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田中一弘氏の批判的検討に対する回答(その1) 森 真澄


田中一弘氏の批判的検討に対する回答(その1) 07年11月2日 森 真澄

(1)労働の本質規定について

●田中氏の労働の本質規定
その1「人間は欲求充足の対象を獲得する為に自然に働きかけます。」
その2「自己の本質諸力の確証、自己の能力の実現」
 田中氏は上記の様に労働の本質を規定した上で、私(森)は、「労働を他人の為の労働としてとらえています」とし、「労働と生産手段や土地などの資本を、貨幣や経済を越えた精神(人間)領域に据える」というシュタイナーの見解を、「労働はまずもって感性的・対象的活動としてとらえられるのです。したがって労働を精神的活動としてのみ規定することは不十分ではないでしょうか。」と批判なさっています。

★★その1について
 まず、田中氏の労働の本質規定について。田中氏の本質の規定は、その1を
パン(物質)の為に生きるというものだとすれば、その2はパン以上(精神)のものの為に生きると言う人間の持つ多層性をあらわすものだと言えましょう。
 しかし、その1については、自給自足時代と、今日の様な分業社会とでは、労働のあり方に相違があります。
分業社会や共同体においては、だれ一人として、自分の労働の成果である生産物やサービスを自分の為に作っている人は居ず、基本的に他の人の為に労働しています。
 ですから、その1は、自給自足時代にしか完全にはあてはまりません。
またその1は、人間と自然の関係において言える事です。
 今日では、人間は自給自足時代の人間と自然のその様な関係を、賃労働制度に投影し、欲求充足の対象を獲得する為に、自然のかわりに社会に働きかけている訳です。
 いわば自然に従属依存していた人間が、自然のかわりに団体に支配される様になった訳です。自然のかわりに人間が人間を裁いているのです。しかし社会全体の果実の分配をどのようにするかは、人間と人間の関係の問題です。その1の様な事は、共同体においては、共同体の収穫総量全体と自然との関係、人間と自然との関係において言える事です。
 今日ではその団体が自然のかわりに果実=果実を得る権利である貨幣を与えてくれるのです。ですがそうすると、人間は人間と支配従属の関係になります。
 その様にして人間は、経済に支配され、持つ者に持たざる者が支配されているのです。
 また人間の精神は、経済に支配拘束されています。
 その支配従属関係の根本原因は、労働を売る以外に生きて行くすべがない社会状況に人間が置かれる事によって、人間の労働が商品に組み込まれ、労働と分配が賃労働という考えによって結び付けられ、分配が労働のご褒美として与えられる事によってです。

★★その2について
 その2は、単なる自然からの物資の獲得と言う目的を超えた、人間にとっての労働の持つ意味を示しています。それについて私は異論はありません。だからこそシュタイナーは人間の労働を数値価値尺度である貨幣(経済)の外に置き、人間の広い豊かなそして自由意志に基づく道徳的判断に基づくものとしたのです。シュタイナーは人間個性から発し、人間から社会や自然に働きかける人間行為を、人間活動(精神文化)領域と、自然から発し、人間に流れ込む経済物資は、経済領域と呼びました。その根源的相違を指摘したのです。では人間の労働は、そのどちらでしょうか?明らかに自然から人間に流れ込む経済物資ではなく、人間から社会・自然への働きかけです。
 しかし、経済領域においても、人間から流出するものが働いています。資本や労働がそうです。また経済領域においても人間の権利と機会の平等を守り不正を監視する役割において、法政治からの働きかけが必要です。しかし、純粋経済とも言うべき自然を加工流通する純粋経済行為の内容や計画などについては、法政治や精神文化組織の干渉支配を受けずに、自主的な経済活動が尊重されるべきだと考えます。
 経済以外の領域も同様に、他領域からの自分の役割の範囲での助けを必要としますが、しかし、根幹部分では自主管理が尊重されるべきだと言う訳です。
 例えば、教育でも、授業内容やその進め方に関しては、法政治は干渉支配せず、教師の自主性が尊重されなければならないと言う事です。法政治は、人間と人間の権利の平等を守る為にのみ、他の領域で働くのです。人間存在は、経済、法政治、精神文化の三つの結束体なので、社会の全領域で、その三つが人間において結ばれているのです。しかし社会の全領域において、人間の自由意志の尊重と自主的管理を基本(根幹)とする事は可能なのです。
したがって「労働を精神的活動としてのみ規定することは不十分ではないでしょうか。」
 という田中氏の批判には当たらないのです。シュタイナーは精神文化領域と言う時、人間→社会→自然という、人間から社会や自然への働きかけのすべてを含んでおり、一般的な概念で言う精神的活動ではないからです。自然→社会→人間と言う逆向きの流れが経済的領域の本質であり、労働は根源的に人間から発するもので根源が違うので、人間の労働は、商品として経済に組み込まれてはいけないと言っている訳です。相手は人間なのです。
そこが決定的な違いです。

