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この15年間をふりかえって 文献目録 : 根源的他者と価値形態論
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根源的他者と価値形態論



【特集】
マルクスという可能性
根源的他者と価値形態論
岩井・柄谷のアポリア

非実体的解釈の限界


 『批評空間』に岩井克人が貨幣論の連載をはじめた。資本主義社会の危機は、マルクス主義が通説としていた経済恐慌にあるのではなくてインフレーションにある、という彼の仮説はともかく、貨幣論を価値形態論から展開しようとしていることの意義は大きい。
 しかも、その価値形態論も、宇野派流の価値実体否定のうえにたったものではないことに注目しなければならない。柄谷行人も含めた宇野派流義の価値実体否定論に対抗して、岩井は次のように述べている。
 「だが、マルクスの労働価値論をこのように非実体的に解釈、いや希釈してしまうことは、いかに現代的な立場からは興味ぶかい試みであろうとも、価値形態論を可能にしたマルクス自身の思考の構造を見失ってしまうことになる。そして、それは同時に、この価値形態論が開いてくれるあらたな思考の可能性をも見失わせてしまう結果にもなるのである」(『批評空間』一号、一八三頁)この提起は重要である。彼が今後この自らに課した目標をどのように遂行していくかは注視する価値がある。とはいえ、二号までに目を通した限りでのことだが、いくつか軌道修正をしてほしいところがある。
 とりあえず、あげ足とりのようなことになるが、マルクスの価値論を非実体的に解釈する試みは、もはや「現代的な立場から」は、興味がもたれるものではない、ということを示すことからはじめよう。
 たとえば柄谷が、「いいかえれば、『価値』なるものはなく、相異なる使用価値の関係が、もっと正確にいえば『差異』のたわむれが根底にあるだけなのだ」(『マルクスその可能性の中心』、三一頁)と解釈したのはもうずい分前のことであり、廣松渉が、マルクスの価値実体論は、物象化に則した仮りの規定だと主張したのはもっと前のこと(『マルクス主義の地平』)だった。
 そして、現代では、このような論説が一体何であったのかが問われており、それゆえ、非実体的な解釈に対する批判こそが興味ぶかい試みなのではなかろうか。
 もちろん、非実体的な解釈に対する批判も色々ある。柄谷自身、『探求』・の他者論で、交換関係を非対象的な他者関係と見ることによって、「差異のたわむれ」説を修正している。価値関係の両極、相対的価値形態と等価形態との間に非対象性を見ようとするならば、それは事実上一つの実体の両極として交換関係を把えていることになる。柄谷は口先では依然として商品に内在的な価値実体を否定していながらも、彼の探求は価値実体の措定を前提にしている。
 このようななしくずし的批判の他に現実の側からの批判もある。今日の宗教ブームは、抽象的、普遍的、類的なものを実体とみなし、個をその実現形態とする思考の一般化に裏づけられている。この点についての考察を欠く価値実体否定の論理は、今日の大衆的な社会意識に後れをとってしまっているのである。だから、価値実体否定の論理にもとづく社会批評は、いまや切れ味をもつことができない。

