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脱物象化の運動論を求めて


脱物象化の運動論を求めて


協同と民主主義シリーズの始まり


 シリーズはこれまで13回に達しています。第1回目は民主主義の理論と制度、ということで基本的人権について研究しました。民主主義は制度としては、古代ギリシャの都市国家で形成されましたが、しかしそれは自由市民の制度であって、当時の社会的生産を荷っていた奴隷はその制度から除外されていました。従って全ての人間に民主主義を保障する制度は18Cのブルジョア革命の時代の人権宣言で約束されました。(日本では今日でも国家の象徴である天皇に人権はありません)
 人権宣言にも色々ありますが、その基本思想は、(1)人は自由・平等なものとして出生する(出生による差別の廃止)、つまり基本的人権は人が生まれながらにもつ権利であるとしたこと、(2)人や国家が従わなければならないものとして、自然法を前提においたこと、(3)国家の主権は国民にあるとしたこと、(4)所有権の不可侵性を宣言したこと、の四点でした。
 これらは皆、それまでの封建時代の国家と政治の否定でした。(1)は身分制の否定であり、(2)と(3)と(4)は主権を国家におく、君主の絶対制の否定でした。自由と民主主義は、歴史的に見れば、封建社会のなかで成長してきた資本主義的生産を拘束していたそれまでの政治的、社会的システムから解放することでした。

 第2回目は政治的解放と人間的解放というテーマで、マルクスの論文(ユダヤ人問題)とパリ・コミューンをとりあげました。マルクスはフランス人権宣言に典型的に示された自由と民主主義の保障を、封建主義からの人間の政治的解放と捉え、その人類史上の偉大な意義を強調しましたが、同時に、それまでの拘束からときはなたれた資本主義的生産が、労働者の人間性を奪う疎外されたシステムであることを見抜き、政治的解放はそれだけでは人間的解放とはならないことを指摘し、人間を解放する、という尺度で見たときのブルジョア革命の限界を明らかにしました。
 マルクスによれば、パリ・コミューンこそは、労働者の人間的解放を課題としたものであり、そのための国家機関の萌芽でした。マルクスはパリ・コミューンの国家権力としての特徴を次の四点にまとめています。(1)常備軍を廃止し、それを武装した人民におきかえたこと、(2)議会制を廃止し、立法と行政とを兼務したこと、(3)公務員を人民の選挙で選出し、かつリコール権を認めたこと、(4)官吏の労働者並み賃金を実施したこと。

シリーズ中間総括


 ひきつづき、第3回市民社会の理論、第4回未来社会のシステム、第5回もう一つの働き方の可能性と進み、第6回目で中間まとめを行いました。
 第3回目では、ホッブス、ロック、ルソーと現代の市場論を、第4回目ではロッチディール原則を、第6回目では、アリスメンディアリエタの思想をそれぞれとりあげました。
 この間の研究については、若干問題意識が不鮮明となり、また、消化不良の感もありましたが、モンドラゴン協同組合群の指導者、アリスメンディアリエタの思想の解明という点で大きな成果をあげました。第5回目の研究会でアリスメンディアリエタが、協同組合企業で働く人々に積極的に投資を呼びかけ、それを保障していくものとして労働者の団結があると見ていた点が新鮮でした。つまり、資本家企業に負けないだけの投資を行うことによって、協同組合企業が経済競争に勝っていくことを通して、社会変革を実現しようとしていたことが判明したのです。こうして、社会革命は政治権力を獲得して以降にしか問題にならない、とする伝統的な左翼の路線とは別の、もう一つの働き方を実現することを通しての社会変革の道筋が見えてきました。
 アリスメンディアリエタの思想について、彼が青年期に傾倒していた人格主義の思想の解明にまで踏み込んで全体的に把握しようと試みたのが第6回目の中間まとめでした。
 そこで明らかとなったものは、常識的に、個人の属性と見なされている人格が、個人と個人との社会関係のなかで、個人を超えて形成されているもの、という人格把握でした。協同ということも、個々人がそれぞれに保持している協同を持ち寄る関係ではなくて、他者との関係においてすでに存在している協同の関係に入ることであり、その関係のなかで協同を実感できるシステムではなかろうか、ということが検討されました。

