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22.こぼれ話(その14)自己神格化された個人と人間性


22.こぼれ話(その14)自己神格化された個人と人間性


 いま何故ベーコンか、と考えていて、ひきこもりの思想の解毒ということに気付きました。当日のレジュメでは一寸説得力がないかも知れませんので一寸補足してみましょう。とりあえず中世---近代---現代という歴史における思想上の特徴を、次のように捉えてみたのです。

 中世――神学と魔法の世界
 近代――世界の魔法が解けていく(マックス・ウエーバー)
 現代――再び魔法に取りつかれた世界

 中世から近代への過渡であったルネッサンスは、人間の解放への序曲であり、封建的な身分制から解放された自由で平等な人間をどのように捉えられるかが近代の課題でした。神学に代わるものとして近代科学が知の王座につき、大学制度も宗教から切り離され、学問の自由がとなえられたのでした。
 ところが日本でも1990年代以降思想上の雰囲気は変わっていきます。70年の全共闘運動が大学解体をかかげ、当時の学問と教育研究制度に批判を投げかけたにもかかわらず、現実の進行は全共闘が目指したものとは反対の方向へと進んでいったのですね。他方で若者文化論が言論界でよくとりあげられるようになり「新人類」や「オタク」といった言葉が飛び交いました。この様な状況について、私は、70年代以降、人々の生活領域のほとんどが、商品化され、お金を払って生活する、ということに慣らされてしまった結果、人間関係についてもお金という尺度でしか計れないようになった、という点に注目しています。
 お金はどのような商品でも買える力をもった商品であり多くの商品に対して一般的商品としてふるまえるものであり、商品の神です。そして、お金にすがることでしか生活できない現代人は、自己の内面をお金という神的なものに占領され、こうして自己を神格化せざるを得なくなっているのではないでしょうか。
 これは単なるエゴや利己主義や自己中心主義ではありません。このような規定は、対象を人間だと捉えているのですが、現代人は自己を神格化しているとしたら、人間としての把握それ自体が的外れであることになります。そこで問われるのは、再度人間性にめざめていくということではないでしょうか。

 中世から近代へと移行するときの人間性への目覚めは、近代的自我であり、個人としての目覚めでした。いまは、一旦目覚めた個人が、お金の虜となって、自己を神格化しているのですね。そうだとすると、いまさら個人としての目覚めでは間尺に合わないことになります。私は現代人が自己を神格化していること自体の善悪を問うつもりはありません。これを一つの事実として認め、ここからの再度の人間性への目覚めをどのようにすれば準備できるのか、ということについて考えたいのです。

 問いが正しく立てられれば問題は解決したも同然だと言われています。そうです。個人としての目覚めでは不足だとしたら、個人と個人との間に、間主体的なものとしての人間性を新たに創造していく他はありません。これは以前から私が協同主体と呼んできたものですが、自己神格化した個人にとっては、協同主体を創造することによってしか人間性を回復できない、こんなところに現代人は追い込まれている、ということがわかれば、良い事、正しい事をやろうという旧来の運動パターンから抜け出て、本当に地に足のついた運動を準備できるでしょう。




Date:  2006/1/5
Section: 研修会こぼれ話
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