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文化知思想の探求(第2回)前


文化知思想の探求(第2回)前

第二章 レヴィナスの外の主体

第一節 『存在の彼方へ』第六章

1)はじめに

第一章ではレヴィナスの全体像をつかむために、『全体性と無限』および『存在の彼方へ』に沿って、多くの引用とそれについてのコメントで構成してみました。第二章ではレヴィナスの『存在の彼方へ』第六章、と『外の主体』(みすず書房)および『貨幣の哲学』(法大出版局)を取り上げ、レヴィナスの提起が文化知の萌芽であることを確認していきたいと思います。したがってレヴィナスを素材として、文化知の立場から自由に解釈するという方法を採用します。

『存在の彼方へ』第六章 外へ はこの本のまとめですが、しかし単なるまとめではなく、次へのステップが描き出されているという風に読めます。『全体性と無限』では、西欧哲学を全体性と特徴づけ、その存在論の外にあるものを無限と規定して、存在論の外にある無限を倫理的関係と捉え、それについての哲学を開始し、この無限を他者への呼びかけの関係と捉え、そこで発語される言語に社会関係を投影し、自存的なものと捉えて、他者への語りかけが、言語からの教えを受け取るものと見なして、言語が召喚した他者に対する責任が言語から発するものとして、したがって顔の裸出性も言語の裸出性から説明されていました。

これに対して『存在の彼方へ』では、全体性や無限はキーワードではなくなり、代わって感受性や主体性や身代わりという新たなキーワードが登場します。それだけではなく、言語についての理解が逆転し、言語は存在論における同一性の論理の婢女とされ、語られたことを還元して語ることに到達し、存在の彼方へと赴くことが目指されます。そして現象学の志向性に対して逆方向の絶対的に受動的な感受性を対置し、主体性を他人の身代わりになる一者という、主体の外から与えられるものとして位置づけるに到ります。

二つの主著の特徴は、前著が西欧哲学の存在論の批判が中心となり、同一化に抗する無限の対置と、特有の言語論に基づく倫理哲学の展開であるのに対して、後著では現象学への批判であり、その意識論と主体性論への批判が試みられ、対話の関係における形態規定の働きについて描き出すことに成功しています。そしてその全成果と新たな出発点が第六章に盛り込まれているのです。

2)意識一般の批判

それでは第六章 外へ でレヴィナスが展開している内容を紹介することから始めましょう。まずは意識一般への批判です。

「みずからを規定する一切の内容を除去された存在の概念は、ヘーゲルによると、純粋無と区別がつかない。けれども、一切の内容を存在から剥ぎ取るこの知的機能、抽象化と普遍化のこの倣岸は、存在を侵食するものたる純粋無を、存在の存在性を汲みつくす解体を、〈存在すること〉の有限性をすでに拠り所としている。存在の存在性をすりへらす一般化と堕落を欠く限り、――純粋に論理的な一般化の努力がいかなるものでありえたとしても、否定をつうじて、個的なものから〈概念〉が発出することはないであろう。概念は〈存在すること〉から流出する。死に至らしめるほどに〈存在すること〉を疲弊させる無によって、種々の観念論の真理、主題化の特権、客体の客体化による存在者の存在の解釈は永続的なものと化す。みずからの存在性そのものによって成就される〈存在すること〉のこのような侵食なしには、決して何ものも現出しなかったであろう。事実、知覚される客体は無際限に多様な『射映』を遍歴しつつも、結局は諸形象同士のどんな類似とも異なる理念的自同性によって同一化されるに至るのではなかろうか。」(『存在の彼方へ』講談社学術文庫、390~1頁)

ここでレヴィナスはヘーゲルの論理学を念頭において、ヘーゲルの意識論の批判を試みています。ヘーゲルにあっては哲学とは意識を対象とする意識についての学であり、意識一般は自我と対象との関係です。そして存在(有)を始原としてそこから無規定な存在を無と等しいものとして、存在(有)を無に移行させます。このようにヘーゲルの無は、無規定という意識内容についての規定であって、知の抽象化作用のことなのですが、レヴィナスはこのような抽象化自体が、実はレヴィナス的無限、つまりは意識の外にある無限を前提としているというのです。知が存在を無内容なものとして抽象化できるのも、意識の外にある無限に支えられてのことなのです。ヘーゲルが問題にしている存在(有)と無とは共に意識の上でのものですが、そしてヘーゲルは意識の発展の帰結として概念に到達することを自らの論理学で説いているのですが、しかしこのような概念は、対象の概念ではなく、意識における理念による同一化作用の帰結でしかないというのです。

このレヴィナスの意識批判を出発点とすると、へーゲル弁証法の転倒が可能となるのではないでしょうか。つまりヘーゲルの弁証法は自我と対象との関係において成立している意識を実体とするだけではなく主体としても捉え、意識の主体的運動に即して弁証法を組み立てました。これに対してレヴィナスは意識の外にあるもの、自我と対象という関係の両極から意識を規定しようとしているのです。まずレヴィナスは意識の主体性について疑問を投げかけます。

