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哲学の旅 カント研究序説 第3章


哲学の旅 カント研究序説 第3章


第1章 カントの根本思想の復権
 1)ゲーテから出発 2)カントの根本思想 3)ドイツ観念論とは別の途を
第2章 エンゲルスの科学的世界観
 4)哲学の根本問題 5)カント批判 6)自然の弁証法
第3章 ヘーゲルのカント批判の再検討
 7)主観から客観へ 8)超越論的仮象 9)弁証法の威力 10)絶対的他者、外の主体の弁証法
第4章 マルクスの弁証法
 11)コーヒーブレイク 12)ヘーゲル批判 13)ヘーゲルの弁証の転倒 14)科学的世界観を超えて文化知へ
第5章 カントの遺産
 15)補足のために 16)不可知論、懐疑論の克服 17)観念論を批判する現実主義者 18)リアリストとしてのカント 19)けなげなカント

第3章 ヘーゲルのカント批判の再検討


7)主観から客観へ


 エンゲルスの世界観が科学的世界観であり、そしてカントの仮象論についての批判も決して成功していないことを見てきた上に立って、いわゆる「ドイツ観念論」の完成者とみなされているヘーゲルのカント批判をみてみましょう。テキストは、ヘーゲルの『哲学史』(岩波書店版ヘーゲル全集、14巻の2)です。
 へーゲルは、カントが対象についての認識を客観から切り離して自我自身に対する思考として、つまり、人間の思考自体を思考したことに対して、大きく評価しています。しかしながら、カントは、思考の領域では主観のうちにとどまって、客観へと辿り着こうとしないわけですから、この点に関して、ヘーゲルは批判するわけです。
 もちろん、カント自身は主観から客観への移行を人間の自由という実践的契機を導入してなしとげようとしていますが、ヘーゲルはそのような仕方での移行を認めず、人間の思考自体のうちに、客観へと移行しうることを明らかにしようとしたのでした。だからヘーゲルは、カントに対して次のような批判を投げかけます。
「カント哲学は単純な思惟を自己自身に区別を具えたものと解しはするが、一切の実在が正にこの区別に成立することを未だ解するに到らず、自意識の個別性を克服する術も知らず、理性を描く事には巧みを極めながら、これをその真理それ自身を再び失うような没思想的な経験的な仕方でするに止まるのである。」(74頁)

 このヘーゲル語を解り易くかみ砕いてみますと、ヘーゲルによれば、カントは、対象を一度は自意識にとり込み、そして、この対象をとり込んだ自意識について、自意識それ自体の法則を論理学として取り出しておきながら、この思惟における自己自身における区別において、一切の実在が成立していることを見逃している、というのです。
 というのも、ヘーゲルにあっては、自然(対象)は絶対精神の外化したものであり、そうであるが故に、自意識にとり込まれた対象を自意識それ自体の法則として解明していけば、それは絶対精神についての知としての意義をもち、同時にそれは、自然という実在についての知としても成立している、ということになるからです。
 では何故カントが自意識それ自体のうちに実在を見ることが出来なかったか、と言えば「カント哲学は有限な認識を固定した究極の立場として既に採用してしまったから」(74頁)であり、その結果、絶対的に真なるものという無限なものの認識を追求することを放棄してしまったからだ、とヘーゲルは見ています。

