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哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第3章


哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第3章


はじめに――解題にかえて
第1章 ヘーゲルの切り拓いた地平
 1)懐疑論の批判 2)現象する知、意識の形態 3)独自の意識論 4)外的対象は意識の契機 5)意識の経験 6)新しい真の対象
第2章 感覚的確信の弁証法
 1)唯物論から出発 2)観念論への転回 3)意識の運動
第3章 意識の弁証法の転倒性
 1)ソシュールを手がかりに 2)意識の両極の実在性 3)意識の弁証法の成立根拠
第4章 本質論の転倒
 1)論理学有論の概要 2)本質論への移行 3)同一性 4)区別と矛盾
第5章 概念の弁証法
 1)概念論の概要 2)意識の外の対象がもつ仮象
第6章 概念論の転倒
 1)普遍的概念 2)特殊性と個別性 3)概念論の批判

第3章 意識の弁証法の転倒性


1)ソシュールを手がかりに


 先に、ヘーゲルによる感覚的確信への批判の最初の展開は言語によって示される概念が、発話者の主観的、具体的意味と一般的観念との二重物であるという事実から、外的な批判を展開している、と指摘しておいた。しかしヘーゲルには言語で示される概念がなぜ二重物となるかについては解明しなかった。そこで、ここでこの作業に取り組んでみることにしよう。
 ソシュールは言語記号の二重性を発見した。それによれば、発話によって語られた言葉は、概念と聴覚印象とが紙の表裏のように重なっている、ということだった。このソシュールの二重性を超感性的な意識の現象形態として示してみよう。設定される場面は、名づけである。
 現実のイヌを指して「イヌだ」と発話したとしよう。そうすると「イヌ」という言葉と生身のイヌとが概念としては同等であるということになる。これは次の等式で表される。 「イヌ」(言葉)=イヌ(生身のもの)
 この等式は概念(意味)の関係式である。言葉としての「イヌ」という聴覚印象が生身のイヌと結びつけられている。この時、生身のイヌの方は勝手に人間との言語関係を取り結ばされており、生身のイヌは生身のままで「イヌ」の概念の担い手となっている。
 こうしてソシュールの言語記号の二重性を意識の現象形態へと展開すると、言語記号は指示対象という個別のものそのものを一般的なものである概念の化身としていることがわかる。つまり、言葉を使うこと自体が直接的なものを媒介されたものへと転化するのだ。あるいは、意識すること自体が媒介の働きを含んでいる。そうだとすると、感覚的確信という意識形態のうちに直接的なものと媒介されたものを見出そうとするヘーゲルの努力は、媒介者そのもののうちに主体と客体とを持ち込むことにならないだろうか。そして、そうすることによって、媒介者の方を主体とし、主体と客体とを契機へとひきさげている。実際にヘーゲルによれば、実体とは主体なのだが、これはじつは精神、つまり意識のうちに主体を見出していることになる。
 自我と対象(このうちには自我も含まれる)との関係を意識と捉えたヘーゲルの観点は基本的には継承すべきである。しかしヘーゲルの弁証法は、自我と対象、つまり主体と客体とを意識の契機とみなし、結局は媒介者である意識に還元してしまっている。つまりヘーゲルは媒介者としてある運動する意識を主体とし、それを弁証法的に描き出したのだった。
 しかし、いま問われているのは、意識の両極が主体と客体であり、それらは意識の外に実在している、ということをどう捉えるか、ということである。この観点から感覚的確信の弁証法をひっくり返してみよう。

