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文化知の提案―新しい社会運動の原理―第6章 物象化論の新展開


文化知の提案―新しい社会運動の原理―第6章 物象化論の新展開


第1章 科学技術と現代社会
 科学と技術 科学技術発展の帰結 持続可能なシステムの模索 キメ手を欠く運動体
第2章 社会科学の機能不全
 社会科学は期待はずれ 科学の論理性への批判の限界 社会運動論の最前線 見のがされている事態
第3章 科学知の限界
 商品による意志支配 科学的思考と商品の思考機能
第4章 文化知の方法
 見えるものと超感性的なもの
第5章 文化知の応用
 労働価値説の再考 超感性的な社会関係の解明 概念的存在としての商品
第6章 物象化論の新展開
 商品による意志支配の様式 貨幣生成のメカニズム 無意識のうちでの本能的共同行為 もう一つの意志支配としての物象化
第7章 現代社会批判
 マルクス主義の総括と新しい社会運動 脱物象化の大道

商品による意志支配の様式


 商品とは人間がそれに意志をあずけることができる概念的存在でした。だが今まで述べてきたことは、社会関係の論理を解明しうる文化知の方法からの接近であって、現実の意志支配の様式ではありませんでした。進んで現実の意志支配の様式に迫ってみましょう。
 意志支配の様式は商品世界からの貨幣の生成のメカニズムのなかにひそんでいます。マルクスは『資本論』初版本文価値形態論で、価値形態の発展を論じ、そして交換過程論で貨幣の生成を説いています。それに従ってみましょう。
 先にとりあげた1台のテレビ=2着のスーツという価値等式は簡単な価値形態と呼びます。この関係が展開され、1台のテレビがスーツだけでなく、他の色々な商品と価値関係をとり結ぶとき、この多くの価値等式を展開された価値形態と呼びます。次にこの関係を逆から見れば、スーツやコーヒーやお茶、といった諸商品が全て単一の商品テレビと価値等式をとり結んでいることになります。これはあらゆる商品が単一の商品で価値を表現していますから、等価価値にある商品テレビは価値一般の代表となり、この形態を一般的価値形態と呼びます。
 以上三つの形態の他に初版本文価値形態論では、『資本論』現行版では省略されてしまった第4形態が置かれています。それは形式としては、個々の商品の展開された形態(第2形態)が並列されているものですが、この形態の意味は、全ての商品が一般的価値形態の等価形態の位置に収まろうとすることの帰結だ、というところにあります。つまり、一般的価値形態で等価形態に置かれた商品は、他の全ての商品と直接交換可能な形態にあり、直接的に社会的形態をとっているわけですから、どの商品にとっても、それは到達目標だったからです。ところが全ての商品が一般的価値形態になろうとすれば、第4形態が生じてしまい、ここでは商品世界は分断されて、それぞれが小宇宙を形成してしまうことになります。商品世界はそのままでは統一的なものになれず、従って社会的に妥当な形態にたどりつけません。とはいえ、3番目の一般的価値形態の形がとれれば、全ての商品が、単一の商品を価値の化身とすることでお互いを社会的なものとして表現し、統一的な秩序を形成できることも判明しています。

貨幣生成のメカニズム


 マルクスの貨幣生成論のハイライトは交換過程で述べられていますが、その内容はほとんど理解されていません。その理由の一つは文献学的根拠にもとづいています。初版本文価値形態論と現行版価値形態論とでは、第4形態がちがっている(現行版では貨幣形態となっている)にもかかわらず、交換過程論は初版と変わっていないのです。現行版では価値形態論で貨幣形態がすでに出てきているので、これと、まだ出てきていない初版の価値形態論とのつながりで書かれた交換過程論とを結びつけて理解することは出来ないのです。
 交換過程論をあくまでも初版本文価値形態論とのつながりで読み、初版の第4形態から出発して論をつなげていくと、そこに意志支配の様式が浮びあがってきます。
 商品の価値とは商品の社会性であり、それは商品世界を統一的な社会的形態にしようとする衝動をはらんでいます。商品の価値形態の展開のなかで、この統一的な社会形態が存在し得ることが確認されました。問題は現実にこの形態を獲得することだけです。
 商品の現実の交換過程では、商品所有者が登場します。商品所有者たちが、自分の商品で他の商品を買おうとする限りでは、第4形態が生じ、一人よがりの世界しか生まれませんでした。ところが商品所有者たちが、単一の商品となら自分の商品を売ってもよい、というように共同して売り手の立場に立てば、一般的価値形態が成立し、一般的等価物、つまり貨幣を生成させることができます。
 だが商品所有者たちは、契約してこのような共同行為を行なうわけではなりません。彼らは全然意識しないところで、それぞれが同じ行為をなし、結果として共同行為が形成されるのでした。
 だからマルクスは、貨幣の生成を、商品所有者が自らの意志を商品に宿すこととみなしました。統一的な社会的形態に達したい、という価値の本性に商品所有者たちが意志支配されることで、貨幣生成の共同行為が現実のものとなるのです。この共同行為は商品所有者にとっては無意識のうちに行なわれる本能的な共同行為となる他はありません。

