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「価値姿態」に関する解釈

7:Re: 価値連関
田中 10/27 09:17
価値連関についてですが、私は以前の「疑問」投稿文において、次のような問題提起を行いました。
  <20エレのリンネル=1着の上着>という価値関係において、リンネルは「それ自身の価値存在を、さしあたりはまず、自分に等しいものとしての他の一つの商品、上着に、自分に等しいものとして、関係させることによって、示すのである。」(『資本論』初版・国民文庫版、p.44)言い換えれば、リンネルは上着を「価値として等置することによって・・・自分を使用価値としての自分自身から区別するのである。」(同p.45)つまり、「リンネルの価値は、ただ、他の商品、たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ現れるので」(同上)ある。このようにマルクスは価値形態の分析を始めていますが、以上の叙述を素直に読むと、「価値として」リンネルは「価値としての」上着に関係すると読めますが、そうなると価値存在としてのリンネル・上着が価値形態に先行していることになるのではないでしょうか。そしてここから価値形態論を価値表現論としてのみ捉える解釈が現れるのではないか。
 これにたいして榎原さんはつぎのようコメントを寄せてくれました。

「商品の生産過程と流通過程は資本価値のひとつの流れですから、それをどこかで恣意的に切断して、価値存在と価値形態という風に分けることは余り意味はないでしょう。価値とは商品章の段階では交換価値ですが、貨幣の資本への転化以降は資本価値となります。」

価値とは商品生産者の社会的関係の物象的形態にほかなりません。それが意味するところは、商品生産者同士の直接的社会関係は存在せず、物象的関係=商品の交換関係=価値関係において初めて成立するということでしょう。すなわち商品単独では価値は成立しないのではないでしょうか。
ここで新たな問題が発生します。では単独の商品における二重性をどのように把握すべきなのか、ということです。価値形態論以前に価値実体論が「蒸留法」により価値実体論が展開されていることをどのようにとらえるのか、という問題です。
マルクスは価値をまず交換価値としての分析から始め、交換関係から「蒸留法」により価値実体を導出しています。つまり価値の分析は常に関係を前提しているのです。上述の疑問、「商品単独では」という問題設定が誤っているのです。商品自体がひとつの関係なのですから。この点については『価値形態・物象化・物神性』でもしつこいくらいに指摘されています。たとえば「商品形態という物象相互の社会的関係がとる形態の内容たる人々の社会的生産関係」(P.49)つまり商品という場合には、それを単独で考察する場合でも、価値関係が前提となっているということでしょう。そのような事態は日常意識においてもつねに意識されています。生産現場でのコスト管理とは、生産物と貨幣との関係にほかなりません。商品生産においては、つねに貨幣との関係が念頭に置かれているのです。(交換関係と交換過程との区別は、前者が観念的関係であり、後者が現実の社会的関係であることを認識したうえでの議論ですが)
このような意味において、私は価値物上着はリンネルとの関係における規定であるととらえています。


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