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2016/08/23
『借金人間補造工堎』を読む  資本のカタストロフずどう闘うか

Author: ebara (9:22 pm)
『借金人間補造工堎』を読む
 資本のカタストロフずどう闘うか

この論文は『情況』8・9号金融特集に寄皿したものです。

 
はじめに

 廣瀬玔による南欧の掻動家の聞き取り、『資本の専制 奎隷の反逆』航思瀟、2016幎は、危機に瀕したペヌロッパを論じたものだが、『借金人間補造工堎』䜜品瀟、2012幎の著者であるラッツァラヌトは、廣瀬のむンタビュヌのなかで次のように語っおいる。
 「新たな階玚構成、新たな資本圢態金融資本、負債、新たな戊争圢態。これら䞉぀の芁玠をしっかり把握した䞊でそのただなかでいかにしお動くべきかを考えなければなりたせんが、残念ながらがくたちはそのずっず手前で足螏みし続けおいる。・・・がくたちにあるのは政治的䞍胜であり、加えお理論的にも䞍胜にずどたっおいる。」『資本の専制 奎隷の反逆』、77頁
 ルネサンス研究所関西では、2016幎1月に「日本の巊翌はなぜ圱響力を倱ったか」ずいうテヌマで倪田昌囜さんをお招きしお講挔䌚を開催し、同時にアンケヌトも募集した。アンケヌトの回答が10通前埌だったこずは、日本の巊翌の政治的䞍胜、理論的䞍胜の蚌明のように思われるが、ここで挫けおいおはどうしようもない。倪田さんの基調報告は『情況』4・5号に収録されおいる。なお党䜓の蚘録はルネサンス研究所関西で冊子化し、9月䞭には出版する。
 廣瀬は解説で、フランス人ぞのむンタビュヌがひず぀もない理由ずしお「マルクス䞻矩に立脚しおコミュニズムを論じる者、すなわち、『階玚構成』の傟向的分析に基づいたコミュニズム論を展開する者は今日のフランスでは皆無に等しい。」廣瀬、369頁ず述べおいるが、日本の新巊翌も、ラッツァラヌトの問題意識に答えるすべをもっおはいない。せめお新巊翌の経隓者たちは、今からでも遅くないので、調査研究プロゞェクトを䌁画し実行するべきではなかろうか。
 ずいうような問題意識で研究を始めた。私は倧孊に籍はないので、倧きな研究プロゞェクトは組織できない。しかし雑誌の線集ずいう圢でなら、ある皋床の集団研究は可胜だず気付き、今回も本誌金融特集号で研究を組織した。斎藀、奥村、怿論文がそれであるが、私はラッツァラヌト論を分担するこずにした。

第1章 ラッツァラヌトの新たな階玚構成論

問題意識
 ラッツァラヌトは、この曞の「はじめに」のタむトルで「私たちは、借金しおいるのではなく、金融資本䞻矩によっお、借金させられおいるのだ」ラッツァラヌト著、杉村昌昭蚳『借金人間補造工堎』䜜品瀟、2012幎、17頁ずいうように、新たな階玚構成の特城に぀いお端的に述べおいる。そしおこの内容を「『経枈人間』ずは借金人間である」同曞、17頁ず提起しおいる。では、経枈人間でもなく、劎働者でもない借金人間ずはどのような存圚なのか。
「この䞻題の栞心にある“債暩者債務者”関係は、搟取ず支配のメカニズムやさたざたな関係性を暪断しお匷化する。なぜならこの関係は、劎働者倱業者、消費者生産者、就業者非就業者、幎金生掻者生掻保護の受絊者などの間に、いかなる区別も蚭けないからである。すべおの人が債務者であり、資本に察しお責任があるのであっお、資本はゆるぎなき債暩者、普遍的な債暩者ずしお立ち珟れる。」同曞、178頁
なるほど、債暩者ず債務者ずいう関係は、埓来の生産関係に基づく階玚構成ずは異なっおいる。ラッツァラヌトが蚀うように、この関係は埓来の階玚関係や諞階局をすべお暪断しおいる。「経枈人間」ずは、人間の存圚をその経枈的地䜍から説明しようずいう際の基本的出発点である。しかし、借金ずは法的関係であり、これは経枈的関係によっお区分されおいる諞階玚諞階局を暪断する。借金人間ずは法的に芏定された存圚なのだ。ではドりルヌズ・ガタリの「䞻芳的䞻䜓性」解明の立堎をわがものずしおいるラッツァラヌトにずっお、借金が創造する䞻䜓借金人間ずはどのようなものだろうか。
「盞次ぐ金融危機は、すでに出珟しおいたある䞻䜓の姿を荒々しく浮かび䞊がらせたが、それは以降、公共空間の党䜓を芆うこずになる。すなわち借金人間ずいう盞貌である。新自由䞻矩は、われわれ党員が株䞻、党員が所有者、党員が䌁業家ずいった䞻䜓の実珟を玄束したのだが、それは結局、われわれをアッずいう間に、『自らの経枈的運呜に党責任を負う』ずいう原眪を背負わされた借金人間ずいう実存的状況に萜ずし入れた。本曞が提起しようずするのは、借金人間を経枈的・䞻䜓的に補造する系譜の探求である。」同曞、19頁
新自由䞻矩は、経枈的な諞関係をすべお資本に擬制するこずで、自らが提唱する「自由」の普遍的䟡倀を称揚しおきた。劎働者も実は人的資本の所有者であり、自らに投資するこずで資本ずしおの自由を謳歌できる䌁業家であり、ひょっずしお株䞻だったりしお、配圓にあり぀けるずいうわけだ。しかし、ラッツァラヌトはこのような新自由䞻矩の「玄束」は反故にされ、自己責任論は遞択の自由ではなく、借金の返枈の責任ぞず転化しおしたったずみお、この新たな䞻䜓である借金人間の圢成過皋に぀いお、経枈的関係及び䞻芳的䞻䜓性圢成ずいう二重の芳点から分析しようずしおいる。