8)超越論的仮象


 そこで早速、カントの超越論的仮象について、ヘーゲルがどのような批判を提起しているかを見てみましょう。ヘーゲルはカントが思考のカテゴリーとして与えたものと感性との結合を経験とみなしていることについて賛同し、この経験のうちに思考によって統一された客観的なものと、知覚という主観的なもの、という二つの構成部分を見出すことは正当だとしつつ、次のように述べています。
「カントは、これに結びつけて、経験は単に現象を捉えるにすぎず、経験によって得る認識をもっては、我々は事物をその本来自体に於てあるがままに認識せず、ただ直感と感性の法則の形式に入れてのみ認識するにすぎないとする。何となれば、経験の第一の構成部分たる感覚はそれが我々の器官と関連する事によって元来主観的だからである。直観の材料はただそれが私の感覚の中にある通りにすぎない。即ち私はただこの感覚について知るのみで、事物について知るのではない。然しながら第二に、この主観的なものと対立すべき客観的なものも同様、主観的である。即ち、それは私の感情に属するのではないが、然も自意識の領域内に閉じ込められるままに止まっている。カテゴリーは単に我々の思惟する悟性の想定にすぎない。従って、一も他もいずれもそれ自体のものではなく、両者を一つとした認識もかくしてまた、自体のものではなくて、単に現象を認識するにすぎない、――これは何という不思議な矛盾であろう。」(88~9頁)

 この叙述を見ると、ヘーゲルはカントの超越論的仮象論について何故カントがそれにこだわったかについて全く理解できていなかったことがわかります。ヘーゲルにとっては、カントのこだわりについて、わけがわらなかったと見てよいでしょう。ヘーゲルにとっては、カントが自意識を分析して、そこから思考の法則を論理学のカテゴリーとしてまとめたとき、これこそ、必然的で普遍的なものであり、それは、当然にも、意識の外にある自然に対しても妥当する客観的なものでした。だから、思考が獲得したこの客観的なものに、自意識が取込んだ感性的な知覚とをうまく結びつければ、それが真理となる、ということは疑い得ないものだったのでしょう。ヘーゲルはすこしいらだって、次のように述べています。
「即ち、カントはいう、心性のうち自意識のうちには純粋悟性概念と純粋直観とがある。ところで純粋直観をカテゴリーに従って規定し、かくて経験への移り行きをなすものは純粋悟性の図式論であり、超越論的構想力である。この二つのものの結合は再びカント哲学の最も美しい側面の一つである。それによってさきに絶対的に相対立するものと言われた純粋感性と純粋悟性とは今や合一されるのである。その中には、直観的悟性、又は、悟性的直観が含まれているのであるが、然し、カントはそうは考えず、またこの思想をまとめあげることをしないのである。彼は自分がここで再認識部分を一にし、それによって両者の事態を言い現したことを理解しないのである。認識それ自身が事実両要素の統一であり、両要素の真理である、然しカントにあっては、思惟する悟性も感性も共に特殊者のままであって、両者が外的な表面的な仕方で結合されるに過ぎないのは、あたかも縄で木と足とを括るようなものである。」(89頁)

 ここで、ヘーゲルが「認識それ自身が事実両要素の統一であり、両要素の真理である」と述べている点に注目しておきましょう。カントは、認識それ自体は超越論的仮象をもたらすので、真理は実践理性や判断力との結びつき方で規定されると見ていました。しかし、カントとヘーゲルとの数十年の間に恐らく自然科学が発達し、その方法、実験による理論の検証という思想が知識人の社会にゆきわたっていったのでしょうね。認識のうちに真理を見出すというヘーゲルの哲学的思考も、科学的世界観を補完するイデオロギーとして成立したのでしょう。
 突然マルクスのフォイエルバッハテーゼに帰れば、第二テーゼは次のように述べています。
「人間の思惟によって対象的真理が得られるかどうかという問題は、なんら理論の問題ではなく、ひとつの実践的な問題である。実践において人間は真理を、いいかえれば、自分の思惟の現実性と力とを、すなわち、自分の思惟の此岸性を立証しなければならない。実践から遊離されている思惟が現実的であるか非現実であるかという論争は、一個の純然たるスコラ学的な問題である。」(『フォイエルバッハ論』80頁)

 ヘーゲルが認識それ自身のうちに真理を求めようとすること自体、スコラ学的な問題だとしたら、認識から実践理性や判断力へと移行していったカントの方が、よほどまともだということになりますが、しかし、私はカントの解決方法自体に賛成するわけではありません。ただ、ヘーゲルの執拗なカント批判には正当性がないということは指摘できるでしょう。といっても、ヘーゲル哲学とくに弁証法の意義については、大いに評価すべきものですが。

