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価値形態論への一視角


価値形態論への一視角


2002.07.18 中野英夫

 中野英夫さんから論文の投稿がありましたので、UPします。中野さんは、価値形態論は商品所有者の欲望を考慮に入れることで理解可能なものとなる、という宇野弘蔵の提起を継承し、この立場からの価値形態論を展開しています。中野さんが、この論文で言及されている小幡道昭さんや田中史郎さんの本については、私も手にしたことがあるのですが、きちんと読まないままでした。でも、今回の中野さんの論文を読むと、すっきりした論拠が述べられていて、これは宇野弘蔵の視角からの一つの到達点として非常に意義のあるものだと思います。新たなレベルでの価値形態論の論議が始まることを期待しています。榎原均

 中国福州にて日本語教師をしている中野英夫と申します。
 大学以来の研究テーマは「価値論」。とりわけ「価値形態論」を研究しています。以下、去年書いたものを投稿させていただきます。

生成するものとしての価値概念


はじめに


 「商品の価値とは何か」という問いを発したとき、大まかに言って次の三種の「回答」が考えられるだろう。

 (1)マルクス主義経済学者の「投下労働量である」という「回答」
 (2)初期限界主義経済学の「限界効用である」という「回答」
 (3)「日常意識」における「他の商品あるいは貨幣と交換しうる、商品に内在する属性」という「回答」

 しかし、(1)および(2)の「回答」は、実は「価値量を背後で規制するものは何か」という別次元の問いに対する「回答」なのであって、「商品の価値とは何か」という問いの「回答」には適さないものである。したがって、唯一の「回答」は(3)しかない。
 こう言うと、マルクス主義経済学者から「そんな『回答』は意味がない。それは自明のことであり、その『属性』の本質が何であるかが経済学の課題だ」という非難が浴びせられるかもしれない。

 しかし、この「属性」は本当に自明なものなのだろうか。
例えば、「効用の可測性」や「無差別曲線」の議論を経た後の後期限界主義経済学、すなわち現在の新古典派経済学は、「商品に内在する価値」といった観念には否定的である。少なくとも価格の決定に際しては価値概念が必要なものとは思ってはいない。いや、経済学の知識のない人々でも少しでも反省してみれば、「商品に内在する価値」なるものが見ることも、触ることもできない「幻影のような同じ対象性」であることはすぐにでも了解できるはずである。

 このように、マルクス主義経済学は日常意識上において無反省に認められる「商品に内在する価値」をアプリオリに肯定し、現在の新古典派経済学はそれを立証できぬものとして拒否している。そして、「立証できぬものについては言及しない」という限りにおいては、後者のほうが「科学的」であることは否めない。

 しかし、マルクス主義経済学ならぬマルクスの経済学は「立証できぬものについては言及しない」という結論に留まることはできない。「見ることも、触ることもできないもの」がなぜ日常意識においては存在しているかのように思われるのか。この謎-貨幣および商品の物神性-を解き明かすのがマルクスの経済学の重要な使命の一つなのである。換言すれば、「商品の価値」をアプリオリに存在するものとしてではなく、商品所有者の協働的関係性の中から「生成していくもの」として把握する-これがマルクスの本来の意図なのである。そして、「価値」に対するこうしたアプローチは宇野弘蔵とその学派によって受け継がれたと言ってよい。

 本論はこうしたアプローチに沿って「商品の価値」を分析していこうとするものである。

1「価値」の先行的定義は必要か


 宇野自身を含め宇野派諸氏の原論では価値形態論の議論に入る前に、「同質性」「交換力」などの「価値」の定義が与えられている。我々はこのことにまず疑問を持つ。

 前述したように、日常意識から離れ「価値」なるものの存在を反省してみるならば、その実在には疑わしいものがあるのである。その疑わしいものが日常意識上では「存在するかのように」受け止められている。「ない」ものがなぜ「ある」かのように思われるのか-この謎を解くためには、「ない」状態から論理の展開を始めるのは当然であろう。これは、価値形態論において「貨幣がない」状態-現実にはありえないが論理の展開のために必要な想定である-からその論理を進めるのと同様である。

