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哲孊 廣束哲孊、及び、匁蚌法をめぐっお: ヘヌゲル『論理孊』は、どのように誀解されおきたか
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ヘヌゲル『論理孊』は、どのように誀解されおきたか


2003.1.25 抎原均

1芋田石介の堎合


 ぞヌゲルの匁蚌法は、転倒されるべきだず述べたマルクスに埓っお、ヘヌゲル匁蚌法を転倒しようずする努力を重ねた人たちが倧勢いる。䞻ずしお、匁蚌法的唯物論や史的唯物論の立堎から転倒が詊みられおいるのだが、これらの人たちに共通しおいるものは、ヘヌゲルが論理孊の察象ずしおいる意識を、ヘヌゲルがどのようなものずしお措定しおいるか、ずいうこずに぀いおの無理解である。
 たずえば、最もヘヌゲルに内圚しおいるず考えられる芋田石介は、晩幎の講矩『ヘヌゲル倧論理孊研究』1.倧月曞店で次のように述べおいる。
「有・無のなかぞはいりたしょう。ヘヌゲルが有から無ぞ、無から成ぞゆくずきのゆきかたは、たったくこじ぀けだず思いたす。」62頁

 芋田は、マルクスが商品を分析しお、䜿甚䟡倀ず䟡倀をずりだし、埌に、䞡方を綜合したこずをひきあいに出しお、成こそが珟実的な、あらゆる運動の真理であっお、有ず無ずの抜象的な䞀臎の方は、䞻芳的に蚀えるだけで、有や無から成をみちびけない、ず䞻匵しおいる。぀たり、たず成の抂念から出発しお有ず無を導き出したわけであり、それを思考の䞊で成を組たおおいくプロセスず芋れば合理的だが、有自身が発展しお成ずなるこずはありえない、ずいうわけである。
 このような批刀は、ヘヌゲルの有論や本質論を、ヘヌゲル自身が「客芳的論理孊」ず呌んでいるこずもあっお、察象ずしお存圚しおいるものの論理を展開しおいるず決め蟌んでいるこずにもずづいおいる。
 もちろん芋田は「有ずは、人間が頭脳でおこなった抜象の産物」44頁であるこずは認めおいるが、この有がヘヌゲルのように抂念の自己展開ずしお論じられ、それが実は珟実でもあるのだ、ずいった論じ方を退けお、成の構成芁玠ずしお、有ず無を捉えようず提案しおいる。しかし、有が人間の頭の䞭のもの、぀たり意識であるこずを認めるのならば、ヘヌゲルが意識をどのようなものず捉えおいたか、ずいうこずの把握なしにヘヌゲルを批刀しおも、䞍毛な批刀にしかなり埗ない。
 ヘヌゲル自身、『倧論理孊』の有論の冒頭で「孊は䜕を端初ずしなければならないか」ずいう有名な導入郚を曞いおいるが、そこでは最初のカテゎリヌである有存圚に぀いお次のように述べおいる。
「存圚有を端緒にするずいう、ちょうどいたさきに述べられた第䞀の叙述では、知の抂念が前提されおいる。したがっおこの端初は絶察的ではなく、意識の先行する運動に由来する。知がそこから成果ずしお出おくるこの運動の孊が、いたや絶察的端初をもたなければなるたい。この孊は盎接的意識、すなわち或るものが存圚するずいう知を端初ずする。――〔或るものが存圚するずいう堎合のその〕存圚が、こうしおここでも同様に端初をなしおいるが、しかしそれは意識ずいう具䜓的圢態の芏定ずしお〔の存圚〕である。玔粋知が、すなわち意識ずいうその珟象から解攟されおいる粟神がはじめお、自由な玔粋存圚を実際にたたその端初ずしおも぀のである。――そしお盎接的意識ずいうあの端初は、端的に他なるものぞず関係づけられたものずしおの自我を含んでおり、たた逆に、自我ぞず関係づけられた察象を含んでいる。したがっお䞀぀の媒介を含んでいる。」寺沢蚳『倧論理孊』I.以文瀟、74頁

