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文化知思想の探求(第2回)後


文化知思想の探求(第2回)後

第三節 レヴィナスの倫理の展開と新しい思考

1)〈語ること〉と〈語られたこと〉

『全体性と無限』で用いた言語論を撤回し、〈語ること〉と〈語られたこと〉を対比した『存在の彼方へ』では、〈語られたこと〉にあっては痕跡としてしか残らない〈語ること〉の意味を、〈語られたこと〉から〈語ること〉へと遡って追求しました。そして〈語ること〉における感受性の働きに注目し、そこでは主体が、他人のために身代わりとなる一者として形態規定されていることを見いだしたのでした。『外の主体』のテーマは対話論ですから、〈語ること〉は相手に対する対話の開始として捉えられ、そこから〈語られたこと〉との区別を明らかにしていきます。

 〈語られたこと〉としての言語は〈私〉-〈きみ〉の関係の直接性を尊重させえないと述べたあと、レヴィナスは次のように展開しています。

 「それに何よりも、〈語られたこと〉としての言語は何かについて語り、語られる客体がどうなっているのかを語りつつ、話者と語られる客体との関係を表現します。話しかけるためではなく、何かについて語るために私たちは話すとみなされている限りにおいて、対話それ自体が〈私〉-〈それ〉のひとつの様態として現われます。その場合、他者との連関は〈私〉-〈きみ〉であるよりもむしろ、真理と客体性を中心とした併存と化すのではないでしょうか。」(同書、57頁)

 レヴィナスの新しい言語観は「言語はまた、語とそのシステムとしての言語体(ラング)でもあり、そこでは、いかなる意味も直接的ではなく、すべてが記号同士の接合に依存している」(同書、56頁)というものであり、ここから〈私〉-〈きみ〉の直接性が尊重されないという結論が導かれているのですが、それにつけ加えて、レヴィナスは〈語られたこと〉としての言語は例え対話の場合も何かについて語るために話しているのであって、その際、対話自体が〈私〉-〈それ〉のひとつの様態となると指摘しています。レヴィナスの対話の哲学は、何かについて語るための対話ではなく、ただ単に話しかける場合を想定しているのです。これが〈語ること〉としての言語に他なりません。

 「では〈語ること〉としての言語はどうなっているのでしょうか。それは〈語られたこと〉とは区別されることなく、そこに吸収されてしまうのでしょうか。〈語ること〉はその純粋さにおいては吟味されえないのでしょうか。〈語ること〉はこれやあれやを語りますが、と同時にきみと語りかけもします。きみという語は〈語られたこと〉です。が、これやあれのように〈語ること〉にとって単に偶発的なものではない。それは、〈語ること〉としての、〈語ること〉の〈語られたこと〉なのです。」(同書、57頁)

 〈語ること〉は当然〈語られたこと〉を結果としてもたらします。しかし、〈語ること〉をその帰結である〈語られたこと〉としてのみ見るのではなく、その帰結から区別して、純粋に〈語ること〉の意味をさぐることが出来ないのだろうか、とレヴィナスは問題を追求していきます。そうすると「そこでは、ある呼びかけが響いているのであって、この呼びかけは媒介を必要としないような出来事なのです。」(同書、58頁)と描き出される事態が出現してきます。ではこの呼びかけとは何でしょうか。レヴィナスはブーバーを継承しつつ次のように述べています。

 「〈私〉-〈それ〉には転換不能な〈私〉-〈きみ〉の独立性を言明することで、ブーバーが私たちに教えていたのも、他者とのこの連合がいかなる先行的な知識にも還元不能なものであることだったのではないでしょうか。〈きみ〉の最たるものが神という〈きみ〉および神における〈きみ〉を意味しているということ、それはまた、〈きみ〉と語りかけることが狙いではなく、〈不可視なもの〉への忠誠に他ならないことを意味してもいるのですが、その際、〈不可視のもの〉は単に非―感性的なものとしてではなく、本質的に認識不能で主題化不能なものとして力強く思考されるのであり、まさにそれについては何も語ることができないのです。〈不可視のもの〉に〈きみ〉と語ることで初めてある意味の次元においてとも逆に、〈語られたこと〉のなかで描かれる本質のいかなる承認も生じないのです。表象も知識も存在論も生じない。そうではなく、この意味の次元には、まずもってきみとして呼びかけられる、そのような他の人間が位置しているのです。」(同書、58~9頁)

 語りかけることの裏には「不可視のものへの忠誠がある」とレヴィナスは見ています。これは「語られたこと」のなかで描き出せないものとして「語ること」のうちに含まれているものであり、そして、この描き出せないものこそ、呼びかけられる他の人間が位置している、という次元であって、「語ること」のうちにこの意味の次元が切り拓かれねばならない、とレヴィナスは主張しています。そして、「人間が他の人間と出会うような意味の次元」とはまさしく倫理的な次元に他ならない、というのです。

2) 倫理としての人間の社会性

 〈私〉-〈それ〉の関係とは別の〈私〉-〈きみ〉の関係を「語られたこと」と「語ること」との区別のうちに求めたレヴィナスは、「語ること」を人間が他人と出会うという倫理的な次元と捉えていますが、この倫理とは一体どのようなものなのでしょうか。

 「倫理は、他なるものの外部性を前にして、他者を前にして、私たちが好んで言うように、他者の顔を前にして始まるのです。他者の顔は、その人間的表出によって私の責任を強いるのですが、損なわれることなしに、凝固することなしに、他者の顔が客体的に隔たって存在することはありえません。他律性の倫理です。とはいえ、それは隷属ではなく、隣人への責任をとおして神に仕えることであり、隣人への責任において私は代替不可能な者なのです。たぶん、私たちは自由と非―自由双方の手前にいるのでしょう。」(同書、61頁)

 レヴィナスは対話に伴う応答が他者に対する責任をともなっていることに注目しています。そしてこの責任は他者の顔によって強いられるものなのですが、この他者の顔は私と客体的に隔たったものとしてあるのではなく、私とつながったものとして「新たな倫理と有意味性の新たな秩序」(同書、61頁)を形成していると見るのです。

 レヴィナスにとって倫理の核は宗教に求められ、神が登場しますが、これは人間の社会性を倫理的世界に求めたことの帰結であり、人間の社会性とは、倫理につきるものではない、ということを指摘しておくにとどめ、ひきつづきレヴィナスの展開を追っていきましょう。

 レヴィナスは、デリダに経験主義の企図は哲学にはならない、と批判されたことを受けて、この新たな倫理と有意味性の新たな秩序のうちで〈私〉を規定していくこと、「この新たな倫理は、〈私〉の可能性を理解する新たな仕方でもあり、結局は哲学の使命に応えています」(同書、61頁)と述べています。

 「ここで問題なのは、存在の全体性についての認識によって保障されるような認識ではなく、倫理的責任であって、それはまた、私が有責者である場合には誰も私の身代わりになれないことを表してもいます。他の人間を前にして、私は逃げ隠れできない。この唯一性によって、私は私である。あたかも私が選ばれた者であるかのように、私は私であるのです。」(同書、61頁)

