　1965年生まれの数土直紀が『理解できない他者と理解されない自己』（勁草書房、2001年）という本を書いている。たまたま図書館で見つけ、タイトルに魅かれて読んでみた。他の学者の説を紹介しているところは飛ばし、序章相互理解という幻想、及び終章他者と生きるために、を検討してみよう。
　数土は、序章の冒頭で次のように述べている。

「まず、社会のもっとも基本的な特徴というものを考えてみよう。おそらく、それは社会が私1人によって創られるものではなく、私と他者とで協同して創るものだということではないだろうか。つまり社会は、決して私1人だけの力によっては構成されえない何かなのであり、社会について考えることは言い換えれば私たちが共に生きているはずの他者との関係を考えることにほかならない。」（1頁）

　このような主張は、人々が合意の上で社会を創る、という社会契約説の流れを汲むものだが、近代の社会契約説が一般意思（ルソー）やコモンウェルス（ホッブス）を探求したのに対し、数土の場合は、個人としての私から出発しようとしているところにその特徴がある。社会というとき、私を一応カッコに入れて、社会を客体的に見ようとするのがこれまでの社会学の流れであったが、それに対して、個人の参画という点から社会を見ようとする社会的構築主義の流れなのだろうか。数土はつづけて次のように述べる。

「しかし、私たちはこの基本的な事実を日々意識しながら生活を営んでいるわけではない。他者の存在は暗黙のうちに前提にされ、私たちは特にそのことを意識することなく、他者と相互に影響を与え合いながら社会を構成するのである。したがって、社会について何かを明らかにするということは、私たちが意識しないまま他者と共に実践的に遂行している営みを意識化することを意味している。そしてさらに言えば、そのことを通じて社会の全体像を描き出し、可能であるならば、より望ましい社会の実現に向けて何が必要なのかを示すことである。」（1～2頁）

　このように問題をたてた上で、数土は自らの問題意識について「結局社会について考える人は、私一人だけでは生きていけない以上、その社会を共に創っているはずの他者とどのように関係しているのかという課題をひき受けなけれあならない」（2頁）とか、「社会を明らかにすることが他者と共に生きていく仕方を明らかにすること」（3頁）と述べている。
　数土によれば、社会とは、私と他者との間の暗黙のうちでの相互理解にもとづいて創られているのだが、この暗黙のうちの相互理解を意識化してみると、実は相互理解がなされているわけではなく、それが暗黙のうちにおかれている限りで、お互いに相互理解し合っているとみなされるのであり、これを意識化し、言語化すると、その理解が虚構だったことが判明してしまうという。そこで数土が提出するのは、「新しい型の相互理解」である。

「確かに、世界観や価値観を異にする他者を受け容れ、そのような他者と共に生きていくことを選択することは容易なことでない。しかし、それが容易でない理由を誤解してはならない。それが容易でないのは、私たちの暗黙の合意を言語化するのが容易でないからではなく、私たちが存在していると信じている暗黙の相互理解が、実は厳密な意味での相互理解ではないからである。それゆえ、意識化された相互理解がどのようにして形成されるのかの解明は、私たちにとって全く未知の領域への挑戦なのである。私たちはまだそのような新しい型の相互理解がどのようなものであるかを知らない。」（17～8頁）

　このように数土が述べるとき、何かしら、個人に全知全能の神的知性を求めているように感じてしまう。私が数土の本を手にしたときに、個人の参画の仕方から社会を解明しようとしていることを感じて、これはひょっとして、自己神格化された現代人にとって、結構一般的な意識ではないかと見なしていた。ところが序章で、すでに神的意識が披露されてしまった、というわけだ。
　となると、どうしてこんな思考が生まれるのか、というところに興味がわく。皆がほとんど同じパターンで生活しているにもかかわらず、相互理解が暗黙のもので、これを言語化しようとすれば、そうすることができず、結果として相互理解の虚構性に突き当たる、ということは、人々の日常生活が、商品、貨幣、資本によって物象化されていることの帰結なのだが、このことに気づいていない数土は、どのようにして問題解決にむかうのだろうか。

