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アリストテレスの実体論(上)


アリストテレスの実体論(上)


はじめに


 実体論というとアリストテレスにまで遡らなければなりません。アリストテレスといえば、最近木田 元が盛んに述べているように、ハイデガーの研究に触れざるを得ません。木田によれば、若きころのハイデガーはアリストテレス研究の専門家で、ニーチェに影響を受けて、形而上学の批判をはじめていて、この観点からアリストテレスの哲学の批判を行っています。ところがハイデガーは実体論については余り言及してはいないのです。それでここではハイデガーの形而上学批判の観点を紹介するにとどめ、それの検討は後日の課題としておきましょう。


 木田の紹介によれば、ハイデガーは、存在を<本質存在>と<事実存在>とに区別しするところから形而上学の歴史がはじまったと見ています。そしてハイデガーはこの区別の由来を明らかにすることが哲学の課題と考えていて、この区別を問うてきたので、このハイデガーの立場からすれば、形而上学はこの区別を前提にしているために、結果としてこの区別の遂行の由来を隠しているということになるのです。(木田 元『ハイデガーの思想』岩波新書、159頁参照)このようなハイデガーの問いには異論がありますが、ここで述べることは控えておきます。


 さてアリストテレスの実体論についての研究書には、角田幸彦『アリストテレス実体論の研究』(北樹出版)があります。また井上 忠も『根拠よりの挑戦―ギリシア哲学究攻』(東京大学出版会)や『哲学の現場―アリストテレスよ語れ』(剄草書房)や『究極の探究』(法蔵館)などでアリストテレスに言及しています。これらを読みながらアリストテレスの実像に迫ることからはじめましょう。


第一章 角田の実体論研究の視角


1)従来の解釈への批判


 角田はアリストテレスの実体論についての従来の解釈について次のようにまとめています。


「アリストテレスは、具体的な個物に完全な現実的存在性を認める一方、普遍的なものに学的認識可能性を認めた。個別的実体(個別的事物)は普遍的形相と質料からなり、質料が実体(事物)の個別化原理である、こうアリストテレスは考えた。」(『アリストテレス実体論の研究』まえがきⅳ頁)

 井上 忠も、『哲学の現場』で「アリストテレスにおいて第一実体は個体である、とはいわば哲学史の常識である」(147頁)と述べています。数ある実体論のうち、スピノザの実体論は個体ではない事が明らかですが、ライプニッツの単純実体モナドは個体と取り違えられそうです。


 このような従来の解釈に対して角田は批判を試みています。個別的実体が普遍的形相と質料からなり質料が実体の個別化原理である、という解釈に対して次のように反論しているのです。


「質料は、そもそも無限定的であり、決して個別体の個別原理になり得ないのである。更に形相について言うと、これらは、総じて単純な二極的対立ではなく、根本的には、相関概念でしかない。形相が絶対的決定的に質料を超出するのは、理性段階の形相においてである。」(ⅴ頁)

 ここで質料と呼ばれているものは、今日のイメージでは内実の事で、例えばブロンズの彫刻の質料とは青銅という事になります。そしてこの物の質である質料が無規定といわれれば、規定されない質は存在しないと思ってしまいますが、ここで質料と呼ぶ場合は質一般が問題にされているようです。確かに何かの質は規定されたものですが「個物というものは質を持つ」というときの質は無規定ですね。


 次に形相ですが、これはもともとプラトンがイデアと同じ意味で使っていたもので、個物に外的な観念的なものでした。これに対してアリストテレスは形相を個物から切り離し得ないものとして位置付けようとしたのですが、そのイメージはブロンズの像を彫刻するときの彫刻師の頭に或るもの(可能態としての形相)が像に形成されて像の形相(現実態としての形相)となるといった生成過程を念頭に置くといいでしょう。


 さて従来の解釈を乗り越えていくために角田は自らの実体論の射程について次のように述べています。


「実体論の射程をわたくしは実体とはそもそも個別的存在者なのか、何等か一般的(普遍的)存在者なのかという、今以て容易に決着しない根本問題において追考したいのである。」(5頁)

