も簡単で最も粗野な道具をもってやっていたのよりも長く労働することを強いるのである。」（ネ、270～1頁、邦訳要綱Ⅱ494~5頁）
　ネグリは労働者が剰余労働を取り戻すというところに注目しているが、現在的には資本に雇用されないことで剰余労働を与えず、資本自体の増殖に組しないという考え方の方が有効なように思われる。

④　ポスト資本主義社会での人間
マルクスはここでは人間を経済の観点からしか考察していない。その経済とは「真実の経済――節約――は労働時間の節約（生産費用の最小限と最小限への縮減）にある。」というものだ。「労働時間の節約は、直接的生産過程の視点から、固定資本の生産とみなすことができる。そして人間それ自身がこの固定資本なのである。」とマルクスが言う時の「固定資本」とは「資本」という言葉が使われているが、資本主義時代の固定資本ではない。資本が所有している固定資本の地位をポスト資本主義社会では人間が占めるという意味であろう。いまここで脱資本主義を試みている人たちには富の尺度を現時点から自由な時間に置きながら、労働時間の節約という経済をうまく回していくことが問われている。
「真実の経済――節約――は労働時間の節約（生産費用の最小限と最小限への縮減）にある。だが、この節約は生産力の発展と一致している。だからそれは、享受を断念することではけっしてなく、生産のための力、能力を発展させること、だからまた享受の能力もその手段をも発展させることである。享受の能力は享受のための条件、したがって享受の第一の手段であり、またこの能力は個人の素質の発展であり、生産力である。労働時間の節約は、自由な時間の増大、つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく、またこの発展はそれ自身がこれまた最大の生産力として、労働の生産力に反作用を及ぼす。労働時間の節約は、直接的生産過程の視点から、固定資本の生産とみなすことができる。そして人間それ自身がこの固定資本なのである。ちなみに、直接的な労働時間そのものが、自由な時間と抽象的に対立したまま――ブルジョア経済の視点からはそのように見える――ではありえない、ということは自明である。労働は、フリエが望んでいるのとは違って、遊びとはなりえないが、そのフリエが分配ではなくて生産様式それ自体をより高度の形態のなかに止揚することこそ究極の目的だ、と明言したことは、どこまでも彼の偉大な功績である。余暇時間でもあれば、高度な活動のための時間でもある、自由な時間は、もちろんそれの持ち手を、これまでとは違った主体に転化してしまうのであって、それからは彼は直接的生産過程にも、このような新たな主体としてはいっていくのである。」（ネ、272～3頁、邦訳要綱Ⅱ、499~500頁）
　今日問われているのは、生産様式の「より高度の形態」が資本主義の胎内で生まれ発展することが可能かどうかということだ。雇用労働を拒否することで資本を増殖させない働き方を実現していくときに、富の尺度を自由時間におけるだけの生産性を如何に確保できるかということだ。これは個別の資本家的経営がネットワークで結ばれ、一般的知性によって制御される無人工場が普及し、平均利潤の法則が工場外の領域をも巻き込んで貫徹して、資本制的生産の外皮がその限界にまで社会化された現代社会における主体形成の問題でもある。

⑤　要綱における平均利潤論の萌芽
　ネグリが注目した要綱の機械の断章は、資本論の「機械と大工業」が第1巻に収録されているのとは違って、資本論第2巻の資本の流通過程のそれもその最終段階に位置している。そしてその後はすぐ資本論第3巻の資本制的生産の総過程につながっている。資本論第3巻では、まず、剰余価値の利潤への転形が説かれ、生産価格の成立と平均利潤の成立のメカニズムが解明されているのだが、要綱ではそこまでの解明は進んでいない。しかし、機械の断章のすぐ後には次のような記述がある。
「資本の再生産過程のなかに流通が、すなわち直接的生産過程の外部での資本の運動がとり入れられているので、剰余価値はもはや、資本が生きた労働に対して単純に直接的に関わることによって生みだされたものとしては現れない。この関係はむしろ、資本の総運動の一契機として現れるだけである。」（要綱Ⅱ、552~3頁）
ここには早くも機械の断章での、オートメーションのもとでの生きた労働の減少による、その工場で直接くみ出しうる剰余労働の減少という記述に対する反対の現象があることが述べられている。
　「したがって資本は、新たに生産された価値を、もはや自己の現実の尺度である、必要労働に対する剰余労働の割合によって測るのではなく、自己の前提としての自己自身で測るのである。一定の価値の資本は一定の期間のうちに一定の剰余価値を生産する。このように、前提された資本の価値で測られた剰余価値、このように、自己を増殖する価値として措定された資本、――これが利潤である。」（要綱Ⅱ、553頁）
　つまり資本は、自動機械が導入された一つの工場において、剰余価値が如何にしてくみ出されるのかという機械の断章での探求とは違って、別の仕方で計算をする。そのツールが利潤である。この現象世界では、もはや生産現場での労働者の数が問題となるのではなく、資本の総額が問題となり、それに比例して利潤が計算されるのである。
　「資本の生産物は利潤である。だから剰余価値の量は資本の価値の量で測られるのであり、だからまた利潤の率は、資本の価値に対する利潤の価値の比率によって規定されているのである。」（要綱Ⅱ、553頁）
　もちろん要綱の研究段階では、まだ平均利潤成立のメカニズムは解明されてはいない。しかし資本主義の現象世界において、利潤がどのようにして決められるかについてはマルクスは承知していた。
　「すでに現存する物質的な、すでにつくりだされている、固定資本の形態で存在する生産力、たとえば科学力、人口等々、要するに、富の一切の条件は、また富の再生産のための最大の諸条件、すなわち社会的な個人の豊かな発展は、――これらのものは、資本そのものによって資本の歴史的発展のなかでもたらされた生産様式の発展がある一定の点にまで達すると、資本の自己増殖を措定するのではなく、それを止揚する、ということである。生産諸力の発展が、ある一定の点を越えると、資本にとっての制限となり、したがって資本関係が労働の生産諸力の発展にとっての制限となるのである。この点に達すると、資本、すなわち賃労働は、社会的富と生産諸力の発展に対して、同業組合制度、農奴制、奴隷制がはいったのと同じ関係にはいり、そして桎梏として必然的に脱ぎすてられる。」（要綱Ⅱ、558頁）
　機械の断章で取り上げられたポスト資本主義の展望が、ここではやや異なった視点から再論されている。機械の断章では社会変革の問題は「労働者大衆自身が自分たちの剰余労働を取得しなければならない」というように提起されていたが、ここでは賃労働という形態が「脱ぎすてられる」というように書かれている。主観的意識から客観的過程への転換である。私としては労働運動の力の増大に対応して、資本制的外皮が社会化されるという形で、資本が生き延びてきた歴史的過程を踏まえれば、主体的契機と客観的過程の双方に目を配ることが問われていると考える。
　耳学問によれば、マリオ・トロンティは早くから，労働運動のヘゲモニーで資本主義的生産の技術的革新が成されたということに注目していた。つまり資本家は相対的剰余価値の生産などはする気が無かったが、絶対的剰余価値の生産（労働時間の延長と労働強度の増加）が労働者の反抗を増大させたので、仕方なく技術革新に取り組み、相対的剰余価値の生産の方法を発達させたというのだ。この考え方は、労働者の反逆が資本制的外皮の社会化を促進するということとして受けとめれば今日の金融化（信用資本主義の成立）の根拠を明らかにする視点として有効だろう。
　「資本が利潤を生むものとして、労働からは独立した富の源泉として、措定されているので、資本のあらゆる部分が、均等に生産的であると想定される。利潤のかたちでの剰余価値は、それが資本の総価値で測られることからもわかるように、資本のさまざまの構成部分によって均等に生み出されたものとして現れる。だから、資本の流動部分（原料及び必需品からなる部分）は、固定資本をなす構成部分がもたらすよりも多くの利潤をもたらすわけではないのであり、厳密に言えば、利潤は、この二つの構成部分に、それらの大きさに応じて均等に関連しているのである。」（要綱Ⅱ、576頁）
　「産業部門が異なれば等量の諸資本にとっても利潤が不等であること、すなわち利潤率が不等であることは、競争が行う均等化にとっての条件であり、前提である。」（要綱Ⅱ、579頁）
　ここから平均利潤成立のメカニズムの解明へはあと一歩である。オペライズモがここまで読み込んで、機械の断章での矛盾の設定が、資本の現実に運動する現象形態において、ひとつの運動形態を形成するという理解に達すれば、ネグリ流の生産過程での資本と労働の相互自律化といった考え方を批判的に検討し、矛盾が創り出す運動形態への理解へと進むことが出来よう。

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2011/12/23

認知資本主義論によせて（第1回）『金融危機をめぐる10のテーゼ』を読む

Author: ebara (10:20 pm)

認知資本主義論によせて（第1回）
『金融危機をめぐる10のテーゼ』を読む

はじめに
イタリアのオペライズモの系統の人々の著作がたくさん翻訳されるようになってきた。日本では60年安保～70年全共闘の世代が、昨年ルネサンス研究所を立ち上げたが、彼らはずっと以前からセミナーや共同研究を続けており、『金融危機をめぐる10のテーゼ』（以文社、以下『テーゼ』と略記）も、2008年に開催されたセミナーの報告が元になっている。日本では『情況』誌が発表の場としてあるが、個人的著作がおおく、座談会はあっても共同研究は見られない。オペライズモ系統の人々の活動は、ルネサンス研究所の今後の活動にも示唆するところが多い。また内容的にも同時代の同じような経験をつんだ人々の研究には興味をそそられる。
最近オペライズモの思想を紹介した雑誌に『現代思想』2011年3月号がある。認知資本主義の特集がそれだ。そこに掲載されている水嶋一憲「金融コミュニケーション資本主義からコモンのエコロジーへ」はテーゼに拠る人たちの基本思想を知るには有益である。今回は『テーゼ』の内容を紹介しながら、コメントを付すことから始めていきたい。

１）「もはや何もこれまでどおりには行かない」
『テーゼ』の最終章は、「もはや何もこれまでどおりには行かない」と題され、金融危機をめぐる10のテーゼが述べられている。テーゼにはそれぞれ簡単な説明がついているが、とりあえず、10のテーゼ本文を引用しよう。ところでこの本で問題にされている金融危機とは2008年のリーマンショック以降の100年に一度の危機と語られた世界恐慌のことである。
１．今回の金融危機は資本主義システム全体の危機である
２．今回の金融危機は資本主義が価値増殖を行う際の尺度の危機である
３．危機とは認知資本主義が発展する地平である
４．金融危機は生政治的管理の危機、つまり＜ガバナンス＞の危機であり、そのシステムが構造的に不安定であることを明らかにしている
５．金融危機とは単独主義の危機であり、地政学的見地からするとバランスが回復されるときである
６．金融危機はEUを経済的、政治的そして社会的に構築するプロセスがいかに険しいかを余すところなく示している
７．金融危機は新自由主義理論の危機を示している
８．金融危機は認知資本主義に内在するふたつの主要な矛盾を明るみにだしている。労働に対する伝統的な報酬形態が不適正であること、そして所有という構造が卑劣だということである
９．今回の金融危機を、新たな＜ニューディール＞を定義する改良主義的政策によって解決することはできない
10．現在の金融危機は新たな社会闘争のシナリオを開く
　この10のテーゼはみな認知資本主義の概念に関連している。認知資本主議論とは、産業資本主義が工場内に価値増殖の場を保全していたが、それが工場外に広げられて、一般的知性としてあるコモン（共）の領域でそれが行われている段階ということだが、この本にしたがって順次その概念を紹介していこう。

２）「金融資本主義の暴力」　マラッツイの金融分析
『テーゼ』の最初の章は「金融資本主義の暴力」と題するマラッツイの分析である。
「今私たちが経験している危機をもたらした金融化プロセスは、20世紀の歴史上に生じたどの金融化の時期からも区別される。」（テーゼ、23頁）
「今日の金融経済は浸透的である。つまり経済サイクル全体にわたって蔓延しており、言うなればそれに最初から最後まで付きまとっている。・・・・ひとつだけ例を挙げると、自動車産業はすべてが信用メカニズムに則って機能している。つまりわたしたちがおかれている歴史的状況では、金融があらゆる財・サービス生産そのものと同質かつ不可分なのである。いまや金融化の糧となる源は、各国経済のなかで生産手段と賃金に再投資されない産業利潤にとどまらず、続々と増えている。」（テーゼ、24頁）
「『利子生み資本』の源と担い手が増殖し広がっていることは、間違いなく新たな金融資本主義をこれまでの資本主義から区別する特徴のひとつだが、と同時にこのシステムを修正し、『脱金融化』することで、実物経済と金融経済の間に『よりバランスの取れた』関係を築き直す可能性を考察するための問題を提起している。」（テーゼ、24頁）
　利子生み資本の運動が、現実資本の生産・流通・消費過程にまとわりついていること、これはたしかに現在の金融経済の特徴である。ではそのようなことがなぜ可能となったのか。これを解明する必要があるのではないか。マラッツイの金融市場の分析はジャーナリステックな叙述に終始しているが、この「なぜ」にまで考察が進まない原因はどこにあるのだろうか。
　その原因は最後の引用文にあるような、金融経済分析の視点が、オルタナティブな関係の形成可能性を読み込むといった視点によるものではないか、とひとまず考えてみよう。これはマルクスの『経済学批判要綱』（以下『要綱』と略記）機械の断章の基本視点だが、この早急にオルタナティブを読み込む分析方法は、かえって金融経済そのものの分析を甘くしてしまうのではなかろうか。金融経済がどれほど不安的で危機を繰り返すにしても、あたかも永遠に続くかのような過程として取り上げないことには、その法則的理解は不可能ではなかろうか。つまり、マラッツイは金融化のプロセスの分析をそれのオルタナティブへの移行の傾向を探るという試みに従属させているように思われるのだ。
「言い換えれば、経済の金融化とは、利潤率が低下した後で、資本の収益率を回復させるプロセス、生産に直接関わるプロセスの外部で資本の収益性を高めるためのからくりだったのである。まさしくこのからくりにより、企業は『無責任な』やり方で＜株主価値＞というパラダイム、つまり＜利害関係者＞と呼ばれる『利益生産者』の多種多様な価値に株価を優先させるパラダムを内面化することになった。」（テーゼ、26頁）
　この「からくり」自体をきちんと分析することが必要ではないのか。ここの叙述は80年代にはやった商業銀行によるディーリングを想起させるが、その場合外国為替市場における投機取引を考慮しなければならないが、マラッツイは株式市場にしか注目していない。そして今日の金融経済が資本家階級の利潤追求の意志から生み出されているような考え方に陥っているが、事態はそうではなかろう。1973年のニクソンショック以降の変動相場制への移行に伴う、外国為替市場における投機取引の激増が背景にあり、これに資本家階級が順応してきたと見るほうが妥当ではなかろうか。そしてそれが80年代の新自由主義の台頭につながっている。
ここで述べられている「利潤のレント化」（テーゼ、27頁）とは企業が事業所の外部から、金融市場への投資や投機取引から利益を得ている事態をさしている。レント化はそれにとどまらず、賃金にも及ぶとして、「賃金労働者に対しても金融収益の再配分が、動産・不動産収入という二つの形態で行われた。つまり利潤だけでなく賃金もまたある意味でレント化しているのである。」（テーゼ、27頁）と述べられる。
これはアメリカの年金基金が機関投資家として投機市場の主役のひとつになったこと、そして年金が投機市場の浮き沈みに左右されるようになっていること、またアメリカの大衆が年金だけでなく、株への投資も行っている他方で、ローンや消費者金融などで金融市場にマネーを供給していることを指しているようだ。
「こうして金融の論理は＜コモン＞を生産しておきながら、あらゆる種類の希少性――金融手段、流動性、諸権利、欲望、権力――を人為的に創出することによって、＜コモンの住人＞を排除し、＜コモン＞を分割・私有化するのである。このプロセスは、17世紀の＜囲い込み＞に時代を思い出させる。」（テーゼ、29頁）
　金融経済が生産するコモンとはなにか？ここで例に挙げられているものはアメリカのサブプライムローンだが，ローンの設定がなぜコモンの生産なのか理解できない。ローンを組んで得られた住宅は共有財ではありえない。所有権はあくまでも貸し手の側にある。
「批判的に、ということは政治的に金融資本主義の危機を分析するには、スタート時点、つまり金融化の起源である例の蓄積をともなわない利潤の増大に立ちもどる必要がある。言い換えれば、フォードモデルが危機に陥り、資本主義が生きた直接労働から剰余価値を引き出すことができなくなって以来、支配的になってきた価値生産プロセスと表裏一体をなすものとして金融化を分析する必要があるのだ。本論考では次のテーゼを提示したい。すなわち，金融化とは、剰余価値と集団的貯蓄のなかで非生産的／寄生的な方向に逸脱する部分が増大することではなく、新たな価値生産プロセスと対称をなす資本の蓄積形態である。とすれば、今日の金融危機は、資本蓄積を欠いた価値生産プロセスが内部崩壊した結果ではなく、新たな資本の蓄積形態が遮断されたことに起因するものとして理解されなくてはならない。」（テーゼ、31～2頁）
新たな金融化が資本蓄積におけるいかなる変容を引き起こしたかを問うのではなく、資本蓄積のどのような変容が金融化を招いたのかと問うのがマラッツイの考え方だ。フォーディズムの行詰りを打開すべく資本家階級が新しい蓄積様式を求めて金融化を成し遂げたというあらすじであり、そしてこのようなあらすじが、この新しい蓄積様式の遮断によって危機に陥っているというわけだ。このように捉えれば、マルチチュードの抵抗の方向性が導き出されようが、しかし果たしてこのようなあらすじに現実性はあるのだろうか。
　「消費領域において金融の果たす役割以外で、ここ30年間に起こってきたこと、それは剰余価値そのものを生み出すプロセスの変貌である。変貌を遂げた価値増殖プロセスは、もはや価値の抽出が財・サービス生産という委託地に限定されているとはみなさず、工場の鉄柵を越えて拡大し、資本が流通する領域、すなわち財とサービスが交換される領域に直接入ってゆく。つまり価値を生産するプロセスが、再生産と分配の領域にまで拡大しているのだ。」（テーゼ、32頁）
　消費領域における金融の果たす役割は理解しやすい。しかしここで述べられている価値の生産プロセスの拡大については、資本の生産過程が再生産と流通の過程にまで延長されているというのだが、ニュアンスはなんとなく分かるが疑問を感じざるをえない。工場外での人びとの日常生活にまで資本の生産過程が浸透しているという事態は次のように説明される。
「この生産という観点から金融資本主義を分析するとは、生経済、あるいは生資本主義を論じるということである。・・・・価値生産が外部化され、再生産領域にまで拡大している具体例は今や非常に多い。企業による＜アウトソーシング＞の最初の段階，つまり非正規労働・自律的労働の第二世代が登場し，流通領域が資本主義によって植民地化される段階から、消費者が正真正銘の経済的価値の生産者に変容させられるまでは地続きである。」（テーゼ、32～3頁）
　つまり、労働力の搾取の場面だけではなく、生活領域からも価値を抽出しているということなのだ。生活の必要からインターネットで、メールを無料で使っているとしても、それが資本の生産過程に組み込まれているというわけだ。
「認知資本主義に関する研究は、付加価値の創出における認知的／非物質的労働の中心性を明らかにするにとどまらず、固定資本の戦略的重要性がいっそう失われ、一連の生産－道具的機能が労働力の生きた身体に移転していることも示している。」（テーゼ、34頁）
もともと技術は職人の生きた身体に属していた。工業化はこの技術を機械に移転した。だから今日再び労働力に技術が属するようになったということ自体は特別なことではない。ただ一般的知性が発達しているということが、工業化以前の職人の技術とは違っている。
「それゆえ、蓄積、利潤そして金融化の関係を解釈し直すためには、ポストフォーディズム型生産プロセスの主な特徴をこそ出発点にすべきである。利潤が増大し、金融化の糧となりえたのは、生資本主義においては資本蓄積の概念そのものが変容したからだ。それはもはやフォード時代のように、不変資本と可変資本（賃金）にではなく、生産に直接かかわるプロセスの外部で価値を生産・捕獲するための仕組みに投資することから成り立っている。こうした＜クラウドソーシングの技術＞は、新たな資本の有機的構成を表している。つまり、不変資本が社会に拡散／普及する一方、可変資本もまた、再生産、消費、さまざまな生のかたち、個人・集団の想像力などといった領域のなかで境界を失い、脱空間化され、分散しているのである。新たな不変資本を構成するのは、フォード時代に典型的な機械システムではなく、情報・コミュニケーションテクノロジー、そしてなにより労働者をその生活のあらゆる時間にまで追いかけることで、剰余労働を吸い尽くす非物質的組織システムの全体だ。その結果、労働日と生きた労働時間が拡大・強化される。この生きた労働時間量の増大は、戦略的生産手段（知識、さまざまな知、協働）が労働力の生きた身体に移行していることを反映するだけでなく、古典的な生産手段が経済的価値を失いつつあることも説明してくれる。それゆえ、近年ずっと続いている株式市場依存の目指すところが、直接的に雇用と賃金を増大させる投資ではなく、純粋かつ単純な株価の上昇だとしても不思議ではない。先に述べた自己金融による投資が何かを明らかにしているとすれば、それは、〔現代資本主義の〕蓄積の動力が、社会の内部で価値を生産・捕獲する装置としての金融化に関わっているということである。
　それゆえ、ここ30年間の利潤の増大は、古典的な生産プロセスの外部にあるという意味で前代未聞の蓄積であるとはいえ、やはり蓄積をともなう剰余価値生産に帰することができる。この意味で、生産に直接かかわる空間の外部で生みだされる価値が捕獲されるようになった結果、『利潤（そして賃金の一部）がレント化』しているという考察は正しいと言える。」（テーゼ、35～6頁）
　技術が再び労働力に属するようになった時の資本蓄積の変容の分析としては非常に面白い。しかし奇妙なことは、この蓄積様式の変容を、利潤及び賃金のレント化という視点から分析しようとしているので、技術を担った労働力の資本の生産過程への組み込みを「金融化」を見ている点だ。もちろん賃金のレント化ということを年金の例で見ること自体は間違いではない。また資本が生産過程の外部で投資して利益を増やしていることも事実である。しかしそのことと、資本が工場外部で技術を持った労働力を組織し、搾取している過程はまた別ではないのか。
つまり、年金基金が労働者の賃金を証券化し、金融市場への投資により、金融市場が労働者から価値を吸い上げるシステムを形成したことと、資本蓄積の工場外部への関係からの搾取という問題との混同があるのではないか。前者についてはきちんと分析できていない。分析のためには金融の証券化という問題を解かねばならない。したがって利潤のレント化とはいえず、金融の証券化による利子の取得であり、投機による差益・差損の取得である。
とまれ、技術が労働力に属するようになって、それが工場の外部で組織されていることに指摘は面白い。これを資本がどのように組織しているのか、この仕組みの分析がないので、工場の外部で組織されたものを直接にコモンと見ることになるのではないのか。しかしその組織は資本の私的組織として、コモンに対立するものとしてあるのではないのか。
「今日のレントはまさしく金融化プロセスのおかげで利潤と同一視できるということである。みずからに特有の論理――とりわけ貨幣による貨幣生産が、直接的な生産プロセスから自律的すること――を備えた金融化は、生資本主義に典型的な価値生産の外部化と表裏一体の関係にある。」（テーゼ、36～7頁）
貨幣による貨幣の生産の仕組み自体は分析されていない。これはお金がお金を生むという新自由主義が寄って立つ基盤であるが、お金に労働させることが出来るメカニズムとしてそれを解明する必要がある。ところでなぜ利子という範疇がたてられないのか。地代（レント）の範疇に利子を組み込むのはなぜか。識者に聞きたいところだ。たぶん利子生み資本という範疇が欠落しているので利子と地代の区別がつかないのか。それとも現代イタリアではいまもまだ古代ローマ帝国の時代の範疇が生きているのだろうか。
最後にシステムの危機の分析が展開される。引用はせず、ポイントを挙げておこう。
・グローバル規模の危機はケインズ政策では対応できない。
・いかなる国家も世界経済を導く役割を果たせない。
　つまり今日のグローバル経済は国家の役割を相対化していると見ている。
「これまでどおり、わたしたちの＜ニューディール＞は、こうした下からの突き上げ，すなわち金融資本主義を危機に陥れると同時に、それを克服するための前提を示している。社会的レントという場における抵抗から始まる。この社会的レントという土壌で動員を行うために必要な時間は、さまざまな矛盾を解決しうる＜ガバナンス＞を取り戻すための長き時間である。コモンへの権利を、そしてそのなかで生きる権利を制定する＜ガバナンス＞を。」（テーゼ、49頁）
結局コモンに寄生し、ここから不当にもレントをくみ出している認知資本主義は、そのような蓄積様式を持つがゆえに行詰り、コモンをコモンとして人びとに解放することでしか問題解決はありえない、という認識のようだ。そしてこの問題解決は国家や認知資本主義の手に負えないものでマルチチュードの手に委ねられているというわけである。