ヘーゲルのように意識に主体性を求める考え方は、人間的自我の存在が死にゆくものであるという有限性を逆転させたところに生まれる普遍性で、このような形で存在することの普遍性が語られるとき、主体は二者択一に陥るとレヴィナスは考えます。つまり存在者としては人間は概念に従属しているという考えに基づいて倫理について考えれば、ストア派的な禁欲主義とエピクロス的快楽主義の間での二者択一が生まれるというのです。

「本論は、いま言及した二者択一の二つの選択肢双方の支配者たる〈存在すること〉への主体性の準拠を揺るがす。本論は、一切の意味が〈存在すること〉に発するのかどうかを問う。〈存在すること〉にひたすら仕えており、意欲を意欲することがないと偽善的に言い張る場合にも、主体性は〈存在すること〉からその意味を汲み取り、そうすることで、生存競争として自己を告知し、ナショナリズムの暴力たる権力の権能に身を委ねるのだろうか。」(同書、394頁)

一貫して倫理について哲学してきたレヴィナスは、ここで二者択一を断ち切るためには主体性を自我の意識に求めることへの批判から始めようとしています。その際存在すること、という意識化された観念の世界から意味を汲み取ることに主体性を求めるのではなく、別の形での主体性の規定が求められているのです。

3)新たな主体性論

 別の形での主体性の追求は、自我が、存在するということから派生するものとしてではなく、自我の存在の彼方から、主体性を規定しようということですが、そのためにまずレヴィナスは人間の弱さをとり出します。

「人間が有するある種の弱さの意味を、今一度考えてみなければならない。忍耐のうちに、人間的なものの存在論的有限性の裏面のみを見ることをやめなければならない。だが、そのためには、他人たちに忍耐を要求することなく、自分自身が忍耐しなければならない。そのためには、自己と他人たちとの差異を承認しなければならない。人間と存在を結びつける近親性とは別の近親性を、人間に対して見いださなければならない。――もしそうするなら、自我と他人とのこの差異、この不等性を、暴虐とはまったく逆の意味で考えることがおそらく可能となろう。」(同書、394頁)

人間の主体性を自我の意識に求めるならば、存在者は意識のうちでの同一化作用に巻き込まれ、自我の観念のうちに取り込まれてしまいます。これは存在者が他者であっても変わりません。レヴィナスはこのような現状に対して人間のある種の弱さに注目します。論理による同一化作用が強さとされているのでしょうが、これに対して弱さとは不安であり、忍耐です。つまり人間と存在とを結びつける意識において、他者の場合に関しては論理とは別の近親性を認めようというのです。

「断念と錯覚のうちでのみ、主体は、〈概念〉、〈存在すること〉から――死への不安、あるの恐怖から――逃れるのだろうか。たとえそうだとしても、錯覚からの覚醒は不可避のもので、この錯覚ないし真理の時においては、〈存在すること〉の方が錯覚に打ち克つ。概念からの〈脱出〉にもとづいて、――存在と非存在双方の忘却にもとづいて主体の主体性を考えたように、〈存在することの彼方〉から主体の主体性を理解することはできないだろうか。」(同書、395頁)

こうしてレヴィナスは自らの思考を、存在することの彼方から主体性を理解することに定めます。ここでレヴィナスが「存在すること」といっているのはこれまでの文脈から明らかなように、意識のうちに捉えられた存在です。ですからその彼方へということは意識の外にある自我と存在者に注目しようということにほかなりません。そしてこの立場は存在論に対する無関心ということなのです。

「つまり、存在論に対する無関心は、他人に対する、〈他者〉に対して無関心-ならざることなのである。自我と他人との差異さえ、無関心-ならざることとしての無差異の否定、他人のために身代わりになる一者である。しかも、他人のために身代わりになる一者、それこそが意味の意味することなのだ。」(同書、396頁)

存在論に対する無関心ということはロゴスに対する無関心ということですから、自堕落や、自我の内存在への我執といったことにもなりかねませんが、しかしレヴィナスが考えるのはそういうことではなく、この無関心からしか他者への関心が生まれないということなのです。自我と他人の関係で意味を持つのが、他人のために身代わりとなる一者であるということはすでに明らかにされてきたことですが、このような事態は存在論のうちには吸収しようがありません。存在論への無関心とはしたがって、存在論からはみ出しているものへの関心ということになります。

「だが、〈存在すること〉の彼方、『存在することとは別の仕方で』への開けは、見、認識し、了解し、掴む可能性を意味しており、この可能性は当然のこととして主題化することに、ひいては存在を思考することに帰着するのではなかろうか。」(同書、397~8頁)

しかしこの存在することの彼方への関心も結局は存在を思考することになるのではないか、という問いをたて、レヴィナスはさらに存在を思考することそれ自体についての分析を進めます。

「存在することは、現前するというその営みを、顕示として、現象性として、現われることとして遂行し、そのような資格で、存在することは意識たる主体を要請し、表象に委ねられたものとして主体を任命するのだ。このように〈存在すること〉は、現われることのうちでその現前を実現するために、主体を要請し、みずからの現われることによって主体を表象に縛りつけるのだが、その仕方が〈存在すること〉の客体性である。客体性には空間ないし外部性が必要である。なぜなら、現われることは、光にみちた隔たりとしての空間を、透視しうる空虚としての空間を必要としているからだ。」(同書、399頁)

