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瀟䌚孊―自己ず他者: 氞井vs倧庭の珟堎から芋えるもの
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氞井vs倧庭の珟堎から芋えるもの


第1章 氞井説ぞの評䟡


 氞井均が『〈私〉の存圚の比類なさ』けい草曞房、1998幎で倧庭健を批刀しおいたので、い぀か、䞡者の論争に぀いお怜蚎したいず考えおいた。そしお、いたやっず、䞡者の関連文章を぀き合わせお、䜕が問題になっおいるかを考察する䜜業に取りかかる事が出来た。
 たず、私自身の氞井の哲孊ぞのコメントを玹介しおおこう。『情況』1991幎9月号に発衚した「根源的他者ず䟡倀圢態論」1991幎7月18日付で、私は氞井哲孊に぀いお、「哲孊の越境を求める他者論」ずいう小節で、次のように述べた。

哲孊の越境を求める他者論


 哲孊的思惟に匕導を枡そうずしお倱敗したゞゞェクずは逆に、氞井均は哲孊的思惟にこだわるこずによっお、その極限にたで到っおいる。圌は哲孊的省察の内郚から、本源的な他者を指定しようずしおいる。
「では本来の意味での他者ずは䜕か。それはすなわち、『䞖界に察する態床』であるような私の他人意識によっおは決しおずらえられないもののこずである。他者が存圚するずいうこずは、たさしく、私が倖から芋たり、近づいたり、たしおや入りこんだりするこずが決しおできない䜕かが存圚する、ずいうこずなのではあるたいか。蚀いかえれば、他我認識の䞍可胜性においおこそ、他我の存圚は成り立぀のではなかろうか。他者は私の『䞖界に察する態床』の䞀郚ではない。それはむしろ、そうなるこずを培底的に拒むずころにこそ存圚するものなのだ。なぜならば、他者は物のような䞖界の䞀郚ではなく、そこからも䞖界が開けおいる、䞖界の原点だからである。䞖界の䞭にある物ず䞖界を開く他者ずでは、その存圚の意味はたったく異なっおいるはずなのである」『魂〉に察する態床』、二〇䞀頁

 氞井が根源的な他者を導き出す前提ずなっおいるものは、「私」ず区別された〈私〉の措定である。この私〉は䞀぀の抜象化された抂念であるが、思考が通垞の仕方で抜象化する方法を排陀したうえで、その抂念が圢成されおいる。
 思考が私を抜象する堎合、䜕よりも他人から区別する。こうしお抜象された「私」にずっおは、他者は他人ずなる。氞井はこのような構造のうちにある他者関係を他者関係ずは認めない。圌は私〉に぀いお次のように述べおいる。
「䞖界には、無数の『私』たちずは別に〈私〉が存圚する、ず。〈私〉には隣人がいない。すなわち、䞊び立぀同皮のものが存圚しないのである。どうしおそんなものが存圚しおいるのか。それはわからない。しかし、その存圚の構造は、いくらかは解明するこずができるず思う」『〈魂〉に察する態床』、二二五頁

 氞井自身が、自らの哲孊的省察によっお、〈私〉の存圚に぀いおどのように解明しおいるかには実のずころ興味はない。重芁なこずは圌がここで、類ずしお存圚しおいる個を〈私〉の内容ずしお措定しおいるこずである。氞井は〈私〉に぀いお、同皮のものの存圚を吊定しおいるから、圌はこれを類ずしお措定しおいる。しかも、この〈私〉は、個ずしおある「私」ずいう人間の「いかなる性質ずも無関係に成立しおいる」二二五頁ずされおいるから、この〈私〉は、自然人ずしおの「私」ではなくお、この「私」が瀟䌚関係によっお圢態芏定されたものでなければならない。
 そうだずするず、この〈私〉は思考が行う分析的抜象によっおではなく、䟡倀圢態に芋られる綜合による抜象ず類䌌した方法で措定されたものずなる。氞井が〈私〉の抂念に぀いお、䌝達䞍可胜だず考えるのも、圌が〈私〉を他の倚くの「私」ずの綜合によっお類ぞず抜象しおいるからで、哲孊は、この皮の抜象に぀いお了解しあえる論理をただ䞀般化しえおいないのである。
 この点に぀いお圌がどれだけ自芚的にそうしおいるかはわからない。だがデカルト的な「私」の他に、この私が類ずしお存圚する個である〈私〉でもあるこずの発芋ず、そこからの他者の展開は、人間の思考の様匏ずは異なる様匏の思考圢態が存圚しおいるこずの承認ぞず向わざるをえないであろう。
 氞井によれば、〈私〉は隣人をもたないが、魂は隣人をも぀。この魂を抜象し、隣人をもたない〈魂〉を措定するこずによっお、はじめお他者の〈魂〉を措定しうる。ここで圌が語っおいる魂は、類の実䜓であり、圌は「魂」の他に〈魂〉を措定するこずによっお、異なる類、぀たり他者を措定するこずができた。
「他者を、すなわち他の〈魂〉を発芋するずは、どんな盞互性も成り立たない、その向う偎にあるものを、〈私〉の䞖界には決しお入り蟌んでこない、根本的に異質なもうひず぀の䞖界の原点を発芋するこずである」『〈魂〉に察する態床』、二䞉䞀二頁
 「他者ずは、い぀も぀ねに、隣人をもたないものの隣人である。それは、決しお到達するこずのできない、根本的に異質な、もうひず぀の䞖界の原点であり、理解しあうこずも、助けあうこずも、぀いには䞍可胜な、無限の距離をぞだおた、あたりにも遠い隣人なのである。〈魂〉に察する態床ずは、それゆえ、それに向かっお態床をずるこずができないものに察する、愛や共感や理解を超えた態床なのであった」『〈魂〉に察する態床』、二䞉五六頁

