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「賃労働の拒否」

3:Re: 労働者の主体性
megumi 02/06 01:07
田中さん
>シュタイナー論の関係で言えば、シュタイナーが提起している経営者と労働者の生産過程に関する話し合いが実現すれば、使用価値労働力としての労働者の主体性が発揮できることが可能となるでしょう。

個別企業でなく、産別組合に団結した労働者が、多数の資本家の参加した経営者協議会で合議・決定すると言うことです。事業協同組合という形式ですね。個別企業のなかでの経営協議であれば、経営者はまさに、資本の人格化としての性格を、他資本との生存競争の中で、好むと好まざるとを得ずにあらわさずにはいません。そのなかでの労働者の力の程度はすぐにも想像できる筈です。
建築現場での安全施策一つとっても明らかなように、労働者の自発的提案、協働の安全対策は、全てスポイルされて、管理する建設会社の監督の指示の下でなされています。上位下達の一方的形式ですよね。それがもっと緻密に仕上げられているのが工場の安全管理です。労働過程の資本制的編成としての機械制大工業は、労働者の下からの自主的協働の運営を拒否しているのですね。このような形式の下での、労働組合の経営参加は、名目だけになってしまいます。このような資本と労働との具体的・現実的な凌ぎあいのなかでの労働過程での自主性の発揮の一歩と言う私のわずかばかりの提案なのです。

論文4.「労働者自主管理企業における経営と生産―労働者の実践的学習過程―」(上)(下)『大原社会問題研究所雑誌』1998年3・4月
http://homepage3.nifty.com/koseki-t/rombun4.html

ネットで拾ったのですが、自主生産あるいは、協同組合での生産でも、フオーディズム的様式の変革の問題意識は見られるのですが、労働過程の変革への意識性は見られません。
「社会的有用生産」という問題意識はありますが、これでは使用価値の生産が課題になります。
使用価値・価値形態の二重の姿態としての商品形態であり、その二要因としての価値・使用価値の把握が無いのですね。価値の実体が超歴史的に把握されているため、榎原さん言うところの「文化知」がなく、等価物上着の役立ちによる形態規定がないため、直接的交換可能な使用価値が見えなくなって、等価形態は、単なる使用価値上着になっているのです。<「使用価値上着」の「社会的有用生産」>では何のことだか不明になってしまいます。その役立ちで、価値関係が構成される、この無意識のうちに作られる商品関係・貨幣関係を、回り道をすることで統制してゆく手はずが見えないのですね。(レッツの意義ですね。)
 
 商品生産の一側面としての労働過程の変革がなされなければ、商品の廃止も絵空事でしょう。しかし、歴史的伝統からいえば、価値形成過程をリカードに習って、対象化された労働プラス生きた労働と解釈し、生きた労働が吸収されるその特異性を全く判別しないカウツキー・ローゼンベルグ以来の悪しき伝統があるのですから、この過程は二側面でなく、一側面に混同されているのです。このような意識下では、労働過程の変革も視野外なのではないでしょうか?

次のカウツキーの労働過程の要素への解説を見てください。
「2 商品生産の労働行程
労働用具は人類の発達上最も重要なるものである。生産上の様式は先ずこの労働用具によって決定される。労働用具によって決定された各生産方法は更にその特殊の生産方法を決定し、それに法律上、宗教上、哲学上、ならびに藝術上の相応した上部建築を与える。
 生産機関(即ち労働対象および労働用具)と労働力とは、あらゆる生産方法の下において、使用価値生産の、換言すれば労働行程の要素をなすものであるが、然し此行程の社会的性質は、生産方法次第で種々異なってくる。」(『資本論解説』P114〜115 高畠素之訳大正13年刊而立社発行)

超歴史的な労働過程の規定のはずですが、その要素のひとつが、労働でなく「労働力」と規定されたのでは、資本制的なものでであり、抽象の産物でしかありません。「労働力」の規定は、労働対象諸条件からの分離をこそ意味するからです。

ローゼンベルグも同じですね。
「すなわち、生産手段は、あらゆる労働過程の要素として観察されている。この労働過程の内部において、それは、生産の質量的要因として人的要因たる労働力に対立しているのである。」(『資本論註解』?P273第七書房)

宇野は、「労働生産過程」というわけです。
これが労働過程への理解の悪しき伝統です。
商品生産という規定を正しく左翼は把握していないのですね。



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