安易な実体解釈


 岩井自身が「マルクス自身の思考の構造」として提示しようとしていることは、「貨幣形態に秘密があるとしたら、貨幣という存在がまさに商品世界全体をまきこむ『循環論法』からうまれてくるということ」(『批評空間』二号、二一三頁)とかかわっている。この展開については、今後を待つしかないが、「もちろん、なにかを得るためにはなにかを捨てなければならない。そして、最終的に捨てられるのは労働価値論である」(同、二一三頁)というように、価値実体否定論にすり寄ろうとしているところに懸念を感じる。
 実際、岩井は、価値形態を価値体系として把えているのだが、マルクスがそこに経済的形態規定を見いだし、形態の両極にこだわっていることが忘れられ、新古典派の非局所的価値体系の理論に軍配をあげてしまっている。そして、単純な価値形態について述べる際にも、価値形態の両極に対して、『探求』で柄谷が試みているほどのこだわりも示してはいない。
 どこで軌道がそれているのだろうか。皮肉なことに、それは彼が労働価値論を実体的に解釈したところにある。
 「マルクスにとって、価値を形成する抽象的人間労働とは、ありとあらゆる人間社会に共通する『超』歴史的な実体以外のなにものでもないのである」(『批評空間』一号、一八四頁)
 これはまずいのではなかろうか。マルクスの叙述には、このように解釈しうる部分もあるが、逆に価値実体の超歴史性を否定している部分もある。マルクスはこの点に関しては両義的である。げんにこのことに規定されて、価値実体としての抽象的人間労働が、歴史的な範疇か、それとも超歴史的な範疇か、という問題をめぐって、大昔から論争があり、まだ決着がつけられてはいない。
 双方の解釈が生じる根拠が、マルクスのこの点での両義性にあり、そして、この両義性が「マルクス自身の思考の構造」であったとしたら、その一方を否定してしまった岩井の軌道は、あらぬ方向へとそれてしまいはしないだろうか。
 実際、この一方の観点への固執が、マルクスの価値形態論の目的を「超歴史的な価値の『実体』がまさにどのようにして商品の交換価値という特殊歴史的な『形態』として表現されるのかを示すことにある」(『批評空間』一号、一八五頁)とみなすことになっているのだが、こうした見地からのみ、価値形態論を解読しようとすると、読めない領域が出現せざるをえないのである。

思惟抽象と現実的抽象


 岩井が読めない領域は、運命のいたずらとでも呼ぶべきか、それとも、編集者の才能が光っていると見るべきか、同じ雑誌に翻訳連載されているスラヴォイ・ジジェク論文でとりあげられている。ジジェクはこの論文では価値形態論を主題としているわけではないが、従来見失なわれてきた価値形態論におけるマルクスの思考の構造を提示することに成功している。
 とはいえ、ジジェクがこの点で全面的に依処しているのはゾーン=レーテルである。ジジェクの限界はゾーン=レーテルの限界を知ることで判明する。彼が引用している『精神労働と肉体労働』は英語版であり、引用されている部分を見る限り、邦訳書の原典である独語版第二版よりも改善されているようである。だがゾーン=レーテルの基本的な主張が変化していないことは、ジジェクによるまとめからもうかがえる。
