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哲学の旅第6回 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を読む 第1章


哲学の旅第6回 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を読む 第1章


 1)はじめに
第1章 リベラルな社会と連帯
 2)リベラルな社会の構想 3)フーコー、ハーバーマス批判 4)連帯のイメージ
第2章 世界、真理、言語ゲームの変換
 5)世界と真理の在り方のちがい 6)真理は文の属性 7)ボキャブラリーを変えるための再記述の方法
第3章 言語論
 8)言語は媒体ではない 9)ディヴィドソンの解釈 10)ローティの問の架空性
第4章 文化論
 11)出来事の再記述 12)自己の偶然性

1)はじめに


 突然私のなかに飛び込んできたリチャード・ローティ。彼は、これまでの哲学者を二群に分けています。その尺度は、公共的なものと私的なものとを融合しようとする努力において人間には共通の本性があるという認識であり、この認識を土台にしている人たちと、この認識に懐疑的な人たちとに区分するわけです。ここまでは常識的な分類のように見えますが、ローティの特異性は、懐疑主義者もまたすべての人間存在に共通の何かがあると主張している、と見て、二つの群の共通性を示すとともに、新しい地平として、理論的なレベルでは公共的なものと私的なものを統合する方策は存在しない、と宣言している点にあります。

 ローティによれば、哲学は中世の神学的、形而上学的試みから、近代に入って人間性を社会化という歴史的なものに求める歴史主義への転換がなされたわけですが、この近代から現代の歴史主義の思想家たちもやはり二群に分けられてしまいます。キルケゴール、ニーチェ、ボードレール、プルースト、ハイデガー、ナボコフが懐疑主義者の側に連ねられ、「アイロニスト」と呼ばれています。他方、マルクス、ミル、デューイ、ハーバーマス、ロールズは、より公正で自由な人間共同体への欲求にとらわれている人々と見られています。ローティは、この二つの群の哲学者について、それぞれその存在意義を認めていますが、しかしそれぞれに対して一言苦言を呈しています。というのも、双方とも公共的なものと私的なものを結びつけようと努力しているからです。そこで、ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店)で自らの問題意識を次のように述べることになります。
「公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨て去り、自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、一体どういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。」(『偶然性・アイロニー・連帯』5頁)


 ローティは、この本の第1部偶然性で、言語と自己とリベラルな共同体、という三者についての偶然性について述べ、そして最終章で連帯について述べています。ここではまず、第1部第3章リベラルな共同体の偶然性でのローティの主張を紹介し、ついで第9章連帯での提案を見、そのうえで、この本の中心となっている第1章言語の偶然性について検討を加えることにします。

第1章 リベラルな社会と連帯


2)リベラルな社会の構想


 ローティが念頭においているのは、リベラルな社会です。哲学者が考えてきたような人間の共通の本性といったものが現実には存在せず、人間の生が常に偶然性にさらされている、ということを認めることから出発するローティは、従来の社会や共同体について語られてきたボキャブラリーとは別のボキャブラリーを使用することを提案しています。というのも、リベラルな共同体について述べようとするとき、合理的か非合理的かといった区別がかって考えていたよりもずっと役に立たなくなっているからです。この点についてローティは次のように述べています。
「個人にとってと同じく共同体にとって、進歩とは、旧来の言葉で表された前提からの論証という問題にかぎられず、新しい言葉の使用という問題でもあるのだ、ということをいったん理解しさえすれば『合理的』『尺度』『論拠』『基礎づけ』そして『絶対』といった考えを中心にすえた批判的なボキャブラリーが旧来のものと新しいものの関係を記述する上で、まったく不適切だということがわかってくる。」(106頁)