存在すること、ここではヘーゲルとのかかわりで論じられているので、有という観念と置き換えてみましょう。そうするとレヴィナスは有(存在すること)ということが現象するためには、意識たる主体が必要だと看破しています。ここでレヴィナスが主体といっているものは、ヘーゲルが考えている意識のことではなく、自我のことで、現象学にあっては有そのものを意識と捉えます。そこでは意識は自我という主体の志向性なのです。

つまりヘーゲルが自我と対象との関係を意識と捉え、これを主体と見なしたのに対して、レヴィナスは有それ自体を意識と捉え、この意識の側からそれを現前させる主体を要請するという関係をここで述べているのです。そして有が主体を要請し、しかも主体を有という表象に縛り付けるその仕方が客体性だというのですから、これはヘーゲルの精神現象学の舞台裏を解き明かしています。ヘーゲルにあっては主体たる自我は、関係たる意識に主体性を奪われていて、そうなると有という意識そのものが客観性へと転化できることになるというのです。このような観念論的転倒の秘密がここで明かされています。

このように意識の側から有という意識を考察するのではなく、逆に有という意識形態の側から認識の構造を解明していく、これは志向性に対して感受性を対置したレヴィナスの新たな哲学的方法の成果ではないでしょうか。そしてこのような発想から次のような構想が披瀝されます。

「けれども空間の意味は透明さと存在論に尽きるのだろうか。空間の意味は〈存在すること〉ならびに現われに縛られているのだろうか。空間はこれとは別の意味をそなえてはいないだろうか。出発の痕跡、回収不能な過去の表徴、正義を前にして等質なものと化す多様性における平等――本論ではこうした人間的意味への言及がなされた。これらの人間的意味を、開示にもとづいて解釈することはできない。だが、そもそも空間の開けそれ自体、外――そこでは何かが何かを覆い、守ることはまったくない――を、庇護されないことを、奥処の襞のそのまた裏側を、住居なしを、非世界を、住まないことを、危険にさらされることを、これらの人間的意味に先立って意味しているのだ。」(同書、400頁)

自我と対象との関係を意識と捉え、これを主体と見たヘーゲルに対して、自我に主体性を取り戻したレヴィナスからすれば、自我と対象との関係はなによりも空間であることになります。この空間を意識で埋め尽くしてしまったのがヘーゲルであり、そうする事で意識が客観性に転化されましたが、レヴィナスはそうすることを拒否しすでに空間を占めてしまっている意識を相対化することに取り掛かります。それは意識にあっては痕跡としか捉えられないもの、人間的意味の追求としてなされてきたのですが、意識の外として従来語られてきたことが、ここでは意識が占めている空間の開けにおける意識空間以外として考察されていきます。

4)空間

 一見何も存在しないかのように見える空間、レヴィナスは、このような空間を考察するにあたり、それを抽象的なものとしてではなく、大気圏という具体的なものと捉えています。

「風がそよぎ嵐が迫りくるときにのみ姿を現わす不可視の大気によって、空間の空虚がみたされているということ。知覚されないにもかかわらず、この大気は私の内面性の襞にまで浸透するということ。大気のこの不可視性ないし空間の空虚は呼吸されるもの、あるいは恐怖をひき起こすものであるということ。一切の主題化に先だって、この不可視性は、私と関わらざるをえないものとして、私を脅迫するということ。単なる雰囲気が気圧として押しつけられ、主体はこの気圧に屈服し、意図も狙いもなく、肺腑までもこの気圧にさらされるということ。主体はその実体の基底においてはこのような肺腑たりうるということ。以上のことが意味しているのは、存在に根づくに先だって受苦する主体性であって、かかる主体性は受動性であり、そのすべてが支えることなのだ。」(同書、401頁)

空間をすでに占めてしまっている意識、それが有であり、存在することですが、この意識からすれば空間は透明で意識のほかは何もないことになります。このような考えに対してレヴィナスは大気を例に、自我と他者との関係を念頭において論じていきます。そして感受性の根源を人が呼吸することで肺腑までも大気に曝していることに求めています。実際に大気中の気体の構成が少し変化するだけで人は死に絶えるのですから。

普通人間の主体性については大地との労働の関係から発想するのが多いですが、感受性の哲学者レヴィナスは大気との関係で人間を規定していきます。そして次には呼吸の哲学的意味の考察に移っています。

「空間として開かれること、自己のうちへの幽閉から呼吸によって解放されること、それはすでに隣人という彼方を前提としている。他人に対する私の責任、他人によって私が息を吹き込まれること、他性の圧倒的な重み――他性という彼方を。呼吸することによって、存在者はその生命空間のうちで勝ち誇って自己を肯定するかにみえるが、呼吸は私の実体性の蕩尽であり核分裂であるということ。呼吸することですでに、私は不可視の他なるもののすべてに従属すべく自分を開いているということ。彼方ないし解放は圧倒的な重みを支えるものであるということ――、これはたしかに驚くべき事態である。が、この驚きこそ本書の眼目だったのだ。」(同書、403頁)

レヴィナスが一貫して批判してきたのは、意識の圏への自我の閉じ籠もりでした。この閉じ籠もりを相対化する視点がこの空間論によって切り開かれています。それは思考ではなく呼吸から空間を見ることであり、思考が志向性を持つのに対して呼吸は絶対的受動性を運命付けられているのです。