9)弁証法の威力


 マルクスを持ち出して、ヘーゲルのカント批判についての評価を下すだけでは問題は何も解決しません。今すこしヘーゲルのカント批判に付き合ってみましょう。
 ヘーゲルはカントの超越論的仮象論に「不思議な矛盾」を感じ、そしてとりあえず、直観的悟性と悟性的直観とが統一される認識のうちに真理をみる、という自己の立場を対置したわけですが、その後ヘーゲルは、カントのこの矛盾をどのように乗り越えたのでしょうか。それはカントのアンチノミー(二律背反)で展開されている主観における矛盾を客観的矛盾と捉えることによってでした。
 カントは、超越論的弁証論でアンチノミーを明らかにすることで、超越論的仮象(人間の認識が主観的なものであるのに、客観に属するかのように見える仮象)の存在の証明としたのでした。でも、ヘーゲルにあっては、矛盾が出発点でした。
「言いかえれば時間における始め等々のこれらの全ての規定は、我々の主観的思惟の外に独立する事物、現象界の自体者自身には属しないのである。もしかかる諸々の規定が、世界、神及び自由に行動する人々に帰着するとするならば、客観的矛盾が存在する事になろう。然し、この矛盾は即自且つ対自的に存在するわけではなくて、ただ我々にのみ属する、或いはまたこの超越論的観念論は矛盾が成立することを許すが、ただ自体はそのように矛盾するものではなく、この矛盾はその源をひとり我々の思惟の中にのみもっているとする。かくして正にこれらの二律背反は我々の心の中に止まる、そして、かって神が一切の矛盾を自己の中に取り入れねばならない存在であったように、今や自意識がそうなのである。然し、自己矛盾するのは事物ではなくて自意識であるという事はそれ以上カント哲学を悩まさなかった。経験が教えるところによれば、自我はそれだからといって自己を解体する事なく在るのである。従って人はその矛盾を何ら意に介しないでいることができる。何となればそれは矛盾にたえることができるからである。然しカントはここで事物に対してあまりにも深いいたわりを示し過ぎる、即ちもし事物が矛盾するとすれば、それはいかにも遺憾なことになるだろうというのがそれである。然し最高の存在たる精神が矛盾に他ならないことは決して遺憾ではない筈である。かくして矛盾はカントによっては、いささかも解決されていない。そして精神はこれを自分にひきうけ、然も矛盾するものは自らを滅ぼすのであるから、従って精神は自己自らの内における混乱であり、錯乱である。真の解決が目指すべき内容は、カテゴリーが自らに何らの真理も持たず、同様また理性の無制約者もこれをもたず、ただ具体的なものとしての両者の統一のみがこれをもつ、という事であるべきなのである。」(99~100頁)

 カントは理性のうちに矛盾を発見しはしたが、その矛盾を純粋理性の実践理性への移行のバネとしただけで、純粋理性の内部での矛盾の解決という問題のたて方をしませんでした。ヘーゲルはこの点を鋭くついています。ヘーゲルによれば、カントがこの問題を問題としてすら意識しなかったのは、矛盾を自意識内のもの、主観的なものとのみ見なしたからでした。自意識自体は経験的には矛盾にたえうる存在ですから、カントはこれ以上矛盾について考える事もなかったのでした。
 しかし、ヘーゲルは、もし、自意識のうちにだけ矛盾をみとめ、これを純粋に追求すれば、精神は混乱に陥ってしまうということを根拠に、この矛盾を客観的矛盾と捉えることを新たに提案しています。そして、自我(主体)と対象(客体)という二極に、両者の関係である意識(精神)を媒介者として、この矛盾を運動として展開していく弁証法を構想したのでした。
 ヘーゲルが論理学で叙述した弁証法は、認識のうちに真理を求めるという意味で逆立ちしていましたが、とまれ、ヘーゲルが客観的矛盾の存在とその矛盾の展開の法則を明らかにしたことが、『資本論』の価値形態論を仕上げるときに非常に役立ったということで、マルクスはヘーゲルの弟子だと名乗りをあげるほどの偉大な知的成果でした。