 したがって、我々は「価値」の先行的定義を認めない。以下のいわゆる「価値形態論」においては、商品所有者がある他の商品を欲しているという事実-商品所有者の交換行動-に則して、徐々に「価値」なる概念が生成していくという論理の展開をとっていくことにする。
 その出発点となるのは、一人の商品所有者が他の一つの商品を欲しているという事態、すなわち、「簡単なる価値形態」である。

2「簡単なる価値形態」における「価値」の萌芽


 宇野『原論』では、「簡単なる価値形態」の意味は以下のように説明されている。
「ここではリンネルの所有者が、商品として有するリンネルの内から20ヤールをとって、己れの欲する一着の上衣に対して、誰か一着の上衣をもって交換を求めるものがあれば、20ヤールのリンネルを渡してよい、という形でリンネルの価値を表現するものである。」

 さて、この文言で「価値を表現する」という述語の主語は「リンネルの所有者が」である。「商品所有者の欲望」を抜きに「価値形態論」は語れないと指摘したのは宇野の功績であることは間違いないが、この文言を見ると、宇野自身がそうした視角を十全に生かしているとは言えない。
 なぜなら、「一人の商品所有者が他の一つの商品を欲しているという事態」においては、この商品所有者は「価値が等しい」がゆえに、または、「自己の商品の価値を表現するために」他の商品との交換を望んでいるのではないからである。ただ、その使用価値を欲しているにすぎないのである。ただ、後述するように、その商品を獲得しようとするために自己の商品を提供するという行為の中から結果的に「価値の萌芽」が見えてくるのである。

 こうした宇野の不徹底さは結局「価値」概念を先行的に定義したゆえではなかろうか。その結果、宇野「価値形態論」全体は、「価値」なる「本質」の「外化」過程というヘーゲル流の神秘学説に近いものになってしまう。上記のように、出発点たる「簡単なる価値形態」にすでにその一端が見えていることからもこのことは言える。
 これに対し、「『価値』概念が存在しないところから始める」という我々の仮定のもとでは、商品所有者の交換行動の目的は第一に「使用価値の獲得」となり、ヘーゲル流の神秘学説に陥ることは決してない。

 さて、ここで、通常の用語に従い、欲求された商品を「等価形態にある商品」と言い、提供された商品を「相対的価値形態にある商品」と言おう。さらに、相対的価値形態にある商品xjの量をxjk(j,k=1,2,……n)とし、xjに対し等価形態に置かれた商品ykの量をykj(当然のことだが、xjk・ykjともに非負である)とすると、一人の x1所有者がある一種類の商品y1をy11だけ欲しその代わりにx1をx11提供するという場合、すなわち「簡単なる価値形態」は以下の式が成立する。

  x11→y11

 この式はx11がy11にアプリオリに等しいことを(または、すでに両者が交換されてしまったことを)けっして意味しているのではない。x1所有者がy11を欲して、その代わりにx11を提供しようとしていることを表現している。この式は、「y11はx11に等しい」というx1所有者の一方的な「主観的評価」を表しているに過ぎないのである。
 しかしながら、「価値」に至る第一歩もまた見えている。それは、「y11はx11に等しい」がゆえに、「この両者に共通のものが内在している」というx1所有者の「私念」が発生してくるという点である。
 ここで注意すべきことは、その「共通なもの」がx1・y1双方に同程度に内在しているわけではないということである。すなわち、x1に「内在」している「共通なもの」は、上衣と交換されない限り不確定なものであるのに対し、y1に「内在」しているそれは、いつでも交換に応じられるという点で安定的な様相を示しているのである。

