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「価値姿態」に関する解釈

5:Re: 「価値姿態」に関する解釈
田中 10/26 18:48
「価値形態の秘密とその謎を区別する必要がある」(p.50)との認識にもとづき、価値形態の秘密について、「中心的には相対的価値表現の問題であり、等価形態そのものが生じるのは何故か、ということである。」(同)
このように榎原さんは価値形態の問題を、まず相対的価値表現の問題として把握しています。そのうえで、リンネル=上着という「この等式が表現する、リンネルの価値が上着に等しい、ということが、何故、リンネルが自分に等しいものとしての他の一つの商品上着に連関することを意味するのか。また同じことだが、リンネルが自分に上着を等置することが、何故、リンネルが同種の人間労働としての上着に連関することを意味するのか。」(p.51)このように価値形態論の問題を把握しています。
 榎原さんが主張しているのは、リンネル=上着を単に「二つの使用価値の割合」(p.52)という等式としてつまり等置としてとらえるのではなく、「これをリンネルからの上着への連関と規定することによって、この等置におけるある質の同等性を浮かびあがらせようとしたのであった。」(p.53)
 ここでいわれているのは、価値関係とは「同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係」ではなく、その関係によってはじめて同一性としての抽象的人間労働が規定されることを解明する、ということでしょう。つまり抽象的人間労働とは、関係によってはじめて成立する社会的実体であることが、価値形態論において明らかにされた、ということです。古典派の限界は、同等性としての労働とはどのようなものか、ということを問題とはしていなかったのです。マルクスがいう労働の二重性の把握がなされていないというのは、社会的実体として超感性的に存在するものとして、価値実体としての労働を把握できていないということでしょう。古典派は関係により成立する形態規定として、価値関係を把握できなかったのです。
 「同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係」において前提とされている同等性とは、思考抽象により把握されたものであり、マルクスのいう「蒸留法」のいいでしょう。それにたいして価値形態論では、リンネルが主体となった上着との関係という総合による抽象=事態抽象が明らかにされたのでした。


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