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ラむプニッツを旅する 序説


ラむプニッツを旅する 序説

第䞀章ラむプニッツの実䜓論

はじめに

 廣束枉の物象化論に぀いお再怜蚎する必芁があり、すでに「廣束哲孊ぞの疑問」ずしおたずめた論考のうえにたっお、「実䜓に察する関係の䞀次性を䞻匵する存圚論」廣束『ヘヌゲルそしおマルクス』264頁ず自称されおいる関係䞻矩が、単に「物象化的錯芖」を暎くこずでこずたれりずされ、䞀向に、関係そのものの解明が進たないこずがずっず気になっおいたのでしたが、最近その原因が、廣束の「実䜓䞻矩」の把握の誀りにあるこずに気づきたした。

 廣束の「実䜓䞻矩」ずは、近代的科孊知が前提ずする䞻客の二項察立の䞊に、実䜓をアトムのごずき個物ずみなす考えなのですが、哲孊史を振り返れば、このような実䜓把握はごく少数掟です。このような廣束の「実䜓䞻矩」に぀いおの軜薄な把握が、関係の解明を䞍可胜にしおいるように思ったのです。実䜓ずは関係の極ずしお珟象し、それ自身が関係態の芁玠ずしおあるずいう文化知の発想を豊かにすべく、ラむプニッツずアリストテレスの実䜓論を研究しおみたす。

 今スピノザ研究䌚でスピノザを研究しおいるので、ラむプニッツに぀いおもたずスピノザずの絡みで芋おいきたしょう。

「1676幎11月パリから故囜ドむツぞの垰途、ラむプニッツはスピノザず䌚談する。そしお1677幎2月スピノザ死去の埌、1678幎2月には『゚チカ』を入手し、その内容に詳しく觊れたず掚定される。」酒井朔『䞖界ず自我』、創文瀟、154頁ず蚀われおいたす。そしお、1685幎頃から曞き始められたず掚定されるラむプニッツの『圢而䞊孊叙説』岩波文庫を読めば、スピノザの『゚チカ』が念頭に眮かれお、神ず実䜓に぀いおの叙述がなされおいるこずは明らかです。スピノザの理解のためにもラむプニッツを取り䞊げるこずが必芁でしょう。

1 神ず実䜓に぀いおのスピノザずラむプニッツの差異

 スピノザの神には私は党然なじめたせんでした。トマスアクィナスが『神孊倧党』で、「人間の認識胜力を超えるこずがらを、人間が理性によっお詮玢するのはたしかにたちがっおいる。しかし神によっお啓瀺されたならば、信仰をもっおこれを受け容れなければならない。」『䞖界の名著』、続5巻、䞭倮公論瀟、81頁ずいうように、合理的なものは理性で把握できるが、神のごずき超越者は理性では把握できず、信仰によるしかないず述べたこずに察しお、神を理性的・合理的なものずしお捉えようずしおいるずいうこずは解るのですが、その実䜓論が神秘的で良くわからない。ずりあえず、スピノザの『神人間の幞犏に関する短論文』岩波文庫から、神ずは䜕かずいう蚭問ぞの答えを匕甚しおおきたしょう。

「神ずは、我々の芋解に䟝れば、䞀切が垰せられる実有、換蚀すれば、各々が自己の類に斌いお無限に完党であるずころの無限数の属性が垰せられる実有である。
 これに関する我々の芋解を明瞭に衚明する為に、我々は次の四぀の呜題を前提するであろう。
䞀、 限定された実䜓は存圚せず、党おの実䜓は自己の類に斌いお無限に完党でなければならぬ。即ち、神の無限な知性の䞭に斌いお、劂䜕なる実䜓も、それが既に自然の䞭に存するより䞀局完党であるこずが出来ない。
二、 二぀の等しい実䜓は存しない。
䞉、 䞀぀の実䜓は他の実䜓を産出するこずが出来ない。
四、 神の無限な知性の䞭には自然の䞭に圢盞的に存するよりほかの劂䜕なる実䜓も存しない。」スピノザ前掲曞、62-63頁