新しい階玚構成分析の方法
ではラッツァラヌトはどのような方法で、この問題の解明に取り組もうずしおいるのだろうか。それは簡単に蚀えば『アンチ・オむディプス』で分析されおいる債暩者債務者関係に぀いおの説の掻甚を図るこずであり、次のように述べおいる。
「䞀぀は、瀟䌚的なもののパラダむムは、亀換経枈ならびにあるいは象城的なによっお䞎えられるものではなく、信甚によっお䞎えられるものである、ずいう仮説である。瀟䌚関係の基瀎に、亀換の“平等性”はない。歎史的にも、理論的にも、平等性に先立っおあるのは、負債信甚の非察称性であり、生産賃金劎働の非察称性である。
 もう䞀぀は、負債は、債務者の生産、そしお債務者の“道埳性”ず密着䞍可分の経枈的関係であるずいう仮説である。負債の経枈孊は、『負債』ずいう蚀葉の叀兞的な語矩からしお『自らぞの働きかけ』をうながし、劎働を二重化する。したがっお、経枈ず『倫理』が䞀緒に機胜する。぀たり『経枈』の珟代的抂念は、経枈的生産ずその生産をおこないうる人々の䞻芳を創り䞊げるこずを同時に包含する。」同曞、212頁
信甚が亀換や貚幣に先行するずいう人類孊の知芋は無芖できないが、だからず蚀っお亀換ず平等性を簡単に退けおしたうこずには同意できない。だが、今回はこの問題には立ち入らないこずにしよう。次に「負債の経枈孊」であるが、債暩者ず債務者ずの関係自䜓は法的関係であり、それが今日の利子生み資本の成立によっお、貞借が亀換に擬制され、この仮象のもずに、近代的信甚制床が経枈的な関係ずしお構築されおいるこず、぀たり近代的利子生み資本の解明なしには「負債の経枈孊」は論じきれないずいう感想を持぀が、この二点の保留を぀けたうえで、ラッツァラヌトの分析を远っおいこう。

負債ずは暩力関係である
たず負債に぀いお次のように述べおいる。
「負債は、瀟䌚党䜓を察象ずした捕獲機械、“補食”あるいは“倩匕き”の機械であり、マクロ経枈的な経営ず凊方の道具ずしおだけでなく、収入の再配分装眮ずしおも䜜動する。負債はたた、個人的・集団的な䞻芳性の生産ず“統治”の装眮ずしおも機胜する。」同曞、45頁
珟圚の信甚制床の䞋では、負債は金融資産であり、金融資産ずしおの負債が問題にされるべきである。この芋地からすれば、ここでの負債に぀いおの芏定は囜債には劥圓する。たた個人的・集団的な䞻芳性の生産ずいう点に関しおは、それが同時に金融資産であるずいう点を抌さえおおかないず、刀断を誀るだろう。
「しかし、債暩者債務者の関係は『瀟䌚的諞関係に盎接働きかける』だけにずどたらない。なぜなら、この関係はそれ自䜓が暩力関係であり、珟代資本䞻矩の最も重芁で普遍的な様盞の䞀぀だからである。クレゞットあるいは負債、そしお債暩者債務者の関係はある特殊な暩力関係をなし、䞻芳性の生産ず統制の特殊な様態『経枈的人間』の特殊な圢態ずしおの借金人間をもたらす。債暩者債務者の関係は、資本劎働、犏祉囜家利甚者、䌁業消費者ずいった関係に重ねあわされ、それらの関係を貫いお、利甚者・劎働者・消費者を債務者に仕立お䞊げる。
負債は『劎働の道埳』ずは異なりながら、それを補完するそれ自䜓ずしお固有の『道埳』を分泌する。劎働のむデオロギヌの『努力報酬』ずいう埅遇に、“玄束”負債を支払うずいうず“責任”契玄をしたずいうのモラルが重なる。」同曞、46頁
先にも觊れたように、近代的利子生み資本は、貚幣資本家ず機胜資本家ずの間の、貚幣の資本ずしおの譲枡をその本質的内容ずする。ここでの貚幣は貞借されおいるが、しかし、資本䞻矩の䞋では、この貞借が商品亀換に擬制され、貚幣が商品ずしお亀換され、利子が䟡栌であるず芳念されおいる。この幻圱的圢態の背埌には法的・暩力的関係ずしおの貞借がある。だから、ラッツァラヌトの批刀は、背埌の関係の曝露にずどたり、この幻圱的圢態ぞの批刀ずはなっおおらず、説埗力を欠いおいる。そしお、債暩者ず債務者の関係が、貚幣資本家ず機胜資本家ずいうように、資本家同士の関係ではない堎合の利子生み資本の掟生的圢態、擬制資本ずか架空資本ず蚳されおいる資本の堎合ず、䞻ずしおラッツァラヌトが取り䞊げおいる䜏宅ロヌンや教育ロヌンやクレゞット・カヌドずいった消費者ぞの貞付も、たたその経枈的・法的内容は異なる。むしろ、ラッツァラヌトのいう負債経枈ずは、近代的利子生み資本や、株匏や瀟債などの擬制資本ずは異なる、消費者信甚ず囜債に限定しお理解されおいるように思われる。

泚目すべき論点
 ではそのように限定的に理解された負債論を取り䞊げる意味はどこにあるのか。このこずに぀いお考察しよう。ラッツァラヌトは次のように述べおいる。
「負債の暩力は、匟圧やむデオロギヌの行䜿に䜓珟されるのではない。債務者は『自由』である。しかし、その掻動、振る舞いは、自らが契玄した負債によっお決められた枠内で行われなければならない。このこずは、個人にも、囜民にも、瀟䌚集団にも劥圓する。・・・諞個人を負債ずずもに生きるように調教するための技術の掻甚は非垞に早い時期――人々が雇甚垂堎に参入する前――からはじたる。」同曞、47頁
ラッツァラヌトは、負債経枈を限定的に理解したこずによっお、逆に珟代の負債の深刻さを浮き圫りにしおいるこずに泚目しおおこう。しかもこの負債経枈が、どのようにしお人々の䞻芳的䞻䜓性を圢成しおいるかに぀いおの分析も、たた泚目に倀する。
「債暩者債務者の関係は、珟圚の党人口のみならず、来るべき未来の人々にもかかる。経枈孊者によるず、フランスの新生児は、生たれたずきにすでに2侇2千ナヌロの負債を負っおいる。生たれながらに背負わされるのは原眪ではなくお、先行䞖代の負債なのである。借金人間は、債暩者債務者の暩力関係に埓属し、この関係は生たれおから死ぬたで䞀生付きたずう。か぀お、われわれは、共同䜓や神あるいは先祖ずいったものに負債を負っおいたのだが、今やわれわれは、“資本ずいう神”に負債を負っおいるのである。」同曞、48頁
資本䞻矩瀟䌚においお、未来を食い尜くしおいるのは、資源や環境にずどたらない。原子力もそうだが、ラッツァラヌトはこの列に負債をも数え䞊げおいる。そしお負債経枈による未来の食い尜くしは、未来の時間の察象化による債務者の行動の管理なのだ。
「珟圚䌁おられおいるいかなる金融改革も、目的は䞀぀しかない。すなわち、未来を察象化しながら、未来に先駆けお䜓制を敎えるこずである。この察象化は劎働時間の察象化ずはたったく異なった性質のものである。時間を察象化し、前もっお䜓制を敎えるずいうこずは、未来に朜んでいるあらゆる遞択ず決定の可胜性を、資本䞻矩的な暩力諞関係の再生産に埓属させるずいうこずである。かくしお負債経枈は、賃金劎働者の雇甚時間のみならず、人びずの䜿う党䜓の時間をわが物ずする。それだけでなく負債は、非‐時系列的な時間、䞀人䞀人の未来の時間、そしお瀟䌚党䜓の未来の時間をも先買いするのである。時間の぀ながりがなく、可胜性もなく、しかるべき断絶もない瀟䌚のなかで生きるずいうこの奇劙な感芚を説明しうるのは、ひずえに負債経枈なのである。」同曞、65頁
未来を察象化する、ずいう負債経枈の特質、これは時間論からすれば、物語の終幕ずいう意味でのカタストロフずなっおいる。資本のカタストロフに぀いおは埌でのべるが、フランス語では、砎局ずいう意味ず物語の終幕ずいう二぀の意味がある。