 ゾーン=レーテルを邦訳書でいま読みかえしてみると、思惟抽象と現実的抽象とのちがいの強調、現実的抽象も一つの思考の形態であることの指摘、さらには形態規定を重視し、商品抽象が社会的総合を実現する形態として貨幣を把える、などについての特色ある言説に目をひきつけられる。
 しかし彼は自分が設定した問題を正しく解決したとはみなせない。残念ながらジジェクですら、肯定的に把えてしまっているが、「交換抽象の概念的反映から、こうして、理論的自然認識の可能性が生じる」(『精神労働と肉体労働』、一二一頁)としている点は明らかに一面的である。なぜなら、この概念的反映は同時に自然に対する観念的把握をも生みだすのであるから。
 ゾーン=レーテルは、思惟抽象と現実的抽象とのちがいを強調し、正当にも、現実的抽象を思考の外にある「思考の形態」として把えながらも、双方の間にある抽象の様式のちがいに注意しなかった。彼はこのちがいについて理解してはいたが交換抽象にカントの先験的主観を見ようとする自らの哲学にわざわいされて、ちがいについて、つきつめて考えなかったのである。
 このようにして彼は思惟抽象と現実的抽象を形態的に同一視し、後者にカントのアプリオリな範疇の根拠を求め、他方でこの認識原理を精神労働の肉体労働からの分離の産物という見地から批判しようとしている。しかし理論の批判は理論に内在して行うべきである。
 現時点からすれは、思惟抽象と現実的抽象の同一性にではなく、その他者性に注目すべきである。この点を押えたうえで、ジジェクに語らせよう。
 「したがって、もし『現実的抽象』が、ある対象がもつ現実的属性という『現実』のレベルと無関係だとしても、それを『思考の抽象』として、つまり思考する主体の『内部』で起きる過程として捉えることは誤りだろう。この『内部』にたいして、交換行為に属する抽象はどうしようもなく外的であり、中心から外れている。ゾーン=レーテルの簡潔な公式を借用すれば、『交換の抽象は思考ではなく、思考の形態をとる』のである。
 ここに、無意識にたいしてあたえることのできる定義の一つがある。すなわち無意識とは、その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態である。つまり、思考そのものの外にある思考形態である。要するに、それによって思考という形態があらかじめ表現されているような思考の外にある、ある種のもう一つの光景である。象徴的秩序はまさに、『外的な』事実的現実性と『内的な』主観的経験という二項的関係を補完かつ/あるいは粉砕する、そうした形式的秩序である」(『批評空間』一号、二五〇頁)ここでジジェクは、ゾーン=レーテルの限界をこえる臨界点に到達している。現実的抽象という思考形態が思考そのものの外にある思考形態であり、思考にとって他者であるとすれば、これを把えようとする思考が困難に陥いることは明らかである。
 ジジェクは次の第一歩を踏み出せてはいないが、マルクスの価値形態論の思考の構造を示す、という点では一定の役割をはたしている。ところが岩井はこの問題を読みとばしている。彼は商品が主体であること、商品語について語ってはいるが、この関係の転倒と商品が概念的存在であることについて、驚きをもつことができていない。