 このようなスピノザの定矩からすれば、人間の身䜓は有限であるから圓然のこずずしお、その粟神も実䜓ずはみなされず、粟神は神の属性の様態ずされるのでした。

 これに察しおラむプニッツはモナド個䜓的実䜓を人間の粟神性に求めたした。スピノザにあっおは、実䜓は結局、神=自然ずいうこずで䞀者に垰せられるか、逆に、汎神論的に、倚ずみなされるかですが、ラむプニッツの実䜓論にあっおは、䞀倚ずいう構造ずしお、䞀者が倚様なものの盞互関係ずしお把握されおいるのです。このような実䜓論はラむプニッツの次のような神に぀いおの理解を生みたした。

「すべお実䜓は䞀぀のたずたった䞖界のようなものであり、神の鏡もしくは党宇宙の鏡のようなものである。実䜓は党宇宙を各自分流儀に埓っお衚出する。云っお芋れば先ず、同䞀の郜垂が之を眺める人の様々な䜍眮に埓っお色々に衚珟されるようなものである。  又すべおの実䜓は神の無限な智慧ず党胜ずの性質をいくらか垯び、力の及ぶ限り神を暡倣するずいふこずさえできる。」ラむプニッツ前掲曞、85頁

 ラむプニッツにあっおは、個別的実䜓は、神ずは別の存圚であり、その存圚様匏は、神の鏡ずなるようなひず぀の関係の極なのです。このような神ず実䜓に぀いおの結論的芋解にいたる経過を次にたどっおみたしょう。

2 ラむプニッツの神孊批刀

 ラむプニッツは『圢而䞊孊叙説』で神に぀いお論じおいたすが、その冒頭は神孊批刀ずなっおいたす。たず「神は絶察的に完党な存圚である」ずいうこずばを手がかりに、完党なものずいうこずに぀いおの考察から、「胜力や知識は完党なものであり、それが神に属する限り限界を持たない。」69頁ず述べおいたす。

 次に「事物は善の法則によっお善いのではなく、党く神の意志だけによっお善いのである」ずいう芋解に察しおは、完党なものは、胜力や知識ですから、これは意志ではなく埓っお、ラむプニッツは「真理や法則は神の悟性から出お来るもので、神の悟性は確に神の本質ず同様神の意志には䟝存しない」71頁ずいっお反駁しおいたす。

 神孊的な考え方に぀いおのその他のいく぀かの反論をした埌、ラむプニッツは萜ずしどころに぀いお次のように述べおいたす。

「あらゆるものの䞭で『最も完党な、然も䞀番嵩匵らない、即ち互いに䞀番邪魔にならないもの』は、『粟神』であっお、その完成が埳性である。それであるから『粟神』の幞犏が神の䞻芁な目的であり、神は普遍的調和の蚱す限り『粟神』の幞犏を持ち来すのであるずいうこずを疑っおはならない。」77頁

 神の粟神、そこに含たれる悟性、これを神の完党性ず捉えたラむプニッツは「神がこの䞖界をどんなに造ったずしおも、䞖界は垞に芏則的であっお、䞀定の普遍的秩序に埓っおいる」79頁ず述べるこずで、意志ではなく悟性による䞖界の把握に道を開きたす。このようなラむプニッツの考えは、神のうちに合理的なものの優䜍をよみずり、悟性でもっお自然を解明しおいくこずの根拠を䞎えたものずいっおもよいでしょう。぀たり、信仰よりも悟性に優䜍を䞎えたのです。そしおこの悟性の担い手が個別的実䜓ずしおある人間なのです。匕き続いお実䜓論を芋おみたしょう。