 レヴィナスは、ここで「私は」と言いうることが、認識と存在との一致を前提とする意識の自由の哲学とは別の仕方での〈私〉の措定であるとみなしています。ここでの〈私〉の唯一性についての思考は、レヴィナスによれば超越の倫理的解釈でした。

3)対話の哲学

 こうして、レヴィナスは、倫理的に解釈された唯一性としての〈私〉と存在としての〈私〉との関連についての考察に移っています。

 「あたかも存在(存在者の存在)が意味のアルファでありオメガであるかのようではありませんか。しかし、超越としての〈私〉-〈きみ〉の関係は果たして第一義的な仕方で存在と出会うのでしょうか。これは問うに値する問でありましょう。〈私〉-〈きみ〉の関係は単に第二義的な反省の行為のなかで存在を名ざすのではないでしょうか。この反省の行為はつねに正当なものなのでしょうか。不可視な神としての〈きみ〉は、所与とその存在の明晰さをかき消すような社会性の意味性を有しているのではないでしょうか。倫理的関係はまさに存在の無―意味性を表しているのではないでしょうか。・・・この無―意味性を表す語を分綴しつつもう一度援用するなら、〈関係〉は没利害、内存在性からの超脱、存在の外への根こぎ――であり、自己へと回帰することなき跳躍の直行性なのではないでしょうか。ここにいう没利害は無関心ではありません。それは他なるものへの忠誠なのです。」(同書、62頁)

 〈私〉-〈それ〉の関係に包摂された他者とは別の、〈私〉-〈きみ〉の関係における他者と私の存在の仕方は第一義的な仕方で存在と出会うのではなく、第二義的な反省の行為のなかで存在を名ざすとレヴィナスは主張しています。そして、この反省の行為の正当性について考察していますが、ここで反省されるものは、存在の無-意味性であり、存在の外への根こぎであり、自己へと回帰することなき跳躍の直行性であり、他なるものへの忠誠だ、というのです。つまり、「とことんつきつめて思考して、その極限に再び存在を見出さなければならないという必然性」(同書、63頁)を認めるならば、対話の哲学も存在論ならびに存在についての思考のひとつの特殊例となってしまうとレヴィナスは見ています。そこで、対話の哲学についてのレヴィナスの中間的な結論を見ておきましょう。

 「対話の哲学とは、まさに、――どんな存在論とも無関係な、別様の、ただし厳密さを犠牲にすることなき有意味性の源泉と関わるがゆえに――、他者との遭遇を一個の理論・観照に組み込むことはできないという断定なのではないでしょうか。仮に組み込むことができるとするなら、他者との遭遇は経験と化し、反省はその意味を回収することになるでしょうが、そうではなく、対話の哲学とは、いかなる概念をつうじても、人間の顔の意味は理解できないという断定なのではないでしょうか。理性的な意味ではありますが、何と〈理性〉はそれを知ることがないのです!対話の哲学は、世界と他の人間を、知と社会性を、存在と神を共に思考するような思考の曖昧さないし謎へと、私たちの注意を向けさせたのではないでしょうか。それ以降、相対立するものの交替が近代精神の宿命と化したのではないでしょうか。」(同書、67頁)

 レヴィナスはこのように、対話の哲学と従来の哲学における存在論とを対比して見せました。では、他者との遭遇を一個の理論・観照に組み込むことができない、とするなら、どのような思考が求められているのでしょうか。

4)文化知への接近

 『外の主体』には、これまでみてきたブーバー論の後で公表された「ブーバーについて――若干の覚書」が収録されています。また、1987年にまとめられたこの論文集の最後に書き下ろしの「主体の外へ」には注目すべき論点が展開されています。それで、この二つの論文から、対話の哲学についてレヴィナスがどのように思考しているかを追ってみましょう。

 まず前者の論文には先のブーバー論で展開した内客についてのまとめとおぼしき記述があります。

 「対―話的関係は現象学的には還元不能なもので、自律的な有意味性の秩序を構成することができる。しかもこの秩序は、認識作用における主体―客体の伝統的で特権的な相互関係と同じくらい正当なのだが、このような点を浮き彫りにしたこと、それは今もなお、マルチン・ブーバーの哲学的営為の不朽の功績である。社会的関係に伴う多様性は統一性に比して――あるいはまた、知ないし学が探求する存在の総合やその全体性に比して――、合理的なものの堕落や欠損ではもはやない。それは倫理的関係という十全に有意味的な秩序であり、ここにいう倫理的関係とは、同化不能な、それゆえ厳密には内-包不能で把持や所有とは無縁な他者の他者性との関係なのである。」(同書、72~3頁)

 レヴィナスはここで、対話に含まれている倫理的関係を社会的関係として捉え、そこに多様性を認めつつ、それは非合理的なものではない、と考えています。では、学が探求する仕方とは別の仕方でこの社会的関係の多様性をどのようにして合理的に説明するのでしょうか。ここにレヴィナスが飛躍すべき地歩が固められ、そしてレヴィナスは飛躍します。

 「モナドのこの自同性に、いくら驚いても驚きすぎるということはない。それは自我における唯一なるものの自同性であるのだが、ここにいう自我は、同じ類に属する他の諸個体に含まれた属性とは異なる属性の付加や、時空に個体が占める他に還元不能な位置による類の個体化として、あるいはまた、質料による例の個体化として論理的に正当化される必要はない。自我はその唯一性ゆえに異なるのであって、その差異ゆえに唯一者であるのではない。
 個体から、個体が属していたであろう類の理念的統一性への遡行や抽象化の残滓とはもはや解されることのありえないような唯一性が、かくして生じることになる。そうした唯一性の意味それ自体が今度は、こう言ってよければ、構成された絶対者――それは『悪無限』のひとつの契機であり、反復のひとつの契機にすぎない――より以上に絶対的な主体のうちで構成されるなどということはまったくない。純粋自我、すなわち、世界が構成される場としての超越論的意識の主体それ自身は主体の外にある。反省・反射なき自己であり、――絶えざる覚醒として自己同定する唯一性である。」(同書、249~50頁)

 対話の哲学を社会性の問題として捉え、この社会性をどう説明するか、というところに、レヴィナスの思考はしぼられてきています。そこでの出発点は、社会を構成している唯一性としてある個ですが、しかし、この個はアプリオリに現定されてはならず、関係から導き出されねばならないのです。だからまず、自我はその唯一性ゆえに異なるのであって、その差異ゆえに唯一者であるのではない、というテーゼが述べられます。もし、個々の自我における差異が自我の唯一性を現定すると見なすなら、それは他者を自我という共通性でくくったうえでの差異をたてることになり、他者は私の思考によって〈私〉-〈それ〉関係に回収されてしまいます。

 では、〈私〉-〈きみ〉の関係で「語ること」、呼びかけるときの主体は私でもきみでもなく、他者の顔という超越論的存在との関係としてあるとすれば、その超越論意識の主体は、〈私〉や〈きみ〉といった主体の外にあることになります。