３）「グローバル経済危機と経済・社会的＜ガバナンス＞」　フマガッリ
　第2章のフマガッリ論文はグローバル経済の危機を論じている。
「すでに述べたように、わたしたちが直面しているのはシステム上の危機である。このシステム上の危機は、過去に由来するというよりはむしろ未来から訪れている。事実、危機に陥っているのは、認知資本主義という新しいパラダイムがひそかに行ってきた社会と分配をめぐる調整の試みである。正確を期すなら、調整の欠如と言ったほうがいいだろう。認知資本主義の力学が90年代初めから依拠してきたのは、経済政策がその責任において行う制度的介入ではなく、市場のとてもよく見える手だったのだから。つまり私たちが目撃しているのは、市場＜ガバナンス＞とそのヒエラルキーの危機なのである。
　別の機会に論じられてきたように、認知資本主義は以下の三本柱を基盤とする蓄積体制として構造化されている。
①投資に資金を供給することで蓄積の原動力として、また所得分配メカニズムを回転させる軸として金融市場が果たす役割（生政治的支配としての金融プロセス）
②グローバル規模で資本が価値を増殖させる主要な源泉として、知識の産出（学習プロセス）およびその普及（ネットワーク）が果たす役割。これは生きた労働と死んだ労働のあいだの関係を再定義するよう導く（＜コモン＞の協働、すなわち＜一般的知性。が搾取される、認知－非物質的蓄積プロセス）
③認知的分業という状況において、個々の主体性の差異に価値が付与された結果として、国際的規模で解体される労働力（労働の不安定化ならびに認知的剰余支配というプロセス）」（テーゼ、53～4頁）
　認知資本主義の三つの柱で上げられているものは金融市場と、一般的知性と労働力の不安定化だ。しかし金融市場の分析はなされていないし、フマガッリが展開しているのは一般的知性論だ。ここで一般的知性論について検討する場が開けている。その前に先の引用文に直接続いて次のように資本蓄積における時間と空間の変容に言及されているので引用しておく。
　「これら三つの新たな状況は、以前のフォード型産業パラダイム内部における資本－労働の対立関係がもたらした危機の結果であり、新たな蓄積の道を規定している。この道が目指すのは、中・長期的には維持しえないという結果をもたらしつつ、短期を重要視する視点から貨幣価値を増殖させるために新たな条件を創出することである。以前のフォード型パラダイムと比べると，空間－時間の座標が変わっているのだ。
　時間に関しては、短期－長期という関係が再定義されている。つまり蓄積の時間が変更されているのである。非物質的に価値を増殖させる諸形態に移行することで、蓄積プロセスに必要な時間が劇的に減少し、その結果、修正のために介入しうる場も縮小している。
　空間に関しては、国家が自律的な介入を行う能力をさまざまな超国家権力の台頭が深く条件づけているという状況のなか、グローバリゼーションならびに金融化プロセスが国際的ヒエラルキーの新たな軸を規定しつつある（国民国家の危機）。」（テーゼ、54頁）
　このような資本蓄積における時間と空間の変容は、金融市場の投機市場への変質と、それに伴う金融資本主義の信用資本主義（投機資本主義）への変容があると思われるが、フマガッリは、その変容には触れずに、その変容が引き起こしている生産過程の変容に注目し、その変容を認知資本主義という概念で説明しているようだ。
「だが認知資本主義の到来により、非物質的なものの価値が知識の、さまざまな情動と関係の、そして想像的なものと象徴的なものの価値になっている。こうした生政治的変化の結果、まず労働価値という伝統的な尺度が、続いてフォーディズム時代に確立された利潤という概念（収益とコストの差）が危機に陥る。そして蓄積が社会化するまさにその瞬間に、＜資本のコミュニズム＞に内在する価値増殖の尺度は、株式市場で値をつけられる社会資本（つまり期待される未来の価値と現在のそれのあいだの差）において実現するようになる。その結果、社会的協働と＜一般的知性＞の搾取が、株価力学の決定において影響力をもつことになる。こうして利潤はレントに変容し、金融市場が労働価値を決定する場となり、労働価値は金融価値に変わる。しかし今回の金融危機は、この暫定的な尺度の指標が安定しているとはとても言えないことを示している。」（テーゼ、57頁）
　フマガッリはこの引用文の前では、株式市場における価格決定のメカニズムを考察し、経済危機が流動性の破壊をもたらすことを指摘している。この株価の変動を念頭に置くとここでの議論を理解しやすい。まず非物質的なものの価値とは認知労働者の労働力の価値であり、それが株価という象徴的なものの価値で表現されているという認識が表明されている。これが生政治的変化であり、労働者が生活していること自体から搾取することで、生産に要する労働時間で商品の価値を規定するという労働価値説が根拠を失うと見ている。この生政治的変化とは資本蓄積が工場の壁を越えて社会に広がる「蓄積の社会化」の瞬間に、資本のコミュニズムとしてある金融市場での株価決定という形での新たな価値尺度の成立となるのだが、しかしこの新たな価値尺度は決して安定したものではないというのだ。
「貨幣はとうとう完全に非物質化され、純粋な記号としての貨幣となった。今や貨幣の価値尺度は慣習的なもの、つまりさまざまな社会・国際関係の結果となり、資本レントと社会的協働のレント、つまり使用価値生産と交換価値生産とのあいだの対立から生み出されるようになったのである。」（テーゼ、66頁）
　貨幣が記号となるのは、利子生み資本の運動に置いて架空資本が形成されるからだ。これは地代のような擬制資本としては昔から存在したが、今日の信用制度のもとでの架空資本は投機資本としてあり、それが資本蓄積の様式を変容させるほどにまで発達したことについてはそれとして分析が必要だろう。フマガッリはこのような金融市場の変容を、現実資本における蓄積様式の変化からあとづけようとしているが無理があるように思われる。
「具体的に言うと、蓄積に関して、認知資本主義における（剰余）価値は、学習プロセスの経済とネットワーク経済を搾取することで生み出されているのだと認識する必要がある。認知－関係構築的労働（私法によって公式に承認されている時間を越えて、労働に捧げられる生）は、〔認知資本主義的〕蓄積・分配を回転させる軸を代表するのである。金融市場の力学は、生経済における生－労働の価値増殖を潜在的に表している。
　つまり、生－労働の価値に対する認識の欠如が、認知資本主義の＜ガバナンス＞が危機に陥っている主な要因なのである。これを未然に防ぐためには、以下の面で行動すべきだろう。
ａ　蓄積に関して：学習プロセスおよび関係に内在する生産的な社会的協働をコモンの制度として打ち立て、その基盤に＜コモンの権利＞を据えることで、知識が私的に収奪されるプロセスを制限する。
ｂ　分配に関して：社会的に普及するものである＜一般的知性＞に対する報酬（支援ではない）として、生存所得（ベーシック・インカム）を導入する。
ｃ　福祉政策に関して：ベーシック・インカムの支払いを支え、＜一般的知性＞が発展サイクルのあるあいだコモンの諸制度を保障するような、コモンの福祉を定める。新たな蓄積形態に相応しい＜福祉＞を改めて定式化するという面においてこそ、コモンの福祉（すなわちコモン・フェア）の基礎を決定しうる新しいタイプの社会闘争を開始することが可能となる。
　いま賭けられているのは、社会的協働から生まれるレントを差異回収しようとする資本と、コモンが生み出すレントを奪還しようとするマルチチュードの間の弁証法である。」（テーゼ、69～70頁）
　ここでのフマガッリの主張はマルチチュードの運動方針を導き出そうとしている点で興味があるが、コモンの理解については異論がある。これはひょっとして、社会センターを作るときに建物を占拠できるという経験からきているのかも知れず、コモンについて日本では入会地しかイメージできないというその貧困さからくるのかもしれないが、コモンといえども私的資本によって巧みに組織されているのではなかろうか。オペライズモの77年の闘争は、コモンを労働者によって運営する試みだったのかも知れず、それが結局は資本によって簒奪されたという経験知へのこだわりがこのような見解を産み出すことに理解は出来るにしても、ベーシック・インカムが運動の目標となるような問題設定には疑問を感じる。

