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哲学の旅 (続)カント研究序説 第6章


哲学の旅 (続)カント研究序説 第6章


はじめに
第6章 物自体論の批判
 1)超越論的仮象論再説 2)アンチノミ-の理念論的展開 3)自然と自由 4)人間の条件としての理性 5)人間の理性も超越論的仮象 6)物自体論の破錠

はじめに


 カント研究序説はあれで完結させることにしていましたが、スタデイユニオンのセミレクチャ-でカントについて発表の機会を与えられましたので、カントの物自体論の批判を試みてみました。カントについては全くの素人ですから、カント哲学批判について独立の論文を書くには準備ができていません。それで「カント研究序説」の続編として書くことにしました。

第6章 物自体論の批判


1)超越論的仮象論再説


 カント哲学の批判を試みるにあたり、もう一度カントの根本思想である超越論的仮象論に立ち帰りましょう。
「超越論的仮象は、仮象であることがすでに発見され、またその取るに足らないものであることが超越論的批判によって明らかに見抜かれても、それにも拘らず依然として仮象たることをやめないのである。」(『純粋理性批判』岩波文庫中巻、15頁)
 「超越論的弁証論において我々が取扱うのは〔人間理性にとって〕自然的な、従ってまた我々にどうしても避けることが出来ないような錯覚である。そしてこの錯覚は、もともと主観的原則に基づくものであるにもかかわらず、これを客観的原則とすりかえるのである。」(同、16頁)

 すでに『判断力批判』の自然の合目的性について見てきた上に立てば、カントの超越論的仮象論の言わんとしているところは明らかですね。もちろん『判断力批判』はずっと後に書かれたものであって、『純粋理性批判』が書かれたときには存在していなかったものですが、カントは超越論的仮象論の立場を自然についての認識能力の批判にまで展開したのでした。
 カントによれば、自然の合目的性とか合法則性と述べるとき、それは超越論的仮象に則した言い方なのですね。だから自然に属しているかのように見える合目的性の原理や合法則性は人間の思考(反省的判断力)の原理に他ならなかったのです。そして、人間は自分の思考に属している合目的性や合法則性が実は自然そのものもそのようにあると仮定することによってしか自然を認識できないのでした。
 同様の思想は『純粋理性批判』にあっても既に述べられています。人間が、自然に属するかのように錯覚している自然法則とは、生起する一切のものはいずれも原因をもつ、というものですが、カントによれば「現象はかかる自然法則によって初めて自然となりまた経験の対象たりうる。なおこの法則は悟性の法則である。」(同、215頁)とされているのです。
 つまり、カントは現象のみならず、合目的性や自然法則も、それが自然に属しているようにしかみえないにもかかわらず、このように見えるのは錯覚であって、じつは人間の思考に属しているものだと主張しているのですね。このことが『純粋理性批判』第2版序でカント自身が述べているコペルニクス的転回の内容であって、この地平に立つことでカントは従来の形而上学のアポリアを超えたのでした。カント自身は序で次のように述べています。
「もし直観が、対象の性格に従って規定されねばならないとすると、私はこの性質についてア・プリオリに、何ごとかを知り得るのか判らなくなる。これに反して(感覚の対象としての)対象が、我々の直観能力の性質に従って規定されるというなら、私には直ちにこのことの可能がよく判るのである。」(同、上巻、33頁)

 カントがなしとげた事は、感覚の対象が人間の認識能力に従って規定されると仮定することで、人間の認識能力について述べることが可能になり、それを理性批判として展開したのですね。

2)アンチノミ-の理念論的展開


 さて、カントは純粋理性の四組のアンチノミ-(二律背反)を提出し、正命題と反対命題が同じように証明できることを示しています。例えば第一命題は時間と空間に関するもので、次のように両命題が提出されています。
 正命題 「世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する」
 反対命題「世界は時間的な始まりはもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。」(中、106頁)