(2)商品生産社会における分業と利己主義

●田中氏は、
「経済すなわち、物質的肉体的領域にあっては、人間は利己主義です。利己主義は肉体と共に始まっています。ですから損得勘定が、ある意味そこではふさわしいと言えます」と言う私のこの当然かつささやかな記述に対し、すごい反論しきれないほどの議論を展開されています。私には不可解です。
しかし可能な範囲で弁明を少し試みて見ましょう。
 田中氏は、
1)「利己主義は損得勘定に還元しうるか?生産の場で、協同と達成感を分かち合う喜びがあり、欲求充足の場でも、皆で食べるごはんはおいしいという共同性の喜びを例としてあげ、損得勘定と同義な利己主義は、個人の自立=共同性の解体を前提とした商品生産においてはじめて成立したのではないか?」とおっしゃっています。

2)そして、「「自然から人間に流れ込む経済加工品」の全面的商品化は、歴史的に資本制移行でしかありえないし、したがって賃労働を前提としている。」と批判している。
 大規模化した現在の生産において全員が自営業者である事は、歴史的にもなく未来において考慮に値せず、商品生産を温存すれば、その前提条件である賃労働を廃棄する事は出来ない。
 また商品自体に労働の貨幣価値判断の適用が含まれている。

3)マルクスが価値形態論で、商品価値とは労働の社会的性格の物象的形態であり、そこでは労働が抽象的人間労働へと還元され、数量的に評価されたものとして現れている。
 商品価値は、労働の社会的性格の物象的形態であり、商品生産と労働の貨幣的判断は相即的なのです。

★★1)について
 いかにも、生産の場でも消費の場でも、人間は物質的感覚的喜びだけでなく、精神的なさまざまな喜びを感じています。しかし、私が書いた事は、その事と全然矛盾しません。ただ、生存にかかわる経済的レベルでは自己保存本能が働く。経済的・物質的に欠乏状態に置かれると、人間はその欲求を満たす事を優先せざるを得ない。普通、自分が飢えていると自分の飢えを持たす為に行動する。それより上位の精神的価値云々どころではなくなりがちである。という人間の傾向を示唆したにすぎない。いわば、マルクスの言う経済が精神を規定すると言う一面の真理の正当性を述べたにすぎない。精神でパンが食えるかと言う事である。
 この文章は、人間の利己主義を撲滅しようと権力で押さえつけるのではなく、すべての人の利己主義が害を及ぼさない様に満足させる様にするにはどうしたらいいか?と私達は問うべきである、
 という主張の為の前文にすぎない。人間は精神的レベルでも、物質的レベルでも基本的に必要としているものがあり、物心共に健全な生活を送れる様な社会を求めている。
 私は、貨幣とは数値価値判断にすぎないと考えています。それ以外の定義は、人間が貨幣と言う数値価値判断を、ある事に適用する事によって、あとから人間によって付与される性格にすぎない。
 ですから、おっしゃるとおり、損得勘定も、貨幣という単なる数値価値尺度に人間が、あとから付与した性質にすぎない。しかし、貨幣と言う数値価値の適用を、商品に適用するのと同じ貨幣を人間労働にも使用するならば、人間労働を商品と交換する使役奴隷と大差ない人間の尊厳の冒涜である。貨幣を労働と交換するならば、人間を商品物質と同じ様に扱っているからである。だから、貨幣を商品に適用する事より、労働に適用する事の方が罪深いと言える。

★★2)について
 貨幣を商品(自然から発し人間に流れ込む経済加工流通品)にのみ適用し、労働に適用しない事は、歴史がどうあろうと可能である。なぜならそれを決めるのは人間自身だからである。
そう出来ないと思い込むのは、私達の意識がすでに現存の経済習慣と貨幣価値に支配拘束されて生活しているからにすぎない。

★★3)について
 3)で述べられている事は、現在の賃労働と資本主義の分析において述べられているが、すでに述べた様に、貨幣とは数値価値尺度であるにすぎず、そこに付与される性質はあとから貨幣の使い方によって人間が付与する性質にすぎない。数値価値尺度の持つ性質が、さまざまな場面で違った仮面をまとってあらわれるにすぎない。
「労働が抽象的人間労働へと還元され、数量的に評価されたものとして現れている。商品価値は、労働の社会的性格の物象的形態であり、商品生産と労働の貨幣的判断は相即的である」と言うのは、人間が貨幣価値を労働に適用し、特殊な商品として扱うが故に、結果としてあらわれる性質の分析である。
 しかし、労働を特殊な商品とみなし、自然から発し人間に流れ込む経済加工流通品の交換と同じ貨幣で交換する事自体が道徳的にすでに問題なのであり、労働を商品とみなさず、経済加工流通品のみに貨幣を適用する事は、不可能とは言えず、また、そうすべきだから、そうしようと努力すべき、その様な事柄ではないでしょうか?

(3)分配と生産関係についてと、(4)自由意志に基づく道徳的判断についての回答は、長くなって夜も更けてきたので、後日、その2としてご回答します。





Date:  2007/11/2
Section: 『「モモ」と考える時間とお金の秘密』をめぐって
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