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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

7:利子生み資本と架空資本(1) その2 田中一弘
ebara 11/25 22:00
利子生み資本と架空資本(1)その2
―利子生み資本の一般的規定について  田中一弘

3.利子生み資本の一般的・抽象的規定について
 21章「利子生み資本」の冒頭で、貨幣の資本への転化および平均利潤の成立に伴い、「貨幣は、それが貨幣としてもっている使用価値のほかに、一つの追加的使用価値、すなわち資本として機能するという使用価値を受け取る。このような、可能的資本としての、利潤を生産するための手段としての属性において、貨幣は商品に、といっても一つの独特な種類の商品になる。または、同じことに帰着するが、資本としての資本が商品になるのである。」(大谷訳『経済志林』第56巻 第3号、p.22〜3、全集版p.422)とマルクスは述べています。この商品化した資本が利子生み資本です。ではこのような商品化とはどのようにしてなされるのか?ある貨幣額を所有している貨幣資本家Aが、それを必要としている機能資本家Bに貸し付ける、という形でなされるのです。一般的規定を取り扱っているにすぎない21章では、Aの手にどのようにして貨幣額がもたらされたのか、貸付はどのような形態で行なわれるのか、Bがそれを必要とする具体的な理由などは、いっさい考慮されていません。Aが貸し付け、Bがその貨幣資本を生産資本へと転化させる、という単純な規定だけが与えられています。ここで注意しなくてはならないのは、Aは貨幣を貨幣として支出するのではなく、資本として=自己増殖する価値として支出するということです。したがってAの手にはBが実現した剰余価値の一部が利子として支払われなければならないのです。
 「Bは、資本額のほかに、自分がこの資本額であげた利潤の1部分を利子という名目でAに引き渡さなければならない。というのは、AがBに貨幣を渡したのは、ただ、資本として、すなわち運動のなかで自分を維持するだけではなく自分の所有者のために或る新価値を創造する価値として、渡しただけだからである。」((大谷訳、p.30、全集版、p.426)
 この点に関連して、メグミさんは次のように述べています。
 (1)>利子は、剰余価値の生産を前提するとはいえ生産資本から生じるのではなく、「請求権」である「貸し付け資本」から生じるものだからです。
 ところが、「利子生み資本」を「利子生み資本とは、貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」――では、現実資本の運動の中での「利子生み資本」であり、生産過程の中に入る利子生み資本という理解になっています。
 しかしマルクスは、「利子生み資本」(資本論3巻21章)を踏まえて、23章「利子と企業者利得」でこう述べています。
 「資本の使用者は、例え自己資本で仕事をしても、二つの人格に――資本の単なる所有者と資本の使用者とに――分裂する。彼の資本そのものは、それがもたらす資本所有すなわち生産過程外にある資本と過程進行中の資本として企業者利得をもたらす生産過程内にある資本とに、分裂する。」(原P388)
 貨幣貸付資本・利子生み資本は、「生産過程外にある資本」なんですね。」(「利子生み資本は生産過程の内か外か?」)
 (2)>ヒルファーディングは『金融資本論』で「資本信用」という彼独自の概念を登場させることで、流通での貸付資本家と生産資本家ではなく、「生産資本の機能」での関係を考察している。
だが「休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転」は、貨幣資本が「生産資本の機能」を受取る前段で、「休息貨幣資本」(遊休貨幣)の貸付資本への転化を必要とするのではないか?産業資本家は銀行業者に手形の割引をさせることで、貸付可能資本を<貨幣資本>に転化させているのではないか?あるいは、株式の債権を銀行で現金化させる同様なことで、<貨幣資本>を得ているのではないか?(「金融資本論と宇野の「資金」について」)
 (1)についてですが、架空資本あるいはその一形態である信用資本を問題とするかぎりでは正当ですが、利子生み資本の一般的規定の観点から見れば、あるいは一般的規定を本源的規定として読み取るならば、言い過ぎではないでしょうか。貨幣資本家は生産過程の外部に存在する資本家であり、したがって利子生み資本とは生産過程の外部にあるというのは正しいと思われますが、利子生み資本は機能資本家によって現実資本に転化して初めて自己の価値増殖を可能にするのです。生産過程の外部にあるとはいえ、貸し付けられた資本が生産過程における現実資本として機能することが利子生み資本の前提なのです。したがって「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」というのは、利子生み資本の一般的規定として正しいのではないでしょうか。もちろん機能資本家に貸し出された段階で利子生み資本は、現実資本に転化するのであって、「生産過程の中に入る利子生み資本」というのは、メグミさんが言うように誤った理解でしょう。(さらに現実資本に転化せずに単なる貨幣として消費に回されたり支払いに当てられる場合もありますが、そのような事例は当面の問題―現実資本と利子生み資本・架空資本との関係―に関係ないので、考慮の外においておきます。)
 以上のように利子生み資本の一般的規定をおさえたうえで、現実経済との関係について見てみます。本稿の冒頭で述べたように、銀行資本の運動としても投機以外に企業に対する貸付というのは、重要な業務として存在しているのではないでしょうか。それは株式などの架空資本の売買としての投機とは区別されるものとして、存在しています。具体的な例は経済実務に詳しくないので正確かどうかわかりませんが、手形の割引という形態だけでなく、預金創造による貸付や新規発行株式の引き受けなどがそうではないかと思います。前者は信用貨幣の貸し付けであり、企業はそれを現実資本として利用する、ということです。(手形の割引自体は架空資本の運動とは言えないと思います。割引された手形が証券化して売買されるようになって初めて架空資本化が成立するのではないでしょうか。この点については、後で再度検討したいと思います。)また証券=請求権としての株式自体は架空資本として転売可能なものとなりますが、株式の代金は現実資本へと転化し生産過程へと向かうのです。(なお銀行の預金自体が持つ架空性と証券における資本還元の架空性とは区別されるべきだと考えますが、この点も後ほど検討したいと思います。)