こうして他者との関係で自我が責任を負うということも、自我と他者との関係を空間と見、そこでの呼吸の問題から接近すると、発語も大気の振動であり、これを受けることで自我は他者から空気を吹き込まれるという形で受動的存在たることが見えてきます。

「他人への自己の開け、それは何らかの始原によって自己を条件づけ、自己を基礎づけること――定住的な住人にしろ流浪する住人にしろ、住む者が有する固定性――ではなく、場所の占拠、建てること、安住することとはまったく異なる関係である。――それは呼吸であり、呼吸とは幽閉からの解放としての超越である。呼吸がその意味を余すところなく明かすのは、他者との関係において、隣人の近さにおいてであり、この近さが隣人に対する責任、隣人の身代わりになることなのだ。とはいえ、このような気息は存在しないことではない。この気息は内存在性の我執からの超脱であり、存在すること、存在と存在しないこと双方から排除された第三項なのである。」(同書、404~5頁)

こうして空間を完全に占めてしまった自己意識が場所に対する所有に基礎付けられていることに対して、非場所としての呼吸がこれに対する超越の関係として位置付けられてきます。確かに他者の顔は大気を通して自我に到達し、意識の志向性に先だって気息でその存在が感受されます。この気息、気配、これをレヴィナスは有と無から排除された第三項と見なしています。

「自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。自己を超越することは、自分自身を担いつつ巧みに自己を導くことではない。それは、自分自身を担いつつも、唯一無二の存在としての私の唯一性によって、他人に対して贖うことである。世界も場所も有さざる自己の開けとしての空間の開けは非場所であり、何ものにも取り囲まれないことである。」(同書、405頁)

この第三項は自己の超越、自己からの脱出であり、他人の身代わりなのですが、これは自我が主体的に担うようなものではなく、自我が自己としてありつつも、他人の身代わりを引き受けてしまう一者として、呼吸の関係において受肉させられてしまうこととして成立します。

5)存在するとは別の仕方で

 大地と労働から人間論を説きおこすと、住むことや所有につながり、存在論へと導かれてしまいます。それに対して呼吸の関係では、大気を所有することはできず、逆に大気に晒されているのです。これこそが存在するとは別の仕方で、を導き出す観点となります。

「他者の他性は他性なるものの一特殊例――その一種――ではなく、他性本来の例外性である。他者が超越を意味するのは、――より正確に言うなら、そもそも他者が意味するものであるのは、他者が新たなもの、未曾有の何ものだからではない。そうではなく、他者から新しさが到来するがゆえに、新しさのうちには超越と意味が宿っているのだ。存在のうちで、新しさが『存在するとは別の仕方で』を意味するのは、〈他者〉によってである。顔としての他者の近さを欠くとき、すべてが存在に吸収され、存在内に埋没し、存在内に幽閉される。また、すべてが同じ側にかたまって全体を形成し、全体が開示される相手としての主体さえ、この全体によって吸収されてしまう。存在すること――存在者の存在――は、比較不能な自我と他人とのあいだに、(たとえ類比的統一性によってでしかないにせよ)統一性、共同性をつむぎ出し、私たちを鎖で繋ぎ、『同じ側に』寄せ集める。存在することは徒刑囚同士を鎖で繋ぎ、近さからその意味を一掃するのだ。接合と連繋を切り離そうとするどんな企ても、この鎖をただ軋ませることに過ぎない。開示されたものである限り、他は同のうちに舞い戻り、超越の経験は、紛いものではないかという嫌疑をすぐさまかけられる。
 法悦の境地を可能にする儀式や祭儀の荘厳さ。日常的時間を脱した比類なき春とも言うべき持続を織りなす諸瞬間の新しさ。〈自然〉の成長と開花。景色のさわやかさと調和。性質がたえず不動の厳然と化すこと。ハイデガーはこのような不動の現前を認め、それを降臨として語ることができた。だが実際には、こうしたことはすべて芝居のからくりのごときものではなかろうか。表向きは超越、異常を約束しつつも、その裏でこのからくりが仕組まれているのではなかろうか。」(同書、406~7頁)

 今やレヴィナスの試みの真意が明らかにされていきます。自己と他者との関係を、意識の関係としてではなく、空間と捉えることで、意識関係と捉えたときに起きる事態として存在論を位置付け、それとは別の関係としてある「存在するとは別の仕方で」の様相を対比的に示すことが実現したのです。空間における近さでもって他者が感受されるという形で自我に新しい意味が到来する、レヴィナスによればこれこそが超越であり、意味の生成であって、社会的なものはこのような形で成立するのでした。ですから存在することがこの意味を欠いたものとして、全体性のうちに他者を吸収してしまうという出来事をその生成過程において暴露できたのです。

 ハイデガーの言語に見られる荘厳さや、また存在の開けという形で詩的言語の形成を語ることは超越を約束していながらも、レヴィナス的超越からすれば、意識関係のうちでのからくりにすぎず、頽落した人間を決意性でもって救うという処方箋もこのからくりによって仕組まれていることになります。

