office-ebara
indeximage

哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第1章


哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第1章


はじめに――解題にかえて
第1章 ヘーゲルの切り拓いた地平
 1)懐疑論の批判 2)現象する知、意識の形態 3)独自の意識論 4)外的対象は意識の契機 5)意識の経験 6)新しい真の対象
第2章 感覚的確信の弁証法
 1)唯物論から出発 2)観念論への転回 3)意識の運動
第3章 意識の弁証法の転倒性
 1)ソシュールを手がかりに 2)意識の両極の実在性 3)意識の弁証法の成立根拠
第4章 本質論の転倒
 1)論理学有論の概要 2)本質論への移行 3)同一性 4)区別と矛盾
第5章 概念の弁証法
 1)概念論の概要 2)意識の外の対象がもつ仮象
第6章 概念論の転倒
 1)普遍的概念 2)特殊性と個別性 3)概念論の批判

はじめに――解題にかえて


 ヘーゲル弁証法の転倒ということについて、イメージはあったのですが、実際に文章化してみますと、随分入り組んだものになってしまいました。当初は『精神現象学』だけで済ますことを考えていたのですが、知覚の項となると反照の弁証法を読み取ることが困難だと判断し、急遽『小論理学』の本質論に移りました。そして、もともと本質論の転倒だけで終わる予定でしたが、対立物の同一性ではなく、絶対的他者の同一性、ということが客観的矛盾だということが判明してきましたので、概念論にまで転倒作業を進めてみました。
 概念論については、これまでまともにとりあげたことはなかったのですが、今回『大論理学』を参照し、その概略がつかめるよう、引用も多くしてあります。というのも、概念論まできちんと読み込んでいる人はそんなにいないと思われるからです。
 概念論の転倒が可能となったことで、特殊性という契機が人間の社会性の種差だということがわかり、こうして、言語や商品や宗教や国家やその他もろもろの社会関係について解明し、叙述していく方法が判明したように思われます。このあとは再び『精神現象学』にかえって、自己意識論をとりあげ、法や国家についてのヘーゲルの理論のひっくり返しにまで射程を伸ばすことにします。

 なお、手元にはヘーゲル研究についての膨大な日本語文献があったのですが、今回これらをいちいち参照することはしませんでした。すでにこんな仕方でヘーゲルを転倒した研究者がいらっしゃるかも知れませんが、御存知の方はご教示下さい。

第1章 ヘーゲルの切り拓いた地平


1)懐疑論の批判


 ヘーゲルの『精神現象学』は哲学史上意識についての全く新しい見地を切り拓いたことで知られている。この見地は、緒論において懐疑論への批判というかたちで展開されている。ヘーゲルがこの本で主題とすることは、絶対者の認識であるが、それを絶対者をわがものとする道具(思惟)と、捉えられる認識についての懐疑論の見解を次のようにまとめることから論を解きおこしている。
「このような(認識を誤るような―著者追加)心配は、自体的に在るものを、認識によって、意識のものにしようとする企てが、その概念から言って矛盾しており、認識と絶対者との間には、両者を端的に分ける限界が在る、という確信に変わるにちがいない。なぜならば、認識が絶対実在を手に入れる道具であるとすれば、すぐ思いつくのは、或る道具を或ることに適用すると、もはや、そのことをそれ自身で在る通りに置かないで、それに或る形を与え、それを変えようとすることになるからである。もしくは、認識がわれわれのはたらきの道具でなく、言わば、受動的な媒体であり、この媒体を通じて真理の光がわれわれのところにやってくるとしても、そのときわれわれはまた、真理をそれ自体在る通りにではなく、この媒体を通じ、また媒体のなかに在る通りに、受けとることになる。」(樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、原典63頁)

