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榎原均氏の価値形態論に関する若干の疑問 田中一弘


榎原均氏の価値形態論に関する若干の疑問

田中一弘

以下の文は榎原氏の『価値形態・物象化・物神性』(以下本書、文書名のない引用はすべて本書からの引用です)「第一部価値形態と物神性」の読書ノートであり、アナリティカル・マルキシズム論争のような学術論文のレベルにたっしていないものです。したがってこのページにはふさわしくないかもしれませんが、量的に掲示板をこえるので、ここに投稿させていただきました。

(1)事態抽象の把握を可能にする知の根拠とは

まず第一に、思惟抽象と事態抽象との区別に関する疑問です。つまり事態抽象を把握する思惟の論理とは何か、という点です。この点に関して榎原氏は、従来の認識論においては「感性が認識の媒介であった。理性自体も感性を土台としており、感性的に認識する事態の分析と総合であった。こうして、感性的に把握できないとされている価値対象性をどうやって認識しうるのか、という認識論上の難問が提出されている。」(p.123)と述べています。そしてその解決の鍵を物象の人格化と人格の物象化に求め、「人間は物象に意志を支配されているが故に、物象化された生産諸関係に存在している価値対象性と価値の諸法則を認識しうるのである。」(p124)と結論付けています。

この問題は価値論の範囲にとどまるものではなく、弁証法の問題でもあると思われます。「哲学の旅」をまだ全部読んでいませんので、的外れな疑問かもしれません。ただ、価値対象性・価値法則の認識はブルジョア経済学でもできる事柄であって、問題はマルクスのような価値形態論が成立する根拠なのではないか、という疑問だけをここでは提出しておきたいと思います。言い換えれば、マルクスだけがなぜ価値形態の背後に潜む実体内容を把握できたのか、という問題です。さらに言えば、弁証法の真理性はどのように証明されるのか、という問題だと思います。超感性的なものの把握なのだから、実験による証明は不可能です。論理的な整合性にのみ求められるのでしょうか。

(2)価値存在は価値形態に先行するのか

 <20エレのリンネル=1着の上着>という価値関係において、リンネルは「それ自身の価値存在を、さしあたりはまず、自分に等しいものとしての他の一つの商品、上着に、自分に等しいものとして、関係させることによって、示すのである。」(『資本論』初版・国民文庫版、p.44)言い換えれば、リンネルは上着を「価値として等置することによって・・・自分を使用価値としての自分自身から区別するのである。」(同p.45)つまり、「リンネルの価値は、ただ、他の商品、たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ現れるので」(同上)ある。このようにマルクスは価値形態の分析を始めていますが、以上の叙述を素直に読むと、「価値として」リンネルは「価値としての」上着に関係すると読めますが、そうなると価値存在としてのリンネル・上着が価値形態に先行していることになるのではないでしょうか。そしてここから価値形態論を価値表現論としてのみ捉える解釈が現れるのではないか。

これに対して榎原氏は「マルクスが、労働生産物は価値としては、抽象的人間労働の凝結だ、と述べるとき、労働生産物の等置関係を念頭において、この関係のなかで形成されている事態について明らかにしたのであって、単独の労働生産物のなかから抽象的人間労働をとりだしたわけではない。」(p.74)と述べています。さらに「簡単な価値形態を、リンネルに上着を等置すること、つまりは二つの使用価値の割合というように捉えたのでは価値形態を感性に則して規定したことになり、どういう質のものがどのように等置されているか、ということは、暗黙の前提にされてしまう。」(p.52~3)「そこでマルクスは、この価値関係を、すでに同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係として見る見地から、さらに一歩分析を深め、これをリンネルからの上着への連関として規定することによって、この等置における質の同等性を浮かびあがらせようとしたのであった。」(p.53)このような見地にたってさきほどのマルクスの叙述を読むならば、「価値として」というのは、交換関係における商品の「価値としての」側面、という意味に受けとるのが正しいのではないでしょうか。実際、マルクスも初版において次のような註をつけています。「われわれが今後「価値」という言葉をそれ以上の規定なしに用いる場合には、それは常に交換価値のことである。」(初版p.24)つまり「価値」は交換関係を常に前提としている、ということです。

この註は「諸商品はそれらの交換関係からは独立に、またはそれらが諸交換価値として現れる形態からは独立に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。」という部分につけられていますが、マルクス自身も誤解が生じることを危惧していた証拠ではないでしょうか。つまり「関係からは独立に」考察するとはいえ、あくまでも価値とは交換価値であり、関係の内部でのみ成立している、ということを忘れてはならないと確認しているのではないでしょうか。(ちなみに現行版ではこの註が削除されています。マルクス自身の意図は分かりませんが、その結果誤解が生じることに拍車をかけているような気がします。)

ただ労働生産物は商品として生産されているからこそ、交換関係が成立することを考えると、価値存在が前提となって交換関係が成立するともいえるのかもしれません。そこで交換関係以前の商品を即自的(可能性としての)商品、交換関係すなわち価値形態をとった商品を対自的(現実としての)商品として、捉えることで問題が解決するのではないでしょうか。