 このように述べた角田は個別か一般かといった二者托一ではなく新しい観点を持とうとしています。


2)角田の実体論


 角田はアリストテレスの実体論を一つの原理として捉え、その内容を次のように展開します。


「しかし実体とは、個別的実体に止まらず、むしろ個別的実体を実体として存立させている一つの原理であるとわたしは考えるものである。……この存在者というのはあくまでも存在構造、存在の普遍性において存在しているものであり、何度も言うところであるが、個別的存在者ではない。それは普遍的存在者であり、かくて個別的存在者の存在である。しかし、普遍といっても抽象的な普遍ではない。……むしろ存在としての存在は存在者の存在の多様的展開(そもそも存在は多様多彩な分節を旨とするものである)のなかで、存在者を一個の本質的安定的側面、そしてこれは存在者の一側面というよりも核心部なのだが、こういう中心面から捉えることを含意している。存在は存在者を貫きそれを原因付けテいるものであり、決して存在者全般から抽象されたものではない。……(アリストテレスの求めた学)は、存在を断固として存在者からの抽象としてではなく、存在者の核心を支え存在者を瓦解させない原理として捉えているのである。」(10から11頁)

 角田は個別的存在者が存在者として存在するというときに、個別的存在者を、個別性と存在性とに区分しているようです。その上で、存在性を普遍的なものとしているのですが、その普遍性とは、抽象的普遍性ではなくて、個別性と切り離し得ないものとしてある普遍として見ています。ここではハイデガーのように、存在者と存在というように区分し、存在のほうを問うていく、という姿勢ではなく、双方をセットとして捉えようとする見地があります。


 そういう事なら、存在者の存在性ということは、個別の対象と意識である言語との関係の中で成立している形態規定の問題として考えた方がよいと思われます。「個別的存在者がある」というときのこの意識は、個別的存在者を意識の化身としているのです。その上ではじめて「個別的存在者がある」という言葉が語られ得るのです。


 普遍的なものを抽象的普遍として捉えないとすれば、それを原理として捉えるしかありません。


「一切の実体より先に、実体の中の実体としてすべての実体を原因付けている実体があるということは、アリストテレスの根本的核心かつ立場である。そもそも原理とは実体を超え出たものではなく、実体の中の第一の実体であるというのが、アリストテレスを彼以前の哲学者と区別させている根本思想である。」(13頁)

 存在者と存在性、という区分を打ち立てた角田は、次に存在性を原理と捉えています。そして、この原理を実体とみなしている、というのがアリストテレスの根本思想だというのです。


 しかし、言語による形態規定を考慮するならば、存在者の存在性とは、対象と意識との言語関係において、対象が意識の化身へと形態規定されているという、ということに他なりませんから、角田の認めている原理とは、実は意識のことに他なりません。そうなると、この原理が実体であり、意識を実体と見るならば、どのような世界が開けてくるのでしょうか。


「そもそもアリストテレスにおいて実体とは両義性を持ち、個別的実体といはゆる実体性の二義あることを忘れてはならない。実体が存在論的に他の諸範疇と対比的優位を占める旨宣言される際、実体は基体つまり実体以外の範疇が担われるものとして個体的相貌を帯びる。しかし、存在論のこれまでの閉塞を打破し、存在論の樹立を目指すそもそものアリストテレスの根本方向は、実体が個別的存在者ではなく、実体性という個別的存在者の原理であるという主張に立つというのがわたくしの主張である。……存在の枠を個別実体に付与しているものが実体性なのである。……(第一の実体とは)実体は個別実体ではなく、個別実体の原理としての実体性を意味していると判断せざるを得ない。」(20から1頁)

 存在者である個別的なものが言葉によって意識化される際に、それが意識の化身とされるとすれば、ここで角田が個別的実体と呼んでいるものは対象であり、そして、この意識は、自我と対象との関係において成立する主体的なものですから、一つの原理ををなしています。


