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田中一弘氏に批判的検討に対する回答(その2) 森 真澄


(3)分配と生産関係について

●田中氏
私(森)の記述
「もちろん、有能な人間により、人類の幸福に大きな貢献がなされる為の事業に多額の貨幣が必要ならば、その有能な人間に、多額の貨幣の使用が託されるでしょう。それはその人の過去の労働の評価に対してそうされる(=労働の対価が支払われる)のではなく、その人のこれからの労働に期待してそうされる(=分配される)のです。」
に対して、次の様な批判を展開されています。
1)何をもって有能か無能かを判断するのかという問題はおくとして、「これからの労働に期待して」分配するという事は、やはり労働の対価と異ならないのではないでしょうか。過去と将来の違いはあるにせよ、労働を分配の基準にしているからです。さきにみた必要に応じた分配の原理とは異なっています。
2)設備投資や学術的研究の費用など多額の貨幣が必要とされる場合、その様な費用は企業体に対する収益の控除、すなわち企業体に対する分配としてなされるべきです。個人に帰属させてはならず、科学的な業績も社会的な活動として把握されるべきです。
3)また、この様な社会的な分配は、労働者と経営者との合意に基づいてなされなければなりません。その為には労働と経営の分離が破棄される事が前提であり、したがって労働と生産手段の所有の分離=賃労働-資本関係の廃棄が必要でしょう。
4)賃労働-資本関係の破棄、つまり所有関係の変革こそが根本であり、社会的所有への移行によりはじめて「人々の共益の為に使用される」事が可能になるのではないでしょうか。と述べ、私の主張を、資本家の善意=道徳的判断に期待する事に等しく、まったくの偶然事にすぎないでしょう。資本家とは資本の本性=自己増殖衝動にその意志を規定されているからです。
5)森さんの論文は、賃労働がひとつの生産関係、しかも労働と所有の分離に基づく支配・隷属関係である事の認識が欠如しているのではないでしょうか?
労働力の交換価値としての労賃と、剰余価値の一現象形態である経営者報酬とは区別されるべきで、すべてを労働の対価として同一視できないのです。

★★1)について

●企業体の収入から支払われる貨幣は、その協働者の生活費の為の分配と、企業の活動費とに分けられます。その両方あわせて、人々の必要の為の分配と表現したからと言って間違いではありません。そのどちらも労働の対価(報酬)ではなく、必要の為の分配です。
私がこの文章で書いた事は、企業の活動費であって、労働の対価(報酬)とは全く違います。
賃労働は、先に労働(義務)があり、その報酬として生活費(権利)が与えられます。
しかし、そうではなく、社会の一員であるが故に、すべての人に生活費を分配します。
それに関しては、経営者と労働者の区別はありません。同じ人間にかわりはないのです。
しかし、活動費の運用は、それにふさわしい担当者を民主的合意によって選んで、その人にお願いするという事が必要になるでしょうし、その内容と必要によって、協働者の合意によってどこにいくら回すか相談されるでしょう。
ですから、田中氏の、「過去と将来の違いはあるにせよ、労働を分配の基準にしているからです。
さきにみた必要に応じた分配の原理とは異なっています。」と言うのは、全然違います。
くしくも、5)で田中氏は、労賃と、剰余価値の一現象形態である経営者報酬とは区別されるべきだとおっしゃっていますが、私は区別していない訳ではありません。しかし、今日、経営者であろうが、労働者であろうが、労働の対価(報酬)として生活の為の収入を得ています。
そしてそれとは別に明日の企業体活動費にも、企業収入は充当されます。
もちろん、その費用は個人のものなどではなく、共同体から活動の為に使用運用を委託されているのにすぎません。
●私達が今問題にしているのは、社会共同体における協同労働の成果の代償として得た貨幣収入の分配を、皆に公正に分配すると言う課題です。それは共同体全員の幸福の為に公正に分配されなければなりません。
賃労働は、働かざる者食うべからず的制度であり、あまりに不完全な分配制度の為、単独では社会的責任を果たせず、社会保障制度や、年金制度や、各種ボランティアなどの様々な補完制度が必要になって来ます。賃労働制度は先に労働(義務)があり、その見返りにご褒美として生きて行くに必要な権利を得る為の貨幣(権利)をもらえると言う制度です。
しかし、権利は権利、義務は義務なのです。義務を果たした見返りに権利をあげようなどと誰かが誰かに言う事が常になるなら、支配従属関係になってしまいます。
分配の場では、誰がどれだけ働いたからどれだけもらう権利があるなどと労働量問題を持ち出して損得勘定するべきではなく、皆の幸福の事だけを考えて、分配するべきです。
ですから、単独ですべての人の必要を満たしうるより健全な分配制度とは、
人間であるが故に、社会の一員であるが故に、労働とは関係なく、労働より先に「すべての人を養う」と言う精神に基づいた分配をすべての人にすると言う事です。少なくとも主たる分配制度はそうあるべきです。賃労働制度=労働の対価(報酬)のすべてを否定する訳ではありませんが、それは補助的存在であるべきです。私はそう想います。
欠乏から人生をスタートさせる社会では、奪い合いの社会になってしまいます。
与え合う社会では、人々はすでに与えられた所から人生をスタートさせ、人々は日々感謝の念によって人々に労働でお返しするのです。

