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哲学の旅 第1回 西田哲学(1) 第1章


哲学の旅 第1回 西田哲学(1) 第1章


 序文
第1章『善の研究』を読む
 1)冒頭文節への違和感 2)西田の発想の基本 3)媒介者の哲学 4)媒介者は絶対者
第2章 梯明秀の場合
 1)西田哲学の把握 2)マルクスの理解の仕方
第3章 梅本克己の場合
 1)無の弁証法の観念性への批判 2)人間の自由を求めて 3)無の弁証法の改作 4)梅本主体性論の本領

序文


 なぜ、いま哲学の旅なのか。『ソフィーの世界』にあやかりたい、という気持ちはないことはないが、旅の目的はもっと別のところにある。
 ここ10年来、商品の価値形態の論理を誰にでもわかるように展開するためには弁証法の論理の発展が必要だと考えていた。マルクス『資本論』の解釈や、また価値形態の研究者の理解への批判という形ならいくらでも述べられるが、この形では誰にでもわかる、ということにはならない。
 そこで商品の価値形態の論理をそれとして記述しようということになるのだが、そこで出てくる困難は、既成の理論や論理とは異なるものを展開しなければならない、ということだ。それらについて定言命題的に述べるのは簡単だが、そうした場合異和感が先立って、理解されないことになる。
 というわけで現代の哲学や思想の第一線を旅し、その問題意識を一歩進めれば商品の価値形態の論理に到達するという見通しを立てて探求をはじめることにした。
 最初の旅は西田哲学である。西田幾太郎については、梯明秀や梅本克己や黒田寛一を通じての知識はあったが『善の研究』も含め、未読だった。ただ、主体と客体とを分離し、客体を外からながめる、という方法を批判し、世界の中に自己をも歴史をつくる一要因として含めた存在の構造を問題にした、という点が最近評価されているということについて、自らたしかめてみたい、という気持ちがあった。
 また、農文協から次々と著作を発表している根井康之の『生態系と文明系』(農文協)を手にとったとき、それが西田哲学の論理を借りていることについて驚き、あらためて根井の著作を調べてみると、彼が西田哲学を継承発展させようとする立場であることが判明した(『西田哲学で現代社会を観る』という本も出している)。
 西田哲学の個々の論理は別にして、全体としての評価は定まっていると考えていたが、それではすまない事態が進んでいたのだ。ということで、西田哲学の旅は、単に商品の価値形態の論理との関連にとどまらない意義が加わることになった。その結果知行合一や主体性の問題をも含めて再検討することになる。先き行きの不透明さを反映して宗教の時代となった現在、一般には宗教哲学として見られている西田哲学の旅は意外に的を得たものなのかも知れない。

第1章『善の研究』を読む


1)冒頭文節への違和感


 『善の研究』第一編純粋経験冒頭に、「経験するといふのは事実其ままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである」(全集1、9頁)という一句が出てくる。まず、こんなことは不可能だ、という考えが頭をよぎる。事実其ままに知るというようなことが言えるとすれば、知を理性としてではなく、もっとファジーなものと捉える他はない。
 それはともかく、そのすぐあとに純粋経験の説明として「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である」(9頁)という言葉が出てくる。そして、ここで述べられている主客の合一ということにつき、西田は「凡ての精神現象がこの形に於いて現はれるものであると信ずる」(10頁)という。
 思惟や意志がどういう意味で主客合一であるかの説明は聞かないことにして、次に第2編実在に移ろう。上山春平(『日本の名著西田幾多郎』解説)や鈴木 亨(『西田幾多郎の世界』)によれば、この第2編に西田哲学の本領が含まれているという。