 カントはこの相反する命題を同程度のたしかさで証明してみせるのですが、そうすることによって、自身の超越論的仮象論の正当性を主張しようとしているのです。というのも、もし人間の認識が客観に属するとすれば、それはどちらかの命題に一義的に決定されてしまうことになります。そこでカントは人間の認識が客観に属するのではなく、主観に属するとすることでアンチノミ-の成立を承認したのでした。では何故人間の認識に正反対の命題が成立し得るのでしょうか。カントは自らが独断論と名づけている正命題が選ばれる際には三つの関心が関与していると見ています。ひとつは実践的関心(カントにあっては道徳と宗教のことですが)であり、二つ目は理論的関心であり、三つ目は通俗性を意味する常識的関心です。反対命題をカントは経験論と名づけていますが、これは一定の制限を守れば独断論の毒を解毒する役割をはたせるものとみなされています。
 ところでカントはデタラメに四つのアンチノミ-をとりあげたのではありません。これら宇宙論的問題とはカントにあっては経験を超えたものであり、従って問題解決を経験によってなしとげることができないものなのですが、しかし、これらの問題自体を現象とみなすと、これは実は人間の思惟であり、それは物自体としての人間の心に由来しているものなのですね。だから、逆に見れば、宇宙論的問題は人間の理念が原因となって提出されているのですね。だから、カントは、アンチノミ-の問題を理念論として捉えることで現実的な解決をもたらしうると考えたのでした。
 そこでカントは人間の理性にたいする懐疑論の立場を導入し、アンチノミ-が単に思考によって作り出された空虚な概念を根拠にしているのではないか、という疑念を提出しています。この疑念に対して、カントは「空間そのものもまた時間も、それからこの形式と共に一切の現象も、それ自体物ではなくてまったく表象にほかならない、つまりこれらのものは、我々の心意識のそとには決して実在しえない」(中、169頁)と論じることで疑念を封じ込んでいます。つまり四つのアンチノミ-は、現象やその一切を総括する感覚界を誤って物自体と捉えてしまうと、それはごまかしの詭弁ではなく、人間理性の自然的本性にもとづく根拠のある主張となるからなんです。
 カント自身はもっと細かく論理だって論じていますが、人間が世界を認識しているとき、この世界は現象であり、人間の主観に属し、人間の思惟の法則に支配されたものであって、この世界は決して物自体ではない、そして、この世界を誤って物自体とみなすことからアンチノミ-が生じる、というカントの説明はなかなか説得力があります。ではこのカントの自信作である物自体論はどこが間違っているのでしょうか。

3)自然と自由


 カントの物自体論の批判を試みようと意図するとき、やはり自由を論じた第三アンチノミ-を検討することから始めるべきですね。カントは第三アンチノミ-の正、反命題について、それぞれ次のように述べています。
正命題「自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯-の原因性ではない。現象を説明するためには、その他になお自由による原因性をも想定する必要がある。」(中、126頁)
 反対命題「およそ自由というものは存在しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。」(中、126頁)

 ここでカントは自由を持ち込むことで単なる自然法則だけでなく、人間の社会の問題、人間の実践の問題を論じようとしています。カントによれば生起するものには二通りの原因があり、それらは自然による原因性か自由による原因性とされます。この自由とは宇宙論的意味にあっては、或る状態をみずから始める能力という超越論的理念であって、経験から得られたようなものを何一つ含んでいないし、またこの理念の対象はいかなる経験においても規定されないし、また与えられないとされています。次に自由という実践的概念、つまり意志の自由は、意志が感性の衝動による強制にかかわりないものとみなされ、この概念はさきの理念にもとづくものとされています。
 カントは自然と自由、つまり必然性と自由についての従来の難問を解くことから始めていますが、それについてはふれないでおきましょう。それよりも重要なポイントは、カントが自由を論じるにあたり、「可想的」という考え方を新たに導入していることです。
「感官の対象に具わっていて、しかもそれ自身は現象でないところのものを、私は可想的と名づける。」(中、211頁)

