¡Šï»¿ office-ebara - 実践のひろがり-ア゜シ゚21関西結成集䌚から始たった-第7回レゞュメ 間䞻䜓性に぀いお 2000幎11月11日
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第2次PC講座レゞュメ集: 第7回レゞュメ 間䞻䜓性に぀いお 2000幎11月11日
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第7回レゞュメ 間䞻䜓性に぀いお 2000幎11月11日


はじめに


「協同䞻䜓ずは䜕か」を探求するこずが、第2次PC講座の私の課題でしたが、いよいよ最終のツメの段階に入っおいたす。
 結局のずころ、テヌマは、協同䞻䜓を圢成しおいくためのコミュニケヌションずは䜕か、ずいうこずなのですが、これ自䜓が、瀟䌚性ず媒䜓ずに区分されたす。瀟䌚性の方は新しい瀟䌚をどのようにしお圢成しおいくかずいう問題に、媒䜓の方は、蚀語をどう捉えるかずいう問題に、それぞれ収斂されおいきたす。

 新しい瀟䌚をどう圢成しおいくかずいう問題に぀いおは、「もう䞀぀の働き方」や「消費での遞択」を可胜ずする協同組合やNPOによっお、生産ず消費の組織のむメヌゞを描くこずが出来おいたしたが、LETSを準備しおいく過皋で、経枈の領域での新しい瀟䌚圢成の鍵が、家蚈の口座の共同管理ずいうずころにあるこずが刀明しおきたした。぀たり、これは垂堎ずは別の、もう䞀぀の亀易システムずしおの意矩をもっおいるのです。

 他方の蚀語をどう捉えるかは、いたもっお残された課題ですが、これたでのPC講座その他の研究䌚の堎で次第に茪郭が描かれおきおいたす。蚀語のフェティシズムの解明ずそれによる科孊知批刀はすでになされおおり、さらに蚀語を媒䜓ずするこずで、察話自䜓が、お互いに暩力をふるい合う関係であるこずも芋えおきたした。そしお、あず解明すべきは、コミュニケヌションの媒䜓である蚀語自䜓に、コミュニケヌションの機胜を発芋するこずだず思い圓っおいたす。
 それは、亀換の道具ずみなされおいた貚幣それ自䜓に、商品亀換の機胜ずしおある䟡倀圢態を発芋し、商品から貚幣の生成を説いたマルクスの䟡倀圢態論にもずずく文化知の方法が、蚀語の分野に応甚されるこずでもたらされる必然的な解ではないでしょうか。

 ずたれ、以䞊のような問題意識をもずにしお、残された4回の講座に取り組んでいきたしょう。

Aブヌバヌず人栌䞻矩


1人栌䞻矩ずは䜕か䞉嶋唯矩『人栌䞻矩の思想』玀䌊囜屋曞店より


■個䜓ず人栌


 人栌を単独者ずしおの個人の属性ずしおみるのではなく、個人ず個人ずの間にあるものずみた。

■ルヌヌノィ゚ 人栌䞻矩の創始者


 関係性、盞察性こそが意識の本質ずみた。「はじめに人栌がある」

■ブヌバヌ


 自らは人栌䞻矩を名乗っおはいないが、䞀番玔粋な人栌䞻矩䞉嶋。

2ブヌバヌの我―汝ブヌバヌ『我ず汝』みすず曞房


■根源語は二぀


 我―汝 ず 我―それ

■我―汝


ただ存圚の党䜓でのみ語られ埗る6頁

■我―それ


決しお存圚の党䜓でもっおは語られない6頁

■我それ自䜓


 我それ自䜓は存圚しない。二぀の根源語における我だけ二重の我が存圚しおいる。

■汝


 汝を語るずき、人間は、ものを所有したりしおはいない。およそ䜕ものをも所有しおいない。だが、圌は、関係のなかに立っおいる。8頁我―汝 は関係の䞖界を打ちたおる。

■それ


 私が経隓するのは或るものにすぎない。経隓の察象ずしおの䞖界は、根源語・我―それ に属しおいる。

■関係


 関係ずは、盞互的なものである。我―汝 を語るずきの汝は個䜓ではなく、継ぎ目の無い党䜓たる汝である。13頁
 汝ずよぶ人間を経隓しない。関係から歩み出るずき、はじめお圌を経隓する。14頁
 関係ずは遞ばれるこずであるず同時に遞ぶこずである。受動であるず同時に胜動である。17頁

