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哲学の旅第6回 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を読む 第4章


哲学の旅第6回 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を読む 第4章


 1)はじめに
第1章 リベラルな社会と連帯
 2)リベラルな社会の構想 3)フーコー、ハーバーマス批判 4)連帯のイメージ
第2章 世界、真理、言語ゲームの変換
 5)世界と真理の在り方のちがい 6)真理は文の属性 7)ボキャブラリーを変えるための再記述の方法
第3章 言語論
 8)言語は媒体ではない 9)ディヴィドソンの解釈 10)ローティの問の架空性
第4章 文化論
 11)出来事の再記述 12)自己の偶然性

第4章 文化論


11)出来事の再記述


 ローティの面白いところは、例えばディヴィドソンのフィールド言語学を解釈したときに、それを自分の問題意識(ボキャブラリー)と結びつけて、出来事の再記述をしようとする点です。
「言語の歴史を、そして以上のようなわけで、芸術、科学、そして道徳感覚の歴史をメタファーの歴史とみなすということは、人間の心や言語が、《神》《自然》によって計画された目的にますますうまく適合してゆくという(たとえば、意味をさらにもっと表現してゆくとか、事実をさらにもっと再現してゆくという)、描き方をやめることである。」(37頁)
 「私たちは、メアリー・ヘッセに倣って、科学革命を自然のうちにある本有的特性についての洞察としてではなく、自然に関する『メタファーを駆使した再記述』として考察しなければならない。さらには、現代の物理・生物科学が提供する実在の再記述は、現代の文化批評が提供する歴史の再記述と比べて、何らかの形で『事物そのもの』により接近しているのであり、『心に依存する』ことがより少ないのだ、と考えたくなる誘惑に対して、抵抗しなければならないのだ。」(38頁)

 ローティは、ディヴィドソンの解釈からさらに進んで、言語の歴史の再記述を試み、さらに自然科学の歴史の再記述に進んでいます。そして、ローティが本当に述べたい事は、この見地から文化史を再記述することです。ローティは、文化史を再記述するに際し、まず方法について、次のように述べています。
「再現としての言語という考えを棄て去り、言語の論じ方において徹底的にヴィドゲンシュタイン的になれば、世界を脱―神聖化することになる。こうすることによって初めて、私が前に提示した議論――真理は文の属性であり、文はその存在をボキャブラリーに負っており、そして、ボキャブラリーは人間存在によってつくられているのだから、真理もまた人間存在によってつくられているのだという議論――を完全に受け容れることができるのだ。」(46頁)

 このローティの議論は、カントが物自体と現象とを区別し、現象を意識の圏にあるものと見なし、そしてそれが理性の法則によって組み立てられているとみる見方を受け継いでいます。ローティは、意識してはいませんが、現象を文と捉えている点に相異があるにすぎません。もっともこのように主張するためには、ローティのカント批判に言及しなければなりませんが、それは別の機会に論じることにしましょう。とまれこの方法にもとづいて、ローティは文化史についてのアウトラインを次のように描いています。
「17世紀になると科学が記述する世界を擬似的な神性とすることによって、私たちは神への愛を真理への愛に取り換えることを試みた。18世紀の終わりになると、私たちは科学的真理への愛を私たち自身への愛に取り換えることを試みた。つまり、今ひとつの擬似的な神性として、私たち自身の深層にある精神的あるいは私的本性の崇拝に取り換えようとしたのである。
 ブルーメンベルク、ニーチェ、フロイト、そしてディヴィドソンに共通する一連の思想が示唆するのは、もはや何者をも崇拝しない、何者をも擬似的な神性としない、すべてのもの――私たちの言語、良心、共同体――を時間と偶然の産物だとする地点にまで私たちが到達するよう努力すべきだ、ということである。」(47~8頁)

 独自の言語論を踏まえて、ローティは良心の偶然性と共同体の偶然性について論じていきますが、後者についてはすでに冒頭で検討したので、前者について、そのポイントだけを紹介しておきましょう。