 文字ズラを远うだけでは、これは䜕ず蚀っおいるのかわからない。だが、ここでの他者に、思考の倖にある思考圢態、たずえば䟡倀圢態を眮いおみよう。そうすれば、圌の䞻匵には珟実性があるこずが明確ずなる。
 自然界には他にも思考圢態がある。たずえば量子䞖界がそうである。生成・発展・消滅をくり返す量子達は、抜象し刀断する思考圢態をもっおいる。そしお、この思考圢態が、人間の思考の様匏ずは異なるこずも、倚くの実䟋で瀺すこずができる。
 氞井の他者論は、哲孊的思惟の内郚から、思考の倖にある思考圢態に接近する詊みである。この思考圢態が、人間の思惟ずは異なる仕方で存圚しおいるために、圌は察象に接近すればするほど、察象ずの距離を感じるこずにならざるをえなかった。こうしお圌は逆説的に、哲孊の死を語っおいるのである.


 このように曞いたずき、私は、氞井が䟡倀圢態論に取り組んでくれたら面癜い、ず考えおはいたが、別に期埅しおいたわけではない。その埌の氞井の業瞟をみる限りでは、そうした詊みはなされおはいないようだ。
 氞井は、先に䞊げた著曞で、倧庭が自らの䞻匵ずは党然異なる内容を氞井の説ず考えお議論しおいお、党然批刀になっおいない、ず述べおいる。今回、倧庭の本を読んでみお、私も倧庭が氞井の䞻匵を捉え損なっおいるず思う。でも、倧庭にずっおは、捉え損ねられた氞井説にすごくこだわっおいお、再䞉批刀を詊みおいる。『私ずいう迷宮』専修倧孊出版局、2001幎にいたっおは、「私探し」にハマッタ人たちが陥る最も悪いケヌスずしお、氞井説が䞊げられる始末である。
 䞡者のやりずりを芋おいお、この論争がお互いの説にどのような圱響を䞎え合いあったか、ずいったこずに぀いおは考慮の倖におく。ここでは、先に匕甚しおおいた私の氞井哲孊ぞの評䟡から出発し、䞻ずしお倧庭の「自己組織システム」に぀いおの議論の枠組み䞊の欠陥を明らかにするこずを通しお、双方の議論におけるすれ違いが䜕に起因するかを瀺し、そうするこずで、瀟䌚を分析する「文化知」の実践を開瀺したい。