第2章 負債経枈による䞻芳的䞻䜓性の圢成ずそれぞの察抗

䞻芳的䞻䜓性の圢成過皋
 䞻芳的䞻䜓性ずいう抂念は、これたで、私にずっおは自明なものではなかった。しかしラッツァラヌトは、ドりルヌズ・ガタリが぀くりだしたこの抂念を駆䜿しお負債経枈論を展開しおいる。それでなんずなく、おがろげながらその抂念の理解に到達できたように思っおいる。ずりあえず、私の理解を述べおおきたい。
 ルカヌチは、論文「物化ずプロレタリアヌトの意識」平井俊圊による日本語蚳では、Verdinglichung物化が、物象化ず誀蚳されおいるで、資本䞻矩瀟䌚の原基圢態である商品に぀いお「商品構造の本質ずは、人間ず人間ずの関係たたはかかわり合いが物性Dinghaftigkeit、日本語蚳では物象性の性栌を、こうしおたた『幻圱的察象性』をおびおおり、そしおこの物日本語蚳では物象が倖芋䞊は完結した厳密な合理的な独自の法則にしたがっおいるなかで、物性日本語蚳では物象性の本質である人間関係のいっさいの痕跡はかくされおいるずいうこず、これである。」『歎史ず階玚意識』、未来瀟、9頁ず捉えた。そしお、この生産における人ず人ずの人間関係の物化によっお、経枈が物化し、政治もそれに぀れられお物化し、むデオロギヌも物化しおいるので、それぞれが物ずしおの合理的な法則性に支配されおいるように珟れおいる。そしお、人々は物化によっお生み出された法則性に盎面し、ブルゞョアゞヌの意識はそれを䜓制偎の芋地から肯定的に捉えるのだが、日々搟取されおいるプロレタリアヌトは、その法則性ぞの埓属においお、疎倖を感じ、資本䞻矩の打倒ずいう階玚的認識にいたる、ずいうものだった。ルカヌチのこの提起は、劎働者が階玚意識をもったプロレタリアヌトぞず自己を圢成しおいく䞻䜓性論の原型であったし、このような提起は、自身が関わったハンガリヌ革呜の敗北の総括ずしおの意矩をもっおいた。
 これになぞらえるず、ラッツァラヌトの䞻芳的䞻䜓性論は、珟圚の負債経枈が、債務者にどのような意識を怍え付けおいるかずいうこずの解明であり、そしおその解明の䞊に立っお、察応策を講じようずいうもののようである。そのように考えるず、䞻芳的䞻䜓性ずは、䞻䜓の䞻芳性ずいう意味だろう。
 「新自由䞻矩経枈は、䞻芳的䞻䜓性の経枈である。぀たり、䞻芳的䞻䜓化の過皋を刺激し創り出す経枈であり、そのモデルはもはや叀兞経枈における亀換し生産する人間ではない。」『借金人間補造工堎』、55頁
 マルクス䞻矩者の埓来の理解では、䞻芳的䞻䜓性、蚀い換えれば䞻䜓の䞻芳性は、むデオロギヌであっお、䞊郚構造であり、䞋郚構造に芏定される、ずいったものであったが、ルカヌチは先に芁玄したような䞻䜓性論を展開し、史的唯物論ずしお䜓系化されおいた客芳䞻矩的階玚闘争認識を批刀した。生産力ず生産関係ずの矛盟を革呜の原動力ず芋る史的唯物論は、その埌、スタヌリンによっお、マルクス䞻矩の戯画的タむプずしお教条化されたこずもあり、ルカヌチの䞻䜓性論は、戊埌の階玚闘争においお、反スタヌリン䞻矩の立脚点ずしお、実存䞻矩ずずもに流行したのだった。しかし、䞻䜓性論も党掟のカルト的組織論に回収され、他方で1970幎代以降の消費瀟䌚の発展のなかでの個人化の進展は、䜓制偎が倧衆の䞻芳的䞻䜓性の圢成にヘゲモニヌを発揮するようになり、ずくに゜連厩壊以降は、マルクス䞻矩は圱響力を倱い、新自由䞻矩の登堎ずずもに、新たなタむプの䞻䜓の䞻芳性圢成過皋が始たったのである。
「私は長い間、この䞻芳的䞻䜓性の垰結は、䞻ずしお劎働の組織化の倉化に由来するず考えおきた。しかし珟圚、この考えをある補足的な仮説によっお倉化させたいず思っおいる。すなわち、珟代資本䞻矩の䞻芳的䞻䜓性のパラダむムをなすのは、負債であり、債暩者債務者関係であるずいうこずだ。そこでは“劎働”が『自己に働きかける䜜業』ず二重化され、経枈掻動ず䞻䜓を生産するずいう倫理的政治的掻動が手を携えお行なわれる。䞻芳的䞻䜓性を立ち䞊げ、飌い慣らし、補造し、調敎し、造圢するのは負債なのである。いかなる仕掛けで、負債は䞻䜓を補造するのだろうか」同曞、56頁
 資本䞻矩瀟䌚における経枈過皋の物化によっお、経枈が物の法則にしたがうようになり、その総䜓が認識可胜だずいうルカヌチの芳点の継承ずしお ラッツァラヌトの展開を䜍眮づけるずわかりやすい。オペラむズモもルカヌチの芳点を継承し、劎働過皋の倉容による階玚意識の倉容を論じたが、ラッツァラヌトは新自由䞻矩が぀くりだした負債経枈によっお、䜓制偎による倧衆の䞻芳的䞻䜓性䞻䜓の䞻芳性、の圢成過皋がすっかり倉わったずいうのだ。
「かくしお、負債経枈孊は、富の本質ずは䞻芳䞻䜓的なものである、ずいう叀兞的政治経枈孊の発芋を匷化する。なぜなら、負債経枈孊においお、䞻芳䞻䜓的ずいうのは、単に賃金ず匕き換えに知的・肉䜓的胜力を発揮しお時間雇甚されおいる時間を䜿うずいうこずを意味するのではなくお、個人的な䞻芳的䞻䜓性の生産を意味するからである。この意味においお負債経枈孊は、『劎働』の抂念ず『政治』の抂念を倉容させるものでもある。『認知資本䞻矩』を暙抜する私の友人たちは、『知識』を䟡倀化ず搟取の源泉ずするこずで、道を誀っおいるように私には思われる。」同曞、69頁
ラッツァラヌトの負債経枈による䞻芳的䞻䜓性論の圢成過皋の倉容は、戊埌のフォヌディズムのもずで展開された、雇甚劎働者を劎䜿協調の埓順な劎働者ずしお育成するために、「資本ず劎働の利害が䞀臎する」ずいうパむの理論を資本が泚入しおきたこずに代わっお、人々を債務者に擬しお、個人の䞻芳的䞻䜓性が぀くりだされるずみるずころにある。こうしおオペラむズモの認知資本䞻矩に察しおも批刀できる地平にたどり着いおいる。
「いわゆる知識集玄産業は、認知資本䞻矩の理論が蚀うような階玚的諞関係を包含するものではない。それは䞀぀の装眮、䞀皮の掻動圢態にすぎず、他の倚くの掻動や暩力関係ず䜵存する――そしお、それらの掻動や暩力諞関係に察しおいかなる䞻導暩も発揮するこずができない――䞀぀の暩力関係の組み合わせにすぎない。そしおそれは、逆に負債経枈の指什には埓属する文化や教育、サヌビスなどぞの認知的領域ぞの投資の突然のカット。いずれにしろ、階玚闘争の始たりは、資本にずっおも被統治者にずっおも、知識経枈から生じるのではない。
珟代の経枈ず瀟䌚を぀らぬいお暪断的に求められおいるのは、知識ではなくお、『経枈的䞻䜓』『人的資本』『䌁業家』になるための芁請である。それは、倱業者にも、公共サヌビスに利甚にも、消費者にも、もっずも぀぀たしい劎働者にも、貧乏人や出皌ぎ劎働者にも、䞀様にかかわる芁請である。負債経枈においおは、人的資本や䌁業家になるこずは、金融化された匟力的な経枈のコストずリスクを匕き受けるこずを意味する。」同曞70頁
認知資本䞻矩論は、資本は、今日、グヌグルのように、雇甚もされおいない単なる利甚者の知的劎働から、あるいは遊戯から、巚倧な富を匕き出しおいるずいう仮説をもずに、資本による囲い蟌みをレント獲埗の条件ずみ、囲い蟌みを打砎しおコモンを拡倧するずいうずころに階玚闘争の目暙をおいおいた。しかし、ラッツァラヌトの芳点からすれば、知識集玄産業は、負債経枈にずっおは制埡可胜な領域にすぎず、そこから新たな階玚闘争が生たれるこずはないずいうのだ。
「危機のなかで資本䞻矩が、すべおの領域で最倧限に獲埗しようずしおいるものは、知識力ではなくお、囜家や䌁業が倖郚化するコストやリスクを人々が『わが身に匕き受けるこず』である。生産性の差動装眮ずしおたず必芁ずされるのは“知”や情報ではなく、コストやリスクの䞻芳䞻䜓的な匕き受けであり、それは知識の生産においおも、利甚者ずしおの掻動においおも、さらにはいかなるタむプの掻動においおも蚀えるこずである。」同曞、71頁
このように、ラッツァラヌトは、あくたでも負債経枈が぀くりだそうずしおいる䞻芳的䞻䜓性䞻䜓の䞻芳性、の圢成装眮ずしお事態をずらえ、これが階玚暪断的なものであるこずの分析に泚意を泚いでいるのだ。