12)自己の偶然性


 自己つまり良心の偶然性について、ローティは、主としてニーチェとフロイトについての批評を土台にして論じています。ローティによれば、ニーチェは、真理を知るという考えを丸ごと棄ててしまうべきだという提案を最初に行った人であり、それは言語によって、実在を再現するという考えを棄てるということに等しいのです。このようにニーチェは、真理についての伝統的な考え方を棄てておきながら、「私たちをいまある私たちたらしめている原因を発見するという考えを棄て去らなかった」(60頁)とローティは述べています。ニーチェは自己認識を自己創造と見なしましたが、これは自分自身を知る、自らの偶然性を直視する、自らの原因をしっかりと辿るという過程として意義を持ち、それは新しい言語、つまり新しいメタファーを考え出す過程と同じなのです。だからローティはニーチェの努力を「人が自分という存在の原因の根拠をしっかりと辿る唯一の方法は、自分の原因についての物語を新しい言語で語ることなのだ」(61頁)というように解釈し直し、ニーチェはすべての「あった」を「私はそう欲した」に再創造することを描いていたと述べています。
 他方、フロイトについては、良心の声とは両親と社会の声が内面化したものだという捉え方だけなら何も驚くべきことを述べたわけではないとしたうえで「フロイトの斬新さは、良心の形成をめぐる事柄について彼が与えた細部にある」(67頁)とローティは主張しています。つまり「フロイトは高きものと低きもの、本質的なものと偶有的なもの、中心的なものと周辺的なものに関する、伝統的な区別の一切を解体する。彼が私たちに残してくれたのは、少なくとも潜在的にはよく秩序づけられた諸能力の体系ではなく、偶然のかたまりとしての《自己》なのだ。」(69頁)というのです。
「フロイトは、公共的なものと私的なものと、国家の部分と魂の部分、社会正義の探求と個人的な完成の探求を統一しようとするプラトンの企てを放棄したのである。道徳主義とロマン主義の主張の拡大をフロイトは等しく尊重していたが、そのいずれかを優先したり、両者を綜合しようとしたりすることは拒絶した。自己創造という私的な倫理と、相互調停という公共的な倫理を峻別したのである。」(72頁)

 ローティによれば、このようなフロイトの解釈によって、カントやニーチエを再記述することが可能になります。ローティはこの見地からすれば、ニーチエの超人とカントの普通の道徳意識の両者が、人間が成長していく際の偶然に、人間が盲目の刻印に折り合いをつけていく際の偶然に対処するうえでの数ある適合形式のなかの二形式と捉えることができるようになる、というのです。
 ニーチェとフロイトについてのこのような解釈にもとづき、自己と共同体とが結びつきはしないことについての独自の見解をローティは次のようにまとめています。
「世界と自己の両者とも、私たちのうえに力――たとえば、私たちを死に到らせる力――を及ぼしている。無言の絶望や激しい精神的な苦痛は、私たちが自分自身を消し去ってしまう原因ともなる。だが、この種の力は、私たちがその言語を採用し、次にその言語を変容し、その結果私たちがそのしかるべき力と一体化し、私たち自身のより強力な自己の下にそれを包摂することによって、私たちのものとすることができる種類の力ではない。後者の戦略は、他の人格――たとえば、良心、神々、あるいは詩の先人――に対処する場合にのみ有効である。なぜなら世界、盲目の力、そして剥き出しの苦痛に対する私たちの関係は、私たちが人格を相手にして結ぶ種類の関係とは違うからだ。人間ではないものや言表不可能なものに直面したとき、私たちには専有や変換という手段によって偶然性や苦痛を克服する能力などなく、ただ偶然性と苦痛を承認する能力のみがあるにすぎない。」(84頁)

 ローティはここで二種類の力について述べています。その力の源泉は世界と自己であり、世界の力は盲目的たが、自己の場合は言語をうまく使うことでコントロールできる、というのです。この力の境界線が、自然と人間という区分では明瞭ですが、社会となるとあいまいになっています。ローティは一方で、社会に働いている盲目的な力の存在を認めていますが、他方で、自己が他の人格に対処する場合は別の力が作用すると述べているからです。
 結局ローティは、自己創造の領域と連帯の領域というように社会を二分しているのでしょうか。そして、連帯の領域は世界の領域であり、盲目的な力がはたらく場であると見ているのでしょうか。
 言語についてローティのように考えるのではなく、人間の社会関係として捉えると、もはや自己もローティのように自己創造をする自律した存在としては捉えられず、言葉の網の目にとらわれた社会関係の極として位置づけられることになります。そして近代に入って出現した資本家的生産様式が市場経済を発達させることによって物象的依存関係にもとづく人格的独立という事態が生み出され、単にイデオロギーのうえでの自己の自律がなされたのでした。そこで今問われているのは、単にイデオロギー上にとどまらない極の自律をつくりあげる社会システムであり、それがつくりあげられつつある、ということではないでしょうか。その場合、自己の自律ではなくて、私ときみとの唯一性の実現となるでしょう。ローティの議論にはこの予感がありますが、実はあげていないように思われます。




Date:  2006/1/5
Section: ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」を読む
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