 このように考えれば、角田のいう実体性という原理は、実は人間の思考の原理だということになります。ところが、角田は、アリストテレスの哲学を存在論と捉えていますから、実体性という原理が対象そのものに属するものとみなされています。けれども、カントの超越論的仮像を持ち出すまでもなく、人間の意識は意識のうちで形成した原理を、対象そのものの原理であるかのように捉えられざるをえないのです。問題はアリストテレスがこの超越論的仮像に気づいていたかどうか、ということですが、これの検討は後でのお楽しみにとっておきましょう。


「そもそもアリストテレスが実体の実体たる所以を離存性とこのもの性に置くことは、彼の実体論の言わば大前提である。」(29頁)

3) 言語の問題


 言語のもつ形態規定の力について述べましたが、角田はアリストテレスの言語把握について、次のように述べています。


「前ソクラテス時代の哲学者たち、否それだけでなく、自らの師プラトンの存在論の失敗は、存在がわれわれ人間のことばの外に超越的にして即自的に貫流し成り立っている根源的事象(根源的総体)であるという受け止め方をされたことによる。事実はどうあるかということは、つねに同時に、事実は人間の言語の網の中にどう包まれているかという問いであるというのが、アリストテレスの独創的支点であり、彼の全ての思索行程の一本の赤い糸であった。……事実のなかに働いている真の言語的網の目こそが、彼の思索の向かうべき的なのである。言語的にどう存在しているかという問いは、存在が多義性によって分節され意味付けられているということである。存在の多義性は単純に、言語に偏向され収斂された多義性と見るべきではなく、事実世界と相即・連関している言語の多義性である。そもそも言語的多義性は事実や事象の外に、換言すれば、人間の意識に内存・内在する多義性ではない。事実、世界の成立・生成と言語(世界)の存立は、分断・並存ではない共存性を形作っているのである。存在の多義性は決して主観的多義性・意識内多義性ではなく、言語(世界)に侵蝕された事実世界の、また事実世界に貫流された言語(世界)の多義性なのである。」(116から7頁)

 言語の持つ形態規定の力について理解した上に立てば、ここでの角田のプラトンへの言及は、逆さまのように思われます。存在がわれわれ人間の言葉の外に超越的に成立している根源的事象とプラトンが考えていた、というのは、プラトンのイデア論の取り違えではないでしょうか。プラトンはイデアが、人間の頭の中で形成されるものであることについては、わかっていたのではないでしょうか。そして、この頭の中に形成されるイデアを実は外の根源的事象とみなしたのではないでしょうか。そして、プラトンのイデア論を批判したアリストテレスの見解を検討するとするならば、角田のいうような、事実の多様性を人間の言語の網の中に取り込まれた多様性として見なすだけでは不足のように思います。


「アリストテレスにとって原因論とは、個別的領域にあらかじめ分断・位置付けられた科学知の奥に作動している或るものの基礎付けではなく、科学知以前に人間を存立せしめ、人間と事象世界を第一次的・元初的に関係付けている了解・知覚的把握の核心・成立の知なのである。ここにアリストテレスの原因論的存在論が現象学的存在論を包む問いの方向性を持っている。……実体論的存在論が何故旧来の存在論(的全ギリシアの哲学)を切開し、それらの未解決を救済することが出来るのか。それは、存在は単なる眼前に広がり把握される事実地平・事実の全体ではなく、(存在への)過程であり、様々の自己の展開・変化を引き取り、しかもこれらに縮約されない或る原理に他ならないという、アリストテレスの根本洞察に支えられて可能となる。」(118頁)

「実体とは存在の地平や全体性のなかで生成をそもそも生成として現出せしめ、生成に方向と時間的連続性を与えるものなのである。実体は個別的存在者に働き、個別的存在者を他ならぬこの個別としている力であり、この力によって、個別的存在者は間接的永遠性を担うこととなっているのである。」(119頁)

 ここで角田は、アリストテレスの実体とは原理であり、とどのつまりは力であると捉えています。しかしこれは翻訳すれば、意識の原理であり、意識の力だということになります。だからアリストテレスは魂(プシケー)を検討し、究極の実体を神としたのではないでしょうか。


