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シュタイナーの社会理論に関する批判的検討(1) 田中一弘


シュタイナーの社会理論に関する批判的検討(1)

2007年12月19日 田中一弘

(1)はじめに

本稿はシュタイナーの社会問題に関する主要著作二著―『社会の未来』および『現代と未来を生きるに必要な社会問題の核心』―の批判的検討を通じて、森氏の回答に対するコメントとするものである。なお後者『社会問題の核心』に関しては、原典を入手できなかので、森氏のホームページ(http://www.geocities.jp/momoforall/booknote2/index.html)を利用させていただいた。(引用文はそこからのものであり、原文とは異なる場合があると思われる。そのことから生じるかもしれない誤読や不十分な解釈の責任はすべて、原典を使用しなかった私にあることを明記しておきたい。また引用箇所については章別をあげるにとどまった。)そのため主に『社会の未来』を中心に検討する。はじめに本稿の基本的方法について述べておきたい。

他者の理論なり思想を検討するという場合、まず対象に内在した解釈が必要であろう。私もできるだけシュタイナーの行論に従って解釈したつもりである。しかし解釈とは自己のフィルターを通した結果でしかありえないのであるから、そこに個別性としての相違点あるいは誤読がありうるであろう。この点に関しては、森氏をはじめ皆さんの批判を待ちたいとおもう。

第二に、検討は自己の思想や理論を基準にしてなされるものであるから、それは批判となる。そしてそのような批判は対象にとって外在的なものにならざるをえない。なぜならば批判の基準とは対象にとっては外的なものだからである。本稿はマルクスを批判基準にしているが、それは私が理解したかぎりでのマルクスである。外在的批判とはいえ、両者が同一の対象すなわち資本制社会を対象とする社会理論であるので、理論の対象に即した批判となる。理論の有効性は対象の論理的構造をどれだけうまく把握しているかに存すると思われる。本稿は以上のような観点からシュタイナーを検討する。

以下に本稿で引用する主な論文の略称を示しておく。引用の明示はその略称を用いている。

  • 『未来』=シュタイナー選集第九巻『社会の未来』
  • 『核心』=シュタイナー選集第十一巻『現代と未来を生きるに必要な社会問題の核心』
  • 森1=森真澄「『「モモ」と考える時間とお金の秘密』(書肆心水)におけるシュタイナーに関する記述に対する個人的見解」
  • 森2=同「上記内容抗議文に対する境氏のご返事に対する再返答」
  • 森3=同「田中一弘氏の批判的検討に対する回答(その1)」
  • 森4=同「田中一弘氏に批判的検討に対する回答(その2)」

なお森氏が社会三層化と述べているものを本稿では社会三分節化としているが、それは『未来』の訳語に従ったものである。また本稿における霊学という用語は、シュタイナーの霊学ということであり、人智学と同義で用いている。また引用文中において私が補足した部分については〔 〕をつけておいた。

(2)方法論的前提としての霊学

森氏は本ホームページ上の諸論文で、社会三分節化と霊学との関係について、両者を切り離した解釈が可能であることを再三主張している。

「シュタイナーの社会三層化思想は、彼の深い霊学の観点から論を進めてきた事は間違いない事でしょう。なぜならそれが彼にとっては、最大限の深い理解に至る方法だからです。」「 しかし、だからと言って、彼は社会三層化思想の中で、人智学を学ぶ事を人々に必要な条件として求めていませんし、人智学者以外の外部の人に、その二つをセットにして押し付けたりはしていません。社会三層化思想が、人智学の精神文化機関と、経済管理機関と、法政治管理機関のそれぞれに、対等の自主的管理の自律性を与え、互いが互いを自分の役割以外の専門領域に支配干渉しないで自主管理を尊重しあって、助け合い働く事の必要性を述べているのです。」「だから、一人の人間が自由意志で、その両方を受け入れる事も出来ますし、社会層化思想は受け入れるが、人智学思想は受け入れないと言う事も自由です。」(森2)