 この可想的なものを導入することで、人間の感官によって捉えられて現象となるその物自体の原因性が二つに分けられることになります。つまり可想的原因性と感性的原因性です。カントはここで単なる表象としての現象の根底にある超越論的対象(物自体)に、現象として現われるという性質の他に、その結果が現象のうちに見出されるにせよ、それ自身は現象でないような原因性を認めたわけです。ところでカントにあっては人間も物自体でした。そうすると感覚界の主体としてある物自体としての人間には第一に経験的性格を認め、第二に可想的性格を認めることになります。カントの言うところを引用しておきましょう。
「そこで我々には、感覚界の主体(訳本は主観)即ち感性的主体に――第一に経験的性格を認めることにしよう、そうするとこの性格によって主体の行為は現象として、恒常不変な自然法則に従って諸他の現象と全般的に関連し、また行為の条件としてのこれらの現象から導来せられ得るだろう、従ってまたこれらの現象と結合して自然秩序という唯一の系列の諸項をなすであろう、――また第二に我々は、この同じ主体に可想的性格を認めねばならないだろう、かかる性格によってこの主体は、なるほど現象としてのこれらの行為の原因ではあるが、しかしこの可想的性格自身は現象ではない。すると我々は、第一の経験的性格を現象におけるかかる物〔現象としての『私』〕の性格と名づけてもよいであろう。」(中、212頁)

 このようにカントは主体としての人間に現象としての性格と物自体としての性格を見出し、前者を経験的性格と規定して自然法則の領域に、後者を可想的性格と規定して自由の領域に区分していきます。ここで重要なのは、人間についての後者の規定ですね。
「全自然は、感官によってのみ人間に開顕されるが、しかし人間は自分自身を感官によるばかりではなく、また純粋な統覚によっても認識する、しかも感覚の印象とは見做し得ないような行為や内的規定において自己を認識するのである。要するに人間は、一方では確かに現象的存在であるが、しかし他方では――即ち或種の能力に関しては、まったく可想的な対象である、かかる対象としての人間の行為は決して感性の受容性に帰せられないからである。我々はこのような能力を悟性および理性と名づける、とりわけ理性は、経験的条件を付せられている一切の力から区別せられる、そしてこの区別はまったく独自でありかつ、極めて顕著である。理性はその対象を理念によってのみ考察し、また悟性を理念に従って規定するからである、そうしてから悟性は、みずからの概念を経験的に使用するのである。」(中、218~9頁)

 カントは自然と自由を論じるところで、物自体としての人間の可想的性格を悟性や理性、とりわけ理性に求め、この理性の力に自由を認めました。カントの理性論については項をあらためて見てみましょう。

4)人間の条件としての理性


 カントは理性の働きを二つに区分しています。一つの働きは経験的に使用される場合でこれは理性の本来の道です。他方超越論的に使用される場合があり、この場合には自分の特殊な道を歩む(中、232頁)とされています。
 この理性の二つの働きは、現象としての人間と、可想的性格をもつ物自体としての人間との区別に対応しているのですね。可想的性格ということから由来している理性とは「経験に与えられたところの根拠には一歩も譲らず、また現象としての物の秩序に従うことを肯んじない。理性は、まったく自発的に理念に従って独自の秩序を形成し、この秩序のなかへ経験的条件を適合せしめるのである。」(中、220頁)というように捉えられています。
 でも他方、経験的性格をもち、現象としてあらわれる人間については自由とはみなされないのですね。この点についてカントは「現象界における人間の一切の行為は、彼の経験的性格と自然の秩序に従って共に作用するところの諸他の自然原因とによって規定せられているわけである。」(中、221頁)と述べています。ところが人間の行為を理性に関して考察するならば、それは自ら行為を産出する原因としての実践理性としてあることになり、そこには「自然秩序とはまったく類を異にする規則と秩序を見出す」(中、222頁)ことに、なるというのです。
 つまりカントにあっては人間そのものは現象なんですが、「理性自身は現象ではない」(中、224頁)のですね。というのも理性の力は物自体としての人間の可想的性格に由来し、この「可想的性格なるものを知っているのではない」(222頁)が、しかしそれは直接現象とはならずに、その結果が現象に表れているものなんですね。つまり、時間とか空間といった人間の主観に属する形式はカントにあっては物自体に属するものではないから、人間の主観のうちにある現象としての物がもつ時間と空間という形式は、物自体とその人間の可想的性格、そもそも知ることはできないその性格に由来する理性の力にもとづくものなんですね。
 このような理性理解にたつ限り、カントは人間の条件をこの理性に見出すことにならざるを得ません。カントは「理性は、意志の一切の行為の常住不変な条件であり、人間はこの条件のもとで現象として現われるのである。」(中、224頁)と述べています。