 このように「共通なもの」(とリンネル所有者が『私念』しているもの)は、交換を申し出た商品と申しだされた商品においては非対称的なあり方を示すのである。すなわち、x1に「内在」する「共通なもの」は「他の商品と交換しうる可能性を不確定ながら持っている」程度の「非直接的交換可能性」であるのに対し、y1に「内在」する「共通なもの」は「少なくともx1とは確実に交換しうる」という「直接的交換可能性」である。

 「直接的交換可能性」とは「価値の原形態」であると言ってよい。x11→y11という関係に限って言えば、y1のほうにその属性が強く出ているというわけである。もちろん、このことは無数の商品と無数の商品所有者で構成される商品世界では無視しうる偶然の事柄であり、商品世界の当事者全員が承認しているわけではない。あくまで、x1所有者の一方的な主観的評価――x1の「交換力」はもちろんのこと、y1のそれもである――なのであり、まだ「価値」とは言えないであろう。したがって、この段階では「価値」はx1所有者の主観的評価の中に萌芽として存在しているだけである。換言すれば、「価値」はいまだ潜勢的形態として顕在化していないのである。

 また、x1所有者は上衣の「直接的交換可能性」を目的として交換を求めているわけではない。あくまでも、y1そのものを、すなわちy1の使用価値を欲しているわけであり、その結果として、y1に「直接的交換可能性」が付与されているに過ぎない。この意味においても、「価値」はいまだ上衣という使用価値の中に隠されている潜勢的形態と言えよう。

3「拡大された価値形態」の意味


 その次の段階である「拡大された価値形態」においても事情は変わらない。
ここでx1kを成分とする列ベクトルとyk1を成分とする列ベクトルを考えると、「拡大された価値形態」の式は以下のように表すことができる。

 x11      y11
  ・      ・
  ・      ・
  ・  →   ・
  ・      ・
  ・      ・
  ・      ・
 x1n      yn1

 この「拡大された価値形態」のマルクス自身の位置付けは次のようなものであった。
 「亜麻布(リンネル-筆者)の価値は、上衣・またはコーヒー・または鉄など、すなわち種々さまざまな所有者に属する無数のさまざまな商品で表示されても、依然として同等な大いさである。二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係は見られなくなる。交換が商品の価値の大いさを調整するのでなく、その逆に、商品の価値の大いさが商品の交換比率を調整するのだということが、明らかになる」

 ここには「価値をアプリオリに存在するものとする」という発想-ヘーゲル流の本質が個別の現象として外化するという発想と古典派的価値論が結びついたもの-が如実に現れている。その発想を前提にすると、確かに「拡大された価値形態」は個々の商品の使用価値とは区別された共通の「価値」が存在することを明らかにするものになろう。

 しかし、事態はまさに逆である。商品経済においては「交換の申し出→交換の承認というプロセスが商品の価値の大いさを調整する」のである。そうとするならば、「拡大された価値形態」は、x1所有者が様々な商品を欲していることを示す式-「簡単なる価値形態」の並列-に過ぎないことが了解されるだろう。したがって、前述した「簡単なる価値形態」の意味はそのまま「拡大された価値形態」に適用できるわけである。

 マルクスのこうした発想を批判した宇野もマルクスの幣から完全に自由であるとは言えない。
 「個々の商品所有者は、勿論、その商品の価値を単に他の一商品の使用価値によって表現するというものではない。己れの欲する他の商品の使用価値の種々なる量をもって表現する」「己れの欲する種々なる商品の種々なる量によるリンネルの価値の表現は、いうまでもなくリンネル商品の所有者の主観的評価によるものとしてではあるが、先きの上衣による価値表現の単一なる社会関係をさらに展開するものである」

 前者の引用では、「単純なる価値形態」の時と同様に「商品所有者が自己の商品の価値を他の商品によって表現する」という発想がここでも出てきており、後者の引用は、「リンネル商品の所有者の主観的評価によるものとしてではあるが」マルクスの上記の表現と軌を一にしているものである。

