第1章　伊坂青司の愛についての考察
　1）愛と宗教　2）愛と合一　3）外の主体の弁証法
第2章　久保陽一の合一哲学についての考察
　1）久保の問題意識　2）愛から意識へ　3）生の意識論への到達　4）今後の課題
第3章　意識論への歩み
　1）「1800年体系断片」2）差異論文
第4章　イエーナ体系構想での意識論の成立
　1）コーヒーブレイク　2）精神哲学草稿Iでの意識論の成立　3）意識の弁証法への歩み

第1章　伊坂青司の愛についての考察

1）愛と宗教

　ヘーゲルは『精神現象学』の自己意識論で「自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、他者のうちに自分自身を見る」（141頁）と述べている。この他者のうちに自分自身を見る、という他者論に従えば、他者はこのことで自己によって廃棄されることになってしまう。だから、この他者論は、主体と客体との合一論の大きな支柱となっている。初期ヘーゲルに溯って、この他者論の由来を確かめたのは、伊坂青司『ヘーゲルとドイツロマン主義』（お茶の水書房）である。
　伊坂によれば、そのキーワードは「愛」である。神学生であったヘーゲルの関心はもちろん宗教にあり、愛といっても宗教的な愛のイメージであったが、ヘルダーリンの恋愛を間近に見たり、また自身の恋愛体験を通して、愛のロマンティシズムとも名づけられるべき人間味を帯び始め、そして、友人と自分の恋の挫折の体験を通して愛のロマンティシズムは愛のリアリズムへと変容し、そして「この変容過程のなかでヘーゲルは、人間関係の新たな原理を模索することになる」（伊坂『ヘーゲルとドイツロマン主義』9頁）と伊坂は述べている。
　チュービンゲン神学院時代にすでにヘーゲルは「死せる権威となった既成宗教に代わる主体的な民衆宗教」（12頁）を構想しようとしており、この時代の愛についての考え方も、神の愛として祭壇から説教されるようなものとしてではなく、現実の人間の経験に根ざした感情として考えられていた、と伊坂は次のヘーゲルの断片を引用して述べている。

「経験的性格の根本原理が愛である。愛は他の人間のなかで自分自身を見出し、あるいはむしろ自分自身を忘れて、自分の存在から脱していわば他者のなかで生き、感じ、そして活動する。そのかきり愛は理性と何か類似したところがある。」（12頁より重引）

　このヘーゲルの断片で注目すべきは、「愛は他の人間のなかで自分自身を見いだし」と述べている点である。そしてこの限りで「愛は理性と何か類似したところがある」とされている点にも注意しておく必要がある。神学生時代のヘーゲルの理性論がそのようなものかはドイツ語が出来なければ調べようがないが、この断片から、ヘーゲルが、理性を他の人間のなかに自分自身を見いだすもの、と捉えていることが推測される。
　さて、伊坂の研究にたち帰ろう。ヘーゲルは、1793年に神学院を卒業したが、聖職者の道を選ばず、家庭教師の口を見つけて、1793年からベルンで生活していた。しかし、ヘルダーリンやシェリングなどの友人たちとの別れが辛くて、1797年にフランクフルトで家庭教師の口を見つけ、1801年にイエーナで私講師に就任するまでそこで過ごすことになる。
　（初期ヘーゲルの時代区分として、シュトウットガルト時代（1788年まで）、チュービンゲン時代（1788～93）、ベルン時代（1793～97）、フランクフルト時代（1797～1801）、イエーナ時代（1801～1809）が数えられ、「時代」と言われるとそれぞれ10年間位を考えてしまうが、フランクフルト時代までのそれぞれの「時代」は、ヘーゲルが18歳から30歳までの3年間か4年間のことである。）
　伊坂によれば、ヘーゲルは、フランクフルト時代にヘルダーリンの合一思想に出会うとともに、愛についても「宗教的かつ道徳的な生硬さの目立つ語り口は、むしろ人間臭い語り口へと変容する」（15頁）。合一思想はカントの二元論の克服という意義をもっていて、カントの道徳哲学の場合、道徳的なものと一般的な意味でいう客観的なものとが相互に対立してしまうが、「ヘーゲルによると、主体的な活動性はこのような対立関係のなかで、それだけでは自由でありえないのであって、むしろ客体的なものを前提とし、それと不可分に結びついているというのである。こうして彼は、客体から自由であろうとする主体が、逆に客体によって根底から規定されている構造を明るみに出す。」（16頁）と伊坂は述べている。このカントの主体・客体の対立という二元論を相対化したときに、主体と客体の新たな関係づけが求められることになるが、伊坂はヘーゲルの1797年の断片「道徳性・愛・宗教」から次の引用を行って、合一思想形成過程における宗教と愛の役割を明らかにしている。