「〈語られたこと〉のうちでは、すべてが主題化され、――すべてが主題のうちに現出するのだが、〈語られたこと〉は、〈語ること〉としてそれが有する意味に還元されるべきである。哲学的な〈語られたこと〉に〈語ること〉を引き渡しつつも、〈語られたこと〉を〈語ること〉の意味に還元すべきである。哲学的な〈語られたこと〉は常にくり返し還元されねばならないのだ。」(同書、408頁)

自己と他者との関係を意識関係としてではなく空間と把握することで、語られたことを語ることに還元するということも、その様相が明らかとなってきます。語られたことはそれ自体が意識ですから、そこではすべてが主題化され、自己同一性のものと化されています。ところが空間における他者の顔が、語ることに意味を外から与えるのでしたから、語ることには語られたことによって主題化されたものが持つ意味が取りこぼし、痕跡化したものが、存在するとは別の仕方で、空間における近さとして、心性への感受性として知解可能となるのです。そしてこのような還元によって明らかとなるものは、主体の主体性の成り立ち方にほかなりません。

従来意味は語られたことの意味として理解され、こうして、主体性もこの存在の現れとの関係で、主体の側からの意識性として捉えられてきました。しかし、意味を語ることにおける外からの到来と捉え、還元によってこの意味を最上級のものとして認めることで、自己のもつ概念や語られたこととしての存在することは、炸裂させられ、そこに人間的な筋立てが結び合わされていることが見えてきます。ではこの意味とは結局は何なのでしょうか。

6)人間の社会性

 レヴィナスの考えている意味は、主体が対象から由来する意味を考える、そのような従来の哲学が観念していたものとは全く違っています。語ることの意味とは、他者の身代わりとなり、主体の主体性が主体の外から与えられる、そのような次元で成立している意味のことに他なりません。

「主題のうちで、意味は『理性を授けられた主体』による了解に供される。本書の言説はこのような主題から意味を引き剥がした。とはいえ、本書の言説は意味を意識の『体験内容』に帰したのではない。主題とも意識の『体験内容』とも異なる第三の条件ないし排除された第三項の無条件を記述すること、それが本書の言説の眼目であった。ここでは、主体性は、存在の存在することの不可解な術策によって産み出されたものとしては捉えられていない。ちなみに、存在の存在することにおいては、ハイデガーの反主知主義がいかなるものであろうとも、認識論的相関関係がくり返し見いだされる。つまり、人間が現出によって召喚されるのだ。それに対してここでは、超越――ないし強勢――によって、言い換えるなら、存在することの我執からの超脱によって、人間的なものが告知された。超越としての強勢において、存在することは炸裂し、高みへと転落し、人間的なもののうちに参入する。私たちの哲学的言説は、現出するものの『主観的領野』のみを探索することで、現出という一方の端から『主観的領野』という今一方の端に移行しようとしているのではなく、諸要素のある接合関係を把握しようとしているのだが、この接合関係においては逆に、現前と主体といった二つの極に今にも引き裂かれようとしている諸概念が砕け散ってしまうのだ。」(同書、409~10頁)

レヴィナスはこのように語ることにおける意味を第三項とみなしています。これはつまりは人間の社会性ということにほかなりません。ここにいたってレヴィナスの試みが、現象学も含めた西欧哲学が、人間の社会性について知解してはこなかったことの根本的な原因を抉り出すものであったことが判明してきます。つまり人間の社会性とは、諸要素のある接合関係にほかなりませんが、この関係においては現前と主体といった西欧哲学の諸概念自体が砕け散ってしまっているというのです。確かに人間にとっての意味とは人間の社会性にほかなりませんが、この意味は従来の哲学によっては捉えることができず、それを痕跡化してきたのでした。社会的なものは哲学にとっては痕跡である、といったことを語ることで、哲学はその使命を放棄してきたといえるでしょう。

「意味――他人のために身代わりとなる一者――他性との関係――は、本書では近さとして考察され、近さは他者に対する責任として、責任は身代わりとして考察された。その主体性において、分離せる実体としての自分をまさに担うことにおいて、主体は他者に対する贖いとして、人質であるという条件ないし無条件として現れたのだった。
本書は主体を人質と解し、主体の主体性を、存在の存在することと絶縁した身代わりと解する。この主張は、それをユートピア的理想と断じる非難に対して大胆にも自己をさらす。私たちの主張をユートピア的理想と断じる非難は、現代の人間を、諸存在のひとつとみなす見解によって唱えられる。しかるに、現代の人間の現代性がわが家にとどまることの不可能性であるのは明白である。ユートピア的理想という表現が非難の言葉であり、ユートピア的理想を免れる思想があるとしての話だが、本書は、人間的に生起したものがその場所に閉じ込められたままでは決してありえないという点を想起させることによって、非難されるべきものとしてのユートピア的理想に陥ることを免れている。」(同書、411頁)

こうしてレヴィナスの主張は、主体を人質とみなし、主体の主体性を自己の存在とは絶縁された身代わりに求めています。そして身代わりが社会的な意味であり、他人のために身代わりとなる一者が第三項だというのですから、このような展開は、社会関係における形態規定の働きによる個々人における人間の社会的なものの受肉の様相を表現しています。

そうであるなら、近さからさらに進んで人間の社会関係そのものに接近していくことが問われるでしょう。レヴィナスは世界の現実に対して、自らの倫理哲学の立場から、提言を行っていますが、それに付いては触れずにおきましょう。