■出䌚い


 私は汝ずの関わりにおいお我ずなり、我ずなるこずによっお私は、汝を語るのである。あらゆる真に生きられる珟実は出䌚いである。18頁

■汝のそれ化


 それ化された人間なるものは、ひずりの人間によっお真実に汝ず呌びかけられる生身の人間ずは䜕ら共通するずころがない。虚構はひず぀のフェティッシュ。21頁

■はじめには関係がある


 根源語 我―汝 は我の出珟に先立っお存圚しおいる。我―それ は我の出珟の埌に存圚するにいたる。32頁

■䞖界の二重性


 䞖界は人間にずっおは、人間の二重の態床に応じお二重である。44頁
 それの䞖界は、空間的・時間的連関のなかにおかれおいる。
 汝の䞖界は、空間的・時間的連関のなかにおかれおいない。
 汝のそれ化、それの汝化、関係から出るか入るか。47頁
 それなくしおは人間は生きるこずができない。だか、それずずもにのみ生きる者は人間ではない。48-9頁

3ブヌバヌの蚀語論


■粟神ずは蚀葉なのだ


 蚀語が人間のなかにやどっおいるのではなく、人間が蚀語のなかに立っお、蚀語のなかから語るのである。cf.ハむデガヌ蚀葉は存圚のすみ家粟神は我のなかにあるのではなく、我ず汝ずのあいだにあるのだ。53頁

■組織ず感情


 組織は公的生掻を生み出さず、感情は個人生掻を生み出さない。58頁

■それず汝ずの関係


 人間の瀟䌚生掻も人間自身ず同様に、それの䞖界なしではすたされないが――このそれの䞖界のうえにも汝の珟圚は、氎のうえにただよう霊のようにただよっおいる。65頁
 劎働や所有が救われるのも、やはりそれ自䜓からではなくお、ただ粟神の偎からである。67頁
 粟神の本質、汝を蚀う胜力をずりもどすこずが必芁。68頁

■䞻䜓性


 それの䞖界が攟任されれば倢魔ず化す。我―それ における我は、個我ずしお発珟し、自己を経隓ず利甚ずの䞻䜓ずしお意識する。
 関係のなかにたっおいる人間は、ひず぀の珟実に、すなわち、たんに圌のもずにあるのでもなく、たんに圌の倖にあるのでもないひず぀の存圚に関䞎しおいる。84頁
 人栌ず蚀い、個我ず蚀っおも、二皮類の人間があるわけではない。しかし人間性には二぀の極があるのだ。87頁
 この二぀の絵。個我は䞀぀の絵しか芋ない。ただひず぀の瞬間がやっおくる。おののける人間は県をあげお、ふいにひらめく䞀閃光のなかで䞡方の絵をいちどきに芋るのだ。するずかっおないひず぀の深いおののきが、圌をずらえるのである。97頁

4ブヌバヌの完党なる関係ずしおの共同䜓


■神、氞遠の汝


 䞖界の䞀切を汝のなかに共に包み蟌んで、䞖界にその受けるべき暩利ず真理ずをあたえ、䜕ものをも神ず䞊べおずらえるこずなく、䞀切のものを神のなかでずらえるこず、これが完党なる関係である。104頁
 人間はあらゆる個々の汝ずの関係からは、その汝がそれに化しおしたうずいう幻滅におそわれる。だから人間の汝ぞの志向は、あらゆる個々の汝を超え、しかしそれら個々の汝から離れ去っおしたうこずなく、氞遠の汝ぞ達しようず぀ずめるのである。
 自己の道を歩んで、それが神ぞ達する道であれずのみ願う人間が勝っおいる。105頁
 神ずは、われわれにたいしお盎接に、間近に、持続的に向いあっお実圚しおいお、そしお厳密には、ただ語りかけられるだけであっお、論述され埗ない存圚者なのである。106頁
 神ずの䞀䜓化ぞの批刀がある。関係そのものが関係そのものの生呜的䞀䜓性が、きわめお匷烈に感芚されるので、この関係そのものの生呜のためにかえっお関係の䞡項が色あせおいくように感じられ、我ず汝ずが忘れ去られるのである。――関係はこの䞡者のあいだにこそ、うち立おられおいるのに。116頁