2）理解しないままの共存

　終章　他者と生きるために、に移ろう。まず、他者を積極的に受容することの意義について、数土は次のように述べている。

「既に幾度も確認したように、他者を『理解できない』他者として積極的に受容していくことは容易なことではない。しかし、もし私たちが他者を『理解できない』他者として受容することに成功したならば、今までは得ることのできなかった様々な可能性を手にすることができる。したがって、『理解できない』他者を受容することを単に消極的に認めるのではなく、そこにより積極的な価値を見出すことが今後重要になってくると思われる。」（210～211頁）

　数土は、井上達夫の正義論を検討し、井上が、正義を基底とせず、他者への配慮にもとづかない自由を権力への意志に貫かれた自由とみなして、これを否定し、正義を基底とした自由主義を望ましい、としていることを紹介した上で、自由を「二つ以上の選択肢からの選択」（212頁）と定義づけ、絶対的自由の獲得は、選択肢を失わせるので、不自由へと転化する、と述べて、井上説を補足しつつ、他方で、井上の寛容論が、社会的弱者に対する関係を暗黙の前提にしていることを指摘している。そして、数土は、社会的強者としてある他者、自己の自由を奪いかねない他者とどう関係するか、というように問題を立てている。この場合、単に寛容であれば、存在を否定される可能性があるし、また単に自己主張するだけであれば、強者の支配は覆し得ない。そこで数土は「相手に寛容さを示しつつ、自己を主張する」（222頁）ことを提案している。

「もし私たちが生きることを目的にしているならば、他者に対して主張することをやめてはならない。他者に対して主張することをやめることは、結局は自分で自分の生の意味を否定することだからである。そしてそのような否定を回避するためには、他者を無条件に受け容れることをやめることである。また、もし私たちがより豊かな生を享受したいと考えるならば、私たちの世界から他者を排除することをしてはならない。他者を排除することは、結局は私たちの自由を貧しいものにするからである。したがって、仮に他者を無条件には受け容れないにしても、たからといって他者を排除するようなことがあってはならない。」（222～3頁）

　数土は序章で「私たちが意識しないまま他者と共に実践的に遂行している営みを意識化すること」（2頁）を目指していた。そして「相手に寛容さを示しつつ、自己を主張する」（222頁）という回答を得ている。何だかはぐらかされてしまった感がするが、しかしこのような態度はなかなかうまくとれるものではなかろう。そこで数土は、「他者を理解しないまま、他者と共に生きる可能性」（234頁）に注目する。そして、他者を相互理解可能なものと考えて、対話に持ち込むこと自体が一つの暴力となることを指摘している。

「私と他者がお互いに理解のしがたさを感じるときに、そうした感覚を無視してあくまでも相互理解のために話し合うことを他者に要請することは、他者に対して極めて暴力的に作用すると思われる。」（235頁）

　このような観点から数土は、理解できない状態を理解できた状態に変えようとするのではなく、理解できない状態をそのままにして、他者と共に生きていくことを模索すべきだと主張し、「相手に寛容を示しつつ、自己を主張する」のがその方法だと述べている。
　そしてそのためには、他者一般への注意能力を高い水準で維持するために、社会的知性をより練磨することと、「理解できない他者を受け容れるときに生じる不確定性の処理手続きの確立と、責任の明確化」（244頁）が必要だとしている。

3）結論の貧しさ

　数土の結論については、それでうまく行くのがよくわからない。しかし、「他者を理解しないまま他者と共に生きる可能性」という課題を設定したこと自体に意義はあると思う。そして、このような問題意識は若手の社会学者に共有されているようだ。奥村隆も『他者といる技法』でもっとわかりあおうとする技法とは別のもう一つの技法について次のように述べている。

「『わかりえない』とき『もっとわかりあおう』とするのではなく『わかりえない』けれど『いっしょにいる』ための技法、『わかりあえない』ままでひとつの『社会』をつくっていく技法」（249～50頁）

　この理解とは別の技法、わかりあえないままいっしょにいる技法について、「話し合う」ことをあげている。理解を深めていくような話し合い方ではなくて、これをわかりあわない状態でいっしょにいられる時間として捉えようというわけだ。この結論も正直あまりよくわからない。とまれ次に、奥村の基本的な主張について検討してみよう。