10)絶対的他者、外の主体の弁証法


 こうしてヘーゲルがカントの論理学の成果を踏まえつつ、客観的矛盾を解明する弁証法の論理を明らかにしたことは大きな成果でしたが、しかし、ヘーゲルがカントを乗り越えたときに打ち消してしまったカントの理論の中にも復権されるべき思想がありました。それこそが、超越論的仮象論という形で展開された絶対的他者論に他なりません。
 ヘーゲルはカントの物自体について「全意識は主観性の内に留まり、その彼方に外的なものとして物自体が存在する」(91頁)と捉え、存在を意識にとっての他者とみなしているとし、この点について次のように批判しています。
「もとより存在の規定が積極的に出来上がったものとして概念中にはないのは当然である。概念は実在性や客観性とは別物である。したがって我々が概念に立ち止まるならば、存在はまた概念の他者なる以上の何物でもなく、我々は両者の分離を固執する事になる。その場合、我々は表象はもつが、存在はもたぬのである。…ただ問題となるのは、私が思い浮かべるものが何であるかである。次には、私が主観的なものや存在を思惟し、または概念的に把握するか否かである。それによってそれらは一方から他方にと移っていく。思惟といい、概念というものは正に必然的にそれが主観的に止らないでむしろこの主観的なものを更に止揚して自らを客観的として示すというこの事に他ならないのである。」(102~3頁)

 ここにヘーゲルがカントを乗り越えた乗り越え方が示されています。それは思惟(思考)自体が主体的なもの(自我)や存在を思考し、概念的に把握することによって、主観的なものから客観的なものに移行しうるとみた点でした。ある意味では、ヘーゲルにしても、カントのアンチノミーの克服は思考という実践的契機を持ち込むことによってでしたが、その実践的契機が、カントのように人間の行為の領域ではなく、まさに思考そのものを実践として捉えることにもとづくものでした。
 このような形でカントを乗り越えたことで、ヘーゲルは、せっかく矛盾を客観的矛盾と正しく捉えていながら、その矛盾を思考の運動として展開し、なおかつそれを客観的なものとみなすことで、せっかくの客観的矛盾を思考のうちに回収してしまったのでした。
 ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている、とコメントしたのはマルクスでしたが、じゃあ、どうすればへーゲルの弁証法をひっくり返し、それを現実に対する批判の武器とすることができるのでしょうか。
 ヘーゲルをひっくり返すには、単に、ヘーゲルが否定したカント哲学の価値ある主張にたちかえればいいのです。ヘーゲルは、カント哲学の否定的側面について次のように述べています。
「カントが固く執ってゆずらない規定は、概念からして存在をひねり出す事は決して出来ないという事である。…理性または表象としての自我と外的事物とは、両者とも相互に端的に他者として相対し、そしてそれがカントによれば究極の立場である。」(104~5頁)

 ヘーゲルが否定してしまったカントのこの立場を活かして弁証法をたてればどうなるでしょうか。カントの他者論、超越論的仮象論とヘーゲルの概念の弁証法を組み合わせること、ここから新しい思考がひらけてくるように思われます。
 もちろん、ヘーゲルにとって弁証法は、カントの物自体は認識できない、とする思想の否定の上にしか成立しませんでした。でもヘーゲルのあと、マルクスが、ヘーゲル弁証法を利用しつつ商品の価値形態の論理構造を明らかにしています。そして、この論理構造がいまだ研究者にとって謎であるという現実を顧みるとき、レヴィナスの提起した「外の主体」という見地を手がかりに、カントの超越論的仮象論にもとづく理性批判をふまえて、ヘーゲル弁証法の転倒を遂行したとき、ここに文化知の方法が提示されるのではないでしょうか。




Date:  2006/1/5
Section: カント研究序説
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