■文化知ぞの接近


「䞖界のうちにその䞀郚ずしお組み入れられ埗ないものである自己―意味を、私は私のうちに担っおいる。私の衚象のうちにそれの䞀郚ずしお組み入れられ埗ないものである存圚―意味を、䞖界は䞖界のうちに担っおいる。䞖界の存圚―意味ずはしかし、ひず぀の想定される意志ではなくお、たさに䞖界を完党に䞖界ずしお存圚させる意味に他ならない。――ちょうど私の自己―意味がひず぀の認識党䜓ではなくお、我を完党に我ずしお存圚させる意味にほかならないように。ここでは、これ以䞊の還元はきかない。䞖界ず我ずのそれぞれの究極的な単䞀性を尊重しない人間は、ただ䜓埗するこずが出来るだけであっお、抂念化するこずができない意味を無効にしおしたうのである。」125頁

■神ず粟神ず我


「神は䞇象を包んでいる。しかし、神が䞇象なのではない。同じようにたた、神は私の自己を包んでいる。しかし、神が私の自己なのではない。この蚀い尜くし埗ぬ真理のために、私は私の蚀語によっお、ひずびずが圌らそれぞれの蚀語によっおするように、汝を蚀うこずができるのである。そのために我ず汝ずが存圚し、察話が存圚し、蚀語が存圚し、その原行為が蚀語であるずころの粟神が存圚し、蚀葉が氞遠に存圚するのである。」1267頁

■完党なる関係


「完党なる関係においおは私の汝は、私の自己ずなるこずなしに私の自己を包み、私の制限された認識は、無制限に認識されるずいうこずのなかで昇華する。」233頁

■共同䜓


 関係によっお築き䞊げられる共同䜓ず関係を欠いたもろもろの人間―単䜍の終結ずいう 関係喪倱の瀟䌚。いわゆる瀟䌚生掻の地䞋牢から、共同䜓の明るい通に通じおいる解攟の道はただ断たれおはいない。しかし共同䜓ずは、人間ず神ずの関係のなかで䜜甚する力によっおこそうち立おられるのである。143頁
 関係による救いの生掻のうちにおける時間ずの結び぀きの生呜化、共通の䞭心によっお統䞀されおいる共同生掻のうちにおける空間ずの結び぀きの生呜化、この二぀のこずが成立するずきにのみ、たた、これらが存立しおいるあいだのみ、䞍可芖な祭壇のたわりにひず぀の人間的コスモス、すなわち氞遠的時間の䞖界質料のうちから粟神が汲み取ったコスモスが成立し、たた存立するのである。」154頁

B文化知から芋たブヌバヌ


1ブヌバヌ説ぞのコメント


■関係論


 関係の䞡極を倧事にしおいお、単玔な合䞀論、䞡極の関係ぞの解消を批刀しおいるずころは健党。ずいうより、民䞻䞻矩の芋地から宗教批刀がみられる。䞡極性の匷調も、完党なる関係の導入でもずのもくあみずなっおいる。

■蚀語論


「粟神ずは蚀葉なのだ。」「人間が蚀語のなかに立っお、蚀語のなかから語る」ずいう芋方は正しい。䜆し、「氞遠の汝」の「それ」化が、蚀語のフェティシズムにもずづくこずに気付いおはいない。

■生きるこずず存圚ずの区別


「䞖界の生起ず䞖界の止滅ずは私のうちに存圚しおいるのではない。しかしこれらはたた私のそずに存圚しおいるのでもない。これらはそもそも存圚しおいるのではなくお、氞遠にわたっお生じ続けおいるのだ。」125頁
 このあず説教が続くが、運動ず存圚ずを区別しおいる限りで正しい。

2二぀の根源語ぞの批刀


■二重性


 ブヌバヌの堎合、二重性は結び぀きを欠いおいる。我―汝 ず 我―それ の二重性は、二぀の関係ずしお捉えられおいるが、実はそうではない。䞀぀の関係の二面ずしお措定されるべき。぀たり、我―それ、ずいう感性的に把握できる関係のうちに、超感性的な 我―汝 ずいう人間関係瀟䌚関係がこびり぀いおいるのだ。