 では、このような解釈を取らないとすれば、「拡大された価値形態」の意味はどこにあるのであろうか。
 繰り返しになるが、x1所有者のy1の使用価値への「欲求」が価値形態論の端緒であった。そうとするならば、まず誰しも思いつくのは、簡単なる価値形態から拡大された価値形態への論理的発展は、リンネル所有者の様々な他の商品に対する「欲求」の拡大の結果ということになる。一見こうした解釈は疑問の余地がないように思われるが、より深く考察してみると、そうした解釈は成り立ち得ないことがわかる。このことは、簡単なる価値形態に立ち返ってみるとただちに理解できることである。リンネル所有者は、彼が「欲求」する無数の商品の中から現在最優先すべき商品として上衣を選択したのである。すなわち、簡単なる価値形態は拡大された価値形態の中から選択されたものなのである。

 ところが、宇野派の著作の多くは、この問題をあまり意識していないようである。多くの場合、「商品所有者は様々な欲求を持つ」という事実だけから拡大された価値形態の説明に入っているのである。

 しかしながら、この問題に正面から取り組んでいる著作も少ないながら存在する。小幡道昭『価値論の展開』(東京大学出版会1988)と田中史郎『商品と貨幣の論理』(白順社1991)の二書である。
 『価値論の展開』は、「単純な価値形態にとって外的な要因を持ち込むことで欲求の対象を拡散させ、緊急な商品から始まってその末端に奢侈財を登場させるようなかたちで等価形態の拡大をはかるのでなく、あくまで端緒の価値形態に内在する論理で次の形態へ移行する必要があるのである」として、「商品所有者は様々な欲求を持つ」という事実から拡大された価値形態へ移行するという方法に批判的である。

 では、小幡氏の言う「端緒の価値形態に内在する論理」とはどのようなものなのだろうか。それは、x1所有者がy1を確実に手に入れるにはy1所有者が現在どのような商品を欲しているかということを考慮しなければならないという点にかかっている。

 「リンネル所有者にとっては相手がそのとき欲しいと思っている当の商品を、先回りして手に入れるほかないわけである。もし上衣所有者のうちある者が、上衣1着=10ポンドの茶という形態で交換を求めているとすれば、われわれのリンネル所有者にとつては10ポンドの茶もまた新たな交換の対象に繰り入れられることになろう」

 この場合茶はその直接的な使用価値が欲求されているわけではない。それは、「あくまでも目的物を獲得する手段にすぎない」のである。

 この論理は後に議論されるべき「一般的等価形態」を先取りしたものになっていると言ってよい。しかし、「目的物を獲得する手段」という「間接的な欲求」が初めて出てくるのは、やはり「一般的等価形態」においてであるとしたほうが論理の展開としは自然ではなかろうか。小幡氏の論理に従うと、「簡単なる価値形態」と「拡大された価値形態」の間に大きな質的断絶が存在することになるが、我々は、次節で見るように、そうした「断絶」は通常の解釈に従い「拡大された価値形態」と「一般的価値形態」の間にあると見るのである。

 また、小幡氏は「商品所有者は様々な欲求を持つ」という事実をあまりにも無視しているのではなかろうか。小幡氏は、この事実を拡大された価値形態の論理展開に持ち込むことは「単純な価値形態に外部からの欲求の多面性を接ぎ木する」ことであり、「両形態の内的関連を掩蔽」することであると指摘している。しかし、この事実を否定することはできないのであり、それを「価値形態論」の中に反映させるのも、これまた自然のことであると考えるのである。

 我々が従来の宇野派の「価値形態論」に不満なのは、「商品所有者は様々な欲求を持つ」という事実をその論理に取り入れたからではない。その事実と「簡単なる価値形態」との論理的関連性を述べることなく、ただちに「拡大された価値形態」に移行するという安易な説明の仕方なのである。
 結局、問題は「商品所有者は様々な欲求を持つ」という事実を「価値形態論」の中にいかに説得的に位置付けるかということになるわけである。そして、この問題に一つの回答を与えたのが田中史郎『商品と貨幣の論理』である。