「本書においては、主体の解任ないし脱定立が意味を得るに至った。とはいえ、本書は崩壊した何らかの概念を修復しようとしているのではない。そうではなく、背面世界に住むある種の神の死後、人質として身代わりになることが、そのつどすでに過ぎ去り、つねに『彼』にとどまるものの痕跡――口に出しえないエクリチュール――を見いだしたのだ。『彼』はどんな現在にも組み込まれないし、諸存在を指示する名詞も、諸存在の存在することを響かせる動詞も、『彼』にはふさわしくない。――そうではなく『彼』は、〈名に先立つ代名詞〉として、名をもちうるすべてにその徴しを刻印しているのだ。」(同書、413頁)

ここでレヴィナスが「彼」と呼んでいるものは、個々人がそうとは知らずに担っている社会的意味であり、そして重要なのは個々人が名を持つに先立って、その社会的徴しが刻印されているということです。西欧哲学が痕跡としてしか扱い得なかった人間の社会性について、レヴィナスはこのような形でそれを知解可能なものとして示しました。今後はもはやこれを痕跡だとか無意識だとか現れないものの現象だとか見なすことは知識人の知的怠慢でしょう。このレヴィナスの到達地平からさらに進むことが今求められています。

第二節 レヴィナスのブーバー論

1) 対話の捉え方

このように『存在の彼方へ』を締めくくったレヴィナスは、『外の主体』で改めてブーバーらの対話論を検討し、主体の外にある社会的なものに接近していきます。レヴィナスは、ブーバーの〈私〉-〈きみ〉の関係への注目が、社会性についての問題提起にあるとみています。

「〈私〉-〈きみ〉の関係が、ブーバーによって〈私〉-〈それ〉と呼称されたものとは根本的に異質なものとして記述されるのですが、これは主体―客体の構造に対する社会性の独自性であって、主体―客体の構造は、社会性の基礎として不可欠のものですらないのです。」(『外の主体』(みすず書房、37頁)

 もちろんここで「社会性」とされているものは、ブーバーやマルセルにあっては宗教性のことであり、レヴィナスにとっては倫理として語られるものであって、人間の精神性のことに他なりません。

 この精神性をレヴィナスは〈私〉-〈それ〉の関係のように見えるものや与えられるものではなく「見えざるもの、与えられざるもの」(同書、38頁)との関係と捉え、この関係への接近を「呼びかけ」としての対話に求めています。

 「呼びかけとしての接近、〈私〉-〈きみ〉の関係とは、言い換えるなら、他者の本性や本質を知覚することとは根本的に異なる関係であって、他者知覚の方は、対象が何であれ、それを経験する際に判断の相のもとに表明される数々の真実や意見に行き着いてしまうのです。」(同書、38頁)

 レヴィナスによって、〈私〉-〈きみ〉の関係とは別のものとされている「他者知覚」こそ、デリダのいう哲学に他なりません。主体―客体の関係、他者知覚、といった近代哲学の発想と鋭く対比する形でレヴィナスは〈私〉-〈きみ〉が形成する対話について次のように述べています。

 「主体に対する客体の関係は、客体に対する主体の関係と同じではありません。しかし、呼びかけが発せられるような私ときみの出会いにおいては、関係も相互的なものに他なりません。……(主体と客体の場合)これらの項はみずからを規定し、みずからに対して規定されるのですから。それに対して、私ときみは相互の関係の根拠をみずからのうちには有してはいません。私―きみの関係は主体―客体の関係と際立った対比をなしているのですが、他でもない、それは、ブーバーにおいては、私―きみの関係がある意味では主体と客体という項に先立つものとして、≪二者のあいだ≫として描かれているからです。」(同書、38~9頁)

 ブーバーが提起した〈私〉-〈きみ〉、〈私〉-〈それ〉の二重の関係を対話及び主体―客体の関係というように翻訳したうえで、レヴィナスは対話の哲学についての考察を、ブーバーとマルセルとの見解の相違を明らかにすることを通して展開しています。そのうえで、対話の哲学の特徴について次のようにまとめています。

 「マルセルとブーバーの仕事――(ブーバーとマルセルの数々の相違を勘案することのない)いわゆる対話の哲学という表現は今では古典的なものと化してしまったが、――は、客体化とは別に、新たな知解可能性として、〈きみ〉との関係と呼ばれる『奇異な』関係を単に発見したのではありません。が、いずれにしても思想史にとっては、〈永遠のきみ〉ないし絶対的に〈他なるもの〉としての神への到達は、客体にもとづくある種の形而上学の終焉を証示するものでしょう。なによりも神が、客体を起点とした基礎づけないし条件づけの運動によって、条件づけられないものとして演繹される、そのような形而上学の終焉を証示しているのです。『対話の哲学』はまた、基礎だけが知解可能であるという排他性の審問であると共に、有意味なものの唯一の源泉としての客体化や、さらには主題化の審問でもあります。それにしても、いかにして対話はまさに哲学の使命に応えるのでしょうか。」(同書、51頁)

 レヴィナスはここで声高らかに、従来の哲学からの離脱を宣言しています。ブーバーやマルセルが示した〈私〉-〈きみ〉の関係での対話を通じての神、ないし人間の精神性、レヴィナスにあっては社会性、への到達は、人間の社会性(神性)についての解明から切断され、またそれを意図的に放棄してきた従来の形而上学の終焉を意味するとされているのです。ここでレヴィナスは「形而上学」と述べていますが、それは倫理哲学のことではなく、西欧哲学のことに他なりません。