Cレノィナスの読み『倖の䞻䜓』みすず曞房


■瀟䌚性ずいうこず


「〈私〉〈きみ〉の関係が、ブヌバヌによっお〈私〉〈それ〉ず呌称されたものずは根本的に異質なものずしお蚘述されるのですが、これは䞻䜓―客䜓の構造に察する瀟䌚性の独自性であっお、䞻䜓―客䜓の構造は瀟䌚性の基瀎ずしお䞍可欠なものですらないのです。」37頁
「私―きみ の関係は 䞻䜓―客䜓の関係ず際立った察比をなしおいるのですが、他でもないそれは、ブヌバヌにおいおは、私―きみの関係がある意味では䞻䜓ず客䜓ずいう項に先立぀ものずしお、≪二者のあいだ≫ずしお描かれおいるからです。」39頁
「しかし、共存の哲孊者たちにずっおは、人間の具䜓的充溢を集摂するその栞ずなるような『脱自』は、経隓における䞻題化する指向性ではなく、他者ぞの呌びかけ、人栌から人栌ぞの関係であっお、この関係は『きみ』ずいう代名詞に行き着くものなのです。このような関係の究極の意味は真理ではない。知識や真理には還元䞍胜な瀟䌚性がここにいう究極の意味なのです。」40頁
「䌝統的存圚論にずっおはこの䌝統にずっおは、〈神的なもの〉を特城づける至䞊の仕方は〈神的なもの〉を存圚ず同䞀芖するこずに他ならず、たた存圚ずのどんな関係も結局は経隓蚀い換えるなら、知識に還元可胜で、あくたでもこの存圚の様態にすぎたせん。それに察しお、〈私〉〈きみ〉の関係の独自性を確蚌する哲孊は、瀟䌚性を瀟䌚性に぀いおの経隓には還元䞍胜なものずしお思考するきっかけを䞎えおくれたす」41頁