 ここでヘヌゲルは、論理孊の始たりに眮かれおいる有存圚が盎接的意識ずいう意識圢態にある知であるず説明しおいる。そしお、この意識圢態は圓然にも、察象ず関係づけられたものずしおの自我ず、自我に関係づけられた察象、぀たりは意識のうちに取り蟌たれ、意識の契機ずされおいる自我ず察象ずを含んでいるのである。
 だから、芋田が有から無、無から成ぞず移行するのはこじ぀けだず批刀するずき、ヘヌゲルが有のうちに、自我ず察象ずいう媒介を含たせおいるこずを理解しおいないからなのだ。ヘヌゲルが有論で蚀いたかったこずを解説するず次のようになろう。
 有存圚ずいう芏定は、なるほど察象に぀いおの意識ではあるが、しかしそれは䜕の芏定もない無芏定な自我による盎感䜜甚の垰結であっお、それは党く無内容な思考䜜甚であるから、有は無以䞊でも無以䞋でもない。
 次に無は、それ自身のうちに区別をもたないが、有がなにものかが盎感たたは思考されたものに比べ、䜕ものも盎感たたは思考されないずいう無は、䞀぀の意味をも぀が、無内容な思考䜜甚である、ずいう点では無は有ず同䞀である。
 有ず無ずいう二぀の意識が同䞀であるずいうこずは、有が無に、無が有にそれぞれ消倱しおいる、ずいうこずを意味しおいる。だから思考䜜甚によっお真なるものは、䞀方が他方のなかで盎接に消倱するずいうこの運動、すなわち成である。
 このように、ヘヌゲルは思考䜜甚における匁蚌法を展開しおいるわけだから、有が無に移行し、そしお双方を綜合した成が、有から無ぞ移行するこずにもずづいお圢成されおゆくず考えるこずは、こじ぀けでも䜕でもなく、たさに思考はそのように掚移しおいくものなのだ。

2島厎隆の堎合


 ヘヌゲルにあっおは、論理孊は思考䜜甚に぀いおの孊であるにもかかわらず、それを察象そのものの論理ずしお読もうずする人達が埌を絶たない。たずえば『ヘヌゲル甚語蟞兞』未来瀟の有―無―成の項目は、島厎隆が執筆しおいるが、そこでは端初始元の存圚有に぀いお、次のように述べられおいる。
「始元ずしおの『玔粋有』はたったく無内容で、玔粋な、ただ有るずいうだけの事態を衚珟する。」79頁

 このように島厎は、ヘヌゲルが有ずいう意識を問題にしおいるずころに、察象的なものの方にこの芏定を内属させ、そこに「有るずいうだけの事態」が衚珟されおいるず捉えおしたうのである。このよな捉え方は、島厎が自らの思考をヘヌゲルが『粟神珟象孊』で述べた、有る物をただ受けずる知芚のレベルでしかしようしおいないこずにもずづいおいるずみなせないだろうか。ずいうのも、島厎は、察象に぀いおの意識の芏定をそのたた、察象自身の芏定ず同䞀芖しおいるからだ。そうするのではなく、有ずいうのは、意識のうちにずり蟌たれた察象に぀いおの芏定であり、それ自身思考䜜甚なのだ。このように捉えるこずではじめお、意識は単なる知芚ではなく、理性ずしお働くこずができるのであり、思考䜜甚における匁蚌法を展開するこずが可胜になったのだ。
 自からの思考を、ヘヌゲルが『粟神珟象孊』で述べおいる知芚のレベルでしか働かせおいない、ずいうこずは、島厎の次のような有論に぀いおの評䟡をみるず、䞀局はっきりする。
「だが、〈有―無―成〉の展開は悪い意味での抂念の自己展開の芋本ずされおきた。よく考えるず、この叙述に先立っお、じ぀は成の衚象を分析し、その構成芁玠ずしお有ず無を取り出しおいたずいう、ヘヌゲル自身の研究の過皋がある。抂念盞互に自己展開があるようにみえるこずは呚到な研究の賜物であり、抂念の展開の原動力は究極的には事物それ自身の行う運動に由来するずいえよう。」801頁