 この思考の論理構造とは異なる超越論的意識の主体の構造をレヴィナスは合理的に説き明かそうとしています。そして、この主体の外にある超越論意識の主体こそは、人間の社会的関係のうちで形成される超感性的な実体であり、唯一性のある個々の自我が相互に関係を結ぶことで抽象しあって形成される社会性のことではないでしょうか。ここに個々の自我にあっては、絶対的な唯一性を残しつつ、主体の外にある超越論的意識を覚醒することで自己を同定していく、という、思考にとっての新しい地平が、レヴィナスによって拓かれています。

第四節 『外の主体』の社会論

1)近代的自我に先行する社会性への注目

レヴィナスの対話論を踏まえいよいよその社会論について迫って行きましょう。『外の主体』から社会について言及している部分についてみてみます。まず序文では、ブーバーやマルセルなどこの本で取り上げられた哲学者の思考が、自らの倫理哲学と同じ問題を扱っていて、「数々の真理がそこで構成されるような認識の能作には還元されえない、そうした思考である。」(同書、1頁)と指摘されています。認識の能作には還元されえないということについてレヴィナスは次のように説明しています。

「主体によって客体性として理解されうるこのような内在性、認識することを通じての客体的なもののこのような知解可能性、そのようなものには隣人の近さないし社会性は似ても似つかない。隣人の近さないし社会性は、本書に収められた諸論考で言及された哲学者たちの関心を占めていたように見えるのだが、客体的なものの知解可能性とは異質なものであるとはいえ、そうした近さや社会性においては、知解可能性の威信が、人間によって人間になされるもてなしを通じて人間の他者性に授けられることになる。なるほど独特な合理性ではあろう。しかし、それはおそらく、認識すべき諸対象の合理性の条件となるような合理性ではあろう。少なくともこの種の合理性が、超越論的自我の出来そのものに貢献しうる限りにおいてはそうであろう。超越論的自我の揺るぎない自同性は、存在が真理として客体化されるためには不可欠なものだからだ。」(同書、2頁)

レヴィナスはここで隣人の近さないし社会性が、近代的自我による客観の認識という、認識の能作に基づく知解可能性とは似ても似つかないこと、いやそれによっては認識できないことを強調しています。ではこれはデリダがよくやるように「アポリア」と名づける不可知論で済ませるのかといえば、レヴィナスはそうは考えず、合理的な知解が可能だと考えています。そればかりか、この社会性が実は近代的認識の主体である自我を発生させる条件となっていると見なしているのです。

「ここにいう精神の筋立ては、人間的なものが主体と客体へと化身するに先立って、人間的なもの同士のあいだで結ばれる筋立てである。主体と客体は、唯一者から唯一者へのこの超越と責任の筋立てを一時中断する。ただし、一時中断であって停止させてしまうのではないのだが、純粋自我はというと、それはこの筋立てから生まれ、そして、そこに戻っていくのである。」(同書、3頁)

近代的自我がまずあって、これが社会を認識する、といった一般的な科学的思考とは逆に、レヴィナスは社会性のほうが自我の定立に先だつと見なし、そしてそれだけではなく社会性がどのようにして自我を成立させるかを示そうとしています。つまり近代的な科学的認識の土台である近代的自我を成立させる精神の筋立てとして、自我の意識よりも先行している人間の倫理的意識に注目し、これを社会的なものと捉えて、そこでは人間はお互いに他人の身代わりとなる唯一者という社会性を担わせられており、その帰結として人間的なものの主体と客体への化身が起こるのだが、しかし困ったことに、この化身は、先だつものとしてあった人間の倫理的関係を一時中断させてしまうとレヴィナスは考えています。この中断を断ち切り、唯一者相互の関係を復活させること、これがレヴィナス自身の課題となるのです。そこでこの中断が断ち切れるものとしてあることについてレヴィナスは倫理観に訴えていきます。

「存在のうちへの人間的なものの出来それ自体が、存在に固執する存在の――そしてまた、この固執の観念ならびにその存在しようとする努力にもわずかに含意された暴力の断絶なのである。」(同書、4頁)

ここで存在への固執と言われているものは、『存在の彼方へ』では自我の自同性への我執と言われ、後の『貨幣の哲学』では端的に内存在性の利害というように述べられていますが、これがわずかに含む暴力、それがやがては全体性の暴力へと拡大されていくのですが、これをその端緒において断絶する試みであるということにレヴィナスは注意を促しています。そして結論的には次のような倫理的呼びかけとなっていきます。

「認識することよりも高き秩序。この秩序は、ある使命が谺するなかで、個体性としての人間的なものを触発する。依然として類の一般性によって凝固したままの個体性ではあるが、それはすでに私の唯一性へと目覚めてもいる。論理的には識別不能な唯一性である。が、他の人間に対する責任のなかでは、それは選びのように忌避不能で愛をはらんだ唯一性であり、このとき他人もしくは愛される者はこの私にとっては世界でかけがえのない唯一の者なのだ。唯一性から唯一性へ、一者から他の一者へ、それも一切の近親性とは無関係に。どんな外部性よりも疎遠なある唯一性から他の唯一性へ。ここにいう外部性は、客観的なもののなかではすでに内在性と化して自分を放棄してしまうのだが、だからこそ、ここにはまさに社会的近さという『倫理的には』新しく未曾有な絆が、知識よりも善き思考の驚異があるのだ。主体の外に。
なおも類と種の必要を介して個体に命令するような論理的なものを超えて、ある使命が響きわたる。思考の始原的でかつ究極的な留意への覚醒であるが、知識のなかで依然として客観的世界の部分とみなされていた他者はこうして、世界の外なる者でもあることになる。客体の外なる客体である。」(同書、4~5頁)

認識することよりも高き秩序といえば一昔前では信仰でした。近代的自我の成立によって、信仰は認識の下位に置かれるようになりました。では巷で考えられているようにレヴィナスは神と宗教を復権させようとしているのでしょうか。確かにそのような脈絡で解釈することも可能でしょう。でもここでの提起に明らかなように、神や宗教とは別の問題が提起されています。人間は自然発生的に社会関係のうちに置かれていますが、その関係で起きる事態が論理的識別を超えた形で個々人に降りかかり、類・種・個、といった論理的関連とは異なる形での、個が個でありながら唯一者としてもあるという形での新しい社会的な存在様式を受け取る、という文化知の地平がここで開かれているのです。このような観点から、レヴィナスの社会論について、その内容を辿っていきましょう。

2)社会の創設

 近代的自我の成立に先行するものとは他ならぬ社会の創設でしょう。マルクスによる哲学的良心の清算は、イデオロギー(哲学もその一つ)を創り出すものが市民社会であり、そこで生産し消費し生命の再生産を行っている人間たちの関係であることを了解したことに基づいていました。だからマルクスは市民社会の解剖学としての経済学に取り組み、経済学批判としてその仕事を成し遂げたのでした。レヴィナスはマルクスのように経済学から接近するのではなく、きみへの呼びかけという対話の関係の解明から、社会がいかにして創設されるかという問題へと接近していきます。ブーバーの我-汝に関して、「本質的なのは〈われわれ〉ではなく、〈私〉-〈きみ〉だからです。」(同書、27頁)と紹介したレヴィナスはさらに次のように続けます。