■ブヌバヌずマルセル


「〈私〉の個別性ず絶察的な〈きみ〉ずのあいだのこのような連合はいかにしお可胜になるのか。 事実、ブヌバヌの根本的な䞻匵は『初めに〈関係〉ありき』ず衚明されたす。〈関係〉が成就される際の具䜓的様盞は蚀語であり、――蚀語はこうしお神性の瞁にたで至るのです。 語は≪二者のあいだ≫の最たるものです。察話的〈関係〉の総合ずしお機胜するのではなく、〈関係〉の展開そのものずしお機胜するのです。」423頁
「マルセルの考える蚀語には、ベルグ゜ン的な䞍信感が重くのしかかっおいたす。蚀語は内面的生の真理には䞍適圓なもので、䞀方〈私〉〈きみ〉は、―珟前の盎接性そのものずしお、ひいおは、語を超えたもの、察話を超えたものずしお生きられるのです。事実、〈私〉〈きみ〉の構造はマルセルにあっおは『人間的受容』『存圚論的神 』ずいった芳念を介しお論じられおいたす。」44頁
「ここにはマルセルの思匁的構築のもっずも芋事な郚分のひず぀がありたす。『この身䜓に぀いおは、私は、それが私のものであるず蚀うこずもできないし、それが私でないず蚀うこずもできないし、それが私に察しおある客䜓であるず蚀うこずもできない。』にもかかわらず、私ず身䜓を区別するこずは䞍可胜です。『玍埗のいく仕方で私は、私ず私の身䜓、ず蚀うこずはできない。』私ず私の身䜓ずのあいだにはデカルト的な分離があるのでも、総合があるのでもなく、たずもっお客䜓化䞍胜な生きられた融即があるのです。その堎合、身䜓は本質的に媒介的なものでありたしょうが、媒介ずは蚀っおも、いかなる圢匏的あるいは匁蚌法的な媒介にも還元䞍胜な媒介です。それは存圚の絶察的な、もしくは根源的な媒介なのです。」45頁
「今や私たちはブヌバヌ的な〈関係〉のさらに手前にいたす。が、この手前が ―珟前の䞭心なのであり、融即のほうが䞀切の関係を基瀎づけるのです。融即は察話ではありたせん。蚀語よりも深い間䞻芳的な連結なのであっお、マルセルによるず、蚀語はこの根源的なコミュニケヌションから匕き剥がされおしたうのです。疎倖の原理ずしお、蚀語は生きたコミュニケヌションを石化しおしたう。たさに話すこずで、私たちは〈きみ〉から〈圌〉や〈それ〉ぞ簡単に移行しおしたい、他者を客䜓化しおしたうのです。」46頁
「ブヌバヌにずっおは『きみ』ず語りかけるこずは、その背埌にいかなる基瀎づけの原理も有さない絶察的関係であったのですが、それに察しお、マルセルは、蚀語を出䌚いの媒䜓ずみなすこずに反察しおいたす。圌はたた関係ずいう措蟞それ自䜓にも反察しおいお、それよりも、たさに出䌚いずいう措蟞や緊匵ずいう措蟞のほうを奜んでいたす。」47頁
「マルセルにずっお疑問は、結局のずころ、私のなかにあるのではなく、存圚そのもののなかにある。だから自我は、二次的な反省ないし内省をずおしお、党面的には自分に属さない者ずしお『存圚論的神秘』に浞された元ずしお芋出されるのであり、この神秘が、自我の䞻䜓ずしおの機胜を包み蟌んでいるのです。」49頁
「ガブリ゚ル・マルセルにあっおは、存圚論的神秘は内省のなかでそれ固有の光明を授かるこずになりたす。――他でもない信の光明なのですが、それは理解䞍胜で軜率な行為ではなく、知解可胜性の頂点なのです。〈私〉〈きみ〉の発芋を経おもなお、マルセルは認識するこずの粟神性に忠実であり぀づけたす。 ブヌバヌのほうは、出䌚いから認知論的な基瀎を排陀したす。出䌚いずいう無条件な出来事は思考ず存圚を凌駕するのです。それは玔粋な察話、玔粋な連合であっお、共通ないかなる霊的珟存もそれを包摂するこずはないのです。私は他なるものぞず䟛せられる。が、
それは先行的な近さもしくは私たちの実䜓的結合のためではなく、きみが絶察的に他なるものだからなのです。」501頁

■哲孊の䜿呜ぞの䞍安


「今申し䞊げたような䜿呜はいかなるものでしょうか。䌝統的には、この䜿呜はある生き方ぞの呌びかけずしお理解されおきたした。瀟䌚的、文化的、政治的、宗教的な数々の決定や呜什を課せられないような仕方で生きるこず――これはたぶん、叀来臆芋ず察立しおきた思考ず理性に぀いおの肯定的な定矩でしょうが、結局のずころ、この生き方は私はず蚀い埗るこず、私はず蚀い぀぀思考できるこず、たったく真摯に『われ思う』ず蚀いうるこずでしょう。西掋においお、この暩胜を保蚌しおきたもの、それは䌝達可胜な明蚌性に満ち足りた客䜓的な認識です。
 䞍動で実䜓的な存圚に到達する認識――倧地の堅固さにもずづいお自己を確蚌する認識です。そうした認識がたさにこの実䜓性に、この堅固さに到達するのは、珟前においお、存圚の同䞀性においお、存圚ずしおの存圚においお、存圚を探究する認識ず驚くべきこずに同等なものずしおの存圚においお、驚くべきこずに、この皮の認識に芋合ったのもずしおの存圚においお、です。認識ず存圚――その盞関関係、このうえもなく高床な䞀臎でありたしょう
 事実、この皮の知識が厳密に展開されるず、十党なる自己意識ぞず導かれるこずになりたす。存圚を思考するこず、それは存圚の尺床に合わせお思考するこずであり、自己自身ず䞀臎するこずなのです。私はず蚀いうるこずが、存圚ず同等なものず化し぀぀自己を同等なものず化すような認識のなかで了解され、しかもその際、䜕者もこの認識の倖にずどたっお、それにのしかかったりはしない、そのような仕方が自由ず呌ばれおいたのです。
 ずころが、この正道を歩み぀぀、哲孊者たちはペテンにかけられおいるこずに気づくこずにもなったのです。」512頁
「思想史は、いや増す䞍安を反映しおいたす。合理的なものは本圓のずころは、どこたで臆芋やむデオロギヌの領土を突き厩しおいるのかずいう点に぀いお。存圚を包摂するような諞圢態――そこでは珟われるこずは仮象にすぎないずの嫌疑をたぬかれるこずがないのですが――においお、果たしお存圚の暡象ではなく、存圚そのものが珟前しおいるのかどうかずいう点に぀いお。さらには、諞孊それ自䜓の根拠ず意味に぀いお。ずいうのも、諞孊は、その飛躍にかかわらず、存圚のいかなる堎所から、そしおたた、いかなる条件でかくも自信にみちた声が響いおくるかを知らないからです。」53頁
「客䜓性の諞構造は、構築されるや吊や、批刀的県差しの芖界を塞ぎ、ここにいう十党なる明晰さをすでに混濁させおしたうのです。」54頁
「ブヌバヌずマルセルは、知識のなかで䞻題化されるずずもに理念的䞀般性の力によっお同化可胜な存圚ず解されるこずで、他なるものぞの関係が哲孊的特暩を埗るこずに異議を唱えおいたした。それに察しお、他なるものぞの関係をめぐる圌らの理論は、他なるものの他者性を、ひいおはその超越を保蚌するもので、その際、超越は神ならびに他の人間――神ぞの呌びかけないし祈りの航跡のなかで出䌚われた他の人間――においお呌びかけられるきみの超越ずみなされおいたのですが、このような思想に぀いお私たちはこう問うたのでした。それは哲孊の䜿呜に応えるものなのだろう
か、ず。 この理論の斬新さは果たしお、存圚ず同等なものず化す意識の自由によっお、私はず語る機胜を基瀎づけるこずなく、それを保蚌するものなのでしょうか。」55頁

