　フリーターズ・ネツトワークで「考える」というテーマで研修会を始めたとき、テキストとして西研さんの「哲学のモノサシ」という絵本を採用しました。採用した理由は、哲学的思考と言う事について真正面から取り上げているし、また、何よりも一つ一つの説明が短く、かつ平易に書かれていて、初心者の間で読み合わせするのに向いていると思ったからです。あとはヘーゲルにも取り組んでいて、それも買いの材料でした。
　1回に2項目ずつ、3回やりました。はじめのうちはけつこうよかつたのですが、だんだん、個人の意識から出発しようとしている事が気になつてきて、違和感が生じてきました。というのも西さんは「考える」ということについて、個人と個人が「哲学ゲーム」に加わるという舞台を設定したうえで論じていたからでした。
　私がやりたかつたことは、近代知の実践的な批判でした。西さんや竹田青嗣さんも述べているように、近代知を批判した現代思想は実践的な批判にはなつていませんでした。私は現代思想は批判近代知の限界を知る事、つまり単なる認識知としてあることに疑問をもつていて、現代思想の批判を企てても得るものはない、というように思うようになり、現代思想が企てたのとは別の形で近代知の批判をしようと考えたのでした。
　西さんのテキストは、このような私の思惑からはちょっとはずれていることに気づきましたので、「考える」ということについての導入部では生かしつつも、本論では読み合わせをやめることにしました。この決断をする前に、私は本屋で竹田さんと西さんの新著を見つけてさつそく求めました。ついでに、私が評価している若手の哲学者は、他にもすばらしい人はいると思いますが、この二人の他には永井均さんと小坂修平さんぐらいで、この人たちの本については読むことにしているのです。そして、ヘーゲルの読解が一段落したので、西研『哲学的思考』（ちくま書房）と竹田青嗣『言語的思考へ』（こみち書房）を読んでみたのです。竹田さんの場合は当初から現象学でしたが、西さんの本がフッサールをテーマとしていることについては一寸した驚きでした。西さんは、ヘーゲルづけにはなれなかつたのですね。

2）西さんへの違和感

　さて、何とはなしに、このような文を書き始めたのですが、その動機について先に述べておいた方がよいでしょう。研修会で西さんの本の読み合わせをしているとき、西さんは結局ヘーゲルを評価できなかつたのではないか、と言う感想をもちました。というのも、ヘーゲルの場合、個人の意識から出発しながらもたえず社会的意識についての関心をもつていました。ところが西さんの議論からは社会的意識が解けないように思われたのでした。ところが『哲学的思考』をみると、その第7章で社会の現象学について論じられていたのです。そこで西さんが何を考えているか、ということについて知りたくなつたのです。
　西さんは新しい本でも、『哲学のモノサシ』と同様に考えることについて追求しています。いや、新しい本では「哲学ゲーム」をふまえて、「考え合うことの希望」が語られているのです。西さんにとつては現代思想には「ほんとうに人々を深いところから説得していこうとするような、根底的で原理的な思考が不在」（『哲学的思考』6頁）であるばかりか、悪い事に「根本的に考えつめようとすること自体が絶対の真理と確実性を求めようとする悪しき欲望なのだ、という雰囲気を」（19頁）しばしば漂わせている、というのです。そして、フッサールに立ち返る理由を「私たちがさまざまな問いを考え合い、深く原理的な考えを共有していく可能性を、フッサールだけがはつきりと指し示している」（5頁）ことに求め、現代思想がフッサールの理論を誤解した上で批判しているとみなして、現代思想の見解を批判しつつ、フッサール現象学の紹介と、それの豊富化をはかつています。