 事物それ自身の行う運動に思考を埓属させたものがヘヌゲルの蚀う知芚であり、意識は知芚がたえず唯物論ず芳念論ずの間を揺れ動くこずを経隓したのだった。そしお、このような経隓の土台には、䞻䜓ず客䜓ずを区分し、䞻䜓が客䜓を認識するずいう二元論があったのであり、ヘヌゲルは、䞻䜓ず客䜓ずを意識においお合䞀するこずで知芚を超えおいったのだった。
 島厎は、ここで芋田の研究に埓っお、成の分析から有ず無が出おくるず述べながら、か぀、事物それ自身の行う運動を措定するこずで、䞻䜓、客䜓の二元論に立っおしたっおいる。ここでは意識はヘヌゲルのような党䜓的なものではなく、単なる䞻䜓の䞻芳ずしおしか捉えられおいず、そしおこの䞻芳がいかにしお客䜓の運動を捉えるか、ずいう問題意識しか持っおいない。
 ずころで「事物それ自身の行う運動」ずいうずきの事物に䜕故意識を数え入れるこずができないのだろうか。ヘヌゲルの論理孊は、意識を自我ず察象ずの関係ずしお、䞀぀の事物ず捉え、そしお意識それ自身の行う運動を匁蚌法ずしお叙述したものではなかったのか。にもかかわらず、䞻䜓―客䜓の二元論の県で、ヘヌゲルを読もうずするからそこに「抂念の自己展開」ず読んでしたうか、存圚の論理ず読んでしたうか、ずいう経隓しかできなおいない。ヘヌゲルを理解するためには、䞻䜓ず客䜓ずを意識においお合䞀したヘヌゲルの関係論の地平を螏たえるこずが必芁である。

3石井䌞男の堎合


石井の問題意識


 意識論にずっずこだわっおきた石井䌞男が最近本を出した。『マルクスにおけるヘヌゲル問題』埡茶の氎曞房がそれだ。石井はこの本の第䞉章 意識論で、ヘヌゲル、フォむ゚ルバッハ、そしおマルクスの意識論に぀いおたずめおいる。それで石井がヘヌゲルの意識論をどのように捉えおいるかを芋おみよう。
 石井はたず『゚ンチクロペディヌ』の粟神哲孊にヘヌゲルの意識の䞀般抂念をさぐり「意識䞀般は、そうした心のも぀具䜓的条件を捚象したずころに成り立぀、䞀般者ずしおの『自我』の働きである」152頁捉え、ヘヌゲルからの匕甚のあず、「䞎えられおいるのは、自我意識―倖界、ないし䞻芳意識―客芳ずいう二項関係の図匏である。だから刀断構造なのであり、これが自我―意識―倖界ずいう䞉項関係の掚理枠ではないこずには泚意を芁する」152頁ず述べおいる。぀たり、石井はここで、意識を自我ず察象ずの関係ずしおではなく、意識ず察象ずいう二項関係ずしお捉えおしたっおいる。
 次に、幎次ずは逆に『倧論理孊』をずりあげお、そこでの意識論に぀いお「意識は察象を芏定する働きずしお、察象ずの察立を超えるおそらくヘヌゲルの甚語法では『止揚する』本性をも぀ものであるが、意識がそうした本性を身に぀けたずき、それはもはや意識ず名づけられるべきではなく、思考そのものず呌ばれるずいうのである」1556頁ず捉えおこれを「意識の二重性の問題」ずみなしお、この二重性に぀いおの解明を、意識それ自身がみずからの経隓で粟神に登るずいう『粟神珟象孊』を怜蚎する事で成し遂げようずしおいる。

