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協同組合運動と社会変革(1)


協同組合運動と社会変革(1)


1)問題の所在


 イギリスの三人の研究者たちの協同研究『ワーカーズ・コレクティブ』(緑風出版)は、消費協同組合ではなく、労働者生産協同組合(ワーカーズ・コレクティブ、叉はワーカーズ・コープ)についての歴史と現状に関する幅広い調査報告である。
 協同組合運動と社会変革というテーマを考察する際、この本は問題の所在を明らかにするのに役立つ。とりあえず、この本の第7章、結論とまとめ、をみてみると、そこには次のような言葉でしめくくられている。
 「最後に、私たちが主張してきたのは、資本主義のもとでの協同組合の発展の新しい波は、社会変革とはほとんど無関係であるということである。いくつかのオルターナティブな協同組合人たちは自分達の主張を拡めようとしているようだが、そうした協同組合は本質的に小さな経済領域の中に閉じ込められ、またそれらの組合を構成するのは、主として狭い範囲の社会=経済的階層出身の顧客と労働者である。新しい協同組合人たちの大多数は、仕事を生み出すことを主要な動機としており、協同組合形態に対するイデオロギー的な関心を優先的に抱くことはないかもしれない。そうした組織での労働は、ラディカルな政治的見解をもつことに必ずしもつながらない。社会変革を協同組合形態と結びつけるグループは、現代における協同組合の経験のうちに存在する矛盾を無視すべきではないし、ポスト産業主義、あるいはポスト資本主義社会における協同組合の役割についての問題を無視すべきでもない。こうした問題に取り組みつつ、労働者協同組合の理論と実践を検討することは、一つの積極な役割を果たすであろう。」(『ワーカーズ・コレクティブ』333頁)
 ここで今日の協同組合運動は「社会変革とほとんど無関係」であるとか、「ラディカルな政治的見解をもつことに必ずしもつながらない」と評価されている。このような評価は、いうまでもなく、「社会変革」についての著者たちの一定の見解にもとづいたものである。
 その見解とは、まず政治権力を掌握してから社会変革を実行する、というものであり、ニュアンスの違いはあるが、ほとんどの左翼諸政党は、この立場に立っている。この立場はもともと『共産党宣言』以来のマルクス主義者のものであり、ロシア革命の成功によって普及し、共産党から社会民主主義の諸党派にいたるまで、疑われることなく主張されてきた。どのようにして政治権力を掌握するか、という点では深刻な対立があったにもかかわらず。
 ところで、一般的に普及しているこの左翼の社会変革論が今日では時代おくれのものとなり、もう一つの社会変革の理論と路線が成立しうるとすれば、協同組合運動に対する著者たちの評価は正しいものではない、ということになる。もし、協同組合運動の発展の新しい波と、新しい社会運動が、従来の社会変革論とは別のもう一つの社会変革のコースに従っているとすれば、従来の社会変革論を再検討し、もう一つの社会変革論成立の可能性をさぐらなければならない。