森氏は方法論的前提としての霊学を認めつつも、それとは独立した社会三分節化思想の理解が可能であると主張している。まずはこの点の検討から始めたい。

シュタイナーはまず「社会的な行為の本質を理解するための手段と方法を見出すこと」(『未来』p.7)を自らの主要課題としてあげ、さらに「私たちの社会形成力は私たちの思考の在り方から生じてきます。」(『未来』p.9)と述べている。では現在の「思考の在り方」とは、シュタイナーによれば一体どのようなものなのだろうか。シュタイナーは近代思想―自然科学も含めて―の特徴を抽象的概念の体系として批判する。シュタイナーによれば、そのような体系は現実生活から遊離しており、社会変革のための現実的力をもっていないとされる。

「近代人はいわば抽象作用によって生きており、すべてを抽象概念に結びつけなければ安心できません。市民の実際生活の中でも、さまざまの抽象概念が人びとの魂を支配しています。」(『未来』p.40)
「概念そのものは、それ自身ではどんな内容ももっていない」(『未来』p.40)「概念の力で感覚を作り替えたとしても,感覚界を超えることはできません。なぜなら概念そのものが現実を含んでいないのですから。」(『未来』p.41)

近代社会においてなぜこのような抽象概念が成立したかについて、シュタイナーは明示していない。この問題は、近代人がそれによって生きる「抽象作用」の解明によってはじめてなされうるのではないだろうか。マルクスは商品の物神性を解明する中で、この点についてのヒントを与えてくれている。

「商品生産者たちの一般的社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがってまた価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な〔一切の具体的属性からの抽象としての抽象的〕人間労働として互いに関連させることにあるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的人間を礼拝するキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント、理神論などとしてのキリスト教がもっともふさわしい宗教形態である。」(『資本論』1、新日本出版社版、p.134)

労働生産物の一般的抽象的性格としての価値と、物質の一般的抽象的概念の体系としての自然科学との関係も同様に指摘できるのではないか。また出身地や身分・階級などの個人の具体的な諸属性にかかわらず法の下での平等が承認されるというのも、商品生産社会にふさわしい政治的な権利形態ではないだろうか。法的主体としての諸個人は、国民としての同等性において互いに関係しあっているといえるのではないか。このような問題は、文化知の方法を深める中で具体的に解明されるべき課題であろう。ここではその入り口を示しうるにすぎない。

再びシュタイナーの行論に戻ろう。シュタイナーは抽象概念に基づく近代の思考形態が従来の社会運動-社会主義運動-を規定していると指摘する。

近代社会においては、「行為する人間の根底にある思考が特定の形態をとるようになりました。そして思考のこの特定の形態が、私たちの社会運動を本質的に規定しているのです。」(『未来』p.8)

このような思考形態の代表的な例としてマルクスのいわゆる唯物史観が批判される。

唯物史観においては「精神生活は本質においてイデオロギーだというのです。つまり精神の内部には現実はなく、外部で演じられる経済闘争の反映だけがあるというのです。・・・それは自立的な精神を認めようとしない人びとの態度です。」(『未来』p.37)

ではシュタイナー自身はどのような思考形態を自らの方法として採用いているのであろうか。

「これまでとは別様に考え、別様に思想を形成することに多くがかかっているのですが、現在のところ、人間の思考を本当に新しい方向へ導くことのできる思想として、霊学以外のものはまだ見出せません。」(『未来』p.9)
  なぜならば「一切の経済的、物質的な現実の背後には霊的なものの衝動が働いており、それを人間は精神生活の中で受けとめている」(『未来』p.27)からにほかならない。従って「社会問題を生産的な観点から理解するためには、人間の魂のこの根本的変化そのものを検討しなおす必要があるのです。」(p8)

シュタイナーは以上のような観点から「社会問題はまず第一に精神問題なのです。」(『未来』p.94)と結論づけている。また、三分節化の中で精神生活が主導的な役割を担うことが述べられている。