第2章 倧庭説の抂略ず疑問点


1珟代人の䞍本䜍感から出発


 倧庭はその䞉郚䜜、自己組織システムの倫理孊の最終巻『自分であるずはどんなこずか』けい草曞房、1997幎で、自己の著䜜の問題意識に぀いお明らかにしおいる。それは、珟代に生きる人々が生掻するにあたっお「みずから遞んだのではあるが、しかし本意ではない、ずいう䞍本意感が蔓延しおいる」247頁状況を解明しよう、ずいうずころから出発し、瀟䌚から距離を眮きたがる人々に察しお、個々人が瀟䌚の環境ずしお存圚し、個々人が行動を通しお、瀟䌚に参画しおいる様を描き出し、個々人の参䞎が瀟䌚システムを盞移転しおいく方向性を瀺すこずによっお、「私探し」ずは異なる生き方を提案しようずしおいる。
 序章では、自発的だが、本意ではない、ずいう䞍本意感そのものの解明がなされおいる。この䞍本意感に぀いお、倧庭は「自分が日々やっおいるこずが、自分自身から芋おも、どこか䞍本意である」3頁ずいう、自分の日垞に぀いおの自己評䟡が働いおいる、ずいう前提を考察の出発点にしおいる。そしお、この䞍本意感を次の6項目に類別しおいる。
「1やりたくもないのに、無理矢理やらされおいる。
 2やりたくはないが、やらざるをえない。
 3やりたくないわけではないが、自分がほんずにやりたいこずでもない。
 4やりたくないわけではないが、自分がやるべきこずずは思えない。
 5やりたくおやっおいるが、自分がやるべきこずだずも思えない。
 6やりたくおやっおいるが、自分が『このために生き、このために死ねる』ずいう気がしない。」4頁

 倧庭によれば、6項目のうち、1ず6は䞡極ずなる。1は自由の剥奪・隷属ずいう問題であり、6の堎合は、実存的な真理の問題で、倧庭はこの䞡極を陀倖し、25の「グレヌゟヌン」に぀いお考察しおいる。
 その際に問題の鍵が二぀あり、䞀぀は「自分がほんずうにやりたい」ずいうずきの「自己」ずいう抂念であり、もう䞀぀は、「いたの瀟䌚ではこうした䞍本意感が、ごく自然であり」ずいうような思考にあらわれおくる「瀟䌚」ずいう抂念だずいう。そこで倧庭は「自分であるずは、どういうこずか」ず「瀟䌚の䞭にいる、ずいうのはどういうこずか」ずが、解明すべき䞭心的課題であるず蚭定しおいる。
 「自分であるずは、どういうこずか」に぀いお、倧庭は䞍本意感をも぀自分から出発する。1や6の䞡極を陀倖すれば、「やりたいこずをやれお、やりたくないこずはやらなくおすめば、ほんずうに自分らしく生きられるのか」6頁ずいうこずが問題ずなる。
 ずころで「やりたいこずをやりたいようにやれる」こずになったずしおも、必ずしもほんずうに自分らしく生きたこずにはならない、ずいうこずを倧庭は「やりたいこず」が耇雑で、それ自䜓がさたざたに衝突しあっおいる欲求や願望などから立ち䞊がっおくるこずを指摘するこずで説明しおいる。そのうえで、ほんずうにやりたいこずが、自分でも明確でないケヌスをずりあげおいる。
 自分は自発的に「やったほうがいい」ず思うこずや、呚囲から期埅されおいるこずをやるこずや、自ら欲求するこずをやっおいるず思っおいるが、この堎合の自分の意思や欲求がほんずうの自分のものか、ずいう䞍本意感がこのケヌスでは生じやすいし、そしお、ここから「ほんずうの自分」を求める「無限埌退」がはじたる、ずいうのだ。
 この「無限埌退」の特城は、最初は「ほんずうは自分はなにを  」ずいうように、副詞ずしお䜿われおいた「ほんずうは」が、知らずしお、「ほんずうの」自分ずいう圢容詞ぞず転化しおいるこずにあるず倧庭は分析する。
「ここではじたる『ほんずうの自分』さがしは、瀟䌚の圧力ず密接に絡みあっおいる。ずいうのも先にみた1、6の䞡極端はひずたず措くずしお、2から5のような䞍本意感が反転しお、『自分は、呚囲から期埅されおいる圹割の遂行噚でない』ずいう自芚が生じるこずによっお、『ほんずうの自分』探しがはじたったからである。したがっお、ここではすでに『ある圹割の遂行を期埅しおくれる瀟䌚の力』ず『この自分』ずいうかたちで、『自己ず瀟䌚』が問題ずなっおいる。」14頁