４）「価値法則の危機と利潤のレント化」　　ヴェルチェッローネ
　第3章のヴェルチェッローネ論文はまた少し違った観点から利潤のレント化について論じている。
「要するに、金融化に代表されるレントの役割の拡大は、その大部分が、認知資本主義に内在するこうしたグローバルな矛盾の原因であると同時に結果でもあるのだ。同様の考察は、今回の危機の性質とそれが生じた原因を理解するためにも有効である。多くの経済学者のように、それが本質的には金融に起因する危機であり、そのシステム上の帰結として二次的に実物経済を巻き込むことになったと考えることは誤りだろう。つぶさに眺めてみれば、この図式は転倒されうる。」（テーゼ、78頁）
　金融危機が実物経済を巻き込んだという認識は間違いで、逆だというヴェルチェッローネは次のように述べている。
「今回の危機が示しているのは、『資本主義が生産諸力の発展においてひとつの限界に到達してしまい、その先はまた別の経済に向かって自分自身を超えないことには自らの潜在的力からもはや利潤を完全に引き出すことが出来な』（ゴルツ）くなっている状況なのである。
　この矛盾は価値法則の危機、そして利潤のレント化というテーゼによって定義しておいた傾向と緊密に結びついている。
　では、価値法則の危機という言葉で理解すべきことは何なのか？」（テーゼ、79頁）
　資本主義の行詰りが金融危機をうみだしているというわけだが、その内容は価値法則の危機だという。ではそれはなにか。
「一つ目は、資本主義が生産を合理化する規準としての価値法則が枯渇したこと。・・・
つまり、固定資本と企業の経営者組織に組み込まれる知に比べて、労働に組み込まれる知が改めて支配的になったという現実に対応しているのである。こうした状況のなか、レントと同じく利潤もまた、生産組織に対する外部性という関係を起点に機能する価値横領メカニズムへの依存度を高めつつある。
　二つ目は、商品の論理を主な規準として使いながら、使用価値生産とニーズの実現を累進的に発展させる社会関係と見なされていた価値法則が枯渇したこと。」（テーゼ、79～80頁）
　ヴェルチェッローネが提起している価値法則の危機とは、それが資本主義による社会進歩をうみだすものとしては作用しなくなっているということだ。
「価値・剰余価値法則と搾取の法則が、マルクスによれば――その成否はともかく――資本にそなわるものと見なされる進歩的機能を失った抜け殻として生き延びるということである。・・・このことはまた、資本－労働間の対立が、知識に基づく経済を支えるコモンの制度と、レントという形態で展開されている認知資本主義における収奪の論理との対立として現れてきていることを意味する。金融は、擬制商品を架空資本に転化するというかたちで、ときに数あるレントの現象形態を要約するとはいえ、やはりそのひとつに過ぎない。」（テーゼ、80～1頁）
他の論者と違って、ヴェルチェッローネは金融を相対化している。コモンの制度とそこからレントを引き出す仕組みについて別の考えを提起しているからだ。「要するにレントは、有価証券や物質的・非物質的資源の所有権として現れ、生産との関係で外部に位置しながら価値を引き出す権利を与えるのである。」（テーゼ、84頁）このように利子という範疇をたてないのは他と共通しているが、レントを引き出す仕組みについては次のようにサードセクターを問題にしている。
「事実、わたしたちの考えでは、今資本主義に起こっている変容の出発点とその主要な動力は、金融化にあるのでもなければ情報化にあるのでもなく、フォード型賃金関係に生じた危機の中心に位置する二つの現象にある。
ａ　なによりもまず、大衆の就学率と人間育成の平均レベルが上昇することで、一般化した知性が構築されたこと。労働力のこの新たな知的資質こそが、企業の不変資本と経営者組織に組み込まれる知と比べて、労働が組み込み作動させる生きた知識が質的に優位であるという新たな状況をもたらしたのである。
ｂ　次に、さまざまな社会闘争が、フォーディズムの許容範囲を越える賃金の社会化と、＜福祉＞という集団的サービスの拡大をもたらしたこと。この力学はしばしば、フォーディズムの危機を引き起こした要因、すなわち労働力の社会的再生産にかかるコストが増大した一因に過ぎないと解釈されてきた。だが実際には、これが知に基づく経済の発展にとって決定的な条件をいくつか設定したのだと、事後的に確認することができる。
　この力学の重要性を理解するには、知識に基づく経済の到来を特徴づけるべく、経済学理論がしばしば提起するひとつの事実を強調しておく必要がある。
　すなわち、本質的に人間のなかに組み込まれる、いわゆる無形資本（研究・開発、ソフトウェア、そしてとりわけ教育・人間育成・保健）の割合が、資本の実物ストックのなかで物的資本の割合を越え、成長の主要因になっていったという歴史的力学のことである。」（テーゼ、94～5頁）
　我々は経験してはいないがオペライズモはフィアットの工場での闘いを経験している。この闘いの敗北の総括として問題が提起されているように思われる。知識に基づく経済の発達がフォーディズムを行詰らせ、この新しく形成されたコモンの争奪戦が資本と労働の間で展開され、勝利した資本は認知資本主義となったということのようだ。
「この意味で、非物質的資本という概念は、産業資本主義とともに確立されてきた不変資本というカテゴリーそのものが危機を迎えていることの現われである。産業資本主義においてＣ（不変資本）は、機械に結晶化された死んだ労働として現われ、生きた労働に支配をふるっていた。〔それに対して〕非物質的資本とは、知的資本、無形資本、人的資本などの用語による歪曲を被っているとはいえ、集団的知性に他ならない。それゆえ、それはあらゆる客観的尺度から逃れる。その価値は、金融市場が将来期待される利潤を主観的に表明したもの以外ではありえず、この方法で金融市場はレントを手に入れるのである。」（テーゼ、95～6頁）
金融市場に登場するものは、使用価値としての商品ではなくてさまざまな金融資産である。これらがどのようにして非物質的資本や労働と結びついているのかは十分に示されているとはいえない。念頭におかれているのは、株式や特許や有価証券などを通して生産の外部から価値を引き出すメカニズムが働いているということであり、なんとなく金融市場を、認知資本主義にとっての価値を増殖する場であると思い描いている、という風にしか感じられない。しかし別の視点も次のように展開されている。
「資本だけでなく、労働生産物そのものがますます非物質的になり、擬制商品を構成するイノベーション、知識、情報サービスなどと一体化している。なぜ擬制商品か？それはこうした商品が、同時に複数のものに使用可能であり（非競合性）累積されるものであり、他者の使用を排除できない（非排除性）がゆえに、伝統的に商品を定義してきた諸規準から逃れてしまうからだ。」（テーゼ、96頁）
　認知資本主義が生産する商品が、産業資本が生産する商品の使用価値とちがって、非物質的なものであると同時に、他者の使用を排除できないという指摘がここにはある。金融市場に結びつけなくともこの視点から認知資本主義の価値増殖の特徴を描き出すことは可能ではないだろうか。このような把握に基づけば、「非物質的資本を資本として、認知資本主義を資本主義として機能させることに内在する困難」（テーゼ、96頁）という問題も、「つまるところ認知資本主義は＜知識を基盤とする経済＞を支える生産諸力の発展と諸主体の創造性を停滞させずには持続しえないのだ。」（テーゼ、96頁）という分析を生かすことができる。
　ヴェルチェッローネは、この認知資本主義の困難についての具体的分析を今度はサードセクターの非営利性の問題として考えている。
「知識に基づく経済を実際に動かす領域は、研究・開発の私的実験室にはないということである。そうした動力としての役割を果たすのは、『人間による人間の集団的生産』であり、これまでは＜福祉国家＞の公共制度が、非営利的な論理に従いこの役割を保障してきた。」（テーゼ、96～7頁）
新自由主義は福祉国家の解体であり、非営利セクターの市場経済化であったが、ヴェルチェッローネの認知資本主義批判はこの問題に集中している。
「事実価値法則という資本主義的合理性は、人間による人間の生産にまで拡大されると、規格化された物的商品を生産するに当たり産業資本主義がいくつかの側面で証明してきた進歩的力を削がれてしまい、経済・社会的な面で、完全に反生産的になってしまう。それには三つの理由がある。まず最初の要因は、こうした活動に内在する認知的・情動的性質と結びついている。つまりそこでの労働は生命のない物質ではなく、サービスを共同で生産してゆくなかで、人間そのものに働きかけるのである。二番目は、たとえば保健や知識の伝達などの分野では、量的規準によって計測される生産を上昇させようとすると、サービス関係の効果を決定する質を犠牲にせざるをえないという事実による。三つ目が結びついているのは、支払能力をもつ需要という原則を採用することで、資源の配分やこうした共有財へのアクセスの局面で引き起こされかねない深刻な歪みである。コモンの生産は、その定義上、無償性と自由なアクセスに基づく。それゆえこうした分野の資金調達は、税制や社会的負担、そのほかさまざまな資源の共同所有に代表される集団的・政治的な対価を通じてでなければ保証されえないのである。」（テーゼ、97頁）
ここで述べられている非営利セクターを市場経済に任せることについての批判点はもっともである。しかしこれらの事柄は、金融経済の問題とは結び付けられてはいない。ただ、アメリカで進められた新自由主義的改革が、いまEU諸国で遅れた形で実施されつつあるということであれば、新自由主義化に対して対抗し、それを非営利セクター（コモン）を防衛する闘いとしてイメージすることは可能であろう。実際に08年の金融危機に対して各国政府は公的資金で介入したが、それは、「消費を支えてきた私的債務の増大に代わり、損失を社会化するメカニズムとしての公的債務が急激に増大したのである。」（テーゼ、98頁）ということだからだ。
では危機への対応としてヴェルチェッローネはどのような策を提案しているだろうか。
「最初の軸が提起するのは、＜福祉＞の諸制度を民主的に取り戻すことであり、社会を横断する労働の連帯的・自己組織的力学を基盤とする。この軸は、生産・消費規範という観点から、非営利的な『人間による人間の生産』を優先させる、オルタナティブな社会モデルを構築する際の基礎を規定する。・・・二番目の軸が提起するのは、レントの権力を転覆させ、『資本の社会主義』を貨幣の再社会化プロセスに変容させるための闘争である。・・・ベーシック・インカム・・」（テーゼ、101頁）
　最初の提起はサードセクターの再組織であり、社会的経済や連帯経済と呼ばれている組織を軸にして、公的セクター、私的セクターとのセクター間バランスを取ることのようだ。次はベーシック・インカムの導入が提起されているのだが、これについてのヴェルチェッローネの提起は「労働は資本を生産せずとも富を生産しうるのだから、所得をもたらすこともできると主張するのである。」（テーゼ、102頁）という思想に関しては面白い提起だと思う。

５）「資本を越えてコモンへ」　　フェデリコ・キッキ
　第4章は「生権力の形態としての金融化」と題するルカレッイの論文があるがすでに紹介した論文と繰り返しが多いので省略し、第5章「資本を越えてコモンへ」と題するキッキの論文を取り上げる。この論文は認知資本主義と労働の変容について考察している。
　「価値生産の諸様態（とともに価値の主観性）が徹底的に変容しており（工場から工場としての社会へ）、それにともない蓄積プロセスを可能にし、維持している搾取のための戦略装置もまた変容しているということだ。それゆえ現在進行中の段階を読み解くためには、（知識及びコミュニケーション／社会的協働の経済を基盤とする）認知資本主義の形成と、とりわけ生経済的と定義しうる資本の蓄積構造の出現を描き出している諸分析に触れることが必須であるとわたしたちは確信する。」（テーゼ、136頁）
　先に見たヴェルチェッローネ論文が主として非営利セクターを問題としたのに対して、キッキ論文は認知資本主義における労働一般を問題にしている。非営利セクターの問題もそれはそれとして重要だが、労働一般の分析のほうがもっと根本的である。キッキの分析を追ってみよう。
　「生産を背景として共通の／コモンの＜目的＞を作りだし、それが一般化してゆくことのもつ潜勢力を導きうるものである。その意味で、政治的問題の争点は結局のところ、そうした必要性を表現しうるようなさまざまな『生の在り方』をかたちにすることにあり、わたしたちの考えるところでは、それは何よりもまず新たな倫理の創出であって、それこそがコモンの社会性であり、またそうなっていくべきなのである。」（テーゼ、136頁）
　分析にあたりキッキはまず、問題が争点として形成されていることに注意を促している。ひとびとの生の在り方がそこでは問題になっており、資本に対抗していくためには新たな倫理が必要だというのである。では対抗すべき相手はどのようなものか。
　「この装置（金融市場）は、社会的諸個人――多くの場合その意に反して、ポストフォーディズムの経済環境において増大しつつある根源的な不安定性に飲み込まれている――の行動、傾向、つまり一言すればその生を捕捉するという形で、浸透的な影響力を行使するのである。言葉を変えるなら、『金融化と共に、人はまさに＜ビオス＞の領域に入る。株式市場への投資とともにかけられているものとは何か？賭けられているものはわたしたちの未来の生、わたしたちの未来の所得、わたしたちの年金、つまり労働市場から抜け出したのち年金生活に入り、尊厳をもって生きる可能性であるが、それだけではない。決定的かつ明示的な形では初めて＜ビオス＞が賭けられている。このような事態が、経済の、そしてそれに伴う社会の金融化を通じて生じている』。ポストフォーディズムの金融経済は、この意味で、人間の振る舞いに対して生権力を揮い、みずからが機能する領域の内部に、自由だが従順であり、『ある特定の習慣、規則、命令に服従する主体』を作り出し、配置し、彼らがすすんで＜価値・力＞として主体化されるよう、つまり変化させられ、完成されるよう仕向けることで、彼らのもつ価値を生み出すさまざまな資源、力そしてエネルギーを最大化するとともに最大限搾取しようとするのである。」（テーゼ、137～8頁）
　金融市場の分析はマラッツィからの引用で済ましているが、キッキはそれを対抗関係とみ、そこに働いている力学を解明しようとしている。つまりひとびとの生活様式に対して揮われている生権力の働きを解明しようとしているのである。
　キッキは、金融化をある種の資本のコミュニズムとみなすマラッツィの説を次のように引用している。
　「すなわち金融化は、『ある種の＜資本のコミュニズム＞、つまり＜生産手段の所有＞を拡張された労働力にまで拡大することで、〔労働の〕個別化プロセスを集約する装置として機能している。金融資本こそが、株式市場においてその価値が決定される社会資本という様相のもと、市民社会に住まう諸主体から成るマルチチュードの＜集団的代表＞として現れてくるのだ』。」（テーゼ、139頁）
　そしてこの資本のコミュニズムが人びとに働きかける生権力の力学を次のように解き明かしている。
　「つまり〔現代資本主義は〕個人に対して、彼／彼女がみずからの社会的存在そのものから分離されている（つまりプラクシスを奪われ、幻想の自己中心的自由のなかで粉々にされている）かぎりにおいて正当性を表象・承認し，これまではイデオロギー的に否定され隠蔽されてきた価値を生み出す社会的能力そのものを、あらためて生産過程のコードに取り込み、働かせようとするのである。＜主体性＞は道に迷い、その社会・政治的側面を切り離され、自らに内在する＜社会的行為＞（協働）という所有物から分離され、その結果、システム上の命令に隷属し、ガラクタの消費と、購買という幻想の自由がもたらす死に至る眩暈のなかで、自分自身のうえを回り始める。」（テーゼ、139～40頁）
　このように、キッキは、社会的存在としての人間を孤立化させ物象的関係に従属させることを生権力の機能と見ている。このような機能が具体的に分析され暴露されなければならないがキッキの分析は次のような大枠の指摘に終わっている。
　「今日、社会的富がその重要性を増しつつあり、価値を生み出す途方もない潜勢力によってたえまなく生産されている。これはマルチチュードがもつ社会的な知の産物であり、そのインフラストラクチャーはコミュニケーションの技術（すなわちネットワーク）と可動性の技術（知識と生きた労働を、可能性としては反響を通して無限に普及させうる媒体）にある。こうした場とは、簡単に言えば、社会的ネットワークによる、＜行為＞と、＜大都市＞にそなわる創造性の場である。今日のレントとはコモンにそなわるこうした特性を隠蔽したうえで、それに蓄積という計測可能な尺度における価値を与えるべく、資本が利用する経済装置である。」（テーゼ、141～2頁）
　社会全体を資本にとっての工場とするインフラの形成は、直ちにそれをコモンと見なすわけにはいかないだろう。それは資本の仕掛けに対してマルチチュードが無意識での協働を行っているという形ではなかろうか。一般的知性自体、資本の仕掛けと無意識での協働という二重性を持っているのではなかろうか。そうであれば、コモンは隠蔽されているのではなくて、協働者たちの意識にのぼってはこないという問題があるのではなかろうか。レントの目的を変えると、キッキが構想するときに、無意識の協働という問題の意識化ということを避けて通れないのではなかろうか。
　「これを実現するために必要なのは、これまでとは異なる形態の民主主義を想像し構築する方向に政治的投資を行うことで、そうした民主主義が社会的・人類学的に新しい（常に安定しきることのない）空間を打ち立て、実践可能にし、そこで社会的諸個人が互いを認め合い、開かれを分有し、またそれに立ち向かい、自分たちの多数多様な特異性に社会的時間を与えられるようにすることである。」（テーゼ、142頁）
　これまでの民主主義とは異なる民主主義とは、キッキによれば孤立した個人が市場で結びつくというタイプではなくて、社会的諸個人の自由な連合のイメージのようだ。それは協同というほうが分かりやすいのだが、なぜかオペライズモにはこの考え方が欠落している。それはそれで歴史的事情があるのだろうが民主主義の限界を考察することが問われているのではなかろうか。
　「コモンの社会的構造を、段階を踏みながら偶有性も含めて構築し、それを現実に現象させることにおいてのみ、今日の資本主義がわたしたちの身体とわたしたちの生に対して弄び、また行使し続けている、抗しがたくも死に至る享楽と、暴力的かつ抑圧的な支配から同時に逃れるための倫理的・政治的な強さをそなえた主体性を創造することが可能になるのだから。」（テーゼ、142～3頁）
　コモンの社会構造として、たとえば、協同組合地域社会という提案がすでにある。イタリアではそのモデルも存在している。この系譜と異なるものがここで構想されているのだろうが、たとえば社会センターのようなものが考えられているのだろうか。イタリアでは協同組合主義は伝統的左翼とキリスト教に担われており、それとの対抗が考えられているかもしれない。

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2011/08/18

反・脱原発運動にどう取り組むか

Author: ebara (8:32 am)

反・脱原発運動にどう取り組むか

第1章　これまでの反原発運動

１）反・脱原発運動は何に直面しているか
　福島第一原発事故、私は怒りと悲しみを抑えることができませんが、この事故によって、反・脱原発の運動は大きく盛り上がっています。この機会を逃せばチャンスは二度とはやってこないと考えて、多くの人々がそれぞれの仕方で、原発をなくしていくために学習し、できる事を探し、仲間を募って活動しています。
　しかしこの運動はどうなるのか、見通しを立てることが非常に難しい。ドイツのように政府が脱原発に踏み切れば問題は半ば解決するのですが、日本ではとてもそのようなことは期待できません。ドイツには社会民主党政権時代から脱原発の方向性を出しており、その後の政権交代で、現メルケル政権が原発推進へと舵を切ろうとしていたのですが、フクシマの事故で、メルケル政権は、政権を維持していくためにも反原発に戻さざるを得ないという現実がありました。
　日本の政府が簡単に問題を解決できないのは、他国と違って原子力を推進する勢力が官僚・政界・財界・学会・マスコミの癒着による巨大な利権構造を作ってきたことにあります。日本の大部分の政治勢力（明確に反対してきた政党は社民党だけ）が原発を推進してきたのであり、反対する人々の意見は完全に無視され、村八分にされてきたという経過があるのです。この結果、世界的に原発推進が滞っていた時期にも日本では原発は増え続けました。アメリカではスリーマイル事故以来新規の原発は作られておらず、ヨーロッパでもフランスが新規原発を増やしたにも拘らず、チェルノブイリ以来廃炉数と新規建設とが同じくらいにとどまっています。ところが先進国では日本だけが突出して原発を増やしてきました。その結果フランスと共に原子炉建設技術で国際競争力を持つにいたり、ベトナムやトルコに原発を輸出しようとメーカーは政府を巻き込んで画策してこれたのです。
　つまり国策として進められ、利権構造の中で経済産業省や文部科学省と電力会社の癒着が形成され、安全神話をばら撒くために、独占企業である電力会社が、本来の事業展開のためには全く必要のない巨大な広告費を使ってマスコミを買収し、安全神話の宣伝をして世論形成をはかってきたのです。
　こうした現状の中で、原発はイヤだと気づいた多くの人々は、この要求を実現するための自分たちが支持できるような政党も持てず、議会に代表をもてないまま、どのようにして政治を動かすかという、難問に直面しているのです。
　このような現実を見るとき、私たちは脱・反原発の運動を多くの人々が力をあわせてつくり出していくだけでなく、それらが一つのまとまりを持ち一つの力として政治を動かしていけるという可能性を探ることが問われています。まずはこれまでの運動を振り返ることから始めましょう。

２）政府の原発推進と東京電力の福島第一原発の開発
　日本で原発推進に最初に取り組んだのは中曽根康弘元首相で、読売新聞と日本テレビを率いた正力松太郎が参謀となっていました。正力は原子力の平和利用についてまず日本学術会議を巻き込んで湯川秀樹を原子力委員会の委員に起用しました。
1954年2月27日には学術会議が主催する原子力公聴会が開催されましたが、その1週間後の3月5日には国会で科学技術振興費として原子炉開発費2億5千万円が計上されています。
　1955年11月にはアメリカとの間で原子力研究協定の調印がされ、同年12月、原子力三法（原子力基本法、原子力委員会設置法、原子力局の設置に関する法律）の制定がおこなわれますがその頃には東京電力は社長室に原子力発電課を設けています。
東京電力は1964年には福島県大熊町と双葉町で事前調査を開始し、1965年12月、原子力開発本部（原子力部、東電原子力開発研究所、福島原子力建設準備事務所とからなる）を設置し本格的に動き出します。
　1966年には原子炉設置許可を受け、1966年に建設着工し、1971年には福島第一発電所1号機（46万キロワット）が運転開始しています。以降構内に次々と原子炉を増設し、1976年には6号機を完成させています。並行して福島第二発電所の建設も進み、こちらは1970年に地質調査、1975年に着工、1982年に1号機完成、1987年4号機完成、となっています。
東京電力のもう一つの発電所は新潟県柏崎刈羽発電所ですが、こちらは　1号機が1985年完成、7号機は1997年完成となっています。
　1970年に入って原子力発電所の問題点が知られるようになり、立地計画が進まなくなってきたため、1974年に立地地域に多額の交付金を投入する電源三法が成立しました。しかし新規立地は困難となり、60年代に立地を受け入れた地域に集中して増設が進み、また古い原子炉も廃炉にせずに使い続けることが増えてきたのです。