「有機的に三分節化されたときの精神生活は、外的現実の中で働く法生活や経済生活に直接働きかけるでしょう。一方で精神生活は完全に独立すべきだと主張しながら、もう一方でそれが実際生活の分野に働きかけると主張するのは、奇妙な背理であると思えるでしょうが、しかしどんな精神もすべてを自分にまかされるのでなければ、社会生活全体を包み込むような衝動を発展させることはできないのです。」(『未来』p.213)

ここでいう精神問題とは、霊学の観点から考察された問題にほかならないことは、これまでの引用から明らかであろう。そしてシュタイナーにとって精神あるいは意識の問題は、感性的=対象的=現実的な生活・活動・実践から自立的に把握されている。

 
「意志は純粋に霊的、もしくは霊的魂的な性質のものであり、そのようなものとして直接に働きます。」(『未来』p.187)
 

また森氏が人間の行為の基準として強調する自由意志や道徳的判断も、シュタイナーにとっては霊学的観点から定立されている。

「道徳は人間の行為を純粋に魂の内的観点から評価します。」(『未来』p.211)
「私たちを道徳行為に駆り立てるもの」が「霊界から来るのではないとすれば、それは真の現実性をもちません。」(『未来』p.77)

以上に見てきたように、シュタイナーの社会思想の根底には霊学が方法的前提としてある。従って社会三分節化を、このような精神の霊学的観点を抜きに理解することはできないのではないだろうか。もちろん経済や法に関するシュタイナーの具体的な分析は、すべてが霊学によってなされているわけではない。それぞれの分野の自立性を主張するシュタイナーにとって、それら独自の構造的性格を否定することはできないからである。しかし精神生活の第一義性を主張し社会変革の基準をそこにおいている以上、社会三分節化思想を霊学から切り離して理解することは、シュタイナーにとっても迷惑な話ではないだろうか。(森氏は「シュタイナーの社会思想は固定したドグマやイデオロギーを説いているのではなく、現時点の現実の深い根源的な観察から出発する為の実践的な道具と成り得るものですから、今日でも通用するのです。」(森2)と述べている。シュタイナー解釈としては霊学と三分節化思想を切り離しえないが、脱構築の作業として三分節化論を自立させて展開しうる、ということであるならば、その点まで私は否定するものではない。ただしその際「自由な精神生活」が霊学的観点以外から展開されることが、必要であろう。たとえば文化知の方法がその主導的内容となりうるのだろうか。)

このような精神の捉え方は、はたして正当なものだろうか。現実的な活動から自立したものとして精神を把握することは可能なのか。シュタイナーの精神論は結局のところ精神を個々人の意識や意志(目的としての意識)から自立化させて、ある種の実体として把握しているように思われる。そこでこの点について節を改めて検討してみたい。

(3)抽象的・自立的なものとしての意識か、それとも関係態としての意識か

シュタイナーは近代の精神が経済生活に支配されていることを再三指摘し、その原因を技術的な発展による人間の疎外に求める。

 
「複雑化した技術の分野と、それに伴う複雑化した資本主義体制の到来と共に、経済生活は次第に人間を疎外するようになりました。人間から離れたところで、経済生活は自分の歩みを進めていきました。人間の思考や観念の力では経済生活を支配できなくなったのです。人間の思考は経済の要求に従った仕方で、法律概念や精神概念を形成するようになりました。」(『未来』p.147)

しかし、そのような疎外が意識の経済への従属をどのようにして発生させるのか、については語ることができない。ただ経済に従属した精神生活を自由に自立したものへと変えるように呼びかけるだけである。それはシュタイナーが精神を現実的活動から自立させて、魂という内的なものとして把握しているからである。

このような意識の捉え方にたいして、私は榎原氏にならい、意識を自我と対象との関係として把握すべきではないかと思う(cf.境毅『『モモ』と考える時間とお金の秘密』p.224, p.255~7)。シュタイナーのいう精神あるいは魂とはこの関係の一極である自我を抽象的に把握したものではないだろうか。