現代の魔法、商品の物神性


 第7回物象化論について、及び第8回本能的共同行為・無意識・意識形態、の2回については、会報18号及び20号でその概要を述べましたので、それを参照して下さい。
 以降は協同主体の形成にむけての模索がはじまります。第10回は生きる場としての「地域」でしたが第11回から第13回まではいずれも協同主体の形成をテーマとしました。これらについての整理は別の機会にします。
 さて、これからが11月例会の解題となります。物象化が物神性をともなうことをつとにマルクスが理論的に解明していましたが、しかしながら資本主義的生産が発達していった19Cは世界を構成するありとあらゆるものに意味を求めていた世界観を解体していく過程でもありました。だからウェーバーは「世界の魔法が解ける」と言ったのです。
 ところが旧い魔法は解けてしまいましたが、商品や貨幣や資本の物神性によって、新しい魔法が成長してきました。日本でも、経済の高度成長期をへて70年代後半ともなると、「新人類」という言葉が流行するようになりました。80年代に入ると、新興宗教ブームとなり、若者は価値ではなく、意味を求めるようになりました。
 ここに現代の魔法の特色が鮮明にあらわれています。それはどのようなトリックでしょうか。現代の人間は個人的にそれぞれ自立し、独立していると思い込まされています。しかし、都市の生活一つとってみても、人は他人との関係をぬきに生活することはできません。実際、商品、貨幣を媒介にして、人々は生活していて、そのこと自体が、人々がお互いに社会的な関係を取り結びあっていることの結果です。ところが、この人々の社会関係が、商品や貨幣を媒介としていることによって、それが人間の関係とは意識されないのです。
 従って、「新人類」は、日常生活のなかで、人間の関係にうずめつくされているにもかかわらず、それが魔法でモノとの関係になってしまっているので、人間としての自分を日常生活のなかで喪失してしまい、人間的な連帯を求めて自分探しの旅に出る他はなかったのでした。
 人間の社会関係をモノの関係に転移させること、これこそが現代の魔法たる商品の物神性です。この魔法は高度成長期のあと、70年代後半になって威力を発揮しはじめました。それはバブルの形成にも一役を買い、バブルの崩壊後はより一層個人をしめつけています。阪神大震災は一瞬のうちに、商品や貨幣を媒介とした社会関係が解体され、人間の人間的な連帯が一時的に実現し、現代の魔法が解けはじめました。しかし、それは非日常のこととされ、日常のとりもどしとともに魔法が復活しています。
 現代の魔法がどのようなものであり、それを解くにはどうすればよいか、この課題を真正面から受けとめるものとして、脱物象化の運動を形成していくことが問われています。

脱物象化の運動論にむけて


 脱物象化の運動論に接近するため、まず今日の政党政治や大衆運動の現状についてコメントするところから始めましょう。
 反体制の政治運動は今日冬の時代をむかえています。それは何故でしょうか。反体制の政治運動がさかんだった19C後半から1960年頃まで、世界はまだ現代の魔法のトリコにはなっていませんでした。日本のことを考えても、当時の人々の社会関係は、商品、貨幣を媒介にすることだけで成り立つほどシステム化されてはいませんでした。そこでは社会的正義をかかげ人の理性に消える政治運動が大衆運動として成立する条件がありました。
 ところが70年代後半にもなると、現代の魔法は威力を発揮しはじめ、日本の社会をトリコにしはじめました。そして、今日では、誰もが自分が何かに支配されていると感じるようになっています。
 世界が魔法にかけられ、人々の意識がくもらされているとき、社会的正義をかかげてみてもその正当性は何によって判定されるのでしょうか。従来の政治運動はこのことの反省がありませんでした。従って、魔法が威力を発揮するようになれば、それはさびれていくしかなかったのです。
 ではどうすればよいのでしょうか。運動の正当性を判断する基準、その運動が現代の魔法を解く方向にむかっているかどうか、ということに置けないでしょうか。脱物象化、ということを運動の基準に置くことができないでしょうか。




Date:  2006/1/5
Section: この15年間をふりかえって 文献目録
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