３）反原発運動のニューウェイブ
原発事故が起こり、それまではマスコミには完全に無視されていた小出裕章さんたちもマスコミに登場するようになりました。小出さんは1968年に原子力の平和利用に夢を懐いて東北大学に入学しましたが、次のように述べています。
「私が原発の危険性を知ったのは、大学時代に、原子炉1基に広島原爆1000個分の放射能があると知ったときです。これを、反核運動をしていた先輩から聞いて、それなら原子炉１基で日本人を全滅させることが出来ると知り、今日まで反核運動に従事しました。」小出さんはその後1970年には地元の女川での反原発運動に参加し、そのときに原発をやめさせるために原子力の研究を続けることを決意したのです。
反原発の運動は、もともとは立地現地の反対闘争から始まりました。研究者たちはまだ平和利用の否定には進めず、原子力委員会の委員となった湯川秀樹は「原子力研究三原則」で推進側に楔を打ち込もうとしていた、ということが評価されるようなレベルでした。しかし、研究者たちも1970年に入って、大学での学問というあり方自体を否定的に考え、「自己否定」をとなえた全共闘運動に触発されて、全国原子力科学者連合が結成されたことを契機に現地の反対闘争とのかかわりを強めていきます。
立地に反対できた自治体もたくさんあります（21地区、『原子力市民年鑑』、７つ森書房、2010、59頁、原発おことわりマップより）。受け入れた自治体は原発で潤うどころかかえって財政難に陥り、麻薬中毒のように補助金を頼りに敷地内に次々に原子炉が増設されることになりました。
日本ではスリーマイルの事故ではあまり反響はなかったのですが、チェルノブイリ事故（1986年4月16日）で反対運動は新しく盛り上がりました。四国電力が伊方発電所で出力調整をしようとしたのですが、この出力調整を試みて事故になったチェルノブイリの例があったので、出力調整反対が運動目標となりました。このときに従来の現地の住民の反対運動と結びついた反原発運動に代わるニューウェイブの運動が出現しました。中心的組織はつくらず、行動提起はあるが参加者は自己責任で参加するというスタイルで、画一的運動スタイルからの脱皮が図られたのです。
例えば呼びかけの仕方ですが、1988年1月25日四国電力（高松）抗議行動が提案されましたが、「自分の命の問題は自分の口で言うんだ。自分の耳で相手の話を聞きたい。他人に委ねるわけにはいかないという人たちが来てください。そういう人たちのためにつくった場所ですから。」（『クリティーク』12号、小原良子論文、24頁）という呼びかけがなされたのです。
これに対して従来から反原発運動をになってきたオールドウェイブからは、「そういうやりかただと人が集まらない、力にならない、統率がとれない、責任がとれない、だからいかん」（同書、24～5頁）という批判が投げかけられました。
しかし1月25日には主催者の予想を超えて高松に1000人集まります。署名は2週間で56万筆となりました。新たな参加者は食品の安全を求めて共同購入している人々など多種多様でした。この日の行動は四国電力との話し合いが長引き、200名が電力会社に泊り込むというおまけまで付いています。引き続き2月11・12日の抗議行動には4000人が集まりました。署名は100万筆を超え、集会では大衆芸能の競演がなされました。
このニューウェイブの運動原則についてもともとオールドウェイブでニューウェイブに共感して行動を共にした中島はつぎのようにまとめています。
「①この行動は、参加者の一人一人の意志と責任において実施されるもので、行動全体を指揮・統率する団体や個人はありません。各個人、グループが自らの正義と責任で判断し、行動してください。
②この行動については、参加者は、一人一人当事者として何人も同じ位置にいます。・・・（行動の場と情報について呼びかけはあるが、参加は自由。いつでも退場可能。）
③（上記の原則）を理解していただける人であれば、この行動は全ての人に開かれています。（納得できないグループ、団体は別行動をお願いします）」（同書、32～3頁）
しかし、ニューウェイブの運動は継続しませんでした。運動の結集点が、「出力調整を許せばチェルノブイリの再来になる」というものでしたが事故にならず、運動は終息に向かいます。同時に起きた広瀬隆バッシングも運動の終息に影響を与えました。広瀬さんはチェルノブイリ事故のあと全国各地で講演し、反原発運動の火付け役となっていた人で、ニューウェイブの人たちは彼の講演を聞いて運動を始めた人たちが多かったのです。広瀬隆『危険な話』（8月書房、1987年）はその講演の記録です。
詳しくは分かりませんがその後ニューウェイブとオールドウェイブの抗争があり、ニューウェイブの運動も下火になったようです。1988年4月チェルノブイリ2周年集会（2万人）で、オールドウェイブは「脱原発法（仮称）制定運動」を発足させました。しかし、これでは大衆運動は起こせません。後は地道な情報宣伝活動となります。
ニューウェイブの主張は自然発生的な大衆運動の発展の論理としていつも現れるものです。これは今日、素人の乱（高円寺のリサイクルショップを経営しているグループ、『素人の乱』、2008年、河出書房新社、参照）の反原発運動として再現しています。彼らは高円寺でいろいろなデモンストレーションをやってきましたが、同じノリで4月11日に反原発デモを高円寺で企画したところ、せいぜい600人と予想していたところ、1万5千人も集まったのです。反原発のデモにも伝統的な運動団体が企画しているものもあるのですが、高円寺のデモは若者中心のサウンドデモで、始めてデモに参加した人たちがほとんどだったのです。
日本における大衆運動のモデルは60年安保闘争ですが、主として組織動員による闘いでした。社会党が議会で抵抗し、総評（労働組合）が街頭での抗議行動で労働組合員を動員しました。社会党と総評をコアとして安保改定阻止国民会議が結成され、全学連や共産党もこれに参加して、毎月一度くらいの統一行動が組織されました。これは回を重ねるごとに規模が大きくなり、最後は議会の自然承認となる1960年6月には30万人の国会デモにまで至ったのです。統一行動を重ねるごとに運動が前進するというこの経験は以降の新左翼の運動における行動原理となった感がありますが、しかしこのような政治過程はその後は見られなくなりました。今日の反原発デモでもこのような道筋は描けそうにもありません。

４）ニューウェイブの行動原理
とすれば、チェルノブイリの時の登場したニューウェイブの行動原理についてもっと突き詰めて考察しておくことが必要でしょう。安保闘争のときにももちろん組織動員だけでなく様々な闘い方がありました。声なき声の会が市民運動的発想で運動参加していました。そしてその後に登場したベトナム戦争に反対したベ平連（ベトナムに平和を市民連合）は個人の意思を運動の出発点にしています。さかのぼれば大正炭鉱の閉山に抗議して闘った大正行動隊（「やりたい者がやりたい時にやりたいように闘う」というようにイメージされていた）もそうで、上野千鶴子によれば、次の3原則があったといいます。　
「①やりたい者がやる、やりたくない者はやらない。
　②やりたい者はやりたくない者を強制しない。
　③やりたくない者はやりたい者の足をひっぱらない。」
　私はこの行動原理は大正行動隊の指導者であった谷川雁の著作に書かれているだろうと思って探してみたところ、次のような内容でした。
「組織原理？気のきいた言葉じゃないか。習った言葉だよ、谷川雁から。習ったのは言葉だけじゃない。前から『やりたいやつはやるがいい、やりたくないやつはやらんがいい』と思っていたのだ。しかし、それじゃ組織になるまいと思っていた。ところが行動隊を作るとき、雁さんが『それでいこう』といったのだ。それで掟がきまった。①やりたくない者にやれとは強制しない。②自分がやりたくないからという理由で、やるものをじゃましない。③やらない理由をはっきりさせる。④その理由への批判は自由。⑤意見がちがってやらなかったからといって、そのことだけで村八分にはしない。意見が合ったとき行動すれば、隊員と認める。」（谷川雁「百時間」『無（プラズマ）の造形』、585頁）
この「百時間」という論文は『学園評論』という雑誌に掲載されたもので実は私はこの雑誌の編集を手伝っていたので、この論文は読んだ記憶があります。上野千鶴子のまとめよりもこの原典の方がずっと深いように思います。当時の左翼政党であった共産党はこの行動原理の真逆を行動原理としていました。それはやりたい者の足をひっぱる、やりたくない者に強制する、従わないものは排除し、敵視するというもので、これはひょっとして左翼に限らず日本の官僚組織や企業組織の行動原理かもしれません。原子力マフィアもこの逆の行動原理で原発反対者の足を引っ張り、村八分にしてきたのです。
大衆運動では運動の結集点の内容が大事です。どのようなスローガンを掲げるか、しっかり検討すべきです。「原発止めて、いのちがだいじ」「原発なしで暮らしたい」はチェルノブイリの時の運動のスローガンですが、いまから考えるといずれも被害者意識にとどまっていたように思われます。
ところで今の日本には反原発を掲げる影響力ある全国政党はありません。一人一人の多様な運動や活動をまとめ上げていく組織はないのです。労働組合も組織動員が出来ない時代に、大衆運動の再生産は可能なのでしょうか。一度限りの大衆的行動は例えばアースディの取り組みや環境問題（琵琶湖包囲行動など）で行われましたが、それがストレートに運動の発展に結びついてはいきません。発想を変えて、大衆運動を伝統的な組織化の方法では発展させられないとすれば、問題をどう解決していけるのか、このことについて考察してみましょう。

第2章　今後の運動についての試論　

１）現在の運動の特徴と発展方向
事故は収まらず、関東東北では継続的に放射能汚染が続いています。大衆運動継続の条件はなくなってはいないので、運動はニューウェイブのセンスで継続されるでしょう。
汚染食品をどうするかについても、新しい考え方が芽生えています。チェルノブイリのときは汚染食品の輸入制限でしたが、今回は永続的な汚染ですから、子どもと大人で食べ方を変えるようなことが取り組まれています。食品についての汚染のデータの公開が前提条件となりつつあります。
原子力推進派の権力構造が打撃を受けると共にその事故処理における無力性が暴露されていますが、しかし代わりの勢力は未形成です。ですから、大衆運動の結集点を原子力推進派の権力構造を解体し、代わりの勢力を形成していくという展望の中で決めていくことが問われています。
当面電力独占の解体ですが、発電・送電の分離の追及は電力独占の弱い環を攻撃するものとなりうるでしょう。また、地方自治体に対する原発再運転の阻止要求も現実的な政策足りえます。
ここで、「加害者」としての社会運動は可能かという観点から考えてみましょう。従来の反・脱原発運動が被害者の立場から取り組まれていたことに対して、「加害者」としての立場からの運動提起が構想されるべきです。被害者・加害者の問題は、古くは全共闘運動が、加害者としての大学人としての自己否定を掲げたし、環境保護運動では、被害者である消費者が同時に環境汚染の加害者であるという認識がなされていました。前者では自己否定するという個人的な解決と、大学に就職しない別の生きかたの探求という方向へと収斂され、後者の場合は加害者としての自己の生活を加害を与えないように改善していくという解決法が採られています。
今日の事故に始まる原発を止める運動にあっては、従来の加害者性の受け止め方とは違ったやり方が求められているように思います。まず「加害者」としてあるという中身が、原発促進の容認あるいは反対したけれどもその意図が実現できなかった、ということですから、その責任を自らが負うという問題設定が可能です。大学制度や、環境汚染と違って原発推進は国の政策であり、これに対する責任とは極めて政治的なものとなります。そうだとすれば、人々が自らが「加害者」であるという責任を認めるところから、政治的な社会運動が展望できるのではないでしょうか。
まず本当の加害者をあぶりだしその責任追及が必要です。被害者としての責任追求ではなく「加害者」という立場からの責任追及は、事故の対応をお任せにするという形ではない責任の追及となるでしょう。つまり自己決定、自治の観点からの本当の加害者への責任の追及です。

２）今後の運動のための課題

①自己決定、自治の原理をもとう
自己決定、自治という時に、その原理は生産における働く人々の協同組合的経営に求めておく必要があるでしょう。それがあって始めて地域で自治体に対抗する自治組織作りが課題となるからです。地域で活動する時に、自治体に対して個人単位の市民という立場では対抗できず、何らかの事業を展開している法人組織が連合することが問われるのです。
生活クラブ運動は生協の自主運営・自主管理を掲げてきました。関東では代理人運動やワーカーズ・コレクティブ運動と結びついてまちづくりが取り組まれています。自治体任せではなく、自ら地域の問題を自主運営・自主管理しようとするときの法人組織の連合が既に形成されているのです。
私はＮＰＯで新しい働き方を追及してきましたが、協同組合的経営を実践するとき、それは実は生産現場の中に新しい社会を生成させるという課題の解決を迫られることが判明しました。今日私たちが生活している社会は、わざわざこの社会を存続させるための意識的行為を要求されません。皆が自分の利益を追求していれば、市場の働きでおのずから調整がなされる、というほど単純ではありませんが、公的領域（国）と私的領域（市場）のいずれも、それを日常的に維持するための特別な課題が人びとに与えられているわけではないのです。従順に従っておれば日常は流れて行きます。社会そのものは個々人の意志に関わることなく存続しているように思われています。しかしこのように無常に流れていっているように見える日常の社会も、実は無意識のうちでの個々人の行為によって絶えず更新されていっているのです。
新しい社会生成という課題を考える時に、結論から言えば人々は対面関係において都度社会を生成している、というイメージから出発する必要があるでしょう。（掲載論文『「いま」「ここ」からの社会変革論』参照）対面関係では、ふたりの人は交互に見る側と見られる側に立ちますが、見る側が見られる側に対して無意識のうちに一般社会を代表してしまいます。今日の社会では対面関係での見る側が無意識のうちに一般社会の代表者としてふるまうことで、社会が都度生成されているとすれば、この関係の力学は社会のあらゆる場でも貫徹しています。雇われて働くことは当たり前というまなざしで見られている人が、そうではない協同組合的な働き方を貫くためには、そのまなざしを変えるだけのものを発信できることが問われているのです。そのためにはどのような課題を解決しなければないのでしょうか。一般的社会のまなざしに対抗するとすれば、それは新しい社会を創ろうとするところからしか始まらないでしょう。見る側のまなざしは無意識のものだから、それを変えていけるものは新しい社会が「いま」「ここ」にあるという現実しかないと思います。
協同組合的な働き方とは、働く場に新しい社会を創ることだ、という課題が見えてきました。社会を維持するためにわざわざ努力する必要がないという今日の社会の中に、新しい社会をつくる努力をする、無意識で済んでいた事柄を意識的にやってみる、こんなことがはたして可能なのでしょうか。高円寺の素人の乱は、この問題に自分たちは既に革命後の社会を生きているという問題提起から取り組もうとしています。

②電力の生産及び電力行政における自治の課題の具体化
自治を論じるにあたって協同組合的な経営の問題から入ったことに違和感を感じたかもしれません。しかし政治的自治に関して日本人ほどイメージを持たない国民は世界広しといえどもいないのではないかと思います。例えば、署名運動は集めた署名の効果が疑わしいし、集める方もいい加減なので意味がない、自分の意志で参加し自分で責任を負うデモのほうがいいといって、若者に話しかけている学生運動を経験している元教職員がいましたが、この人にとっては署名活動が参政権であることすら理解されていません。名古屋市のリコールも署名で実現されているというのに。とにかく自分の責任で政治や生産や電力行政をどうするかについて考えるというチャンネル自体が失われていて、被害者としての要求運動しかなく、それも個人の実存的欲求の満足という尺度で運動を評価しているのです。
被害者としての要求運動は、被害を与えたものへの責任追及ですがそこには被害を与えたものへのある種の依存関係が想定されていると考えていいでしょう。世間でなされているキャリア官僚の天下りや汚職に対する批判は、もっとちゃんとやってくれという意識の表明です。自己決定、自治の観点はここにはありません。
自己決定、自治の観点からの本当の加害者への責任の追及である、と述べたことの意味はここにあります。今や私たちは個々人としては非力だけれども電力の生産や電力行政に責任を持つ主権者としての意識を持ち、政治的な参画をなしとげていける道を作り出さなければならないのです。これは節電に協力する賢い消費者というイメージではなく、電力独占に対して自治権の創造を試み、地方自治体に対する参政権を最大限活用しながら電力行政の自主管理の可能性を探り出していくことなのではないでしょうか。

③武器としてのまなざしの利用　
見る側がもつ社会を代表したまなざしを変えることを考える時に、3.11以降社会を代表しようにも一般的社会のイメージが漂流し、代表しようがないという現実があることを見ておく必要があります。今や、原発推進のまなざしは動揺し、反・脱原発のまなざしとが競合しあっています。まなざしが社会を創るということを考慮すれば、この競合しあっている現実の中で、反・脱原発のまなざしを強めていける方策を明らかにし、実践していく必要があるでしょう。
ソ連の崩壊も、まなざしによるものだったのかもしれないと思い当たっています。あい争う階級の闘争というイメージではなく、支配階級である共産党と官僚が、もうどうにもならないほど国を統治する能力を欠乏させ、人びとの目線に共産党と官僚自身が恥ずかしい思いをするというまなざし革命ではなかったのではないでしょうか。
今の日本の官僚制も崩壊前のソ連と同じ程度に統治する能力を欠乏させています。日本の原子力推進を進めてきた、政・官・財・学・報・法の権力構造を具体的に暴き出し、それを人々の非難のまなざしの対象と出来るような政治的仕掛けが用意されなければならないと思います。官僚が自身の子女たちから「未熟な大人で恥ずかしいよね」（制服向上委員会、「だつ！・だつ！・脱原発の歌」より）というまなざしを向けられる時、支配は解体していくのではないでしょうか。
組織的な動員が出来ない時代の大衆運動の再生産はいかにして可能かという問題を考えてみましょう。もしまなざしが武器として現在の日本の支配階級の解体に有効に作用するとすれば、まなざしを作り出せるような場をいろいろなところに作り出すことが運動の再生産を保障することになります。政治的意思統一ではなくまなざしを作り出せるような場は、新しい社会生成の場あるいは文化生成の場でしょう。問題は電力生産と電力行政についての自治の意識を持ち、それを具体化していける過程を創造していくことに尽きるのではないでしょうか。

