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協同組合運動研究会意見交換会レジュメ


協同組合運動研究会意見交換会レジュメ


2004年6月12日

テーマ 新しい主体(協同主体)の形成について


1)はじめに


 柏井論文は、生協の運動に則して、時代の変化と協同組合の課題について明らかにしている。また多くの人々が時代の変化をあとづけ、具体的な政策的課題を提案している。ところが社会変革の理論というレベルでは、衆目の一致したものはまだ提起はされていない。そういうものは必要がないという考えもあろうかと思う。しかし、ソ連崩壊の原因の究明はやはり必要だと思うし、この問題を究明しようとすれば、どうしてもソ連共産党の社会変革論に代わる新たな社会変革論を解明する事が問われる。今課題となっているジェンダー平等の取り組みにおける日本の労働組合の立ち後れ、それにとどまらず、組合運動そのものの脆弱化は、この問題の究明に立ち後れた左翼が、右からの批判に受け身にまわってきたという経過が、その一因にあるように思われるからだ。また、量的には拡大している協同組合の陣営がいま一つ効果的な運動展開を為し得ていない事の遠因も、この事にあるように思われるからだ。

2)ソ連崩壊の評価


 ロシア革命時のソ連共産党の社会変革論は、共産主義社会を階級なき社会とし、これに到る過程には、階級の廃止を目指したプロレタリアートの独裁という過渡期が必要だとした。ここからブルジョアジーが掌握している国家権力を打倒し、プロレタリアートの国家権力を樹立して、プロレタリアートの独裁を実施しない限り、社会変革は不可能だとする戦術が導かれてきた。
 実際にロシア革命で成立したプロレタリアートの独裁は、まずブルジョアジーが所有する生産手段を、国有化する事で収奪し、計画経済を実施して商品・貨幣経済をなくしていこうとした。しかしこの試みは成功せず、商品・貨幣は残存し続けた。この経過は、戦時共産主義、ネップ、農民の強制的集団化、を経て成立したスターリン体制の下で、社会主義的商品生産という事で合理化された。
 商品・貨幣関係を残存させたままのソ連邦は、重化学工業化を成し遂げた後、70年代以降資本主義経済が実現していった、大衆消費社会が生み出した種々の技術革新に追いつけず、政治体制の崩壊に見舞われた。この事態は色々と解釈可能であるが、プロレタリアートの独裁という、政治的行政的な、つまりは意志の力では、商品・貨幣関係をなくす事は出来ないという事を意味しているのではないだろうか。

3)商品・貨幣とはなにか


 商品・貨幣とは何か、という問いはまだ定説をもちえてはいない。経済学者の佐伯啓思は、この問いに答えはないと見なしているくらいである。
 問題は商品から貨幣がどのようにして生成されてくるか、という事の理解にかかっている。貨幣は商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によって日々生成されている。この事を日常の場面に則して述べると、商品所有者たちは、生活のために自らの商品を市場に出すが、その際の売りに出す行為には、商品金で自分の商品の価値を表示するという事を含んでいる。そして、この行為は商品所有者全員が意識せずそうしているので、無意識のうちでの本能的な共同行為となる。 そしてこの共同行為がなされるから、金が貨幣になれるのだ。この意味で、貨幣は、商品所有者たちの共同行為によって都度生成され直している。誰もが生産物を商品化しなければ、貨幣も生成されない。

4)ソ連崩壊の根本原因


 先に述べた商品・貨幣論からすれば、政治権力を獲らないと社会変革は出来ない、というマルクス主義のドグマが間違いであった事が分かる。社会革命の目標は階級の廃止であり、そのためには商品・貨幣・資本の廃止が必要とされる。ところが商品から貨幣が生成されるのは、商品所有者たちの、無意識のうちでの本能的共同行為によるとすれば、その廃止を政治や行政といった意志の力で統制する事は出来ない。商品や貨幣を無くすためには、それを日々生成している商品所有者たちが、無意識のうちでの本能的共同行為を行なわなくても済むような経済関係を、迂回して作り出す事が必要だった。

5)商品・貨幣批判の新たな視点


 階級の廃止を目的に、商品・貨幣・資本をプロレタリアートの独裁によって廃絶する、というソ連共産党の基本方針の誤りが明らかになると、迂回路が問題となってくる。その際、階級の廃止という目的の設定自体の再検討が問われてくる。現実的にも今日の労働者は階級意識を持つ人々が少数派になってしまっている。そこで新たな目標の設定が要求されている。かつては疎外からの解放という考えもあったし、人間変革という考えもあった。階級の廃止や、商品・貨幣・資本(市場経済)の廃止は不可能で民主化を永続させるしかない、という考えもあった。今日では脱物象化の解放思想が生まれてきている。
 商品や貨幣の問題点は、それが資本を生成し、さらに信用制度を発達させ、今日のボーダレスな投機経済を創り出した事にあるが、その本当の危険性は、人間が自らの意志をシステムに宿してしまい、システムの〈意志〉があたかも自己責任で選択した意志であるかのごとく思い込まされているところにある。したがって、個々人の理性的判断が行動に結びつかず、いくらいい事を考え付いても、システムの〈意志〉に反した事は実行できないというジレンマに陥る。商品・貨幣・資本による物象化は、システムによる人間の意志支配を伴っており、この意志支配に抗する事が問われてきている。意志支配に抗する運動を脱物象化の運動と捉えて置こう。
 今日理性的判断による行動が、意志支配によって阻害されてしまうという事に気づいた人々は、雇われて働かず、創ったものを商品にしない、という生活のパターンに憧れを持つ様になってきている。今のところ皆が皆こんな生活が出来はしないが、資本を生み出さないような働き方はじわじわと増えてきており、住民による地域自治の要の役割を果たせるところまで到達しつつある。