★★2)について

そう言う訳ですから、個人に帰属させている訳では全然ないのです。

★★3)について

●シュタイナーはすべての分野での精神の自由の尊重を重視し、あらゆる分野での自主管理を尊重していますから、当然の事ですが、草の根民主主義的運営を目指す訳です。
「分配は、労働者と経営者との合意に基づいて」と言う事ですが、当然の事なのです。
経営者と労働者は役割が違うだけで、対等な協働者なのです。
「その為には労働と経営の分離が破棄される事が前提であり、したがって労働と生産手段の所有の分離=賃労働-資本関係の廃棄が必要」と言う事ですが、労働者も経営者もその役割は違いますが、協働者であり、その意味で、労働者を賃金で雇って経営者の指示どうりに働かせ、その利潤で私腹を肥やすと言う意味での経営者はなくなり、経営者VS労働者と言う分離対立は破棄されるのです。その事が可能になるのは、賃労働制度による経営者の意志による雇用と支払いに取って代わって、対等な協同合意(法の下の権利の平等)に基づくすべての人の必要を満たす為の分配にとって代わる事によってです。この協同と、すべての人の、範囲の拡張努力には世界全体にまで終わりはないのですが、始まりはその企業体全体です。

★★4)について

労働と生産手段の所有の分離=賃労働-資本関係の廃棄、所有関係の変革こそ根本だと言う田中氏の意見ですが、所有関係の変革が不要だと言っている訳ではなく、まさに新しい人間と物質との関係、人間と人間の関係の構築をしようとしているのです。そしてその結果としてそれ(所有関係の変革)がもたらされるのです。もちろん、所有関係そのものにも直接働きかけます。しかし、先に今の所有関係にとってかわるものを創造しなければ移行は出来ないのです。ですから、いかにしてそれを創造するかの答えが労働のあり方と、分配のあり方の改革なのです。
資本所有の移転が最も大事なのではなく、資本がいかに有意味に使用されるかが大事なのです。
資本家が利潤を私腹を肥やす為にむさぼらず、社会の為に還元する事が出来る様になる事が大事なのです。
資本や生産手段の脱商品化により、資本や生産手段が、利潤動機ではなく、公正で自由な人々の道徳的判断に基づいて運用される新しい健全な運用を創造する事が大事なのです。
さらにシュタイナーは、耕地の分配や、固定相場制や、経済連合体の形成や、自然本位制も提案しています。さらに精神領域への贈与の法的制度的誘導と老朽減価する貨幣によって、資本家が利潤を蓄積して、貨幣の循環を阻害する事を防止する事も提案しています。
貨幣を商品として扱う事や、不健全な投機的な行為の禁止や、銀行の投機的な利潤追求の禁止も言及しています。
生産手段と資本は、シュタイナーは、それは経済に働きかける精神活動(経営)にかかわる事であり、精神の自由意志の尊重に基づく道徳的判断に基づいて運用されるべきであり、単なる経済物資(商品)として扱う事をやめ、生産手段や資本の所有(使用)の形態の決定、新設、移転もその様な観点から、民主的合意に基づいて決められるべき事と考えて居ます。
その場合の民主的合意とは誰が含まれるかですが、それに関わる協働者全員(経営者と労働者を含む)でしょう。
●シュタイナーは、土地も商品と考えるべきではないとしています。
つまり、商品になると、お金のあるなしが所有権獲得の可否の前提条件となります。
またすでに、現在の所有権獲得状態は、人々の権利や機会の平等に反しています。
すべての人に同額の貨幣が与えられると言う事なしには、それは、必然的に人々の権利や機会の平等に反する事になるでしょうし、人々の精神と行動の自由をも妨害する事になります。
