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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

3:Re: 価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出?
megumi 02/13 00:55
田中さんは、次の解釈に疑問をもたれました。
>そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。

>megumiさん、以前の議論をむしかえすようで申し訳ないのですが、価値実体に関して質問させてください。価値実体としての抽象的人間労働は歴史的な規定性であることと、それが生理学的な支出であることとは矛盾しないという解釈は成立しないでしょうか。以下の資本論の叙述をいかに解釈すべきかという問題です。

? はーい、いろいろと検討してみます。おかげさまで勉強がはかどります。まず次の部分です。

「互いに’’まったく‘‘異なる諸労働の同等性は、ただ現実の不等性の捨象、諸労働が人間的労働力の支出として、抽象的人間的労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成り立ちえない。」(資本論1、新日本新書p.125)

  ここは、次の節から引用したものですね。

「この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。
私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換され売るものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求を満たす。
互いに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成りたちえない。」(同上P125)

「現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出」とマルクスは述べていると、論拠を田中さんは示されたわけです。このようなマルクスの明白な主張を誤り?とmegumiは、判断するのかという質問ですね。

更に、言外に次の一文があるのですね。

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する(16)。」(同上P79)

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出」とあるのだから、それこそが価値の実体を示す・・というのです。しかし、
「この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する」との但し書きがあるのですから、人間的労働力の支出だから「同等」と言うものではないのですね。ここの記述は、二節ですから、一節にての前提があったのです。
まず「社会的実体」と言う規定があるのですね。

「これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値・・商品価値である。」(同上P65)

そして、抽象的人間労働の「社会的実体」の規定について説明したのが、次のところでした。

「しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。」(同上P66)

このように、「社会的実体は」、「商品世界の諸価値に現される社会の総労働力」
であったのですね。だから「無数の個人的労働力」の総和が、社会の総労働力を形成するのでなく、社会的平均労働力の規定の下での「個人的労働力」とされることで、なされていたのですね。これが、人間的労働力の支出の「属性」である「同等性」でした。この<人間的労働力の支出の「属性」>を巡っての議論が次のものでした。

?>「彼らの私的諸労働の独特な社会的性格」とは「種類を異にする労働の同等性という社会的性格」(同p.126)であり、
  
次の「四節」の部分からの引用ですね。

「私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換において現れる諸形態でのみ反映する。――すなわち、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、種類を異にする労働の同等性という社会的性格を、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映するのである。」(同上P125〜126)

いままでは、人間的労働力の支出の「属性」を、「種類を異にする労働の同等性という社会的性格」と主張したのですが、今度はもう一つ、商品の物神性を生み出す根拠が述べられていたのです。社会的な人間的労働力の同等性の属性が、諸物・つまり、使用価値の自然的的属性としての価値という形態で、反映されるというのです。

そこで、次のように、<かっては歴史があったが、これからは無い>・・・と商品生産、同等性が示される人間的労働力の支出が、始めから社会的総労働力と一体であった共同体の形式の完成形態として(歴史を超越して)表象され、超歴史的なものに観念されるのです。

「商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして現れる・・・」(同上P126〜127)
個別的労働力の反省規定において、社会的総労働力が編成されることに価値関係の規定があったのですね。


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