売り手と買い手は他者か


 思惟抽象と商品における現実的抽象が、共に思考の形態でありながら、お互いに他者であること、この確認が価値形態論におけるマルクスの思考の構造について現代的に考察しようとするならば、その出発点に置かれるべきである。このことが判明すれば、柄谷行人の他者論を検討する必要性が生じる。
 柄谷が『マルクスその可能性の中心』で展開している価値形態解釈を批判することはやめておこう。すでに指摘しておいたように、『探求』における他者論の展開にもとづく再度の価値形態への考察が、事実上、過去の見解の修正をもたらしているからである。
 ここでの問題は、他者論における不徹底さが、価値形態の考察においても影をおとし、決定的な前進を妨げられていることである。
 柄谷は価値関係の両極の担い手たる売り手と買い手に他者関係を見い出している。商品に内在的な価値はないという立場に固執し、「等置することにいかなる合理的根拠もなく、それ以前に規則もない」(『探求』・、一〇一頁)という点に他者関係の成立を見るとき、彼は思考にとっての根源的他者である価値関係に自己の思考のコードを押しつけていることに気付いていない。
 ここで語られている「合理的」とは柄谷の思考が理解しえる合理性であり、「規則」とは彼の思考がそれと認めるもののことなのだ。価値形態にとっては思考が合理的だと考える抽象の仕方が非合理的であり、思考が案出する規則は適用不能なのである。
 マルクスのいわゆる「蒸留法」が現実に則していない、という批判は、価値形態の身になって思考した結果ではなかったのか。しかしこの種の批判は、いかに思考が価値形態の側に身を置こうと、価値形態の方が思考とは異なる思考形態をもち、思考にとって他者であったことによって、単なるエピソードにしかならなかったのである。
 柄谷が、売り手と買い手の間に共通のコードがない、というとき、彼は自分の思考を価値形態の側に寄せている。だが、この他者の側に立つことが成功するためには、彼は自分の思考形態を一たん捨てねばならない。そうすると売り手と買い手という非対象的存在者が、価値関係にあっては、共に価値の担い手として関係しあい、この同一性を土台として双方を両極へと区別していることが知られよう。
 これは一つの事態であって、思考がこのような綜合による抽象化を論理として組み立てることには無理があることを指摘しておくことが必要であろう。
 ところが柄谷は自分の思考を価値形態の側に寄せておきながら、思考に特有の論理を捨ててはいない。だから、売り手と買い手の形成が、一つの抽象であり、そこに同一な実体があることを認めることができない。
 売り手と買い手の間にある他者性は、同一性を土台とした差異であり、柄谷が追求しようとしている根源的な他者ではありえない。柄谷の見ている幻影のカラクリは、思考の論理に別して、商品に内在的な価値はない、と宣言してこの同一性を無視し、そのうえで、同一性を土台とした差異を根源的な他者性と認める他はないところに自分の思考を追い込んでいるところにある。
 そういうわけで、価値関係の場合に成立している同一性自体、人間の思考が分析的抽象によって把握する同一性の論理とは異なっており、両極の反照として、綜合による抽象によって、同一性が確認されている。価値関係が概念的存在であり、ジジェクに従えば「思考そのものの外にある思考形態」であるとすれは、他者関係は思考とある種の思考形態であるこの価値関係とのあいだにあることになりはしないか。
 柄谷は「哲学は『内省』からはじまる。ということは、自己対話からはじまるということである。それは、他者が自分と同質であることを前提することだ。このことは、プラトンの弁証法において典形的にみられる。そこでは、ソクラテスは、相手と『共同で真理を探求する』ようによびかける。プラトンの弁証法は対話の体裁をとっているけれども、対話ではない。そこに他者がいない」(『探求』・、九頁)というように、従来の他者論の不徹底について鋭い指摘をしている。
 しかしここまで来たのであれば、「言語ゲームを共有しない者」との関係を他者関係とするのは矮小ではなかろうか。何故なら、この場合にも、思考という共通物があるからである。
 人間の思考の外にある概念的存在、一つの思考形態が、人間の思考とは別の様式をもっていること、このことを明確にすれば、根源的な他者関係は、思考と、その外部の思考形態との間に成立していることがわかる。