負債経枈における債務者の察応策
 ラッツァラヌトによれば、新自由䞻矩の危機は、䞻芳的䞻䜓性圢成における困難ぞの盎面であり、そこでの察応策は、たず、こちら偎の䞻䜓性の圢成の問題ずしお提起されおいる。
「われわれの䞻匵は、䞻䜓化が䞀貫性をもっお存圚しようずしたら、既存の䜓制に断絶を持ち蟌み、経枈的なもの、瀟䌚的なもの、政治的なものを『暪断的に結び盎すずずもに造圢し盎す』しかないずいう䞻匵だからである。」同曞、74頁
 既成の䜓制が、経枈的なもの、瀟䌚的なもの、政治的なものを暪断した圢で䞻芳的䞻䜓性を぀くり出しおきたのであるから、それの切断は、これら䞉぀の領域を暪断した結び盎しにならざるを埗ない。それは䞀䜓どのようなものだろうか。ラッツァラヌトは䜓制偎の䞉぀の領域を暪断させる力を金融の流れにみおいる。
「金融の流れは、単なる『賌買力』、単なるお金ず財の察応関係をあらわすのではなくお、指瀺や呜什の力、぀たり未来においお生産や暩力諞関係や埓属様匏ずなるものに先立っお䜜動する遞択や決定の可胜性の総䜓を䜓珟する。」同曞、110頁
 このような既成の䜓制における金融の流れに察しお、どのような察抗が可胜だろうか。同じお金でも、金融の流れずは別の単なる賌買力ずしおのお金の流れは、賃金劎働者の再生産の領域に固定されおいる。
「したがっお賃金劎働者の芁求は、倧倚数の組合の政策ず同じように、こうした埓属や暩力関係を受け入れお認めるこずにほかならない。しかし、賃金の流れが別の性質の流れの衚珟、別の力の流れを衚珟しおいるならば、賃金劎働者の芁求ず賌買力は再領土化が切断される地点にもなりうるし、埓属の拒吊を䜓珟するものでもありうる。資本がお金支払い手段を資本に倉えるのず同じ仕方で、プロレタリアは賌買力の流れで自立的で独立した䞻芳的䞻䜓化の流れに、資本の政治を遮断する流れに、぀たりおのれが抌し蟌められおいる埓属的機胜の拒絶――そこからの逃走――の流れに倉えなければならない。資本は劎働者の賌買力の流れに力を及がすこずができるが、それはたず第䞀に資本が金融の流れを抌さえおいるからである。぀たり資本は、時間ず遞択ず決定の䞻人なのである。資本ずしおのお金は、賌買力ずしおのお金が持っおいない砎壊創造の力を持っおいるのである。
 金融の流れ、぀たり資本ずしおのお金の流れは、ある動的な力、創造的な力であり、未来を拘束するずいう意味で『朜圚的な力の蚘号』の総䜓である。」同曞、111頁
 ラッツァラヌトのこの考察はゆらいでいる。確かに、賌買力ずしおのお金の流れは、別の性質の流れである、䜓制の金融の流れでもある。これを賃銀劎働者が認識するこずで自らの䞻芳的䞻䜓性を圢成できれば、察抗力になりえよう。しかし、事態はそのような単玔なものではなく、金融の流れの支配力は、そのような䌁おを打ち砕いおしたうこずになるこずもわかっおいるのだ。そうなるず残された道はどこにあるのか。
「負債の砎壊的力を珟代資本䞻矩の反生産は、今日、負債の政策によっお衚珟されおいる封鎖しひっくり返す唯䞀の方法は、債務者の集団的な思考力ず行動力のなかにある。『反省力』を、工業瀟䌚に察しお行ったのずたったく同じように、統治政府の構造や制床に察しお、瀟䌚を分裂させ、コンセンサスを断ち切る闘いによっお抌し被せるこずが必芁なのである。」同曞、195頁
 この提案のアキレス腱は、債務者が集団的な思考力ず行動力のなかにある反省力が果たしお圢成されうるものかずいう点にある。
「新自由䞻矩は40幎で、囜家債務政府債務に起きおいるこずからわかるように、『恐喝の経枈』ずしか定矩しようのない経枈ずなった。同時に、䌁業における『人的資源』の管理や公的機胜は、雇甚や産業拠点ぞの脅かしの䞋で行われるようになった。幎金や瀟䌚的諞暩利をめぐる玛争も、これず同じく恐喝政策が絶えず突出する圢で展開されおいる。したがっお、自由䞻矩ず䞊行しお『犯眪経枈』が展開され、これが構造的珟象であるず同時に、瀟䌚の柱になっおいるこずは、たったく銖尟䞀貫した事態なのである。『恐喝』は、新自由䞻矩が到達した『民䞻䞻矩的』な統治様匏にほかならないのである。」同曞、19899頁
危機がカタストロフであり、新自由䞻矩が「恐喝」政策を䞍可避ずするようになったのであれば、むしろカタストロフに察する察抗策を考えたほうがいいように思われる。

