　ケア学やケアの経済学は生成途上にあり、まとまった理論がある訳ではない。今回の講議は、この生成途上にある学への何らかの寄与を目指して行いたい。ケア学を始める前提には、女性学が明らかにしてきた、ジエンダー視角による女性労働分析をはじめとする、人文・社会科学全般の批判的作り直しが必要であり、このレジュメも、90年代以降急速に発展してきた女性学に多くを負っていることに注意を促しておきたい。なお、提出したレジュメを討論に基づいて補正した。

第1部　ケア学の諸問題

A）ケアとは何か

　ケアについて、これを社会的関係として、広い視野から解明している広井良典の説を紹介する事から始めよう。

1）広井良典『ケアを問いなおす』（ちくま新書）より

＊ケアとは
「ケアとはその相手に時間をあげること」（8頁）
「人間はケアの関係の中で一人の『個』となる。」（37頁）

2）広井良典『ケア学』（医学書院）より

＊ケアということば

第1、（広い意味）　配慮、気遣い。人が別の人のことを気にかけることはすべてケアに含まれている。又ケアの対象は人に限られない。
第2、（中間的な意味）　世話。
第3、（狭い意味）　看護、介護。医療や福祉や心理に特化されたもの。

＊「ケアへの欲求」

ケアという行為を通じて、ケアを行っている人自身が力を与えられたり、ある充足感を得る。「人間はケアへの欲求というものをもっており、また、他者とのケアのかかわりを通じてケアする人自身がある力を得たり、自分という存在の確認をしたりする。」（16頁）　逆に一歩間違えると独善的なものになってしまう可能性をはらむ。

＊ケアへの欲求の根拠

　人間が社会性の強い動物であることと関わっている。「ケアする動物」。個体と個体が直接にコミュニケーションを行う。「人間の場合は、行動の大部分はそうした遺伝子情報のプログラムによるものではなく、親や他の個体とのかかわり、つまり『ケア』の関係を通じて学習され、形成されるものである。」（19頁）
　「人間は、その意識や行動、そして感情そのものを含めて、個体と個体の間のコミュニケーションを中心とする強い社会性のなかではじめて『人間』となる生き物である。」（19頁）　これはまさにケアの関係である。

＊ケアの外部化

　親子関係は人間にとってのケア関係の原型である。
　「現代におけるケアということの大部分は、もともと家族や共同体の内部でおこなわれていたものが『外部化』されたものである、ということができる。」（21頁）
　介護だけでなく教育や子育ても外部化されてきた。

＊外部化の歴史

前・工業化社会。農業中心でケアは家族や共同体の中で相互扶助という形で行われてきた。ケアの外部化は見られなかった。
工業化社会。大家族から核家族に、家族賃金で夫が働き、妻は専業主婦で被扶養者とされ、家族ないしは世帯が単位であった。教育が学校制度という形で外部化され、老人の扶養は年金制度という形で外部化された。
現在、成熟社会／高齢化社会。核家族の個人単位化。子育ての外部化と介護の外部化が進む。

＊ケアという仕事

　経済の発展に伴って個人が単位の社会となってきた。家族や共同体の支えなしに生きていけるようになった。個人は「自由」を得る代わりに「不安」とともに生きていくようになった。
　個人化がすすむにつれて、ケアの外部化が進み、独立の制度となっていく。「職業としてのケア」の成立。
　ばらばらになっていく個人を再び結びつけ支えるものとして「ケア」という仕事があり、これはますます必要とされてきている。

＊ケアの新たな意味

　「個人化が進んで他者とは関わらなくとも生きていけるような社会となり、そうであるがゆえに、逆に他者に対して何らかの形で関与したり働きかけをおこなっていくことはより自発的な、積極的な行為となる」（29頁）ケアのニュアンスの変化。積極的な働きかけ。

＊ケアの意義

　「人間はもともと自然と一体のものだったのだし、個人は共同体とともにあったのであるだから人間は、共同体との、あるいは自然とのいわば通路ないしつながりをもちたいという根源的な欲求をもっている。それをつなぐ役割をするのが『ケア』ということではなかろうか。」（32頁）