３）まとめ
　圧倒的に多数の人々の意思が、実現される既成の政治的レールが敷かれてはいないという現実において、反・脱原発の意見が村八分とされてしまう社会的趨勢が働いているなかで、自己決定、自治の原理にたって具体的に問題を解決していくことが問われています。
　電力生産における自己決定、自治の要求は、電力独占の解体であり、電力の産直を見据えた発電と送電と配電の分離です。
　電力行政における自己決定、自治は停止している原発の再起動阻止であり、近畿圏では琵琶湖の汚染を防ぐための自治権の確立をなしとげることでしょう。
　このような活動が産みだすまなざしが原発推進のまなざしと対抗し、原発推進母体に打撃を与えていくでしょう。
　自己決定、自治を考える時に参政権としての署名は新たな意義を持つでしょう。自己決定、自治に繋がるような署名活動を考案し実施することが問われています。

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2011/07/10

コミュニケーション論研究ノート（１）

Author: ebara (10:17 am)

コミュニケーション論研究ノート（１）

●終わりのほう欠落していましたので直しました。

はじめに
『ASSB』詩第18巻第4号「いま」「ここ」からの社会変革論、で、対面、対話、コミュニケーションについて取り上げたが、それは実践的問題意識からの接近であった。書き終えた後、この対面での社会形成という事情は、支配する側にとって既に利用してきていたのではないのかということに気づき、現代における情報と情報社会論批判に取り組む必要性を感じた。今回の作業は、従来の研究業績を振り返りつつ、情報社会論批判へと向かう第一歩である。基礎的知識を拾い出したため引用が多いが、ノートと理解して読み飛ばしてほしい。

第一章　コミュニケーションとは何か

１）コミュニケーション論の課題
　コミュニケーションとは何か、ということについて明らかにしていく際の基礎的な知識が、90年代半ばになってやっと教科書としてまとめられている。伊藤守・小林直毅共著『情報社会とコミュニケーション』（福林出版、1995）及び野村一夫著『ソフレクション』（文化書房博文社、1994）がそれである。まずこれら二冊の教科書の内容に則して、コミュニケーションとは何か、について解明していこう。
　また、狩俣正樹は『組織のコミュニケーション論』（中央経済社、1992）の序文で、組織とコミュニケーションの関係について、コミュニケーションを情報の伝達と意味の交換としてしか捉えていない通説を批判し、次のように述べている。
　「コミュニケーションによって組織がどのように進行するか、という組織化過程を明らかにしていない。彼らはすでに存在している組織の中でのコミュニケーションを問題としており、コミュニケーションより前に組織が存在していることを前提にしている。そのために人々のコミュニケーションによる意味生成発展過程を明らかにしないのである。しかしコミュニケーションなしにはいかなる組織も存在しない。人々がコミュニケーションによって意味を形成しない限り、組織は形成されないのである。」（『組織のコミュニケーション論』、5頁）
　狩俣の教科書は、企業組織のなかでのコミュニケーションがテーマだが、このような問題意識が生まれてきた背景には、コンピュータの導入が企業組織に与えた影響があると思われる。この情報技術革命の問題については別の機会にとりあげるが、ここにはコミュニケーションを組織論として捉えようという発想がある。このような発想を念頭に置きながら考察を進めていこう

２）情報とコミュニケーション
　『情報社会とコミュニケーション』については伊藤守が執筆した第１部のみをとりあげる。従来コミュニケーションには伝達、通信に力点がおかれて理解されてきたが、伊藤は「情報や通信といった一般に自然科学の分野で論じられてきた対象とコミュニケーションとでは、その概念内容ともに分析の焦点をまったく異にしており、両者を同一の水準で捉えることにはかなり無理がある」（『情報社会とコミュニケーション』、以下断りなき引用は同書、14頁）と考え、「コミュニケーションとはたんなる『情報伝達』『通信』の過程ではない」（5頁）と主張している。
　自然科学の分野でのコミュニケーション理論としては、シャノン、ウィバーのモデルが有名である。伊藤は、「コミュニケーションという現象は、伝達されるなにか、にではなく、それを受ける人になにが起きるのか、にかかっている」（5頁）という観点から、シャノン、ウィバーのモデルを検討している。すこし長いが肝心なところなので引用しておこう。
　「これまで社会的コミュニケーションは、Ｃ．Ｅ．シャノンとＷ．ウィバーが提唱したコミュニケーション・モデルにしたがって理解されてきた。このモデルは、機械通信をモデルにしており、送り手と受け手が同一のコードを用いて同一の意味理解に達することが理想的な状態であるとされている。送り手の意図した意味がそのとおりに正確に相手に伝わることが前提とされ、それが達成されないのはノイズの問題であると考えられたのである。しかし、こうしたことは、機械通信の場合にあてはまるものの、人間と人間のコミュニケーション、社会的コミュニケーションの場合にはあてはまらない。この点については、すでに多くの論者が論及しており、詳細に論じることは避けるが、とりあえず、二つの問題が指摘できる。
　このモデルによれば、送り手は自らの主観的意図を表出する能動的主体であることが前提とされ、他方で受けては送り手からのメッセージを正確に理解することをあらかじめ期待されている存在にすぎない。しかし実際に、送り手と受け手の関係はそれほど単純ではない。・・・・（中略）・・・・
　このようにコミュニケーションの過程では、メッセージの字義的意味を基礎にしながら、コンテクストを媒介にして受け手による意味の能動的解釈とそれに対する送り手の予期的理解とが相互に関連し合いながら展開される。この単純な事例からも理解されるように、シャノンとウィバーが想定した送り手と受け手が同一の意味理解に達するという状態はきわめて稀であるというにとどまらず、社会的コミュニケーションにとってその状態が『理想』であるともけっしていえないことがわかる。なぜなら、同一の意味が共有されるだけなら、そこにはいかなる文化創造もなされないだろうからである。文化創造の核心にある、動的で、多層的な意味世界の構成を基底で支えているのが、社会的コミュニケーションなのである。」（15～6頁）
　さきに狩俣は、コミュニケーションを意味生成過程として捉え、それを組織形成の原理とみなしていたが、伊藤は社会的コミュニケーションを文化創造の核心と捉えている。

３）伊藤論文の問題意識
　シャノン、ウィバーモデルの批判によって、伊藤はコミュニケーションを「異質な存在の間の相互作用」（16頁）と規定し、これは言語以外にもさまざまなメディアを通して行われるが、この本では言語をメディアとする場合に限定して考察を進めている。
　そして、このような観点からコミュニケーション論を考えていくためには避けて通れないものとしてＭ・ブーバー、Ｍ・バフチン、Ｊ・ハーバーマス、Ｇ・ベイトソンの業績を検討しているが、その際の課題として、四つの問題点をあげ、そのうえで伊藤自身の問題意識と研究の狙いを述べている。
　「第一は、コミュニケーションについての考察は『近代』の認識と実践の枠組みに対する根底的な批判を提起するという点である。コミュニケーションを問うことは、近代批判につながらざるをえない。
　第二は、構造主義言語学ならびにそれ以降のさまざまな理論的展開のなかで、言語コミュニケーションの動態的なプロセスの解明が前進し、意味世界の構成と維持にかかわって身体とコミュニケーションの問題があらためて焦点となっていることである。
　第三は、コミュニケーションの理論がたんなる従来の認識論・実践論の批判にとどまらず、現代の社会的関係を再構成していく具体的立脚点を呈示するものであることを示唆する。
　第四は、『情報化』『情報社会』といわれるなかで、情報概念と同様にコミュニケーションを正しく位置づけることが、ますます重要性を増している。それは、情報科学の分野でもコミュニケーション系に対する関心が高まっていることと軌を一にしている。」（18頁）
　伊藤はこれらの論点を考察するなかで、コミュニケーション過程に対する従来の見解を批判している。一つの見解は、シャノン・ウィーバー流のコミュニケーション・モデルであり、もう一つは、『合一』『合体』『合意』といった概念とコミュニケーションを関連づけて、コミュニケーション過程を『共同性』を担保する過程として、あるいは『調和的』メカニズムとして描いてきた潮流であるというように伊藤は批判の対象を二つに分類している。
　人間の存在のあり方にとって本質的なコミュニケーション、この複雑で不確定な、そしてきわめて危険な現象を解明しようとする伊藤は、「『情報化』『情報化社会』といわれる現代社会の継続的変化が人間になにをもたらし、社会にいかなるインパクトを及ぼしつつあるのか、この問題について的確な判断を下していくためにも、コミュニケーション論からのアプローチが必要不可欠であると考えるからである。本書の狙いは、ここにある。」（18頁）ということを、その問題意識としている。
第二章　ブーバーが提起したこと

１）ブーバーの紹介
　伊藤は本書第一章、現代批判としてのコミュニケーション論、でブーバーとバフチンをとりあげ、第二章言語におけるコミュニケーション論の試み、でハーバーマスとベイトソンをとりあげている。そのうえで、第三章情報化の論理と現代社会、で情報理論を整理し、情報社会における人間の問題を考察し、最後の第四章情報からコミュニケーションへの視座転換、で自身のコミュニケーション論を提案している。
　早速ブーバー論に入っていこう。伊藤はブーバーを出発点にとりあげた理由について、彼がコミュニケーションの原理の解明にとって不可欠な次の二つの事柄とはっきり認識していたからだ、という。
　「一つは、『根源的な相互存在』と解されるべき社会的な人間に先立って、孤独な自然人なるものを思い描くことはできないということ。そしていま一つは『他者』に対する関係が『主体―客体関係』と同一視されるべきものではないことを明確に認識していたことである。」（19頁）
　伊藤のブーバー論を紹介する前に、ブーバーの『我と汝』（みすず書房、1978）の内容の紹介からはじめよう。ブーバーはこの書で根源語は二つであるというところから論を始める。「我―汝」と「我―それ」の二つである。
「我―汝」とは、ただ存在の全体でのみ語られ得るのに対して、「我―それ」は、決して存在の全体でもっては語られない。また、「我－それ」自体は存在しない。二つの根源語における我だけ（二重の我）が存在しているという。
　次に汝について、汝を語るとき、人間は、ものを所有したりしてはいない。およそ何ものをも所有していない。だが、彼は、関係のなかに立っている。「我―汝」は関係の世界を打ちたてるという。
また、「それ」とは、私が経験するのは或るものにすぎない。経験の対象としての世界は、根源語「我―それ」に属しているという。
では、関係とはなにかというと、相互的なものであるという。「我―汝」を語るときの汝は個体ではなく、継ぎ目の無い全体たる汝であり、汝とよぶ人間を「それ」のようには経験しない。関係から歩み出るとき、はじめて彼を経験するという。そして、関係とは選ばれることであると同時に選ぶことであり、受動であると同時に能動であるという。
ここから、出会いについて、私は汝との関わりにおいて我となり、我となることによって私は、汝を語るのであり、あらゆる真に生きられる現実は出会いであるという。出会いは対面であるから、ブーバーは対面関係に人間存在を見ているのだ。
こうして、「汝」の「それ」化への批判が展開される。「それ」化された人間なるものは、ひとりの人間によって真実に「汝」と呼びかけられる生身の人間とは何ら共通するところがないというのだ。
ブーバーは、はじめには関係があると主張する。というのも、根源語「我―汝」は我の出現に先立って存在しており、「我―それ」は我の出現の後に存在するにいたるものだから。この関係の中で、ブーバーは世界の二重性に気づいている。
　世界は人間にとっては、人間の二重の態度に応じて二重である。「それ」の世界は、空間的・時間的連関のなかにおかれている。「汝」の世界は、空間的・時間的連関のなかにおかれていない。
　「汝」の「それ」化、「それ」の「汝」化、は、関係から出るか入るかで決まる。「それ」なくしては人間は生きることができない。だか、「それ」とともにのみ生きる者は人間ではない。（『我と汝』、48-9頁参照）

２）伊藤の解説
　このようなブーバーの説について伊藤は次のように解説している。
「ブーバーは、人間がとりうる二つの原基的な関係を設定する。『我・汝』関係と『我・それ』関係である。かれによれば、『それの世界』に対する人間の基本的なかかわり方には経験と利用の二つの契機が包摂される。経験とはなにか。それは、人間の知的反省による世界の対象化を意味する。自己を世界から引き離し、自己を孤立させ、世界を客観的に記述・分類・分析する対象へと転じることである。人間はこの経験的認識によって繰り返し『それの世界』を構成し、人間の生活の維持、安楽化、整備などといった多様な目的にそって『それの世界』を利用する。したがって、『我・それ』における『我』は世界とかかわり合う存在ではなく、世界と切り離された『個我』として、つまり自己を（経験と利用の）主体として意識するのだという。
　このように、『我・それ』関係とは、自己の前にたつ対象を自己の目的に役立つ道具、手段と捉え、操作し、支配する関係である。一般にこの関係は自然的対象とのかかわりにみられる。われわれは、自然的対象から身を引き離し、生命なき物体としての対象に向き合う。そのとき、人間は対象に積極的にはたらきかけ、対象を変化させる『主体』となり、それに対して対象は一方的に主体からはたらきかけを受ける『客体』となる。
　これに対して、『我・汝』関係とは、自立的存在である他者との相互的な関係性を意味する。ブーバーによれば、この関係において『我』は、『個我』としてではなく『人格』として発現する。その本質にしたがって、単独で存在することのできない自己存在のあり方である。」（20頁）
　伊藤によれば、ブーバーのいう「我・それ」関係自体、今日では当たり前のようになっているが、対象に対するこのようなかかわり方は、歴史的にきわめて限定された、特殊なものだったという。ついでに付言するなら、フーコーやレヴィ・ストロースなどが学問的に明らかにし、モリスバーマンが『デカルトからベイトソンへ』（国文社、1989）で明解に述べているように（51頁）、「我・それ」関係は科学、技術の資本制的なあり方のイデオロギー的表現だったのである。それ以前は自然的対象はたんなる客体ではなかった。それぞれは意味をもった存在だった。
　「『我・それ』関係は、こうした人間と世界との間のかかわり方が崩壊した後にはじめて成立した。『近代』といわれる段階である。17世紀、ガリレオならびにニュートンによって確立された自然科学の認識論によれば、人間は事物から身をはなしてはじめて事物を知る。こういう思考法にとって、自然が生きているという思いや神によって与えられた無数のしるしがひしめき合う世界という見方は邪魔なものでしかない。自然は、心なき存在であり、『目的』ももっていない。ガリレオやニュートンが提唱する新しい科学は、われわれが自然の外に踏み出し、自然を物とみなし量的に把握することを要求したのである。認識主観としての『主体』と認識される対象としての『客体』という『主体・客体』の二項対立がここに成立する。そして、こうした考え方は、しだいに世俗的世界にも浸透しはじめる。人びとと対象世界とのかかわり合いは、道具的、操作的、目的合理的なものへと変化していったのだ。よく知られているように、デカルトと同時代の哲学者パスカルは、世界観のこうした大転換を、『無限の空間の沈黙が私を恐怖に突き落とす』と表現したのである。
　『近代』に始まる世界像の転換、そしてそこから帰結した人間と対象の関係の劇的変容をブーバーは見通していた。かれが『我・それ』関係と呼んだ関係性は、まさに近代以降の『主・客』二元論の図式がもたらした関係性にほかならない。
　ところでここで注目しなければならないのは、ブーバーの思想の核心にある次の事柄である。それは、対象と自己を切り離し、一方的な作用関係をかたちづくる『主体・客体』関係が自然対象のみならず、生きる主体である『他者』に対する関係にまで拡大しているという認識である。かれは、危機意識をもって、この事態を認識していた。『我・それ』関係は、事物ばかりか『他者』にも及びはじめている。1920年代という時代背景のもとで、かれは、『我・それ』関係に解消されることのない、人間存在にとって本質的な関係性として、『我・汝』関係を提起する必要性に迫られていたのである。」（22頁）
　伊藤によれば、ブーバーがこのような思想に到達した要因として、14年に勃発した第一次世界大戦がある。理性的主体たる人間が何故殺し合いを行うのか。もはや理性や進歩に従来通りの信頼をおくことはできなかった。ではどうすればよいのか。この実践的な課題を受けとめて、ブーバーの思索が続く。
　「『我・汝』の関係は、自己をとりまく一切のものを、それ自体において意味を有する自立的な存在であると前提し、それらとの関係そのものを求めていこうとする人格的な関係である。ブーバーは、そのことを、『根源語・我―汝は、関係の世界を打ち立てる』と表現する。それは、『我・それ』の世界にみられたような、対象に対する道具的・手段的なかかわり方ではなく、『相互的なもの』を基本とする。『私が汝と出会うのは、汝が私に向かいよってくるからである。だが、汝との直接的な関係のなかへ歩みいるのは、この私の行為である。このように、関係は選ばれることであると同時に選ぶことであり、受動であると同時に能動である』。
　ブーバーが述べる相互性とは、この受動と能動が相補的である関係のあり方であるといってよい。関係とは相互的なものである。『私が私の汝において作用するように、私の汝は私において作用する』。この『我・汝』の関係をかれは『精神』と呼ぶ。
　ところで、こうした『我・汝』関係における『我』が近代哲学が理想とする理性主義的な『個人主義』ないし『人格』概念とは対立することが理解できるだろう。近代哲学において、人格の原理としての普遍的理性は、自己の内部で自覚される内的原理である限り、それを実現するためには自己とのかかわりにおいて、自己を内的に深化することによって可能となると考えられた。しかしブーバーの述べる『人格』とは、自己の外に出て他者と具体的関係をもつことによって可能となる。ブーバーにとって、真の人格とは、抽象的な理性的自我のなかに解消されるものではなく、『我』と『汝』が現実に関係を結ぶことのなかにみられるのである。
　『我・汝』の世界が開示される領域は三つある。第一は、自然との交わりにおける生。第二は、人間との交わりにおける生。そして第三は、精神的実在との交わりにおける生である。『我と汝』の関係は『他者』との関係に限定されたものではない。樹の声に耳を傾けるとき、聞こえ、感じ、感応する自己。この樹という汝からの呼びかけに対して感応する、固有の、独自の、他の誰とも取り替え不可能な自己。この自己のあり方を通してはじめて現れ出る対象。この絶えることのない循環過程が『関係の世界』を構成する。自然的対象も、また他者も、この自己との間に繰り広げられる循環過程にまきこまれているのだ。
　『我・汝』の関係が『我・それ』関係といかに異なるものなのか、了解できるだろう。『我』と『汝』の『出会いの場』において、『我』は『人格』として『他者』に対面する。その関係のなかでは、我は他者に一方的に指令したり、一方的に説得したり、一方的に操作する存在ではない。『我』の呼びかけに応ずる『他者』の呼びかけによって『我』もまた変容し、苦悩し、傷つき、あるいは喜びをともにし、共感しあう存在なのである。」（（24～5頁）
　ここで解説されているブーバーの「我・汝」論はいかにも宗教的・倫理的である。