 ここでヘーゲルは、カントの超越論的仮象論(『純粋理性批判』中巻)を念頭においている。周知のように、カントは認識能力の限界として、対象そのものを悟性が認識しうるのは、対象そのものが悟性の法則をもっている、とみなしたうえでのもので、対象そのもの(物自体)は認識できないとしていた。つまり、思惟という道具で対象を認識しようとすれば、対象に或る形を与え、それを変えてしまうことになるからだ。あるいは、思惟を受動的な媒体と考えたところで、対象はそれ自体としてではなく、媒体を通して受け取られることになる。
 このあと、ヘーゲルは、色々なバリエーションについて述べたあと、このような絶対者の認識についての不安が出てくる原因を、道具及び媒体としての認識についてのいくつかの表象にもとづくもととみなし、この表象によれば、「絶対者が一方の側に在り、他方の側に認識がそれだけで、絶対者から離れていながら、しかも、実在的なものとして在るということを前提にしている。」(65頁)ことになると述べている。
 そしてこのような前提は「絶対者から離れている認識と、認識から離れている絶対者とについての、すべてのそういう考えが、落ち着く関係」(65頁)であり、認識と絶対者との関係を偶然で勝手な関係と考えるものだから、こんな前提のもとに苦労したり、考えたりするのは止めた方がよいと述べている。
 では、ヘーゲルは、この前提に何を対置したのだろうか。それこそが「現象する知の叙述」であった。この現象する知とは、「魂(意識)が、自己自身を完全に経験して、自らがそれ自体で真に在るところのものの知見に行き着くと同時に、自ら純化されて精神となる」(67頁)そのような道を進むものとされている。

2)現象する知、意識の形態


 ヘーゲルが「現象する知」として意識を捉えたとき、それは意識を現象形態として捉えたことを意味している。この立場から懐疑論をみると、自然的意識とみる他はなく、この意識の形態は結果のなかにただ純粋の無だけをみている。ところがヘーゲルによれば、「実在的ではない意識の諸々の形式は、進行と関連そのものとの必然によって、完成される」(68頁)のであり、それは意識を単に否定的な運動とみるだけでなく、否定を新しい形式への移行とみることで、自然的意識を自ら進ませることができるのだ。
「真にある通りの結果は、一定の否定として把まれるので、そこにすぐさま一つの新しい形式が出てきて、否定のなかで移行が行われる。そのために、数ある形態が完全につくされることによって、自ら進むということが起きるのである。」(69頁)

 そしてヘーゲルによれば、意識が数ある形態を移行していく目標もまた進行の系列と同じく必然的である。というのも「目標は、知がもはや自分を超えて出る必要のないところ、知が自己自身を見つけ、概念が対象に、対象が概念に一致するところ、そこに在る」(69頁)のだから。
 しかし、もともと懐疑論がとりあげたのは、果して概念と対象とが一致するかどうか、ということだった。ヘーゲルはこれに対し、対象と認識とを分離した上で考えるから、このような不安が生まれてくる、といって批判した。そして、それに代わる「現象する知」を想定すれば、意識の進行の系列が必然的に展開され、概念と対象との一致に到達するというのである。

3)独自の意識論


 このようなヘーゲルの考えは、意識についての独特の理解にもとづいている。それは知と真という問題のたて方である。ヘーゲルは、知と真との意識に現われてくる抽象的規定について次のように述べている。
「意識は、或るものを自分と区別しながら、同時にこのものと関係している。このことは、或るものが意識に対して在るとも言い表される。この関係という特定の側面、つまり、意識に対する或るものの存在という側面が、知である。だが、われわれは他者に対するこの存在と自体存在を区別する。知に関係づけられるものは、また同じように、知から区別され、この関係の外に存在するものとして、置かれる。このような自体という側面は、真と呼ばれる。」(70頁)

 この抽象的規定には、ヘーゲルの根本思想が述べられているので詳しく検討しよう。まず同じ事柄を学生に対する講義として述べた『哲学入門』(岩波文庫)の叙述をみてみよう。
「意識一般とは、自我の或る対象――内的であれ、外的であれ――への関係である。我々の知識は、一方では、我々が感性的知覚を通して認識するところの諸々の対象をもつが、しかしまた一方では、精神そのものの中にその根拠をもつところの諸々の対象をもっている。」(「哲学入門」14~5頁)
 「哲学においては、知識の規定は、ただ一方的に物の規定だとは見られない。むしろ物の規定と物とを共に含むところの知識が問題である。言い換えると、知識の客観的規定としてのみでなく、また主観的規定とも見られる。また、むしろ客観と主観との相互の関係の特定の形態だとも言える。」(『哲学入門』124頁)