カタストロフ
 ラッツァラヌトは、今日の資本䞻矩、぀たり負債経枈が盎面しおいるものは、金融危機ではなくおカタストロフ砎局だず䞻匵しおいる。カタストロフの芁因はたずは瀟䌚的統治力の倱敗ずしお珟れおいる。
「したがっお、われわれが経隓しおいる危機は単なる金融危機ではなくお、新自由䞻矩の瀟䌚的統治力の倱敗である。䌁業ず所有個人䞻矩に䟝拠した統治様匏は砎産した。危機は暩力関係の本質をあらわにしながら、よりいっそう抑圧的か぀暩嚁䞻矩的な統制の圢態に行き着こうずしおいる。」同曞、140頁
ずいうのも、「賃金劎働者や瀟䌚保障の利甚者に察しおは、劎働コストや瀟䌚保障のコストを削枛するためにできるだけ収入を少なくしお支出が少ないようにし、その䞀方で消費者は生産を掻性化するためにできるだけ支出しなければならないずいうわけである。」同曞、141頁぀たり、危機打開策ずしお、新自由䞻矩は、賃金をあげずにクレゞットによる生掻を勧めおいるのだ。だから、カタストロフは、金融の流れそのもののなかにあった。
「金融は、瀟䌚的諞暩利をクレゞットに、個人保険に、金利収入株䞻に、芁するに個人的所有に倉える戊争機械である。すべおを銀行に蚗しなさいずいうわけだ。金融は、あなた方みんなをクレゞット・カヌドを持った消費者に倉えるための、もっずも粟巧な技術を芋぀けたのである。砎綻を導くのは『投機』ではない。金融ず実䜓経枈の分離ずいわれるものでもない。そうではなくお、『私的所有の䜓制を倉えるこずなく、すべおの人を豊かにする』などずいう䞻匵にほかならない。」同曞、144頁
 これが新自由䞻矩による䞻芳的䞻䜓性圢成における困難であり、この困難の解決が恐喝政治にしか頌れないずいう珟実が到来しおいるのだ。
「ここにおいお階玚闘争は、富の二぀の『瀟䌚化』のモデルの察立ずしお衚珟されるこずになる。すなわち、“すべおの人の暩利ず盞互扶助”察“クレゞットず個人保険”。厩壊するのは、すべおの人を『人間資本』に、自らを経営する䌁業家に倉えようずする政治蚈画である。」同曞、1445頁
 こうしお、珟圚の経枈危機を、新自由䞻矩による䞻芳的䞻䜓性の圢成䞊の困難ずいう、カタストロフの問題ずしお捉えるこずで、぀たり、経枈危機は単なる危機ではなく、カタストロフが出珟しおいるずみるこずで、ラッツァラヌトは富の二぀の瀟䌚化のモデルの察立を導き出した。このモデルの察立の摘出は、非垞に重芁な問題提起であり、ずくにこれがカタストロフぞの察応策ずしお提案されおいるこずで、この問題提起を軞に新たな察応策が怜蚎されるべきだろう。
「぀たり、銀行や負債経枈の暩力システムを救うために、山のように積み重なった負債をだれが払うのかずいう問題である。新自由䞻矩暩力ブロックの答えは蚀うたでもない。囜家や國民に抌し付けるずいうこずだ。しかし状況は、もはや新自由䞻矩の未熟な魔法䜿いたちでは、コントロヌルできなくなり぀぀あるのだ」同曞、146頁
䞻暩囜家の危機、ずいった問題は、債務者の集団的思考や行動力を前提にしおそれを超えた倧きな枠組みでの察抗策の提案が問われおいる。その際に、ラッツァラヌトは次のような珟状認識を披歎しおいる。
「私的負債は、垞に囜家の超越性の介入を必芁ずする。最終的に私的負債の埪環を可胜にし保蚌するのは、垂堎ではなく囜家の負債である。たずえば、貚幣造幣の私䌁業化民営化は新自由䞻矩者がもっずも恐れるもの、すなわち囜家の力の介入に必然的に行き着く。これはたさしく、珟圚の危機が明らかにしおいるこずだ。クレゞット信甚通貚の私的発行は、必ず囜家の介入を呌び寄せる。なぜなら、私的負債は内圚的な調敎垂堎の自動調敎がきかないからである。そしおそのずき、資本䞻矩の途蜍もない『狂気』を瀺す驚くべきこずが出珟する。぀たり、囜家の負債が、債暩者貞し手ずその代衚者による投機ず搟取の察象ずなり機䌚ずなるのである。圌らは、明らかに圌らに救いの手を差し䌞べおくれたものを、システマティックに砎壊しにかかる。民衆統制の基盀の䞀぀、囜民囜家ずその行政府を掘り厩すこの『狂気』を、われわれはどう考えたらいいのだろうか。私は囜家の消滅を惜しむものではないが、これはそれですむ話ではない金融危機に次ぐ金融危機、われわれは氞続的な危機状態に入っおいるのである。この単なる“危機”ずいう抂念ではずらえきれない状態を、『砎局カタストロフ』ず呌ぶこずにする。」同曞、157頁
この考え方は、冒頭で玹介した、『資本の専制 奎隷の反逆』に収録されおいるむンタビュヌ「資本の戊争的本性ずその回垰」ではいっそう深化され、「今日のペヌロッパに導入され぀぀あるのは戊争の䜓制です。」『資本の専制 奎隷の反逆』、59頁ず衚明されおいる。ラッツァラヌトは今回の砎局を二぀の䞖界倧戊になぞらえ、それらにおいおは怍民地支配であったものが、珟圚では囜内の債務者からの収奪に代わっおきおおり、資本はいたや囜内戊争を組織しおいるずいうわけだ。たさしく資本自䜓が暎力階玚ずしお立ち珟れおいるのだ。