 生きおいく䞊での䞍本意感をもった自分から出発しお、「自己ず瀟䌚」ずの関係たで説いおきた倧庭は、ここで「無限埌退」的思考のゆき぀く先ずしお、瀟䌚を各自が自分らしく生きるこずを蚱可しない拘眮所のように考え、所詮、瀟䌚の䞭にいる限り、ほんずうの自分にはなれない、ずいう出家幻想が頭をもたげ始め、こうした出家幻想によっお氎脹れした䞍本意感が䞀぀の臚界倀を越えるず、生身の他者をほんずうの自分探しを邪魔する有象無象ずしお十把䞀からげに無芖し、ひずり、「ほんずうの自分」を実珟しようずする極め぀けの゚ゎむズムが生じる、ずしお、オヌム真理教の事件を暗瀺しおいる。
 こうした「無限埌退」に陥らないために、倧庭は、瀟䌚の力ず自分ずの関係に぀いお考察が必芁だずしおいる。それは「適応ず排陀ず“脱萜”の狭間でサバむバル生き残りし぀づけねばならない、自由な瀟䌚の力であり、その瀟䌚での自分である」16頁ず蚀う問題だずされる。
「瀟䌚の力ぞの適応ずいう問題は、先の諞皮の䞍本意感を考えるずきに無芖できない。ずいうのも、いかに自ら遞んでなにかやっおいるずしおも、その遞択そのものが、瀟䌚の圧力に芏定され『いたの瀟䌚では、こうしかできない』ずいう諊めにもずづいおいるならば、先のような諞皮の䞍本意感が容易に生じうるからである。」17頁

 倧庭は、人―間ずしおの䞍本意感を「瀟䌚の力ず自分であるこず」を問うずするず、䞀぀は、自分のやりたいこずがどのように生成し、自分の行為ずなっおいるか、ずいう自分らしさの《察自》的な偎面」18頁ずなり、他方では、盞手がいるから、やりたいこずをやれたり、やれなかったりする、ずいう「自分らしさの《察他》的な偎面」18頁にもなるこずを指摘した䞊で、埌者に぀いおの考察から始めおいる。

2行為ず瀟䌚


 第䞀章、自分の行為ず瀟䌚で、倧庭は、瀟䌚ずは個人を芁玠ずするシステムだ、ずいう考え方に疑問を呈しおいる。システムずは、「芁玠のあいだの関係が定たっおいる集合」23頁であるから、先の芋解は、瀟䌚ずは関係によっお぀ながりあった諞個人のシステムだ、ずいうこずになるが、このように考えるず瀟䌚の最も基本的な性質が説明できなくなる、ずいうのだ。ずいうのも、メンバヌが入れ替わっおも瀟䌚は同じ瀟䌚ずしお存続するが、このこずが説明䞍胜だからだ。たた、瀟䌚が個人の集合ずいうレベルを超えお自己運動しおいるように芋えるこずも説明できない。そこで倧庭は、瀟䌚の芁玠を行為ず捉え、個人を行為によっお瀟䌚に参画する存圚、ずいう意味での瀟䌚の環境ずみなす考えを提起しおいる。
「では個人のあいだで成り、か぀瀟䌚システムの芁玠ずなるこずずは䜕だろうかすぐ思い぀くのは、諞個人のあいだで遂行され、぀ながりあっおいく行為である。するず瀟䌚の芁玠は、行為であり、瀟䌚は、芁玠ずなる行為が関係しあっお出来おいるシステム、簡単にいえば《行為システム》である。」26頁

 倧庭によれば、瀟䌚ずは、個人を芁玠ずするシステムでもなく、たた、個々人ずは独立に存圚するような超個人的なモノでもない。瀟䌚は個人なしには存圚しないが、しかし、瀟䌚は個々人にずっおは倖圚的な存圚であり、これを逆に瀟䌚から芋るず、個々人は瀟䌚にずっおは倖圚的で、瀟䌚システムの環境ずしお捉えられるべきなのだ。
 瀟䌚をこのように定矩するず、盎ちに「行為」ずは䜕か、ずいうこずが問題ずなっおくる。「そもそも行為ずは䜕であり、たた行為のあいだにどんな関係があれば瀟䌚が存圚するのだろうか」28頁ずいう問が出おくる。
「われわれは、そのように意図を問いあい、意図を理解しあえるこずによっお、はじめお人―間でありえおいる。遞択的に振舞うずきの意図に぀いお、たがいに問い合うこずができ、たがいに答えあうこずができる、ずいうずころに人―間ずしおの責任のいちばん倧切な局面がある。そうするず人間の堎合、瀟䌚の芁玠は、単に因果的な身䜓的振舞いではなく、その振舞いにおいお・遞択的な《意図》ゆえに《意志》によっお遂行され・理解される行為である、ず考えるこずもできよう。」32頁

 倧庭によれば、瀟䌚の芁玠ずしおの行為ずは、遞択的な意図にもずづいお、意志によっお遂行される行為だ、ずいうこずだが、このように考えるず、今床は、意志ずは䜕かが問われおくる。
「《意志䜜甚》ずは、1生理・物理的な因果連鎖には巊右されない䜜甚であり、2そうでありながら、生理・物理的なできごずを匕き起こす原因ずなり、3しかも、それ自身は、いかなる原因ゆえの結果でもない『自己原因絶察的な自発性』の働きだずいうこずになる。」35頁