2)マルクス主義の社会変革論


 マルクス主義の社会変革の理論については色々な立場があり、膨大な論争があった。しかし、非マルクス主義的左翼も含め、政治権力を掌握してから社会変革へ、という大枠ではそれぞれ共通であり、しかも今検討しなければならないものは、この大枠であるから、細かな立場の違いや、論争にはふれる必要はない。
 さらにこの大枠をいち早く理論的に整理して提起したのはマルクス‐エンゲルスの手になる『共産党宣言』であった。これは有名なものであるが、金科玉条にされることはあっても、批判的検討が加えられることはあまりなかった。以下に社会変革論の部分を引用しよう。
 「以上すでに見たように、労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級にたかめること、民主主義をたたかいととることである。
 プロレタリアートは、ブルジョアジーから次第にいっさいの資本をうばいとり、いっさいの生産用具を、国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産力の量をできる限り急速に増大させるために、その政治的支配を利用するであろう。
 もちろんこのことは、はじめは所有権とブルジョア的生産関係とへの専制的な侵害を通じてのみおこなわれる。したがって、経済的には不十分で、長もちしえないように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身をのりこえて前進し、しかも全生産様式を変革する手段として不可欠であるような諸方策によってのみおこなわれるのである。
 これらの方策は、当然、国によっていろいろであろう。
 しかしもっともすすんだ国々では、次の諸方策がかなり全般的に適用されるであろう。
  (1) 土地所有を収奪し、地代を国家の経費にあてる。
  (2) 強度の累進税。
  (3) 相続権の廃止。
  (4) すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
  (5) 国家資本によって経営され、排他的独占権をもつ一国立銀行を通じて信用を国家の手に集中する。
  (6) 運輸機関を国家の手に集中する。
  (7) 国有工場、生産用具の増加。協同の計画による土地の開墾と改良。
  (8) 万人にたいする平等の労働義務。産業軍の編成、とくに農業のためのそれ。
  (9) 農業と工業の経営の結合。都市と農村の対立の漸次的除去。
  (10) すべての児童にたいする公共無料教育。現在の形の児童の工場労働の廃止。教育と物資的生産との結合、その他。
 発展のすすむにつれて、階級の差別が消滅し、すべての生産が協同した諸個人の手に集中されたならば、公的権力は政治的な性格をうしなう。本来の意味の政治権力は、一つの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。プロレタリアートは、ブルジョアジーとの闘争において必然的にみずからを階級に結成し、革命によってみずから支配階級となり、そして支配階級として強制的に旧生産関係を廃止するが、他方またこの生産関係の廃止とともに、階級対立の存在条件、一般に階級の存在条件を、それによってまた階級としての自分自身の支配をも、廃止するのである。
 階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる。」(『共産党宣言』国民文庫、55~6頁)
 ここに従来の社会変革論のすべての要素が含まれている。もちろん、プロレタリアートの独裁、といった言葉や、ブルジョア国家機関を打ち砕く必要性への言及はない。しかし、労働者革命とは、労働者階級がまず政治的支配階級となり、そして、政治的な強制力で旧いブルジョア的生産関係を廃止する、という大枠は、しっかりと描き出されている。
 政治的な強制力でもって、社会変革を実行する以上、その具体的内容は、10項目の諸方策を見てもわかるように、一たんは経済的諸力を国家の手に集中されると、国家権力は非政治的なものとなり、協同組合的社会があらわれる、という展望が描かれているので、社会変革のコースとしては、労働者階級が政治的支配階級になること(労働者革命の第一歩)→過渡期(プロレタリアートの独裁)→国家と階級差別が消滅した共産主義社会、というものとなる。髏