B）ケアレスマンモデルの生成と解体

1）デカルト。近代的主体の措定。

（通説的理解）

「汝自身を知れ」――〉全てを疑う――〉「我思う、故に我あり」――〉近代的主体の確立と、客体の認識による真理への到達――〉科学の基礎付け。

（もうひとりのデカルト、永井説）

デカルトの私（我）は、類としてある個の認識に接近していた――〉私のかけがえのなさ、万物の唯一性――〉倫理へのみちが開ける。

2）資本主義、貨幣の商品化と労働力の商品化。（歴史）

　工場制度（労働力の商品化を土台とする）に先行するものとしての信用制度（イングランド銀行は1694年に設立、それ以前オランダとイタリアが金融の中心地だった）。16・17世紀の金融革命で、高利資本から近代的信用制度（商業信用と銀行信用）の形成と銀行券（信用貨幣）の発生が起きる。
　貨幣の資本への転化を媒介する労働力の商品化と、二重の意味での自由な労働者の出現（生産手段からの自由と、身分制からの自由）。産業革命は17世紀後半から18世紀にかけて進行した。
　1970年代に成立した日本の高度消費社会は、労働者の個人的消費の分野への、商品生産の浸透によって実現した。物象化の進展と自己神格化した個人の出現は、この体制が、物象的依存関係に基づく人格的独立を実現している事による。

3）経済学の成立、ケアレスマンモデルの成立。（理論…後で詳しくしていきたい）

　スミス。『国富論』では「神の見えざる手」と述べる事で市場への信頼を表明しながら、しかし『道徳情操論』では、他者を鏡とする人間を想定し、シンパシーにもとづく道徳を説く事で、市場の作用の解毒を構想していた。（要検証）
　古典的自由主義、数理経済学。ケアレスマンモデルが中心に置かれる。（要検証）
　ケインズ。市場と国家という枠組みを作った。市場の無政府性に対して、政府の財政支出で調整。
　新自由主義（1990年代）。国家が果たしてきた、公共的機能の市場への組み込みを提案（規制緩和）。ケインズ主義の否定、市場万能主義。

4）経済学批判、モデルへの懐疑。（既成の理論への批判）

　マルクス。二重の意味での自由な労働者は、資本の下への経済的服従を強いられていると見、労働者の経済的解放を主張した。ケアレスマンが自由であるというのは仮象であり、物象的依存によって、資本に隷属しているとみた。資本家のための利潤を増やす限りで働く事を許されるのが、雇用労働の現実。
　フエミニズム・女性学。ケアレスマンモデルは、男性を念頭に置いたもので、女性は、経済学をはじめとする諸科学では、視野の外に置かれている事への批判から始まる。女性を男性と平等に扱う事で成立する諸科学が、女性学として開花。
　ケアの経済学。センの経済学は近代経済学のケアレスマンモデルを批判。ケアレスマンモデルの解体が始まる。ケアレスマンモデルとは、人間が成人といえども本来ケアの必要な存在であるにもかかわらず、ケアという次元を除いた人間をモデル化した事で成立したもの。ケアを不可避とする人間をモデルにしたケアの経済学が構想されはじめた。
　久場嬉子の紹介によれば、ケアの経済学の眼目は、ケア労働による経済的福祉の生産の解明であり、これを貨幣価値ではなく、人間の経済的福祉の生産という尺度で見ようというもの。

C）ケアとは何か、社会的関係としてのケア（この項は今後の課題）

1）スミスのシンパシーからヘーゲルの自己意識論まで。

2）オーエンの協同組合主義。

3）今日のケア学。

4）差別・排除から介護・包摂へ。

5）時間とケア。

第2部　新しい思考でケアを考える

A）自己と他者、対面関係での社会の形成

1）学の従来の出発点、自律した個人。

　デカルトが述べた近代的個人が、主体として客体を認識する、という枠組み。

2）デカルト批判の流行、ポストモダンの思想（ごく一部の紹介）。

　フーコー（初期）。人間という観念は近代で初めて成立し、やがて消えていくもの。人間主体について批判したが、社会批判や新たな社会論にはむかわず。
　ベイトソン。主体と客体とはつながりの全体としてみるべき。精神活動を拡張していく事でデカルト批判を試みた。「思考のネットワークの大部分は、実は身体の外にある。」

3）ロゴス第一主義への批判、倫理の提起。

　レヴィナス。ブーバーの〈我－汝〉、〈我－それ〉の区別を踏まえ、人は論理的関係を結ぶ以前に、倫理的関係の中にある事を「顔」を比喩に説明した。唯一性の提起と、同一性で括る事（論理的同一化）の暴力性を暴く。