 このように定矩づけるず、意志を物理的・化孊的な原因ずは別皮の非物質的な「意志䜜甚」を想定すべき、ずいう芋解が導かれるが、倧庭はそのような想定は必芁ないずし、「ある仕方で脳状態が盞転移するずいうこずが、すなわち『意志がはたらく』ずいうこずなのである。」42頁ず䞻匵しおいる。そうだずするず、身䜓的な振舞いず意志にもずづく行為ずはどのように区別されるのか、これは端的には「それ自䜓ずしおは身䜓運動にすぎないものが、ある意味をも぀、ずはどういうこずなのだろうか」47頁ずいう問ずなる。
 これに察する倧庭の答えは単玔である。人間の堎合、ある身䜓的な振舞いにおいお、耇数の異なった行為が遂行されお、遂行された行為ぞの応じ方もたた耇数通りあり、遞択的に遂行されねばならず、そしお、このこずが行為が意味をも぀こずだ、ずいうのだ。しかも「意味ずいう人―間の遞択の圢態は個々人の『意図』ずいう心の出来事には回収できない公共性・瀟䌚性を垯びおいる」54頁ずいうのだ。であるならば、環境ずしおある個々人が行為によっお瀟䌚参画したずきのその行為から、公共性・瀟䌚性が導き出されねばならない。

3行為の意味


 倧庭は、第二章で、意味ず意図を手がかりに、行為自䜓のうちから、その公共性・瀟䌚性を導き出そうずしおいる。私芋によれば、ここでの展開が倧庭のこの本の䞭軞をなしおいる。倧庭倫理孊は、たさに、ここでの論議の成吊にかかっおいるのだ。
 倧庭も認めおいるように、「意味ずは、そもそもはじめから間䞻芳的か぀時間的な存圚性栌を垯びおいる」62頁のだから、行為に意味を認めたずたん、行為の公共性・瀟䌚性に぀いお明らかにしないたた、それを公共的・瀟䌚的なものずしお䜍眮づけおしたうこずになる。はたしお倧庭の説はこのような公共性・瀟䌚性の密茞入から逃れられおいるだろうか。
 ずころで、倧庭が意味を間䞻芳的、時間的な存圚性栌をも぀ず芏定したずき、倧庭自信の論理構成ずしお、行為における意味の生成過皋を蟿るこずで、行為の分析にあおようずしおいるこずが刀明する。意味の間䞻芳性ずは、瀟䌚の環境ずしおある自分が瀟䌚に入力した行為は、同じく瀟䌚の環境ずしおある他人ずの関係においお意味づけられる、ずいうこずを指しおおり、そしお、だから圓然にも、意味は事埌的にしか確定しない時間性をも぀、ずいうわけだ。では倧庭によっお説明されおいる行為における意味の生成の珟堎を芋おみよう。
「そもそも行為は、自分の振舞いが盞手によっおどう受けずめられるか、ずいうこずに぀いおの予期があっお、぀たり、予期ずいうかたちで未来を先取りするこずによっお、はじめお有意味な行為でありうる。」63頁

 ここに到っお、行為そのものから、その公共性・瀟䌚性を導き出すこずを期埅するずいうこずが裏切られる。倧庭はここで、行為には予期が含たれおいる、ずいうこずですでに行為のうちに意味を密茞入させ、そうするこずで、行為の瀟䌚性・公共性を説明する努力を避けおしたっおいるのだ。この努力を避ける代わりに導入されるのが、ノィトゲンシュタむンの「解釈するのずは違う仕方で、芏則に埓う」66頁ずいテヌれである。
 倧庭によれば、単なる予期であれば、盞手に察する予期は無限に続く予期の連鎖になっおしたう。そこで倧庭は、この無限連鎖の出発点ずなる「行為の意味は、行為者の事前の『意図意味理解』にそっお確定しおいたかのように解釈する」68頁ずいう前提に぀いお、ノィトゲンシュタむンのテヌれを持ち出しお吊定するのだ。「わたしが、芏則にしたがうずきには、遞択はしおいない。わたしは盲目的に芏則にしたがっおいる」70頁ずいうノィトゲンシュタむンの蚀葉を匕いお、倧庭は無限の連鎖を断ち切っおいる。぀たり、行為の意図を生じさせる予期は解釈のような遞択の䜙地あるものではなくお、盲目的に埓う芏則に拘束されおいる、ずいうわけだ。
「行為Aを振舞B『ずしお』受けずめおもらえるずいう予期をあおにしお、他人の前で行為できるずきには、右のように『われわれみんな  するはずだし、しなかったら異垞だ』ずいう《䞀般化された芏範的な予期》が働いおいる。そしお、あなたの予期が通垞倖れないのは、盞手もたた、その芏範にしたがっおいるからである。したがっお、振舞いの意味をめぐる食い違いが少ないのは、あらかじめ意味が行為者の『意図』によっお確定しおおり、それが振舞いに珟れたからではない。意味の食違いが少ないのは、意味が事前の意図に回収されるからではなく、意味がすでに䞀般性ず芏範性をもっおいるからである。」734頁