根源的他者――思考と価値形態


 ゾーン=レーテルとジジェクの限界を超える地平がこうして明らかとなった。ジジェクにもどろう。彼はフロイトからラカンに到る精神分析の理論とマルクスの価値形態論との同一性を示すことに努力しているわけだが、いまは彼の価値形態把握のみをとりだして検討しよう。
 「いまやわれわれは、哲学的思唯へのゾーン=レーテルの取り組みのどこが『スキャンダラス』なのかを正確に述べることができる。彼は哲学的思惟の閉じた回路を、哲学的思惟がすでに『実演されている』ような外部の場所と対決させたのだ。それによって哲学的思考は、『なんじはあれである』という古い東洋の公式に要約されているような、気味のわるい体験をさせられる。おまえが本来いるべき場所はそこ、すなわち交換過程の外的現実の中なのだ、おまえがそれに気づく前に、おまえのいう真実がすでに上演されていた劇場があるのだ、というわけだ。哲学にとってこの場所との対決は耐えがたいものだ。なぜなら哲学というものはそもそも、その場所が見えないことによって定義されるものだからである。その場所を考慮に入れると、哲学はその整合性を失い、崩壊してしまう」(『批評空間』一号、二五一頁)
 すでに指摘したように、ゾーン=レーテルは、交換の抽象が思考の形態をとることを認めた際、この形態は思考の外にあるものの、思考と同じ様式をもつものと把えていた。だから彼は、交換の抽象にカントのアプリオリな主観を見ることができた。
 しかしながら、思惟抽象と現実的抽象とにおける抽象の様式が異なることに注目すれば、現実的抽象はジジェクが主張するような「哲学的思惟がすでに実現されているような外部の場所」ではない。そこには哲学的思惟とは別種の思考形態がある。そして、この思考形態と哲学的思惟との関係は、この別種の思考形態に人格の意志が支配されていることにもとづいて、措定されるべきなのである。
 そうすると、この関係は、哲学的思惟が、自己の本来の場所を発見して恥じ入る、といった単純なものではありえない。意志を支配する魂とでも言うべき概念的存在が外部に存在していながらも、その存在する思考形態が思惟にとっては根源的な他者性をもっていることこそが要であり、したがって、哲学的思惟によっては、絶対に、この外部の思考形態を思考の内部にとり込むことができない、ということが根本なのである。
 哲学的思惟といえどもこの根源的他者の存在を直感的に感知することはできる。だがこの直感によって把えた事柄を思考のうちにとり込み、思惟しようとすると、哲学的思惟は途方にくれざるをえなくなる。
 実際にジジェクの哲学的思惟も、ところどころでその整合性を失っている。イデオロギーについての彼の考察を検討しよう。
 「より洗練された――たとえばフランクフルト学派が発展させたような――イデオロギー批判においては、問題は、イデオロギーの歪んだ眼鏡を投げ捨てて、事物(すなわち社会的現実)を『ありのままに』見ることではない。大事なのは、どうして現実そのものが、いわゆるイデオロギー的ごまかしを抜きにしては再現されないのかを明らかにすることである。たんに仮面が事物の本当の状態を隠しているというのではない。イデオロギー的歪曲はその本質そのものに書き込まれているのである」(『批評空間』二号、二五二~三頁)
 ジジェクはイデオロギー的幻想が、現実の側にあるのか、それとも認識の側にあるのか、と問題をたて、現実の側にあることを証明しようとしている。だが彼は現実と認識との関係を問題にしていない。その結果、物象化それ自体のうちにイデオロギー的歪曲、つまりは物神性を読みとることになっている。
 「いわゆる商品の物神性についてのマルクスの古典的な例を取り上げよう。貨幣は実際には社会的諸関係の網の具現化、凝縮、物質化にすぎない。それがあらゆる商品の普遍的等価物として機能するという事実は、社会的諸関係の組織構造におけるその位置によって条件づけられている。ところが個々人にとっては、貨幣の――富の具現化であるという――この機能は、貨幣という名の物体の直接的で自然な属性であるようにみえる。あたかも貨幣が、それ自体で、その直接的・物質的現実性において、富の具現化であるかのように。私たちはここで、『物象化』という古典的マルクス主義のモチーフに触れたのである。物や物どうしの関係の背後に、私たちは社会的諸関係、人間主体どうしの関係を探りあてなければならないのである」(『批評空間』二号、二五五頁)
