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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

4:Re: 抽象的人間労働への還元における二つの過程
田中 02/13 06:18
megumiさん、回答ありがとうございます。おかげさまでもやもやしていた疑問が明確な論点として整理されました。抽象的人間労働の社会的規定性とはなにか、あるいは商品生産社会における労働の社会的性格としての諸労働の抽象的同等性について、二つの側面があるのではないかと思い始めたのです。
アナリティカル・マルキシズム論争において、複雑労働の単純労働への還元と異種労働の同一労働への還元の問題は、区別されながらも結果的には同じ問題として処理されているようです。どちらも抽象的人間労働への還元という点では同じなのですが、第3巻の市場価値あるいは市場価格と生産価格の区別から反省的に考えると、両者を区別しなければならないような気がします。3巻の視点で1巻を解釈する方法が正当かどうかという問題はあります。私は3巻で取り扱われている競争の問題は、1巻においては捨象されているとはいえ、その背後に前提として存在していると解釈しています。つまり1巻では競争のない社会が扱われているという意味で捨象されているのではなく、社会的平均化という競争の結果を過程の分析抜きに前提していると考えています。

「(1)しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。(2)これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。」(新日本新書P66、区分けは田中による)

この引用の前半(1)は種々の種類の労働がその具体的有用性のちがいにかかわらず同一のものであること、つまり異種労働の同一性の指摘です。それにたいして、(2)、とくに「したがって」以下の部分は一つの具体的労働種類内における個別的労働の同一性の指摘です。かなり強引な解釈のような気がしますが、同一労働種類の平均化がまずあり、その平均化されたものとしての抽象的人間労働量によって異種労働との量的比較があると解釈することはできないでしょうか。
ただこの解釈には重大な難点があり、その解決に苦しむところです。同一商品内の平均化が異種労働との比較に先行すると考えると、価値関係内部での還元とは別の還元というものが存在するという結論になりはしないかということです。価値関係とは異種の使用価値の関係でしかありえないからです。とすると置塩モデルのように生産過程における価値の決定が正当である、ということになりかねません。
今現在の私の解決法は、同一の商品種類を構成する諸商品は個別的な価値を貨幣との価値関係=価格のなかで示し、それが競争を通じて社会的平均の水準が決まる、というものです。当然のことながら貨幣商品にも同じプロセスがあります。1巻では同一部門での競争の結果を背後の前提として論理展開しているのでこの問題はあつかわれていないのでは、と思いますがどうでしょうか。(というか3巻の生産価格論までは、といったほうが正確かもしれません。)


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