5)人間の理性も超越論的仮象


 カントはこのように人間の条件を理性に求め、この見地から、『実践理性批判』と『判断力批判』を書き上げていきます。カントの人間論を問題にする限り、『純粋理性批判』だけに止めるわけにはいかないのですが、カントの物自体論の批判という限りではこの次元の人間論で十分でしょう。
 カントの説を要約すれば、人間も心という見地からすれば物自体ですが、この物自体としての人間は、感官に捉えられて単なる表象としての現象として現われる外に、可想的性格をもっているのです。そしてこの可想的性格とは感官で捉えられないので現象にはなりませんが、しかしその結果は現象にあらわれてくるのですね。この可想的性格は何かを生起する力としてある悟性や理性のことで、この力によって時間と空間というアプリオリな表象が人間の直観に付着し、こうしてこれらは表象としての現象を可能にするのでした。
 このカントの説明はたしかにうまく出来ていますが、しかし、よく考えてみるとこのカントの人間論は、自らが発見した超越論的仮象批判の見地が生かされていず、仮象に囚われているように思われます。その原因についてはいまは探求する余裕はありませんが、主体と客体との関係を、主体に原因をもつ現象とそれ自体は認識しえない物自体というようにわけ、人間の認識を全て主体の側に属するものとみたカントは、主体と客体との間にある絶対的他性を定式化したわけでした。(カントの物自体論を絶対的他者論と読む読み方はすでに柄谷行人「トランスクリテイ-ク カントとマルクス」『群像』でなされています。)
 もちろん、カント自身がこの絶対的他者の承認という認識にどれほど重要性を見ていたかについては私は判断しかねます。しかしこの思想がブルジョア科学や形而上学を根底からひっくり返す革命的な力をもっていることについてはヘ-ゲルには判っていたように思われます。そこで問題は、何故カントは、主体としての自己と物自体としての自己、あるいは主体としての自己と物自体としての他人との間に絶対的他者性を認めることが出来なかったのでしょうか。もしカントがこの見地に立つことができておれば、自己と物自体としての自己、あるいは主体としての自己と物自体としてある他人との間に超越論的仮象が成立していることを主張することは困難なことではありません。
 つまり、人間が現象として現われる条件として考えた理性も、物自体の可想的性格とか、他人の属性ではなくて、カントの個人的な思考にすぎなかったわけですね。こうしてカントの人間論は自ら打ち立てた超越論的仮象論批判の見地を捨てたところで成立しているのですね。

6)物自体論の破錠


 カントは自らの偉大な発見である超越論的仮象とそれの批判を物自体としての人間には認めませんでした。その結果として、カントの人間把握は理性という共通項でくくられたものとなり、絶対的他者性は見失われてしまいます。でもカントの超越論的仮象批判を物自体としての人間にまで拡張すればどうなるでしょうか。この新しい見地からすれば物自体と現象にわけ、認識できるのは主観に属するたんなる表象としての現象だけで物自体は認識しえない、とするカントの主張自体がなりたたなくなります。というのも、人間の認識能力としての理性自体が人間に共通なものとしてあると見えるのは単なる仮象ですから、カントのいう現象についての認識も、たんにカント個人の主張にしかすぎなくなってしまうからです。そうなると、表象としての現象自体も人それぞれで認識が異なることになって認識できるとは言えないですね。
 では、カントの超越論的仮象論の正当性を認め、さらにそれを物自体としての人間にまで拡張して人間の思考がそれぞれ絶対的他者としてある個々人の唯一性に囚われている、というところにまで進むと一体どのような世界が開かれてくるのでしょうか。それはレヴィナスによる同一性の哲学への批判と対話の哲学の提起、というところにつなっがていくのではないでしょうか。そして、そこからさらに進もうとすれば、存在の様式と思考の論理の絶対的他者性の承認というところにまで行き着かざるを得ないでしょう。ここまで進めば、カントの超越論的仮象論は、言語のフェテシズムの問題として解決できて、仮象論を批判すべく用意された物自体論は不必要となるでしょう。




Date:  2006/1/5
Section: カント研究序説
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