3）哲学的思考になつていない

　西さんには悪いですが、ヘーゲルを研究せずして意識について論じているフッサールについて私は買っていません。ただ『デカルト的省察』や『ヨーロツパ諸学の危機と超越論的現象学』は非常に面白く読むことができました。そこで、西さんの本についても、フツサール解釈のところは立ち入らず西さん自身の考えが積極的に述べられている第5章いかにして現実は形づくられているか、に移ります。
　西さんによれば、古来哲学上の難問とされていた「主観と客観の二元的分離」をどう一致させるのか、ということについて、フッサールは「客観（自体存在）は主観（意識）とまったく無関係に存在しているのではなく，私が意識しようとしまいと客観的に存在すること自体が意識の働きのなかで確信されている」（205頁）、つまり「客観は主観と無関係なのではなく、主観の働きのなかで客観『として』確信されている」（205頁）と考えたそうです。
　この捉え方とヘーゲルの意識論とを比較してみますと、ヘーゲルが意識を自我の対象に対する関係と捉えているのに、フッサールの場合は、意識の方だけを問題にしようとしていることがわかります。フッサールにとっては対象も意識のうちで確信されているものだというのですから。だから当然にも西さんは「意識に内在してはじめて『客観性』の意味と根拠を理解しうる」（210頁）ものとして、フッサール現象学の根本的な洞察と捉え、これを支持することになります。
　ここから、西さんの哲学的思考は自分自身の意識にそのように客観が確信されているか、ということをさぐっていくことになります。そして、そのことにもとづいて、「知覚の特権性を大きく二つの特質に整理することができる。それは、現実それ自体がじかに与えられるという感触を伴うことと、この現実はだれにとつても同じように知覚されうるという信念が伴うことである」（211頁）と述べています。
　ここから出発して、まるでヘーゲルの『精神現象学』のように、意識の経験を描き出しながら、中間的結論として「私たちは、みずから体験したことを『首尾一貫した時間的・空間的秩序』へと織り上げているのであつて、その意味で、現実とは、体験の調和によつて形づくられた、時間的・空間的な首尾一貫した秩序なのである。」（22頁）と述べ、さらにこの命題をひっくり返して「これまで体験の経過が首尾一貫した調和をなしてきたからこそ、『動かし難い現実の秩序がある』という確信が形づくられ維持されてきた」（222頁）とさえ述べています。
　ヘーゲルと違って西さんの場合の体験とは知覚の属性をとり出すものとなつています。最初に述べられている「知覚の特権性」にしても、西さん自身が体験していることを知覚の属性としてまとめただけのものですし、「時間的・空間的世界」にしても、自分が考えるときに「首尾一貫した時間的・空間的秩序」を織りあげていると宣言しているだけなのです。ヘーゲルの場合、意識を自我と対象との関係と捉え、これを基本にすえて、個と一般的なものとの関係や、時間と空間との関係や、物の本質的関係や、現象などが「外の主体の弁証法」を用いて、意識が経験していく過程が描かれているのですが、西さんの場合は西さん自身が色々考えたことを書きつらねているだけのような気がするのです。
　だつて、最初の前提を、客観とは主観の働きのなかで客観として確信されている、というところにおき、この前提にしたがつて西さんが思考しているわけですから、「現実それ自体がじかに与えられるという感触を伴う」とか「この現実はだれにとつても同じように知覚されうるという信念」が知覚の特権性だと言われても、これは最初の前提の言い換えでしかないのですね。さらにまた意識が自らが体験したことを「首尾一貫した時間的・空間的秩序へと織り上げている」という主張も同じことを言い換えただけです。
　これでは哲学的思考にはなりません。せめてカントにならつて、アンチテーゼについて述べ、双方ともが成立しうるということぐらいは述べてほしい。西さんは結論として「もろもろの体験が実際に相互に調和する（ツジツマが合う）からこそ、唯一の堅固な現実があるという信念は持続する」（224頁）と述べているが、では唯一の堅固な現実がある、という信念のもとになつている、「体験が実際に相互に調和する」のは何故なんでしょうか。意識がそうするからですか。
　このような単線的な言い換え、つまりトートロジーを述べながら、何か意義のあることを述べているように西さんには考えられているようですが、その根拠は私には西さんが「考え合う」ことを目標にして「哲学ゲーム」を実践していることとかかわつているように思われます。「哲学ゲーム」は、厳しい言い方になりますが、形而上学遊びを超えることはできないのではないでしょうか。というより、フッサールの意識論で「哲学ゲーム」をやると、現実から切断されたところでゲームをすすめることができてしまう、ということでしょうか。

4）終わりに

　次にフッサールの泣き所である「他我」問題について、西さんはフッサール説の補強につとめながら、自説を次のように述べています。
　「他者の世界経験――それは他者の言葉やふるまいによつてのみ私に示される――と、私の世界経験とが実際に相当に調和するからこそ、万人にとつて同一な世界があるという信念が維持されている。また逆に、この信念があるからこそ、私たちは自他の世界経験を調和させようと努力するのである。」（245頁）
　これも実は最初の前提の言い換えですね。でも、このような言明も9月11日以降は説得力を失なつています。アメリカは何故アフガニスタンの世界経験と自らのそれとを調和させようとしなかつたのでしょうか。
　西さんの本は、読み物として読んでいる限りは難なく読めるし、のどごしも悪くない。しかし、「哲学的思考」と名乗っている限り、のどごしが良いだけでは困るのですね。現代思想の真理に対して相対化を批判しようとする意図は買えるのですが、人間が意識する限りで「万人にとつて同一な客観的世界が存在するという信念」が生まれる、という意識論は、カントの超越論的仮象論から後退しており、しかもこの信念の成立を自分の個人的な意識活動の経験から証明しようとする方法は、すでにみたように、とても哲学的思考と言えるものではありません。ということで、社会の現象学にまで立ち入る気持ちがなくなつてしまいました。ここで終わります。

��ε��

Return to Category | Return To Main Index

Author: admin Published: 2006/1/5 Read 5025 times