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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

7:Re: 個別的労働力の反省規定の追記
田中 02/15 11:05
〈田中さんが、つい筆を滑らして
「価値関係とは異種の使用価値の関係でしかありえないからです」
と表現したことです。二商品が、「使用価値の関係」であれば、二つの異なる労働は、「人間労働力の支出」の同一性の下に解消され、物と物の関係でしかなくなり、物象は見出すことができません。〉

「異種の使用価値の関係」を「異種の商品の関係」と表現すれば、megumiさんは納得してくれるでしょうか。商品の差異とは使用価値の差異か、あるいは価値量の差異です。価値関係とは同量の価値量としての商品の関係ですから、そこにおける差異はもっぱら使用価値の差異であり、私が言いたかったのはそういうことです。価値関係以外での「異種の商品の関係」とは重量関係であったり、「効用」すなわちそれを消費する人間の満足度であり、それらは物と物との関係です。私がいいたかったのは、異なる使用価値のみが価値関係=交換関係を形成しうるということです。

〈「諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出」を、「つまり異種労働の同一性の指摘です」と評しているのです。〉

ここの同一性とは質的同一性のことです。置塩モデルの欠陥はこの質的同一性をただちに量的同一性と理解した点にあると思います。価値実体としての労働は異なる有用労働を生理学的支出としての同一性へと還元し、よって量的比較が可能となるのです。同じ一時間でも異なる労働では生理学的支出はまるで異なります。生理学的支出量としてマルクスが具体的にどのような尺度あるいは内容を考えていたのかは、判然としないのですが、それをカロリー消費として考えてみます。産業ロボットを操作する一時間のカロリー消費量と20キロのセメントの入った袋を運ぶ一時間のカロリー消費がまるで違うのは明白な事実です。また同じ20キロといっても、地面のうえでセメント袋を運ぶ労働と地上50mで足場材を運ぶ労働では、高所での作業がより危険であるゆえより多くの注意力が必要とされるから、当然消費カロリーも異なるでしょう。後者の例は肉体労働間でも異種労働における差異を示しています。このことはブルジョア的意識においても賃金の相違という形で認められています。同様のことは個々人間の相違としても考えられます。筋力あるいは知力の強い人と弱い人とは同じ労働において異なった生理学的支出を行っていると考えられるのではないでしょうか。
このように具体的有用労働における異なる生理学的支出を消費カロリーなどの共通の尺度に還元し、かつそれらの平均値を決定することによって、抽象的人間労働量としての価値量が決定されるのではないでしょうか。そしてその平均化が社会的なものであり、具体的労働としては私的労働でしかないゆえに、それは価値関係という社会的形態内部で行われるほかはないのです。
経済的形態規定と素材的内容規定の区別は、物神崇拝批判としてはものすごく重要な視点だと思います。しかしただ区別を強調するだけでは完全な批判にならないのではないでしょうか。私が両者の関連を強調するのはそのためです。さらに未来社会を構想する上でも重要でしょう。資本制を廃棄する根拠を資本制に求めるならば、形態規定を通して展開されている素材的内容を把握しそこから廃棄の根拠を考察し、新しい形態規定あるいは素材的内容を構想するほかないのではと思っています。


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