 ヘーゲルも別のところで言っているように、常識は知識の中に含まれている対象のことしか考えていないが、しかし知識の中には対象だけでなく、それを知る自我もあり、自我と対象との相互の関係がある。ところで『精神現象学』からの引用部分に帰ると、ヘーゲルによれば、意識を知と真との統一として捉えていることがわかる。意識のうちにある対象についての規定が知であり、そして同じく意識のうちにありながらも、この知の関係の外にあるものが真だ、というのである。
 今日の常識からすれば、対象とは意識の外にあるもののことであって、意識のうちにとり込まれたもののことではない。へーゲルはここでは意識の外にある対象を認めてはいないが、それは意識を対象と自我との関係と捉えた帰結であり、絶対者と認識との分離を否定した帰結であろうが、しかしヘーゲルが意識のうちの知と区別される自体存在(といっても意識のうちにあるのだが)を真と呼び、対象とみなしていることについてはなじめない。

4)外的対象は意識の契機


 とまれヘーゲルは、このような独自の意識論にもとづいて知と真を措定したことで存在と概念との一致を真理として述べることができたのだった。つまり意識は自らをはかる尺度を自分自身で持っており、だから探求は、意識の自己自身との比較だということになる。
「もともと意識は、知の契機という規定性を自分で持っている。同時に意識にとっては、この他者は、意識にとってのものであるだけでなく、この関係の外にも、つまり自体的にも在る、つまりそれは真理の契機である。だから、意識が自己のなかで自体であり、真であると説明するものにおいて、われわれは、意識は自らかかげる尺度をもっている。そこで意識が自らの知をはかる尺度をもっている。われわれが知を概念と呼び、実在つまり真を、存在するもの、または対象と呼ぶとすれば、吟味するとは、概念が対象に一致するかどうかを見るということである。だがわれわれが実在もしくは対象の自体を概念と呼び、これに対し、対象という言葉で、対象としての対象、つまり他者にとって在るものを呼ぶとすれば、吟味するとは、対象がその概念に一致するかどうかを見ることになる。もちろん、今言った二つのことが、同じことを言っているのは明らかである。だが大切なことは、概念と対象、他者にとっての存在と自体存在という二つの契機が、われわれの探る知自身のなかで生ずるということを、したがってわれわれが、探求するに当って、いくつかの尺度を持ち込んだり、われわれの思いつきや考えを適用したりする必要はなくなるというこのことを、全探求のために、しっかり定めておくことである。そういう尺度などを捨てれば、事柄がそれ自体真に在る通りに、考察されるようになる。」(71頁)

 ここで明らかなように、ヘーゲルは、自我と意識と対象との関係について、意識の外にある対象について承認している。そして、意識が自分の尺度でもって真理についての吟味を行う際には、概念と対象との一致を概念が対象に一致しているか、あるいは対象がその概念に一致するか、というように述べているのだが、その時の対象は実は意識の契機とされてしまっている。つまりヘーゲルは意識の外にある対象については、それを意識の契機としてしか認めてはいない。
 とまれ、ヘーゲルは自体存在としての対象を意識の契機とすることで意識を概念と対象という対立したものの統一、あるいは二重物として捉えることに成功した。そして、このような二重物は弁証法的な運動を展開していかざるを得ないものなのだ。
「意識は一方では対象の意識であり、他方では自己自身の意識であるからである。つまり、意識は意識にとって真であるものの意識と、それについて意識が知るという意識と、であるからである。この両者(対象と意識)は意識にとってのことであるから、意識自身が両者を比較するのである。つまり対象についての意識の知が、対象に一致するかどうかということは、意識にとってのこととなる。」(72頁)