3)マルクスの協同組合評価


 まず政治権力を掌握する、という社会変革論を打ち出しながらもマルクスは、協同組合運動に注目していた。『国際労働者協会(第一インターナショナル)創立宣言』では、協同組合について次のように評価している。
 「しかし、所有の経済学にたいする労働の経済学のいっそう大きな勝利が、まだそのあとに待ちかまえていた。われわれが言うのは、協同組合運動のこと、とくに少数の大胆な「働き手」が外部の援助を受けずに自力で創立した協同組合工場のことである。これらの偉大な社会的実験の価値は、いくら大きく評価しても評価しすぎることはない。それは、議論ではなくて行為によって、次のことを示した。すなわち、近代科学の要請に応じて大規模に営まれる生産は、働き手の階級を雇用する主人の階級がいなくてもやっていけるということ、労働手段は、それが果実を生みだすためには、働く人自身にたいする支配の手段、強奪の手段として独占されるにはおよばないということ、賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう連合労働に席をゆずって消滅すべき運命にあるということ、これである。イギリスで協同組合制度の種子を播いたのは、ロバート・オーエンであった。大陸で労働者が試みた諸実験は、事実上、1848年に――発明されたのではなくて――声高く宣言された諸理論から生まれた実践的な帰結であった。
 それと同時に、1848年から1864年にいたる期間の経験は、次のことを疑う余地のないまでに証明した。すなわち、協同労働は、原則においてどんなにすぐれていようと、また実践においてどんなに有益であろうと、もしそれが個々の労働者の時おりの努力という狭い範囲内にとどまるならば、独占の幾何級数的な成長をおさえることも、大衆を解放することもけっしてできないし、大衆の貧困の負担を目だって軽減することさえできないということである。もっともらしい口をたたく貴族や、中間階級の博愛主義的饒舌家や、さらにはぬけめのない経済学者までが、以前には夢想家のユートーピアだといって嘲弄したり、社会主義者の聖物冒涜という非難をあびせたりして、協同労働の制度を若芽のうちにつみとろうとしてさんざんむだぼねをおったのに、いま彼らが突然に、その同じ協同労働の制度に胸のわるくなるようなお世辞をならべたてているのは、おそらく、まさにこの理由によるものだと思われる。勤労大衆を救うためには、協同労働を全国的規模で発展させる必要があり、したがって国民の資金でそれを助成しなければならない。しかし、土地の貴族と資本の貴族は、彼らの経済的独占を守り永久化するために、彼らの政治的特権を利用することを常とする。今後も彼らは、労働の解放を促すことはおろか、労働の解放の道にあらゆる障害をよこたえることをやめないであろう。〔イギリス〕議会の前会期でパーマストン卿が、アイルランド小作権法案支持者を冷笑してやりこめたことを思いおこしてみたまえ。下院は土地所有者の議員なのだ、と彼は叫んだのである。したがって政治権力を獲得することが、労働者階級の偉大な義務となった。労働者階級はこのことを理解したように見える。なぜなら、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスで、同時に運動の復活が起こり、労働者党の政治的再組織のための努力が同時になされているからである。」(『マルクス‐エンゲルス8巻選集』4、59~60頁)
 ここでマルクスは、労働者協同組合(消費協同組合ではなく)がその実践によって、(1)労働者を雇用する資本家階級がなくとも大規模生産は可能であること、(2)労働手段は労働者を支配し搾取する手段として、資本家階級に独占されていなくとも、果実を生み出せること、(3)賃労働という疎外された労働は、自発的な、喜びに満ちた連合労働に席をゆずって消滅すべき運命にあること、の三点を明らかにしたことを大きく評価している。
 他方で、このようなすぐれた運動も、それが個々の労働者の時折の努力という狭い範囲にとどまるならば、労働者階級を解放する事業とはなりえないことが指摘され、協同労働を全国的規範で発展させる必要性が強調されている。
 ところが、この発展を追求しようとすれば、国家権力を握っている資本家階級と地主階級とが政治的に妨害するので、労働者階級は政治権力を獲得しなければならない、という呼びかけがなされている。
 つまり、マルクスは、労働者協同組合の意義を高く評価しつつも、政治的力関係を変えることなしには協同組合運動は社会変革にはつながらないと考えたのである。
 逆に、もし何らかの諸条件の変化により、政治的力関係を変えることなく、協同労働を全国的規模にまで発展することが可能となったならば、まず政治権力を獲得しなければならない、という方針は不必要なものとなろう。今日問われているのはこの問題である。