「対象や敵として〈きみ〉を捉える代わりに、〈きみ〉に呼びかける〈私〉、そのような〈私〉が第一の事態です。そして、社会を創設するのは、国家の普遍的で匿名の法のもとでの〈自我〉の法的消失ではなく、いかなる概念によっても把握できない、〈きみ〉への呼びかけなのです。社会と言いましたが、ここにいう社会とは正しい世界でありメシア的な世界であって、それが暴力に終止符を打つと共に、どんな知性をも解明するのです。」(同書、28頁)

レヴィナスにあっては社会性とは倫理的関係でしたから、社会の創設とは倫理を確立していくことであり、それは正しい社会、未だ実現されてはいないものというイメージですが、しかしこの点は別にして、国家の元では自我が法的に消失させられるという考えは面白いし、それとの対比で社会的なものを捉えていることも正当でしょう。社会を創出するのは呼びかけである、という考えも非常に面白いものです。『全体性と無限』での特有の言語論、存在論的言語論を超えていくのはこのような呼びかけの社会生成力への注目ではなかったのでしょうか。

「しかし、共存の哲学者たちにとっては、人間の具体的充溢を集積するその核となるような『脱自』は、経験における主題化する志向性ではなく、他者への呼びかけ、人格から人格への関係であって、この関係は『きみ』という代名詞に行き着くものなのです。このような関係の究極の意味は真理ではない。知識や真理には還元不能な社会性がここにいう究極の意味なのです。」(同書、40頁)

自我の脱自、または超越ということも、自我の成立に先行して呼びかけがあるという風に考えると、その神秘主義的覆いが剥ぎ取れるでしょう。ブーバーもマルセルも直接に神を問題にしていますが、レヴィナスはそうではないので真理を相対化していきます。人間の社会性は知識や真理には還元不能という考え方は、社会的無意識ということを考えて、社会は無意識の働きを人間に植え付けていると考えると分かりやすいと思います。

レヴィナスは、『全体性と無限』で言語を存在論的に捉えたのは、心理学的な接近を避けるためだと述べていました。フロイトの無意識論に対する違和感があったのでしょう。だからレヴィナスは、無意識という概念を使おうとはしていませんが、社会的無意識という範疇を立てれば、レヴィナスの外の主体はこの範疇に組み込むことが可能ではないでしょうか。

「それに対して、〈私〉-〈きみ〉の関係の独自性を確証する哲学は、社会性を社会性についての経験には還元不能なものとして思考するきっかけを与えてくれます。極度に真っ直ぐなものとしての社会性は、存在の存在性のように自分自身へと湾曲することがありません。存在の存在性のほうはたえずみずからを与える。言い換えますと、『存在了解』へと委ねられ、たえず新たに観念論を信任することになるのです。存在性を脱した跳躍の意味は絶対的に真っ直ぐな思考のなかで意味するのもであって、反省はその曖昧な痕跡しか見いだすことがないのです。」(同書、41頁)

社会性を社会性についての経験に還元できないということも、社会的無意識の働きを導入すると知解可能となるでしょう。社会のなかで生活しているからといって、人間は社会のことを主題化したり、その真理について理解したりすることはできません。意識化されはしない領域での活動、このような社会の創設という事柄にどのように接近していけるのでしょうか。

3)関係論の展開

 その接近は関係についての解明としてなされるほかはありません。

「語は≪二者のあいだ≫の最たるものです。対話は〈関係〉の総合として機能するのではなく、〈関係〉の展開そのものとして機能するのです。
 語という≪二者のあいだ≫で成就される、そのような出会いの直接的本質を超えて杷持することのできるものはいずれも、すでに言語から身を引き、現前、すなわち生きた〈関係〉から遠ざかったものだけです。言語を介した〈関係〉は、内在性には還元不能な超越として思考されます。そしてこのように描かれる『存在論』はというと、――と申しますのも、やはりこれは存在論だからですが――、還元不能な超越からその意味のすべてを引き出すのです。」(同書、43頁)

 対話は関係の総合として機能しはしないということに注目しましょう。関係のうちで総合可能な関係は、人間が措定した関係でそれは数学をはじめ、科学的関係に見られるものです。しかし社会関係は人間によって担われているものの、人間が意志に基づいて形成したものではありません。対話の関係はこの自然発生的な社会関係に基づいていて、だから総合されないし、展開されていくしかないのですね。

「人間が他の人間と出会うような意味の次元、倫理的な次元ですが、以上に見てきたように、この次元は宗教的性格を、〈永遠なるきみ〉への関係の卓越ないし高揚を明示し規定しています。他者との関係は根源的な宗教の航跡のなかでしか可能ではありません。」(59頁)

歴史的に見ればこのレヴィナスの考え方は正当でしょう。私は人間が作り出した最初の社会は宗教ではないかと考えています。しかし、今日の時点ではもはや宗教では他者との関係をつむぐことは出来ないのではないでしょうか。少なくとも社会の創設についての知解が成し遂げられるべきですし、その知解は実際に新しい社会を創設する実践とセットになっているでしょう。

「他の人間への倫理的関係、近さ、他者への責任は志向性の単なる変調ではない。それは、≪ある者が他の者に、同一者が他人に無関心ならざること≫、言い換えるなら、もはや〈同一者〉に尺度には合わないものへの、ある意味では〈同一者〉と『同じ種類』ならざるものへの〈同一者〉の関係が、そのもとで生じるような一個の具体的な様態なのだ。他人への責任によって検証される近さは、差異ゆえに一致することも融合することもありえない『項同士』の次善の策ではなく、社会性に固有な新たな卓越なのである。」(同書、80頁)

卓越や高揚、これは果たして宗教の独占物でしょうか。決してそうではないでしょう。ここでレヴィナスは倫理的関係は意識の志向性、つまりは論理的認識によって理解されうるものではなく、一個の具体的様態だと述べていますが、これは言い換えれば実践ということでしょう。たしかに、実践に伴う卓越や高揚として宗教を理解することはできますが、それ以外の実践においても卓越や高揚は可能なのです。レヴィナスは倫理的関係を人間性の卓越や高揚に期待しているのですが、これとは別の新しい社会をつむぎだすという実践においても倫理的関係の先行性を知解していくことは可能なのです。

4)価値形態論との対比

 人間の社会関係の一つである商品交換を、価値形態の分析によって、貨幣の生成論として解明しえたのはマルクスでした。私はここに社会生成の一つのモデルがあると考えています。それでレヴィナスの試みを、マルクスの価値形態論と対比してみましょう。