 ということで、角田の研究に則して、アリストテレス実体論研究の視点が明らかになりました。


第二章 井上 忠のアリストテレス研究


1)井上の言語観


 もともとアリストテレス研究から出発した井上は、近著『究極の探求』(法蔵館)では「超開放系言語機構モデル」といった独自の言語論を展開するに到っています。しかしここでは、井上の言語モデルについては触れずに、井上のアリストテレス論の内容を検討する際に必要な井上の言語観について見ておくにとどめましょう。


 井上はまず、言葉を次のように捉えています。


「どんな瑣末な問いでも、どんな窮極根本の問いでも、問いも答えも言葉により言葉においてである。われわれの日常経験から根本経験にいたるまで、その全体を支え浸透しているのは言葉である。われわれが『事実だから』という断片固着の盲目性を脱するためには、したがって、この全体を覆う言葉のうちへとみずからを解き放たねばならぬ。すべてをまず『言葉のうちにあって考察』しなければならぬ。それがプラトンが見定めた、ソクラテスの問いへ応ずるための基本前提であった。」(287頁)

 ここで井上が述べている「問いも答えも言葉により言葉においてである」ということは、要は、人間の意識内での事柄であるから、別に問題はないと思われます。しかし、井上はここからさらに論を進めて、日常経験や根本経験に到るまで、「その全体を支え浸透しているのは言葉である」と主張されると、違和感が生じてきます。というのも、日常経験や根本経験にはもちろん、意識のうちに捉えられ、言語化される要素があるが、しかし、言語化されずに了解される領域があるはずだからです。ところが井上は、自らの見解を合理化するために、次のように述べています。


「例えば言葉が写す以前のそのなにものかを『事実』と呼んで、『事実』と言葉の関係を論じることは、われわれにできない。われわれは言葉の披く地平と『事実』の地平との併列対応を側面から眺めて比較する視座を持たない。」(292頁)

 井上は言葉が写す以前のなにものかを「事実」として措定することは出来ないと述べています。このような主張が可能なのは言語の機能についての次のような独自の見解に基づくからでしょう。その独自の見解を見てみましょう。


「それだけでは半透明である筈の指示が、実際にはほとんど支し障りなく指示機能を発揮できるのは、われわれの日常の現場そのものが、指示や<述べ>に先だって既に言葉によって<掴ま>れ現場了解されているからである。つまりこれら純粋指示の半透明性を補完すべき指示機構の基礎条件を予め与えているのが、<掴み>という現語機能にほかならない。……しかしわれわれが自分たちの生活現場を、いわば言うまでもない事実として了解しているのは、それ自体われわれの言葉、<掴み>の言葉によってである。いな現場の事実そのものが、<掴み>という言語機能によってはじめて成立しているのである。……

(1)<掴み>はわれわれが日常、公共協同生活を遂行する現場そのものを成立させている基底言語の機能である。

(2)<掴み>は情報伝達の<述べ>と異なり、なによりもまず生活現場でのわれわれの反応行動、振舞いの定型様式に直結している。

(3)われわれの日常行動の現場はなによりも個体並列を基軸とする地平であり、<掴み>の機能は並列個体の地平を基軸にして個体を把握させ現場了解する言語の働きである。」(318頁)

 ここで井上は、言語の機能について、通常考えられる「写し」や「述べ」とは別に「掴み」という機能を付け加えています。この「掴み」とは、人が日常生活にあっては、言葉で語らずともその生活環境の全てを言葉で「掴む」ことによって、現場了解している、というのです。このように「掴み」の機能を考えれば、当然にも言葉の外に対象を事実として措定することは不可能となります。というのは、その存在はすでに言葉の掴みの機能で言語化されているという、ということになるわけですから。


 しかし、こんなことを言われると、言葉を持たぬ植物や動物が、どのようにして現場了解し、生きていっているのか、という疑問に直面します。そして、これら言葉なしの動植物の現場了解機能と同様なものを人間も持たないと生きてはいけないと思うのです。