4)株式会社と協同組合


 マルクスが、協同労働を全国的規模にまで発展させることについて、並々ならぬ関心をはらっていたことは、協同組合企業を、株式会社とともに、資本主義的生産様式を超える「新たな一生産形態への通過点」と捉えたところにも示されている。
 マルクスは、当時主として、鉄道などの公共的事業の分野に発展しつつあった株式会社に注目した。それは第一に、オーナー資本家では不可能であった生産および企業規模の膨大な拡張を実現した。次に、オーナー資本家の場合の私的資本に比べれば、株式会社の資本は、多数の個人の出資金からなる社会的資本として登場した。第三に企業を管理する資本家が他人の資本の単なる管理人となり、資本所有者が単なる貨幣資本家になった。
 株式会社の特徴をこれらの三点に求めたうえで、さらにその歴史的性格が次のように指摘されている。
 「株式会社においては、機能が資本所有から分離され、したがって労働も、生産手段および剰余労働の所有からすっかり分離されている。資本制的生産の最高の発展のこうした成果は、資本が、生産者たちの所有――といっても、もはや、個々別々の生産者たちの私的所有としてのではなく、結合した生産者としての彼らの所有としての、直接的な社会的所有としての――に再転化するための必然的な通過点である。それは他面では、従来はまだ資本所有と結びついている再生産過程上のあらゆる機能が、結合生産者たちの単なる機能に、社会的機能に、転化するための通過点である。
 これこそは、資本制的生産様式そのものの内部での資本制的生産様式の使用であり、したがって自己自身を止揚する矛盾であって、この矛盾は、一見あきらかに、あらたな一生産形態への単なる通過点としてあらわれる。こうした矛盾として、それはまた次ぎの現象にもあらわれる。それは特定部面で独占を生みだし、したがって国家の干渉を誘発する。それは、あらたな金融貴族を、発起人・創立者および単に名目上の重役の姿をとった新種の寄生虫を、――創立、株式発行、および株式取引にかんする詐欺瞞着の全制度を、再生産する。これは、私的所有の統制なしの私的生産である。」(『資本論』・河出書房新社、358~9頁)
 同じ「通過点」とみなされながらも、株式会社の対極に位置づけられているものが協同組合企業である。
 「労働者たち自身の協同組合工場は、旧来の形態の内部では、旧来の形態の最初の突破である。といっても、それはもちろん、常に、その現実的組織においては、既存制度のあらゆる欠陥を再生産し、また再生産せざるをえないのであるが。だが、資本と労働との対立は、その工場の内部では止揚されている、――たとえ最初には、組合としての労働者たちは彼ら自身の資本家だという、すなわち、生産手段を彼ら自身の労働の価値増殖に使用するという、形態でにすぎないとはいえ。こうした工場は、物質的生産諸力・およびこれに照応する社会的生産諸形態の特定の発展段階では、いかにして自然的に、一生産様式から新たな一生産様式が発展し出来上がるかを示す。協同組合工場は、資本制的生産様式から発生する工場制度がなければ発展しえなかったであろうし、また、この生産様式から発生する信用制度がなくても発展しえなかったであろう。信用制度は、資本制的個人企業が資本制的株式会社に漸次的に転形するための主要基礎をなすのと同じように、多かれ少なかれ国民的な規模での協同組合企業の漸次的拡張の手段を提供する。資本制的株式企業は協同組合工場と同じように、資本制的生産様式から組合的生産様式への過渡形態と見なされるべきであて、ただ、対立が前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されているだけである。」(同書、361頁)
 ここでマルクスは、協同組合企業を国民的な規模で発展させてゆく上での信用制度がはたす役割について述べている。
 すでにモンドラゴン協同組合群の発展過程を学び、そこにおける労働人民金庫の重要な役割を見てきたとき、マルクスのこの記述は実践によって検証されたとみなすことができよう。

ロシア革命の時代区分


 マルクス主義の社会変革論とマルクスの協同組合論について確認した上で、次にはそれの実践が検討されなければならない。
 とりあげるのはロシア革命である。まず時代区分をかかげよう。
   1905年.      第一次革命(敗北)
   1917年2月~10月. 第二次革命(二重権力)
   1917年11月~1919年.ボリシェヴィキ党が支配するプロレタリアート独裁の形成
   1919年~1921年.  戦時共産主義
   1921年~1929年.  ネップ(新経済政策)
   1929年~1934年.  農業集団化
   1934年頃      スターリン体制(国家制社会主義)の成立
   1954年       スターリン批判の開始
   1985年~1992年.  ペレストロイカからソ連邦の崩壊へ。
 ロシア革命については山のような文献があり、細かな点に到るまで論争がある。しかし、資料が欠落し、研究が進んでいない時期も多い。ここでは、マルクス主義の社会変革論と協同組合論の実践的帰結を検証することが課題であるから、ロシアでプロレタリアート独裁が樹立されて以降の社会革命の進展について見ることが必要である。それで、1921~29年のネップの時期が考察の中心となる。

