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田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想

7:経済的隷属の抽象性について
megumi 01/26 00:14
>使用価値の処分権がその所有者にあることは商品流通の帰結であるが、労働力商品の場合、それは労働者の能力として存在しているがために、使用価値の処分権は同時に労働者への支配権として存在する。商品所有者という形式における対等な関係(法的契約関係)は経済的な支配関係をその具体的内容としているのである。

単純再生産を、田中さんは扱っていますので、そこでの論議としましょう。
「かくして資本制的生産過程は、それ自身の進行によって、労働力と労働条件との分離を再生産する、かくすることによって、それは労働者の搾取条件を再生産し、永遠化する。・・・後者を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げかえし、彼自身の生産物をたえず前者の購買手段に転化させるということは、過程そのものの筋書きである。」(資本論21章)
 労働者が生産過程で譲渡した使用価値・労働は、価値の源泉としての役立ちをはたすことで資本を生産し、他方で、使用価値として消費されたスッカンピンの労働力も生産しました。工場から帰ってきた労働者、資本家に労働力の処分権を譲渡した契約金を後払いでいただくのですが、資本家が用意した可変資本は、しかし、彼が以前に与えた不払い労働で占められているのだから、労働力の処分権の等価ではなく、交換関係は仮象であり、剰余価値を生産するための過程の筋書きであり、労働者は独立した人間ではなく、鎖をつながれたローマの奴隷のように、資本家階級に経済的に隷属している・・・ということでありました。

さてそこで、第一の労働力商品の交換過程は、他の諸商品と同じく市場での交換なのですから、自由な市民の契約と同じく、「自由・平等な交換関係」であるはずだし、また、そのように現象しています。それがどうして、経済的隷属になるのですか?71年当時、この転倒を、「コペルニクス的転換」と集会でアジっている人もいました。
「コペルニクス的転換」なら、天動説から地動説への転換を証明する、地球の公転・自転が説明されることで、具体化されねばなりません。そうですね、其処によって立つ神学と科学の相違ほどの違いがあると思うのです。
国民文庫にある『資本論入門』岡崎さんの著ですが、資本論学者らしく、ちゃんと22章の取得法則の転変は押さえています。でも、資本の生産過程では、搾取の説明だけですし、人格化した資本の生産の説明などありません。だから彼らには、当然にも第一の過程は、自由平等な資本と労働との交換過程でしかありません。その因は、何よりもかれらの情けない価値論に原因しています。
「労働力の価値または価格の労賃への転形」の問題でもそうです。「労働の価格」がいくら支払い労働から必然的に生まれてくる「想像的形態」と言ったって、そのように見えているのですから、いくら資本論17章を学習したって、人々にとっては抽象の世界でしかないですよ。
わたしたちの住む社会が、物象的依存の体制であるのですから、日々の無数の商品交換の中で社会生活を営むならば、資本関係への批判も、貨幣関係(物と物の関係・幻影的形態)の日常的意識の中で、絶えず解体されているのではないですか?
商品の細胞形態に潜む「物象化」を暴き出し、商品から、貨幣・資本・・・と運動し、転化していく過程においても、物象の人格化・人格の物象化を露出させる新たな知の形式をこそ、マルクスさん提起したのだと思うのです。

>労働力の人格化
経済学的範疇としては、資本の対極としての賃労働であるでしょうが・・・第二の過程での使用価値を労働力と考えればそうであるし、具体的有用労働と考えればそれは間違いであるし、・・・なかなか結論が出ない課題です。

森さんの抽象的個人の批判としては、すばらしいと思います。


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