2)意識の両極の実在性


 ヘーゲルは意識を自我と対象との関係と捉えただけでなく、さらには、自我と対象とを意識の契機と捉えることで意識の運動を措定し、意識の弁証法を叙述することができた。だからヘーゲル弁証法は主体としての意識の運動の記述であるが、これが対象についての真理をとらえるかどうか、という問題は、自我と対象との意識の上での一致、という場でのことでしかなかった。
 ところがヘーゲルの試みとは別に、意識の両極である自我と対象との間の現実的な関係を想定することが可能であり、そして意識を対象と自我、つまりは存在と思考の二重物として捉えることも可能である。ヘーゲルの場合、あくまでも主体は意識であり、意識が弁証法的運動を展開することで自我と対象についての知をつくりあげていく、という仕組になっている。ところが別の想定に立てば、意識の両極が現実的に関係することで、意識の内容が決定されてくる、ということになる。あるいは、両極の関係を意識に反映させることが弁証法の使命となる。
 そこで意識を存在と思考の二重物とし、これを対象化された意識形態へと展開してみよう。
 さきに言語記号の二重性を意識の現象形態へと展開することで、言語記号が個別のものを一般的なものである概念の化身としていることが示された。従って、言語によって表現された意識形態は、個別のもの、つまり存在と、概念つまりは思考の二重物となっている。
 だから、ヘーゲルに習って、私がいまを指摘するとき、この「いま」とは、個別の「いま」を一般的な「いま」の化身とすることで、そうすることが可能になったのである。それは決してヘーゲルの言うような「いま」が時間の経過でそのときの「いま」ではなくなっている、といったような否定の仕方とは異なる。
 私と「いま」とを両極とする意識形態において私と「いま」とは意識的関係を取り結ぶことになるが、そのとき「いま」という個別の「いま」を一般的な「いま」の化身としてしまっているのであって、ヘーゲルのように、意識のうちにある「いま」が次々に否定され、規定されなおされることで、それが一般的なものであることを示すようなやり方は不必要なのである。

3)意識の弁証法の成立根拠


 そこでヘーゲルが感覚的確信の弁証法として述べている、感覚的確信の経験としてある運動の経過の記述をみていよう。そこにあるのは、有-無-成の弁証法であり、「万物は流転する」と語ったヘラクレイトスが述べていたものである。ヘーゲルの場合の特徴は、ある質はそれを否定するものとの統一としてある、ということを明らかにしたところにあるが、それも、対象と自我とを意識の契機とみなしたうえでのものであった。
 では、対象と自我とを両極として成立している意識形態にあっては有-無-成の弁証法はどのように転倒されているだろうか。その際、主体はあくまで自我にある。自我が意識という媒介を通して対象に関係することで意識形態が成立する。ところが、この意識形態にあっては個別の対象がそのままで一般的なものの化身とされているわけだから、これがひっくり返ってこの一般的なものが対象の属性とみなされる。そうすることで自我は対象を意識のうちにとり込むのであり、そうすることで自我とは区別されたものとして対象についての意識を自立化させる。そうなるとまた意識は自我からも自立化していく。
 とすれば両極の関係で形成されている意識が、両極を意識の圏に巻き込み、意識が不可避的に両極から自立していく過程を示すことが弁証法の課題でなければならない。
 そうだとすれば、対象は自我に意識という媒介によって関係させられることで否定されて感覚的確信つまり対象についての意識となるが、これを意識がさらに否定することで意識にとっての対象、つまりは意識のうちにとり込まれた対象が成立する、ということになる。だから有-無-成は、対象-対象についての意識-意識にとっての対象、という経過をとることになる。
 他方、主体としての自我は、この関係で否定されて対象についての意識となるが、それを意識が否定して意識にとっての対象が成立させられる過程で、その主体性を失い、主体としての意識を成立させてしまう。
 こうして、ヘーゲルの意識の弁証法が成立する根拠がここに示される。だがこの意識の弁証法は出発点で一つの転倒をこうむっていた。意識の両極が意識の契機とされ、主体としての自我は疎外されて意識を主体化してしまっていたのである。ヘーゲル弁証法の出発点における転倒を解剖したいま、ヘーゲルが本質論で展開した反照の弁証法の転倒が検討されねばならない。




Date:  2006/1/5
Section: ヘーゲル弁証法の転倒
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