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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

6:Re: 個別的労働力の反省規定の追記
megumi 02/15 01:59
>個別的労働力の反省規定において、社会的総労働力が編成されることに価値関係の規定があったのですね。

これでは、人間的労働力の支出があれば価値関係をもたらす・・・?
との誤解を生んでしまいます。もう少し、付け加えておきます。

資本論初版の註18段落にこうありました。
A「リンネルの生産においては、一定量の人間労働力が支出されてしまった。リンネルの価値は、このように支出された労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値はリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着に対するリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。」

同じく註18a段落にも同じことが述べられていました。
B「リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という自然形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表されている労働は、人間的労働そのものではないのであって、一定の、有用的な労働、裁縫労働である。人間的労働そのもの、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。」

Aは、リンネルの相対的価値形態であり、Bは、等価形態上着である。
Aでの価値に表示される労働と、Bの使用価値に表示される労働の共通性は、「人間労働力の支出」であったわけです。

しかし、これは、「上着に対するリンネルの価値関係」であることから、価値形態の秘密・物象の関係を説くことで、「使用価値が価値の現象形態」とつながっていきます。ところがここを、物と物との関係と理解したらどうなるでしょうか?

田中さんが、つい筆を滑らして
「価値関係とは異種の使用価値の関係でしかありえないからです」
と表現したことです。二商品が、「使用価値の関係」であれば、二つの異なる労働は、「人間労働力の支出」の同一性の下に解消され、物と物の関係でしかなくなり、物象は見出すことができません。

次のことからの誤解があると思うのです。
「(1)しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。」

>この引用の前半(1)は種々の種類の労働がその具体的有用性のちがいにかかわらず同一のものであること、つまり異種労働の同一性の指摘です。

「諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出」を、「つまり異種労働の同一性の指摘です」と評しているのです。

これでは次の二つの労働が混同されていませんか?どうでしょう?

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。」(資本論新日本新書1P79)

価値の実体の労働と、使用価値に表示される労働の異なる二つの労働を混同してしまっては、「価値形態の秘密」を見つけることも出来ない。

註20の節で、こう表していたのです。
「ここでは商品の対立する諸規定が別々に分かれて現れるのでなくて、互いに相手の中に反射しあっている。」
「それゆえ、自分をそのあるがままとして表すためには、商品はその形態を二重化しなければならない。」(原P20)

ここに、労働の二者闘争的性格の意義が明示されたのですね。
ところが、初版付録に付記されたように、価値形態の特質から
「人間労働であることが裁縫労働の本質として認められる」(原P771)
ので、「価値表現を理解しがたいものに」(同)してしまうのです。



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