生産手段や、土地は、すべての人によって協同利用すべきものです。
誰か特定の個人や国家や団体が所有を独占するべきものではありません。
しかし、シュタイナーは個人所有をただちに廃止すべきだと言っている訳ではありません。ただ、固定的独占的所有権は、自由な道徳的判断に基づいて運用利用される使用権とでも言うべきものに替わって行くべきだと言う意味の事を言っているだけです。
つまり所有権の無意味化と、貨幣の有無ではなく、公正な道徳的判断に基づく利用権の自由移転の促進強化です。だれが所有するかを重視する時代から、いかに使用するかを重視する時代への移行です。しかし、その為には、法的な規制力が必要でしょう。
つまり、誰が所有していようと、道徳的に公正かつ自由に分かち合って利用する事が出来る様にする義務があると言う事を、新たに正しく法的に規制して人々を正しい道へ誘導する必要があると言う事です。もちろん自由意志を尊重しつつ。私はそう想います。
ですから、決して、田中氏の言う様に、貪欲な資本家が改心し、善人になる偶然を待つ必要はありません。賃労働制度から、生活保障制度への、主たる分配制度の転換がどんなに資本家をはじめとして人々の意識の転換に有効かをよく考えていただきたいのです。すでに与えられた所から人生をスタートする分かち合う社会では、貪欲な奪い合いの精神による所有の拡大は無意味なものなのです。
●もちろん、現存する一部の金持ちによる土地の独占は是正される必要があるでしょう。
現在の法律は、土地や生産手段の公正で自由な利用を促進する事が出来る様にはなっていないのです。
いかに人々の幸福の為に使用するかと言う事についての法的規制と、意識改革です。
そうすれば「誰が所有しているか?また所有権そのものの無意味化」へ移行する事が出来るでしょう。現在の所有権に取って代われるものを創造しなければなりません。
企業の協同組合化の促進も、不可欠な策ではないでしょうか?
地産地消による地域経済協同体の形成も不可欠な策だと想います。
誰がどの様に使用するかは、人々の道徳的判断に基づかなければならない事であって、お金のあるなしの問題ではないのです。その道徳的判断に際しては、個人の自由意志が尊重されなければなりません。
その様な社会にどの様にして移行するかは、大変大きな問題で私一人の力の及ぶ問題ではありませんが、なされなければならない大変重要な優先課題だと想います。

(4)自由意志に基づく道徳的判断

●2つの社会があります。
損得勘定と不信に基づく奪い合いの社会。
愛と信頼に基づく与え合いの社会。
その2つの社会の間には無数のさまざまな中間段階があるでしょう。
私は、前者から、後者への移行をいかに実現するかが、私達の未来の課題だと思います。
賃労働と言う考え方は、自給自足(自分と自分の身内の為)の思想であって、働かざる者食うべからず的な不寛容な処罰主義であり、家族間の損得勘定に基づく奪い合いであり、前者です。
今日私達に求められている事は、社会共同体全体への協同意識の拡大です。
剰余価値がある事自体が悪い訳ではありません。
大切なのは、剰余価値を皆の納得の行く事、皆に還元し、人々の役に立つ使い方をする事でしょう。
剰余価値を経営者の私腹を肥やす為のものとする事は不正な事でしょう。
また、多くの剰余価値を残す為、人々が心身共に健全な生活を送る為に必要な生活費を削り過ぎるのも、また利益主義に走るのも、人々に害を及ぼすでしょう。
不適当な社会制度は改善されなければなりません。これは大変重要な事です。
しかしどんな社会制度が実現しようとも、社会構成員が道徳的に振舞わなければ、人々は幸せにはなれないと言うのも又、事実でしょう。