6)解放思想に問われるもの


 政治権力を獲得しないと社会変革は出来ないという立場からすれば、人々の政治意識を高める事が大切となり、高い意識を持った人を創ろうと努力する事となる。解放思想もその重点を人の政治意識を高める事においてきた。でも迂回路を創り出す事が問われている時代には、政治意識の高さだけでは意味のある活動は出来ない。今取り組んでいる活動自体の方向性が直接的に解放へとつながってはいないという事だから、「いま、ここで」の生活の意味を問う形での思想の転換が問われる。現状はどうしようもない事が判明し、将来のシステムの設計も可能なのに、「いま、ここで」の運動の支えを、既存の解放思想が提起できていないのだ。

7)新しい思考


 新しい思考とは、エンデによれば、科学的思考の限界を指摘した上での、主客の対立を止揚したトータルな思考である。私はこれを関係を捉えられる思考と考えている。科学的思考は主体が客体を分析するという大前提の元に成立していて、社会関係の解明には適さない。関係を捉えられる思考が今問われており、形態規定の論理をあきらかにした、マルクスの価値形態論は新しい思考のモデルとして捉え返される必要がある。
 従来の経済学のモデルとしての人間はケアレスマンだった。ケアの経済学は、これを批判している。私は人間のモデルを個人ではなく、自己と他者という関係性におくべきだと考えている。先に貨幣は都度生成される事を指摘したが、社会も貨幣同様、人々の無意識の行為によって生成されているに違いない。人と人との対面の場で社会は都度生成されていると考えてはどうだろうか。人と人とが対面する際に、他人の行為を見る側は、その行為に対してあたかも社会の代表者であるかのように対応する。見る側は、具体的な生身の個人でありながら、あたかも社会の意思の化身となったかのような振る舞いをする。人は他人との対面の場では生身の個人が生身のままで、一般的な社会性を表現している。つまり、他者に対して、人はお互いに一般的他者の態度を取得する事でお互いに承認しあうが、この時お互いに自己を生身のままで社会化する事で、社会を生成しあっているのだ。この意味で「いま、ここで」の主体とは、対面関係で社会を生成できるという事との関わりで、考えてみる必要がある。

8)新しい主体


 大衆消費社会が成熟するなかで、個々人の自己神格化が進んだ。自己神格化とは、商品世界の内では、何でも買えるという全能の神の座に位置しているお金に、個々人が自分の意志を宿すことで成立する事態をさす。ナルシズム、コミュニケーション不全などと捉えられてきたが、現実には、就職が怖いとか、引きこもりとか、「パラサイトシングル」といった形で現実化している。
 これらの事例を見れば、自己神格化とは、個の唯一性への希求であり、同一化される事への違和感の表明である。でも、同一化を迫る社会システムに違和感を感じる人々も、生活をしていかなければならない。個の唯一性を残したまま、主体的に選択できる同一性として事業を形成していく事が出来れば、自己神格化の病的な側面は癒され、人々は新しい主体として登場できる。

9)迂回路としてある協同組合運動


 従来の運動は脱商品化を目指していた。今日の運動は脱物象化を目指す。迂回路としてある運動は「いま、ここで」脱物象化を実現する。脱物象化とは文化の力であり、生命系の自己主張としての意義を持っている。
 自己神格化された個人は、物象的依存関係に基づく人格的独立=孤立、の産物であり、それ自体自立した個人ではありえない。協同思想とは、従来考えられてきたように自立した個人が協同していくのではなく、協同する事で、孤立化され自己神格化された個人が自立できるようになれる、という事ではなかろうか。
 協同組合は、社会変革を直接の目標とはしていない。社会変革を資本の発生を否定するというレベルで考察すると、二つの道がある事が判明する。一つは資本家を収奪する事で、これはロシア革命で実践され、失敗した。もうひとつは資本家の企業に働きに行かない事だ。ストライキといった短期の事ではなく、雇われずに働いて生活できる道を作る事だ。モンドラゴンはこの事例である。「いま、ここで」資本の発生を防ぐこの試みは、迂回路として機能している。生活協同組合はワーカーズ・コレクティブを生み出す事で、この迂回路をつくりだしている。

10)21世紀の地域作り


 男女共同参画社会基本法は、ジエンダー平等を旗印に、男女の雇用における差別を残したままで、現行の世帯単位の処遇から、世帯をばらして、個々人に公的負担(税金と保険)を負わせるシステムへの転換を促進しようとしている。男の労働条件の切り下げと同時に、女性に家事労働と賃労働とを押しつけ、安価な労働力を増やそうという訳である。
 地域が解体された後、核家族までも解体しようという事だ。このような事態の進展に対しては、セイフティーネットを自前で構築する事が問われてこよう。
 生協のワーカーズ・コレクティブが取り組んでいる地域作りを目指したコミュニティビジネスは現在隙間産業と見られている。しかし、地域だけでなく、核家族の解体が進めば人々は生存のために家族を地域に開き、地域にセイフティーネットを作る事に向かわざるをえず、コミュニティビジネスは、21世紀の基幹産業とならざるを得ないだろう。
 迂回路の形成は、地域における協同組合地域社会の実現によって具体化していくだろう。運動は文化を発信し、文化は伝染によって広まる。文化の広まりは重力を生じ、現存する基幹産業と隙間産業との関係を逆転させるに到る。地と図とを逆転させる主体、それが新しい主体としてある協同主体である。




Date:  2006/1/5
Section: 現場から5
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