 『商品と貨幣の論理』は、「一般的にいって、はじめは唯一の商品に対して交換を要求し、そしてつぎはそれが複数の商品に及ぶという事態は考えにくい」として、まず「商品所有者の欲望の拡大」から拡大された価値形態に移行するという論理を退け、むしろ、「それがはじめから複数の場合があって当然である」と述べる。したがって、「簡単なる価値形態」は「拡大された価値形態」の一つに「スポットライト」を照射したものにすぎないということになる。にもかかわらず「叙述の順序」が逆になるのは、「一つの価値式に注目しつつ、価値形態の定義や相対的価値形態、等価形態などの諸概念を規定していたその分析者の視野が、ある商品所有者の他の交換要求の行為まで及んだものと理解しえる」からなのであると、田中氏は結論付けるのである。

 拡大された価値形態は、分析者の視野の拡大によって見出されたもの-この視角から田中氏は「この第・形態(拡大された価値形態-筆者)においても相対的価値形態、等価形態あるいは等価物の概念規定に変化はない」という結論をも導き出す。表現こそ異なれ、これは我々が導き出した「拡大された価値形態」の意味と同値である。したがって、田中氏の上記の解釈は、我々の分析を補強するものとして積極的に受け入れたいと思う。

 さて、次の段階は「一般的価値形態」となるわけだが、批判の多いマルクスの「逆転の論理」をここで持ち出し一挙に「一般的価値形態」へ移行するわけにはいかない。「一般的価値形態」への移行の前に「拡大された価値形態」と「一般的価値形態」とを繋ぐ新たな「価値形態」が必要になってくるのである。
 この新たな「価値形態」について、宇野は「かかるマルクスのいわゆる拡大された価値形態の、各商品における展開」と述べている。それは、一人の商品所有者の「拡大された価値形態」を商品世界全体に拡大した「拡大された拡大された価値形態」とでも言うべきものである。

 「拡大された価値形態」では、登場人物はx1所有者ただ一人であった。ここでさらに、x2、x3、……所有者と彼らの欲している商品群を登場させるのである。ここで、xjkを成分とするn×nの行列とykjを成分とするやはりn×nの行列を考えよう。この両者に次の関係式が成立するとするのである。

 x11…………・xn1      y11…………・y1n
  ・    ・       ・     ・
  ・    ・       ・     ・
 x17…………・xn7  →  y71…………・y7n
  ・    ・       ・     ・
  ・    ・       ・     ・
 x1n…………・xnn      yn1…………・ynn

 宇野派の原論では、この式が「拡大された価値形態」と「一般的価値形態」との間に置かれているのが散見される。これは「逆転の論理」を使用せずに、「一般的等価形態」の候補、すなわち「いずれの商品の等価形態にも共通にあらわれる特定の商品」を見出すためである。右辺にあるy7という商品に注目されたい。この商品が多くの商品所有者から需要されていると仮定しよう。(数学的にはy7j>0となる割合が他の右辺にあるどの商品より多いということになる)このy7は、多くの商品所有者から需要されているがゆえに、「直接的交換可能性」が他の商品より強いという性格が付与されることになる。

 ここで一つのパラドックスが生じる。商品所有者の中で「y7は多くの人間から需要されている→自分が今必要としている商品の所有者もy7を需要しているに違いない→まずy7を手に入れそれをもって必要な商品と交換しよう」というような思考が生じるのである。
 最もその使用価値が需要される商品であるゆえに、逆にその使用価値ではなくてその「直接交換可能性」が求められるというパラドックスが生じるのである。ここにおいて、「直接的交換可能性」が使用価値の制約を排して自立し始め、「一般的価値形態」が成立する。