★★5)について

森さんの論文は、賃労働がひとつの生産関係、しかも労働と所有の分離に基づく支配・隷属関係である事の認識が欠如しているのではないでしょうか?と言う事ですが、以上の説明からも分かる様に、いかなる意味においてもそう言う訳ではありません。ただ所有と言う概念そのものに不当な独占性が含まれている事を指摘しています。また支配・隷属関係は、労働する者達が所有しさえすれば解消する訳でもありません。もちろん労働者以外の者が所有している事、すなわち労働と所有の分離があるより、労働者と所有者が一致している事の方が望ましいとは言えるでしょう。なぜなら、労働者は、自分の労働を売る以外に生きる術を持たないからこそ、資本家の元にひざまずいて雇用を請い、命令に従い賃労働するしかないからです。
資本主義はその虚偽の上に構築された砂上の楼閣です。その事は何度も書いております。
ですから、いわば、資本と生産手段の「所有権」と、「賃労働」は、同じコインの裏と表なのです。不当な権利の奪取をし、労働(義務)を果たしたら、権利をあげようと言う訳です。
しかし、本当は、権利をあげるのではなく、ただ、奪った権利を返しているだけなのです。
ですから、本当の所は、賃労働の廃止(労働と分配の分離)の主張は、資本と生産手段の返還の主張と同じものの別の表現なのです。労働は人間側の事態を示し、資本と生産手段の所有は社会経済側の事態を示しています。経済が精神と言う上部構造を規定すると言うマルクス主義の唯物論的立場から言えば、労働と分配の分離の主張は逆立ちした主張に見えるでしょう。
しかし、以前にも書いた様に、経済が精神を規定すると言うのは、一面の真理なのです。
経済が精神を規定すると言うのも、逆に精神が経済を規定すると言うのも、どちらも正しいのです。しかし、どちらも正しいと言うのは、どちらもそれだけでは完全ではないと言う事です。唯物論と唯心論の関係でも同様の事が言えます。
実際は、精神と経済(社会)は、お互いがお互いの原因でもあり結果でもあり、絶え間なく影響しあっているのです。ですから、社会改革が有効な結果をもたらす為には、精神(人間)の変革と、経済(社会)の変革を同時進行的にすすめなければならないのです。
でなければ、どちらか一方だけでは、空回りして表面だけの変化に終わるでしょう。
ですから、シュタイナーの社会三層化思想は、マルクス主義と敵対する思想ではなくて、補完する思想なのです。途方もない真理を球体とすれば、右から見たのと左から見たのでは同じものを見ても違う様に見えます。違う視点に立つ人の持つ世界を映し出す鏡は、自分の鏡では映し出せないものを映し出します。
と言う訳で、シュタイナーは、人間(労働)のあり方と、経済(貨幣)のあり方の両方に注目し、経済(社会)と精神(人間)の両方の改善を重視しました。
支配従属関係の根本原因は、賃労働によって労働と分配を結び付けている事にあると言いました。
しかし、それ以前に、労働を売る以外に生きる術がない所有権の喪失があるのだから、そちらこそ根本原因だと私もある意味そう想います。そしてそれはある意味真実でしょう。
しかし、所有権を移転(奪還)しさえすれば支配従属関係はなくなるでしょうか?と自問自答すると、資本・生産手段すなわち、物質の所有者が変わるだけでそれ以外は何も変わらないどころか、資本と生産手段の運営に関するずぶの素人が運営しなければならなくなるだけだと言う事に気づきます。これは一体どうした事か?つまり所有権の移転の為には、資本と生産手段の運営経験の移転も同時に伴わなければならないという事です。
それだけでなく、所有権が変わるだけでは、これまでの支配者は失墜し、さぞざまあ見ろと胸がすっきりするでしょうが、所有権の移転以外の事が正しく変わらなければ、以前の所有者と同じ事を、つまり新たな支配従属関係を生み出すだけだと言う事です。
なるほど、労働者は以前の経営者の様に悪い人間ではないかも知れません。しかしその保障はないのです。それでは、支配・従属関係の根本原因は何だろうと、再度自問自答してみます。
そうすると、経済(社会)的原因としては、人々は欠乏から人生をスタートさせられ、奪い合いの生存競争をしなければ生きていけない事、自分が生きていく事に精一杯である事があります。それは、支配者が、労働者のもろもろの所有権や権利を奪っているからです。
では、精神(人間)的原因は何でしょうか?人間の愛や相互扶助の精神の欠如が挙げられるでしょう。
この両者は、互いが互いの原因となり、結果となり絶え間なく影響しあっています。
ですから、この悪循環から抜け出すには、その両方を同時に改善して行く必要があるでしょう。
●その為に必要な事は、
1)まず、労働と分配の分離(賃労働の廃止)すなわち、無条件にすべての人に社会の果実を分配する事によって、人生を欠乏からスタートするのではなく、労働する前に労働と関係なく分配する事ですでに与えられた所からスタートする事です。
それによって、人間は奪い合いの生存競争をする強制的な経済的重圧から自由に広い道徳的精神的見地から行動する可能性が人々に生まれます。所有権の移転への可能性が生まれます。
2)生産手段と土地の利用権の機会の平等と公正で自由な利用すなわち、支配関係ではない人々の自由意志に基づく生活が可能になる為に、土地・生産手段などの所有権の移転の改善などの制度の改善もこの時点で行なわれなければなりません。
3)さらにそこで、精神(人間)の愛(与え合い、分かち合い)と自由意志に基づく社会の創造建設努力が可能になると同時に、人々の生活の道徳性の向上が求められるのです。
それによって、すでに与えられた所からスタートする与え合う経済の基盤が強化されます。
この様に経済→精神(人間)→法政治→精神(人間)→経済の全領域の一連の円環の逆方向への循環的改善が連続的に積み重ねられる事によって、すなわち全領域の改善が循環的継続的になされる事によって、はじめて質的に実りある社会の改善が実を結びます。根本的な改善の為には、社会は全領域がひとつにつながっているので、全領域にわたる改善が必要なのです。
そう言いたく想います。
●以上の様に問題全体、全領域を見て考えると、所有権の移転は、社会問題を構成するひとつの大変重要な要素ですが、問題の一要素にすぎないのです。社会は巨大な生命体であり、2次元的平面的静止的論理思考や一元的思考ではつかみきれない難しさがある様です。
●労働力の交換価値としての労賃と、剰余価値の一現象形態である経営者報酬とは区別されるべきで、すべてを労働の対価として同一視できないのです、と言う田中氏の批判に関しては、もう述べました。まったくの同一視はしませんが、今日の社会は、正当なものかどうかは別にして、経営者であろうが、労働者であろうが、名目上は、労働の対価(報酬)として貨幣を受け取っています。
しかし、企業収入からの支払いは、本当は、協働により、労働の成果の売買代金として得た収入すなわち共同体全体の成果の社会構成員全員への生活費の為の分け前(必要の為の分配)です。