 合理的か非合理的か、という判断を社会に適用することは、その社会を論理でもって支配しようとすることに他なりませんが、ローティによれば、そのような社会こそ、リベラルが避けようとしている社会なのです。「リベラルな社会という考え方の中心にあるのは、行為ではなく言葉、強制ではなく説得が維持される限り、なんでもありだというこのとなのだ」(112頁)とローティは述べています。ここでローティは「行為ではなく言葉」と言うことで論点をずらしています。というのも論理の支配は言葉ではなく行為に伴なうものだからです。ここではこの点を指摘しておくだけにし、ローティの展開をもう少し追っていきましょう。
 ローティは、デューイやオークショットの道徳論を引用しつつ、道徳性ということと思慮とを区別したり、道徳的という用語自体が役に立たなくなっているとして次のように述べています。
「私の議論は、ここでオークショットが当然視している、よく知られた反カント主義的な主張に向かうことになる。つまり、『道徳原理』(定言命令、効用原理等)は制度、慣行、そして道徳・政治的な考慮のボキャブラリーといった領域全体に対する暗黙の指示と一体となっているかぎりでのみ、有意義になるのだという主張に、である。道徳原理とはこのような慣行を思い起こせるもの、短く言い換えたものであり、それを正当化するものではない。」(125頁)

 このように道徳原理によって正当化された道徳を認めない、とすれば、道徳性とは一体どうなるのでしょうか。この問に対し、ローティは「道徳性を私たちのなかにある神的な部分の声だと考えることをやめ、その代わりに共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ、私たちは『道徳性』という考えを維持することができる」(125頁)とするオークショットの解答を支持しています。そして、オークショットに倣って、新しい社会のイメージを次のように提起しています。
「以上のような考え方の転換がもつ重要性は『私たちの社会は道徳的な社会なのか』という問を不可能にする、という点にある。つまり、私に対して私の共同体が存在するのと同じ仕方で、私の共同体に対して存在するもの、すなわちある本有的特性をもつ『人類』と呼ばれるもっと大きな共同体があると考えることを不可能にするのである。このような転換が相応しい社会が、オークショットが統一体(ウニウエルシタス)に対置して社交体(ソキエタス)と呼んだもの、つまり、共通の目標によって統一された仲間意識をもった一団ではなく、互いを保護し合うという目的のために協力している、同調を避ける人々の一団として理解されている社会なのだ。」(126頁)

 ローティが構想するリベラルな社会とは、共通の目標によって統一された仲間意識をもった一団ではなく、同調を避けたい人々が互いを保護し合うという目的だけのために協力している社会だ、ということになりますが、このイメージは、かってのイギリスでの自由放任主義のイデオロギーが支配的だった頃の夜警国家論を思い起こしてしまいます。それはともかく、私がこのローティの社会論に興味をもったのは、同調を避ける人々の協力を、互いに保護し合う、という政治的なところに置くのではなく、新しいタイプの事業という経済的なところに置くと、そこに協同主体論が描き出されてしまう、という点でした。
 ローティは全然気付いていないことですが、同調を避ける人々が何故互いを保護し合うという政治的責務を負わねばならないか、と言えば、経済システムがそうさせているのです。とすれば、別の経済システムで協力し合えば、この政治的責務が無用のものとなる可能性が開けてきます。ローティのリベラルな社会論を踏み台にして、この別の地平へとたどり着けないか、ということが私自身の関心です。

3)フーコー、ハーバーマス批判


 とまれ、もう少しローティに付合ってみましょう。ローティはリベラルな社会について、次のように定義しています。
「リベラルな社会とは、その理想が、強制によってではなく説得によって、革命によってではなく改良によって達成可能になる、そして現行の言語慣行やその他の慣行と新たな慣行への示唆との自由で開かれた出会いによって達成可能になる、そういう社会のことなのだ。」(128頁)
 「要するに、私の言うリベラルなユートピアの市民とは、道徳上の熟考をする際の自分の言語が、したがって自分の良心が、さらには自分の共同体が偶然性を帯びているという感覚をもつ人々なのである。」(130頁)