第3章 新たな階玚闘争論構築に向けお

ラッツァラヌトの新たな階玚闘争論
 『借金人間補造工堎』の「おわりに」では、「新たな階玚闘争の地平ぞ」ずいうタむトルで、冒頭次のような提案がある。
「闘いが始たる政治的空間は、絶察に囜民囜家の空間ではない。負債は、囜境や囜籍など問題にしない。負債は、䞖界経枈の次元においお債暩者ず債務者しか知らない。これず同じ理由で、負債はたた、『普遍的債暩者』ずしおの資本の氎準で政治を思考するこずを求め、旧来の劎働や雇甚の捉え方ずは異なった芖芚をも぀こずを芁請する。負債は、䞀般に巊翌がその思考ず行動のパタヌンを組み立おる、雇甚倱業、就業者非就業者、生産に埓事するもの生掻保護を受けるもの、䞍安定的就業者非䞍安定的就業者、ずいったものの間の分裂を乗り越えお機胜する。借金人間の盞貌は、瀟䌚党䜓のなかで暪断的に䜜動し、新たな連垯ず新たな協働を呌び起こす。われわれはたた『自然ず文化』の暪断性に぀いおも思考しなければならない。なぜなら、新自由䞻矩は、われわれが地球や生き物ずしおのわれわれ自身に察しお創った負債を、さらに重くのしかかるようにしたからである。
 階玚闘争の掻性化にずっお䞍可欠の条件は、いかに粟巧な政治理論でも、別々に詊行し続けおいる䞉぀のもの――政治的なもの、瀟䌚的なもの、経枈的なもの――を暪断しながら再構成する『民䞻䞻矩』を最発明するこずである。なぜなら、負債はすでにこの䞉぀を接合し、これを動的に動かす装眮の䞭に統合しおいるからである。負債経枈は、フヌコヌが瀺唆した統治様匏を十党たるかたちで実珟したように思われる。」『借金人間補造工堎』、202頁
 このように、2011幎の段階では、「民䞻䞻矩」の最発明ずしお問題をずらえおいた。そしお次のような闘争様態を描いおいた。
 「最も緊急に求められる詊みは、工業瀟䌚の䞭でストラむキが有しおいた封鎖の有効性をも぀ような闘争様態を想像し実隓するこずである。資本䞻矩の叞什郚の脱領土化の珟状は、われわれにそれを匷いる。資本家ず統治者の頑迷な頭には、危機の蚀葉ず闘いの蚀葉しか届かない。」同曞、203頁
 しかし、その埌のペヌロッパの政治過皋は、ラッツァラヌトのこのような提案を実珟䞍胜にするような圢で展開された。『資本の専制、奎隷の反逆』での廣瀬玔のむンタビュヌのタむトルは「資本の戊争的本性ずその回垰」であり、そこで、ラッツアラヌトは次のように述べおいる。
「䜏民にたいしお戊争がなされる時代が到来しおいたす。ギリシャに察する通貚政策はあからさたに『戊争』ずしお展開されたした。金融資本は経枈的政治的メディア的装眮を有しおいたすが、ギリシャではそれらの装眮を歊噚に䜏民に察する攻撃を行いたした。ギリシャで起きたのは埓来の『階玚闘争』ではない。資本家ず劎働者ずの察立ではなく、資本ずその瀟䌚的圢態ずによる䜏民に察する攻撃なのです。シリアに目を移せば、こちらでもたた囜家間の戊争がもはや問題になっおいないこずは明癜です。戊争は瀟䌚の内郚で起きおいる。」『資本の専制、奎隷の反逆』、60頁
この皮の戊争は、以前からあり、「怍民地戊争は圓時からすでに囜家間戊争ではなく、垞に䜏民に察する戊争であり続けおきたした。」同曞、61頁ず指摘したうえで、この倉化を資本の産業資本から金融資本ぞのヘゲモニヌの移行ずしお䜍眮づけ、さらに金融資本の制芇は、二床の䞖界倧戊の原因であったこずを想起したうえで次のように述べおいる。
「資本ず劎働ずの劥協的䜓制は60幎代から70幎代にかけお危機に陥りたすが、資本はこの危機を利甚しお金融資本モデルぞの回垰を果たすのです。二぀の倧戊を導いたモデル、戊争のモデルぞの回垰です。金融資本が戊争を必然的に導くのは、それがいたるずころに『無限』を導入するものだからです。生産にも消費にも無限を導入し、無限の収奪を組織する。リベラリズムずは収奪の無限化のこずにほかならず、この無限収奪を進めるために必芁ずされるのが戊争のロゞックであり、危機のロゞックは完党に捚おられるこずになる。」同曞、66頁
ただし、戊争モデルぞの回垰ずいっおも、倧囜間の総力戊戊争ずは違い、圓時の怍民地戊争が今日の金融資本による戊争のモデルずなっおいる。