第2章　奥村隆の説

1）ふたつの社会学

　奥村隆は、著書『他者といる技法』（日本評論社、1998年）で、二つの社会学を区別している。ひとつは従来の社会学で、奥村によれば、それは社会を問う、というところから始まり、社会を改革しようという動機や社会病理を問うことなど、色々な立場があるが、共通なことは、社会に違和感を感じていることがあり、そして自身は問いの対象となる社会の外にいることになっている。つまり、「『社会』が自らのいる地点の『外』に、距離のある場所に存在することによって、彼らは自らと『社会』を引き離して、ふだん相対化・対象化しにくい『社会』というものを問い始めることができる」（10頁）と奥村は考えている。
　もう一つの社会学は、奥村が自らの課題としているもので、それは、社会のただ中に生きている人たちは、従来の社会学のように、自らを社会の外におく立場に異和観を感じており、自分の外の社会を問う、といった設問は有効ではなく、社会の中に居ながら問を立てることが必要だ、という考えにもとづいている。その問は具体的には次のように述べられている。

「私がいつもそのなかにいて、いつも私と切り離せない『社会』こそ、いや、そのように『社会』などと名づけることができるほど形をもったものでもなく（そうした名詞をつけて形にしてしまうと、いつもの実感からむしろとおざかってしまうような）、いま私がいて、それをとりまくぼんやりとしたなにか、その私となにかとのかかわりのなかで生じる違和と苦しみが（しかもそれらが居心地のよさやよろこびとセットになって）感じられるというその事態こそ問うべきものなのだ。」（14頁）

　このような問を立てる、というのは、一体どのような事態を予想しうるのか。奥村は、ひきつづき、次のように述べている。

「そこでは『社会』は、けっして外にあるのではなく、それぞれの人が作り、それぞれの人を作る、あるいはそれぞれの人のなかにすでに浸みこんでしまったものとして、そう簡単に身から切り離せないものとして感じられる。そして、それはそのようなものとして、比喩的にいいうならば、『私のなかにある』という地点で、問われなければならない。」（14～5頁）

　私のなかにある社会を問う、という問題のたて方は、従来の二つのタイプの社会学、「弱者」（社会病理）や「改革者」の立場から社会を問うものとはどのように異なるかについて、引き続いて、奥村は述べている。

「私と『社会』（という呼び名も思いつかないほど私は巻き込まれており、私と絡まりあっているなにか）がどうかかわり、そのなかで私はどのように生きており、私のなかに『社会』そのものを問う立場、――じつは、私というものを問うとき、その答えを探す過程で『社会』が登場するかどうかは、問い始める時点の当事者にはわかりはしないだろう。この立場から出発して、それぞれの人の身につき、その存在に絡みついている『社会』と呼ばれるべきものを、剥ぎ取って目に見えるようすること。このことこそが『弱者』でも『改革者』でもない立場からの『社会学』には必要なことであり、そうした問は、これまで述べた『社会学』の立場からは、けっして登場しないように私には思われるのである。」（15頁）

　このあと、私のなかに問を立てようとする奥村は、自らの社会学が心理学の方法と近接していることについて述べた上で、その違いを強調しつつ、自らの社会学を次のように構想している。

「『こころの外』『私の外』にあるなにかによって私が働き動かされていて、それがふだんは私と切り離せず『外』にあるとは見えないまま『私のなか』に入り込んで私は力を及ぼしていることに気づき、このふだん名づけようもない力をたとえば『社会』と名づけてその力をくっきり描くことができれば、それは私の違和や苦しみを解明し、解決する可能性を開いていくだろう。私は、そうした『社会』のいくつもの力の線によって貫かれていながら、その力の線はふだんきわめて見えにくく（『無意識』の力の線が対象化できないのと同様に）、それゆえその力に私たちは振り回されることがある（『無意識』の力に振り回されるのと同様に）。私がいう『社会学』は、そうした力の線を少しずつなぞって見えるようにして私のなりたちを明確にし、私のなりたちを描くことを通してそうした私を貫く力の線そのもの＝『社会』を描く、という作業の全体である。」（16頁）