3 個別的実䜓論の展開

 ラむプニッツは個別的実䜓の抂念を䞎えるに際しお、次のように述べるこずから始めおいたす。

「神の䜜甚を神が造ったものの䜜甚ず区別するこずは䞭々む぀かしい。神が凡おを行うず信ずる人もあり、神はただ神の造った物に䞎えた力を保存するだけだず考える人もある。この二説のいずれがどの皋床たで云われるかを次に芋ようず思う。さお『䜜甚を及がすこずず受けるこずずは元来、個別的実䜓に属する』䜜甚は実䜓に属するずする以䞊、こういう実䜓ずは䜕であるかを説明する必芁がある。」81?82頁

 蚳者の河野與䞀によれば、「個䜓的実䜓」substance individuelleずいう甚語は、第10章の「実䜓圢盞」forme substantielleず同じものをさし、1696幎以降「単子」monadeの名で眮き換えられたずいうこずです。ラむプニッツはこのように述べた埌いろいろスコラ哲孊の諞説に関連しお議論を展開しおいたすが、それをずっず远うこずはせず、先に匕甚しおおいた「神の鏡もしくは党宇宙の鏡」ずいう芏定を述べた埌の、興味を匕く論点を拟っおおきたしょう。

「私が䞊に説明した実䜓の本性に぀いお深く考える人には、物䜓は圢而䞊孊的厳密を以おいうず実䜓ではないこれは実際プラトン掟の人の意芋であったずいうこずかもしくは、物䜓の本性党䜓がただに広がり即ち倧きさ、圢及び運動からばかり成り立぀ものではなく、粟神ず関係ある䜕物かをそこに必然的に認めなければならないずいうこずがわかるであろう。この䜕物かは、仮に動物の粟神ずいうものがあるずすればその粟神ず同様に、珟象に少しも倉化を及がすものではないけれども、䞀般に実䜓圢盞ず称しおいるものなのである。」90頁
「倧きさ、圢及び運動の抂念は、人が考える皋刀明なものではない。色ずか熱ずかいうような、我々の倖にある事物の本性の䞭に本圓に存圚しおいるかどうか疑わしい諞皮の性質ず同様に䜕凊か圢象思惟的な、我々の衚象に関係のある点を含んでいる。」90頁

 ここでラむプニッツが「粟神」ずいっおいるのは、今日理解されおいる個々人の心の働きのこずではなく、おそらくは個物盞互の関係ずしおある超感性的な働きのこずでしょう。そしおそれは実䜓の䜜甚ずしお考えられおいるのです。だから人間の心の働きず粟神ずを区別しおラむプニッツは次のように述べおいるのです。

「然し他の物䜓の粟神即ちその実䜓圢盞は『悟性を具えた粟神』ずは甚だしく異なっおいる。『悟性を具えた粟神』のみが自己の䜜甚を知り、ただに自然的には死滅しないばかりでなく、自己が劂䜕なるものであるかずいう知識の根拠を垞に倱わずにいるのである。」91頁

 このくだりは面癜い。石や犬にも粟神䜜甚が働いおいるが、この䜜甚を知るこずが出来るのは悟性を具えた粟神を持぀人間だけだ、ずいうのです。ひき続いお芳念に぀いおの考察を芋おみたしょう。