意識が自我と対象との関係であるというのは、意識とは常に~についての意識として存在しているからである。このような意味で意識は対象によって規定されているのである。ここで対象というのは単に物質としての対象ではない。自我を取り巻く環境世界全体を意味する。その中には生活環境としての他者(他者の意識をも含めての)との関係や労働などの活動も含まれる。

しかし自我が意識のもう一方の極としてある以上、意識は自我によっても規定される。すなわち自我が対象と関係を結ぶことによって意識が成立するのであるから、自我が意識を規定するともいえる。自我が対象と関係を結ぶということは、自我が対象を選択することであり、その関係のあり方としての意識内容は、自我の発展過程による制限を被っている。意識は対象の単なる反映ではない。そこで自我とはなにかという問題が生じるが、わたしはそれを人間の環境世界=社会的諸関係あるいは対象的活動によって発展する人間の一属性として把握したい。

自我とは「われ思う」ということだとすれば、まず「思う」ことは言語の使用を前提している。言語なしで思考することはできないであろう。そして言語とは社会的な産物、社会的な意識形態であるから(cf.境毅『『モモ』と考える時間とお金の秘密』p.263~7)、環境から離れて抽象的=内的な魂として自我は存在しない、といえる。とはいえ、異なった言語を用いる人間が同じように思考しうるということがある。言語はあくまでも手段であり、それに先立つ思考作用自体があるはずだ、といいうるかもしれない。それをカントのように統覚の先験的統一として把握することも可能ではあるだろうが、そのような作用とは人間の脳の作用であり、生理的・物理的な反応であろう。あくまでも人間の体的な活動の産物なのである。たとえそれらの作用や機能が現在の時点ですべて解明されていないとしても、魂とか心霊などと神秘化することはできないであろう。

人間は対象を意識の中での対象とすることによって、認識活動を行う。しかし対象が意識に取り込まれる以前にもつ客観的存在を否定することはできない。ヘーゲルのように対象自体を意識の対象化として、あるいは意識の絶対的・普遍的段階としての精神=理念の客体化として把握することはできないであろう。

人間の実践は目的意識的な活動である以上、意識の契機を抜きに語ることはできない。しかし以上のように意識を把握するならば、社会変革の意識はその対象たる社会構造から分離させることはできない。いいかえれば、対象認識を欠いた社会変革の実践を想定することはできない。マルクスは人間の活動を対象的活動として捉えることにより、社会を人間の活動の産物として把握した。すなわち対象を単に外的・客体的なものとしてとらえるのではなく、主体的なもの、人間の活動そのものとして把握したのである。そして人間の活動は孤立した個人によって営まれるものではなく、ある特定の社会的関係のなかで行われるものであるがゆえに、社会的関係の分析が必要なのである。

シュタイナーも生活基盤による意識内容の規定について述べている。たとえば

 
「近代プロレタリア(労働者)は、古い生活関連のすべてから、引き離されてしまった。
生活を、まったく新しい土台の上に、置かなければならなくなった。古い生活基盤が失われると同時に、古い精神の泉から、汲み上げる可能性も消えた。」(『核心』第一章)
 

しかし「生活基盤」から発生する意識=社会的意識形態を単にイデオロギーとみなすだけであり、それとは区別された真なるものとして「自立的な精神」を対置するのである。それに対して、マルクスは「生活基盤」そのものを「精神の泉」として把握したのである。その一例が先に引用した宗教形態に関する指摘である。価値形態の解明=物象化論とそれに基づき展開された物神性論がその具体例であり、榎原氏が提唱する文化知の方法はそれらをさらに発展させようとする試みであろう。

前節で述べたようにシュタイナーもすべてを霊学で解明しようとはしない。現実の社会の具体的な分析に基づいて、社会三分節化を主張している。大分長くなってきたので稿を改めてその具体的な内容を検討してみよう。






Date:  2007/12/26
Section: 『「モモ」と考える時間とお金の秘密』をめぐって
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