4）晩年のフーコー、『主体の解釈学』。

　〈汝自身を知れ〉と〈自己への配慮〉の関係を、古典古代の言説に探る。古典古代にあっては、真理の認識は、主体の変容を前提としていた。デカルトの場合は、真理は認識の積み重ねで到達できるものだったが、〈自己への配慮〉に〈汝自身を知れ〉が包み込まれている事で、認識は主体の変容を要請するものとしてあった。デカルトにあっては〈汝自身を知れ〉が特権化され、〈自己への配慮〉は忘れられた。

5）新しい枠組み、精神や倫理を社会性と見る。

　論理と倫理の関係如何、といった次元から飛び出す事が問われている。自己と他者、とは社会の単位であり、この関係を社会生成の場として考えられないか。

B）社会生成論

1）自己と他者の諸問題、歴史的概観。

　スミス。人は他人を鏡として、自分がなんであるかを知る。
　ヘーゲル。自己意識論で承認論を展開。
　ミード。スミスとヘーゲルを継承し、人は一般的他者の態度を取得する事で人として存在しうるとみた。
　ワロン。発達心理学の研究から、人と人の関係は集団的で社会的なもので、情動の交換が、言葉の使用に先立っている事を発見した。
　社会学。最近の日本の社会学者、大庭健や西原和久らは、社会的行為や活動を分析する事から社会を論じようとしているが、私見によれば、動くものをそれとして、論理的に把握する事は不可能だから、決して成功しないと思われる。

2）形態規定、自己と他者の関係の分析方法。

　人間の二重性。生物としての個体でありながら、社会生活を営んでいる。この二重性は、ヘーゲルの言う、特殊性、普遍性、個別性、の概念ではつかめない。ヘーゲルの概念論は生物種としての人間の分類や、社会の中での事物（人間が作ったもの）の分類には妥当するが、自然的なものが社会性を持つというこの二重性には無力である。なぜなら、ここでは類的なものが、観念としてではなく、個物として現れているからだ。ヘーゲルの概念論にあっては、普遍や特殊は個物を構成する契機としてあり、決して現実的関係の極としてあるものを想定していないからだ。ヘーゲルによる「具体的普遍」の説明。「すべての存在者が、特殊な性状をもつ個別的現実性のうちに存する普遍的類である」「普遍的なものとして自己を個別的なものと、連結する特殊なものである」
　人間の社会性とは、社会の単位としてある、自己と他者が対面するときの関係において、一方の極が、個人でありながら、それがそのままで、類的なものの化身となっている、という事のほかではない。自然物が関係の中で、言い換えれば社会という形態を持つ事で、新たな質的内容を持つ事を強いられるのだ。この論理構造をマルクスは「形態規定」と呼んだ。
　ヘーゲルにとっては、個は、普遍的類と見なされ、この見地からは、類は観念としてしか措定できない。マルクスは、貨幣商品は、諸商品との関係のうちでは、類としてある個であり、個物が類としての力（社会的力）を持つ理由を解明した。関係が個を類の化身とするのだ。

3）社会生成の現場の設定。

　社会は人々の集合である。この集合はさまざまに組織されており、種々の集団に分類できる。人は複数の種々の集団に属し、複数の関係の網の目に組み込まれている。この状態を主体としての人間から見れば、個々人は複数の関係の中で、それぞれの役割を果たすべく期待されていて、それに適応している。
　あるいは社会は制度としてあり、家族や国家機関を始め、民間企業や非営利企業、政党や宗教団体や種々の運動体が、法律や規約の下に存立している。しかし人間がいなければ、制度は社会にはなれない。人間の社会的行為が社会を形成しているというのはしごく当たり前の考えだ。
　ところが行為それ自体は動くものであり、論理的に捉えられない。とすれば、行為の形態、行為が発現される形式を発見しこれを分析するほかはない。社会的行為は多様だが、その一番簡単な形態は人と人との対面の場である。ここでは人と人との対面の場に、社会の原理が潜んでいると考えてみよう。

C）自己と他者、社会形成の主体

1）社会生成の困難に直面している現状から出発。

　ケアレスマンモデルの妥当性が疑われる時代とは、人と人との対面の場でケアレスマンを一般的他者の態度として取得する場面の減少している事を示してはいないか。女性の雇用者数が4割を超え、他方で少子化・高齢化社会が到来して、ケアレスマンモデルが妥当する人と人との対面の場が少数派になっていると思われる。
　若者のフリーター志向や、引きこもりは、他者との対面の場で、ケアレスマンを一般的他者の態度としては取得できない人々と考えられ、ケアレスマンをモデルとする社会への参加をためらっている事の現われと見よう。つまり現代の特徴は、人と人との対面の場で、社会を生成していく事の困難性というところに現れている。