2)西田の発想の基本


 第2編 実在、は10章から成る。それぞれ次のような項目となっている。
 (1)考究の出立点
 (2)意識現象が唯一の実在である
 (3)実在の眞景
 (4)眞実在は常に同一の形式を有している
 (5)眞実在の根本的方式
 (6)唯一実在
 (7)実在の分化発展
 (8)自然
 (9)精神
 (10)実在としての神
 この項目だけを一瞥しただけで、何となく西田の言わんとするところがわかる。例えば、「意識現象が唯一の実在である」と言うとき、そこには実在とは主・客合一にあり、そして、主・客合一の形式は意識現象しかありえないから、この意識現象こそが唯一の実在であり、その実在の根本は自然と精神を合一した神にある、というわけだ。つまり西田の実在論は神の存在証明となっているのだがそれを哲学で、つまり論理的に究明しようとしたのだった。その手際を見てみよう。
 まず西田が考究の出立点においたものは、知行の合一である。
「社会はこの様なもの、人生はこの様なものという哲学的世界観及び人生観と。人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持って居る。……知識においての眞理は直に実践上の眞理であり、実践上の眞理は直に知識に於いての眞理でなければならぬ。深く考える人、眞摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。」(46頁)

 西田によれば、哲学的世界観とは世界はこの様なものと捉えることであり、そこからは実践的要求がおのずからわき出てくるような知識でなければならない。ところが通常の哲学は、主体と客体とを区別したまま、もっぱら客体についての知識を追求しているが、ここからは人生いかに生きるべきかは判明せず、従って実践的要求がわいてこない。客体を実在と見るか、主体を実在と見るかで、唯物論と唯心論の対立があったが、双方とも実在をどう捉えるかで誤りをおかしている。主・客の合一こそが実在の形式であるという立場からこそ、知行の合一が生まれてくると考えるとき、哲学の出立点は何におかれるべきだろうか。
「さらば疑うにも疑い様のない直接の知識とは何であるか。そは唯我々の直感的経験の事実即ち意識現象に就いての知識あるのみである。現前の意識現象と之を意識するといふこととは直に同一であって、其間に主観と客観を分かつこともできない。事実と認識の間に一毫も間隙がない。眞に疑うに疑い様がないのである。」(48~9頁)

 この出立点は第1編純粋経験のところで、説明されていたものである。つまり西田の発想は、唯物論と唯心論を止揚した第三の哲学としての主・客合一の哲学の出立点には、主・客合一の形式の最も単純でかつ原初的なものをおかねばならない、ということであり、それが純粋経験だった。
 この純粋経験は、ヘーゲルの『精神現象学』にある感覚的確信に相当する。ヘーゲルは感覚的確信はその内容が具体的で無限の豊かさをもつように見えるのでもっとも真実なように見えるがしかし実際にはこの無規定な具体性はかえって抽象的で貧弱な真理でしかないと見、感覚的確信が知っているのはただ「それが存在する」ということだけであり、また意識としても、ただそれが純粋な自我であるにすぎないと見て、それが知覚へ、さらには悟性へと自己を深めていく過程を描き出した。
 これに対して、西田は主・客を区別することを拒否する。従って存在と意識との関係を見ない。この主・客合一の立場からすれば、純粋経験はそれ自体として発展しようがない。その限りで、人にとってそれが最も豊かな知識となり、あれこれ思惟することは、主・客合一を破壊することになるから、純粋経験の実在性よりもその確実性においておとる、ということになる。
 従って西田は「斯の如き直感的経験が基礎となって、其上に我々の凡ての知識が築き上げられねばならぬ」(49頁)というのだが、この「凡ての知識」がおよそ西田個人にとっての知識でこそあったとしても、それが具体的なものであるために他人に理解されるような言葉や論理としては展開できず、他人にとっての知識にはなれないということを身をもって証明したのが彼の一生だったという気がするが、こう断じれば身もフタもないのでもうすこしつきあうことにしよう。

