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文化知の提案―新しい社会運動の原理―第5章 文化知の応用


文化知の提案―新しい社会運動の原理―第5章 文化知の応用


第1章 科学技術と現代社会
 科学と技術 科学技術発展の帰結 持続可能なシステムの模索 キメ手を欠く運動体
第2章 社会科学の機能不全
 社会科学は期待はずれ 科学の論理性への批判の限界 社会運動論の最前線 見のがされている事態
第3章 科学知の限界
 商品による意志支配 科学的思考と商品の思考機能
第4章 文化知の方法
 見えるものと超感性的なもの
第5章 文化知の応用
 労働価値説の再考 超感性的な社会関係の解明 概念的存在としての商品
第6章 物象化論の新展開
 商品による意志支配の様式 貨幣生成のメカニズム 無意識のうちでの本能的共同行為 もう一つの意志支配としての物象化
第7章 現代社会批判
 マルクス主義の総括と新しい社会運動 脱物象化の大道

労働価値説の再考


 文化知の方法で商品を捉えてみればどうなるでしょうか。いま1台のテレビと2着のスーツが同じ価値だとしましょう。そうすると1台のテレビ=2着のスーツという価値方程式が成立します。この関係でテレビはその価値をスーツで表現し、スーツはテレビと直接交換可能な形態にあります。この等式で比較されている二つの異なる使用価値に共通なものは何でしょうか。マルクスがそれを抽象的人間労働とし、これを社会的実体とみなしました。それに対し、今日では価値は差異のたわむれによって決まるもので、商品に含まれている労働ではない、という言説が支配的になり、労働価値説を信奉する人々は少数派となっています。
 問題は労働価値説を信奉する人たちも、従来の科学知の枠組みで思考しており、労働価値について正しく捉えていないことです。だから、労働価値説批判の言説に対し、有効な反批判をなしえていません。
 ここで労働生産物が商品になったとしましょう。その商品を生産する労働(具体的有用労働)は眼に見える形で行なわれています。他方の価値を形成する労働の方は、抽象的人間労働と名づけらているように、眼に見えないだけでなく、さわることもできない超感性的なものです。ということは、後者の労働は同じ労働といっても、前者のように個物に内属しているものではなく、社会的なものであることを予告しています。
 社会的なものとは人と人との関係において成立するものです。抽象的人間労働とは、商品と商品との関係において成立する社会的実体であり、異なる商品の同等性として現象しているもののことに他なりません。
 労働価値説批判は、個物としての商品に含まれている労働量が価値の大きさと連動しない、ということから、価値の実体が労働であることを否定します。しかし価値の実体が抽象的人間労働といっても商品と商品との関係で自らを現象させる社会的なものであり、この眼に見えず超感性的な現象形態によって形態規定され、両極の二重性として眼に見えるようになる、という文化知の方法をふまえるなら、従来の労働価値説は両極の二重性として眼に見えるようになった限りでの抽象的人間労働を価値の実体と見る錯誤をおかしており、他方、労働価値説批判は、商品の使用価値を生産する具体的有用労働を労働時間に抽象した限りでの抽象的人間労働と、両極の二重性として表現されている価値の実体としての抽象的人間労働との間にあるズレから、労働が価値の実体であることを否定していることが判明します。
 しかし、もともと使用価値をつくる具体的有用労働を抽象した抽象的人間労働と、両極の二重性として表現されている抽象的人間労働とはズレているのが当り前です。前者は人間の思考産物であるのに対し、後者は社会的に形成されたものなのですから。何故前者の作業が必要かと言えば、それは人が後者の労働との共通性を明らかにし、後者の概念を了解しようとする限りでのことでした。

超感性的な社会関係の解明


 そこで、核心的な問題は、関係の両極としてある商品の二重性として眼に見えるようになった抽象的人間労働が、関係のうちでどのように生成されるか、ということになります。このことが明らかにされれば、具体的有用労働を思考のうちで抽象した抽象的人間労働と、関係のなかで社会的実体として成立している抽象的人間労働との違いが浮び上がるからです。
 ここで関係をわがものとする文化知の方法を応用してみましょう。テレビはスーツとの社会的関係のなかで、比較の対象となっている同等性をスーツの形態で規定します。スーツは抽象的人間労働の化身とされるのです。そして、そのことが同時にテレビの価値をスーツの量で表現することになります。テレビのスーツ価値がそこにはあります。
 ここから明らかになるのは、スーツをつくる労働は、テレビをつくる労働によって抽象され、抽象的人間労働とされていることです。他方でテレビをつくる労働はスーツをつくる労働によって抽象されます。関係において両極はお互いに関係しあうことでお互いを抽象します。この抽象の形式は事態抽象と呼ばれ、思考による分析的抽象とは区別されてきましたが、ここでは抽象作用という同一性を含みつつも、双方の違いを明らかにするため、事態抽象を総合による抽象と規定しておきましょう。
 同じく抽象的人間労働といっても、両極の二重性を分析的抽象によって導かれた思考産物と、他方で現実の商品の関係のなかで形成される社会的実体とは、その抽象性においては共通ですが、その抽象の形態において全く異なっているのです。ついでに言っておけば、商品が関係のうちでお互いを抽象しあう総合的抽象は思考の論理とは異なっており、思考はこれを直接にわがものとすることはできません。それは思考の論理にとっては他者としてあります。価値形態についてはこれを直接に科学知で捉えられない理由はここにあります。

概念的存在としての商品


 テレビはスーツを自分と同じ質のものとして形態規定することで、自分自身の価値を表現していますが、ここにテレビをつくる労働とスーツをつくる労働とをともに社会的実体としての抽象的人間労働に還元するメカニズムがありました。マルクスが『資本論』初版本文価値形態論で価値形態の秘密を解き明かしましたが、その用語で再説すれば、相対的価値形態にある商品は、等価形態にある商品を自分に等しいものとして形態規定し、それの自然形態を抽象的人間労働の化身とすることで自らの自然形態とは区別された価値形態を獲得したのでした。だがこの価値の現象形態は超感性的なものですから、眼に見えるのは両極にある商品だけで、形態規定は消え去っています。
 本題にもどりましょう。いま判明したことは、商品は人間の思考とは異なる様式ではあるが、思考が行う抽象作用と同様の作用、異なるもののうちに同一性を抽象してくる作用を保持している、ということでした。しかし、同じ抽象作用といっても、思考の場合とは異なるので、そのままでは商品に思考をあずける、ということにはならないでしょう。
 ところが商品が価値関係のなかで行う抽象作用は、単に抽象しているだけでなく、判断をも提示しています。1台のテレビは2着のスーツに値する、というように相対的価値形態にあるテレビの価値の大きさが、等価形態にあるスーツの量で判断されているのです。
 スーツが抽象的人間労働の化身となり、つまりは価値の化身となることで価値の尺度となっている、ということは超感性的世界の領域ですので、人間にはわかりませんが、1台のテレビの価値が2着のスーツであるという判断だけは了解できます。商品がどういう意味で概念的存在であるか、ということはわからなくとも、眼に見える形で答えが出ているわけですから、人間は安心して商品に自分の意志を宿すことができるわけです。




Date:  2006/1/5
Section: 文化知の提案―新しい社会運動の原理―
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