　この構想はなかなか面白い。次に、奥村の作業にそって、この構想が実現されているかどうかについて見ていこう。

2）社会の原形

　第1章　思いやりとかげぐちの体系としての社会で、奥村は、社会の原型についての自らの考えを提出している。社会を記述しようとすれば、ある有効な視点を選ぶことが必要となり、たとえば生活のための物質的手段の生産と領有という視点も一定の有効性をもつが、これとは別に、奥村は、他者による承認という問題に注目している。そして、これをさきに述べた視点に加わるもう一つの視点として、定めようとしている。

「人間がどうしても『社会』を形成せざるをえないもうひとつの契機――私は、ここで、他者による『承認』という契機に着目しようと考える。社会は、自分ひとりでは獲得し得ない存在証明のために、人々が他者からの承認を求めて形成するもの、という視点から記述することができるのだ。存在証明を分け与えあう人々のつくる社会、〈承認の体系としての社会〉。これが、存在証明の視点からみた、社会の『原型』なのである。」（36頁）

　奥村はレインの説に依拠して個人のアイデンティティが、他者による自己の定義づけがあってはじめて確かなものになると述べ、他者が私を承認することが、私の存在証明を補い、完成すると主張している。そしてこのことから、不安が生じるとしている。

「他者が、私を、承認する。――これによって、私は私の存在を確かめ得るのであった。しかし、このことは次のことを意味する。すなわち、私の存在証明は他者の承認に依存する、私の存在は他者次第である。ここでは、他者が『主体』であり、私は他者という『主体』にとっての『客体』であるにすぎない。この関係が重要になればなるほど、他者が『主体』であり、私が『客体』であるという様相は強まってゆく。そこでは、次のような不安が生じるだろう。私のアイデンティティは他者という『主体』に『呑み込まれる』のでないか。……他者は、自己、すなわち私が自律的に行為する能力にとって著しい脅威となる。」（37頁）

　奥村によれば、私は他者による承認を必要としているのに、この他者が主体となり、私の力ではコントロールできない領域にあることで、承認されるかどうかは、賭けという性格をもってしまう。二つの主体が相互承認の場に出会うと、自らの存在証明を得るためには互いに他者を主体としなければならなくなり、自身の主体が奪われるので、それを奪われまいと闘争が生じる。

「これを『主体』相互承認とよんでも、状況定義権（権力）をめぐる闘争と呼んでもよいだろう。ここでは、〈葛藤の体系としての社会〉と呼んでおこう。存在証明を奪い取りあう人々のつくる社会。社会とは、存在証明をめぐる否認・闘争・葛藤の場として、記述することができるのである。」（40頁）

　ヘーゲル『精神現象学』の自己意識の相互承認論をなぞったような展開だが、これとの対比は後で試みることにして、奥村は、承認といってもそこには闘争や葛藤が含まれているとし、最終的に社会の原型についての定義を行っている。

「こうして、存在証明の視点から、ひとつの社会の姿が浮かび上がった。私は、これを『原型』としての社会として措定しようと考える――私と他者という複数の『主体』がつくる、〈承認と葛藤の体系としての社会〉。これを基準として、現実の社会との『距離』を測定しようと思うのだ。そして、この原型からみることで、私たちが日常採用している社会をつくる形式・技法が、以下のような姿をもって浮かび上がってくるのである。」（41頁）

　このように述べたあと、奥村は、承認の技法を「思いやり」におき、葛藤を「かげぐち」において、社会をつくる技法について述べている。節をあらためて、奥村の説を追ってみよう。

3）思いやりの体系

　奥村によれば、他者という、私たちにとってはコントロール不可能な力をもった主体から承認されることで、自己の存在証明を得るということが社会の原形をなしているのだから、この他者からの承認ということが稀少かつ危険性をともなったもので、そのことで生み出される不安と痛みを減らしていくものとして、「思いやり」という技法があるとされている。そして、この技法によって、社会は原形から転形される。