4 粟神ず芳念

「芳念ずは䜕であるかをはっきり考えるには、倚矩の曖昧を防がなければならない。倚くの人は芳念を我々の思想の圢盞又は差異ず考えおいる。そう考えれば我々は、芳念のこずを考えおいる間だけしか、その芳念を『粟神』の䞭に持っおいないこずになる。我々が再びその芳念のこずを思う毎に、同䞀の物に぀いお、前の芳念ずは無論䌌おいるが、然も違った芳念を持぀こずになる。然し又芳念を思想の盎接的察象、即ち我々がそれを盎芳しおいない時も存続する、䜕か氞続䞍倉的な圢盞ず考えおいる人もいるようである。そう思えば成皋我々の粟神は垞に、どんなものでもそれを考える機䌚が来さえすれば、䜕か或る本性又は圢盞を衚象するずいう性質を持っおいる。私は、我々の粟神が持っおいる『この䜕か或る本性、圢盞又は本質を衚出するずいう性質』が、本圓の意味でいう『物の芳念』であっお、それは我々の䞭にあり、我々がそれを考えおも考えなくおも垞に我々の䞭にあるものだず信じおいる。我々の粟神は神及び宇宙を衚出し、あらゆる本質䞊びにあらゆる実圚を衚出しおいるからである。
 このこずは私の立おた諞原理ず䞀臎する。䜕故かずいえば、自然的には䜕物も倖から我々の『粟神』の䞭に入っお来ないからである。恰も、我々の粟神が倖から来る䜿者のような圢象を迎え入れるずか、我々の粟神に戞口や窓があるずかいうように考えるのは、我々が持っおいる悪い習慣である。我々は『粟神』の䞭に、これらの圢盞をこずごずく持っおいる。然も垞に持っおいる。䜕故かず蚀えば、『粟神』は垞にその未来の思想をこずごずく衚出しおいお、今埌刀明に考える筈の凡おのものを、混雑にではあるが、既に考えおいるからである。そこで『我々が、粟神の䞭に既にその芳念を持っおいお、それが質料ずなっおその思想が出来䞊がるようなもの』でなければ、我々には知るこずができない。」129?130頁

 このようにラむプニッツは、芳念を、頭のなかで圢成され、確かめられたものずしおの思想ずしお捉えるだけでなく、人間がそれを盎芳しおいない時にも存続するものず捉えおいる。ラむプニッツによれば、芳念ずは人間が考えおも考えなくずも、人間の䞭にあるもので、粟神の䞭に既にあるものずされおいたす。

「さお圢而䞊孊的真理の厳密な意味からするず、神だけを陀けば我々に䜜甚する倖的原因は無い。神だけは、『我々が絶えずそれに䟝存しおいるずいうこず』によっお盎接に我々に亀枉を持぀のである。その結果、我々の粟神に觊れお、盎接我々の衚象を惹き起こすような倖的察象はないずいうこずになる。そこで、我々が我々の粟神の䞭にあらゆる物の芳念を持っおいるのは、党く神が我々に及がす䞍断な䜜甚のために他ならない。即ち、それは凡おの結果がその原因を衚出するからであり、そういふ颚にしお我々の粟神の本質が、神の本質、思想、意志及びそこに含たれおいるあらゆる芳念の或る衚出、暡倣もしくは圢盞になっおいるからである。だから神だけが我々の倖にある我々の盎接的察象であっお、我々は神によっお凡おの物を芋るずいうこずができる。」134頁

 ラむプニッツは粟神の䞭に芳念がある理由を、神ずの関係に求めおいたす。ずいうのも、神は、人間に䜜甚する倖的芁因であり、神が粟神に䞍断に䜜甚を及がすこずで、粟神が、神を映す鏡ずしお、神の本質、思想、意志などの芳念の衚出になっおいるずいうのです。

「ずはいえ私は、我々の芳念そのものも神の䞭に有っお、決しお我々の䞭には無いず䞻匵するように芋えるあのえらい哲孊者達の意芋を採るものではない。これは私の考える所ではどうも、実䜓に぀いお我々が今考えたこずも、我々の粟神の範囲及び独立性、即ち我々の粟神がそれに起る凡おのこずを含んでいお、結果が原因を衚出するように、我々の粟神は神を衚出するず共に可胜的䞊びに珟実的な凡おのものを衚出するずいうこずも、あの人たちはただ十分に考えなかったずころから来おいるず思う。」135?136頁
「ずにかく、我々が今述べた思想、特に神のはたらきが完党であるずいう倧原理ず、実䜓の抂念がその凡おの出来事ず共にそれの起る際の凡おの事情を含むずいう倧原理は、宗教を確立し、極めお倧きい困難を解決し、粟神を神の愛で燃やしお、今たで人が芋た仮説よりも遥かに『粟神』を高めお非物質的実䜓を認識させる圹にこそ立お、決しおそれを劚げるものではないず思われる。」146頁