2）社会生成の困難の原因。

　社会生成の困難はどこから来ているのか。これは見方を変えれば、社会が社会の再生産という点で壁に当っている事だ。既成の社会の再生産が困難に直面しているという事だ。
　高度消費社会が生み出した、物象化の進展と、それに伴う個人の自己神格化が、人との対面時に一般的他者の態度を取得する事への抵抗感を生んでいる。

3）主客の転倒への期待。

　人と人との対面の場に社会の原理があり、行為を見る側が一般的他者の態度を取得しなければならない、とすれば、一般的他者の態度の作り変えという問題が提起されうる。既存の社会生成への拒否は、社会生成の客体である事への違和感の表明であろう。ケアレスマンモデルとはべつの人間像を一般的他者の態度へと生成していく事が問われている。
　個々人が社会生成という点では主体足りうる、という事の確認がまずは肝心だろう。

4）新しい主体像

　ここで視点を変えて、自己と他者との関係における社会生成力と、既成の社会との関連について考察してみよう。相手の行為を見て一般的他者の態度を疑問なく取れる人たちは既成の社会の生成に荷担している。この場合、一般的他者の態度で相手を見ることのうちには、一般的他者の態度に同化を迫る権力作用が内在している。この場合の自己は社会化の客体としてあり、社会は自己の外にあるものと観念される。
　ケアレスマンモデルに代表される、今日の一般的他者の態度は正当性を疑われてきており、この態度を取得することへの疑問や違和感を示す人々が増大してきている。この人たちは社会化の客体としての存在に、自然発生的に反発している。
　では自己と他者との関係で、現に既存の社会とは別の社会性を生成していった場合はどうなるのか。これを新しい主体像と捉えてみよう。この場合主体は自律した個人ではありえない。個人は他者との社会関係に置かれている限りで主体足りうる。しかもこの場合にもこの関係が新しい社会生成力を持ったものでなければならない。でもよく見れば、今日の日本にはこのような新しい主体を沢山見出せる。ただ、新しい主体としての意識の形成が未成熟なだけだ。実際にケアを地域で担おうとすれば、人はこの新しい主体に自己を加えることを迫られるのではなかろうか。

D）新しい主体とは何か（今後詳しく述べる機会を作りたい）

1）主体の変遷

　新しい主体とは何かが明らかになるように、古い主体（プロレタリアートや自律した個人）と対比してみよう。
　プロレタリアートに期待されてきた主体性とは、階級的団結を勝ち取り、既存の国家権力を打倒してプロレタリアートの独裁の国家を形成することで社会革命を推し進めるというものだった。この試みが現実的に破産し、理論的にも総括できる（貨幣生成の本能的共同行為に対してはこの主体性は無力）時に、この階級闘争がメインだった時代にも、人と人との対面の関係で社会が生成されていた、という原理は働いていた。つまり階級闘争も、社会形成力を伴っていて、闘えば「改良的成果」がえられた。この原理に注目していなかったために、改良的成果は革命的行動にとってマイナス要因と捉えるか、改良がすべて、という改良主義になるかで不毛な対立を生んできた。社会形成力という見地からすれば従来の主体性を新たな形で位置づけなおせよう。
　階級闘争の社会形成力をいかにして強めていけるか。このように考えると改良か革命かという対立とは別の次元が開ける。まず運動の日常性が大切であり、運動を生活として設計することが問われてくる。次に、新しい社会は、既成の社会に対しては対抗文化として現れるために、文化の発信が重要になり、そのためには働き方を変えていくことが必要になる。労働運動は社会的包摂という見地から階級主体を開いていくことになる。
　次に自律した個人という主体は、当初は市民運動の原理であったが、今では政府のスローガンになっていることからも分かるように、実は社会化の客体という意味になってきている。
　古い主体に代わる新しい主体を考えるとき、「いまここで」の社会形成のイメージが問われてくる。それは、農と結びついたケアの生産と再生産の事業が地域の基幹産業になる将来像に結びつく多様な取り組みとなろう。

E）多様な時間（今後の課題）

第3部　福祉政策のあり方（パネルディスカッションで考えたい）

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 6210 times

ケアの時代の新しい主体像 政治・文化講座（第5次）第2回レジュメ（増補）

はじめに

第1部 ケア学の諸問題