 このような観点から、ローティは、主としてフーコーとハーバーマスの諸説の批判を展開しています。ローティによれば、フーコーはニーチェを発想の源とし、ハーバーマスは伝統的な西欧哲学の「主観中心的理性」に対するニーチェの批判の意義を認めつつも「主観性の哲学」を「間主観性の哲学」に置き換えようとしています。
 つまりハーバーマスは「理性を人間の自己に内蔵された構成要素ではなく、社会的な規範が内面化されたものと解釈しようとしている」(132頁)のに対し、このハーバーマスに対するフーコーの対応は「この社会の欠点を、つまり、自己創造や私的な企図の余地を民主的な社会が許さないやり方を指摘するということ」(132頁)だというのです。
 ローティはフーコーとの違いについて、フーコーは、自由な社会が形成されたことで前近代の社会が夢想だにしなかった類の抑圧を押し付けていることを解明し、告発しようとしているが「このような苦痛の減少こそが、実際に以上のような抑圧を償っている」(133頁)と主張し、さらにフーコーは現存の社会を変えるためには何らかの激変が必要だという確信をマルクスやニーチエと共有している、と述べています。
 フーコーやマルクスやニーチェが考えている「全体革命への希求」は「リベラル・デモクラシーの市民のあいだで、私的な生のためだけに確保されるべきだと、私は考えている。ニーチェ、デリダ、あるいはフーコーのような自己創造のアイロニストが求める類の自律とは、社会制度のなかにそもそも具体化できる種類のものではない!」(136頁)
 この考えはなかなか面白い。個々人がどのような革命的なことについて考えるかは自由だが、決してそれを政治的な方針にしないでほしい、というのです。だからローティはこのような人たちに向かって「つまり、本物であることと純粋であることを求めるニーチェ、サルトル、フーコー的な企てを、残酷さを避けること以上に重要な社会的目標があるなどと考えてしまう政治的態度に転化することがないよう、私事化せよ」(136頁)と言うのです。
 ローティは、フーコーに対して、自閉しなさい、と忠告したあと、返す刃でハーバーマスを取り上げています。ローティによれば、ハーバーマスはフーコーが恐れたものよりも自分自身の自律が組織の中に反映されているのを見たいと望むフーコーのような人々を恐れているとされます。そして、この「二組の恐れに対するハーバーマスの対応は同じものである。この両者から生じる危険は、公共の制度と政策の変更に関する決定は『支配から自由なコミュニケーション』のプロセスを通じて形成されれば避けることができる」(138頁)とハーバーマスは考えている、というのです。
 ハーバーマスの考え方に対して、ローティはそれがリベラルの立場をうまく表現したものであることを認めており、政治的には自分の立場と一致していることを認めた上で、「リベラルな文化は、詩化された文化になるだろう」というローティ自身の考え方とは哲学上の差異があると述べています。というのも、ハーバーマスは「いまだに歪みなきコミュニケーションのプロセスが収斂するものであると、そしてこのような収斂はこのコミュニケーションがもつ『合理性』を保証するものであるとみなすことに固執している」(139~40頁)からです。
「問題となっているのは調停だけであって、綜合ではない。私のいう『詩化された』文化とは、人が自らの有限性をどう用いるかという私的なやり方と、他の人間存在に対してその人が感じる義務とを結合しようとする試みを放棄してしまった文化なのである。」(141頁)

 ローティの主張は、20世紀の共産主義運動がもっていた思想への批判という限りでは当っています。レヴィナスが西欧哲学の存在論の批判として展開した内容と同じ次元の批判がそこで展開されているからです。とはいえ、ローティからすれば、レヴィナスもまた、何かの激変を期待している思想家に加えられることでしょう。レヴィナスとローティの差異についてはレヴィナスの言語論を検討する際に言及することにし、次に、ローティの連帯論を見てみましょう。