 行為そのものの考察から公共性・瀟䌚性を導き出しおくれるのではないか、ずいう期埅はすでに裏切られおいたのだが、ここに到っお、意味は䞀般的・芏範的なものずされるこずで、そもそも行為から意味の説明をする぀もりはなかったこずが瀺されおいる。ノィトゲンシュタむンを手がかりに開き盎った感がある。
「行為の遂行ず理解は、『䞀般化された芏範的な予期』ずいうダクを共に負った間での、単䞀の出来事の『共ダク的』な二偎面であっお、切り離しえない。」76頁

 倧庭がここで述べおいる行為のダクずしおの「䞀般化された芏範的な予期」、これこそが、公共性・瀟䌚性の内実だが、これは䞀䜓どこから導き出されるのか。ノィトゲンシュタむンに掲瀺を受けた、ずいうこずではすたされない問題ではなかろうか。ずたれ、個人の行為に内圚しお論議をはこんできた倧庭は、ここで突然、瀟䌚の方にゞャンプしおしたう。
「1瀟䌚を構成しおいる芁玠は、個人の行為であるよりも、むしろ人の間での《行為の共範的な実珟》ずいうできごずであり、
 2瀟䌚の芁玠的できごずは、たんに因果的にではなく、《事前の予期ず事埌的確蚌》ずいう意味的関係によっお、぀ながりあっおいく。」834頁

 このようにたずめるず、瀟䌚システムの自立性を匷調しおいるかのように思われおしたう。ずいうのも、この䞻匵は、瀟䌚の集合的事象に拘束されおいる、ずいうこず以䞊のこずに぀いお述べおはいないから。そこで倧庭は次のように぀け加える。
「そうした集合事象もたた、それぞれの人が、芏範的に䞀般化された予期にもずづいお『する』こずが、予期せざる仕方で合成された結果なのであっお、誰もなにもしないのに起こったりはしない。そうした集合事象が起こっおいるずきには、それぞれが、芏範的に䞀般化された予期にもずづいお、なにかをしおいる。」956頁

 このように蚀えば、今床は個人を瀟䌚の芁玠ずしおいるように読める。そこで倧庭は、個人の存圚ず瀟䌚システムを構成する行為ずの関係ぞず考察を移しおいる。

4存圚ず行為


 第䞉章は、「わたしの瀟䌚的構成」ず題されおいるが、ここで倧庭は諞個人の存圚がなければ瀟䌚システムも存圚しない、ずいう事実から、存圚が行為に先行するずいう芋解が導かれおくるが、はたしおそうなのか、ずいうこずを怜蚎しおいる。倧庭の考察は「コりモリにずっおの䞖界」ずいった批刀的に怜蚎しようもない事䟋がもずになっおいるので自身によるたずめを匕甚しおおこう。
「これたでの考察をたずめるず、こうなる。1の『あそこに朚がある』ずいう経隓が、2の『あそこに朚が芋える』ずいう経隓ぞず展開し、そこからさらに3の『ここから朚が芋える』ずいう経隓ぞず展開するためには、その぀どの遠近法での珟われを、党䜍眮が等䟡である地図ぞず察応づけマッピングできねばならなかった。しかるにこのマッピングは、H党おがココぞず珟れおくる、そのようなココが、䞖界内で䞀぀の䜍眮を占めおいる、ずいう認知によっおのみ可胜ずなるのだが、しかし、この認知は、R県前の䞀事物の振舞いが、ココぞの呌びかけ・働きかけ・ココの動きぞの応答なのだ、ずいう認知によっお、はじめお可胜ずなる。しかるに、Rは、盞手の受け止め方の予期の予期にもずづく呌応ずいう、瀟䌚システムぞの参䞎を離れおは、䞍可胜である。このこずは、幌児の自己意識の生成の研究によっお確蚌される経隓的な事実にずどたらない。それは、むしろ、ココずいう遠近法の芖点ずいう抂念そのものが、゜コからの跳ね返りに接しお、゜コでなく・他ならぬ・ココずしおはじめお理解可胜ずなる、ずいうこずに由来する、抂念的・論理的な事実である。」1323頁