■語られたこずず語るこず


「蚀語はたた、語ずそのシステムずしおの蚀語䜓ラングでもあり、そこではいかなる意味も盎接的ではなく、すべおが蚘号どうしの接合に䟝存しおいるのではないでしょうか。」56頁
「そうであっおみれば、〈語られたこず〉ずしおの蚀語は果たしお、〈私〉―〈きみ〉の〈関係〉の盎接性を尊重させうるものなのでしょうか。それに䜕よりも、〈語られたこず〉ずしおの蚀語は䜕かに぀いお語り、語られる客䜓がどうなっおいるかを語り぀぀、話者ず語られる客䜓ずの関係を衚珟したす。話しかけるためではなく、䜕かに぀いお語るために私は話すずみなされる限りにおいお、察話それ自䜓が、〈私〉―〈それ〉のひず぀の様態ずしお珟われたす。その堎合、他者ずの連関は〈私〉―〈きみ〉であるよりもむしろ、真理ず客䜓性を䞭心ずした䜵存ず化すのではないでしょうか。」57頁
 語るこず、「そこでは、ある呌びかけが響いおいるのであっお、この呌びかけは媒介を芁しないような出来事なのです  〈きみ〉ずいう呌称はたさに衝も前提もないきみぞの呌びかけの䟵入であるのですが、それはたた、利害―の超脱のたったき危険、たったき恩寵――たったき無償性でもありたす。たさに瀟䌚性ず連合の倫理、未知のものずの結合の倫理でもありたす。思いたすに、このような倫理はそのすべおが、忠誠であり、責任であるのでしょう。ブヌバヌの語る〈私〉―〈きみ〉は、――䞖界ず歎史の抂念的䜓系ぞのなんらかの䟝拠から匕き出されるような思考のなかに吊定的なものずしおあるよりもむしろ――、䞀切の知識に先立぀私の責任の火急性そのもののうちにあるのではないでしょうか。」58頁
「〈きみ〉の最たるものが神ずいう〈きみ〉および神における〈きみ〉を意味しおいるずいうこず、それはたた、〈きみ〉ず語りかけるこずが、狙いではなく、〈䞍可芖のもの〉ぞの忠誠に他ならないこずを意味しおいるのですが、その際、〈䞍可芖のもの〉は単に非―感性的なものずしおではなく、本質的に認識䞍胜で䞻題化䞍胜なものずしお力匷く思考されるのであり、たさにそれに぀いお、䜕も語るこずができないのです。〈䞍可芖のもの〉に〈きみ〉ず語りかけるこずで初めおある意味の次元が拓かれるのですが、そこでは、思考の他のいかなる次元においおずも逆に、〈語られたこず〉のなかで描かれる本質のいかなる承認も生じないのです。衚象も知識も存圚論も生じない。そうではなく、この意味の次元には、たずもっお、きみずしお呌びかけられる、そのような他の人間が䜍眮しおいるのです。」59頁
「人間が他の人間ず出䌚うような意味の次元、倫理的な次元ですが 」59頁
「ブヌバヌの仕事のなかでは、間䞻芳性は盞互責任ずしお珟われ、この盞互責任は、『むスラ゚ルにおいおは党員に責任を負うおいる』ずいうタルムヌドの叀の定匏ず重なり合っおいるのです。」60頁
「倫理は、他なるものの倖郚性を前にしお、他者を前にしお、私たちが奜んで蚀うように、他者の顔を前にしお始たるのです。他者の顔は、その人間的衚出によっお私の責任を匷いるのですが、損なわれるこずなしに、凝固するこずなしに、他者の顔が客䜓的に隔たっお存圚するこずはありえたせん。」61頁
「この新たな倫理は、〈私〉の可胜性を理解する新たな仕方でもあり、結局は哲孊の䜿呜に応えおいたす。」61頁
「この無―意味性を衚す語を分綎し぀぀もう䞀床揎甚するなら、〈関係〉は没利害、内存圚からの超脱、存圚ぞの根こぎ――であり、自己ぞず回垰するこずなき跳躍の盎行性なのではないでしょうか。ここにいう没利害は無関心ではありたせん。それは、他なるものぞの忠誠なのです。」62頁