ネップとは


 1917年10月(旧暦)のいわゆるボリシェヴィキによる政治権力の奪取は、その党の組織性と規律に支えられて、無血革命としてなされた。革命と反革命との衝突はその後にもちこされ、1919年、ロシア領に進群していたチェコ軍の反乱を契機として、内戦と列強による干渉戦が始まる。
 この内戦の時期に、ソ連の社会システムが形成された。そのシステムは、戦争遂行上の必要からある種の統制経済となり、経済は物々交換となり、食糧は不足分を農民からの徴発にたよっていた。このシステムは見ようによっては、商品経済と資本家階級を廃絶した共産主義のようであり、ボリシェヴィキ党もこれを共産主義のシステムであるかのように捉えたこともあった。
 しかし、強制的な徴発に頼らねばならなかったシステムが長続きするはずがない。農村の不満を代弁して、クロンシュタットの要塞の水兵が反乱を起こしたとき、ボリシェヴィキ党は、強制徴発をやめ、食糧税に移行する措置(これがネップと呼ばれた)を採用し、戦時共産主義を自らの手で終わらせた。
 戦時共産主義の時代には、小企業といえども国有化されていたので、ネップの時期になされねばならなかったことは、小企業の民営化と商品交換の復活であった。このネップの時期に、第一次世界大戦によって疲弊していたロシアの経済は復興し、戦前の水準を超えて成長していった。その過程で農工間の生産力の格差が急速に形成され、農工間の商取引が農民に不利となったため、農民は穀物を政府に売りたがらなくなり、政府は穀物の調達に苦労するようになる。20年代後半になってはげしくなった穀物調達危機に対する対応として、スターリンは強制的手段にうったえた。この措置に対する農民の反対運動に直面して、スターリンはさらに一歩進めて、農業の集団化を強制的に実施した。こうして、ネップの時代は終わり、スターリン体制への道が開かれていった。
 整理すれば、ネップとは、食糧の強制徴発から食糧税へ、全面的国有化から中小企業の民営化へ、物々交換から商品交換へ、という三つの点での転換であった。