「望まれるのは以下のことだ。こうした『稀少性』や『危険性』を最小限にしながら、私の存在証明を確保したい。他者によって『客体』へ貶められる不安や他者の『主体』を剥奪する痛みをできるだけ排除し、いわば『相互―主体』化を可能にする仕組みを形成したい。そのためには、おそらく、他者という『主体』のコントロール不可能性を小さくすることが必要となるであろう。いいかえれば、他者を『安全』な存在にし、相互行為の『賭』的性格を排したい。いかに存在証明（あるいは承認）が他者から与えられるしかないものであるにせよ、できるだけ私という『主体』にコントロール可能なものに近づけなくてはならないのだ。その技法を彼らは必死になって発明しようとするであろう。」（42頁）

　「思いやり」の技法について、奥村は、一方がわざわざ「思いやり」を示すことで、それに気づいた他方もわざわざ「思いやり」を返し、そのことでお互いに敬意を与えあい、確保しあい、これが繰り返されることで「思いやり」は互酬的なものになり、こうしてあらかじめ、お互いの存在証明をあつらえあう制度ができあがる、というように説明している。
　しかし、社会の原型には、承認と葛藤という相対立する契機があった。だから、「思いやり」の技法にもとづく転形社会にあっても、実は葛藤という契機を解消できずに隠蔽できるだけだ。そこで、「思いやり」の体系は、思いやれない存在という異物を排除することで保たれ、そして、この排除については、主体どうしが自らの責任で排除した、という痛みをともなわない方法として、病気として処理される、と奥村はつけ加えている。
　ところで、病気として排除し切れない人々の領域で、相変わらず葛藤は残されている。「思いやり」競争を続けていっても、葛藤それ自体は解消できないから、いつ存在証明の危険性に陥るかわからない。

「この問題を解決すべく案出されるのが『かげぐち』の領域である。〈思いやりの体系〉のなかでの存在証明を危険にさらさないようにしながら（葛藤を惹起するわけにはいかない）、『真実性』問題を解決する（他者を承認しつづけるわけにはいかない）技法、これは、この領域にしか求め得ないのである。」（51頁）

　ところで、かげぐちには、うしろめたさの意識がともなっている。

「『かげぐち』のリアリティは『真実性』問題を解決するように利用される一方、『思いやり』のリアリティを傷つけないような位置に押しやられ、分離される。ここで『主体』は開かれるが、それは『思いやり』の〈体系〉を破壊するような開かれ方ではけっしてない。開かれながら、〈体系〉のなかにあることを越えでないよう慎重に調整されている。『かげぐち』の領域もまた、『思いやり』の〈体系〉のなかに位置づけられ、〈体系〉に許されながら生きつづけているのである。」（54頁）

　このように、奥村は、「思いやり」と「かげぐち」という通常対照的な評価をされる事柄が、実は「思いやり」のリアリティを維持するためにこそ、「かげぐち」が必要になった、というように、結びつきあったいると主張している。