 ここで彼は、「貨幣が、それ自体で、その直接的・物質的現実性において、富の具現化である」という物象化を、直接に物神性と把え、イデオロギー的幻想と見ている。だがイデオロギー的歪曲は、この物象化とは同一ではなく、この物象化諸形態が人々の意識と関係と結ぶ際に生じるものである。だから、この歪曲は、貨幣が富の具現化であることが、貨幣となっている自然資料に自然にそなわっているかのように見えるところにある(等価形態の謎性)。
 この物象化の形態と、イデオロギー的に、歪曲された幻影的形態との区別をつけておかないと、商品の価値形態の秘密を解き明かすことができない。
 実際、ジジェクも認めるように、貨幣が「社会的諸関係の網の具現化、凝縮、物質化」であり、「社会的諸関係におけるその位置」によって、その機能が与えられていることを知るならば、そこでは貨幣となっている自然質料が「その直接的・物質的現実性において、富の具現化」となっているのである。この事態は、思考が自らの論理によっては把握できないものである。なぜなら、価値形態が示している思考形態は、思考にとっての根源的他者であったから。
 マルクスは、こうした事態を了解するために形態規定という思考形態を思考に導入した。十エレのリンネル=一着の上着、という簡単な価値形態において、上着という自然質料は、そのままで、直接的交換可能性という経済的内容を受けとる。この事態をマルクスは、価値関係においては上着という物質が新たな経済的形態規定を受けとっている、ということとして思考と了解をとりつけたのである。
 思考にとっての根源的他者である価値形態を理解するためには、了解する他はない。思考の論理で把握しきることの出来ない事態については、それが別種の仕方で抽象し判断している概念的存在であることを了解することが唯一の途である。他者の論理を思考が展開することは不可能だが、他者がどのように抽象し、判断しているかを知ることは可能である。
 そこで、形態規定について整理してみよう。最も簡単な事例は、すでに見たように価値関係において、極をなしている商品体が新たに受けとる経済的内容のことであった。使用価値上着は、等価形態にあることによって、上着という使用価値のままで、リンネルとの直接的交換可能性という経済的内容をもつ。抽象的人間労働という労働の社会的性格が、ここでは上着物質に体化する。この価値関係の内部では、綜合による抽象化が行なわれ、商品価値の実体はまぼろしのような対象性に還元されるが、同時にこの価値実体は両極化され、上着という具体的なものが抽象的なものの体化物とされることで、リンネルが自らの価値を上着物質で表現し、判断を下している。ここで思考にとっては理解不能であった、抽象的で普遍的なものが現実に個物としてある、という事態があらわれる。観念論が展開した形而上学における思弁はたしかに、普遍的なものの化身として個を措定することができた。だが、それは思考の枠内でのことであり、思考が価値形態を了解していたわけではなかった。
 「私たちが商品の物神性に囚われると、まるである商品の具体的内容(使用価値)がその商品の抽象的普通性(交換価値)の表現であるかのように見えてくる。抽象的な『普遍』、『価値』が、一連の具体的な物の中に次々に具体化する真の『実体』であるかのように見えてくる。それがマルクスの基本的なテーゼだ」(『批評空間』二号、二五五頁)
 ジジェクは、物象化を直接に物神性と把えたので、彼が現実のなかにイデオロギー的歪曲と見ようとするとき、他者である価値形態としてある思考形態に、自己の思惟法則を押しつけている。そこで彼はつい判断を誤ってしまった。
 商品の使用価値が交換価値の表現となることは、物神性に囚われていては理解できない。物神性は、交換価値を商品体の自然にそなわる属性であるかのように見せるところにある。彼はせっかく、価値形態の秘密、物象化の思考形態をとり出しておきながら、自分の思惟法則にとらわれて、これを幻想だとみなしている。もしこれが幻想だったとしたら、観念論が展開する思弁は正しかったことになる。なぜなら、観念論が思弁によって展開しようとしたのは、合理的に判断しえない領域の論理的内容であった。観念論は具体的なものと抽象的なものとの関係を転倒させることによって、幻想の領域を描き出した。この観念論が心や魂の問題として描き出したこの転倒が、価値形態にあっては現実としてあること、マルクスの価値形態論はこのことを明らかにして、観念論の思想的土台をくつがえしたのである。
 哲学的思惟に引導を渡そうとしたジジェクは、肝腎のところで、自己の哲学的思惟に災いを受け、哲学的思惟を延命させてしまった。

