。ヲ office-ebara
megumiさんの回答

7:Re: 文化知の発端3
megumi 10/23 06:18
>リンネル価値の表現という意味で、リンネルの価値姿態・価値形態なのです。

田中さん、いかにもリンネルが価値表現の主体ですね。
次の初版の記述にも、貴方と私の理解の対立が述べられていました。

「亜麻布は価値としての上着に、または受肉した人間労働としての上着に関係する時には必ず、人間労働の直接実現される形式としての仕立て作業に関係する。

しかし、〔これまでに確認されたように〕亜麻布が使用価値としての上着に魅力を
感じるのは、その毛のふさふさした快適な着心地のためでもなければ、ボタンをかけた立派な恰好のためでもなく、使用価値としての上着に属するその他の有用な性質のためでもない。亜麻布にとっての上着とは、糊のきいた使用対象である亜麻布自身とは別の対象の中で亜麻布の価値を表現するものでしかないのである。」(牧野訳『対訳初版資本論1章P39』)

リカードのように、相対的価値表現の理解で止まるならば、「亜麻布は、・・人間労働の直接実現される形式としての仕立て作業に関係する」ことを示されても困惑するのみです。

マルクスは、そこでこう述べたのです。
「我々は〔いま〕ここに、価値の形式の理解を妨げているすべての難問の出てくる原点に立っている。」・・・と
そして、
「商品の価値をその使用価値から区別することは割合やさしい。あるいは、使用価値を形成する労働を、商品の価値の中でただ人間労働力の支出とみなされる限りでの労働から区別することは、比較的容易である。〔というのは〕商品や労働が一方の形式で考察されている時は、他方の形式では考察されていないのであって、逆の場合も又そう〔だから〕である。〔そして〕対立のこの抽象的な二側面は自ずから分離するので、別々に捉えることは容易〔だから〕である。

〔しかし〕商品と商品との関係の中にしか現れない価値の形式については、そう〔簡単に〕はいかない。使用価値または商品体はここでは新しい役割を果たしている。〔即ち〕それは商品の価値の現象する形式となり、かくして自己目身の反対物の現象形式になるのである。まったく同様に、使用価値の中に含まれている具体的で有用な労働も自己自身の反対物になる。即ち、単なる抽象的な人間労働の実現される形式にすぎないものとなる。
商品の互いに対立しあっている二つの規定は、ここでは、互いに離れ離れになるのではなく反省しあっている。」(同P39〜40)
と述べたのです。ここに「価値形態の秘密」があるのですね。



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