「特に問われるべきは、このような『関係』――倫理的関係――は、同一の身体にも、また、過程的で単に比喩的な間身体性にもまったく属することなき二つの手のあいだの根底的分離を介して課せられるのではないか、という点であろう。このような根底的分離――ひいては社会性の倫理的秩序の全体――が、人間の面を照らし出す顔の裸のなかで意味されているように私たちには思えるのだが、のみならず、ここにいう分離は、人間の感性的存在全体の表出性を通じても、握られる手を通じても意味されているのである。
 他者は顔において、倫理的責任を惹起しつつ、抹消不能な他者性に即して接近されるのだが、他なるもの、それも絶対的に他なるものに近づきうるという人間の可能性としての社会性は、顔にもとづいて意味され――言い換えるなら、命じられる。この可能性はその卓越を〈一者〉の威信から借り受けているのではない。もしそうなら、社会性は〈一者〉が多数のもののなかでいわば妥協したその産物でありうることになろうが、そうではなく社会性は、人間的なもののなかで、人間的なものによって、人間的なものに固有な善性を証示するようなまったく新たな様態なのである。社会性の卓越、それはおそらく愛の卓越であろうが、そのような卓越の中で統治しているのは、単に存在とその統一性の法則だけではない。社会的なものの精神性はまさに『存在するとは別の仕方で』を意味しているのである。」(同書、167頁)

 ここでレヴィナスは対話における対面の関係を倫理的関係と捉えて、その関係のうちで起きる事柄を知解のうちに上らせようと努力しています。それはアダム・スミスが『道徳情躁論』で人は他人を鏡とすることで、人として成長していくという「人鏡」論と同じ構造を知解しようとする努力に他なりません。そしてこの関係構造の解明は、マルクスが価値形態論で価値鏡の謎を解明したことで基本的には知解可能なものとされたと私は見ています。

 つまり相対的価値形態にある商品の価値の他の商品による表現は、等価形態にある商品体の使用価値をそのまま価値の化身とする事によって成され、こうして等価形態にある商品の使用価値は、この関係のなかでは価値鏡という社会的役割を果たしており、この等価形態にある商品に使用価値が受け取る社会的なものの化身化=受肉が、社会関係における形態規定の働きなのです。

 レヴィナスのここでの表現はそのまま価値形態論に置き換えられます。二つの商品、鉄と小麦というまったく異なる使用価値、根底的に分離した二つのものが、分離したままで、価値関係(倫理的関係=社会性)にあっては、小麦の顔によって鉄の価値(意味)が表示されます。

 商品の使用価値(個々の人間)とは絶対的に他なるものである価値(社会性)は、他の商品の顔に基づいて表示されますが、それは何か価値なるものという実体があってその威信に基づいてその表示が成されているのではなく、使用価値と使用価値とがその使用価値性を互いに関係させることから生じる新たな様態であり、この関係が価値という卓越であり、使用価値としての商品の「存在するとは別の仕方で」なのです。

「人間的なもの同士は互いに異邦の存在ではあるが、社会を形成することができ、社会では絆はもはや、諸部分の一個の全体への統合ではない。たぶん、この絆は人間に対して人間が≪無-関心-ならざること≫のうちに宿っているのだろう。このような絆は、人間の顔を介して、世界の外なるいと高き所から到来する言葉ないし命令を起点とすることでのみ可能なのである。」(同書、168頁)

レヴィナスの倫理関係論を商品の価値形態論に読み替えることで、レヴィナスの宗教への寄りかかりを朗らかに切断できるでしょう。商品同士は互いに所有者が異なる異邦人ですが、価値(意味)としては他者の顔を鏡とすることでお互いに商品世界を形成できています。個々の商品は人間の所有物として、私的所有の絆でつながれていますが、この商品世界では全面的な持ち手交代が行われるわけですから、以前の絆(存在すること)とは別の仕方の絆がそこにはあります。この絆は使用価値(存在)とは別の社会的なものとしてある「価値の絆」(倫理的関係)であり、商品生産者の無意識のうちで創り出されるものです。それは商品生産者にとっては「世界の外なるいと高き所から到来する言葉」として受け取られるほかはありません。

5)文化の創設

人間は無意識のうちで社会を創設し日々創り出し続けています。これは個々人の存在とは別の仕方での人間の関係なのですが、それは意識のうちには痕跡としてしか残されません。人間の生活が無意識のうちで社会をお互いに創設しあっていくことのうちで、突然意識のうちに痕跡として表れるものの意味が知解可能となります。レヴィナスにとっては二つの世界戦争と全体主義の台頭、マルクス主義のスターリン主義化、といったことを契機に表面化した「全体性」から、社会性(倫理)という意味をずっと追求してきたに違いありません。しかし「いと高きところ」は論理や哲学者にとってはそうかもしれませんが、生活者の実践がその大元なのではないでしょうか。そして晩年のレヴィナスは、この実践の問題について文化の創始という形で思考し始めているのです。

「(自然という即自と、精神という内在性とのあいだに何かが介在している)この何かについての存在論は感受性のうちに書き込まれており、感受性という還元不能なものにあっては、思考と延長との関係は世界への居住――、文化を創始するこの住むという出来事であることになります。感受性においては、自我と世界という他なるものとの関係は構成的能作によって世界を同化することではなく、外面的なもののなかでの内面的なものの表出、文化としての生でありましょう。知識としての真理は、文化のある様相と等価です。その場合、文化なるものは、事象についての先行的で定礎的な表象に、あとから価値論的な諸属性――第二義的なものとして基礎づけられた諸属性――を積み重ねるのではありません。そうではなく文化は、自己を表出する『受肉した思考』に、自らの魂を現出させる肉の生そのものに送り返される――、そしてそれが有意味なもの、知解可能なものの根源的な意味性なのでしょう。デカルト主義や、超越論的哲学として花開いた主体-客体の相関関係にもとづく二元論的形而上学に見られるような意味よりも古き意味の様態でありましょう。主体-客体の相関関係は第二儀的な派生的概念であって、それは何よりも間主観的一致を前提としており、この間主観的一致は、文化的諸形式が存在や世界を表現するためにも、真理がそこで客観性を表現するためにも不可欠なのです。」(同書、180~1頁)

レヴィナスは感受性に基づいてこの世界に住むということが文化を創設することであることに注目しています。そして感受性のもたらす繋がりは文化としての生であると看破しています。そして知識としての真理と文化のある様相は等価であると主張しています。そして「文化は、自己を表出する『受肉した思考』に、自らの魂を現出させる肉の生」と述べています。そうです、ここに至ってレヴィナスは生活の繋がりあいのなかにある文化の社会生成力に気づき、文化の創設に期待をかけているのです。このような地平から、ずっとこだわり続けてきたフッサール現象学の純粋自我の規定の限界もまた見えてきます。

レヴィナスは「(フッサールの)『意味』を単に付与された対象の知覚を超えた、その高みにあるような社会性や社会を、間接的提示についての現象学的分析から引き出そうとする瞠目すべき努力のことを、私たちは考えているのですが、しかしながら、経験の――始原的にも究極的にも――認知的な構造が問いただされているような箇所は、この見事な分析のなかにはまったくありません。」(同書、184~5頁)というように述べた後、次のように続けています。