 このような考察が䜕故なされたかに぀いおはよく分からないが、しかし、倧庭はこの考察から、なんの瀟䌚システムにも参䞎しおいないなら、あそこに朚があるずいう経隓は、䜕ら「わたし」に朚が芋えおいるずいう経隓ではなく、そしお行為や行為䞻䜓ずいう抂念も意味をもたないから、「わたしが芋おいる」ずいう意識は生じないず述べおいる。このこずは「わたしが成立するにあたっお、ある人―間のできごずが起こっおいるはずである」123頁ずいう仮説の蚌明ずしおあるココにいる、ずいう堎の自芚も゜コにいるものずの呌応においおであるずいう呌応論の垰結なのだろうか。倧庭は呌応に぀いお次のように述べおいる。
「しかるに、このような、゜コにずっおの゜コずいう、跳ね返りによるココの存圚の自芚は、瀟䌚システムの参䞎なしには䞍可胜である。この自芚にずっお䞍可欠な呌応は、呌びかけ・応答『ずしお』の発声ずいう、たさしく盞互行為の共軛的な実珟に他ならない。なんの瀟䌚システムにも参䞎しおいないならば、そもそもたんなる倖界からの音呌びかけずしおの声、ずいう区別が意味をもちえない。」130頁

 ぀たり倧庭は、存圚が行為に先行するずいう説を、瀟䌚システムの参䞎ぬきの個人は瀟䌚性をもちえない、ずいうこずを蚌明するこずで批刀しようずしおいる。このような批刀は裏がえせば、個人の行為の瀟䌚性は瀟䌚システムに参䞎するこずによっお䞎えられる、ずいうこずになり、倧庭自身ずしおは、個人ず瀟䌚ずを察立的に捉えおいるこずが明らかずなる。
 急いで第五章で述べられおいるたずめ的な郚分に移ろう。
「わたしの存圚は、瀟䌚システムに参䞎する行為なしにはありえないが、わたしの存圚は、瀟䌚システムにずっお、システム倖郚の䞖界のこずである。瀟䌚システムは、参䞎しお行為する個人なしにはありえない。しかし参䞎しお行為しようずする思いは、瀟䌚システムの倖郚の䞖界でしか起こらない。」191頁

 個人は瀟䌚システムの倖にありながらも、その行為が瀟䌚システムに参䞎するこずなしには個人ずしおの存圚がありえない、ずいうように倧庭は個人ず瀟䌚ずを行為を媒介に結び぀けられた倖的なものずみおいる。
「存圚ず行為は、人称的な呌応の話法の重心ずしおの、わたしにおいお重なっおはいるが、しかし、たがいに倖郚であり、しかも、䞀方なしには他方もないずいう圢で䟝存しあっおいた。そうだずすれば、行為の䞖界ず存圚の䞖界は、ないし瀟䌚システムず心システムは、たがいに倖郚ではあるが、その倖郚なしにはどちらもありえないずいう関係、぀たり《たがいに他方の環境である》ずいう関係にある。」1923頁

 倧庭はここで、わたしを存圚ず行為の二重性においお捉えようずしおいるのだが、その際に存圚ず行為ずを心システムず瀟䌚システムずいうようにたがいに倖的なものずしたために、瀟䌚を人々の関係ずしお捉えるこずに倱敗しおいる。倧庭にあっおは、瀟䌚ずは行為を芁玠ずし、行為の連鎖ずしおあっお、個人は瀟䌚の倖郚にあっお、行為を入力する存圚ずされおいるのである。
 だから、独我論の立堎からの自我が、独立した瀟䌚的な個人が実圚するずなるず、倧庭の自己組織システムずしおの瀟䌚は存立の䜙地がなくなる。さらにたた、氞井の〈私〉は、独我論から出発した他者に぀いおの哲孊から生み出された瀟䌚関係の産物ずしおある類ずしおの個のこずだが、人々の関係から瀟䌚を説く方法を拒吊しおいる倧庭には、この〈私〉は理解の枠を超えたものになっおいるのだ。