4)連帯のイメージ


 連帯について述べるにあたり、ローティは伝統的な哲学のやり方での説明と自分の見解とを対比することから始めています。伝統的な説明によれば、人間の連帯とは「私たち各人のうちには他の人間存在のうちにも存在するそれと同一のものと共鳴する何か――私たちの本質的な人間性――がある」(395頁)ということになります。だから、連帯をしない人間に対しては、「非人間的だ」という非難をすることになります。この考え方を否定したローティは「偶然性を強調し、したがって『本質』『自然』『基礎づけ』といった観念に反対してきた」(396頁)わけですから、「非人間的」といった観念を維持することができなくなっています。
 ローティは正しくも「私たちは、歴史や制度を超えた何かを求めないようにしよう」(396頁)と述べているのですが、この見地からの連帯のイメージは、リベラルなアイロニストのイメージであって、それは「あらかじめ他者と共有する何らかの認識ゆえに人間の連帯の感覚をもつのでなく、他者の生の具体的な細部との想像上の同一化によってその感覚を得るような人物のこと」(397頁)とされています。
 ではこのようなリベラル、アイロニストの描く連帯観とはどのようなものでしょうか。ローティ自身によるいくつかの定義を紹介してみましょう。
「私の立場が含意するのは、連帯という感情は必然的に、どのような類似性や非類似性が私たちによって顕著なものとして感じられるかということにかかわっており、何が顕著なものとして感じられるかは、歴史的に偶然的な終極のボキャブラリーのはたらきに依存しているということである。」(400頁)
 「連帯とは伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならば、さほど重要でないと次第に考えていく能力、私たちとはかなり違った人々を『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えていく能力である。」(401頁)

 このローティの主張は、差異を強調し差異に権利を与えることを目指すラディカル・デモクラシーとは正反対の立場に立っています。この点は、ローティの近著『われわれの国を仕上げる』(未翻訳、概要は、渡辺幹雄『リチャード・ローティ――ポストモダンの魔術師』春秋社、参照)で展開されていますが、今回は取り上げません。最後に、ローティ自身の要約を引用しておきましょう。
「要約しよう。私は『人間性そのもの』との同一化としての人間の連帯と、民主的な諸国家に住まう者たちにこの数世紀を通じてしだいに浸透してきた自己懐疑としての人間の連帯とを区別したい。それは、他者の苦痛や辱めを察知する私たち自身の感性への疑い、現在の制度的な編成がそうした苦痛や辱めに適切に対応し得ているかどうかへの疑いであり、それ以外の可能なオルタナティブへの関心である。私には『人間性そのもの』との同一化は不可能であるように思える。それは哲学者が発明したものであり、人間が神と一体になろうという観念を世俗化しようとする危険な試みに過ぎない。……私自身の用語で言い換えれば、それは、あなたと私は同一の終極のボキャブラリーを共有しているかどうかという問と、あなたは苦痛をこうむっているのかどうかという問とを区別する能力である。こうした問を区別することによって、公共的な問と私的な問、苦痛についての問と(個々の)人間の生の核心についての問を区別することが可能になり、リベラルの領域をアイロニストの領域から区別することが可能になる。そうした区別をおこなうことによって初めて、一人の人間が同時にリベラリストでありかつアイロニストであることが可能になるのである。」(411~12頁)

 ローティはまじめに人間の連帯とは何かという問に取り組み、そして伝統的な左翼の発想に対して気後れせずに「人間性そのものとの同一化は不可能だ」というとき、その批判は一定の正当性をもっています。しかしどうすればいいのか、という問題に入ると、公共的な問と私的な問との区別、つまりは人々が持っている共通のボキャブラリーを共有しているか、という問と他者が苦痛をこうむっているかどうかという問とを区別する、というところに落ち着き、他者の生の具体的な細部との想像上の同一化、といった感覚的な提起に終わってしまいます。
 ローティの連帯論が感覚的なものにならざるを得ない原因は、社会が何によってまとめられているか、ということについての独自の見解にあります。ローティは、リベラルな社会が哲学上の信念によってまとめあげられているわけではない、という正しい見地に立ちながらも、自説を展開するとなると「社会をまとめあげているのは共通のボキャブラリーと共通の希望である。そして、そのボキャブラリーの特徴は、この共通の希望を養分にしている。」(177頁)といったことを主張しています。ローティは、リベラルな社会をまとめあげているものが商品や貨幣や資本といった人々の経済的関係であることについては完全に無視しています。というのも、ローティは「人間が使っている言葉や記号こそ人間自身である」とするパースの言語論に依拠し、「人間の自己はボキャブラリーのなかで適切あるいは不適切に表現されるのではなく、むしろ、ボキャブラリーの使用によって創造されるのだ」(20頁)といった言語観を持っているからです。
 というわけで、ローティの奇妙な連帯論の土台にある言語論の検討に移りましょう。




Date:  2006/1/5
Section: ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」を読む
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