「私の志向の外にあるような思考の存在と係わり、『話しかける相手』がそこにいるという事実を開示する既得の認識や、さらには直接的で即座の認識をも超えて――あるいはその手前で――、感情移入はそれ自体すでに――しかも十全な仕方で――ひとつの社会関係なのではないか。私たちの考えでは、こう問うことも無意味ではないでしょう。」(同書、185頁)

このような思考は文字通りマルクスの自然主義=人間主義の境地の再確認ではないでしょうか。イデオロギーは市民社会という竃がかもし出す湯気のようなものですが、しかし人間にとっては、竃を炊くのは無意識の行為ですから、意識化される湯気を実体化し、そこに近代的自我を主体とみなし、自己意識による世界解釈を世界認識としてきたのでしょう。このような主体の主体性は全体性に他ならず、レヴィナスはこの主体性を逆にするところから倫理哲学を組み立てて行ったのですが、それはまさしく哲学批判としてなされ、ここに文化の復権へと至ったのでした。

第五節 『貨幣の哲学』

1)貨幣哲学の枠組み

 レヴィナスはベルギー貯蓄銀行連盟の依頼で貨幣についての考察を行い文章化しています。1987年に発表された「社会性と貨幣」(『貨幣の哲学』法大出版局、2003年、所収)がそれです。レヴィナスはこの論文の冒頭で、貨幣の社会的、経済的現実に対する考察は、経験的所与とその歴史についての徹底的研究が必要だと述べた上で、しかしそのような学問的蓄積なしでも考察可能なことがあると次のように述べています。

「しかしヨーロッパ人の道徳意識のうちで貨幣が描く、あるいは穿つ、あるいは露にするいくつかの『諸次元』について考察することは、おそらく不可能ではないし――無益でもない。」(『貨幣の哲学』法大出版局、111頁)

このようにレヴィナスはヨーロッパ人の道徳意識のうちでの貨幣を問題とし、その現象学的分析を成そうとしているのですが、それはあくまでも自らの倫理哲学の構想の枠内のこととなります。

2)貨幣とは何か

 まずレヴィナスは人間の意識の上に現象しているものとしての貨幣について次のように述べています。

「貨幣を貨幣として他から弁別する標識とその永続的な価値は、多様に変身しつつも、あらゆる物ならびにあらゆるサービスと交換されうる点にある。このことから、――このうえなき媒介たる――貨幣は、現勢態にある所有ではなく、ある所有を開始する可能性または機能として措定される。かくしてこの可能性は、他の諸決定へと開かれた所有者が有するいまだ自由な意思に対して、わずかなりとも未決定と生気を残す。さらに別の意味においても、この媒介によって、次のような人間性の奇妙で注目すべき両義性がもたらされる。存在の冒険のうちで――あるいはその逸話のうちで――、人間は貨幣によって物とサービスを――物と人間の労働を――獲得する機能を得るに至るだろうし、また、経済の関連によって、給与振込みによって、労働する人間たち自身を眼には見えない仕方で所有し始めるような機能を得るに至るだろう。しかし同時に、すでに交換という出来事のなかで――そこでは貨幣が挿入され、そこで貨幣は単にその媒介の役割を開始し、この役割に準拠することをやめない――、人間は出会いにおいて、他なる人間を頼りとするに至るだろう。この出会いは、単に個人を個人に付加することでもなく、征服の暴力でもなく、その真理のうちで自己を与える対象の知覚でもなく、まさに他なる人間の〈顔の間近に〉である。他なる人間は、すでに沈黙のうちでこの人間を呼び求めており、人間は彼に対し応答する。すなわち、彼は『シャローム』と言うことで他なる人間に平和を宣言し、『ボンジュール』と言うことでその幸福を祈念するのである。挨拶をすること。それは根源的な応答ないし責任であり、あらゆる言説が有する『…に話しかけること』である。この人間同士の近さ、超越――そしてすでにこれを横断している、唯一的な者から唯一的な者への、異邦人から異邦人への社会性、そこからあらゆる貨幣が生じ、あらゆる貨幣が再び賦活する取引=超越の活動――が、貨幣のうちで忘却されることはないのだ。」(同書、111~3頁)

ここでレヴィナスは「価値」という言葉を使っていますが、マルクスに明るい人からすれば、商品の二重性としてある使用価値と交換価値の区別を念頭に置くでしょうが、しかしレヴィナスにはそのようは範疇はなく、価値という言葉も倫理学上のもので、どちらかといえば文化的価値を指しているようです。ですから「貨幣の永続的価値」という言葉も、貨幣を貨幣たらしめる価値という経済学的な範疇ではなく、人間にとっての貨幣の価値という意味でしょう。ですから貨幣の両義性ということも、使用価値視点と交換価値視点から論じられているのではなくて、人間にとって貨幣がどのような役割を果たしているかという問題のようです。

またレヴィナスは貨幣の所有ということを認めていませんが、それは、価値の所有ということが、使用価値としての財の所有として観念されているためで、諸使用価値を抽象した価値そのものの化身たる貨幣については、その抽象性ゆえに、可能性としての所有と見なされているのです。そしてこの貨幣の所有ということを考慮に入れないところから、両義性という考え方が導き出されてきます。

こうして両義性とは、貨幣によってつむぎだされる経済的関係、財の所有の可能性と、労働する人間たちの所有の可能性ということが一つで、もう一つは人と人との出会いを媒介するという機能です。そしてレヴィナスが注目するのは後者の機能で、人と人との社会的関係が近さと超越としてあるという異邦人同士の社会性から貨幣が生じ、そして貨幣はそのことを忘れることはないというのです。

「貨幣は物とサービスを獲得する権能である。どんな物もいくらかの人間労働を秘めているとはいえ、物とサービスは互いに異質な秩序を成しており、それぞれの秩序の内部にはまた、互いに異質な諸価値が存在している。これらの価値は、貨幣単位によって――その価格を表す数字によって――表現されることで同質性に逢着し、比較され、全体化される。なるほど、この同質性は最初から逆説を孕んでいる。同質性は、それが担う人間のサービスを――人間のサービスは当然ながら効用と内存在性の利害へと帰着する――、人間のものとしてこの労働が有する支払不能な尊厳を、価値のうちに覆い隠してしまう。然るに、人間の労働は本来、効用や内存在性の利害とは別の原理によって計測されるか、計算不可能なものであることを望む。ただ、その一方で貨幣は、それがいたるところに導入する尺度によって、自らの源泉たる交換を、物々交換の面倒と主観の影響から開放する。すなわち貨幣を起点とすることで、諸々の不測の事態にもかかわらず、『財』は客観的な一つの全体を構成するのである。これらの事態のうち、剰余価値――と後に名づけられるもの――が、――言うまでもないであろうが――労働価値の正確な計算を脅かすのだ。
 諸価値の客観的総体、あるいは諸価値の世界。これらの価値は、諸生物がその生命に対して抱く根源的な愛着、こう言ってよければ、存在者と存在とのまったく不可避的なかかわりを支える緊張としての始原的な価値論を起点として認知される。生物としての人間にとってはたしかに、彼らの実存することそのものが、この実存することにおいて問題となる。自然的あるいは物質的と称される数々の欲求のうちで根源的な価値づけが構成される。つまり実存することへの愛着であり、存在するという出来事、存在することそのものへの愛着である。人間にとっては、この存在することそのものが重要であり、これを気遣い、これに執着し、そのとき人間はすでに世界に内在しつつそこに身を置いている。これが根源的で自然で素朴な内存在性の利害である。内在としての内存在性の利害は、実存することの欲求、あるいは地上の糧によって存在することへの渇望であるが、それはすでに大気・雰囲気の呼吸であり、この地上に住むことであり、物や場所の知識をつうじて知覚することである。それはまた、諸存在を介した存在することの支配であり掌握である。」(同書、113~4頁)