(3)抽象的人間労働とはなにか

ここでは「商品形態が人々のどのような社会的関係であるかを解明したものは、価値形態の分析である。」(p.67)という観点から、価値実体としての抽象的人間労働について考えます。

抽象的人間労働をめぐってはこれまで様々な論争が展開されてきましたが、ここではその歴史的規定性に関してのみ触れたいと思います。(価値の価格への転形問題など、『資本論』第三巻の範囲には現在の私の力量では触れることができません。)

まず榎原氏の叙述を見てみると「労働の社会的形態とは、そこにおいて抽象的人間労働の関連が見い出せる労働生産物の関係の形態なのである。」(p.68~9)「生産物を商品として、したがってまた価値として扱うことは、生産者たちが、自らの私的な生産物を同等な人間労働として相互に関連させていることなのだが、ここで注意しておかねばならないのは、その関連が「物象的形態において」なされることである。」(p.70)それはなぜかといえば、商品とは「互いに独立な諸私的労働の生産物であるからにほかならない。」(初版p.71~2)つまり生産過程において関係が成立してはいないがゆえに、「物象的形態において」関係せざるをえないということです。そしてこの関係が交換関係であり、その関係の内部で抽象的人間労働への還元が行われることを、簡単な価値形態の分析においてマルクスは解明しています。

以上の点を踏まえるならば、価値実体としての抽象的人間労働とは「歴史貫通的な」実体ではないことは明らかです。しかし一方で抽象的人間労働とは「単なる人間労働を、人間の労働力一般の支出を」(初版p.35)意味していることをどのように捉えるべきなのか、という問題があります。この規定はそれだけを取り出して見るならば、なんら歴史的な規定性ではないからです。

榎原氏は「相互に独立して営まれる私的諸労働に含まれているこの意味での抽象的人間労働は、私的労働の属性である。他方価値の実体としての抽象的人間労働は、社会的実体であり、私的労働の社会的性格を示すものでなければならない。」(p.73)と述べて、さらに

「商品価値の実体としての抽象的人間労働は生きた労働の属性ではないこと、生きた労働のこの属性は価値を創造する実体であり、対象化された労働が抽象的人間労働という属性で価値の実体となっていることは区別する必要がある」(p.105)と述べいます。つまり問題は「私的」=「生きた」労働と、「社会的」=「対象化された」労働とを区別しなければならないということです。
この区別について、私は「生きた」労働と「対象化された」労働との区別は不正確ではないかと考えます。「対象化された労働」とはあくまでも価値であり、その実体である労働はあくまでも活動としての労働ではないでしょうか。(「流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。」『資本論』現行版・新日本出版社版・p87」)

もっとも価値という対象的形態においてのみ現れることを考えると「対象化された」労働といってもいいような気がしますがなんだかむりやりな言いがかりみたいでしょうか。

「私的」労働と「社会的」労働との区別は重要だとおもいます。「私的」労働が価値形態を獲得することによって初めて「社会的」労働に転化する、従って価値実体としての抽象的人間労働はあくまでも商品生産社会における「社会的」労働の規定にほかなりません。この「社会的」労働への転化とは、マルクスが物神性論(『資本論』初版p.80~1)で述べているように、社会的総労働時間の配分の問題であり、従って労働の量的規定性が問題となります。

価値の実体が抽象的人間労働であるのはこうした意味として把握すべきでしょう。

「私的」労働の属性としての抽象的人間労働とは、単に「私的」労働の量的規定=労働時間のことであり、従って抽象的人間労働と呼ぶことは適当ではないと思われます。マルクスも価値実体として以外では抽象的人間労働とは言わずに、人間労働一般といっているのではないでしょうか。商品生産社会では、現実の労働つまり感性的・対象的に把握できる活動としての労働はすべて私的労働として行われるので、「私的」労働=具体的有用労働として捉えられると思います。そしてこの具体的有用労働とは歴史貫通的なもので(とはいえ、技術的、あるいは質的発展段階が存在するのは自明であり、超歴史的とはいえない)その労働の規定性として、質的規定と量的規定があるのであって、「およそ労働はいつの時代にも具体的有用労働と抽象的人間労働という二つの属性をもっている。」(p.73)というのは不適格ではないでしょうか。

抽象的人間労働とは具体的有用労働から自立化して現れている労働であり、「抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。」(初版p.47)がゆえに、価値対象性という形態をとるのです。「私的」労働と「社会的」労働との分裂があるからこそ、労働の量的規定が抽象的人間労働の対象化として、自立化=物象化せざるをえないのです。すなわち社会的労働時間の配分は労働の現場ではなされず、労働生産物の交換を通じてはじめて行われるがゆえに、具体性から自立した抽象的なものになる、ということではないでしょうか。商品生産社会は、価値法則を通じてのみ、生産者の労働を社会的総労働の一分肢として位置づける、といえるのです。






Date:  2007/7/2
Section: 07年新たな論争を
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