 ここでラむプニッツは、芳念は神の䞭にあっお人間の䞭にはない、ずいう考え方を批刀しおいたす。

5 実䜓の自発性

ラむプニッツは、実䜓ずしおある人間に自発性を認めたす。
「それで、凡お実䜓は完党な自発性を持っおいお悟性を具えた実䜓に斌いおはそれが自由ずなっおいるが、実䜓に起こるこずは凡おその芳念もしくは存圚から出る結果であり、神だけを陀けば䜕䞀぀実䜓を決定するものはないずいうこずがわかる。」147頁
「粟神は自分だけでその䞖界党䜓を぀くっおいお神だけずいれば足りるのであるから、粟神はあらゆる倖郚の物に察しお絶察的に安党な地䜍に眮かれおいる。そこで絶滅によらずに粟神が死滅するずいうこずも䞖界粟神をそれの掻きた恒久的な衚出ずしおいる䞖界がひずりでに砎壊するずいふこずも䞍可胜であるし、又我々の身䜓ず呌ばれおいるこの広がりをもった魂の倉化が粟神に䜕か䜜甚を及がすずか、この身䜓の消滅が䞍可分のもの粟神を砎壊するずかいうこずも䞍可胜である。」147頁
「粟神は、ある仕方を以っお或る時の間、他の物䜓が自分の身䜓に察する関係に埓っお宇宙の状態を衚出するからである。  宇宙のあらゆる物䜓が同感しあっおいるので、我々の身䜓も他の凡おの物䜓の印象を受けるが、我々の感芚は凡おのものに応するけれども、我々の粟神が凡おのものを個々別々に泚意するこずは可胜でないからである。」149?150頁

 ラむプニッツの粟神は、䜜甚であり、肉䜓を持った個々の人間を超えた存圚です。

「実際、理性的粟神は最も完成し埗るべき実䜓であっお、その完成の特城ずなる点はそれが互いに劚げ合うこずが最も少ないずいふこず、寧ろ互いに助け合うずいふこずである。理性的粟神だけは神の姿に像っお造られ、恰も神の䞀門の出もしくは神の家の子のようなものである。それで理性的粟神だけは自由に神に仕え、意識を以お神の本性を摞倣しながら行動するのである。理性的粟神は党䞖界を衚出するばかりでなく、䞖界を認識し、䞖界に斌いおは神に倣っお自分を支配しおいるから、唯䞀぀の理性的粟神も䞖界党䜓だけの䟡倀がある。そこで、成る皋どの実䜓も党宇宙を衚出しおはいるけれども、それでも理性的粟神以倖の実䜓は神よりも寧ろ䞖界を衚出し、理性的粟神は䞖界よりも寧ろ神を衚出しおいるようである。」157?157頁

 この考え方は、人ず人ずの関係においお、神類ずしおの人間がどのようにしお生成されるか、ずいうこずを瀺唆しおいるように思われたす。これは関係を解明する文化知の萌芜ずしおの意矩を持っおいるのではないでしょうか。

 さお今日ラむプニッツは最新の数孊や物理孊を予想したものず受け止められお、いろいろな読みがなされおいたすが、次に『単子論』を関係を解明する文化知の芳点から読んでみたしょう。

第2ç«  ラむプニッツのモナド論

1 極の思想家

 ラむプニッツのモナド論ずは単玔な個物ずしおのアトムではなく、関係ずしお捉えられた「事物」の極を指しおいる。いた、ラむプニッツを極の思想家ずしお䜍眮付けお、この芋地から、モナド論を組み替えおみよう。匕甚の数字はモナド論の項で、蚳文は池田善昭『モナドロゞヌを読む』䞖界思想瀟による。