 結局井上の考えは、言語で捉えられるもの、つまり意識の世界の内にあるものが、人間の全てと見ているから、それを合理化するために、「掴み」という言語の機能を肥大化させてしまったように思われます。ところで、この変な井上の言語観にもうすこし、つきあってみましょう。


「事実個体があって、われわれがそれを<掴む>のではない。われわれが<掴む>から事実個体が成立するのである。繰り返すがこの場合あくまで<われわれ>であって<わたし>が<掴む>のではない。そしてその<掴み>は生活現場での行動に呼応し、それぞれの現場でわれわれが応接する状況、現場面に応じて<掴み>方も変わる。けれどもその際、もし<掴み>の方に<わたし>の翳を<われわれ>の水準以上に色濃く投影するならば不必要な困惑を避けえないであろう。」(332頁)

 「掴み」によって日常公共生活を遂行しているわれわれが、「掴む」から事実個体が成立するとき、その事実個体の掴み方はさまざまとなります。そうすると、ここでは、事実個体の概念や根拠が成立することはありません。それで井上は、「掴み」の他に「立ち現れ」という考え方を付け加えます。


「こう見てくると、<こころ>は<わたし>以外のものではない。ただ<こころ>は内属性が<立ち現れ>る場であり、内属性はそれ<においてある>が、<わたし>は内属性がそれに対して<立ち現れ>るニュアンスの差がある。」(340頁)

 「掴み」によって現場了解されることで成立する事実個体が、今度は<われわれ>ではなく<わたし>の<こころ>にその内属性を立ち現せてくるということがここで述べられています。そして、<こころ>とは、アリストテレスのプシケーであり、「魂」の訳語のほうがいいのですが、しかし、「魂」と考えると<わたし>のものであるだけではなく<われわれ>や万物のものとなってしまいます。それで井上は<こころ>と訳しているのでしょうか。


 それにしても「<こころ>は<わたし>以外のものではない」というのも逆転した考えですね。これは「掴み」という<わたし>に属する経験の領域の問題を<われわれ>に帰属させたことの帰結でしょうか。<こころ>という精神的な<われわれ>の問題を個人に属させる他はなくなったのでしょうか。確かに思考するのは個人ですが、しかし、思考自体はわれわれに属しているので、<こころ>を<わたし>に帰属させてしまうには無理があります。それはともかく、井上は、次のように言語を二系列化させてしまいます。


「要するに、言葉には<掴み>系列の言葉と<立ち現れ>系列の言葉があり、前者が支持の基盤と一般実体語の<述べ>を、後者が付帯性の<述べ>を供給する。そして<掴み>・指示・<述べ>は<われわれ>の公共言語の立場であり、<立ち現れ>とその系は<わたし>とその近みを含む私言語の立場ということができよう。」(345から6頁)

 ここで井上が、公共言語と私言語の二系列をたて、「立ち現れ」という、ヘーゲルならば『精神現象学』で述べた精神の領域に属するとみた概念の形成の問題を私言語に封じ込めてしまいます。そういうことなら、井上の『究極の探求』も単に井上の私言語だということになってしまいます。ならばそれは哲学ではなく、宗教哲学、あるいは、井上の嫌う思想だということになってしまいます。


2)井上の実体解釈


 晩年は私言語の妄想境に入ってしまった感のある井上のアリストテレス研究に、果たして意義を認めることが出来るのでしょうか。井上の言語観によれば、アリストテレスの哲学も、掴みと立ち現れとからなり、そして、アリストテレスの<こころ>に立ち現れた「事実個体」についての私言語だ、ということになるのですが、それがギリシャ語で書かれ、多くの言語に翻訳されて、いま、私たちの手元にテキストとして存在しています。この現実そのものが、井上の言語観について反駁しているのではないでしょうか。


 アリストテレスは掴みによって、アリストテレス個人の意識に上った内容を、言語化することを通して、事実個体の立ち現れを<わたし>のではなくて、<われわれ>のプシケー(こころ)の問題として定式化しているように思われるし、事実、井上のアリストテレス研究も、アリストテレスをそのように読んでいるのです。井上がアリストテレスをこのように捉えている限り、その研究内容にも意義がある、というのが私の立場です。早速、井上のアリストテレス実体論の解釈を見てみましょう。


