。ヲ office-ebara
megumiさんの回答

3:Re: 労働とは生産的消費
megumi 10/20 06:56
労働とは、それ自体を取り上げた場合には、労働過程を意味するのではなく、生産的消費であるというのが、マルクスのここの主張ではないかと私は考えるのです。

バラ色に描かれる「労働」の捉え方はこうでした。
「労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しえる形態で取得するために、自分の身体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させるとともに、同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、自分自身の自然のうちに眠っている潜在諸力を発展させ、その諸力の働きを自分自身の統御に服させる。」(資本論五章労働過程)

ところがマルクスは、果たしてバラ色であるなどとはとんでもないと、否定しているのです。

「ある一つの使用価値が労働過程から生産物として出てくる時、それ以前の労働諸過程の諸生産物である他の諸使用価値が生産諸手段としてこの労働過程に入りこむ。後者の労働の生産物であるその同じ使用価値が、前者の労働の生産手段を形成する。」(同上)

労働対象諸条件は、過程の結果としての「生産物」から見れば、「生産諸手段」であり、「生きた労働の対象的要因として機能するだけ」なのですね。

「したがって、諸生産物は、それらが生産諸手段として新たな労働過程に入りこむことによって生産物という性格を失う。それらはもはや、生きた労働の対象的要因として機能するだけである。紡績工は、紡錘を紡ぐ手段としてのみ取りあつかい、亜麻を紡ぐ対象としてのみ取りあつかう。もちろん人は、紡績材料と紡錘がなくては紡ぐことはできない。それゆえ、これらの生産物が現存していることは、紡績の開始に際して、前提されている。しかし、この過程そのものにおいては、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、それはちょうど、パンが農民、製粉業者、製パン業者などの過去の諸労働の生産物であることが栄養行為の場合にどうでもよいのと同じである。逆の場合。もし労働過程において生産諸手段が過去の労働の諸生産物としての性格を表わすならば、そのことは、それらの生産諸手段の欠陥によって明らかにされる。切れないナイフ、切れてばかりいる糸などは、刃物工Aや紡績工Eをまざまざと思い起こされる。優秀な生産物では、その生産物の使用諸属性の、過去の労働による媒介は消えうせている。」(同上)

だから、労働とは、「生産的消費」として現れると述べているのです。

「労働は、それの素材的諸要素、それの対象およびそれの手段を消費し、それらを食いつくすのであり、したがって消費過程である。この生産的消費が個人的消費と区別される点は、後者は諸生産物を生きた個人の生活諸手段として消費し、前者はそれらを労働の生活諸手段、すなわち生きた個人の自己を発現する労働力の生活諸手段として消費する、ということである。」(同上)

そこでローゼンベルグはこう述べたのです。
「すなわち、生産手段は、あらゆる労働過程の要素として観察されている。この労働過程の内部において、それは、生産の質量的要因として人的要因たる労働力に対立しているのである。」(『資本論註解』?P273第七書房)

かれは、「生産的消費」しか見ていないし、それに反発して主体的要素にばかり注目したのが、主体性論というわけですよね。

この「生産的消費」では、経済的形態規定が消失しているというのがマルクスの主張なのです。


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