３）伊藤によるブーバー批判
伊藤はブーバーの思想にコミュニケーション論の見地から、批判を試みる。そして、ブーバーに欠けているところをバフチンで補っている。とまれ、伊藤のブーバー批判を紹介しよう。
　「すでに指摘したように、ブーバーは『我・汝』の関係を『他者』との関係に限ってはいない。自然的対象との関係、他者の関係のみならず、ブーバーが神に与えた名称である『永遠の汝』との関係という三つの位相から、それは把握されるべきものであった。そして、ブーバーによれば、『我・汝』の関係は『我・永遠の汝』との出会いによって完成される。このことの是非を問うことは避けよう。ただし，ここで指摘したいのはブーバーの立論の次のような問題である。
　よく知られているように、コミュニケーションの語源はコミュニオンにある。コミュニオンはカトリック式にいえば『聖体拝受』である。言い換えれば、コミュニオンとは、神と人間との関係であれ、人間と人間との関係であれ、『合体』あるいは『結合』を意味し、そこからコミュニケーションという概念が成立したと考えられている。ユダヤ教の『ハシディズム』研究者として出発し、へブル精神の忠実な継承者であったブーバーの『我・汝』関係も、いわば『我・永遠の汝』という神との関係によって基礎づけられると考えられている。このことからも理解されるように、神との『合一』といった宗教的・思想的系譜が、かれの対話の論理に深く影を落としている。そのために、理性主義的な『近代的個』の概念が一貫して排除した人間の対話的関係を復権するというブーバー自身の意図から離れ、かれの対話的関係性の分析は、それぞれの身体に根ざし、言語によって媒介された相互的関係の具体的な展開の姿を生き生きと描くことなく終わってしまったように思う。
　現実に生きる『我』と『汝』は、相互に絶対的『他者』として隔たり、一致を保証された存在として存在してはいない。そこに繰り広げられる『対話』は、期待はずれの可能性や逆転の可能性をつねにはらみ、拒否され、批判される、非線系的なプロセスなのではないだろうか。換言すれば、コミュニケーションや対話をコミュニオンとの関連で論じること（そのこと自体は批判されるべきことではなく、積極的な意味をもちえていることを了解しているが）ではなく、『差異化』『異質性』といった契機をはらむ『セルフ・コントラディクション』の過程と考えることが重要なのである。
　コミュニケーションはコミュニオンにその語源を有する。その根底には、宗教的結社であれ、伝統的な地域に根ざした共同体であれ、閉じたローカリティを共有する人たちの関係が刻印されている。つまり、二つの意味で、『他者』を無化する契機をはらんでいるように思われるのだ。一つは、『外部』の世界をとりあえずは捨象し、他者を『非在化』することである。二つめは、『内部』の世界の『他者』をも共同体という枠のなかで『非在化』させてしまうことである。いずれにしても、この関係性のもとでは、コミュニケーションを『一致』『融合』『調和』『共同』として擬制的にイメージすることも可能だった。
　しかし、われわれが今日立ち会っているのは、単一の地域や民族といった枠組みを超えて『他者』と向き合い、『他者』と対話することで自らをも解体・再構築することを余儀なくされたコミュニケーションの空間である。ぼくたち自身が『他者』とコミュニケーションを開始し、その苦悩をともに担う、そうした時代に生きているのだ。この視点からみると、ブーバーのコミュニケーション・対話の原理は、コミュニケーションという相互変容のプロセスが内包する『闘争』と『苦悩』の側面に眼を閉ざしているといわざるをえない。」（26～7頁）
　伊藤はブーバーの「汝」が、「我」と合一可能な存在としてみなされていて、絶対的他者としては規定されてはいないというところに批判の矢を放っている。「汝」とは他者のことだが、この他者が「我」に合一されはしない絶対的他性をもつ存在であること、このことの確認からコミュニケーション論を展開しようとしているのである。その際にバフチンの提起が参照されている。

第三章　バフチンが提起したこと

１）バフチンの紹介
伊藤は、バフチンが、言語学の二つの流れ、「言語学における個人的主観論」と「抽象的客観論」をともに批判し、二つの理論がともに見過ごしている「言語的相互作用」の問題をとりあげたことを評価しているが、ソシュールの理論を「抽象的客観論」と見なしたことは妥当ではなかったと述べている。ソシュールについて伊藤は「言語の恣意性」を発見し、「言語的相互作用」解明への道すじを開いたが、発話の研究へと進まなかったのでバフチンが追求した課題である対話は未解決のまま残されたのだと言っている。この保留をつけたうえで、伊藤はバフチンの理論を次のように整理している。
　「言語、あるいは言語の『真の具体的な現実』であるとバフチンが述べる発話の分析を通じて、対話・コミュニケーションという動的プロセスの一端を整理することができる。
　(1)言語記号は信号とは異なり、意味の同一性を保証されているわけではない。言語が実際に活用される発話行為のなかで、話し手から聞き手へと言葉という乗り物を通して『同一の意味』が『伝達』されるのではない。発話という具体的なコンテクストに定位されてはじめて言葉は『生きた言葉』となり、そのなかで新たな社会的意味を生成していく。発話された言葉は、多義的な意味作用と表象の集積したテクストなのである。
　(2)発話された言葉は、いかなる意味においても、発話した個人の表現であることにちがいない。しかしそのときどきの表現は、言葉の選択、語の語順、発話の仕方を含めた言語的規則、さらにいくつもの社会的規則の規定をうける。発話者は、自ら意識することはまずない『規則』『選択』そしてそれら総体としての『イデオロギー』を不断に再生産している『主体』なのである。しかし、かれらは『他者の言語』との出会いのなかで、自己の言語を総体化し、対象化する『対話的主体』でもある。テクストとしての発話された言葉を通して、発話者たちは相互に変容する契機を内包する。
　(3)聞き手たる対話者も、自ら意識することはまずない『規則』『選択』、そしてそれら総体としての『イデオロギー』にしたがってテクストに向き合う『主体』である。しかしかれらとて、自らの経験に支えられてテクストに新たな解釈をほどこし、価値の転倒さえ引き起こす『対話的主体』なのだ。
　こうしたバフチンの発話行為論が開示するのは、完結することなく、戦われ、新しく解釈され、論難される、永続的なプロセスのなかに人間の本質を見つめる対話の原理であるといえるだろう。そして、記号を通した他者との出会いが生み出す動的な世界がもっとも鋭く描かれたのがかれのラブレー論であった。」（35～6頁）
　伊藤はバフチンの提起をこのように簡単にまとめているが、ここではまず、バフチンの見解を紹介し、その上で伊藤のラブレー論に移ることにしよう。
　バフチンは『言語と文化の記号論』（新時代社）で言語について対話の原理から解明しようとしている。まず意識について、それを個人の頭の中にあるものとしてではなく、次のように、共同体内でのコミュニケーションとの関係で成立するものと捉えている。
「意識は、組織された共同体内での社会的なコミュニケーションの過程で生まれる記号としての事物に媒介されて、はじめて形成され、客観的に実在するようになるものです。個人の意識は、記号によって養われ、記号によって成長し、自らの裡に記号の論理と記号の規則性とを映しているのです。意識の論理とは、どこまでもイデオロギー送受のコミュニケーションの論理です。共同体内での記号による相互作用（コミュニケーション）の論理です。意識から、そのイデオロギー記号たる内容を取り去るなら、意識の裡に残るものは何もないでしょう。」（『言語と文化の記号論』、21頁）
そしてバフチンの優れたところは、意識とコミュニケーションとの関係を取り持つ記号を、コミュニケーションの物象化の帰結と見ている点である。
「記号の現実の在り方は、この社会的なコミュニケーションによって余すところなく規定されております。なぜなら、記号という存在は、このコミュニケーションが物象化された結果にほかならないからです。」（同書、23頁）
　意識のこのような把握は、経験という身体的なものについても、その記号とのかかわりが次のように指摘される。
「経験なるものは、記号の助けを借りて表現することができるだけではない。経験は、それを外部に表現する場合以外でも、経験する当人自身にとっても、記号という媒体を介することによってはじめて、存在し、現に存在してもいるものだ、という点です。」（53頁）
バフチンによれば、個人主義的な主観主義とは、「個人の発語産出の行為を言語の根本だとみなしている。さらに個人の心理が言語現象の源泉だとみなしてい」（同書、97頁）る立場であり、他方、抽象的な客観主義とは、学ぶ対象を「言語の音声形式・文法形式・語るい形式の体系としての言語の体系」（同書、124頁）におく立場である。
バフチンは、抽象的な客観主義への批判を次のように展開している。この立場は、言語を規範として自己同一な諸形態の体系、つまり言語は、直接なにものにも媒介されずに実在している（同書、138頁）と考えているが「唯一人として言語が客観的な体系として実在するには不可欠な（語る主体の意識の）働きについて、はっきりした的確な理解に到達している者はおりません。」（同書、139頁）と指摘し、「語る主体の意識は、規範として自己同一な諸形態の体系という形で言語を操作するわけではありません。」（同書、140頁）と述べている。つまり、語る主体にとって言語とはどのようなものか、という問題意識から、客観主義を批判している。そして、聞き手にとっても自己同一性ではなくて、可変性が問題となるのだ（同書、142頁）。
　バフチンが見ているのは、「語る主体の言語意識は、実は言語そのものの形式とも、言語そのものとも、直接、全く何らの係わりもない」（同書、145～6頁）という点であり、「私たちは実際には、言葉そのものを発したり聴いたりすることは決してありません。私たちが発し、私たちが聴くのは、真実か虚構か、善きことか悪しきことか、重要なことかくだらないことか、分かることか分からぬことか、などです。」（同書、146頁）と述べられているように、人にとっては意味を発することが問題なのだ。「規範として自己同一的な諸形態の体系としての言語なるものは、それを用いて語る主体の意識にとって言語がある実際の在り方ではない」（同書、146頁）というように、バフチンは、この立場は、抽象化の仕方が悪い、という観点から批判している。
次に、個人主義的な主観主義の批判としては、バフチンは、個人の内にあるものが、外に表現される、という考え方や、内的なものと外的なものとの区別づけが誤りだと見ている。「内的記号という媒体のうちに存在があるのではない。その逆なのです。表現こそが体験を組織しているのです。」（同書、186頁）というようにバフチンとっては内的なものと外的なものとのつながりが問題なのです。というのも、「発話とは、実際、二つの面をもった行為です。それは誰の発話であるかという面と、誰にむけられた発話であるかという面と、この二つの面から規定されているのです。発話は、それ自体が話し手と聞き手との相互関係から生まれた所産なのです。……発話・言葉は、話し手と聞き手とが共有する共通の領域です。」（同書、188頁）という考え方からすれば、状況が発話を規定するのであり、「あらゆる発話を組織し、あらゆる表現を組織する中心点は内部にではなく、外部にあるからです。つまり個をとりまく社会的な状況の裡にあるからです。」（同書、205頁）ということが導き出されるからである。
発話についてこのように新しい基軸を開いたバフチンは、対話とコミュニケーションについても斬新な考え方を提示している。まず発話をコミュニケーションのなかで捉えている。
「言語活動（言語・発話）の真の現実とは、言語形態の抽象的な体系でもなければ、モノローグとしての発話でもありません。ましてや、モノローグ＝発話を産出する個的・生理的な作用でもありません。それは、ひとつの発話と多くの発話とによって行われる、言語による相互作用（コミュニケーション）という、社会的な出来事（共起・共存）です。」（同書、208頁）
　このような立場からすれば、「言語相互作用（コミュニケーション）こそが、かくして言語の根本的な実在の仕方だ、ということになり」（同書、208頁）そして、「言語の交換（コミュニケーション）は、他の種類の交換と分かちがたく結び合っております。それらの交換の営存と共通の基盤、つまり生産関係の中での交換という共通の上に成長してきたものです。言葉（発話）をこの永続し、生成発展する統一された交換過程から切り離すことは、もちろん不可能なことです。」（同書、210頁）ということを考慮すれば、「言語が生き、歴史的に生成しつつあるのは、まさに今ここでのこの実体的な言語コミュニケーションの中でです。言語学が作りあげた言語形態の抽象的な体系の中でもなければ、語り手の個人的な心理の中でもありません。」（同書、211頁）ということになる。
　少し長くなるが、バフチン自身によるテーゼ風のまとめを紹介しておこう。
「1、規範として働く自己同一的な言語形態からなる安定した体系として捉えられた言語は、単に学問的な抽象の所産にすぎない。それは、特定の実用的な目的・理論的な目的にのみ役立ちうるにすぎない。言語の具体的な現実相は、こうした抽象とは一致しない。
　2、言語とは絶えざる生成の過程である。それは語り手・聴き手の言葉による社会的な相互作用（コミュニケーション）という形をとって実現される過程である。
　3、言語の生成過程の規則は、個人心理の規則では決してない。語る個人の活動から切り離しうるものでもない。言語生成の規則は、社会学的な規則である。
　4、言語における生成過程は、芸術や他のイデオロギー（宗教なり科学なり）の個々の領域における生成過程と一致し、重なり合うものではない。しかし同時に、言語の生成過程を充たしているイデオロギー的な意味や価値から切り離しては理解し得ないものでもある。言語の生成過程は、他のあらゆる歴史内の生成過程と同様、盲目的な機械的必然性と感じ取られることもあるが、ひとたび自覚され願望された必然性となるや『自由な必然性』となることもできる。
　5、発話の構造は、純粋に社会的な構造である。発話はそのものとしては語り手と聴き手の間に実在している。全く個人的な発話行為というのは形容矛盾である。」（同書、216～7頁）
このようなまとめにもとづいて、言語コミュニケーションの特性について次のように述べている。
　「言語はそれ自体で存在しているわけではありません。それは具体的な発話、具体的な言語運用という個々の有機体と結びついて存立しているものです。発話を介することではじめて言語はコミュニケーションに接合します。コミュニケーションに関与する生きた諸勢力に浸透されて、現実的存在となります。他方、言語コミュニケーションにかかわる諸条件、その諸形態、その分化の仕方は時代の社会・経済的な諸前提によって規定されます。社会的な言語コミュニケーションの変わり行く諸条件が、次には他人の発話を引用・伝達する上述の諸話法を規定もするのです。その上、歴史の中で移り変わってゆく社会的・イデオロギー的コミュニケーションの諸類型がはっきりと浮き彫りにされて現われるのも、言語そのものが他人の言葉と、語る主体とを感知するこれらの話法の裡であると考えられます。」（同書、267頁）
　このようにバフチンは、言語をコミュニケーション過程に即して理解しようとしており、そしてコミュニケーションの諸条件自体は、歴史的な変化を受けて変化していくものとされ、この二段構えの発想から独自の対話論を展開したのであった。

２）伊藤によるラブレー論への評価
伊藤はバフチンの対話の原理が具体化された作品として、ラブレー論（ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』せりか書房）をあげる。伊藤によるラブレー論評価を紹介しておこう。
　「カーニバル的体験は、世界史を『救済史』として把握するローマ・カトリック教会の見解からの解放であり、連続的な時間の流れを中断し深遠で豊富な体験によって時間を充実させる。その根底にあるものが肉体的経験である。
　いうまでもなく、キリスト教文化は肉体・肉体的機能を好ましくないものとみなす。それは、隠すべきものであり、恥じるべきものである。あるいは、ルネッサンス期に理想とされた肉体は、古典古代のギリシアの大理石像に象徴される『静的』で調和的な身体である。それに対し、カーニバル的体験で強調されたのは、飲食、排泄、セックス、妊娠、出産など、肉体がもつ穴や突起を恥ずかしがることなく提示し、そうした肉体の機能を積極的に礼賛することであった。バフチンは、この外的世界との通路である肉体の穴と突起を強調する肉体観を『グロテスク』ないし『グロテスク・リアリズム』と名づける。それは、肉体をある理想の姿に静止させる試みや肉体を罪悪視する見方とはまったく異なる。他者との交わりや外界との交渉・接触のなかで自ら変化する生成の場として肉体が捉えられる。バフチンは次のように述べる。
　『グロテスクな肉体は、すでに何度も強調してきたように、生成する肉体である。決して出来合いの、完成されたものではない。常に作られ、創造されつつあるのだが、自ら他の肉体を作り、創造しつつあるのである。それ故、グロテスクな肉体においてもっとも本質的な役割を演じるのは、成長を重ね自分の枠を超え、自分本来の境界を超えて出て行くときの肉体の部分、これらのことが起こる場所、また新しい第二の肉体を懐胎する場所、腹とファルロスなのである。まさにこれらの場所が主として肯定的な誇張を受けるのである。……これらの特徴点は、ふたつの肉体間の境界線、肉体と世界の境界がまさに打ち破られるということであり、ここで肉体同士、肉体と世界の互換性、相互指向性が生まれるのである。』（『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』せりか書房、280頁）
　作り、作られるものとしての肉体観には、かれが構想した、未完の、絶えず生成する言語実践観と、同様の発想がみられる。しかしより注目されるのは、罵声やパロディや卑語に代表されるような、既定の社会秩序をつくりあげる言語的秩序を懐胎する言語実践の基盤にある、人間存在にとってもっとも根底的なものとしての『肉体』『身体』観の発見であるように思われる。世界と他者に自己を開き、世界と他者に感応する個を基礎づけ、言葉を発するものとしての自己を担保する『身体性』のレベルに深く思考のベクトルを向けることによって、言葉を発する自己と他者、自己と世界の関係を、かれはより深い視点から捉えることができたのである。」（38～9頁）
　バフチンが身体に注目したという点を伊藤は評価しているのだが、そこをさらに突き詰めれば、発話による対話と、それが実現する言語的コミュニケーションの前に、対面関係があるということへの注目が必要であろう。そして対面が身体に強制する社会的な力が社会生成の原理としてあること、罵声やバロディはこの身体を強制している社会生成力への違和感とそれを覆す試みとして理解できるだろう。
最後に、ブーバーとバフチンについてのまとめをあげよう。これが伊藤のコミュニケーション論の原点でもある。
　「すでに論じたように、ブーバーとバフチンとの間には、対話的なるもの、対話的な論理をいかに把握するのか、そしてコミュニケーションの目標をいかなる点に設定するのかにかかわって、対照的とでもいうべき相違が存在する。しかし、ここで読者に見過ごしてほしくないのは、両者が対話的な論理を問いかける際に、共通した原点に立っていることである。人間はけっして孤独な孤立した存在ではありえないこと、理性的な自立した個人という近代の原理が誤りであること、そしてそうした原理に立脚して構成された近代社会の社会的関係は、その内部に『非合理的』で『非人間的な』抑圧の体制を内在させているという認識である。これらの問題を析出し照射するものとして、コミュニケーションの理論が構想されたのである。時代批判の強力な武器としてのコミュニケーション……。」（40～1頁）
　伊藤がブーバーやバフチンに共通してあると見た近代社会の非合理的で非人間的な抑圧の体制とは、その原理を対面関係における形態規定の問題と捉えて初めて、時代批判の強力な武器としての意義を持つのではなかろうか。
第四章　ハーバーマスがはたした役割