第3章　イデオロギーとしての自己神格化

1）両説へのコメント

　数土の社会論の大枠は、次のようなものだ。まず、社会は一人ではつくれない、という前提から、他者と、他者との関係が導入されるが、この他者は私にとっては暗黙の前提であり、従って、社会は、私と他者との間の暗黙のうちの相互理解によってつくられる。ところが、この暗黙のうちの相互理解を言語化しようとすれば、それは不可能であり、従って、この理解は言語化された理解ではなく、ある種の虚構として成立している。そこで、新しい形の相互理解をつくりだすことで、新しい社会を構想することが必要となるが、それは、この暗黙の相互理解を徹底して理解しあおうと努力するのではなく、理解あえないまま他者と生きていく努力から始まる。そのための方法は「相手に寛容さを示しつつ、自己を主張する」ことだとされている。
　次に奥村の場合は次のようだ。まず、社会を私の外にあるものとしてではなく、私のなかに入りこんでいるものと捉えるところから出発し、私に働きかけて、私のなかに入りこみ、無意識的なものとなっている力の線そのものを描く作業が社会の解明だとみなしている。次にその力の線の一つとして、自己のアイデンティティが他者からの承認にもとづくというレインの説を受け入れ、他者による承認という事実から社会を考察していく。ところが、この承認の関係にあって承認する主体は他者の方にあり、私の力ではコントロールできないので、承認を求める葛藤が起こる。このように考えた奥村は、社会の原型を「葛藤と承認の体系」と見ている。社会がこのような原型をなしているので、現実の社会は「思いやり」の技法と「かげぐち」の技法が発展せざるを得ず、こうして、社会は「思いやりとかげぐちの体系」へと転形していく。この社会はわかりあえないものを「病者」として排除していく構造を持つが、この欠陥をなくしていくためには、わかりあえないものについて、もっとわかりあおうとするのではなく、わかりあえないけれどいっしょにいるための技法、わかりえないままでひとつの社会をつくっていく技法が開発されるべきだとしている。
　この二人の説に共通しているものは、まず、個人から出発して、社会を解明しようとしていることである。次に社会を個人の無意識的な行為によって形成されるものと、と見ていることである。第三に、この無意識的な行為（相互理解）は理解しあえるものではないとされている。そして、第四に、理解しあえないものを理解しあおう、という方法ではなく、わかりあえないまま社会をつくる技法が必要だとしている。
　このような共通した考え方は、私にとっては、自己神格化した現代人の思考そのものの体系化のように見える。そして、彼らが提案している技法は、この自己神格化した個々人を前提にした社会形成論のようだ。私はこの自己神格化の一定の意義を認めつつも、それを前提した社会形成論には無理があると考えている。ではどうすればいいのか、とりあえず、ヘーゲルの『精神現象学』の承認論のおさらいから始めよう。
　その際、あらかじめ、私の問題意識をまとめておこう。ヘーゲルは、意識を類的なものと捉えている。だからこれは個の属性でありつつも、自我と対象（自我も含む）との関係であり、ヘーゲルの自己意識とは、自我を対象とする自己の意識のことだ。意識を類的なものと捉えると、意識をもった個人は、生身の人間であると同時に、意識という類的なものの個別化したものとして、二重の存在であり、意識の世界では生身の人間は同時に類としての個としてもあることになる。
　だから、社会を考察するときに、生身の個人に属するものとしてしか意義をもたされていない意識をもった個人から出発すること自体が、社会を捉えそこなう原因になる。奥村が「私のうちの社会」というのなら、生身の個人が、生身のままで社会（類）の化身となっている、ということを認めることが必要だと思われる。こうした自己意識についての考え方を、ヘーゲルに則して示そう。

2）ヘーゲルの承認論

　ヘーゲル『精神現象論』（樫山訳　河出書房新社版　原典のページ数を示す）自己意識のところで展開されている承認論をまとめてみよう。
　ヘーゲルにあっては、自己意識とは、まず、意識自体を対象とする意識である。それは何よりも生命としての特徴をもっているが、個別的な生命体（身体）と比べれば、自己意識とは、「類を類として認め、自分自身でも類であるような、この別の生命」（138頁）である。そして、自己意識＝自我の、この類としての規定のうちに、承認をめぐる闘争が内包されている。

「単純な自我は、形を与えられた自立的な契機を否定する実在であるからこそ、前に言った類である。すなわち、諸々の区別を区別としないような、単一な一般者である。そこで自己意識は、自分に対し独立な生命として現れる他者を廃棄することによってのみ、自己自身を確信している。だから自己意識は欲求である。自己意識は、この他者が空しいことを確信して、この空しさを自分の真理であると自分だけで認め、この他者という独立な対象を空しくし、そのため、この確信を真の確信として、つまり自己意識自身からみると、対象的な形で生じてきた確信として、自分のものとする。」（139頁）

　個別的な生命体としてある自己と他者はそれぞれ類であるような別の生命としての自己意識にとりつかれている。この別の生命はそれ自体が類としてある以上、他者の自己意識を廃棄しようとする欲求をもつ。他者という独立な対象を空しくすることで成立する類としての自己意識は、しかし実は、対象により制限を受けている。というのも、欲求はこの他者を廃棄して得られたものだが、そういうふうに廃棄するためには、この他者は存在していなければならないからだ。だから、類としてある自己意識は、実際には、一つの自己意識がもう一つの自己意識に対してある一つのあり方だ、ということになる。このように展開したあとで、ヘーゲルは、承認の考察に入っている。