哲学の越境を求める他者論


 哲学的思惟に引導を渡そうとして失敗したジジェクとは逆に、永井均は哲学的思惟にこだわることによって、その極限にまで到っている。彼は哲学的省察の内部から、本源的な他者を指定しようとしている。
 「では本来の意味での他者とは何か。それはすなわち、『世界に対する態度』であるような私の他人意識によっては決してとらえられないもののことである。他者が存在するということは、まさしく、私が外から見たり、近づいたり、ましてや入りこんだりすることが決してできない何かが存在する、ということなのではあるまいか。言いかえれば、他我認識の不可能性においてこそ、他我の存在は成り立つのではなかろうか。他者は私の『世界に対する態度』の一部ではない。それはむしろ、そうなることを徹底的に拒むところにこそ存在するものなのだ。なぜならば、他者は物のような世界の一部ではなく、そこから(も)世界が開けている、世界の原点だからである。世界の中にある物と世界を開く他者とでは、その存在の意味はまったく異なっているはずなのである」(『(魂〉に対する態度』、二〇一頁)
 永井が根源的な他者を導き出す前提となっているものは、「私」と区別された〈私〉の措定である。この(私〉は一つの抽象化された概念であるが、思考が通常の仕方で抽象化する方法を排除したうえで、その概念が形成されている。
 思考が私を抽象する場合、何よりも他人から区別する。こうして抽象された「私」にとっては、他者は他人となる。永井はこのような構造のうちにある他者関係を他者関係とは認めない。彼は(私〉について次のように述べている。
 「世界には、無数の『私』たちとは別に〈私〉が存在する、と。〈私〉には隣人がいない。すなわち、並び立つ同種のものが存在しないのである。どうしてそんなものが存在しているのか。それはわからない。しかし、その存在の構造は、いくらかは解明することができると思う」(『〈魂〉に対する態度』、二二五頁)
 永井自身が、自らの哲学的省察によって、〈私〉の存在についてどのように解明しているかには実のところ興味はない。重要なことは彼がここで、類として存在している個を〈私〉の内容として措定していることである。永井は〈私〉について、同種のものの存在を否定しているから、彼はこれを類として措定している。しかも、この〈私〉は、個としてある「私」という人間の「いかなる性質とも無関係に成立している」(二二五頁)とされているから、この〈私〉は、自然人としての「私」ではなくて、この「私」が社会関係によって形態規定されたものでなければならない。
 そうだとすると、この〈私〉は思考が行う分析的抽象によってではなく、価値形態に見られる綜合による抽象と類似した方法で措定されたものとなる。永井が〈私〉の概念について、伝達不可能だと考えるのも、彼が「私」を他の多くの「私」との綜合によって類へと抽象しているからで、哲学は、この種の抽象について了解しあえる論理をまだ一般化しえていないのである。
 この点について彼がどれだけ自覚的にそうしているかはわからない。だがデカルト的な「私」の他に、この私が類として存在する個である〈私〉でもあることの発見と、そこからの他者の展開は、人間の思考の様式とは異なる様式の思考形態が存在していることの承認へと向わざるをえないであろう。
 永井によれば、〈私〉は隣人をもたないが魂は隣人をもつ。この魂を抽象し、隣人をもたない〈魂〉を措定することによって、はじめて他者の〈魂〉を措定しうる。ここで彼が語っている魂は、類の実体であり、彼は「魂」の他に〈魂〉を措定することによって、異なる類、つまり他者を措定することができた。
 「他者を、すなわち他の〈魂〉を発見するとは、どんな相互性も成り立たない、その向う側にあるものを、〈私〉の世界には決して入り込んでこない、根本的に異質なもうひとつの世界の原点を発見することである」(『〈魂〉に対する態度』、二三一~二頁)
 「他者とは、いつもつねに、隣人をもたないものの隣人である。それは、決して到達することのできない、根本的に異質な、もうひとつの世界(の原点)であり、理解しあうことも、助けあうことも、ついには不可能な、無限の距離をへだてた、あまりにも遠い隣人なのである。〈魂〉に対する態度とは、それゆえ、それに向かって態度をとることができないものに対する、愛や共感や理解を超えた態度なのであった」(『〈魂〉に対する態度』、二三五~六頁)
 文字ズラを追うだけでは、これは何と言っているのかわからない。だが、ここでの他者に、思考の外にある思考形態、たとえば価値形態を置いてみよう。そうすれば、彼の主張には現実性があることが明確となる。
 自然界には他にも思考形態がある。たとえば量子世界がそうである。生成・発展・消滅をくり返す量子達は、抽象し判断する思考形態をもっている。そして、この思考形態が、人間の思考の様式とは異なることも、多くの実例で示すことができる。
 永井の他者論は、哲学的思惟の内部から、思考の外にある思考形態に接近する試みである。この思考形態が、人間の思惟とは異なる仕方で存在しているために、彼は対象に接近すればするほど、対象との距離を感じることにならざるをえなかった。こうして彼は逆説的に、哲学の死を語っているのである。