4 一般的価値形態――「直接交換可能性」の自立化


 宇野は「一般的価値形態」について以下のように簡単にまとめている。

 「各商品所有者は、直接己れの欲する商品をもってその価値を表示し、その商品所有者から一般的には期待しえない交換を待つというのではなく、間接的にではあるが、先ず一般的にあらゆる商品に対して直接的に交換を要求しうる商品によってその価値を表示し、その商品を通して己れの欲する商品との交換を求めるということになる」「その価値を表示し」という難点はあるが基本的に同意できる解釈であろう。

 これを受けて、宇野派の原論では、「一般的価値形態」を前節の「拡大された拡大された価値形態」の式からy7との交換式だけを切り取った以下のような式で表すことが多い。

 (x17…………・xn7)→(y71…………・y7n)

 しかし、この式自体は「各商品所有者がy7(の使用価値)を求めている」という意味しかない。現実にはx1所有者はy1を、x2の所有者はy2を、x3の所有者はy3を、x4の所有者はy4を優先的に欲しており、y7は下位の選択対象かもしれないのである。 さらに言うならば、この式の両辺には、xj7=y7j=0の成分、すなわちy7が需要されていな場合も含まれている(前節ではすべての商品所有者がy7を需要しているという極端な仮定はとらなかった)のであり、式としても不完全なのである。
 したがって、y7があくまで使用価値として需要されている限り、この式は同種の等価形態を持つ「簡単なる価値形態」が並んでいる式にすぎないのであり、この式だけを取り出す必然性はどこにもない。結局、この式は分析者が、「拡大された拡大された価値形態」の中から「共通等価物に着目して、分析者がたんに組み換えたもの」すぎないのである。

 しかし、前述したように、多くの商品所有者が「まずy7を手に入れそれをもって必要な商品と交換しよう」とするならば、すなわちy7が「交換手段」であるとの観念が汎通的なものになったならば、事態は変わる。各商品所有者はおのれの欲する商品を獲得するためにまずy7を手に入れようとするようになるであろう。また、そもそもy7を欲していなかった商品所有者も同様な交換行為をとるようになるであろう。 このことをx1所有者の交換行動に則して見ることにしよう。

 ykjを手に入れるために必要なy7の量をy7ykとすると、以下の式が成立する。

   x11      y7y1     y11
                                                →     →
                  ←
   x1n      y7yn     yn1

 このうち、第一辺と第二辺との関係式は、x1所有者が「交換手段」としてy7を求めていることを表し、第二辺と第三辺との関係式は、そのy7は結局、y11以下の商品を獲得するための手段であることを示している。このうち、第一辺と第二辺との関係式はまとめて表現することが可能である。すなわち、

  n         n
 k=1       k=1

 さらに、上記の関係式を商品所有者全体に拡大して考察してみよう。

 式の左辺をAj(j=1,2……n。Ajはxj商品の総量を示す)とし、式の右辺をBj(Bjはx1所有者に需要されるy7の総量を示す)とする。それぞれを成分とする行ベクトルを考えると、以下の式が成立する。

 (A1…………・An)→(B1…………・Bn)

 この式は形の上ではこの節の冒頭の式に似ているが、その意味するところは異なる。なぜなら、冒頭の式は、y7以外の商品に対する需要を全く無視して分析者が恣意的に「組み換え」たものであり、y7がただ使用価値としてしか需要されていないのに対し、この式は、おのれの欲するすべての商品を獲得するためにまずy7を手に入れようとしている各商品所有者の行為に即した式だからである。
 この差異は、なにより左辺・右辺のそれぞれの商品量が冒頭の式とは大きく異なっていることで理解できるであろう。
 すなわち、冒頭の式の右辺の量は、使用価値として需要されているy7の量を示しており、左辺の商品量は、そのy7の量に対して商品所有者が提供しようとしている商品xjの量を示している。これに対し、上記の式の右辺の量は、商品所有者が「交換手段」として需要しているy7の総量(より厳密に言えば、使用価値として需要されるy7の総量+「交換手段」として需要されるy7の量)を示しており、左辺の量は、商品所有者が交換のために提供しうる商品の総量を示しているのである。両者の違いは明らかであろう。

