。ヲ office-ebara
megumiさんの回答

5:Re: 文化知の発端
megumi 10/21 10:28
田中さんは「再回答1」でこう述べてました。
「megumiさんが指摘しているように、価値形態においては「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され」ます。」

わたしは、
>ところが、上記のように、「商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ」のですね。
・・とのべています。
>上記のように・・・・・・の意味が何を指しているのか?もう一度検討してみます。

「商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。」(「簡単な価値形態の総体」)

次の部分のことですね。
「・・・この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。」

商品Aの現物形態と、商品Bの現物形態とが対比されています。同じ現物形態であるにもかかわらず、商品Aは、使用価値の姿態を、商品Bは価値形態または価値姿態として両極で、異なった「意義を持」つ・・・・のです。「商品Aの価値表現」には、補足があり、「この価値表現の内部では」とされています。商品の<価値関係>ではの意味です。この価値関係のなかでは、現物形態・商品Aと商品Bが、自然的形態と価値形態の対立した形態として規定されることが述べられています。

(註「上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。」の後の「キリスト教徒の羊的性質」の節でこう述べられています。
「こうして、上着がリンネルの等価となる価値関係の中では、上着形態が価値形態として通用する。したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。」)

以上から、「価値形態においては「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、」という田中さんの理解は当を得ていないと思うのです。商品形態ということであれば了解できます。

次に移ります。
「等価形態にある商品の現物形態は、相対的価値形態にある商品の「価値姿態または価値形態」であり、商品における使用価値と価値との内的対立は、二つの商品へと外化しています。」(田中さんの「再回答1」)

「等価形態にある商品の現物形態は、相対的価値形態にある商品の「価値姿態または価値形態」であり、」について。

等価形態上着は、直接交換可能な使用価値という規定を、自身の等価物としての役立ちにおいて受け取っていますから、<リンネル>の価値姿態・価値形態ではありません。それ自身で価値形態・価値姿態なのです。リンネルの相対的価値表現として、量的比率たる価値表現はしています。ところが、「この商品は、他の商品の価値表現に材料を提供するだけである」と述べられたことは、私が述べた「等価物上着の役立ち」のことなのです。反省規定・価値鏡の役立ちの意味なのです。価値関係にある商品の右極は、等価物の役立ちを果すことで、(勿論リンネル有りてですが)「価値形態」と、価値関係の概念的作用から語れているのです。

次の節の解釈ですね。
「リンネルの価値関係の中で、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、すなわち同じ性質の物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。だから、上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめるその現物形態で価値を表す物として、通用する。ところで、上着は、すなわち上着商品の身体は、たしかに単なる一使用価値である。上着が価値を表現していないのは、リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは、ただ次のことを示すだけである。すなわち、上着はリンネルに対する価値関係の内部ではその外部でよりも多くの意味をもつということである。ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。
上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間労働力が実際に支出された。したがって、上着の中には人間労働が堆積されている。この側面からすれば、上着は「価値の担い手」である。もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目からすけて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして王位に対する態度をとることは、同時にAにとって王位がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのものが国王の交替のたびに替わるということなしには、できないように。」(資本論3節)

大切なのは次のところです。
「しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。」

さてこうにも述べています。

「したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる(18)。商品Aが価値体としての、人間労働の物質化としての、商品Bに関係することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。
(18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。」(同上)

「価値関係の媒介によって、」使用価値Bは、その姿のままに、価値の現象形態になるのです。

私は以上のように価値形態を理解しています。なんとも得て勝手な性格で、独学ですから、ハズレ!解釈もあろうかと思います。榎原さんを始め諸先輩、そして田中さんの批判をお願いします。まず、文化知の理解の発端こそが問題なのですから、ここから論争を進めていきましょう。お願いします。


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