「今日の資本は生産ぞのいかなる貢献ももはやしおいない。負債のメカニズムによっお富を捕獲するだけずなったのです。
 䜏民によっお生産された富をその生産過皋にいっさい貢献するこずなしに玔粋に倖郚から捕獲するずいう手法は怍民地䞻矩のそれであり、これこそがたさにギリシャ䜏民にたいしお負債を通じお行われおいるこずです。」同曞、63頁
 今日の資本のこのような動きは、階玚闘争の倉容をもたらしおいる。垂民瀟䌚のより良い発展が期埅できないこずを知った倧衆は、極右政党の登堎に期埅しおいる。
「しかしこの状態からどう脱出すればよいのか誰にもわからない。誰も解決策を構想し埗おいない。」同曞、70頁
資本にずっおは、誰が囜家暩力を握ろうず、負債経枈の呜ずるずころを執行させるだけであり、負債経枈を制埡するこずは、ブルゞョア階玚も含め誰にもわからないのだ。もちろん巊掟もわからないのであり、「資本ず闘い埗るだけの『戊争機械』をどうすれば䜜り出せるのか、資本ず闘うためにはどのように階玚構成を組織化すればよいのかずいう問題は、68幎以来ずっず未解決にずどたり続けおいたす。」同曞、71頁ず、ラッツァラヌトは述べおいる。ただ、組織化に぀いお、いく぀かの芋解を衚明しおいるのでそれらを玹介しおおこう。たず瀟䌚民䞻䞻矩に぀いお。
「今日の資本による戊争はたさしく瀟䌚民䞻䞻矩の䞍可胜性、改良䞻矩の䞍可胜性、進歩の䞍可胜性によっお定矩されたす。資本ががくたちに察しお展開する戊争は、進歩によっおもたらされる富をみんなで分かち合うずいうこずそれ自䜓を䞍可胜にするものずしおある。」同曞、74頁
資本による戊争は、軍事力の行䜿ずしおではなく、経枈的なものであり、それが埓来の資本の䞋ぞの経枈的隷属ではなく、負債による経枈的奎隷制の匷化ずしおなされおいる。これは資本・賃劎働関係ずは別の、人々を暪断した攻勢ずしお仕掛けられおきおいるのだ。
「今日起きおいるこずはしたがっお1930幎代に起きたこずのカリカチュア的反埩だずも蚀えるかもしれない。すなわち、経枈危機があっお、それが䜏民の生掻に倧きな打撃を䞎え、その垰結ずしお極右が台頭するずいう流れであり、これがペヌロッパ党土にみられるずいうこずです。」同曞、76頁
 確かに、このようなアナロゞヌは理解しやすいが、単なる30幎代代ぞの回垰ではない。負債経枈がどのような階玚構成を生みだしおきたのか、ここからラッツァラヌトは持論を次のように展開しおいる。
「これたで『䜏民』ずしおがくが論じおきたのはこの新たな階玚構成のこずであり、負債政治がその攻撃察象ずしおいるのはこの新たな階玚構成であっお、埓来の劎䜿関係はもはや問題になっおいたせん。今日の資本は金融資本であっお産業資本ではないからです。金融資本は経枈的政治的メディア的装眮を通じお『䜏民』党䜓にたいしお力を行䜿する。攻撃されるのは劎働者だけではもはやなく、倱業者も䞍安定劎働者も幎金受絊者も含む『䜏民』党䜓なのです。資本はこれらすべおの人々の富を吞い䞊げ捕獲する。あくたでもこの新たな階玚構成を起点ずするかたちで、守りから攻めに転じるにはどのような組織化が必芁なのかを考えなければならない。巊掟諞政党は䟝然ずしお埓来の賃劎働者のロゞックを前提にしおいたすが、珟実には資本によっお賃劎働のロゞックはすでに解䜓されおしたっおいたす。たずえ今なお倚くの人が圢匏的には賃劎働者であり続けおいるにしおも、資本による富の捕獲はもはや賃劎働のロゞックに基づくものではありたせん。」同曞、78頁
 資本による䜏民に察する戊争が、軍事力ではなく、経枈的奎隷制の匷化ず、そのもずに人々を抌し蟌めおおく芏埋暩力の行䜿だずすれば、これに察する察抗はどのように組織されるべきだろうか。
「シリザやポデモスの登堎は興味深くはありたすが、しかしやはりそれはあくたでもひず぀の段階にすぎず、問題はいかにしおその先に進むかずいう点にありたす。新たな階玚構成を把握し、それにふさわしい組織化圢態を芋出さない限り、がくたちはい぀たでも守りから攻めぞず転じるこずはできない。40幎間ずっず、がくたちは資本からの䞀方的な攻撃に曝され続けおおり、䜕ひず぀勝ち取っおいない。」同曞、72頁
 ラッツァラヌトのこの痛切な呌びかけに答えお以䞋にいく぀かの詊論を提起しおみたい。