2)従来の西欧哲学への批判

 ではレヴィナスは従来の形而上学をどうようなものとして把握していたのでしょうか。このことについては先の引用に続けて次のように述べられています。

 「今申しあげたような使命はいかなるものでしょうか。伝統的には、この使命はある生き方への呼びかけとして理解されてきました。社会的、文化的、政治的、宗教的な数々の決定や命法を課せられないような仕方で生きること――これはたぶん、古来臆見と対立してきた思考と理性についての否定的な定義でしょうが、結局のところ、この生き方は私はと言いうること、私はと言いつつ思考できること、まったく真摯に『われ思う』と言いうることでしょう。西洋においてこの権能を保証してきたもの、それは伝達可能な明証性満ち足りた客体的な認識です。不動で客体的な存在に到達する認識、――大地の堅固さにもとづいて自己を確証する認識です。そうした認識がまさにこの実体性、この堅固さに到達するのは、現前において、存在の同一性において存在としての存在において、存在を探求する認識と驚くべきことに同等なものとしての存在において、驚くべきことにこの種の認識に見合ったものとしての存在において、です。認識と存在―その相関関係、このうえもなく高度な一致でありましょう!事実、この種の知識が厳密に展開されると、十全なる自己意識へと導かれることになります。存在を思考すること、それは存在の尺度に合わせて思考することであり、自己自身と一致することなのです。私はと言いうることは、存在と同等なものと化しつつ自己と同等なものと化すような認識のなかで了解され、しかもその際、何ものもこの認識の外にとどまって、それにのしかかったりはしない、そのような仕方が自由と呼ばれていたのです。
 ところが、この王道を歩みつつ、哲学者たちはペテンにかけられていることに気づくことにもなったのです。」(同書、51~2頁)

 レヴィナスはここでまず、哲学の使命が自由に生きることへの呼びかけにあったと捉えています。まさに近代哲学はデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に象徴されているように、伝統的な社会的紐帯を断ち切る形で「私は」と言いうるところにあったと見ているのです。

 ところで、この「私はと言いつつ思考できること」はじつは伝達可能な明証性に満ち足りた客体的認識を担保としていますが、レヴィナスによれば、このような認識が成立しうるのは、存在を探求する認識と同じものとしての存在、つまり、その種の認識に見合ったものとしての存在を措定するかぎりのことでした。こうして存在を思考することは認識の尺度に合わせて思考することとなり、そしてこれは、当然にも自己自身と一致するようになります。

 レヴィナスは認識と存在との一致を措定するところにこの哲学の前提がある以上、それがくずれてくれば思想上の不安がかもし出されざるをえないと見ています。

 例えば、思考と一致した存在を前提とする自然科学は自然を技術的に統制することを可能とし、巨大な科学技術の機構をつくりあげましたが、レヴィナスによれば、これは人間が自然を征服したのではなく、逆に、人間が科学的理性を獲得したことで、理性の上でしか成立していない法則が強制してくる技術的必要性にもてあそばれていることを意味しているのです。というのも「諸学は、その飛躍にもかかわらず、存在のいかなる場所から、そしてまた、いかなる条件でかくも自信にみちた声が響いてくるのかを知らないからです。」(同書、53頁)ということですから、技術的必要性にかりたてられて人間がとった行動が何をもたらすかについて、あらかじめ何も分かっていないのです。

 ブーバーとマルセルの対話の哲学は、認識と存在との一致を前提とする意識の自由の哲学への危機意識からもたらされたものでした。レヴィナスは対話の哲学を次のように特徴づけています。

 「ブーバーとマルセルは、意識のなかで主題化されると共に、理念的一般性の力によって同化可能な存在と解されることで、他なるものへの関係が哲学的特権を得ることに異議を唱えていました。それに対して、他なるものへの関係をめぐる彼らの理論は、他なるものの他者性を、ひいてはその超越を保証するもので、その際、超越は神ならびに他の人間――神への呼びかけないし祈りの航跡のなかで出会われた他の人間――において呼びかけられるきみの超越とみなされていたのですが、このような思想について私たちはこう問うたのでした。それは哲学の使命に応えうるものだろうか、と。」(同書、55頁)

 ブーバーの〈私〉-〈それ〉の世界は、意識の自由の哲学の領域でした。ところが〈私〉-〈きみ〉の世界は〈私〉と〈きみ〉との同一性が否定された超越の関係として措定されていたのです。ですから、レヴィナスの言うように、ブーバーは〈きみ〉をとり出すことで、〈きみ〉が理念的一般性の力によって〈私〉と同化可能な存在とされ、〈それ〉と化されてしまうことに異議を唱えたのでした。レヴィナスはこの説の意義を認めたうえで、次の疑問を提出しています。

 「この理論の斬新さは果たして、存在と同等なものと化す意識の自由によって、私はと語る権 能を基礎づけることなく、それを保証するものなのでしょうか。」(同書、55頁)