１）ハーバーマスの評価
　第2章でとりあげられているハーバーマスとベイトソンについて、伊藤自身が彼らをどう捉えているか、という点については明解だが、彼らの理論を紹介している部分はわかりにくい。両者とも大部の著作で自らの思想を展開しており、簡単にまとめることが困難であることは理解できる。とりあえず、ハーバーマスがはたした理論的役割について、『思想としてのコミュニケーション』（大月書店、1995）所収、佐藤春吉「コミュニケーション行為論のオルタナティブにむけて」から紹介しよう。
　「Ｊ・ハーバーマスによって、マルクスの労働論や社会的な実践についての議論、ヴェーバーの西欧の合理化論、さらには実証主義的知識の前提となる暗黙の行為論は、すべて、単一のあるいは集合的な主体が対象に働きかけるという意味でモノローギッシュで道具的な行為様式を念頭においていたのであり、言語行為やコミュニケーション行為という複数主体の相互行為が社会構成に、そして哲学や社会学の理論構成にとってもっている重要な意義を見落としていた、と主張されて以来、社会理論にとってコミュニケーション行為を無視することはもはや不可能になったといえよう。コミュニケーション行為は社会的実践の理解に新しい視点を持ち込み、合理性と合理化の概念について新たな意味を浮き上がらせ、認識や批判の根拠について新しい足場をもたらし、こうしてそれは社会理論や哲学の構想をすっかりぬり変えるほどのパラダイムの転換をもたらすものとみなされているからである。ハーバーマスは、労働と相互行為、ないし道具的行為とコミュニケーション行為というこの二つの行為類型論をもとに、旧来の哲学や社会学の枠組みをのりこえる理論展開を精力的におし進め、主著『コミュニケーション行為の理論』でほぼその基本的な理論的骨格を築きあげたといえる。」（『思想としてのコミュニケーション』、237～8頁）
　佐藤によれば、ハーバーマスは、単一の主体が対象に働きかける、という人間の実践についての認識論的枠組みを斥け、言語行為やコミュニケーション行為といった相互行為の分析を通して実践論についてのパラダイム転換をなしとげたと見ている。とりあえずのハーバーマス理解を佐藤の紹介に委ねて、伊藤のハーバーマス批判の紹介に進もう。

２）『啓蒙の弁証法』の袋小路
　伊藤は、このハーバーマスがはたした役割については、アドルノとホルクハイマー共著『啓蒙の弁証法』（岩波書店、1990）がゆきついた袋小路からいかに抜け出したか、という点について詳しく論じることによって示している。
　「ハーバーマスは、Ｔｈ．Ｗ．アドルノやＭ．ホルクハイマーに代表されるフランクフルト学派をその出自としている。ここではまず、ハーバーマスの理論を可能な限り的確に理解すべく、フランクフルト学派の基本的関心をみておこう。
　アドルノやホルクハイマーが精力的な活動を行ったのは、すでにその時代状況について言及した1930年代である。かれらの基本的な問題関心は、個々の人間の悲惨な運命が客観的全体としての社会に媒介されていることを見抜く『批判的社会理論』を構築することであった。啓蒙思想の伝統を背景として、近代社会は『自律した個人』による自由な社会を標榜してきた。しかし現代社会は、個人に悲惨を、主体に他律を強制する客観的な力として作用している。それゆえに、社会と個人、客体と主体との関係を認識することが個人の解放と自律の回復の不可欠の前提をなす、とかれらは考えたのである。それはたんに現実を『実証主義的』に分析することを意味するものではなく、『文化的創造の主体』の自律、『歴史における理性の実現』というドイツ観念論の中心命題を正面から受け継いで、現実の合理化を一切拒否する理論をめざしたのである。
　ところが、1933年のナチスによる政権掌握によってかれらはドイツを離れ、1934年アメリカに亡命せざるをえなくなる。この経験のなかから生まれたのが、アドルノとホルクハイマーの共同執筆になる『啓蒙の弁証法』である。それは、これまでの前期フランクフルト学派の仕事に対する批判的決算であり、自らの分析視点そのものに対する自己反省の書であった。
　『啓蒙の弁証法』が論じたのは、『そもそもの始めから合理性には、自己破滅への実践的方向が属していた』という文に示されるように、かれら自身がよって立つ『啓蒙的理性』の自己崩壊という問題であった。この場合の啓蒙とは、すでに言及したように、近代社会成立期、ニュートンやデカルトによって表明された『理性による人間の自律』と『理性にもとづく自然の客観的認識』という理念において最高の定式化を得る『啓蒙思想』と解することもできる。だが、かれらは人類の全歴史を貫いている文明化の過程、ウェーバーの言葉を使えば『世界の魔術からの解放』というもっと広い意味で使う。この文脈のなかで『啓蒙』という言葉は、アニミズム的世界観、神話的世界観、そしてすでにふれた中世のキリスト教的世界観から離脱する『文明化の過程』として肯定的に把握されてきたのである。しかし、この啓蒙の理念のなかに、そしてその最高の定式化である『理性による人間の自律』という考え方のなかに、自然的対象ばかりか他者をも道具として、手段として活用し支配しようとする『道具的理性』が内包されていたのではないか。ブーバーが指摘した『我・それ』関係を全面的に拡大していく契機が、理性概念それ自身のうちにはらまれていたのではないか。アドルノとホルクハイマーは、こうして啓蒙・啓蒙的理性そのものを自己省察の対象としたのである。
　ハーバーマスはかれらの問題提起を引き受け、その地点から新たな問いを提出する。かれによれば、『理性による人間の自律』という場合の理性概念には、アドルノやホルクハイマーが指摘したように、さまざまな形象のもつ多様性を位置と配列へ、歴史を事実へ、諸事物を物質へと抽象化する『道具的理性』が内包されている。そこでは計算可能性や有用性を基準とする『認知的―道具的合理性』が唯一の合理性基準となる。しかし、近代の理性概念には、もう一つの契機がはらまれていたのではないか。それは、事物を操作し支配することで得られる有用性や効率性にもとづいた『技術的合理性』ではなしに、対等な対話者が相互に議論を戦わせることによって、真、正、美、という三つの価値領域におけるそれぞれの妥当性を検証し相互に承認し合う『コミュニケーション的理性』『コミュニケーション的合理性』である。言語というメディアを通して互いに論議を尽くす『コミュニケーション的行為』＝『了解志向的行為』が構成する合理性である。」（43～5頁）
　このように伊藤は、ハーバーマスがフランクフルト学派が気づいた啓蒙の弁証法、つまり、理性による人間の自律と、自律した人間による理性の行使が、自然や他者を道具と見る道具的理性としての行使になり、人間性を否定していくという論理を踏まえて、合理性そのものの再検討に向かったが、その合理性の再建を、コミュニケーション行為に求めたと見ている。

３）伊藤によるハーバーマス批判
　ハーバーマスのコミュニケーション論について、伊藤は色々説明しているが、説そのものの紹介よりも批判の部分が面白い。したがって、ハーバーマス説の紹介の部分としては、「生活世界の植民地化」と「市民的公共性」にとどめ、それにつづけて、批判の部分を引用しよう。
　「こうしたシステムと生活世界の複雑な関係のなかで成立した近現代社会のなかで、今日重大な問題が生まれている、とハーバーマスは指摘する。それは、システムの原理が生活世界の領域にまで浸透し、コミュニケーション的な相互了解の領域が縮小し、瓦解しはじめていることである。システムによる『生活世界の隷属化』『生活世界の植民地化』といわれる事態の進行である。たとえば、人間の成長と人格形成をその本来の仕事とすべき教育は、学力による選別機関としての性格を強め、偏差値による上級学校への進学・選別を自己目的としたシステムへと変貌していないだろうか。また、医療や福祉といった分野でも、経済的な合理性や効率性を優先する立場から目的志向的行為への重点移動がみられないだろうか。あるいは、社会的価値や実践的問題をめぐる対立や政治的諸課題をめぐる対抗関係は本来、市民相互の討議による価値判断によって解決されるべきであるにもかかわらず、既存の制度を前提としたうえでの手続き的な合理性の問題や数量的な達成度の問題にすり替えられてはいないだろうか。これらはいずれも、認知的・道具的な合理性が経済や国家の領域を越えてコミュニケーション的了解を基盤とする生活領域のなかまで侵入し、外的自然や人間の内的自然・身体にまで影響を与え、さまざまな社会病理を生み出している。それだけに、この『生活世界の隷属化』のプロセスを認識し、コミュニケーション的合理性を支える行為空間を再建することが必要ではないのか。かれは、それを、『市民的公共性』の再建として提起する。」（49～50頁）
　システムによる生活世界の植民地化という分析はハーバーマスの理論の中でも普及しているが、ハーバーマスは、この生活世界に進入し、支配しようとしている道具的理性に対抗していけるものとして、コミュニケーション的行為に合理性を与える基盤としての市民的公共性の再建を唱えたと伊藤は見ている。
「以上みてきたように、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論は、批判理論の伝統に立脚しながら、現代社会におけるコミュニケーション的次元がもつ重要性を大胆に論じたものである。ブーバーが対話とコミュニケーションの原理を原基的な自己と他者の関係に照準して論究し、バフチンの言語論・発話行為論が発話のダイナミズムを人間の身体性のレベルにまで掘り下げる作業を行ったのに対して、ハーバーマスの理論はまさに歴史・社会的な文脈でコミュニケーションの問題を展開したといえるだろう。かれの理論のアクチュアリティもそこにある。だが、歴史・社会的次元を重視してコミュニケーションを把握するという方向性は、逆にいくつかの課題を見失わせてしまう結果を招いたのではないか。第一に、バフチンが照準した身体性の問題、第二は、ハーバーマスが語用論に依拠したために生じた、言語記号の意味の生成にかかわる問題。第三は、現代社会における『他者』の問題、そして第四の問題は、コミュニケーション的関係を自己と他者の関係にのみ限定して捉える点である。これらの問題はハーバーマス理論の問題というより、現代のコミュニケーション論そのものの問題とでもいうべき性格をもっている。第一の問題から検討しておこう。
　バフチンは、言語的対話のダイナミズムの基底に人間の身体性をおいていた。グロテスク・リアリズムとかれが呼んだ祝祭空間における民衆の姿は、規範・社会的秩序に対する民衆の対抗的立脚点としての身体性に論究したものだった。それは、ある社会的環境のもとで、聞き入り、感じとり、受け入れながら、また他方で表現し、主張し、演ずる、そして抵抗する、両義的存在としての身体である。バフチンが、グロテスク・リアリズムにおける身体の特徴が外に開かれ、内にも開かれた、外と内との境界としての『穴』にあることを強調したことは、その点できわめて象徴的である。また、この両義的存在としての身体は、『自己』の固有性を内在する個体性のレベルで把握されていた。聞き入り、感じとり、受け入れる、身体と外的環境との間の相互過程は、『個』としての身体に独自の自己組織化の過程だからである。
　さらに、この身体は一定の場所を占有する存在として場所性という特徴を随伴する。ある場所、ある時間に拘束された存在としての場所性である。つまり、ここでは『空間が』重視される。祝祭という非日常的な空間のなかで、身体は社会的規範の一時的な解体をまさに肌で感じとるのであり、民衆のひとりとして仲間とともに存在することを身体感覚を通して歓喜し、祝祭するのである。
　バフチンは、このように両義的存在性、個体性、場所性、という三つのアスペクトから身体を捉えるわけだが、この身体に支えられて言語活動がはじめて生成することを理解していた。それは、論理展開の位相の違いにもかかわらず、身体と言語の関連に、そして身体を通した対象認知のあり方に現象学的な考察を一貫して加えたＭ．メルロ・ポンティの課題意識と共通のものを提示しているように思える。
　それに対して、ハーバーマスの理論の場合には、言語的相互作用にみられる社会的規則性の解明と発話内容の合理的基礎づけの問題に力点がおかれ、『理性主義』的なコミュニケーション観にとどまっているといわざるをえない。もちろんハーバーマスが言語以外の身体的コミュニケーションの問題を視野に入れていないと批判される点は本質的な問題ではない。他者との相互作用が言語によるか身体によるかにかかわりなく、ある歴史的空間のなかで個々の身体が感受し、構成してきた『身体的知』に根ざしたものとして、あるいはそれに媒介されたものとして言語活動を捉える視点が確保されているのかどうかが問われなければならないのである。
　こうした問題は、次に述べる言語の意味の多義性という問題とも深くかかわる。すでに論じたように、ハーバーマスのコミュニケーションの理論は、オースティンやサールに代表される言語行為論に立脚している。そこでは、言葉が実際に使用される社会的場面に焦点をあてながら、言葉の使用にかかわる規則性とその効果が問題として取り上げられたのである。しかしながら、たとえば、祝祭空間における言語はこうした日常的な言語の使用規則を破壊し、一つひとつの言葉さえもこれまでとは異なる意味作用を生成するようなかたちで現れる。そこでは、語用論の問いを超えた問題領域が開かれている。この空間に対して、ハーバーマスの理論的枠組みは十分ではない。
　さらにもう一点、かれの理論に対する疑問を指摘しておこう。それは、彼の想定するコミュニケーション主体が『近代』の価値観を共有し、その枠組みのなかで捉えられた自己と他者との間のコミュニケーションにすぎないのではないか、という疑念である。論議を尽くした理性的な合意というプログラムはもちろん否定されるべきものではない。しかし、不確定な要素が混在し、的確な解が試行錯誤のプロセスを通じてしか発見されないような状況下や、多種多様な価値が複雑に絡み合った多元的な状況（まさに現代の状況であると筆者は考える）のもとでは、理路整然とした議論を通して相手を説得するというコミュニケーションはふさわしくない。むしろそうした状況のもとでは、異質な価値観と思考を紡ぎだす他者の言葉に自己がふれることによって自らが変容し、また同様に他者も変容するというプロセスそのものが重要になる。そして、この異質な他者同士の相互変容のプロセスのなかに新しい共同性のあり方がかたち作られていくのではないだろうか。ハーバーマスのコミュニケーション論ではこうした動的な過程を理論化できるようにはみえないのである。
　第四の問題は、かれが人間と自然対象との関係をはじめからコミュニケーション的関係の枠外の問題として位置づけていることである。」（53～5頁）
　ここではハーバーマスの理論に即して議論する余裕はないので、伊藤が現代のコミュニケーション論そのものの問題とも重なるとみている四っつの問題点について、簡単にコメントしておこう。
第一の身体性の問題については、バフチンのグロテスク・リアリズムの提起にとどまらず、なぜそのような民衆の反抗的行為が祝祭という例外的な日常性のなかでしか出現しないのか、という問題へと考察を拡げていく必要があろう。そうすれば、日常性ということにおける身体への縛りが、ランシェールの言う「感性的なものの分有」として成立していることが知れるし、そうなれば、日常に対比される祝祭での対抗を、日常そのものの中での対抗の論理の構築へと進めていける。
第二の言語の意味生成の問題については、対面関係における見る側の一般的他者の態度の取得という事態が、対話の前提にあり、意味の生成もその枠組みの中で行われていることを理解することが肝要だろう。そしてこのことが理解されると、その枠組みを打破するような意味生成の過程を発見することも可能となろう。ポイントは聞き手に社会変容のイニシアティブがあるということだ。
第三の他者の問題は、資本主義の発展のもとで政治的自由が保障され、自由な個人が出現した時、個々人は自己神格化されて、唯一性を持つ個人として存在しているということだ。これが「個人化」と言われていることの実相であるのだから、個々人の唯一性を認めたうえでの共同性が問われてくるということだ。ここからハーバーマスの合理的理性にもとづくコミュニケーション行為の想定が、個々人の唯一性への侵害となることが理解できる。そして個々人の唯一性を残した共同性とは、例えば、サードセクターの非営利組織の事業の自主管理における対話的コミュニケーションに発見できるだろう。
第四については、ベイトソンの提起と絡むので、次に残しておこう。