 ある関係を想定したずき、その関係における極の極性ずは「耇合されたものの䞭に入っおいる単玔なる実䜓モナド」1モナド論の項目で「郚分を含たない」1。単玔な実䜓が「集合」2するず耇合䜓ずなり、宇宙や自然界や人間瀟䌚ずなるが、極ずしおの単玔な実䜓は関係ずしおある「事物の芁玠」3である。

 泚蚘 関係の䞡極ずは、それがたずえば人間ずいった自然物から構成されおいようず、極性それ自䜓は、瀟䌚的な質を持ち、自然物ずは別の質を持぀ものずしお存圚しおいるがその質は超感性的なものであり、いわゆる瀟䌚的実䜓マルクス䟡倀圢態論ずなっおいるから、ラむプニッツの蚀うように「郚分を含たない」が、関係ずいう「事物の芁玠」であるこずになる。

2 極の原理

 極には個物ず違っお「解䜓ずいう抂念はない」4し、「自然に消滅しおしたう」4こずもなく、たたそれは「自然に生成するような䜕らかの手段もありえない」5。極は「生成するにも終焉するにも䞀挙にするほかはない」6。぀たり、単玔な実䜓ずしおのモナドを含んだ個物が、解䜓あるいは死滅しおも極性は残り、極をなす関係の「絶滅によっおのみ死滅するしかない」6のである。

 関係のうちで成立しおいる極は、他の極から「倉化を受け」7るこずなく、「モナドには、䜕か事象が出入りできるような窓などは存圚しない」7けれども、極は「なんらの性質をもっおいなければならない」8。

 泚蚘 関係を぀くっおいる個物は、自然的なもの質料ず瀟䌚的なもの基䜓ずの二重物であり、極性は瀟䌚的なものの珟象する堎であるので、たずえば個々人は死んでも人類が解䜓するわけではない。そしお、この意味では、極ずは人類の化身ずされた個人なのだ。

3 極ずしおある人間

 この関係の極に぀いおの原理モナド論を人間存圚に適甚すればどうなるだろうか。個々の人間は、単玔な実䜓ずしおは瀟䌚関係の極ずしおのモナドであるが、「どのモナドも他のすべおのモナドず互いに盞違しおいる」9し、たた「すべおの創造された存圚は倉化を免れない」10ずいうこずになる。さらに「モナドの自然的倉化は内郚原理から生ずる」11ずずもに、「倉化する内容の现郚が必ず存圚」12しおいお、「単玔なる実䜓の個別化および倚様化を䞎えおいる」12事が芋られる。

 泚蚘 ここには個の唯䞀性に぀いおの理解がある。

 ぀たり、個々の人間を関係の極ずしおの単玔な実䜓モナドず捉えれば、単䞀の存圚でありながら、それぞれ互いに盞違し合い、たた内的原理によっお倉化しおいく動物である。その䞊に、瀟䌚関係の極ずしおは、倚様を含み、「䞀即単玔なものの䞭に倚を含」13み、「状態や関係の倚様性が存圚」13しおいるこずになる。

 人間をデカルトのように自己意識ず捉えるのではなく、極の担い手ず捉えるず、「単玔なる実䜓の䞭の掚移的状態」14を「衚象」ず捉えこれを「自芚的な衚象あるいは普通の意識ずは区別」14する道が開け、これを粟神espritsず区別しお「霊魂ames」14をモナドずしお捉えるこずが出来る。

 泚蚘 デカルトは人間を自己意識ずしお捉える際に䞖界ず察面しおいる孀立した個人から発想したが、ラむプニッツはこれずは逆の関係の網の目に取り蟌たれた、極ずしおの人間を捉える方法を提起しおいる。たたここで「衚象」ず蚳されおいるのはモナド同士の関係の䞭でモナドが受け取る波動的な力のこずだ。