「アリストテレスにおいて第一実体は個体である、とはいわば『哲学史』の常識である。……しかしアリストテレスは、言語を対象として考察しつつ、言葉の外から言語論や存在論を構築した『形而上学者』だはない。かれは、ただひたすらに言葉の現場にあって、言葉そのものが披く存在の途を、鋭くも強靭に、追及しぬいたひとであった。」(146頁)

 ここで言われている「言葉の現場にあって、言葉そのものが披く存在の途」とはいったい何のことでしょうか。アリストテレスがこれを語れば、それは彼の私言語になるのでしょうか。井上も認めるように、この途ではアリストテレスは、言葉に成り代わり、言葉の身になって、言葉を語っているということに他なりません。ということは、事実個体の立ち現れる場は、<われわれ>の<こころ(プシケー)>だということになります。


「すなわち強調されていることは、第一の実体は述語として日常流通言語の地平に顕現しない、換言すれば。われわれが日常会話の地平で関心をもち、述語としてその意味を顕在化して一般に了解を求めることどもの地平には、ことさらにみずからの意味を露呈しはしないが、すでに<掴ま>れてあるものとして、ただ指示されうる(つまり恰もすでに自明のことであるかに納得され、なにびとにも『これ』として指示が成立するかすでに了解されている)もの、それが第一の実体である、との点である。」(173から4頁)

 ここで井上は、第一の実体について、日常流通言語の地平に顕現しはしないが、掴まれてあるものとしてただ指示されるものだ、と述べていますが、これだけではわかりにくいですね。ところで第一章で見たように、アリストテレスは個別的事物を形相と質料からなるものと見なしていましたが、井上は形相を本質とみなして、次のように述べています。


「形相・本質は、本来、それが生成レベルにおいて個体化される以前に存立する。それは生成レベルで『ある<これ>』として個体が成立するとき、すでにそこに在った。つまりここでは日常流通言語が、もの言語の地平へ定着して、みずからをものの地平から再解釈しはじめる前に。個々のものにおいてある地平そのものを成立させる働きにおいて杷握されねばならない。その意味では、形相・本質(そしてこの視座からする第一の実体)はものの地平においてではなく、『こころ』においてある。」(180頁)

 アリストテレスがプシケーというとき、それは、個人の<こころ>のことではありません。<こころ>についての井上の解釈を排除すれば、本質は人間の精神(概念)においてある、ということですから、この解釈はそれ自体では問題ないように思います。ところが、ここからさらに井上は次のように展開します。


「アリストテレスは、実体語(例えば『人』)の先言措定として、言表以前の現場了解の地平において、『第一の実体』を強調しているのであって、言語地平においてではないのである。実際、『第一の実体』を、アリストテレスは、まず『なにかある先言措定について語られるのでも、なにかある先言措定のうちにおいて有るのでもない』との否定の連言によって定義しており、しかるのちにその例として『当のある人』『当のある馬』を提示している。つまり既に別稿で詳論した通り、この否定の連言の主張するところは、『第一の実体』は、先言措定の地平に沈み隠れていて、実体語としても、内属性としても、言語地平に顕在化することはない、ということである。」(223頁)

 第一実体は言語地平に顕在化しない、と言い切られると、もうこれは、井上の私言語の世界に入ってしまいます。でもこのような解釈は、井上自身による、アリストテレスの言語論の把握と矛盾してしまいます。次にこの点についてみてみましょう。


3)アリストテレスの言語観


 井上はアリストテレスの言語観に触れて、「言語を考察する立場」と「言語が考察する途」があり後者がアリストテレスの途であると述べ(274頁)、「存在をひらく言語表現を、結合によるものと、結合なしのものとに両分し……言語表現の二つの典型を、それぞれ、文ないし命題、および語、と見ていることは明らかと言えよう。」(275頁)と述べています。そして前者は真・偽という真理値を持ち、後者は持たないというのです。さらに前者は開陳であり、後者は開披であると見ています。


