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伊藤一氏の土曜会レジュメについて


伊藤一氏の土曜会レジュメについて


2000.9.2 榎原均

【1】はじめに


(1)伊藤一氏は、左翼の側から初めて「榎原綱領」にコメントした。『国際主義』36号に掲載されている「榎原綱領(案)の検討 その1」がそれである。問題を正面からとりあげた力作で、これについてコメントする義務があるが、まだ続きが公表されておらず、全文公表されて以降にコメントすることにしている。

(2)同じ伊藤氏が、土曜会で「政治革命先行説の検討」というレジュメを出している。今回はこれについて取り上げる。

【2】伊藤説の特徴


(1)伊藤氏は、政治革命以降に問題となる「経済改革」「文化革命」「意識革命」「社会革命」などのうち、政治革命と社会革命について次のように述べている。
「私は、変革の上部構造領域として『政治』(=政治的上部構造)と『社会』(=法律的上部構造)の二つの領域を想定している。」
つまり伊藤氏によれば社会革命とは経済的土台の変革ではなく、「法律的上部構造」の変革だ、ということになる。というのも伊藤氏は「法律的上部構造」に所有関係を含め、それを経済的土台に含めるのは間違いだとみなしているからである。
 このように考える伊藤氏は、所有関係そのものが経済的土台によって生産し、再生産されていることを否定し、所有を単に法律的上部構造としてのみ理解し、こうして社会革命を下部構造の変革ではなくて、法律的上部構造の変革とみなしていることになる。法律的上部構造を私有制から共有制に変えることが共産主義を目指した社会革命の任務だと理解されている。

(2)次に伊藤氏は「変革すべき資本主義の社会領域として、経済的土台に『商品経済・資本主義的生産→共産主義的共有財産』を対応させ、上部構造に『法律的上部構造(私的所有制→共有制)、政治的上部構造(国家→死滅)』」を想定している。伊藤氏は「体制変革の条件は経済的土台が形成するが、その実現は上部構造領域での意志的な闘いがもたらす」と考えているので、結局は過渡期における「法律的上部構造」の変革が社会革命の内容とみなされている。これはまた「全住民の相互関係を如何に変革するのか」というようにも捉えられている。

(3)労働証書制もこの観点からは「私有廃絶―共産主義(社会主義)社会出発の重要指標」とみなされる。でもこれは国家権力が法律によって強制できないという。それは住民全体の相互関係を変革していく上での目標だというのだが、ではどのようにしてこの変革を進めるのだろうか。またそれは国家の死滅と不可分だとも言われている。

(4)次にプロレタリアート独裁下の国有生産手段は資本主義国の国家資本と同一であり、プロレタリアート独裁、つまり「『プロレタリアート国家』=『プロレタリアート権力』とは、資本主義的な経済的土台の上にあって、国家権力を資本主義廃絶のための『技術上の手段』として利用することを意味している」とされる。
つまりプロレタリアート国家は、共産主義を実現していく「技術上の手段」だというのである。プロレタリア国家とは資本主義を廃絶した経済・政治をもつ社会ではない、というわけだ。

(5)そこで、プロレタリアート独裁の国家の下でも、この国家権力を「技術上の条件」として、全社会的な変革を進め、国家の死滅と国有生産手段の共有への変革を進めていくが、この時の目標が労働証書制であり、そしてこの全社会的な変革を推進する課題が「『社会』(=法律的上部構造)領域の変革」だとされている。

【3】伊藤説の問題点


(1)政治的上部構造=国家、法律的上部構造=社会という分け方は新説だが、こんな分け方は国家を具体的に分析すれば成立し得ない。法律的上部構造とは何か、立法機関、司法機関、行政機関という国家機関以外のところにそんなものがあり得るのか。国家自体が政治的・法律的上部構造ではないのか。

(2)伊藤氏は政治革命の不可避性を言いたいがために、社会革命を上部構造の変革であるかの如く想定してしまったのではないか。これでは伊藤氏の主張する労働者住民の相互関係の変革も、上からの変革にしかならない。

(3)「政治革命」についても言葉だけで、階級闘争の歴史的経験を踏まえていない。そもそも、ブルジョア国家とプロレタリア国家(具体的にはソ連の初期の国家)とは本質的に異なっていて、レーニンは死滅すべく組織された国家(ブルジョア国家機関を粉砕する)を目指していたはず。国家的所有の内容を決定するものは、国家の性格でありプロレタリア国家の下での国営企業は二重の意味での自由な労働者を雇用するのではなく、国有生産手段の下位占有者としての労働者と契約するのだ。
 コンミューン型国家は、工場における労働者の自己権力に支えられねばならない。伊藤説だと、ブルジョア国家もプロレタリア国家も、国家の組織形態としては変わりがない。ということに成りかねない。そもそも「ブルジョアジーの国家に対する直接の反政府闘争」からは政治革命は実現できない。上層の危機、下層の危機と自己権力の形成くらいは念頭におくべきだ。

(4)そして、今日何よりも問題なのは、上層の危機、下層の危機の現われが、資本主義のグローバリゼーションの影響ですっかり変わってしまい、政治権力を打倒しプロレタリアート独裁の国家を樹立するということについての政治的展望を描くことが困難になっているということだ。この現状認識を抜きにして「政治革命」の重要性について語っても、何も言ったことにはならないのではなかろうか。政治革命の不可避性について語りたいのなら、政治革命の展望について語るべきで、それができないのなら不可避性を唱えてみても不毛ではなかろうか。




Date:  2006/1/5
Section: 政治 共産主義運動をどう総括するか
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