「主体と客体、あるいは自由と自然が、自然は自由であり、主体と客体は分離され得ないというように合一して考えられるところにこそ、神的なものが存在する。そのような理想が、すべての宗教の目指す目標である。一つの神性は主体であると同時に客体なのであって、それが客体に対立した主体であるとか、あるいはそれが客体を持つというように言うことはできない。」（16頁より重引）
　「愛においてのみ人は客体と一つである。客体は〔主体を〕支配するのでもなく、〔主体によって〕支配されるのでもない。このような愛は、構想力によって本質にまで高められて、それは神性である。分裂した人間は、その神性を前にして畏敬と崇敬の念を持ち――自らのうちで合一した人間が得るのは愛である。」（17頁より重引）

　この引用にひき続いて伊坂は先の断片に引き続いて書かれたと推定されている「愛と宗教」から次の部分を引いている。

「宗教は愛と一つである。愛されるもの〔神〕はわれわれに対立するのではなくて、われわれの存在と一つである。われわれは愛されるもののなかにわれわれのみを見る。そのときでもなおまた、愛されるものはわれわれ自身ではない。それは、われわれには捉えることのできない驚嘆なのだ。」（18頁より重引）

　これらのヘーゲルの断片から伺えることは、主体と客体との合一は、ひとまずは神的なものとして捉えられており、そして愛は神的なものの一つの具体例として考えられていることだ。ところで宗教は神についての意識であり、愛も、神の愛の場合は信仰の意識であり、人間の愛の場合は恋愛の意識である。だからいずれも意識一般に還元できるだろう。だからといって後年のヘーゲルのように意識一般が主体と客体とを合一したものとしてある、と主張できるだろうか。ヘーゲルの愛についの考察を追っていけば、興味深いことに、このヘーゲルの後年の思想が成立しがたい、という論拠を見出せる。この論拠を示してみよう。

2）愛と合一

　神との関係で愛について考察していたヘーゲルは、ヘルダーリンの影響を受けて、愛を感情として捉え、そこから生命を論じていくようになる。伊坂は、カントの道徳論が愛を義務とみなしていることに対して、ヘーゲルは愛を感情と捉えた点で、カントを乗り越えたとみている。そして、ヘルダーリンとの関係について具体的に論じながら、断片「愛」からの引用を行っている。

「真の合一、つまり本来の愛は生けるもののもとでのみ生じる。その生けるものは、力において等しく、したがって全く相互に生けるものであり、いかなる側面からみても互いに死せるものではない。本来の愛は、あらゆる対立を排除する。それは悟性などではない。悟性の関係は多様なものをいつまでも多様なままに放置し、そして悟性の統一そのものが対立である。また本来の愛は理性でもない。理性はその規定作用を規定されたものに絶対的に対立させる。本来の愛は限界づけるものでも、限界づけられたものでも、有限なものでもない。それは一つの感情なのだ。しかしそれは個別の感情ではない。」（21頁より重引）

　ここでヘーゲルが述べている「愛」を「意識」におきかえても、そのまま意味が通用する。とすれば、ヘーゲルはいつから対象と自我との関係を意識と捉え、この意識の現象学を構想するようになったのか、という問題について考察することを迫られる。この問題はあとで取り上げるとして、愛から合一にたどりつき、そして、合一を生けるものとして捉える、という伊坂の主張は、ヘーゲルの意識論の成立事情を示すものとしては説得力がある。
　さて、伊坂は、一方でヘルダーリンの影響についても述べながらも、他方でヘーゲルとヘルダーリンのちがいについて次のように述べている。