新たな知の形態の創造


 さて、私がこれまで展開してきた諸家に対する批評は、実は自著『価値形態・物象化・物神性』(この本は一般書店では入手不能なので、末尾の申込方法で求められたい)での価値形態解読にもとづいている。
 私が自著で提起した論点は、価値形態論に限れば、(1)物象化と物化との区別による物神性論の確定、(2)思惟抽象と現実的抽象(価値形態における)とのちがい、分析的抽象か綜合による抽象か、(3)商品・貨幣・資本といった物象は概念的存在であり、人格の意志を支配する、(4)物象化とは意志支配である、(5)貨幣の生成は物象の人格化による本能的、無意識的な共同行為による、といったものが主要点である。『情況』十一月号のコラム「自著を語る」では(2)、(3)、(4)、(5)について簡単に紹介した。
 自著の執筆中には、これらの論点について強調しておいたつもりであったが、完成した本をよみ返してみると、これらの論点が散在しているので、注意深く読まないと見落されてしまうことに気付いた。それで、現在、これらの論点を中心に押し出した貨幣論を準備している。
 ここではこれまでの批評との関連で、形態規定について考察してみよう。なお、当然のことながら、ここでの議論は、自著で明らかにした諸論点を前提にしている。
 価値形態が概念的存在であり、一つの思考形態であるにもかかわらず、思考と同一の規範をもたず、双方の間には根源的な他者性が見いだされること、このことが明らかにされると、思考にとっての問題は、この他者が一つの思考形態であることを了解することである。
 マルクスの価値形態論の従来の解釈は、このような問題が存在することに気づかず、他者である価値形態に思考の論理をもち込むことによって、自らの思考を混乱させてきたのであった。
 マルクスはヘーゲルの反照の弁証法を改作して、この難問に立ちむかい、実体が一つの関係をして存在する、という思考の論理では割り切れない事態に対して、関係の両極をなしているものがこの関係のなかで受けとる新しい役割を形態規定と見なすことによって、他者である価値形態と思考との折り合いをつけることに成功したのであった。
 従って、この形態規定をどう把えるかが、マルクスの価値形態論解釈のポイントをなしているのである。それと同時に、この形態規定の弁証法は、価値形態以外の思考形態に対しても、その謎ときにとっての大きな力を発揮するはずである。
 ヘーゲルは、一般意志を自己意識と他の自己意識との間の承認をめぐる闘争から解こうとし、結局は解ききれなかったが、この問題も、形態規定という武器を使うなら、簡単に決着がつく。というのは自己意識Aが社会関係のなかで他の自己意識Bと対するとき、Bはこの関係のなかで、Bの身体自身を一般意志の体化物とし、Aの行動に対する一般意志にもとづく裁定をなしとげるであろうから。
 この場合、個人を拘束する社会の象徴的秩序は思考の外にある一つの思考形態である。それは社会生活のなかで個人の意志を支配するが、その構造は、社会関係を結ぶことによって具体的な個人が綜合によって抽象されて両極化し、一般意志の体化者として形態規定される側の個人が判断形式を提供するところにある。
 価値形態では、人間の手の産物が思考形態を実現した。個人が集合して社会を形成するときに、この社会が一つの思考形態として機能しても不思議ではない。もちろん、ヘーゲルが考察した場合のように、社会の思考形態が一般意志としてあらわれるのは、価値形態にもとづいた生産様式を土台としたブルジョア社会においてであろう。異なる生産様式によって象徴的秩序の内容は変化するであろうが、社会が個人がそれに順応しなければならない一つの思考形態としてあるのは不可避なことではなかろうか。
 この見地からすれば、個人の絶対的自由を追求したアナーキズムは、ブルジョア的個人の徹底化であったことが判明し、今日求められているオルタナティブの原理たりえないことは明らかであろう。
 オルタナティブな社会が自然との共生を実現しなければならないことはいまや通説となっているが、価値形態を廃絶しても残存するであろう社会という思考形態とどう向い会うか、という問題の解決が求められていることがここで明らかとなった。社会というあり方が、どのような思考形態であるか、ということについて了解することにもとづいてはじめて、オルタナティブな社会を実現するための原理が形成されよう。
 このような事業は、思考にとっての根源的他者たる思考形態の存在を認めないがゆえにブルジョア文化と科学、及び哲学によってはなしとげられない。そして、この根源的他者を認めるところから、ブルジョア的な知の自己否定がはじまる。
 実際のところ、ブルジョア的な知の様式がいまや力を失い、種々の批判を受けているのだが、マルクスが、自分はマルクス主義者ではない、と言った意味でのマルクス主義者の共倒れがあって、思想界は不透明である。ブルジョア的な知に対する自然発生的な批判は、例えば自然との共生を追求するエコロジー運動において最も強力であるが、しかし、この種の批判は資本の文化が容易に抱摂することができることが明らかとなっている。
 いわゆるマルクス主義者は、商品・貨幣・資本の批判から出発しながらも、社会と人間の共生の必要性を了解しうる知の形態を新しい文化として形成しえず、その帰結として、商品・貨幣・資本に屈服した、というように問題を総括するならば、マルクス主義の再生のために何をなすべきかが見えてくる。マルクスの価値形態論の解読は、今日、このような問題意識にもとづいてなされねばならない。そうすれはマルクスの思想の現代的意義とその前衛性は自ずから顕現してこよう。
 この最後の節での提起はほんの見取図にすぎないが、新たな知の形態を新たな文化として形成してゆくための共同作業にとりかかるための前提だけは明らかにされていよう。そして、前衛党や、中央集権主義や、プロレタリアートの独裁といった言葉にこだわっている人々が、何をしなければならないか、ということも、黙示によって示されていることが知れよう。(1991.7.18)

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 7159 times   Printer Friendly Page Tell a Friend