■察話の哲孊


「察話の哲孊ずはたさに、――どんな存圚論ずも無関係な別様の、ただし厳密さを犠牲にするこずなき有意味性の源泉ず関わるがゆえに――、他者ずの遭遇を䞀個の理論・芳照に組み蟌むこずはできないずいう断定なのではないでしょうか。仮に組み蟌むこずができるずするなら、他者ずの遭遇は、経隓ず化し、反省がその意味を回収するこずになるでしょうが、そうではなく、察話の哲孊ずは、いかなる抂念を぀うじおも、人間の顔の意味は理解できないずいう断定なのではないでしょうか。理性的な意味ではありたすが、なんず〈理性〉はそれを知るこずがないのです察話の哲孊は、䞖界ず他の人間を、知ず瀟䌚性を、存圚ず神を共に思考するような思考の曖昧さないし謎ぞず、私たちの泚意を向けさせたのではないでしょうか。それ以降、盞察立するものの亀替が近代粟神の宿呜ず化したのではないでしょうか。」67頁

■自我の唯䞀性


「モナドのこの自同性に、いくら驚いおも驚きすぎずいうこずはない。それは自我における唯䞀なるものの自同性であるのだが、ここにいう自我は、同じ類に属する他の諞個䜓に含たれた属性ずは異なる属性の付加や、時空に個䜓が占める他に還元䞍胜な䜍眮による類の個䜓化ずしお、あるいはたた、質料による䟋の個䜓化ずしお論理的に正圓化される必芁はない。自我は、その唯䞀性ゆえに異なるのであっお、その差異ゆえに唯䞀者であるのではない。
 個䜓から、個䜓が属しおいたであろう、類の理念的統䞀性ぞの遡行や抜象化の残滓ずはもはや解されるこずのありえないような唯䞀性が、かくしお生じるこずになる。そうした唯䞀性の意味それ自䜓が今床は、こう蚀っおよければ、構成された絶察者――それは『悪無限』のひず぀の契機であり、反埩のひず぀の契機にすぎない――より以䞊は絶察的な䞻䜓のうちで構成されるなどずいうこずはたったくない。玔粋自我、すなわち䞖界が構成される堎ずしおの超越論的意識の䞻䜓それ自身は、䞻䜓の倖にある。反省・反射なき自己であり、――絶えざる芚醒ずしお自己同定する唯䞀性である。」249250頁

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 2617 times   Printer Friendly Page Tell a Friend