それは、何らかの理由で労働していないものの生活費(子供、老人、病人、障害者、失業者など)も、「非」経済労働者(精神文化や法政治の活動の専従者)の生活費も含むべきものです。
今日、経済労働者は、「非」経済労働者全員を養う義務がある事をわすれています。
経済物資を売りつけただけでは義務を果たした事にならず、生活費もしくは必要な経済物資を贈与しなければならないのです。
(もちろん、どれくらいのどの様な「非」経済労働者の生活費を負担するかは、経済労働者全員もしくは共同体全員の民主的な合意に基づいて決められなければなりませんが。)
それ故にすべての人間の営為、精神文化活動や、法政治活動は有料の商売になってしまい、本来の純粋な無料の奉仕行為ではなくなってしまいました。
また、お粗末な賃労働制度と言う不完全な分配制度の尻拭いを、国家や福祉や社会保障制度やボランティアがしている訳です。それは社会と人間の精神的分裂を意味しています。まるで、左手でなぐって右手で助けている様な、船底の穴が開いたままで、バケツで水を組み出している様なものです。
(けれども、繰り返しになりますが、企業や共同体の収入からの支払いは、人々の生活の必要の為の支払いだけではなく、企業や共同体の活動の為の必要に応える為にも支払われます。
それは活動費の分配であって労働の対価(報酬)などではありません。)





Date:  2007/11/5
Section: 『「モモ」と考える時間とお金の秘密』をめぐって
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