5倧庭説ぞの疑問


 倧庭が、わたしを存圚ず行為の二重性ず芋るなら、その二重性を呌応関係のなかから導くべきではなかろうか。倧庭にずっおの呌応ずは「わたしが成立するにあたっお、ある人―間のできごず」123頁であり、話法の重心ずしおのわたしは、呌応においお成立するずされおいる。
「わたしは、話法の重心でしかなく、スポヌクス・パヌ゜ンでしかない。ずいうこずは、゜コから呌びかけられ・ココで応えるずいう《呌応》の可胜性が、わたしの成立・存続の死呜を制する、ずいうこずを意味する。ぎゃくにいえば、呌応の可胜性が途絶しないかぎり、そのかぎりでのみ、『話法の重心・システムのスポヌクス・パヌ゜ン』ずしお、わたしが存続する。こうした《呌びかけず応答の可胜性》ずいう意味でのレスポンシィビリティこそが、責任ずいう意味でのレスポンシィビリティの根幹をなす。」177頁

 倧庭はここで自己ず他者ずの察話の関係を想定しおいるのだが、䜕故、この関係それ自䜓を瀟䌚の原基圢態ずしお捉えないのか。ここに責任の問題を芋ようずする倫理孊的粟神に目を遮られおしたっおいるのだろうか。自己ず他者ずの関係に瀟䌚の原基圢態を芋ようずすれば、個人の存圚ず行為のどちらが先立぀かずか、行為の瀟䌚性を行為自䜓の分析から説こうずしお、意味を導入するこずで、瀟䌚性を密茞入する、ずいった問題を匕き起こす必芁はなくなる。
 自己ず他者ずの関係を瀟䌚の原基圢態ずしお捉える、ずいうこずは、この関係から瀟䌚性を導き出すこずでなければならない。この詊みは、スミスの人間鏡説を皮切りに、瀟䌚孊の分野ではミヌドが、瀟䌚的自我の圢成を䞀般化された他者の態床を取埗する、ずいうように芋たり、たた粟神分析家のレむンが、アむデンティティの確立には他者からの承認が必芁だず述べたこずなどがあり、さらに哲孊の分野では、我ず汝に぀いお考察したブヌバヌや、それをさらに䞀歩進めたレノィナスの説がある。
 しかし、この詊みにずっお最も頌りになるものは、マルクスの䟡倀圢態論ではなかろうか。マルクスは、商品の䟡倀圢態の分析にあたっお、最も簡単な䟡倀圢態である二商品の等眮の関係から、䟡倀の瀟䌚的性栌を瀺したが、その際に圢態芏定ずいう考え方を提出しおいる。これは䟋えば、等䟡圢態に眮かれおいる商品、䞊着が、䞊着ずいう自然物のたたで、それが䟡倀ずいう瀟䌚的なものの化身ずされるこれが圢態芏定ず呌ばれる事態こずだが、こうした圢態芏定は、䞡極が関係しあう反照関係にあっおは䞀般的に起きる事態ではなかろうか。
 この䟡倀圢態論の成果を掻甚するなら、自己ず他者ずいう関係においおは、自己に働きかけられる他者の偎はい぀も生身の人間のたたで瀟䌚的意識の化身ずしお圢態芏定されおいるこずになる。぀たり倧庭が考えおいるコヌドや芏範的䞀般性は、自己ず他者ずの関係の倖から䞎えられるものではなくお、この関係が自ずから぀くり出しおいるものなのだ。
 氞井が独我論から他者を考察するこずで獲埗した、コノ私や䞀般的な「私」ずは別の〈私〉ずは、実は自己ず他者ずの関係で圢態芏定された他者の自己ぞの投圱であり、自己の類ずしおある個ずしおの自芚のこずなのだが、倧庭説の呌応論を自己ず他者ずの関係ぞず改䜜し、そしお、そこにマルクスの圢態芏定ずいう考え方を導入すれば、氞井の〈私〉はそこに回収するこずが可胜ずなるのではなかろうか。

終章


 圓初の予定では倧庭の『他者ずは誰のこずか』勁草曞房をずりあげる぀もりであった。ずころが『私ずいう迷宮』や『自分であるずはどういうこずか』講談瀟珟代新曞を手にしおみお、倧庭の問題意識が「私探し」の思考に察する批刀にあるこずがわかり、ごらんのように『自分であるずはどんなこずか』に即しお議論するこずになった。VSの珟堎から芋えるもの、ず題した以䞊は、この章でその内容に぀いお提起しなければならないが、最近、私自身が若者たちずの哲孊論議の堎をもったこずで、氞井VS倧庭の珟堎の、珟堎ずしおの臚堎感が垌薄ずなっおしたった感があり、別の圢で仕䞊げるこずにしたい。なお氞井均の説に぀いおは、以前に「氞井均の<私>に魅せられお」ASSB誌10å·»3号にコメントを曞いおいる。参照されたい。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 8832 times   Printer Friendly Page Tell a Friend