無意識のうちでの本能的共同行為


 さて、貨幣生成について、マルクスから一寸はなれて再論してみましょう。その際、無意識のうちに行なわれる本能的共同行為ということに注目しましょう。
 一たん意志の自由が確立した社会では、同意にせよ、他人に意志を支配されれば、服従の行為は意識化されざるをえません。しかし、商品の場合は、人格ではなく単なる物として現われます。従ってそれへの服従は人間にとっては社会的な自然法則への順応と観念され、服従という意識は生じません。だからそれは無意識のうちに行なわれる身体の本能的行為と同じレベルの本能的な社会的行為となります。そして、個々の商品所有者が同じ行為を行なう結果、共同行為が形成されます。
 この貨幣生成の共同行為によって貨幣が生成されれば、商品の物神性が貨幣の物神性へと発展し、貨幣は、共同行為の結果として直接交換可能性をもつにすぎないにもかかわらず、貨幣商品それ自体に直接的な購買力が付着しているように見えてきます。そして、貨幣にねうちがあるから自分の商品で貨幣を得ようとする商品所有者の日常的意識が一般化していきます。
 この日常的意識に則して、貨幣生成のメカニズムを見てみましょう。
 商品の生産者は、生産物を市場で売りに出します。このとき生産者は、商品所有者として現われ、自分の生産物に価格をつけます。その価格で売って貨幣を得、それで自分が必要とする 他人の商品を買って、自分の生活と生産を維持します。
 商品所有者が自分の生産物に価格をつけ、それを商品に転化するとき、彼は意識しはしないが、商品金で自分の商品の価値を表現しています。そして、全ての商品所有者が同じように商品金に対して自分の商品を売り出しているわけですから、ここに商品金を貨幣へと転化する共同行為が成立していることになります。
 生産者が自分の生産物に価格をつける、という行為の裏には商品金を貨幣にするという無意識のうちでの本能的共同行為がありました。生産者たちは意識せずに貨幣を生み出す共同行為に参加することで、自分たちの生産物が社会ではいくらの価値として通用するかを示せたのでした。
 商品金は、もともと貨幣だから、他の商品がそれに対して売り出されているのではなくて、商品所有者の毎度くり返される共同行為が商品金を貨幣にするのです。というのも生産者が自分たちの生産物を売りに出さなければ、商品も貨幣も生成しないからです。

もう一つの意志支配としての物象化


 文化知の立場から、貨幣の生成でもって完成される商品の人間に対する意志支配の様式を見てきました。この様式が人間の人間に対する意志支配と異なるところは、物象による人格に対する意志支配であることでした。さらにこの意志支配は、資本の下に働きに行かねば生活できない、といった賃労働者に対する資本の意志支配とも異なっていました。資本の支配の場合は物象による支配であるとはいえ、経済的支配であり、それは眼に見えるものでした。ところが、商品、貨幣による意志支配は、それに人が意志を宿す形をとり、しかも意志支配された行為が無意識のうちでの本能的共同行為となるため、あたかも自然法則への順応のように、支配されているという意識を生じず、逆にそれらの法則性を把握して、それを利用しようといった意識を生んでいきます。つまり、意志支配されていることのうちに自由が観念されるのです。これがもう一つの意志支配の特質に他なりません。
 人間が非人格的なものに支配されている、ということに今日人々は気付いています。その結果、社会学でもこの問題についてとりあげ始めたのでした。ところが、従来の科学知では商品による意志支配の様式を明らかにすることができませんでした。文化知の方法によってこの様式を解明したとき、この意志支配の様式こそが人格を物象化させ、物象を人格化させる物象化の内容であることが知れます。




Date:  2006/1/5
Section: 文化知の提案―新しい社会運動の原理―
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