レーニンの協同組合論


 ネップに転換して以降のソ連で社会主義をどのように建設していくか、晩年のレーニンの主要関心がこれであった。党や国家の官僚化に対する批判とともに提起されていたものが論文「協同組合について」であった。ネップのもとでの協同組合の意義についてレーニンは次のように述べている。
 「じっさい、わが国で国家権力が労働者階級の手に握られた以上、すべての生産手段がこの国家権力のものとなった以上、われわれに残された任務は、まさしく、住民を協同組合に組織することだけである。協同組合への住民の組織化が最大限に行われている条件のもとでは、以前に、階級闘争や政治権力獲得のための闘争、その他が必要だと正当にも信じていた人々から、当然なことながらあざけられ、冷笑され、軽蔑されていたその社会主義は、ひとりでにその目標を達成する。ところが、ロシアの協同組合化が今やわれわれにとってどんなに大きな、広大な意義をもつようになったかということは、必ずしもすべての同志がはっきり理解しているわけではない。ネップを採用したことで、われわれは、商人としての農民に、私的企業の原則に譲歩した。まさにそのために(普通考えられているのとは反対に)協同組合化が巨大な意義をもつようになっているのである。じつをいえば、ネップの支配のもとでロシアの住民を十分にひろく、ふかく協同組合に組織することこそ、われわれが必要としているもののすべてである。というのは、私的利益、私的商業の利益と、国家によるこの利益の点検および統制とをどの程度に結合すべきか、私的利益をどの程度に公共の利益に従属させるべきかということは、以前には実に多くの社会主義者にとってつまずきの石となったが、われわれはいまではこの度合いを見いだしたからである。じっさい、すべての大規模な生産手段を国家が支配していること、国家権力がプロレタリアートの手に握られていること、このプロレタリアートと幾百万の小農民および零細農民とが同盟を結んでいること、農民に対する指導権がこのプロレタリアートに確保されていること、等々―これらは、われわれが以前に小商人的だとして鼻であしらっていた協同組合、またある面ではいまネップのもとにあってもやはり鼻であしらうのが当然な協同組合によって、もっぱら協同組合だけによって、完全な社会主義社会を建設するのに必要なすべてのものではないだろうか?これは、まだ社会主義社会の建設ではない。しかし、これこそ、この建設のために必要で十分なすべてのものである。」(『レーニン三巻選集』9。1441~2頁)
 レーニンの論旨は明解である。ロシアにおいて国家権力が労働者階級の手に握られ、全ての大規模な生産手段の国有化が実現されたとき、協同組合の役割も、それが資本主義の下ではたしていたものとは根本的に変化してきて、協同組合運動がかかげてきた社会主義は現実性をもってくる。ネップのもとでは住民を協同組合に組織することだけが、完全な社会主義社会を建設していくうえで必要な全てのものだ、と。
 ところがロシアでは、住民を協同組合に参加させるうえでの決定的な不利が存在している。この不利を克服する手段として、レーニンは文化革命を提起した。「この問題には、また他の側面もある。すべての人をひとりのこらず協同組合の取引に参加させ、しかも受動的にではなく、能動的に参加させるために、われわれがまだしなければならないことは、『開化した』(なによりもまず読み書きのできる)ヨーロッパ人の目からみれば、ごくわずかなことである。じつを言えば、われわれがまだしのこしていることは、ただつぎのこと『だけ』である。すなわち、わが国の住民が、協同組合にひとりのこらず参加することがどんなに有利であるかと理解して、こういう参加を組織するほどに、彼らを『開化』させるということである。ただこれ『だけ』である。いまのところ、われわれが社会主義に移るには、これ以外にどんなたいした工夫もいらない。けれども、これ『だけ』のことをやりとげるためには、完全な変革が、人民大衆全体の文化的発展の一時代が、必要である。」(1145頁)
 レーニンとボリシェヴィキ党は、革命の前までは協同組合主義に反対してきた。この歴史的事実を整理した上で、ネップの下での協同組合に成長が社会主義の成長と同じ意味をもっていること、協同組合の成長のためには文化革命が必要なこと、ロシアでの文化革命の困難さ、等々について、レーニンは次のように述べている。少し長いが重要な箇所なので引用しておこう。
 「私の考えを説明しよう。ロバート・オーエン以来の古い協同組合活動の計画の空想性は、どういう点にあるのか?それは、彼らが階級闘争、労働者階級による政治権力の獲得、搾取階級の支配の打倒の問題というような基本問題を考慮しないで、社会主義による現代社会の平和的改造を夢みていた点にある。だからこそ、われわれがこの『協同組合的』社会主義をまったくの空想と考え、住民を協同組合に組織するだけで階級敵を階級協力者に変え、階級戦争を階級平和(いわゆる国内平和)に変えることができるという夢に、ロマンティックなもの、それどころか卑俗なものさえ見いだすのは、正当なのである。
 現代の基本的任務の見地からみて、われわれが正しかったことは、疑いをいれない。なぜなら、国家の政治権力の獲得のための階級闘争によらなければ、社会主義は実現できないからである。
 だが、国家権力がすでに労働者階級の手ににぎられ、搾取者の政治権力が打ち倒され、すべての生産手段(労働者国家が自発的に、一時的に、条件つきで、利権として搾取者に貸し出しているものを除いて)が労働者階級の手にある現在、事態はどう変化したかを見られたい。
 いまでは、協同組合の成長そのものが(さきにあげた『わずかな』例外はあるが、)われわれにとって社会主義の成長と同じ意味をもっている、といって差し支えない。それと同時に、社会主義に対するわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、われわれは認めないわけにはいかない。この根本的変化とは、以前にはわれわれは政治闘争、革命、権力の獲得、等々に重心をおいていたし、またおかなければならなかったが、いまではこの重心が移動して、平和な、組織的な、『文化的』活動におかれるようになった、ということである。国際関係さえなかったなら、国際的規模でわれわれの地位をまもるためにたたかう必要さえなかったなら、私は、われわれにとって重心は文化活動に移りつつある、と言うことをはばからない。だが、この問題を別とすれば、国内の経済関係にかぎってみれば、いまではわれわれの活動の重心は、本当に文化活動に移ったのである。
 われわれは、一時代にわたる二つの主要な任務に当面している。第一には、三文の役にもたたない、前の時代からわれわれがそのまま受けついだわれわれの機関を、つくりかえるという任務である。この点では、われわれは、闘争の5年間に重大な改造をおこなう余裕はなかったし、また余裕があるはずもなかった。われわれの第二の任務は、農民のための文化活動である。そして、この農民の間での文化活動の経済的目的は、まさに協同組合を組織することにある。全農民が協同組合に組織されれば、われわれはすでに社会主義の基盤にしっかりと足を踏まえたことになるであろう。だが、全農民を協同組合に組織するというこの条件は、農民(まさに膨大な多数者としての農民)の高い文化水準を前提するので、完全な文化革命なしには、全農民をこのように協同組合に組織することは不可能である。
 われわれはあまり文化的でない国に社会主義を植えつけるという無分別な事業を企てていると、いくどもわれわれの敵に言われた。しかし、われわれは理論(あらゆる衒学者の理論)によって予定されたはじから始めなかったという点で、またわが国では政治的および社会的な変革が文化の変革、文化革命に先行したという点で、彼らはまちがっていた。それでも、われわれは、いま結局この文化革命に直面するにいたったのである。




Date:  2006/1/5
Section: この15年間をふりかえって 文献目録
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