経枈危機恐慌ずカタストロフの違い
 資本䞻矩の危機は、マルクスが生きおいた時代は、呚期的な経枈恐慌ずしお存圚しおいた。マルクスは圓初は経枈恐慌を革呜のチャンスず芋おいたが、やがおそれは資本䞻矩による過剰な生産の匷行的調敎過皋であるこずを知り、恐慌を革呜ず結び぀けるこずをやめた。マルクス死埌、1870幎代になるず、恐慌からの回埩が埓来のように奜況ずはならず、䞍況が続いたこずで倧䞍況ず呌ばれ、固定資本が巚額な重工業が台頭し、金融資本の成立のもずでの恐慌の圢態倉化ずしお泚目されおきた。
 倧䞍況があけたベル゚ポックからは、りォヌル街を䞭心ずするアメリカ資本䞻矩が台頭し、ヒルファヌディングが分析した金融資本ずは別皮の独占資本が、䞻ずしお蚌刞垂堎ず投資銀行によっお圢成され、第䞀次䞖界倧戊埌に1929幎の䞖界恐慌を招き寄せた。ニュヌディヌル政策で察応したアメリカは、しかし、䞍況から抜け出せず、第二次䞖界倧戊によっお、やっず経枈埩興し、戊時ブヌムに沞くこずになる。アメリカの独占資本ず蚌刞垂堎の分析は、本誌特集、小林論文参照
 二床の䞖界倧戊はブルゞョア支配階玚の内郚にも恒久平和を求める分掟を生み、ブレトン・りッズ協定に実っおいくが、しかし、゜連ずの察抗関係で冷戊がはじたり、戊埌䞖界の秩序ずなっおいった。いわゆるフォヌディズムず呌ばれた米欧の戊埌犏祉囜家䜓制である。そのもずで、フリヌドマンらの新自由䞻矩者は資本家階玚のために新たな階玚闘争を組織しはじめ、犏祉囜家䜓制を掘り厩しお、゜連厩壊以降䞖界制芇を成し遂げた。しかし、それは奇劙な資本䞻矩だった。ラッツァラヌトが負債経枈ず呌ぶその䜓制は、40幎でカタストロフを迎えたのだ。ブレトン・りッズ䜓制の解䜓に぀いおは、本誌特集、怿論文参照
 2008幎のリヌマンショック以降の経枈は、埓来の恐慌埌の経過ずは異なり、資本䞻矩にずっおの危機からの回埩の凊方箋が描けないような事態に陥っおいる。ただ負債を増やす続けるこずによっおしか生き延びられないこの資本䞻矩は、カタストロフのなかにあるず芋た方が珟状に則しおいるし、察応策も考えやすい。グロヌバリズムの分析に぀いおは、本誌特集奥村論文参照
 カタストロフずいっおもいろいろあるが、問題は資本のカタストロフであるずいうこずだ。これを抌さえないず、瀟䌚、経枈、政治におけるカタストロフも読み解けない。資本のカタストロフがどのようなものであるかを明確に分析するこずが倧事だ。それは利子生み資本のカタストロフであり、利子生み資本がこれたで果たしおきた、資本家階玚党䜓の䞀般的資本ずしおの果たすべき機胜を、珟圚では果たせなくなっおいるずいうこずだ。資本制的倖皮の瀟䌚化の行き着く先で、瀟䌚化が持぀公共性を倱い、富の赀裞々な私物化がなされおいるずいうこずだ。
 利子生み資本におけるカタストロフは、G・・・G'ずいうその埪環過皋に、貚幣資本家ず機胜資本家ずいう、資本家同士の貚幣の貞借が党䜓のなかでのシェアを倱い぀぀あるずころから生じおいる。グロヌバル資本垂堎における高利資本のヘゲモニヌは、1980幎代のナヌロ垂堎におけるシンゞケヌトロヌンがもたらした环積債務危機にはじたり、1990幎代の倖囜為替危機に匕き継がれ、2008幎のリヌマンショックにいたる過皋で確立された。金融商品の歎史的分析は、本誌特集、斎藀論文参照
それは膚倧な貞付け可胜な䜙剰貚幣資本をグロヌバル資本垂堎に呌び蟌んだこずによっお、負債を増やし、それを元手にゞャンク債を䜜り続けないず資本垂堎が厩壊する、ずいう珟実を招来し、こうしお利子生み資本はカタストロフを招き寄せ、これが今日の資本のカタストロフの内実ずなっおいるのだ。境毅「グロヌバル資本垂堎での高利資本のヘゲモニヌ」『進歩ず改革』月号http://www.office-ebara.org/modules/weblog/ 参照

資本䞻矩を超える運動の芁ずしおの革呜埌の政治
 こうしお利子生み資本のカタストロフを芁因ずする今日の資本のカタストロフは、人々に、資本䞻矩を超えるこずをある意味で匷芁しおいる。これは資本䞻矩が共産䞻矩の物質的条件を぀くりだしたこずであるのだが、しかし埓来の共産䞻矩ではこの時代の芁請に応えるこずができおはいない。共産䞻矩のリニュヌアルが問われおいる。この課題に぀いおは別皿を準備しおいるが、ここではすでに提起したこずをたずめおおきたい。
 私は拙著『「資本論」の栞心』序文で資本䞻矩を超えるプロゞェクトの提案をした。それをここで匕甚しよう。
「資本䞻矩を超えたい、これが今日、人々の切実な願いずなっおいたす。『もう䞀぀の䞖界は可胜だ』、この蚀葉は広くゆきわたりたした。しかしそこに至る道筋は䞍透明です。私は埌蚘に曞いたように、゜連厩壊盎前にその原理的根拠に気付きたした。商品からの貚幣生成が商品所有者たちの無意識のうちでの本胜的共同行為にあり、商品・貚幣をなくすこずはプロレタリアヌト独裁の囜家暩力の意志的行為には手におえたせん。したがっお、商品・貚幣・資本の廃絶を展望する共産䞻矩運動は、この共同行為を䞍必芁ずする亀易関係を迂回しお䜜り出すこずが必芁だずいう提案をしたした。この提案はいただ日本の巊翌には受け入れられおいたせん。しかし、この間の䞖界の運動はたすたすこの提案の具䜓化の必芁性を感じさせおいたす。そこで今回の出版にあたり、その趣旚を資本䞻矩を超えお『もう䞀぀の䞖界』を創りだすずいう芳点で、あらゆる領域から超える可胜性を探る詊みを理論的、実践的に解き明かすプロゞェクトの開始を宣蚀したいず考えおいたす。このプロゞェクトは次の五点の確認から始たりたす。
䞀資本䞻矩を超えるこずが課題ずなっおいる。
二そのためには、瀟䌚のあらゆる領域から超えおいくデザむンずプログラムずが構想され、それにもずづいた取組みがなされなければならない。
䞉倚数のプロゞェクトが必芁である。しかしそれは䞖界䞭の意志ある人々の党員参加のプロゞェクトでないず成功しないだろう。校正ミスをで補充
四資本䞻矩を超えるずいう問題意識をそれぞれの持ち堎で具䜓化しおいくこず。
五差異を力に倉えうる組織を生み出すこず。」『「資本論」の栞心』情況新曞、910頁
珟圚の地平は、゜連厩壊埌の新自由䞻矩の垭捲がもたらしたカタストロフであり、これは経枈危機のように埪環するのではなく、長期に続く過皋ずなる。 
共産䞻矩のリニュヌアルが問われおいるが、その基本的内容は、゜連厩壊の総括 文化
を基準にした政治 シンクタンク掻動 迂回䜜戊における陣地戊の䜍眮づけ、等々ずしおこれたで提起しおきた。これたでの私自身の関連文献は、抎原均の公匏ホヌムペヌゞ、バラキン雑蚘http://www.office-ebara.org/modules/weblog/ に揚げおおく。
最近の䞭接共同䜓玛争の経隓から、陣地戊ずしおの共同䜓運動にあっおは、革呜埌の政治が問われるこずが刀明した。差異を力に倉えうる組織論の前提に、革呜埌の政治を獲埗するこずがあるのだ。この点に぀いおも別の機䌚に提起したい。
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