 弁証法的運動を展開するものは意識であり、そして運動の動力は意識のうちにとり込まれた対象と概念との比較である。

5)意識の経験


 こうして意識の弁証法的運動は経験とされる。知は対象との関係で経験をつみ、知も対象も変えていくのだが、この経験についてヘーゲルは次のように述べている。
「もともと意識が対象について知っているということの中には、既に区別が現存している、つまり、何かが意識にとって自体的なものであるが、これとは別の契機は、知、すなわち、意識にとっての対象の存在、であるという区別が現存している。吟味は、現存するこの区別に基づいている。このように比較するとき、両者が一致しないならば、意識は自らの知を変えて、自分を対象に一致するようにしなければならない、と思われる。だが、知が変わるときには、実際には、知にとっての対象自身も変わるのである。なぜならば、現存する知は本質的には、対象についての知であったからである。つまり知と共に対象も別の対象となる。というのは、対象は本質的には知に帰属していたからである。したがって、意識から見ると、初め意識にとって自体であったものは自体ではないということ、つまり意識にとって自体であったのだということになる。だから意識がその対象において、自らの知と対象が一致しないことに気がつくときには、対象自身も持続してはいないのである。」(72頁)

 ヘーゲルはまず、意識の外にある対象を意識の契機としてしか認めないことによって、それを意識のうちにとり込んだ。そのうえで、対象の対象性についての知の経験の仕方についてこのように述べているが、その際、意識が知と対象とを比較し、吟味することを通して知を変えていくとき、本質的には知に帰属していた対象もかえられていく、としている。ここでは意識の契機としてあった対象は、以前は意識の外に自体的なものとしてあったが、この経験によって意識との関係のなかで自体的なものとなり、いわば概念化されてくる。
「以上のような弁証法的運動は、意識にとって新しい真の対象がそこから生まれてくる限りで、意識が自分自身において、自らの知と自らの対象において行う運動であり、本来は経験である。」(73頁)

 このようにヘーゲルは、意識が経験によって、知のみならず対象をも換え、新しい対象を生み出すと見ているが、この観点が恐らく精神現象学の基本だろう。

6)新しい真の対象


 ヘーゲルは意識の経験が新しい真の対象を生み出すと述べた点について、さらに詳述している。
「意識は或るものを知る。このとき対象は実在であり自体である。だがこの対象は意識にとっても自体である。そこでこの真理にあいまいなものが入り込んでくる。われわれは、意識がいま二つの対象をもっていることに気がつく。」一方は、初めの自体で、他方はこの自体の、意識に――とっての――有である。後の対象は、さしあたり、意識の自己自身への反照であるにすぎないように思われる。つまり、対象という表象ではなく、初めの対象についての意識の知、という表象にすぎないように思われる。しかし前にも言ったように、そのとき意識にとっては、最初の対象が変わっているのである。つまり対象は、自体であることを止めており、意識からみると、意識にとって自体であるにすぎないもの、となるのである。だが、そうなると、この自体の意識にとっての有が真であることになる。すなわち、これが実在であり、対象である。新しい対象は、初めの対象が空しいこと(否定)を含んでいる。新しい対象は、初めの対象に対して行われた経験である。」(73頁)

 自我と対象との関係としてある意識は、一たん外的対象と関係すると、対象を自体的なものから意識との関係での自体的なものに変えてしまい、そしてこの意識にとって自体的なものが新しい真の対象としてつくり出されるがこれこそが実在である、と言われても納得しがたい。しかし、ヘーゲルはこのように考えることによって意識の弁証法的運動を描き出すことに成功したことも事実である。
 緒論で展開されているヘーゲルの意識論の特徴は、自我と対象との関係として意識を捉え、ついで、この意識にとっての両極を意識の契機とみなして意識のうちに取込むことにあった。そして、この意識のうちにとり込まれた二つの契機を動力として意識の運動を組み立て、これを現象する知とみなし、その弁証法を展開したのであった。そこで、本論での弁証法の展開に則してその転倒を試みよう。




Date:  2006/1/5
Section: ヘーゲル弁証法の転倒
The URL for this article is: http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=28