3)媒介者の哲学


 さきに主・客合一の純粋経験を出立点として確認した西田は、次にこの意識現象こそが実在だという。
 物が独立して存在するという見解に対しては、意識現象が結合されて、独立した物の存在を仮定しているだけで、結合された意識現象の方こそが根本的事実だと主張し、またこの世界には精神しか存在しないという見解に対しては、思想感情が個人的な物でありながらも一般的である点をもち出し、この意識を一般的にする潜勢的一者の存在を理由にこれを否定している。この潜勢的一者とはさしあたって活動として捉えられる。
「我々がまだ思惟の細工を加えない直接の実在とは如何なる者であるか。すなわち眞に純粋経験の事実といふのは如何なる者であるか。此時にはまだ主・客の対立なく、知情意の分離なく、単に独立自全の純活動あるのみである。」(58頁)
 「我々の意識は始終能動的であって、衝動を以て始まり意志を以て終わるのである。それで我々に最も直接なる意識現象はいかに簡単であっても意志の形を成して居る。即ち意志が純粋経験の事実であるといわねばならぬ。」(59頁)
 「かくの如く主客の未だ分かれざる独立自全の眞実在は知情意を一にしたものである。眞実在は普通に考えられて居る様な冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。それで若しこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。」(60頁)

 主体と客体とを区別し、それぞれ対象化し、双方の関係を論じていく立場を拒否した西田は主客合一の場に活動を見た。この活動は意識をつき動かす衝動だが意識そのものではなく、また客体なしに活動はないが、客体そのものではない。つまり西田は主・客を項とする関係の中に関係を見ず、媒介者を見ようとしたのだった。
 西田にとってはこの媒介者(活動)こそが具体的なものであり、主・客合一の真であり、人をして衝動から意志の形成にまでつき動かす当のものである。だから、一たん主・客を分離し、客体を分析して得られる抽象的概念への不当とも見られる嫌悪感をまる出しにしている。西田の抽象的概念への不信はさらに続く。
「上にいった様に主客を没したる知情意合一の意識状態が眞実在である。我々が独立自全の眞実在を想起すれば自ら此の形に於いて現はれてくる。此の如き実在の眞景は唯我々が之を自得すべき者であって、之を反省し分析し言語に表しうべき者ではなかろう。」(63頁)

 実在の眞景は自得すべきで、言語に表すべきではない、というとき、そこには修業あるのみとなる。言葉で伝えられるものは「唯抽象的空殻」だとすれば、西田にとってこの「実在の成立する形式」を考えることだけが哲学の仕事となる。あるいは、西田哲学は西田自身の修業に他ならず、人に伝える成果物としては無であるのかも知れない。

4)媒介者は絶対者


「独立自全なる眞実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先づ全体が合蓄的に現はれる、それより其内容が分化発展する、而して此分化発展が終わった時実在の全体が実現され完成されるのである。一言にていえば、一つのものが自分自身にて発展完成するのである。」(63頁)

 これが西田の弁証法である。西田にあっては弁証法は対象の運動のうちから導くものではなくて、概念に対して外から与えられる形式として扱われている。そして、実在に対してこの様な同一の形式を与えるものが、眞実在の根本的方式とされる。
「先ず凡ての実在の背後には統一的或者の働き居ることを認めねばならぬ。……然るに一つの物が働くといふのは必ず他の物に対して働くのである、而して元には必ず此の二つの物を結合して互いに相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、……かくの如く凡て物は対立に由って成立するといふならば、其根底には必ず統一的或者が潜んで居るのである。」(67~8頁)

 先まわりして言えば、この「眞実在の根本的方式」たる「統一的或者」とはそれこそが「唯一実在」で、自然と精神の「統一力」であり、「独立自全なる無限の活動」であってこれこそが「神」だということになるのだが、この西田の主張は聞かず、ただその論理展開についてだけ検討してみよう。
 その際西田が自ら「悪戦苦闘」と表現している長大な論文の脈絡をたどることはあまり意味がない。というのも西田哲学は問題意識は一貫しているが、論理的整合性はないからだ。そこで次には迂回して、主として西田哲学に影響を受けた唯物論者達の西田受容のあり方を検討し、彼らにとって魅力のあった西田の論理をとりだし、そのうえで西田の論理に再度向き合うことにしよう。




Date:  2006/1/5
Section: 西田哲学
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