「アリストテレスにおいて、言葉による途がさまざまな位相の相違を示すのは、たんにいわゆる文法や言語形式の問題ではない。かれの言語考察は、表現する言語と表現される事実を想定するかに見えるにせよ、これらを分断して、その言語面のみを対象とするのではない。かれにとって言葉の考察は、常に存在の考察と表裏不可分であった。アリストテレスにとって、言葉は、たんに言葉としてではなく、つねに存在を立ち現れさせるものであった。すでにかれの現存全集の冒頭における『名のみ等しいもの』『名まで共にするもの』などの区別も、語そのものの区別ではなく、言葉によって立ち現れる存在(事実)の区別であり、言葉は事の場にほかならなかった。」(284頁)

 井上の言語観と比較すれば、このようにまとめられたアリストテレスの言語観は、非常に健全ですね。ただしここでのまとめについても、井上が「言葉は事の場」という最後の一句で締めくくっていることに引っかかります。これは次に引用する<こころ>についての井上の思想によって、井上言語観への引付を実現していっているようなのです。


「『こころはある方式にしたがえばあらゆる存在(事実)なのである』との有名な一句は、全存在はこの『現実態』と呼ばれる近みにみずからを立ち現しうる(『可能態』)との謂いであり、しかもアリストテレスの明言する通り、感覚認識にせよ理性認識にせよ、『現実態』にあっては、認識することと認識されるものとは同じことと。そしてこれが、なるこころのさまが事実の写像である、との言明の実際であった。つまりわれとものとの両極の中間に意味地帯や認識地帯が介在するとの構図は、ここでは完全に斥けられ、認識されるものの存在開示(形相)以外に現実存在としてのものもわれもないのである。すなわちここでは、全存在の理解は、ひたすらに、いま現にここに披けるわたしの近みという濃密な風光にこそ重心をもち、全存在は、いわばこの全座標系の原点の近みにみずからを立ち現せることにおいて、存在の意義(本質)を獲得する。」(286から7頁)

 ここで<こころ>を精神と考えれば、引用されているアリストテレスの言葉はまるでヘーゲルそのものです。そして言葉そのものには、両極の中間を措定出来ないのは当たり前です。というのも言葉そのものが、「われわれとものとの両極の中間」として在る意識の要素をなしているものですから。そして精神とは意識の現象に他なりません。ところがこの考えにたたない井上はアリストテレスの言語論について次のように述べています。


「実質主語として言語空間外(したがって述語外)実在を先言措定できるのは、いかなる意味でも内属性であることのないウーシアの場合であり、かくして先言措定され指示されるものが第一のウーシアであった。それはまさに『言語を実在に定着する楔』である。日常言語の全系列は,実にただ第一のウーシアの述語として成立する、といっても過言ではない。・・・・・アリストテレスの現存在理解は,個物・個体におけるそれが一般者におけるそれを常に『背負っている』のであり、両者において同一型の現存在理解、すなわち『述語としての現存在』が支配するのが実状である。」(309頁)

 井上もアリストテレスの言語論に、事実上形態規定の論理を読み込んでいるようです。個物個体が一般者におけるそれを背負っているということは、まさに対象と自我との間に成立している言語関係において、対象が意識の化身とされることで実現されているのではないでしょうか。


「アリストテレスは本来の主語・述語構造においては、主語の指示する個体対象の不在の場合を、十分考慮に入れることができたのであり、また『山羊鹿』のごとき空クラスをそうでないものから区別していた、それにも拘わらず一般者としての項をあくまで現存に背負われたものとして把握していたのである。そして項そのものからは、先にも触れたごとく、徹底して『ある<これ>』という個体実在性を奪い去った。」(317頁)

 ここで井上が述べている「一般者としての項」と「あるこれ」とは実は言語の内に捉えられた対象の二重性ではないでしょうか。ところが井上はこれをニ系列に分化させてしまったのではないでしょうか。






Date:  2006/6/2
Section: ギリシア哲学の旅
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