 貨幣の両義性について述べた後、レヴィナスは貨幣そのものについての考察に移っています。ここでは価値という範疇がどのような意味で使用されているかが明確に現れてきています。まず、物やサービスは「諸価値」とみなされていますが、これはその物やサービスの自然属性から発する使用価値のことでしょう。そして貨幣はこれらの諸価値を価格というものへと同質化する機能として考えられています。しかし価値という言葉が使用価値だけを意味しているかといえばそうではなく、価格も価値として捉えられ、商品価値や労働価値や剰余価値といわれる場合は交換価値としての価値を指しています。

 レヴィナスが「人間のものとしてこの労働が有する支払不能な尊厳を、価値のうちに覆い隠してしまう。」というとき明らかに、使用価値とは違った価値そのものの自立化を念頭においているのです。

 こうしてレヴィナスは商品交換が人間の歴史において果たした進歩的役割に注目しつつも、現代における雇用労働の問題点だけでなく少しあとで出てくるように、信用取引の問題点をも意識しているのです。

3)貨幣から見た享受への批判

 とはいうものの、倫理の哲学者であるレヴィナスは、交換が果たした進歩的役割そのものを賛美するほど単純ではありません。レヴィナスは貨幣の機能が作り出す人間の両義性のうちの明るい面である、近さと超越の媒介ということ自体に大きい問題を発見するのです。

 その問題は商品世界の諸価値となって現れている商品に対して、その価値(この場合使用価値ではなく価値が問題とされているようですが)を始原的価値(つまりは使用価値)から見直そうとすることから導き出されてきます。つまり商品価値の覆いを剥ぎ取った人間にとっての文化的価値としての種々の財、この世界が実は財を所有するという、自己中心的な自我を作り出す、享受の世界だというのです。

「そしてまたひとつの自我中心性が享受のうちで描き出されるのではないか。享受はたしかに『生命よりも貴重な』ものと評されているが、それにもかかわらず、やはり実存することあるいは生の肯定された内密性にとどまる。
 いまだ健康で素朴な内存在性の利害が有する志向、つまり存在の根源的な価値論は、人間においても、諸生物の生存競争を延長しているのではないか。健康でかつ素朴なものであるこの価値論はまた、素朴であると同様に潔白なのだろうか。その意最も自然的な形態において、この価値論ははじめから他者たちへの考慮を欠いているのではないか。内存在性の利害は、人間の諸欲求をつうじて、束縛し続けている。」(同書、115頁)

 商品世界から、価値のベールを剥ぎ取ったときに現れる世界は、財を所有する自己中心的な自我を産み出す世界であり、内存在の利害で形成される世界であり、他者たちへの配慮を欠いた世界ではないのかとレヴィナスは問うています。

「内存在性の利害は無情なる一義性であって、それは貨幣の残虐行為と専制、戦争の血みどろの暴力にまで行き着く。そしてそこに、貨幣による同質化が更に加わる。かかる同質化は人間のサービス、労働を賃金によって物と同一視し、対象のうちに消え去った労働を忘却する。そうなるとあらゆる価値は欲求の内存在性の利害をつうじて認知され、購買によって我有化される。これは、貨幣文明の到来における本質的な契機である。……そこでは、他なる人間は、その行いと能力の値を貨幣によって評価される。人間は経済システムへと統合され、経済発展のさまざまな段階において値段を付けられる。……人間の卓越あるいは尊厳……自我の哲学的定立……しかしそれは、他者たちを犠牲にした貨幣蓄積によるものだ。すなわち、それは富者の自由であり、独立なのだ!そして、その他の者たちには、『即かつ対自』となることをめざして、ポケット・マネー、『懐の金』、銀行の金によって捻出された、何時間か、何日か、あるいは何年かのあいだの一時的でかりそめの独立の可能性があるだけなのである。」(同書、115~6頁)

商品世界を価値の世界としてではなく使用価値の世界と見たときに、レヴィナスの所有批判が冴え渡って、そこでの問題点を突き出していますが、しかし現実はさらにその上に価値による同質化が加わってきます。こうして商品交換によって創り出された現代の自由な社会に対して倫理的観点からの告発がなされるに至ります。自由とは富者の自由に他ならない、と。では貨幣の両義性についてなぜレヴィナスは注目したのでしょうか。

「われわれは、『存在するとは別の仕方で』という題名が――そのいずれについても――相応しいと思われる他のいくつかのテクストのなかで、この内存在性の利害からの超脱の価値論を描写しようと試みた。これは、存在の価値を純粋に否定する虚無主義的な抽象ではないし、弁証家たちが行う構築的な総合の第一歩でもなく、与えることという善性である。すなわち慈愛、慈悲であり、責任のうちでの応答と言説であり、かくして他人の存在である限りでの存在への愛着を肯定することである。したがって、他人の諸欲求、彼の内存在性の利害、彼に与えるべき貨幣を重要視することである。内存在性の利害からの超脱の価値論のうちでは、与えることに専心する金銭的活動に再び重要性が与えられるのだが、この重要性を改めて強調する必要があるだろうか。他人への――異邦人への――関係においては、他人はその弱さによって、その貧困と可死性によって自我と関わり、この私と関わり、かくしてまさしく『この私を見つめる』。つまり、他人が装う『平静』の背後から、他人の現われが彼に与える仮面――ペルソナ――の背後から、他人はその顔を剥き出しにするのだ。異邦人の近さ――それは一致や内在の挫折ではなく、社会性である。責任であるような他人の認知、還元不能な卓越のなかで愛を担う社会性。これは法外な思想である。なぜなら、愛される者はつねに唯一的であるゆえ、それは、依然として類の共同体に埋め込まれ、知覚によってとらえられる個人を超えた、絶対的な他者の思想となるからである。それは存在の彼方の価値論としての近さであり、超越の価値論なのだ。」(同書、117~8頁)

商品価値の外皮を剥ぎ取った後に残る財の享受というところに内存在性の利害(内存在性への我執)の根源としての所有を見るレヴィナスは、しかし同時に、すでに『存在の彼方へ』で「与えることの善性」として、この内存在性の利害からの超脱の価値論を規定していました。この価値論を貨幣に即して解明することがここで目指されていきます。