「自己意識は、自体的にまた自分で他の自己意識に対しているとき、またそのことによって、即且対自的に存る。すなわち、自己意識は他の自己意識から承認されたものとしてのみ存在する。」（141頁）

　ここでヘーゲルが述べている自己意識を、個々人の属性と捉えると、承認論は捉え損ねられる。「自我は関係の内容であり、また関係そのものである」（134頁）というヘーゲルの立場からすれば、自己意識は、自己と他者という両極に覆いかぶさっているのだ。このように捉えるところから、承認論の解読がなされねばならない。

「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。このことは二重の意味を持っている。まず自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が他方のもう一つの実在であることに気がつくからである。次に、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、他者のうちに自己自身を見るからである。
　自己意識は自らの他在を廃棄しなければならない。このことは最初の二重意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重意味である。まず、自己意識は他方の自立的な実在を廃棄することによって、自分が実在であることを確信することに、むかって行かねばならない。そこで次に、自己自身を廃棄することになる。というのは、この他者が自己自身だからである。」（141～2頁）

　自己意識を、自己と他者というこの関係における二つの極のそれぞれの意識と捉えていたのでは、このくだりは理解できない。自己意識を、自己と他者という両極に覆いかぶさっている生命的なものと捉えると、他者の自己意識は、自分の自己意識が外に出ていったものとなり、そしてそうすることで、自分の自己意識を失わせつつ、他者の自己意識に自己自身を見、他者の自己意識を廃棄してしまうことが了解できる。
　そして、このような自己意識の運動は、自己から発せられるだけでなく、他者からも発せられるから、この運動は両方の自己意識の二重の動きだということになる。これは分かたれることなく、一方の行為であると共にまた他方の行為でもある。これは「両極に自ら分裂する自己意識」（142頁）である。ここから「両方は、互いに他方を認めているものとして、互いに認め合っている」（143頁）という想定がなしうるが、しかし、承認という概念からすれば、この想定は、単に頭の中だけのものとなる。というのも、承認とは、「一方はただ承認されるだけなのに、他方は、ただ承認するだけである」（143頁）という両極の不等性を含んでいるからだ。
　こうして現実には、自己意識の両極は、それぞれの自己意識を承認させるための闘争へと進まざるを得ず、闘争に立たなかった方の極は、自立的な自己意識として承認されることはなく、逆に、相手を承認してしまうことになる。こうして、意識は独立した意識と非独立的な意識、主と奴、という二つの対立した形態をとる。以上がヘーゲルの承認論の前提にある自己意識論の概略である。

3）新たな出発のために

　このようなヘーゲルの承認論からすれば、レインが個人のアイデンティティを他者による承認に求めた事は、承認という事態の一面しか捉えていない事になる。承認が両極にまたがる自己意識の問題として捉え直される事が必要だと思われる。
　例えば奥村はレインの説を次のようにまとめて、それを自らの社会の原型論を導く手がかりとしている。

「他者が、私を承認する――それが、私の存在証明を補い、完成する。そして同様に、私が他者の存在証明を、他者ひとりでは得られない承認を与える事で、補完する事もある。レインはこれを『補完性』と呼ぶが、社会は、いわば、この『補完性』の体系としてひとびとに要請され、形成される。」（『他者といる技法』35頁）

　これは逆ではないのか。自己と他者との承認の関係が、自己と他者の自己意識に先行しており、自己と他者とが承認関係の両極あることでもって、相互承認がなされている。ところがこの関係が、一方の極である自己にとっては、他者が私を承認し、かつ私が他者に承認を与える関係であるかのように思われるのだ。
　だがこの承認の関係にあっては、両極に立つ個々人はそれぞれ生身の人間でありながら、同時に類の化身として形態規定されあっている。数土が「暗黙のうちでの相互理解」といい、奥村が「無意識の力の線」と呼んでいるもの、これは実は人間の社会関係のうちで個々人が受け取る形態規定の産物である、生身の個人がそのままで類の化身となる事でもたらされているものではなかろうか。

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