 このように信用資本主義とはいえども、「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」としての利子生み資本の側面は存在し、それゆえ金融恐慌が産業恐慌へと転化する可能性は存在するのです。金融危機が実体経済にあたえる影響とは、このような利子生み資本の一般的規定抜きには理解できないのではないでしょうか。架空資本の売買が主役だとはいえ、資金の融資という形態での利子生み資本が存在するがゆえに、貸し渋りが問題となるのです。金融資本という規定は以上のような意味においてであれば、なお現実性・妥当性を有するものであり、捨て去ることはできないと思われます。
 (2)のついてですが、「貨幣資本が「生産資本の機能」を受取る前段で、「休息貨幣資本」(遊休貨幣)の貸付資本への転化を必要とするのではないか?」というのはまったくそのとおりだと思います。メグミさんや松崎さんも強調しておられるように、ここで注意しなければならないのは、資本の流通過程における形態としての貨幣資本―生産資本や商品資本との区別と関連のなかにある貨幣資本と、利子生み資本としての貨幣資本―貸付可能な貨幣資本とを区別しなければならない、ということです。大谷さんによれば、マルクスは前者をドイツ語表記のGeldkapital、後者を英語表記のmonied capitalとして区別しているようです(大谷禎之介「『信用と架空資本』(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)」、『経済志林』第51巻 第4号、p.21〜27)。つまりAがBに貸し出すという場合、Aにとってはmonied capitalである貨幣資本は、資本として譲渡されるにすぎない(この行為は交換あるいは流通に属するものではないがゆえに、何の等価物をも受け取るものではない)のに対して、同じ貨幣が、Bの手においてはGeldkapitalとして生産資本に転化すべき=生産手段および労働力の購入に支出される貨幣となるのです。
 (1)の後半でメグミさんが引用しているマルクスの叙述、「資本の使用者は、例え自己資本で仕事をしても、二つの人格に――資本の単なる所有者と資本の使用者とに――分裂する。彼の資本そのものは、それがもたらす資本所有すなわち生産過程外にある資本と過程進行中の資本として企業者利得をもたらす生産過程内にある資本とに、分裂する。」(原P388)は、日常意識においては両者が混同されることに基づいているのです。同一の貨幣が利子生み資本と現実資本という区別されるべき二重の規定のもとで貨幣資本として現れます。この区別は貸付という利子生み資本の運動を前提としているのですが、利子生み資本の成立による外面化によって、すべての貨幣資本が二重化するものとして日常意識には捉えられるのです。すなわち「資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば、資本は自分自身にたいする関係(=G−W−G′あるいは投資されるGと還流してくるG’との関係−田中)現れるのであるが、この自分自身にたいする関係が、ここでは媒介的中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されるのである。」(大谷訳『経済志林』第56巻 第3号、p.39、全集版、p.431)あるいは機能資本家が支払う利子は、「資本所有そのものに帰属する部分として現れるのである。」((大谷訳『経済志林』第57巻 第1号、p.72、全集版、p.468)利子と企業者利得への「総利潤のたんに量的分割が、質的な分割に一変し」、その結果、「どの資本の利潤も、・・・・2つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に、すなわちそれぞれ特殊的な諸法則によって規定される利子と企業者利得とに、分かれる、または、分解されるのである。」(同上、p.77、全集版、p.470)
 以上の分析をマルクスは総括して次のように述べているのですね。
 「資本および利子では、資本が、利子の、自分自身の増加の、神秘的かつ自己創造的な源泉として現われている。物(貨幣、資本、価値)がいまでは物として資本であり、また資本はたんなる物として現われ、生産過程および流通過程の総結果が、物に内在する属性として現われる。そして、貨幣を貨幣として支出しようとするか、それとも資本として賃貸しようとするかは、貨幣の所持者、すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。それゆえ、利子生み資本では、この自動的な物神、自分自身を増殖する価値、貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのであって、それは発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。」(大谷訳『経済志林』第57巻 第2号、p.63〜4、全集版p.491)
 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣、この両者の区別がつけられないがために、すべて貨幣は利子を生み出すべきものである、という観念が生まれるのでしょう。(もっとも貧乏人は貨幣をもっぱら支出することができるだけなので、このような幻想から比較的自由な気がしますが。)メグミさんのヒルファーディング批判、あるいは宇野批判をこのような意味ではないかと、ようやく理解したしだいです。
 本題の架空本論については、ここまでが長くなったとともに、もう少し検討すべき点が残っているので、別の機会に投稿したいと思います。


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