第五章　ベイトソンの問題提起

１）伊藤のベイトソン評価
　伊藤がベイトソンの思想で注目しているのは、自己言及性ということである。これは一言で言えば、自分が知ろうとしている対象や他者の一部として自分自身が入ってしまう、という関係である。その紹介の前に、伊藤は人間と自然との間の関係をシステム的な関係と捉えたベイトソンの提起の紹介から始めている。
　「１章で、『主体・客体』という二元論の認識枠組みが近代という時代に成立した特定のフレームであり、コミュニケーションという問題系の定立がこの近代の認識枠組みを相対化・対象化する試みであることを指摘した。ハーバーマスがコミュニケーション的合理性を主張したのも、『主体・客体』という二項対立の関係にいっさいの関係を還元する近代的理性の限界を示すことにあった。しかしながら、現代社会批判として展開されたかれらのコミュニケーション論から共通した一つの問題が浮かび上がる。それは、コミュニケーション的な相互作用の問題を人間と人間との関係性のレベルに限定して考える点だ。ブーバーの立論は、『我・汝』関係を、自然的対象との関係、他者との関係、そして絶対的他者との関係という三つの位相から捉えた。だが、かれが主題的に取り上げたのは他者との関係、絶対的他者との関係であって、自然的対象との関係は十分なかたちでは展開されなかった。また、ハーバーマスの場合にはこの傾向がいっそう徹底され、自然的対象との関係と他者関係とを峻別する二元論の立場に立って、労働とコミュニケーション的行為という二分法が全面にでている。かれにとって自然的対象は『目的・手段連関』のなかで遂行される目的合理的な行為＝労働の対象としてのみ考えられている。しかし、翻って考えてみるとき、対象への関与のあり方も、人間から対象に一方的に向けられたベクトルで語りうるのであろうか。ベイトソンは、このわれわれにとって自明とも思われる自己と対象との二項対立図式を疑うことから自己の思想を開始する。コミュニケーション論を『生きた世界』の認識論として展開するのである。それはどういうことなのだろう。
　ベイトソンは次のような根底的問いをわれわれに突きつける。『われわれが物ごとを知るとはいかにして可能か』という問題である。かれはそのことを自然と精神を結び合わせるパタンに関する問いとも呼ぶ。
　ぼくたちが、対象を知覚し認知するすべての経験は主観的である。ベイトソンはこのことを、『われわれが知覚したと思うものは、脳がつくりあげたイメージであるという命題の一つの単純な系にすぎない』と述べる。経験であれ、知覚であれ、それはわたしの身体、わたしの脳がつくりあげたものである。もちろん、物質的ななにかが『外』に、われわれから独立して存在していることは否定しがたい。だが、そのなにかとわれわれが関係し合っていることも否定できない。この関係性は、デカルトが想定したような『主体』と『客体』、認識するものと認識されるものが峻別される関係、観察されるべき対象があらかじめ実体としてあり、それを外部観察者が観察するといった関係ではない。そのような関係ではなく、それは、システム的な関係、もっとも広い意味でのエコロジカルな関係なのだ。」（56～7頁）
　このシステム的な関係について、伊藤はベイトソンが木を斧で切り倒そうとしている人を例にあげているところを素材にして説明しているが、一寸わかりにくい。同じ内容について、もっと明解に説明している、モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』（国文社）から引用しておこう。
　「〈精神〉の循環性を説明するために、ベイトソンは斧で木を切り倒している男を例に挙げている。デカルトのパラダイムに従えば、この場合『意識』を持っているのは男の脳だけである。むろん木も生きてはいるが、このパラダイムによれば心的システムではまったくない。斧が死んでいることは言うまでもない。こうしたデカルト的見地からすれば、ここでの相互作用は因果律的であり一方通行的である。つまり、男という主体が、斧を手に取りそれを木の幹に対して用いるというわけだ。この仕事をしながら男が、『私は今この木を切り倒している』と考えることもあるだろう。それはつまり、『私』という一個の実体すなわち自己が存在し、それが一個の客体に対し、ある目的を持った行為を遂行しているという意味である。ここでの誤りは、精神の所在が『私』―― つまり人間――だけに限定され、木はもの化され客体化されているということだ。そうした対置が結局『私』をももの化してしまうことに注意しなくてはならない。なぜなら、自己が斧に作用し、斧が木に作用する――この考えはまさにデカルト的衝撃物理学の忠実な適用例である――という構図から必然的に引き出されるのは、ものとしての――ゆえに死んでいる――自己にほかならないからだ。このようなシステムで、自己を一局部に限定することがそもそも誤りなのである。そのことは、ベイトソンが挙げているもう一つの例でいっそう明らかになる。それは、杖の助けを借りて通りを歩いている盲人の例である。盲人の自己がどこではじまりどこで終わるかを画定することができるだろうか。彼の杖もまた彼の自己の一部ではないだろうか？彼という人間が単なる客体としての杖に作用し、その杖が舗道に作用するということではないのである。杖は、舗道すなわち盲人の環境への経路なのだ。だがその経路はどこで終わるのか？杖の取っ手の部分でだろうか？先端でだろうか？真ん中あたりでか？『こうした問いは無意味である。なぜなら杖は、“違い”が変換された形で伝えられる経路であり、したがって、この経路の途中で境界線を引いてしまうことは、盲人の動きを決定するシステム回路を切断してしまうことになるからだ』とベイトソンは述べている。盲人の心的システムは――指先で終わるものではない。盲人の動きを説明するには、舗道と杖と人間が必要なのだ。盲人が腰をおろして杖を脇に置いてはじめて、杖はシステムと無関係になるのである。
　男と斧についても同じことが言える。斧の一打ち一打ちは、その前の一打ちが、木にどのような切り口を刻んだかということに合わせて調整される。ここにあるのは〈内〉なる『自己』が〈外〉なる木を切り倒すというのではなく、一つの関係が――システムとしての回路、すなわち〈精神〉が――生起するという出来事である。生を帯びるのは状況全体であって、人間として切り出されたものではない。生は回路のなかに内在するのであり、その外に超越的に存在するのではない。たしかに、この男の前頭葉に『精神』が位置していると言うことはできる。だが問題なのは〈精神〉であって、この場合それは〈木―目―脳―筋肉―斧―斧の打ちおろし―木〉という回路である。いや、正確には〈木における違い／網膜における違い／斧の動きにおける違い／木における違い……〉というふうに形を変えながら循環する差異の――つまり情報の――回路と言わなくてはならない。この情報の回路こそが〈精神〉すなわち自己修復ユニットなのである。それはさまざまな経路から成る網状組織として捉えることができる。目的を持った意識のところで区切れるのでもなければ、皮膚のところで区切れるのでもない、すべての無意識の思考の経路と、情報が循環するためのすべての外的経路をも含めた、一大ネットワークなのだ。
　このように、思考のネットワークの大部分は、実は身体の外にある。」（『デカルトからベイトソンへ』283～5頁）
　先に伊藤が第四の問題としてあげていた、人間と自然との関係をシステム的関係と見なし、コミュニケーション的関係と捉えるとはこのようなことだ。引き続き、伊藤の説明をみよう。

２）自己言及的知とコミュニケーション
　ベイトソンの提起を伊藤はすでにみたように、コミュニケーション論の見地からとりあげている。ベイトソンの問題提起は多岐にわたっており、それらについては『デカルトからベイトソンへ』を参照することをお勧めし、ここではもっと詳しく、コミュニケーション論に則した伊藤の見解を紹介しておこう。
　「ここでベイトソンの理論を包括的に吟味する余裕はない。ただ、以上検討してきたかれの主張が、コミュニケーションを問うことのアクチュアリティを遺憾なく表現していること、言い換えれば、コミュニケーション系を問題として取り上げる際に欠かしてはならない必須の課題が提示されていることを確認しておきたいと思う。
　第一は、かれの議論が、各章で繰り返し指摘した『近代』の認識・実践枠組みに対するもっとも包括的な批判となりえていることである。少し長くなるが、かれの思想が端的に表現されている文章を掲げておこう。
　『本書は、われわれが、生きている世界の一部であるという考えのうえに築かれている。生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれてみんな結ばれ合っているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている。われわれの経験する限られた世界の中の、ここの些細な出来事がどうであろうと、より大きな全体がいつでも美をたたえてそこにあるという信仰を失ってしまっている。……美的統一感を失ったとき、われわれは認識論上の大きな過ちを犯した。この考えが私の思索の根本にある。昔の認識論にもいろいろと狂ったところはあったが、それのどれと比べても美的統一感の喪失の方が重要な誤りだと私は信じている。』（『精神と自然』思索社、24頁）
　ここでベイトソンが美的統一という言葉を用いているからといって、近代以前の、たとえば人間と動植物の間にパラレルな関係をみたトーテミズムの認識世界に回帰することや、超自然的な力を信仰する古代の世界観に戻ることを主張しているわけではけっしてない。生なき対象として、客体として、物的対象を対立的関係にあるものとして定位する近代の図式の一面性を指摘し、人間とそれらの物との関係のなかにこそ『現実』があることを強調するのである。美的とは、かれの言葉をそのまま使うならば、『結び合わせることに対して敏感である』ということだ。人間と物とはもともとシステム的な関係のなかにあるのであり、そうした関係に注目する科学、『参加する観察』（バーマン）というべき現象を問題にする科学こそが必要なのである。それは、デカルト以降の近代的な『知』に対する明確な批判である。
　ぼくたちは、ベイトソンによって提起された、こうした『知』を自己言及的な『知』と呼ぶことにしよう。それは、認識主観と認識対象を峻別し、前者から後者への一方向的な作用によってのみ関係を捉える『知』のあり方とは根本的に異なる。人間と人間、人間と自然的対象、という二つのレベルがともに、システム的関係、相互に調整し合う構造的カップリングの関係を構成する二つの要素であることを認識する『知』にほかならない。ブーバーからハーバーマスに至る数多くのコミュニケーション的関係に対する社会哲学的アプローチのうちでも、ベイトソンの理論がもっとも包括的なものであることを、われわれはここにみることができる。
　さて、ベイトソンによって提起された自己言及的な知は、次のような積極的な主張をともなわずにはおかない。それは、『客観的にあらかじめ与えられた真実』は存在しない、という主張である。もちろん、ベイトソンが指摘するように、『ビリヤード球や銀河系のような生なき世界（力と衝撃こそができごとの原因となる世界）』に客観的法則を求めることは可能だろうし、人間は自然科学的認識方法を通して実際にそれを発見してきた。しかし、『生ある世界』（区切りが引かれ、差異が一つの原因となりうるような世界）では、観察者は積極的に対象にかかわり、行為の世界に入っていって能動的に対象に働きかけ、積極的にかかわりながら、その対象と自己との関係を構成しつつ観察する。このプロセスには、絶対的な真実や絶対的に正しい事柄が所与のものとしてあらかじめ与えられているわけではない。対象に働きかけ、また対象から働きかけられる、そのときどきの相互作用のなかに『真実』や『正しさ』を見出すのである。それは未完の対話のなかに真実を探し求めたバフチンの真理観と共通している。ベイトソンは、この相対主義を積極的に、肯定的に捉えるのである。
　以上のことは、次の第二の論点とも関連してくる。ベイトソンによって拓かれた新しいコミュニケーション論は、ブーバーやハーバーマスにみられたような『共同性』への志向を色濃くとどめているコミュニケーション理論よりも、バフチンにみられた差異としてのコミュニケーション観、未完の対話のなかに真実を探し求めるコミュニケーション観との共通性を強く印象づける。
　すでに論じたように、ベイトソンによれば、コミュニケーションとはきわめて複雑で、不確定な要素に満ちた、いつそのメカニズムが瓦解してしまうかわからない、相互調整のプロセスにほかならない。生成と分裂の契機をはらむダイナミックな過程が内包する不確定性は、学習１のレベル、そして学習２のレベルによって獲得された『知』によって、慣習的に、規約的に、一時的に閉じられ、縮減されているにすぎないのだ。ベイトソンの重要性は、コミュニケーションという相互調整の関係から秩序が生成するプロセスが、時にはその調整の失敗から分裂・崩壊を生じさせるプロセスでもあることを明確に理論化した点にある。
　ベイトソンの理論で注目される第三の論点は身体性に関するものである。バフチンを検討した際に、コミュニケーションと身体との関連性に言及した。ベイトソンにとっても、最も重要な関係性は、知覚であれ、実践的行為であれ、身体を通した対象とのかかわりであった。身体が、世界を構成し、統括する。それゆえ、類としても、個としても、独自の対象世界を構成するもっとも根源的な基盤として身体が把握される。それはまた、自己と他者とが相互に異質な存在として、一方に吸収・合体されることのない存在として、相互の対話を可能にする根源的基盤として身体を定位することでもある。」（66～8頁）
　このように伊藤のベイトソン論は、人間と自然との間のコミュニケーション論にひきつけて論じられていて、ベイトソンによる現代の人間の思考に対する根底的な批判については触れられていない。せっかくの機会なので、ここでベイトソンの思想の核心と思われる内容について紹介しておこう。

３）ベイトソンの思想の核心とその発展方向
　ベイトソンは、単著になっているもの以外のほとんどの論考を集めた『精神の生態学』（原書、1972年、訳書、1985～6年、新版、1990年、思索社）の序章で、自信たっぷりに述べている。
「動物の左右対称性という問題も、植物の葉の配列パターンも、二国が競って軍備拡張するプロセスも、愛の進行過程も、あそびの現象も、センテンスの文法構造も、生物進化の謎も、現在危機的な状況を迎えている環境問題も、私の提唱する観念の生態学の視点からのみ、理解することができる。」（『精神の生態学』、20頁）
このような見地に到達したのはベイトソンによれば、1969年の終わりになってからのことで、思考の依拠すべきポイントを手にしていることに気づいたという。それは次に述べられているような、思考の方法の違いだった。
「彼ら（科学者）はデータから仮説へと帰納的に思考と議論を進めていく訓練は受けていても、科学と哲学の基本原理から演繹的に導き出した知識を仮説と照合していく訓練に欠けていたのである。」（同書、23頁）
通常学問の方法（社会科学）と言えばデカルトが輪郭を描き、マルクスが下向的分析と上向的総合というようにまとめているが、この場合も分析主体と対象とが切り離されていることが前提にあり、自己言及的知のあり方ではなかった。自然科学者の方法もこのような枠組みの中にあった。これに対して自己言及的な知の方法論について、ベイトソンは気づき、それを提示しようとしているのである。
まず、ベイトソンは、「基底の知」は二種類あるという。一つは、真である以外ない命題系（人間の定めた公理と定義の通用する範囲のなかだけで同義反復的に成り立つ命題：数学の真理など）であり、もう一つは、どのようなケースでも一般に真である命題＝法則（熱力学の法則など）である。
ベイトソンの新しい提起は、科学の研究には起点が二つあり、その両方にしっかりと根ざさなければならないとしていることだ。「まず観察をおざなりにしてはならない。と同時に、基底的原理から外れてはならない。つまり、一種の挟撃作戦を成功させる必要があるということだ。」（同書、26頁）
下向から上向という単線ではなく、常に観察と基底的原理との挟撃作戦を提起している。これはマルクスの『資本論』に即して言えば、第一章　商品の分析での価値実体の導出と、他方での価値形態論の展開、の双方における方法の相違という問題と関連している。マルクスは、前者は分かりやすいが、後者は価値概念から価値形態を演繹しているので、理解に困難だと言っているし、実際に『資本論』研究者で価値形態論について理解している人は皆無と言っていい。
ベイトソンは、「科学における根底的な知というのは、そもそも帰納的に導きだされたものなのだろうか。」（同書、29頁）と述べて科学的・哲学的思考の始源にまで立ち返る必要を提起しているが、それはどちらかと言うと思想的というより人類学的発想であるので紹介はためらわれる。とはいえ、末尾で述べられている、形式と実体の分析における相違の指摘は重要である。
「エネルギーと質量保存の法則は、形式ではなく実体の世界にかかわるものだ。しかし精神プロセス、観念、コミュニケーション，組織化、差異化、パターン等々は、あくまでも実体ではなく形式にかかわるものである。
　基底的な知の全体のうち、形式に関する部分は、サイバネティックスとシステム理論の誕生によって、ここ30年飛躍的に豊かになってきている。本書が関わるのは、生命と行動に関わる具体的な事実と、パターンと秩序の本性について今日知られていることとの間に架橋する作業である。」（同書、32頁）
　ではベイトソンはどのようにして架橋しているのだろうか。『精神の生態学』で思想的に見て白眉をなすのが「形式、実体、差異」だ。その内容を検討しよう。
「生きた生物の現実の行動を、きちんと形式化された前提の上に乗せる試みは、今日の時代にあって恐ろしいほど重要だとわたしは考えます。」（同書、597頁）
形式とは関係の総体であり、関係という概念は自我という主体を前提とする西欧哲学では手の出しようがなく、かろうじて倫理学の守備範囲だが、しかし倫理学は哲学の植民地だ。レヴィナスのように、倫理学の立場に身をおいて西洋哲学を批判するケースも稀にはあるが、しかし、人間を自然との関係で受苦的存在と見なしはすれ、自然そのものとの関係にまでは至っていない。ベイトソンは関係の解明をシステム論やサイバネティックスに期待しつつ、自然に精神性を認めることで、人間の精神の拡張を図ろうとした。
ベイトソンによれば「差異とは、具体的な何かではありません。抽象的なもの」（同書、601頁）だ。そして、「『観念』という語は、その一番基本の意味において、『差異』と同義ではないかとわたしは考えています。」（同書、602頁）と考えるベイトソンは、差異の伝達を観念の問題として捉えようとしているのだ。その上で、「有機体外部での差異のコード化および伝達方法と、生体内部でのそれとの間にきわだった対照があるということは確かです。」（同書、603頁）ということの例示として次のように述べている。
「差異の移動に関わるエネルギーは、その時点まではふつうのハード・サイエンスの方式にのっとって“うしろから”与えられる。しかし、感覚器官の引き金が引かれたあとは、別のタイプの移動方式に置き換わります。今度は違いを受け取る側が、それぞれのステップで原形質に潜在している代謝エネルギーを使って、違いを受容し、再成（または変換）し、先送りするのであります。」（同書、603頁）
　差異＝観念という立場から人間の精神を自然との関係へと拡張しようとするベイトソンは、その帰結として、宗教批判に到達している。
「神を外に置いてその創造物と向かい合わせ、そのうえ自分が神と似た姿をしていると考えるなら、自分はまわりの事物の外側にいて、それに相対するように存在するという思いが、論理的に、自然的に出てきます。精神は完全に自分に所属するものに思え、まわりは『心ない』、したがって道徳的・倫理的な配慮をする必要のない世界だと思えてくる。」（同書、612頁）
宗教及び宗教批判については詳しくないので、このようなベイトソンの考え方が、それまでに既に展開されていたかどうかは分からない。アメリカの何人かのエコロジストたちが、キリスト教批判を展開していたことが記憶にあるが、これはベイトソンの影響かもしれない。ところで、批判が、「西洋文化では、超越する神という前提があまりにも強力であり、思考の大きな部分がその前提にすっかり根を下ろしているために、内在的な言葉で世界を捉え直すことは、多くの人々にとって容易ではない。」（同書、618頁）というところまで踏み込んでいるので、ベイトソンの宗教批判は重要な思想的提起と見なさざるを得ない。そして新しい思考を身につけることの必要性が主張される。
「今日われわれにとっての最大の課題は、新しい思考を身につけるこ

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