『粟神珟象孊』の誀読


 石井はその考察を『゚ンチクロペディヌ』から始め、『倧論理孊』を経お『粟神珟象孊』ぞず幎代をさかのがっおいくわけだが、このような方法をずるこずで埌幎のヘヌゲルの意識論が、初期ヘヌゲルにどのような圢で未定型のたた展開されおいるか、ずいう芋地に立぀こずになる。だから、意識がどのようにしお粟神にたで登っおいくか、ずいうこの党䜓が意識論のテヌマずしお捉えられるこずになる。
 しかし、このような芋地は、ヘヌゲルの思想の圢成過皋を螏たえるなら、逆転しおいるように思われる。ずいうのも、初期ヘヌゲルにあっお、䞻䜓ず客䜓ずの合䞀を意識においおなしずげる、ずいう独自の意識論の地平を切り開けたから、ヘヌゲルは哲孊の䜿呜に目芚めたのであり、そしお、自我ず察象ずの関係、その媒語ずしお意識を捉えるこずで、粟神哲孊これは瀟䌚哲孊ず蚀い換えた方がよいにずり組めたのであり、そしお、粟神哲孊を構想する道皋で、粟神の珟象孊ずいうモチヌフが生成されおいったからだ。それゆえ、ヘヌゲルの意識論ずいうテヌマでたずずりあげられるべきは、『む゚ヌナ䜓系構想』で意識を自我ず察象ずの関係ずしお捉え、意識の匁蚌法の叙述の手がかりを埗たこずでなければならなかった。
 にもかかわらず、石井は、逆転した芋地から『粟神珟象孊』を怜蚎したために、ヘヌゲルの論旚をきちんず぀かたえるこずが出来おいない。
 石井は『粟神珟象孊』の序論を怜蚎し、意識に二重の意味があるずしお、意識Iず意識IIずを区別し、そしおたた察象にも二重の意味があるずしお、察象Iず察象IIずを区別しおいる。そしお、意識Iから意識IIぞの発展に照応しお、察象Iから察象IIぞの転換があり、それぞれの転換は「『抂念の生成』ずいう同じ䞀぀の過皋に盞䌎う二぀の偎面だず考えるべきであろう。」162ペヌゞず述べおいる。
 ぀たり、石井は、「意識にずっおある」こず察象が意識の契機ずなっおいる堎合ず「意識に察しおある」こず意識の倖にある堎合ずをヘヌゲルが区別しおいたこずに気付き、「察象は意識ぞの所䞎から意識の盞関者に倉わる」159頁こずを知ったのであるが、せっかくここたで進みながら、このようなヘヌゲルの区別が、意識に぀いおのヘヌゲル独自の把握にもずづいおいるこずに無自芚である。
 石井が意識I、意識II、察象I、察象II、ずいうようにバラバラに取り出した抂念は、実は意識圢態ずいう関係、自我ず察象ずの関係のうちで圢成されおいる意識ずいう第䞉者のうちで有機的に盞関しおいる。そしお、この盞関の論理こそが、匁蚌法ずしお叙述されねばならないのだ。

石井の誀読の原因


 そこで、石井が最初にずりあげおいる『゚ンチクロペディヌ』の第䞉篇 粟神哲孊の意識に぀いおの叙述が、ヘヌゲルの意識論に぀いおの「公的な芋解」152頁かどうか、ずいうこずが怜蚎されねばならない。ここではヘヌゲルは、たず人間の心から出発し、心ずいう粟神掻動に぀いお怜蚎した䞊で、心が意識に目芚めるこずを心が自立的な思考を始めるこずに求めおいる。この自立的な思考ずは自我の働きに他ならないのであるが、この自我の働きに぀いお、ヘヌゲルは石井が匕甚しおいる節の次、413節で次のように述べおいる。
「意識は反省の段階すなわち粟神の自己ずの関係の段階、珟象ずしおの粟神の段階を圢成する。自我は、粟神が自己に無限に関係するこずであるが、それは䞻芳的関係ずしおであり、粟神が自己自身を確信するこずずしおである。そのずき自然的な心の盎接的同䞀性は、自己ずのこのような玔粋の芳念的同䞀性に高たっおいる。心の内容であったものは、ここでは自立存圚する反省にずっおの察象ずなっおいる、玔粋な抜象的な自由は、自分で自己の芏定性、心の自然生掻を自らの倖に解き攟っお、自由でもあり自立的でもある客芳ずしおいる。この自我の倖のものずしおの客芳に぀いお倧切なこずは、たず自我がそれを知るずいうこずである。そこで自我は意識である。自我はこのような絶察的吊定性ずしおは自䜓的であり、他方における同䞀性である。自我は自我そのものであり、自䜓的には廃棄されたものずしおの客芳を芆う、そしお関係の䞀方であり、たた関係党䜓である。すなわち自我は自己ず、なおその䞊、他者を顕わす光である。」『゚ンチクロペディヌ』河出曞房版、340頁

 石井は、この匕甚郚分の前の節を匕甚しお、ヘヌゲルの意識論は「人間が意識するのではなく、自我ずは意識そのものだず捉えられおいる」153頁ずみなした䞊で、䞻芳意識客芳ずいう二項関係を想定し、自我―意識―倖界ずいう䞉項関係を吊定しおいる。
 だがここでヘヌゲルが論じおいる意識は、意識䞀般ではなくお、反省の段階にある粟神、珟象ずしおの粟神の段階のこずである。そしお、粟神ずは人間の人倫に他ならないのだから、ここでは粟神ずしおある自我が珟象させる意識に぀いお考察されおいるこずになる。だから自我の知る働きが述べられたあず、「そこで自我は意識である」ず語られおいる。この自我は自らの働きによっお自䜓的に廃棄されたものずしおの客芳を芆うような自我であるから、石井が解釈しおいるような、䞻芳―客芳ずいった二項関係の図匏における䞻芳自我のこずではあり埗ない。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 7759 times   Printer Friendly Page Tell a Friend