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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

3:取引か投機か?メグミ
ebara 11/04 21:19
銀行業者と手形による預金を行う資本家との関係は、取引か投機か?メグミ

田中さんの質問について再考してみます。

>ではどうして「貸付可能な貨幣資本」(以下では貨幣資本と略記)は投機へと向かうのでしょうか。
榎原さんはその記述の前に、定義をしています。
>貸付可能な貨幣資本は、産業資本の循環のうちで形成される遊休貨幣資本や、各種の収入(資本家が受け取る利潤や労働者の労賃など)が預金されることで銀行に集中される――

そこで注意願いたいのが、「貸付可能」の意味です。それは、銀行にお金を借りにきた資本家が振り出す手形を割り引いて、預金通帳に金何円と数字を書き込む決済手段(貨幣貸付資本)に成り得るもの――ということですよね。

私達が注意しなければいけないのは、ここに銀行業務に対するある先入観があることです。手持ちのマルクス経済学の解説本にこう書いています。
「一般的に言えば、金融は実体経済の補助的存在である。」(『金融論』関根猪一郎他著青木書店P51)宇野経済学の「資金」も同じです。
>金融資本は銀行と産業との癒着――
と同じ内容ですね。トラスト・カルテル・コンツエルンに示されるように株式による金融寡頭制支配は、独占であり、競争を排除した経済的仕組み・・・という私達の常識とする先入観があると思うのです。投機が、管理された独占とは矛盾しているが自明なことなのか?・・・・・ということかと思うのです。

しかし、銀行券は、手形流通を基礎としているのであり、商業信用とは異なる銀行信用のなかで生成していて、資本制的生産様式の上部構造の内でのことなのです。3部25章で、ギルバートの「取引をも容易にするものはすべて、投機をも容易にする。両者(取引と投機)は多くの場合に極めて密接に結びついているので、どこまでが取引でどこからが投機であるかを言うことは困難である」(三巻原P420)――をマルクスは紹介しています。そして、手形にとの銀行の前貸しという取引が、「同じ1000ポンド・スターリングの貨幣は、一連の移転によって、絶対に確定できない何倍もの預金額になることが出来る。それゆえ、・・全預金の十分の九が・・・銀行業者たちの帳簿上の記帳以外には何ら実存しない・・・」(同)
と、マルクスの他の草稿からの引用が示しています。帳簿上の記帳である<仮空の存在>に、貨幣貸付可能資本がなるから、銀行業者と手形割引の資本家の間柄は<取引であり投機>になるのですね。商品と貨幣の交換関係という実体的な存在ではないのですし、仮空の資本を銀行は記帳することで資本家に貸し出すのです。
だからこそ
>架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態――と読んだ次第であったわけです。

田中さん 「資本主義の終わり論」でネット検索してみてください。でてきた項目で、「三巻の論理と構成」「信用の崩壊論」を開けば、この間紹介しました資本論三巻の21章〜32章の案内がある次第です。
「金融資本」という思想をこそのりこえましょう。



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