「『ヒュペーリオン』におけるヘルダーリンの基本構想は愛の感情を根源的な自然生命との一体性に求めようとすることにあった。これに対してヘーゲルは愛を、むしろ生ける人間の現実的な関係において論じ、『生命』概念を『愛』から次第に独立させて、自然哲学の方向へと向けることになる。」（23頁）

　このように、伊坂は愛から生命への変遷を問題としており、そして愛そのものは後年のヘーゲルにあっては、美学で論じられる場合と、家族で論じられる場合の二通りがあると指摘している（39頁）。しかし、愛の発想が意識論のうちに受け止められている、と見ることも可能ではなかろうか。というのも、伊坂が断片「愛」から引用している次の文章には意識の弁証法の萌芽が見られるからだ。

「愛においてこの〔生命〕の全体は、多くの特殊なもの、分離されたものの合計のうちに含まれているのではない。愛においては、生命そのものが生命自身の二重化として、そして生命そのものの統一として見いだされる。生命は未発展な統一から出発して、形成を通じて完成された統一への円環を遍歴したのである。」（22頁より重引）

　愛を生命自身の二重化と捉える観点は弁証法である。そして、主体と客体とを合一するものを、当初の神性としての愛から感情としての愛をへて、意識にたどり着いたとき、愛はその従来占めていた位置を意識に譲り渡したのではなかろうか。

3）外の主体の弁証法

　伊坂は宗教的な愛から、人間の感情としてのロマンチックな愛へと辿ったあと、最後に愛のリアリズムで、恋愛の挫折による愛についてのヘーゲルのリアルな叙述を引用している。

「このような愛の合一は確かに完全なものであるが、しかしそれは、分離されたものの一方が愛するものであり、他方が愛されるものであるというように、したがって分離されたもののそれぞれが、生けるものの一つの器官であるというように対立する限りでのみ、完全であるにすぎない。」（29頁より重引）
　「しかしそれに加えて、愛し合うものは多くの死せる物と結びついており、それぞれに多くの事物が帰属している。すなわち愛し合うものそれぞれは、対立し合うものとの関係のうちにある。この対立し合うものは、関係し合うことそれ自体にとってもなお対立するもの、すなわち客体なのである。こうして愛し合うものも財産と権利の多様な取得と所有において、多様な対立関係に入りかねない。」（29頁より重引）

　最初の引用文に注目しよう。ヘーゲルは愛を生けるものの真の合一と捉えながら、他方で、その合一は恋愛関係のうちであるに過ぎない、と述べている。この見解を意識にまで拡張したらどうなるだろうか。そうすれば、主体と客体とを合一する意識という規定における合一は、双方の意識関係のうちでのみ成立している、ということにならないだろうか。ここでのヘーゲルの愛についての考察は、主体を媒介者である愛に求めるのではなく、恋愛関係にある二人の人間に求めている。従ってここではヘーゲルは、両極の実在性を認め、外の主体の弁証法を展開したのであった。この見地は、ヘーゲルが後年叙述することになる意識の弁証法にも適用可能である。そして、外の主体を措定することで、ヘーゲルの意識の弁証法を転倒することが可能となるのだ。
　次の引用文では、ヘーゲルは愛の考察を、恋愛関係にある二人の人間だけでなく、この生きた主体をとりまいている死せる客体的な物との関係も含めて行なおうとしている。ここに見られるように、ヘーゲルは本能的には外の主体の弁証法の立場に立っている。にもかかわらず、後年になって意識の弁証法を叙述することになると、この立場が解体されてしまう。これは一体どうしてなのだろうか。この点の解明が本稿の課題であるが、次に合一思想に則して、ヘーゲルの外の主体の弁証法をあとづけてみよう。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 4075 times

哲学の旅第9回 初期ヘーゲルの外の主体の弁証法 第1章

第1章 伊坂青司の愛についての考察

1）愛と宗教

2）愛と合一

3）外の主体の弁証法

哲学の旅第9回　初期ヘーゲルの外の主体の弁証法　第1章

第1章　伊坂青司の愛についての考察