 経験主義が犯したたった一つの誤り、それが哲学の形をとるという哲学的誤りだ、というデリダの批判を思いおこして下さい。レヴィナスはここで、このデリダの批判にこたえようとしています。次に、デリダのレヴィナス批判を注記した上で、レヴィナスの展開を追ってみましょう。

(注) 『全体性と無限』へのデリダの批判

1)経験主義の誤り

 レヴィナスの最初の主著『全体性と無限』(1961年)が出版されたとき、ほとんど誰もとりあげなかったこの本に対し、いち早くデリダが批判を寄せました。「暴力と形而上学――レヴィナスの思考にかんする試論」(1964年『エクリチュールと差異』所収)がそれです。デリダの批判点はいくつかありますが、最も主要なものは、レヴィナスの思考は経験主義であるにもかかわらず、それが哲学の形をとろうとしている、というものでしょう。

 デリダは「自同者との関係をではなく、無限的他人との関係を言語と意味と差異の根源とすることによって、レヴィナスは哲学的論議における彼の意図を裏切る結果になっている」(『エクリチュールと差異』上、法大出版局、294頁)と指摘しています。というのも、レヴィナスは「哲学的論議が有する≪論理≫より、一層深い真実から生まれる、一貫性を欠いた不統一を断固として受け入れ……概念を、アプリオリを、言語の超感性的地平を甘受する」(同、194頁)ということで、経験主義の企図をもっているのですが、デリダによれば、「経験主義はたった一つの誤りしか決して犯さなかったのだ。哲学の形をとるという哲学的なあやまりである」(同書、294頁)というのです。

「経験主義の企図は、根底から純粋に差異論的な思考であろうとする夢である。純粋な差異の純粋な思考であろうとする夢なのである。経験主義は、この思考の哲学的な名前であり、この思考の形而上学的自負もしくは謙虚さである。夢といったのはそれが日の出とともに、言語の夜明けとともに消え去るからである。だが、おそらく眠っているのは言語の方だ、という反対が投げつけられるかもしれない。多分そのとおりではあろう。だがその場合にはなんらかの方法でふりだしに戻り、言語と思考の乖離のほかの原因をみつけなおさなければならない。それは今日ではきわめて、いや余りにもかえり見られなくなっている道すじである。とりわけレヴィナスからは。」(同書、294~5頁)

 周知のように、デリダは1967年に3冊の単行本を出しています。『エクリチュールと差異』『声と現象』そして『グラマトロジーについて』がそれらで、これは初期の著作とされています。脱構築や差延でおなじみのデリダの思想がここで告げられているのですが、このデリダの道すじは、「経験主義」だとみなしたレヴィナスとは別の「言語と思考の乖離のほかの原因をみつけなおす」ものだったのでしょうか。この点を解明することは手に余る仕事ですが、レヴィナスへの批判で興味をひかれる事柄は、デリダが非常にまっとうな哲学意識を披瀝しているということです。

 差異の哲学者デリダが「純粋な差異」の「純粋な思考」は夢のうちでしか与えられず、言語として表現できない、と主張しているのです。では当時のデリダの差異の思想はどのようなものたったのでしょうか。

2)差異の捉え方

 デリダの差異についての思想が鮮明に表れているところは、レヴィナスの他者論を批判しているくだりです。レヴィナスが「他者は他者としてあり、単なる他者ではない。他者はこの私ではないところのものである」と述べている部分に対して、デリダは次のように批判しています。

 「もし他人が超越的他我として認められないならば、他人はすっかり世界の中に没入することになり、私と同様、世界の根源ではあり得ないのではなかろうか。この意味でのエゴを他人のうちに見ることを拒絶する態度は、倫理の次元ではまさしくまったくの暴力的態度である。もし他人がエゴとして認められないならば、いっさいの他人の他者性は消滅するであろう。」(同書、242頁)

 デリダによれば、フッサールは、他人をそのエゴの形において、つまり、世界内の事物の形ではありえないその他者性の形において他者として認めようとしているのに、レヴィナスのように、自我と他者との間を切断してしまえば、他者を世界のうちに没入させることになり、こうして倫理的にはまったくの暴力的態度をとっていることになる、というのです。このような見地から、デリダは自らの差異論を次のように展開しています。

 「他我としての他人とは、まさしくそれがエゴであるがゆえに、エゴの形をとるがゆえに、私のエゴに還元できない、他人としての他人を意味する。他人のエゴ性は私の場合と同じく、他人にエゴと言わしめる。それゆえ他人は他者であり、私の実的経済における一介の本名とか無言の存在ではない。…… レヴィナスの描いているような、他人のほうへの超越の営みは、その本質的意味の一つとして、私が私の自体性において他人に対して他人であると私自身が知っていることを含むのでなければ、意味がないであろう。」(同書、242~3頁)

 ごらんのように、デリダの差異=他者論は、エゴ=自我という同一性のうえにたつ差異のことです。たしかに、哲学として存在における差異を論じるなら、同一性を除外できません。というのも、差異という言葉自体が比較を問題にし、そして同一性のない比較は比較として成立せず、差異としてはあらわれないからです。デリダ自身がレヴィナスに対して、擁護したこのフッサール理論に対して、差延という概念でどうようにして乗り越えをはかったのか、ということについては別の機会に検討することにしましょう。

続く






Date:  2007/7/5
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