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田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想

5:Re田中さんの森さんへの意見を読んでの少しばかりの感想
megumi 01/23 00:11
田中さんは、「シュタイナーの社会理論に関する批判的検討(2)」の
「(2)労働の位置づけについて」でこう述べました。

「そこでは賃労働者も労働力商品の所有者として登場する。商品所有者としては、労働者は資本家と対等な関係(交換関係)にあると考えられている。しかしひとたび生産過程の内部に入ると、それは労働者を資本の一構成部分として資本家が支配する関係へと変化する。」

なんと資本制的取得法則の転変ですか・・・先の羽仁五郎の『都市の論理』にもびっくりしていましたが、今度のは一層感銘深いですね。連赤の「銃撃戦と粛清」の時期に、スターリン主義批判と反スタマルクス主義の止揚・「資本主義批判」による「階級闘争の原則」・・・必死に頭に叩き込んでいました。何十年たったでしょう・・・・・・・
 『経済学批判要綱』に依拠した「資本と労働の交換の二つの過程」による、第一の過程が形式に転変することによる宇野労働力商品化論批判・・・ウーム・・・と考え込んでしまいますね。『要綱』のチンプンカンプンの叙述には、しかし、閉口しましたね。ほんとに、未だに開けても理解しがたいです。

この「資本主義批判」の抽象性の総括の材料が、一つは価値形態論による物象化論の提起による物化論の「幻影的形態」という批判による、転倒の批判にあると思うし、もう一つは、価値尺度論をふまえた貨幣の流通手段の機能での次の提案であると思うのです。

「こうして、商品は貨幣を恋したうが、“まことの恋が平穏無事に進んだためしはない”。分業体系のうちにその“引きさかれた四肢”を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じく、自然発生的・偶然的である。それゆえ、わが商品所有者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ部分が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立のものとすること、諸人格相互の独立性が全面的物象的依存の体制によって補足されていること、を見いだすのである。
 分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。」(資本論三章2節a流通手段)

次に、労働過程と価値増殖過程を物象化論として構成することですね。マルクスの視野は、プルードン批判であり、リカード派社会主義の批判であった筈です。その理解の上で、スターリン経済学と宇野経の批判であると思うのです。

どうにも、私の思考回路はこんな感じです。そんなところから浮かぶのは、シュタイナーの社会有機体説は、この「物象的依存の体制」へのブルジョア個人的批判にあるように思えるのです。

その上での資本論五章での、資本の人格化としての資本家・他方での労働者となるところでの、「流通過程に属する仮象」の転倒批判です。こうすれば、ふるい昔の抽象性が克服できると思っています。


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