4)超脱の価値論

 すでに倫理的に解明されている超脱の価値論を、貨幣に即して解明していくということはどのようなことでしようか。レヴィナスは、「社会性と貨幣」を仕上げる前に行った学術講演「貨幣の両義性」で、「私の発表が主要な対象としたのは、貨幣から貨幣への移行、すなわち内存在性の利害としての貨幣から内存在性の利害を超脱する貨幣への移行である。」(同書、105~6頁)と述べています。そしてこのことは端的に「貨幣を与えること」であるとし、次のように述べています。

「このようなヴィジョンのうちでは、他人のために介入することは私の自己への気遣いに先行している。他なる人間のための犠牲、場合によっては他なる人間の代わりに死ぬことは、無償性という価値を有している。この価値こそ、私が聖潔の価値と呼んだものにほかならない。だが具体的には、それは与えることを取ることに優先させることであり、与えることを獲得することに優先させることであり、この意味で、すでに対称的であるような交換を超えた、私と君とのあいだの非対称性である。受け取ることを顧みずに与えること、かくしてまた、もう一度欲求と存在とを再評価すること、ただし他人の欲求と存在とを評価すること。
 他人に責任を持つことは、その命に責任をもつことであり、かくしてほかならぬその物質的欲求に責任をもつことであり、かくして貨幣を与えることである。このとき貨幣は、そのすべての意義を取り戻す。内存在性の利害の全価値は、より高次の水準、内存在性の-利害からの-超脱という水準において、与えることにおけるその意義を見出す。内存在性の利害が、超越のうちで内存在性の利害からの超脱へと反転するのだ。」(同書、102~3頁)

 このような主張には正直言ってがっかりします。貨幣を与えることが善性なら、善性は貨幣を所有することが前提となってしまうのではないでしょうか。これはレヴィナスにとって、講演の主催者である、その手元に貨幣を集中している銀行家に対してサービスのしすぎのように思います。

5)貨幣への批判

 このような無邪気な見解を提示しつつも、しかしレヴィナスが貨幣について論じるときの困難について、編集者との予備的対談で面白いことを言っています。「マルクス主義には愛があります。しかしスターリン主義のせいで、もはやマルクス主義について語ることができなくなってしまいました。」(同書、61頁)というのです。たしかに貨幣論を書くときにマルクスについて語らないとすれば、うまくは行かないでしょう。とはいえ当然にも貨幣の哲学を準備するに当たってマルクスの『資本論』に目を通しているでしょうし、貨幣に対する次のような批判は、まさにマルクスの立論を髣髴させます。

「そこで強調しておきたいのは、文化的諸価値と人間の奉仕が、どんな価値のうちでもあらわになる、と言わないまでも、どんな価値のうちにも存在すると想定された商品としての意味と関わりうるということ、これである。本考察においては、これが文明の本質的契機とみなされる。これはまた史的唯物論の源泉のひとつであるが、欲求の諸対象を資本として媒介し、今度は資本をして賃労働の形での人間の奉仕を可能ならしめる、そのような貨幣の成立が示唆する価値に加えて、史的唯物論はつねに可能である。人間の奉仕と労働が有する商品価値は、すでに経済の商品価値の観念を含意しているのだ。
 貨幣をその支出から分離し、ない存在性の利害そのものを管理する可能性は、かくして、ポケット・マネー、懐の金、銀行の金によって、同時に貨幣そのものをひとつの物、ひとつの商品のごとく運用し管理する可能性となる。媒介としての貨幣の力を超えて、――そして次が重要な点であるが――経済の内存在性の利害と断絶することなく、貨幣を運用し管理する可能性である。それは、経済のさまざまな必要と強制を通じて人間を自由に用いつつ利益を得ること、自由たる〈対自=自己のため〉から利益を得ることである。この自由は、われわれが出発点とした存在への固執ないしコナトウス・エセンディ、そして内存在性の利害の延長線上にある。〈対自=自己のため〉はなるほど充足し裕福であるが、しかしまた危険と試練でもあり、資本金と呼ばれる比類なき悪への隷属と呪縛という悪でもある。」(同書、99頁)

 ここでレヴィナスが「史的唯物論」と呼んでいるものは、マルクスの理論の隠喩でしょう。つまり労働力の商品化が、全面的に発達した商品経済としての資本家的生産の土台であることが示され、貨幣の資本への転化が、資本による賃労働の雇用によってなされることが述べられています。

 そしてレヴィナスの批判はたんに産業資本としての資本にとどまってはいません。まさしく貨幣が貨幣として商品となる、資本の商品化についても批判の目を向けています。さらに国家論についても、「自由な国家」という概念で現存する国家に対する批判的視点が維持されています。

「まさにこうしてわれわれは、正義の名において、再び貨幣へと、運用される貨幣へと、他者のために運用されるべき貨幣へと、価値を有するもの一切の同質性へと、かくして正しい計算でありつづける正義の可能性へと導かれた。それは、計算可能性としての貨幣の価値への回帰である。正義によって実行される正しき計算が、計算可能な要素を再発見する場であるような貨幣への。
 私はこうした事柄を、ほかならぬ貯蓄銀行に関連づけて考察した。貯蓄銀行は、まさに人々と関わり合い、また何らかの方法で、計算を行うと同時に、人間の顔の現前を決して見失うことはなかったし、むしろ決して見失ってはならない。これは、公正な計算と公正な諸法を保証する国家への回帰でもある。 
 しかし、国家はまた、計算には、慈悲に比してまた慈愛の自発性に比してすでに欠ける所があることを認知せねばならない。それゆえ国家は、国家が発見する正義の普遍的規則を決定的規則とみなすことはできず、またそうみなしてはならぬことを認知せねばならない。慈愛の最初の自発性を、それ以上他人の顔に近づける可能性がもはや存在しないことを認知せねばならない。したがってそれは自由な国家への回帰である。自由な国家とは、すなわち現行法を修正し、変更する可能性を容認する国家であり、人間の霊感と人間の生成のうちにより良き正義を見出す可能性を容認する国家である。」(同書、105頁)

 レヴィナスは対談では「自由な国家とは、その正義が完全ではなく、再生する正義の問題がつねに存在し、絶えずより善き正義の探求がなされているような国家です。」(61頁)と述べています。レヴィナスの正義論はデリダの正義論と比較対照すれば面白いと思いますが、今後の課題としておきましょう。レヴィナスの貨幣の哲学は、それを倫理学の枠内で論じたために、貨幣に対する批判が展開されながらも、貨幣による善性の可能性と正義の国家による実現という倫理的結論へと導かれていってしまいます。

 このような貨幣の哲学の内容は、外の主体を論じて社会的なものの生成を考察してきたレヴィナスのそれまでの議論の帰結としては、物足りません。やはりマルクスの名を復権し、価値形態論が社会生成論としてあることを承認するところから、新しい可能性が開けてくるでしょう。この可能性について、次章以下ではマルクスに即して論じていきます。






Date:  2007/7/5
Section: 文化知思想の探求
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