 そうするず、「䞀぀の衚象から他の衚象ぞの倉化あるいは掚移をなす内郚原理の働きを名づけお、欲求ずいうこずができる。」15こずになり、「私たちの意識する思想がたずえどんなに埮小でも、察象化されうる倚様性を含んでいるものであるがゆえに、私たちは自分自身で単玔なる実䜓の䞭に倚を経隓する。そういうわけで、霊魂を単玔なる実䜓ず認めるすべおの人々は、誰しもモナドの䞭にこの倚を認めないわけにはいかない。」16こずになる。

 極ずしおの人間には「衚象ず衚象の倉化だけが、単玔なる実䜓の䞭に芋いだされるのである。たたそれだけが、単玔なる実䜓の内的䜜甚のすべおである。」17こずになり、モナドずしおの人間は「゚ンテレケむア根源的掻動力」18であり、「非物質的な自動装眮」18なのだ。

 泚蚘 動物を自動機械ずいう物質的なものぞず還元するのずは察照的に、ラむプニッツは物質的なもののうちに粟神的な力を認めた。

4 人間の自己意識

「もし、私たちが説明しおきたような広い意味での衚象ず欲求をもっおいるようなすべおを霊魂ず名づけるならば、単玔なる実䜓、すなわち創造されたモナドのすべおは、霊魂ず呌ばれおしかるべきではある。しかし、感芚ずいうのは単玔なる衚象以䞊の事柄であるから、衚象しか含たない単玔なる実䜓には、モナドずか゚ンテレケむダずいう䞀般的な名前で十分であるず私は考えた。そしお、その䞭でも衚象がいっそう刀明で、しかも蚘憶を䌎うものだけを霊魂ず呌がうず思う。」19
「霊魂はやはり単なるモナド以䞊の事柄である」20

 このようにラむプニッツは、宇宙を物質盞互が関係しお生成される「事物」ず芋おおり、そしおその芁玠たるモナドを゚ンテレケむダず名づけお、そこに「非物質的な自動装眮」を芋出しおいる。衚象波動しか含たない単玔な実䜓、感芚を持ち、蚘憶を䌎う霊魂、これが物質によっお構成されるモナドず動物のモナドずの差である。

「埮小衚象がどんなにたくさんあっおも、そこに際立った衚象がなければがんやりしおしたう。」21
「しかし、必然か぀氞遠の真理の認識こそが、私たちを単なる動物ず区別すべきものであり、それで理性ず知識を私たちは身に぀けるこずになる。私たちは、自己自身を知り、か぀神を知る認識ぞず高められる。それが私たちの䞭にある理性的霊魂、぀たり粟神ず呌ばれるものである。」29

 モナドは党お、宇宙ず神ずを映す鏡であり、この意味では霊魂であるが、しかし、理性的霊魂、぀たり粟神を持぀ものだけが自己を知り、神を知る。これがラむプニッツが䞎える自己意識論だ。

「たた、必然的真理の認識やそのさたざたな段階の抜象䜜甚を通じお、私たちは反省行為にたで高められる。この反省行為が私たちに私ず呌ばれるものに぀いお省察させ、そしお私たちの䞭にこれがあるずかあれがあるずか考慮するこずに぀いお省察させる。このように、私たちは自分自身を省察しながら、同時に、存圚、実䜓、単玔なるもの、耇合されたもの、非物質的なもの、神そのものに぀いお省察するようになる。こうした反省行為こそが、私たちの思考の䞻芁な察象を生み出すのである。」30

 このような展開は、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」ずいうテヌれを、人ず人ずの関係においおは、極ずしおの個々人が神の化身ずされる、ずいう事実のうちに包摂しおいるように思われる。






Date:  2006/4/18
Section: ãƒ©ã‚€ãƒ—ニッツを旅する
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