 さらに付け加えるならば、両辺の成分においてAj=Bj=0ということはない。この意味は、前述したように、もともとy7に対する需要というものがなかった商品所有者も「交換手段」としてy7を求めていることを示している。すなわち、全商品所有者がy7を「交換手段」として求めているのである。この点も冒頭の式と異なることはいうまでもない。

 かくして、「直接交換可能性」は「一般的等価物」として使用価値の制約から一歩自立始めた。しかし、これをもって「価値」概念の成立とするのは早計である。なぜなら、この「一般的価値形態」では「一般的等価物」y7の量はそれを「交換手段」として獲得しようとする商品の量にいまだ制約されているからである。また、前述したように、使用価値としてのy7もいまだ需要されているという制約も見逃せないし、複数の「一般的等価物」が存在する可能性も否定できないのである。
 そうした制約を突破し、「価値」概念が真に成立するのは、いうまでもなく、「貨幣形態」である。

5貨幣-「価値」概念の成立


 ここで右辺にはn+1番目の商品、yn+1が新たに登場することになる。

 このyn+1は他のすべての右辺に位置する商品を排除し、等価形態に唯一位置する商品となる。金=貨幣である。この金=貨幣の登場により価値形態の式は今までとはまったく異なる形をとることになる。宇野は以下のように述べている。

 「実際また金あるいは銀が貨幣となると共に、一般に商品所有者は、その商品の価値を最早や直接の消費の対象としての金、銀の一定量をもって表示することをしなくなる。それぞれの商品の使用価値の単位量によってその価値を表示する」

 この引用の前半の「価値を表示する」はこれまで繰り返し述べてきたように問題はあるが、後半に出てくる「単位量によってその価値を表示する」という文言は、以下で述べるように正鵠を射ている。左辺の各商品はその一単位ごとに表されることになるわけだが、これをxjn+1としよう。また、これに対応する金=貨幣の量をyn+1jとすることにする。そうすると、以下の式が成立する。

 (x1n+1…………xnn+1)→(yn+11…………yn+1n)

 この場合、金はもっぱら「直接交換可能性」のゆえに求められる。ここから、金=貨幣には「『直接交換可能性』が内在しているかのような」観念がすべての商品所有者の中に生じてくる。全商品所有者間において、貨幣の本質についての「間主観的同調性」が生じているわけである。ここに到って「価値」概念=「他の商品と交換しうる属性」がはじめて誕生する。これと同時に、その反映-あくまで反映だが-「各商品には『価値』を持つ貨幣と交換しうる『価値』が内在している」の観念も生じてくる。
 「商品に内在する価値」という概念の成立である。

 これにともなって、商品所有者の「欲求」も変わる。これまでは、「一般的等価物」の先に自己の欲する具体的な使用価値が見えていたが、ここでは金=貨幣そのものが自己目的となる。別な表現をすれば、自己の商品の中にある「価値」(厳密には「価値」と私念するもの)を金=貨幣によって表現したいという「欲求」に変わるのである。すなわち、「その価値を表示する」という表現が正しいものになる場合は、唯一、この「貨幣表示」の場合だけなのである。したがって、交換式は商品一単位ごとの金量という形、すなわち一単位あたりの「価格」で表現されることになるわけである。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、同じく「価値」と言っても、貨幣のそれと個々の商品のそれとはその性質が異なるということである。前者は、万人によって承認されたという客観的根拠を持つが、後者は、あくまで「主観的評価」にすぎないのである。各商品所有者が自己の商品に付けた「価格」も「主観的評価」という点では、「簡単なる価値形態」の場合となんら異なることはない。すなわち、それはいまだ確証されていないのである。

 「商品に内在する価値」という観念は成立した。しかし、個々の商品に「価値が内在しているか否か」ついてはまた別の問題となる。





Date:  2006/1/5
Section: çľŒć¸ˆĺ­Ś アナリティカル・マルキシズムをめぐって
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